2010-03-05

談話室沢辺 ゲスト:竹田青嗣 第2回 「資本主義と国家の市民的制御」

●資本主義に替わる経済システムはありえない

沢辺 発展途上国も前より部分的によくなっているけれども、先進国の上がり方がすごいから、その距離に問題を感じるわけですよね。だからルサンチマンも生まれやすい。ある意味イスラムや911に通じる。

竹田 いま宗教的原理主義がルサンチマンの受け皿になっているんだね。

沢辺 貧しい国を引き上げる以外に、ルサンチマンの解消の道はないですね。

それから、たっぷんたっぷんになってしまった我々の欲望はどうしたらいいのでしょうか。いま若い人達が就職せずフリーターに流れているのは、社会が悪いと言われることもあるけど、たっぷんたっぷんの状況のなかで、なにも無理してやることないんじゃないの、と考えているのではないでしょうか。

竹田 それは社会批判の思想の新しい大きな課題です。これまでの社会批判の代表的な思想として、保守系を別にすると、資本主義批判を軸としたマルクス主義系のものがあり、これは徐々にポストモダン思想系のものに移ってきた。

しかし、現在資本主義のオルタナティヴとなる経済システムはありえません。でもそれは、いまの資本主義をそのまま認めるほかないということではぜんぜんない。繰り返すと、これまで資本主義はいろんな矛盾があっても、経済成長があればなんとかそれを修復してきたし、これからもそうだろうと考えてきた。しかしこれからはそれが効かない。でも経済システムとしては資本主義の代替策はない。そこで、資本主義の国家間的な調整ということが必ず必要となる。

大量消費と大量廃棄、格差の拡大を続けていくとどこかで絶対的な希少性が現われ、カタストロフィが生じる。そういう基本の展望がまだそれほど意識されていない。それで私は『人間の未来──ヘーゲル哲学と現代資本主義』(ちくま新書、2009年)を書いたのだけど、残念ながら多くの知識人は、まだ国家と資本主義に替わるものをどうやって考えられるかという線でやっている。国家と資本主義の根本的批判は、二十世紀の批判思想のメインストリームだったけど、早くこれにふんぎりをつけないとたいへんまずい。ここには原理と可能性がないからですね。

沢辺 格差の問題にしても、昔のように、資本家が悪いんだ、自民党が悪いんだ、と説明をつけて、簡単にわかった気になれた時代は幸せな時代でした。いま民主党政権が何々手当をくれると言っているけれど、日本国民は「税金は本当に大丈夫なの?」とか、「その税金って自分たちが出さない限り増えないんでしょ?」ということは基本的にわかっていますよね。手当をくれるから民主党に一票いれたというわけじゃありませんし、手当をよくするためには結局自分たちも一部負担しなければいけないよ、ということを前提にしていると思うんですよね。

竹田 いまの民主党に対する国民の期待のありかたは、とりあえずいままでの自民党の政治構造を大きく変えてほしい、ということです。長く政権交代が起こらないと、政治権力と特権階級、官僚との癒着は必ず固定化してくる。その度合いが大きいほど政治の権益は特殊利害に流れて、一般福祉に回らない。そのことをいまはもう一般の人が感覚として知っている。

なぜ小泉さんの郵政改革になぜあれだけ支持が集まったかというと、直感的に、長く続いている権力と官僚や公共事業の癒着をなんとかしよう、と言うような人間が首相になったことがまず新しかった。経済的な構造改革はじつはいろいろ問題があるが、構造改革という言葉に多くの人が反応した。民主党がそれを変えるとは思わないが、自民党の構造が変わるなら可能かもしれないと感じたのだと思う。で今回は民主党が支持された。結局、自民党ではそこまで行かないということがはっきりしてきた。そういう流れだったと思う。要するに、人びとは、一般福祉に配慮するのは誰かという意志をはっきり示すようになってきたんだと思います。

「一般福祉」というのは、私の言葉で言うと、普遍資産再配分の問題です。この社会が作り出している富は、全体としては社会の成員みんなで作ったものなので、特殊利害や大きな偏りがあるとしたら、それは正当性をもたず改変されないといけないという感度ですね。もうひとつは、日本の将来、若い人が大勢の年寄たちをどう養うか。そういう問題もあった。誰がそれをより多く配慮するのか、二党制の体制で政権が大きく変わるというのは、国民が地方の特殊利害ではなく、そういう一般的な問題への配慮を重視して政治権力を選び始めたということだよね。ある意味、今回はじめて日本の政治で二党制が機能したとも言えるわけだけど、民主党がどこまでできるかはともあれ、そのことは、戦後の日本社会がまた一つ新しい局面にまで入ったと言えると思います。

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●人類が向かうべき次の目標

沢辺 いまお話になった社会学が抱えている新たな課題というのは、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の言う「ある一定の社会の成長の先にニヒリズムが現われる」ということと結びつくんでしょうか? それとはまったく違いますか?

竹田 ニーチェの場合は、ヨーロッパのキリスト教の権威の没落ということが大きな指標だった。これはもうドストエフスキーの小説が典型的で分かりやすい。『罪と罰』にしても『カラマーゾフの兄弟』にしても、もし絶対的な超越性がどこにも存在しないということがはっきりしたら、一体人間は、ぎりぎりのところ、何によって自分の倫理のルールを支えうるのか、というのが大テーマですね。キリスト教はヨーロッパの人間の生の意味の絶対的な配給源だった。それがこけたら当然ひどいニヒリズムが現われる。だからこのニヒリズムとそれにともなうルサンチマン(誰も悪や不合理を決済しないのだから、社会のルサンチマンの総圧力は当然高まる)に抗う思想がどうしても必要になる。これがニーチェのモチーフですね。でも実際は、二十世紀の近代社会は、ニーチェが考えたほどの倫理の総崩れは起こらなかった。

それを支えた最大の思想はマルクス主義です。マルクスの「類的人間」の観念は、いま考えるとなかなか驚くべきことだけど、未来社会の理想的構図があって、それが若いインテリ層のハートをつかんだ。つまり、倫理性の軸になったんです。時代は厳しかったが、みな希望をもっていたんですね。それがここ2、30年ほどで、根本的に変わってしまったと思う。人間の未来がどこにゆくのかという像がもうどこにもありません。すると、キリスト教の没落のせいではないが、新しいニヒリズムが出てくる。こんどはヨーロッパのニヒリズムではなくて「世界ニヒリズム」です。はげしい社会競争が、それでも経済成長をもたらすような感度があれば、社会の中で仕事をすることにもなんらかの「意味」が感じられる。しかしいまはただ没落しないために普遍競争があるだけですね。だから、一人ひとりの労働や仕事の意味も、個人の実存の意味も見えないし、だれも保証してくれていない。貧しい国では絶望が深くなって原理主義や救済思想がでてくる。ただし断片的で総体的な力にはならない。そうして先進国では、市民の社会意識のニヒリズムがじわじわ進行していく。

ただ、ここ数年で言うと、さすがにポストモダン的社会批判はもう終わりつつある。日本でのいちばん最後の火が柄谷行人の『トランスクリティーク──カントとマルクス』(批評空間、2001年)かな。ある意味でこれは創造性があったが、あとはいろいろあってもバリアント(variant/変型、変種)ですね。そのあと動物的ポストモダンとか、国家論とか少し出てきて、いまは、アメリカリベラリズムかな、最新思潮は。社会正義の「公準」をどこに定位できるか、という議論ですね。

ともあれ、労働の話からだいぶはずれてしまいましたが(笑)、アレントには、ひとつの大きな展望の可能性がある。アレント的な前提で言えば、未来社会の可能性は、「人間の条件」として必要労働の要素を小さくしていって、<仕事>の要素がふえ、この要素の上に人間的「活動」というものの領域を徐々に拡大してゆけるか、というのが基本の構図ですね。国家や資本主義の廃絶という方向性の中心は、「権力」や「格差」のない世界というイメージですね。これはじつはルソー的な「自然と調和する人間像」を根に持っている。しかしこれは本質的にロマン主義です。アレントの方向はちがう。人間の「自由」の本質が、人間的「活動」がさまざまな多様性をともなってあらゆるところで沸き立つというイメージです。そしてこれは、ヘーゲルの近代社会像と基本的に同じ方向なんです。必要<労働>を上手に削減していって、<労働>を<仕事>に変え、<仕事>を<活動>に変えてゆく、というのと、社会的な関係を、「よい営み」を競い合う普遍的な「事そのもの」ゲームになしうるというヘーゲルのアイディアが最も近親性があります。わたしは彼等の考えが現実的でもあり、かつ本質的だと思います。

沢辺 そのアイディアの芽は、何かありますか?

竹田 「原理」だけなら、だいぶはっきりしてきたと思う。「資本主義と国家の市民的制御」ということがキーワードです。市民国家の権力は、ほんらい市民の一般意志だけを根拠とする。そうであるかぎり経済システムも同じです。十九世紀と二十世紀の国家と資本主義が、特定階層の独占支配の形になっていたいちばん大きな原因は、国家間の競合原理を抑制緩和できなかったことです。普遍闘争の原理は、国家権力の集中を最大化させるように働くけど、まったく同じ原理がここでも働いている。力のある先進国の民主化と市民的成熟が、市民国家間の協調的成長のルールを整備してゆくための第一歩です。それだけが資本主義の無益で不合理な競合原理の加速化を抑制してゆくための大前提です。

それから、世界大では人口を削減すること。私のプランだと、二、三世紀くらいかけていまの1/3から1/4くらいまで持続的に人口を抑制してゆくことは可能です。これがうまくいけば、エネルギー革命が起こるたびに(これはどこかで必ず起こる)、飛躍的に人間の一般的生活条件は上がってゆく。もし国家間の協調で人口抑制の課題をすすめられなかったら、エネルギー革命は生産性も飛躍的にあげるが、同時に人口爆発も起こす。これだと結局、いたちの追いかけっこです。

この課題をクリアできれば、一般生活条件があがることで、社会的な<労働>と<仕事>の質が変わってゆく。必要<労働>は完全にはなくならないかもしれない。しかし労働時間をもっと削減するための<仕事>、そして人間の楽しみやエロスを拡大するための<仕事>の領域は拡大してゆく。その上で、文化的な表現と相互承認承認のゲームとしての<活動>の領域も拡大してゆく。そのあとはもう人間にとって未知の領域になると思う。また新しい矛盾や問題が現われるかも知れない。しかし、少なくとも、文明発生以来はじめて、普遍的支配構造が終わり、普遍消費が実現する可能性は存在する。これはとりあえず人類が向かうべき決定的なつぎの目標となる。

●社会の流動性を確保するためのアイディア

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沢辺 労働に関して別な視点から言うと、最近、肉体労働と知識労働の問題も解決しなければいけない課題だと思えるんです。知識労働の比率が増えてきていて、それはたぶん、これからも増えざるを得ない。肉体労働は機械化に取って代わられるわけで、たぶんそういう方向になるでしょう。そのときに、100人のうち90人くらいが知識労働をやるほど広く、人間は知的能力を持っているんだろうか?という疑問があります。

もうひとつ、こっちのほうが大きい問題なのですが、知識労働と肉体労働の比率で言うと、圧倒的に肉体労働は少数になっています。このとき、肉体労働者に対する他者からの承認、生き甲斐といった価値観を我々は生み出せるんだろうか? 肉体労働者の自己了解を俺たちはつくれるんだろうか? そういうことが最近、もう一度気になっているんですよね。

竹田 知的労働と肉体労働は、生まれつきの資質があるので、これを流動化するのはなかなか遠い課題です。美醜の格差のほうが、早くクリアできるかもしれない。考え方としては、社会のどういう矛盾から解決してゆくかについてのプライオリティに関して、できるだけ大きな合意を作り出すということです。とりあえずいま社会が解決しなければならない問題は、生活条件の格差、階層化、社会の先の展望と希望、老後の不安、ということですね。

でも若い世代が、未来社会の像についていろんな面白いプランを出すことはとても大事です。私の中心のアイディアは、何度も言うけど、まず週休三日制です。最低年齢別必要労働時間と、国民の年齢別最低年収。これは、マネーゲームをしたい人と、文化ゲームをしたい人とを両立させるための前提となるアイディアです。もちろん税金もいろいろプランがありうる。累進相続税の比率はとても大事です。もともと市民社会は、競争ラインの対等ということが理念的には存在する。いきなりやると恐ろしい抵抗が起こって、紛争になるかもしれないが、数世代かけて市民の競争のスタートラインがなるべく対等になるように変えてゆくことは、市民社会の成熟にとってとても大事なアイディアの一つです。

あと、たとえば、隣の韓国では、二年間の徴兵制がある。19歳から29歳くらいまでの間、好きなときに二年間兵役に服する。戦争のためではなく、市民社会の平等なシステムとして、若いときのどこかで二年間とか三年とか、休みとかもきちんととって、公的労働制度でみんな社会のための必要<労働>をする、というものです。老人の介護とか、人手不足の教育要員とか、私は三十過ぎまでフリーターでずっと働いていた。社会的な承認はそのあとでOK。その間に<仕事>のためのスキルを上げるといい。肉体労働と知的労働の分業は競争原理だけに任せると、なかなか流動化するのが難しいから、世代的に若いときは、できるだけ肉体労働するようにすればいい。いまは大学入試と、新卒時の就職で、社会階層がほとんどきまってしまう。これは、きわめて固定的な希望のない社会のシステムですね。さまざまな多様なゲームがあり、なるべく多く敗者復活やリセットの可能性がある社会のほうがよい。

アレントによれば、ギリシャでは、いちばん下に奴隷労働があって、つぎに家事労働があって、その上に少し<仕事>があり、いちばん上に自由市民の<活動>がのっかっていた。<活動>の中に精神の自由が発露する可能性があった。だけどいちばん上の人間の「自由」は、はっきりした階層支配によってはじめて支えられていた。これは市民社会では、固定的階層構造ではなく、年齢階層としてやればいい。これだとみんな対等だものね。若いうちはみな奴隷労働(笑)。二十歳代はみんな肉体労働をやる、という了解。労働をたくさんして公共に奉仕するその度合いにしたがって少しずつ「自由」を享受できる度合いが上がってゆく。これがいちばん不満をもつ人間が少ないシステムだね。若いうちに死んだやつはかわいそうじゃないかということになるけど、そこまではなんともできない(笑)。

ともあれ、そういう成熟したシステムのアイディアをいろいろ考えるだけでも意味がある。でも、資本主義、国家反対とか言っているうちは、いつまでたってもそういう方向に社会意識はすすまない。いかに気の利いた言い方で、いまある国家や資本主義を辛辣に批判するか、これがいま若い人が知識人として成功することの秘けつになっているとしたら、なかなか悲しい現状です。

沢辺 でも、奴隷が下にいるから自由な市民が乗っかっていられるという一部の人たちだけが自由を獲得できるようなやり方は、人類がこれまでになくならせてきたものではないですか?

竹田 近代社会は、そういう固定的階層構造を取り払おうとするプロジェクトだった。ただもちろんそう簡単にいかない。たとえば、十九世紀、二十世紀始めの、ロシア、イギリスの文学、トルストイ、ドストエフスキー、オースティンなどは、プチブル階層のインテリがまず「自由」に目覚めるんだけど、自分たちの自由・文化・教養は、完全に虐げられ自由の自覚もない蒙昧な下層階級の<労働>の犠牲の上に立っている、という矛盾の意識をはっきりもっている。漱石にも強くあるね。とくに貴族階級に生まれたトルストイは、このことで晩年深い意味の意識にとらわれた。人類にはいつかそういう階層のない社会に進んでいける知恵はもっていると思う。平等な社会の実現は難しいけど、流動性の高い社会なら原理がちゃんとある。

沢辺 そういう意味の階層は、いまの日本ですら少し残っているかもしれませんね。たとえば東大生の親の年収が高い、といったような。

竹田 それは大事な課題で、身分ではなくて、教育の程度で階層が決まる、このことがじつは市民社会が階層の流動性を確保する基本のシステムだったわけです。教育のコストがこれ以上かかるようになると、階層の固定化が加速度的に進んでいく。すると市民社会の根底があやうくなる。お金ではなくて、努力と能力で教育が決まるようなシステムを確保することは、とてもプライオリティの高い問題です。

沢辺 流動性がなくなりますもんね。

竹田 せっかくの市民社会が、実質的に、無限に階層社会、階級社会に近くなる。教育と競争経済のシステムは支え合って市民社会を支え合っているので、平等な教育も平等な経済もありえないが、それが流動性を確保できなかったらすべては水泡に帰す。アイディアとしては、お金と時間のコストをかけるほど成績点があがるようなメモリ能力評価中心の教育システムを組み替えて、討論や論理思考などの能力を中心的に評価できるシステムに変えるだけで、かなり流動性は確保できるはずです。実際に企業が競争に必要とする能力も、メモリ能力は半分でしかない。メモリ能力を上げていくことにたくさんのコストをかけるのは、社会の普遍資産の無駄遣いで、失業状態が多いのと同じです。何がじっさいに社会活動や人間関係にとって必要な能力なのかを研究する教育学がなくてはいけない。この意味でも社会的のコストの効率をあげるほど、人びとの一般福祉があがるはずです。教育は政治権力、軍事、警察、医療と並んで、単に競争原理だけに任せておいたら、市民社会の土台を壊してしまうような重要な領域で、まさしく「市民的制御」が必要なんです。

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●近代哲学の深い理解から新しいすぐれた思想が生まれる

締めくくりにもう一度言うと、こういう社会的展望は、資本主義と近代国家自体を批判する発想からは出てこない。まず二十世紀の批判思想がはやく解体して新しい展望へ進み出るべきなんだけど、そのためには新しい世代が、ほんとうに知的能力を身につける必要がある。若い人は、いきおい最新流行の思想をやりたがる。そのほうがカッコもいいし、ある人たちには身を立てる上での早道でもある。しかし、できるだけ知的にどん欲であるべきだけど、私としては、志のある者は、なによりまず哲学を五年やってほしい、だね(笑)。

最新流行思想ももちろん大事だけど、近代哲学をちゃんとやっていると、その歴史的な意味と位置づけがきわめてクリアに分かるし、個々の思想がどの程度原理的な有効性があり、何が根本的に欠落しているのかということも、すぐに理解できる。自分が専門なので、我田引水になってしまうけど、近代哲学を欠いたまま流行思想をやると、どうあがいても日本の思想はアメリカとヨーロッパの知識人の後追いしかできない。十九世紀以来の日本の思想を見れば一目瞭然です。むしろこの半世紀、欧米では分析哲学とポストモダン思想のおかげで、近代哲学に対する関心度が下がっていた。いまこれをしっかりやると、そのうち知的体力で勝ってくるかもしれない。

沢辺 なるほど。たしかに忘れられてる感じですね。

竹田 哲学や思想というのはそういうところがあって、つぎのすぐれた思想は、前の思想の深い理解を土台にしてはじめて出てくる。いまやマルクス主義やポストモダン思想が一般教養でいいんです。デカルトとホッブズ、啓蒙思想から全部やり直すのがいい。するとマルクス主義もポストモダン思想の存在理由もはっきりしてくる。どこからどの程度の深さで掘り直すかによって、新しい思想の強度がきまってくる。それは自然の理なんだよね。

沢辺 昔、呉智英さんが本で書かれていたんですが、中国にすごく頭のいい百姓のせがれがいて、貧乏だったから上の学校にあがれなかったんだけど、卒業式に先生が、「きみは上の学校にはいけないけれども、勉強というのはどこでもいつでもできるんだよ。勉強は続けなさい」と言った。その何十年後かに、その先生が偶然、その頭のよかった生徒に会ったら、「先生、こういう問題が解けました」と見せてくれた。でもそれはもうすでに誰かが解いた方程式で、それを百姓をやりながら、自分一人で何十年もかけてやったのか、とびっくりした。学校へ行かせて、武器としての方程式を手渡してあげればよかった、とその矛盾にがっかりした。そういう話を呉智英さんが引いてたんですよ。竹田さんが、「五年哲学をやりなさい」と言うのは、そういうことですよね。

竹田 その通りです。わたしも経験があるけど、若いときは何か独創的な見方をしたいんです。だからできるだけ新しいものを食べたがる。でもほんとうに視線が上がるのは、ちょっと土台を積んでいくことによってです。するとあるとき気がつけば、視線が高くなり、視野と地平が広がっていることに気づく。地平が広がることではじめて思いつきの考えをすべて殺すことができる。ほんとうに独創的な考えはそういう条件から出てくる。近代哲学は土台の煉瓦なんです。いま世界の先端の思想は、アメリカリベラリズムでも、ポストモダン思想でも分析哲学でも解釈学でも、二十世紀思想の後退戦です。自分はその先に出ようと思う人は、まず近代哲学からやって欲しい。それが結局いちばん効率的でもある。

沢辺 早く効率的にいけて、自分のオリジナルを生み出す時間が増えるということですよね。(了)

これまでの回

第1回「自由と労働」

プロフィール

竹田青嗣(たけだ・せいじ)
1947年大阪生まれ。哲学者、文芸評論家。
早稲田大学政治経済学部卒業。現在、早稲田大学国際教養学部教授。

『低炭素革命と地球の未来』発売中

『低炭素革命と地球の未来』─環境、資源、そして格差の問題に立ち向かう哲学と行動
著●竹田青嗣、橋爪大三郎
定価1800+税
ISBN978-4-7808-0134-7 C0036
B6判 / 192ページ /並製
[2009年09月刊行]
目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。

2010-03-02

談話室沢辺 ゲスト:山路達也 「電子出版時代の編集者」

◎電子出版時代の編集者

電子出版時代の編集者の役割は、「必要/不要」では語れない。
2009年10月に、アルファブロガー・小飼弾氏との著書『弾言』『決弾』のiPhoneアプリ版を自らの会社から発売したフリーのライター/編集者の山路達也さんに、書籍の執筆・編集から電子書籍発売後のフォローアップまで、それぞれの段階で何を考え、何をしてきたかを話してもらった。
「2010年代の出版を考える」、編集者編。
(このインタビューは、2010年1月19日に収録しました)

プロフィール

●山路達也(やまじ・たつや)
1970年、三重県生まれ。フリーのライター/編集者。
パソコンやインターネットに関する書籍を中心に活動中。
著書に『頭のいいiPhone「超」仕事術』(田中拓也との共著、2010年、青春出版社)、『マグネシウム文明論』(矢部孝との共著、2009年、PHP新書)など。
binWord/blog
Twitter:@tats_y

●『弾言』『決弾』の下地

沢辺 まず山路さんの経歴を教えてくれますか。

山路 93年4月に大学を出て新卒でソフトバンクに入ったんです。当時は今ほど有名ではなく、出版事業とPCソフトの卸売をやっている会社でした。その出版事業の、『Oh! PC』というPC-98専門雑誌の編集部に入ったんです。

ソフトバンクに入って1、2年目が、ちょうどQuarkXPressというDTPソフトで雑誌をつくり始めたころでした。その頃の私はMacに詳しくありませんでしたが、入社したころは、出版社が経費削減のためにDTPの作業まで編集者に押し付けていた時代でもあったので、編集者の作業だけじゃなく、DTPもやりました。それでDTPに慣れた部分もありましたし、ガジェットやITっぽいものへの知識もつきましたね。

3年と3カ月勤めてからソフトバンクを辞めて、1年ぐらいオーストラリアに行っていました。
ワーキングホリデーのビザをとって、メルボルンの近くのジロングという小さな町のレストランで働いたんです。キッチンハンドといって、皿洗いみたいなものでしたけど。

その後外国人向けの専門学校に通って英会話をやり、オーストラリアをぐるっとバスで1周した後日本に戻ってきて以来、何となくフリーの編集者兼ライターとしてやってますね。

沢辺 もっと遡って聞いてもいいですか。生まれはどちらですか?

山路 三重県の四日市です。

沢辺 小さいころはどういう子供だったんですか。

山路 本はよく読んでましたね。おやじは普通のサラリーマンでしたが、とにかく本をよく買う男で、休日に出掛けても、紙袋にいっぱいに中古の本を買ってきました。

沢辺 お父さんはいくつ?

山路 昭和9年生まれだから、今75歳です。ただ、父親が読んでいた本は気に留めていませんでした。そんなに仲が良かったわけでもないので、父親が薦めるものは読まなかったり(笑)。
父親の書棚にあった本で覚えているのは、松本清張と、ノーベル文学賞を取ったようなものですね。
沢辺 じゃあ、文学が多かったんですかね。

山路 でも、週刊現代のグラビアも大好きで、写真集もいっぱいありましたよ。

沢辺 いま山路さんは謙遜してそう言ったかもしれないけれど、俺は携帯小説だって何だって、日常的に読んだり書いたりすることは、自分の問題を考えたり解決したりする力をつけるために大切だと思う。本を「文化」にするのはあんまり好きじゃないんですよ。佐伯泰英でもエロ小説でも、日常的に文章を読む習慣があるほうがいいんですよね。

山路 私も「本は高尚なもの」という考え方は違う気がしますね。「目の見えない方向けに世界名作文学を点訳して読ませよう」なんて人もいますが、ふざけるなと思います。名作文学だけが本ではないですから。
でも、子供としては破格に本を読んでいたかもしれません。1〜2週間に1回図書館に行って、借りられる限界の冊数を借りてきてました。

沢辺 そのころ、勉強はできたんですか?

山路 小学校の時はできましたね。ただ、勉強をする習慣はなかったんですよ。だから小学生の時はよかったんですけど、勉強する習慣はずっとなくて、中学校に入ってからも最低限でしたね。

沢辺 だけど、最終的に東大に入ったんですよね?

山路 勉強したのは高3になってからですよ。進学校ではありましたけど、中高一貫だったから入ってから5年間は勉強をする習慣がなかった。

沢辺 大学は何を専攻したんですか。

山路 文学部でしたが、文芸批評ではなく、言語学でした。
ただ、言語学に進んで「やっぱり違うな」と思ったんです。その当時、脳に電極をつなげて活動を見たり、人はどのように考えているのかを心理学的に追求したり、いろんなアプローチで言語を探ろうという動きがあったのですが、自分が進んだのは本当に旧態依然とした言語学だったので、幻滅してしまったんです。
もちろん、向学心にあふれる学生ならば自分で学際的な分野を見つけて研究するだけの話なので、単純に私に向学心がなかっただけですけどね。

大学卒業が93年なのですが、89年から90年代前半は16ビットパソコンが出てきて、MS-DOSも出たころですね。
それを使って自分なりに簡単なプログラムを書いて言語学の仮説を分析したりしていました。

●なぜ「iPhone」だったのか?

沢辺 でも、それが昨年発売したiPhoneアプリの『弾言』『決弾』にも繋がっているわけですよね。今日一番聞きたかったのはiPhone版の『弾言』と『決弾』をなぜ自分の会社でiPhoneアプリにして販売までしたのかということと、実際やってどうだったのか、やる過程で何を考えたのか、その3つです。

山路 深い考えはないんですよ。単純に、iPhoneはユーザーの側から見て面白いじゃないですか。Appストアにも、既に「電子書籍」というカテゴリーがありましたし。最初のころはグラビアとかコミックぐらいしかなかったですけど。
それ以前にも、ちょっとした文章のPDFを転送したりしていました。iPhoneなら文庫本と遜色ないサイズで、PDFでも結構読みやすいですよね。
そういうこともあって、これで本を出さない手はないな、と思いました。

今回iPhoneアプリにした『弾言』は、自分でも「いい出来だ」と思った仕事で、本の中で小飼氏が語っている考え方は、若い人にももっとアピールしたいと思っていました。iPhoneを使っている層は特にITに興味がある人だし、小飼さんとのマッチングもかなり高いと思うので、その点でも適していました。

沢辺 iPhoneについて、もう少し詳しく聞かせてください。山路さんは今、iPhoneをどんなふうに使っているんですか?

山路 怖いぐらい生活に溶け込んでいるので、「何が」と言われると、逆に悩んじゃうぐらいですね。

ひとつずつ挙げていくと、まず、MobileMeでPCと連動させて、予定やアドレスの管理をしています。

沢辺 メールはどうですか? 僕はiPhoneは読むにはいいんけど、書くのが面倒くさいから、本当に必要最小限で、特に社内のメールのやりとりだと「よし」や「OK」の2文字で済ましちゃいます。

山路 私も、iPhoneではあまりメールは書かないですね。読んで重要なことを振り分けたり、ちょっとした返事に使っています。メールは全部Gmailで管理していて、読まなくていいものはその場で処理して、後で返事をするものにはラベルを付けて、改めてPCで処理したりしています。
会社のメールもプライベートのメールも全部Gmail上で一元管理できますから。
Gmailなら検索も早いし、iPhoneからも過去のメールのすべてを呼び出すことができます。

スケジュール管理も、とても便利になりました。例えば取材に行く場所の住所をメモ欄に貼り付けておけば、それをクリックすると地図が表示されて、そのまま経路検索までできちゃう。

あとはEvernoteというサービスを使えば、情報を集めるだけじゃなくて、同時にメモにもなります。仕事のメモや気になった記事をとりあえず全部放り込んでおくことができるから、「あの情報はどこにあったんだっけ」ということがなくなるのがいいですね。

沢辺 僕はこの6〜7年、すべてのことがなるべくメール上で完結するようにしているので、Evernoteに乗り換えるかどうか迷ってますね。
原稿もテキストエディタを使わずにメールソフトのThunderbirdで書いて途中経過を保存しておくくらい。
書き終わったら社内の一斉配信アドレスに送ります。絶対読まなきゃいけないわけじゃないけど、「社長がこんな原稿を書いたぞ」というのを知っておくことができるように送っています。さらに俺は、できるだけブログに公開するようにしてるんだよね。

山路 それは素晴らしい。

沢辺 ブログで公開しておけば、ブログが自分にとってのデータベースになるんです。例えば雑誌の場合は、1カ月後には次号が発売されますよね。だから原稿を編集部に送るときはメールに直接貼りつけて送って、「1カ月後に公開させてもらいます」と一応断っておくんです。そうすると、自分の記録がブログとメールで全部見れる。
Evernoteのほうが良いところがあるのもわかるんだけど、今身についてる習慣を変えるのが面倒くさくて。

山路 でも、Evernoteはメールと連動していますよ。Evernoteの自分のアドレス宛にメールをすれば、それがどんどん蓄積されていきます。社内に送っているものを、Evernoteの自分用の投稿用アドレスにccしておけば勝手にたまっていくので、同じ習慣のままEvernoteにもアーカイブができていくのではないでしょうか。
Evernoteなら、音声や出先で写真、ウェブ上のクリップ、あるいは名刺をスキャンしたものなど、何でも入るので便利ですよ。でも、人それぞれのスタイルがありますから、それに合ったものが一番いいですね。

他にiPhoneでよく使うのは、手書きメモとTwitterです。Twitterのクライアントは、以前はTweetieでしたが、最近はTweetDeck

沢辺 なぜ変えたんですか?

山路 個人用やブログからの情報を発信する用など、複数のアカウントを使い分けているので、それを切り替えて見るのにTweetDeckがいいんです。例えば私だったら、最近出した『マグネシウム文明論』(PHP新書、2009年)という本の評判が気になりますよね。だから、「マグネシウム」というキーワードを自動で検索して集めるカラムもあれば、Green Techに関するキーワードで検索しているものもあって、そのすべてがTweetDeck1つで見えちゃう。今日(2010年1月19日)日本の開発者が出したTweetMeというソフトもTweetDeckと同じことができるらしいです。

●編集者も著作権者になる

沢辺 紙版の『弾言』『決弾』を出すにあたって、山路さんはどのようなポジションだったんでしょうか。

山路 言わば、ゴーストライター兼編集者ですね。人間、普通に話していて頭から終わりまでがきれいにつながることはないですよね。だから、著者と話しながら引き出したいことを聞いたり、難しいところでは、「その話は、例えばこういうことなんですか?」とキャッチボールをして相手の言葉を引きだしていきます。文字に起こした後もさらに私のほうで例を足したり、もっとスムーズに伝わる文書表現を考えながらドラフトを書いて、著者に確認してもらいました。

沢辺 そもそも言い出しっぺは山路さんだったんですか?

山路 「小飼さんと本をつくろう」と言い出したのは出版社の人です。私は、出版社の人から「小飼さんの本を出したいから企画を考えてくれ」と言われたかたち。そこから企画書を書いて小飼さんにアプローチして受けてもらいました。話をしているうちに企画書とは全然違うものになっていったので、今のかたちにしたのは「誰」ということでなく、「共同作業」ですね。

沢辺 印税は「編集」としてもらった?

山路 たしかに「編集」もしているのですが、出版社側の編集者がいて、原稿を見て直したり、「ここはこうしたほうがいい」ということも言います。校正も出版社側がやりました。
だから『弾言』と『決弾』に関しては、「著者印税を分割」した感じですね。私はあくまでも書き手として参加しているという考え方です。

沢辺 じゃあ、著作者は小飼弾と山路達也の2名だと明示された契約書を交わしたということですね。

山路 はい。ただ、多くの出版社が同じだと思いますが、契約書を交わしたのは本ができた後でした。
著作権者として契約を結んだからこそ、iPhone版を出すことができたんです。iPhone版『弾言』『決弾』のポイントの1つは、著者自身が本を売っているということだと思うんです。

沢辺 著者だから、iPhoneでやりたいというのも言いやすかったと。小飼さんは二つ返事だったんですか。

山路 はい(笑)。「いいですねえ。どんどん進めて下さい」と。

沢辺 出版社はどうでしたか。

山路 出版社にiPhoneアプリについて打診してみたのですが、会社的にはあまりiPhoneアプリに乗り気ではなくて。

沢辺 じゃあ、最初から自分でやろうと思っていたわけではなかったんですね。

山路 そうです。どうも出版社から出なさそうだったので、私が出版社に使用料を払って、私の会社から文庫本を出すかたちにするんだったらどうですか、と提案しました。正直、出版社としてリスクはない代わりにうまみがあることでもないから、普通の出版社だと「うちでも将来やるかもしれないから」みたいな返事をするところが多いと思うのですが、長いこと一緒に仕事をしてきた編集者だったことと、出版社としてもどんな反響があるのか興味があるということがあったので、OKになりました。

できればiPhoneに限らずPCや携帯も含めた「電子書籍」を考えていたのですが、「全部はちょっと」ということだったのでiPhone限定で、使用権の許諾を得ました。

実は、そのために会社設立もしたんですよ。仕事をするときに法人のほうがスムーズに頼めることが多いから、どのみち会社にしたほうがいいかなと考えていたタイミングだったし、それほど深い考えがあったわけじゃないですが。
ついでに会社申請をオンラインでやって、法務省のオンライン申請システムがいかにアホかという記事を書くこともできるかなと(笑)。

●電子書籍化にかかったコスト

沢辺 では今回は、本が出た後に電子書籍のことを考えて、本が出た後に出版社に相談したということですよね。最初にこの本をつくるとき、電子書籍を展望してなかったわけですか。

山路 全くないということはないですね。数年前から、本をつくるたびに、電子書籍の展開はできないかということは頭の隅にありましたよ。

数年前にある本をつくったとき、私は「将来的にPDFなり電子的な形態で配布できるように絶対しなきゃいけない」と主張したんですね。出版社の人にもそう言ったんです。後で別の判型にして再利用したり、あるいはそのままの判型だけどPDFのかたちで売れるようにしたい、と。再利用は今後絶対に大事になることだからと強く主張したのですが、デザイナーが「このフォントでないとやりたくない」といってきたフォントが、埋め込みのできないOCFフォントだったんです。とにかくそのフォントにこだわりがあって、「読者はそこまでフォントにはこだわらないから、ちゃんと再利用できるかたちでつくってくれ」と何度も言ったんだけど、結局説得できませんでした。

沢辺 では、数年前から電子化を考えていたということですね。

山路 そうです。将来的な流れとしては、そうならざるを得ないと思っていたので、その時から、再利用できるかたちでと思っていたんです。それも説得できずという例なんですけど。

沢辺 でも、そういう思考があったから、『弾言』『決弾』に繋がってるんですね。僕が聞きたいと思ったのは、例えば書いている段階で「電子化権を僕にくれませんか」という話は出てこないのかな、と。
これが村上春樹だったら、著作権契約する時に「電子出版権は私にください、そうじゃなかったらサインしません」と言えば、出版社も同意せざるを得ないですよ。だけど、大半の著者と出版社の間には、実際上、力関係がありますよね。

山路 私は村上春樹みたいな力はないですからね。

『決弾』の出版社の契約書のフォーマットは、紙以外の発行形態に関しては、その時に著作者と協議する、という1項が入ってるんです。電子化のことは頭の片隅にあったので、その点は確認しておきました。

沢辺 iPhone版にしたとき、出版社には何%払ったんですか。

山路 大体、文庫化と同じ相場ですね。

沢辺 じゃあ、僕の相場観だと2%〜3%前後かな。

山路 ほかに、イラストレーターとデザイナー、装丁家にiPhone版を出す時の2次使用料、オーサリング会社に技術使用料を、私の会社から払っています。

●アップルによるiPhoneアプリ審査の問題点

沢辺 ここまででiPhoneアプリ化に向けて権利関係は処理したわけですよね。次は、具体的な作業とアップルとの交渉ですか?

山路 「交渉」ではないですね。ほとんど自動ですから。年間99ドル払ってiPhone Developer Programに登録すれば、誰でも販売できるんですよ。

沢辺 登録してしまえば、あとはアプリ個別の審査だけ、と。

山路 ただ、大谷和利さんがアップルのことを書いた本をAppストアで出そうとしたらリジェクトされたことがありましたね。今の基準はわからないですけど、少なくとも、最初はアップルのことを書くとリジェクトされることがあった。

沢辺 エロとかグロに対する感覚も日本とはズレがあるそうですね。例えば日本ではスカトロのエロ雑誌もあるけれど、アメリカではスカトロに対する排除感が強いらしく、雑誌では出せないそうです。その一方でモロ見えは年齢制限があればオーケーだったり、日本とはわいせつに対する基準が違うらしいんですよね。

山路 でも最近、エロいアプリが増えている気がしますけどね。けっこう過激なグラビアもあるし、息を吹きかけるとスカートがめくれたりするものもある。それが審査を通っているのに、文章でエロ表現があったらリジェクトするのはどういうことなのかと。(注:最近AppStoreの審査基準が変更になり、セクシー系アプリはほとんど削除されています)

沢辺 混乱期だし、迷いもあるでしょう。基準をどの程度に設定するのがいいのか。
ともかく、『弾言』『決弾』に関しては、審査はどうってことなかったですよね。

山路 そうですね。ただ、どれぐらいの期間がかかるかや、今どういう段階にあるのかがわからないので、そこはドキドキしました。2〜3カ月経ってからリジェクトされることもあり得ると聞いていましたし。それこそ、Developer Programに申し込んだ時の銀行口座の確認にしても、「ちゃんとやってるのかい?」とわからん不安感はありました。

沢辺 アップルもそうだし、GoogleもAmazonもそうだけど、お客さんに対するサポートは丁寧なんだけど、パートナーに対しては不親切さがありますよね。

山路 売るなら、売れば、みたいな。
アップルの製品は、すごくスムーズで格好いいユーザーインタフェイスじゃないですか。でもiPhoneデベロッパープログラムのサイトは、売上を確認するページと、その他の登録を行なうページとで、ユーザーインターフェイスが全然違ったりするんですよ。とてもアップルがつくっているとは思えないぐらいの手抜きっぷりで、本当に不親切です。
表の部分の顧客の部分に力を入れていて、手が回らないのかもしれないですけど。

沢辺 顧客の部分が大切だというのはわかるけどね。

●電子書籍の未来はフォーマット次第

沢辺 さて、電子書籍をつくってAppストアで売るという方針が定まった上で、フォーマットはなぜドットブックにしたのでしょうか。

山路 フォーマットは、結構悩みました。青空文庫のビュワーアプリを開発している人にお金を払って、テキストを埋め込んだかたちでのアプリをつくってもらうことも考えました。そうすれば文字の拡大・縮小も自由ですし、読みやすいものができます。その代わりに、高くつく。

電子書籍を出すんだったら検索機能やフォントを切り替えをやりたいのは山々だったんですが、コストのことを考え、一番低コストでなおかつ読者から見栄えがいい。とにかく読書体験としてスムーズに読むことができるものとして、ボイジャーさんのドットブックを使ったアプローチを選んだんですね。

ボイジャーさんは、販売の条件など、さまざま柔軟に対応してくださったことも大きかったです。社長の萩野さんは1993年のエキスパンドブックのころからずっと電子書籍をやっていらした方で、すごく理解のある方でした。

沢辺 ちょっといかれたおじいさんだけどね(笑)。

山路 (笑)。一般の作り手にあれだけ安くソリューションを提供して、企業からはそれなりの金を取って何とかビジネスとして回して、なおかつそれを普通の本の文化の作り手に還元するって、普通の人ではできないことですよね。それに対して感情的に共鳴した部分もあります。

『弾言』を出したときはフォントの切り替え機能はなかったですが、今多くの人が読んでいる文庫本だって、多くの人が読めるサイズにしてあって、「どうしても読めない人は老眼鏡を掛けてください」というメディアですよ。だから、9割の人が満足できるフォーマットという意味で、妥協できる範囲かなと。
一応、目次から該当箇所にジャンプできますしね。

これもドットブックの問題点といえば問題点ですけども、表現力がすごいわけじゃないじゃないですか。TTXというドットブックのソースファイルにHTMLのようなスタイルシートを使って装飾できるのかと思ったら、全然できないんですよね。凝った見出しをつくろうと思ったら、画像で貼り付けるしかない。でも、画像で貼り付けるとなると、今後、解像度の違う機種で展開する時にどうするんだ、とさまざま問題が出てくる。そこは悩んだんですが、あまり凝った見出しにしないということで妥協しましたね。

沢辺 僕は小見出しとか、飾りつけについては、どうでもいいかな、とい個人的には思っています。でも、例えば、表組みはHTMLのようにしてほしい。現状、InDesignでの組版で表を入れる場合、Illustratorでつくった見栄えよくつくった表を「画像」にして貼りこんだりしているわけですよ。

最終的には、僕は電子書籍はテキストに戻っていって欲しい。出版されるのは大元のテキストで、ビュワーの側でCSSのようなものを適用させることで、見栄えがよくなる。

山路 私も、それが実現されないといけないと思います。新しいHTML5はグラフもきれいに生成できるし、動画もそのまま動きます。電子書籍のフォーマットも、純粋なテキスト部分と装飾部分は分離されるべきだと思います。

そういった普遍性のあるフォーマットができないと、電子書籍の可能性は本来の100分の1も出せないと思います。共通のフォーマットがあれば、書籍間で相互に参照できるようになります。相互に参照することができれば、ある本の中に別の本から引用している文章があったとして、そこをタップしたら引用元の書籍の該当部分が表示することができるし、さらに該当部分のページを買いたければ買えるようにもできます。もちろん、丸ごと買うこともできる。フォーマットが一社の独自の形式だったら、書籍間の相互参照はできないですよね。それこそHTMLのリンクのような形式は整えてくれないと、豊かな電子書籍の利用の世界は開けないと思います。

今はGoogleも本に関しては「Googleブック検索」という仕組みの中での検索結果を出していますが、情報を知りたい人にとって、それが本であるか、ウェブであるかはどちらでもいいことですよね。ウェブと本を同じように扱うためにもフォーマットは必要でしょう。

沢辺 でも、本と名乗っていようが、EPUB形式であろうが、何形式であろうが串刺しできるようになると、検索の結果が膨大になってしまわないですか?

山路 それは純粋に技術的な問題だと思いますね。
今後「本」という言葉は、ものすごく広い範囲の言葉になると思います。「文字が印刷されたものを綴じた」という定義じゃなくて、「ある程度の、ある集まりの人たちによって編集された情報の集まり」のような定義になり、「ここはきれいに編集されたコンテンツですよ」ということを識別するのに「本」というラベルが貼られるだけになる。そういう世界に参加するためにも、やっぱり共通フォーマットが必要だと思いますね。

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●本はどこまで構造的にできるのか

沢辺 実際に電子書籍をつくってみて、悩ましかったことは他にあります?

山路 専用のエディタがあると便利だと感じました。私は見せ方にもうちょっと凝りたかったので、自分でソースコードを書くことを選んだのですが、やはり面倒だったので。ただ、まだ工夫次第で何とかなるレベルの面倒なので、それほど大きな問題ではないですね。

沢辺 僕は技術的なことではなくて、編集的な面で、文章の構造化が課題になると思っています。章・節・項、大きいところから小さいところへという概念が、今はいい加減すぎると思う。
逆にいうと、今の山路さんのような編集的ポジションにいる人に求められるのは、本の構造をきっちりつくることではないでしょうか。

山路 現状でも、それを考えてつくってはいます。
でも、紙の本をつくる際は、デザイナーに渡される時点で構造はある意味、破壊されていますよね。渡される時には大見出し、中見出し、小見出しとあっても、デザイナーはそれをざーっと流し込んでいくイメージじゃないですか。
多分、最初にざっと流し込んだレベルでは、まだ階層構造は保たれていると思うんです。でも後から修正するときに、GUIのインターフェースで修正すると、論理構造が完ぺきじゃなくなっていくんですよね。

結局どうしたかというと、InDesign上のテキストだけをエディターに貼り付けて、自分なりに「これは大見出し、これは小見出し」と手でマークを付けていき、マークを正規表現で一括置換してタグに置き換える、という作業をしました。
そこのところはAdobeやほかのソフトウェア会社に頑張ってもらいたいですね。

沢辺 俺は、Adobeなどのソフトウェア会社が何とかする余地は十分あると思いますけれども、重要なのは人間だと思ってるんですよ。著者も編集者もデザイナーも、三者が文章の構造の重要性をふまえてつくってないと、電子書籍にするのは難しいと思うんです。

もしくは、三者全員が構造を考えてつくるのはあきらめて、デザイナーだけがオペレーターとしてこだわりを持って徹底的に構造化するようになるかもしれない。

山路 私は、最初の著者の段階で論理構造を持っていないと、デザイナーがこだわりを持っても難しいとは思いますけどね。
だから、今後は著者から出版社に原稿を送る時にタグを付けたものを送るのがマナーになってくるんじゃないでしょうか。

沢辺 いや、そんなことができる著者はほとんどいないんじゃない?

山路 タグといっても、そんな難しいことじゃないですよ。今だって「大見出し」「小見出し」くらいは書いているのではないでしょうか。私が書くときは、プレーンテキストで送る時でもマークをつけるなどして、必ず構造がわかるようにして送っています。

沢辺 でも今は、例えばWordで原稿を送ってもらったら、見出しはフォントがでかくなっているとか、そのくらいですよ。Wordが浸透したので、著者も見た目を意識するようになったとも言えますが。

山路 そのWordにだって構造化を前提にした機能があって、「見出しレベル」を設定しておけば、その見出しだけ一括してスタイルを変えることもできるんですけどね。

沢辺 でも、誰も使ってないよね。

山路 Wordは書くツールとして使いづらすぎるから、構造化を意識した機能があっても、物書きが物を書くツールとしては使い得ないところがありますよね。

でも、せめて大見出し、小見出しさえ意識しておかないと。

テキストエディタによっては、行頭にピリオドを付けておけば見出しに、2つピリオドを付ければ、小見出しにということもできます。

沢辺 Wikiみたいにね。でも、僕はWikiが嫌いなんですよ。
構造化は大切だと思うんだけど、Wikiを見ていると、プログラム屋さんの発想のままのような気がするんです。

山路 沢辺さんの言いたいこともわかるのですが、そこで一般寄りにすると、結局Wordになってしまうんですよ。

まだGUIで工夫できる部分があるということかもしれませんが、そのバランスは難しいですね。

沢辺 そうそう。だから、そこは技術が解決してないなと思っています。僕も自身はテキスト派なので、ピリオド1個は大見出しで、ピリオド2個が中見出しと理解したほうが自分の中に入っていくんだけど、これまでの著者との付き合いを考えると、それを著者全体に求めるのは無理じゃないかと思う。

●著者が文章を書かなくなっていい

山路 でも、だからこそ編集者が著者と一緒に本を書いていくようになってくればいいんじゃないかな、と思いますね。つまり、必ずしも著者は文章を書く人ではなくて、その起点となるようなアイデアの種をどんどん吐き出す人であればいいんです。文章を書かなくてもいいんですよ。思い付いたことを言って、私のような編集者が、その構造化をすればいい。

私が2009年の12月に出した『マグネシウム文明論』も、研究をしてるのは大学の教授で、私は研究には何もかかわっていません。でも、先生自身が書くと固くて難しいんです。だから、私のような編集者が入って普通のビジネスマンが新書として読んで面白いものに解体して、構造をつくって、流れをつくって、文章として整える。

本を書くことは教授の本質ではないんです。先生はマグネシウムの研究をするのが本分。

最近、小説でもプロジェクトチームでつくることがあるようです。漫画は、既にチームでつくっていますよね。だから、著者自身が文章を書かないことの何がいけないのかよくわからないし、構造をつくる人がいないと駄目だと思います。

沢辺 俺も、ひとりの人がすべてをやるのは無理だと思う。学会誌に載った論文ですら、構造化されてないものがありますよ。

山路 学術書では、読みづらいものが多いですよね。編集者が仕事をしていないだけではないかとも思いますけど。
わかりにくい表現だったら、「こういうことですか」と聞き直して、もっとわかりやすい表現に直して読者の下に届けるのが編集者の仕事ですから。とにかく読み手が最重要だから、顧客に届くかたちに変形するプロセスは、誰かがやらないといけないことです。

沢辺 でも、そのことについての合意はまだできていないですよね。古い年寄りの編集者だと「そんなのは本じゃない。書き下ろしに価値がある」と言いますよね。養老孟司の『バカの壁』(新潮新書、2003年)も「しょせん聞き書きじゃん」と馬鹿にする人がいた。
書いたものに手を入れられることが嫌だという考えも、根強く残っていますよね。

山路 だからこそ、最初の時点で「実際の文章は私が書きます」という合意をつくってから進めていくことが大切です。

沢辺 小飼さんの場合も、その合意があったんですか?

山路 そうですね。小飼さんは、こちらが誘導する通りに大人しく動く人ではなかったですが(笑)。

沢辺 でも、最初に「原稿はこちらがつくりますよ」という合意が成り立っていれば、原稿に手を入れられることの抵抗感もなくなるので、編集者が自由に動き回る余地がありますね。

山路 その場合も、著者が何を考えてどういうことを言いたいかを共感して、理解するスキルが求められると思いますね。
そしてそれは画一的な役割ではなく、本ごと、著者ごと、案件ごとに変わってくるものでしょう。

沢辺 今までのような、「著者は書く人で、編集者は書いたものから」という暗黙の前提を疑うべき時代がきているということですね。

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●電子書籍の相場観

沢辺 では次はドットブックを出した後のことを。

山路 大してお金を持っていない私が自分の会社で出しただけなので、大々的に広告を打つことはなかった。じゃあどうするか。そこについては「アルファブロガー」といわれている小飼さんの知名度に頼っているところがあります。他にも私の知り合いの出版関係者やブロガーにリリースは送りましたけど、一番大きいのは小飼さん自身がブログで「『弾言』と『決弾』をiPhoneで出しました」と書いたことですね。あとは、最近流行っているTwitter。TwitterとiPhoneはものすごく相性がよくて、TwitterのユーザーはiPhoneからつぶやいている方が多い。そうすると、例えば、「iPhone版の『弾言』を読みました」とつぶやく人がいるんですよね。そこで@dankogai(小飼弾さんのアカウント)と付いていれば、小飼さんが1冊、1冊お礼を言うようにしてくれました。そうすることで、小飼さんを身近に感じた読者の方が「小飼さんが直に礼を言ってくれたよ」とつぶやいて、またそれが話題になってTwitter上で広がっていきました。

沢辺 今の時代だったら、小飼さんのサイン本を買うよりもTwitterで一言お礼がくるほうが価値は高い感じがしますよね。

山路 私もそう思います。小飼さんは「コピペですると感謝が伝わらないので、このお礼の文章は全部自分で打ってます」と書いてました(笑)。
でも、そんなちょっとしたことだけど、著者と読者が場を共有できるんです。単にお客さんとして本屋で買ってくるのではなくて、確実に直につながっていると考えられる。これは新しいことだと思いますね。

結果として、紙の本にもちょっといい影響があったみたいです。TwitterでiPhone版が出たという話が広まったので、紙の本の売れ行きも伸びた、と出版社の社員が言ってました。

沢辺 実際売れ数は数千単位ですか、それとも万単位?

山路 万はいかないですね。まあ、4桁です。

沢辺 その数字では、なかなかつらいものがありませんか。1冊350円だから、仮に1,000ダウンロードだとしたら末端で35万円。アップルの取り分が3割だから、手元に来るのは22〜23万円。2,000としたら40〜50万。新しく書き下ろしたわけではないし、悪いとまではいいませんが。

今後は書き下ろしの電子書籍を出すことも考えられるわけですよね?

山路 もちろん。でも、いきなり電子版を出すのはまだ無理だと思います。350円という価格も、電子書籍だけで出す価格ではないです。
Appストアは低価格の圧力が掛かっている、特殊な場所です。「シムシティ」が数百円で売られている隣に置いてある1,500円のビジネス書を買う人は誰もいない。

でも、電子書籍が相当増えてきたら、価格相場観も変わってくると思います。今の350円というのは、結構きつい価格ではあります。

沢辺 ポット出版は「理想書店」での価格を950円にしたんですけど、どう思います?

山路 出版社として950円にするのもわかるのですが、読者だったら「もう一声」と思うでしょうね。ワンコインが1つの壁だと思いますし、文庫の価格も基準になっていると思います。文庫が出ていない本だったら文庫と同じくらい、文庫が出ている本だったら文庫よりもやや安いくらいが、買う人の値ごろ感のような気がします。これは純粋に自分が買って読む場合の意見ですけどね。

本音のところでは、それこそ1万円とかつけて10万人に買ってほしいと思いますよ(笑)。

●電子出版時代の著者、編集者、出版社

沢辺 最後に、書き手として電子書籍のパブリッシュをしてみて、今後本の世界や出版の世界をどんなふうにしたいと思っているのか。その中で、著者が直接読者に販売することなどを含めて、どういうことをやっていきたいですか?

山路 『マグネシウム文明論』で試してみていることではあるんですけれども、1冊1冊を売るために、もっと著者や編集者がコミットしていかないといけないと思っています。今の出版社は、こう言ってはなんですが、本を出したらあとは、あまりフォローしないじゃないですか。だけど結局、ぽんと置いておくだけでは、これだけいろんな本がある中で誰も見てくれない。

例えばあるブログにすごく面白い記事が1つ載せてあっても、更新がなかったら、もうそのブログは興味を持たれなくなってしまうのと同じように、継続的に情報をサポートして盛り上げることが必要ではないかと思っています。
『マグネシウム文明論』に関しては、WordPress(ブログ作成ソフト)でサイトをつくりました(http://www.mgciv.com/blog/)。単に書籍の情報だけではなくて、マグネシウム研究に関するQ&AをTwitterやメールで受け付けて、教授自身が質問に答えるということをやっています。

そしてもう1つ、同じサイトの英語版もつくったんですよ。英語でも同じ内容が全部見られるようになっていて、英語でも質問も受け付けています。そうすることで海外からの注目を集めたいというのがあって、手作業で翻訳してつくっているんですけど、既に問い合わせがあったんですね。海外から「この研究はこういうことに応用できないか」という質問があったり。だから、単純に本の出版のことだけではなくて、先生の研究自体を広めたいという気持ちも大きいです。

とにかく、紙の本をつくっておしまいではなくて、コンテンツを商品として出したら、その後のフォローアップもしていく流れをつくらないといけないと思っています。

沢辺 おっしゃるとおりだと思うのですが、例えば、今、日本の編集者の平均の月産タイトルは約1冊ですよね。その中で、山路さんが『マグネシウム文明論』でやっているようなフォローアップはどこまでできるでしょうか。

山路 すべての本について同じことができるとは私も思わないし、力の入れかたも緩急をつけないといけないと思います。ただ、1冊に1つサイトを立ち上げるところまでいかなくても、シリーズものであったらシリーズもののサイトとしてフォローアップする程度のフォローアップは必要だと思います。

あと、書評は追跡して、それに関してはTwitterでつぶやき、「書評ありがとうございます」と言うぐらい、どんなに忙しい編集者だってできるわけですよ。そうやって読者と共有できる場をつくることは、多分、どんなに忙しい人でもできる。

沢辺 僕は「どんなに忙しい人だってできるとは思えない」という考えです。だからといって、そういうことをやるべきではないとか、やらないほうがいいんというわけでは全くなく、むしろ集客でいえば何十人規模のリアルな場でのイベントを積極的にやっていこうと思います。イベントをやればTwitterやウェブサイトで書けますからね。どこで何をやったとか、来た人がこういうことを言っていたということがなく、ただ本のことを書いていても興味は持ってくれないですからね。

その意味では山路さんが言うようなプロモーションをもっとちゃんとやっていこうと考えています。ネットは新聞広告などと比べて、圧倒的にコストがかからなくなっていますから、小さな出版社でも大きなところと同じようにアプローチできるという意味では、自由な道具ができたと思っていはいます。ただ悩みは、それをやるのも結局人的コストなので。

山路 でも、それは今後の出版社のかたちにかかわってくると思います。出版社が今後、今と同じようなかたちで存続していくとはとても思えないんですよ。

将来の出版において、現状の出版社の「紙の流通に流すための窓口」としての役割は要らなくなりますよね。そこで出版社が何をやるかといったら、先ほど沢辺さんはプロモーションにリソースは割けないとおっしゃいましたけど、そのプロモーションをやることで生き残ればいいと思うのですが。

沢辺 いや、ごめん。リソースがないという意味ではなくて、山路さんがいうことは「その程度ならできるでしょう」というレベルではできないと思うのです。ちゃんとプロモーションやるための思考の改革が必要だし、今編集者がやっている素読みやファクトチェックといった日常的な労働の見直しとセットにしないと。

山路 もちろん、もちろんです。それも含めての話ですよ。

沢辺 ところが、そういうことを変えよう、見直そう、というところに視点を持っている人はあまり多くないと感じているんです。

山路 でも、変わろうと思うか思わないかにかかわらず、多くの出版社に勤めている編集者はおそらく食えなくなります。

独立して著者的な役割をしたり、著者とチームを組んでプロモーションの役割を持ったりする必要がある。「出版社に勤めてないとできない仕事」、学術書や、スパンが長く書かれるもの、雑誌的なものは、多分、個人の集まりでは難しいですから依然として残るでしょう。しかし現在の編集者の多くは、今の仕事を続けて食えるとは思えません。
沢辺 山路さんの言っていることはすべて正論だと思うし、僕も同意する部分があるから電子書籍にチャレンジしたりしているつもり。だけど、いま山路さんがしたような話になると、つい否定的な立場に立っちゃうんだよね。

特に書き手を中心に「出版社不要論」を言うけれど、書き手そのものも同じ競争原理にさらされるわけですよね。
いま進んでいるのは小林弘人さんの言う「誰でもメディア」化で、例えば「電波の免許がないと参入できない」という壁がどんどん壊れて、既得権がなくなっていっているわけですよね。極端にいえば、誰でもテレビ局になれる。出版社だったら「書店に配本できる」という既得権が壊れている。しかし放送局や出版社といった既得権者が稼げなくなるのと同じように、プロの書き手だって、今までは自費出版・ミニコミとの間にあったかなり深い川がなくなり、競争せざるを得ない世界になると僕は思ってるんですよ。

山路 私も、そう思いますよ。

沢辺 ということは、今、雑誌に400字8,000円で書いているライターがいたとしても、もっと安くても書きたい人がいっぱいいるから、どんどん下がっていくんですよ。

山路 だけど、マネタイズの方法も多様化しているので、個々人が探していかなきゃいけないと思いますよ。

例えば、本を出して講演につなげる人は、別に本の収入をあてにしてなかったりしますよね。極端に言えば原稿料は全部タダでもよくて、ちょっと高い金を出して名刺を刷っている感覚の人もいます。本を読者に売って金をもらうビジネス以外の食っていき方もさまざまあると思うんです。

沢辺 僕が言いたいのは、もちろん出版社も既得権が奪われるけど、それはライターも同じなんだということ。ところがライターの人たちは、どちらかというと、Amazonで3割とれる、いや7割とれるとか、そっちに行きがちで。「あんたたちの商売も、実はものすごく厳しいんですよ」と言いたい。

山路 それは間違いないですよ。紙の書籍なら刷り部数で印税がもらえても、電子書籍だと実売部数ですから、売れない本だと一銭も入らない。

沢辺 僕も、出版社が生き延びる必要はないと思うんです。結果的に生き延びられるところがあるとは思うけど。

もう1つ言いたいのは、複数の人間がチームワークでコンテンツをつくることは、ますます重要だということ。

山路 出版社は、ある意味プロジェクトチームの集まりになっていくとも思います。

●電子書籍でパンが食えるか

沢辺 そういうふうに考えると、山路さんはたまたま特殊に能力があるので、著者の本質をわかりやすい文章にすることから、文章の構造化、プロモーションまで一人でやってしまったけれど、そこまで縦横無尽にできる編集者はいないし著者もいないと僕は思っているんです。だから、今までの出版社は自覚的ではなかったかもしれないけど、プロモーションできる人と研究者と普通の人をつなげるような人が「編集者」になる。

山路 うまく絵が描ける人とかね。

沢辺 そうそう。本当にごくごく少数の人以外は、うまくチーム化した作業にはやっぱり勝てない。

山路 はい、私もそれは完全に同意ですよ。

沢辺 出版社という呼び方でなくても、コンテンツチームでも何でもいいんだけど、既存の出版社がチームを動かす役割をきちっと果たしていけるなら、結果的に生き延びるでしょう。

山路 僕も、電波権と同じように持っているだけで飯を食える状況ではなくなると言っているだけなので、同じですよね。

沢辺 そうそう。その中で山路さんは何をやりたいのかが聞きたい。

山路 自分が担うところは、恐らく著者、アイデアを持っている人と読者をうまくつなげるパイプなのかな、とは思っていますね。

沢辺 そうだね。僕も山路さんの仕事を見ていて、そこはすごくうまい人だと感じます。

山路 ありがとうございます。

沢辺 あえていやらしい言い方をすれば、研究者にはなりたくてもなれないわけですよ。

山路 もちろん(笑)。

沢辺 だけど、研究者は普通の人に通用する言葉で自らの研究の社会的な意味や技術的に優れている点を語り尽くせない人が多い。その研究者と読者の橋渡しができて、なおかつプロモーションもできるという山路さんの仕事はすごく重要だなって。

山路 そのチームの中に入るピースとして、もっと研鑽していかないといけないと思うんですけどね。

沢辺 でも、多くの編集者と決定的に違うのは、既に自分で電子書籍を出しているということですよ。

山路 はっきりいって誰でもできることです。

沢辺 だけど、現に周りを見渡して、その誰でもできることをやっている人はほとんどいない。

山路 いや、今は沢山のツールがあります。例えば、プロモーションサイトをつくるのに使ったWordPressにしても、オープンソースで無料ですよ。レンタルサーバーを借りていますけど、それも月額500円。子供にだって出せるお金です。WordPressの使い方だって、1冊の本をざっと読めば、誰にだって理解はできる。

沢辺 理解できないね。それはちょっと違うと思う。現に僕はWordPressでサイト作れない。まあ、胸を張ることじゃないけどさ(笑)。

山路 そんなに難しいものじゃないですって。WordPressでサイトを立ち上げるくらい、ネットで探せば「ごろごろいる」レベルで、特別なスキルではありません。

沢辺 僕の感覚では、プログラムに明るい人も、ある種普通の言葉が通用しない人がいると思っているんですよ。
僕が長い間一緒に仕事していて、版元ドットコムのシステムをつくっている日高だって、だいぶ柔らかくなったけど、やっぱりオタクの世界にいっちゃうこともある。PCオタク。

山路 ひとつのことに集中してやることも必要だと思うんです。直接多くの人に伝えられなくても、その人の言葉を解釈できる人に伝われば、その人が多くの人に伝えればいい。

沢辺 そうそう。だから、「あいつだけ」でも駄目だし、「俺だけ」でも駄目。ドラッカーが「組織社会になる」と言っているとおりになると思う。

山路 しかも、昔の組織のように上から「おまえはこの役目」といわれるのではなくて、恐らくそこにいるメンツがそれぞれ「この中で自分はこれができるかな」と考えながら有機的につながっていく組織になると思います。

沢辺 ここまでは何となく見えるけど、一番見えないのは、その組織をどうやってパンを買う金に換えるのか、というところ。例えば、あまり大きな声でいいたくないけど、1月15日に「理想書店」(http://www.dotbook.jp/store/)から2冊の電子書籍を出して、片方は無料で280ダウンロードくらい、有料のほうは10本しか買われなかった。値段が950円と高かったという問題もあるのかもしれないけど。
山路 電子書店で売る場合、電子書店に並べるだけでは駄目で、その外でのプロモーションや、電子書店へのトラフィックをつくないといけないでしょうね。そのためのプロモーションの機能も、チームに必要なことだと思いますよ。イベントをやったら、その参加者を理想書店の本棚のところまで道筋をつけて引っ張ってくる行為が必要です。

沢辺 理想書店個別の露出度の弱さもあると思いますが、今のところ、電子書籍そのものの露出がまだまだで、紙の本、Amazonには圧倒的に敵わないですよね。だから、電子書籍市場を育てることも必要でね。みんながAmazonに行ってしまうのもどうかと。

山路 Googleで本のタイトルを検索すると、大抵はAmazonが1番ですよね。だから、単純にSEOをやるだけでなく、イベントと絡めて大きな話題をつくることも含めて、新しい出版社の仕事の1つになってくると思います。ある意味、ネット広告代理店の役割を果たさなくてはいけなくなる。

●2010年代のライフスタイル

沢辺 それから、電子書籍のコンテンツの絶対量が増えるとか、ビュワーが進化してもっと読みやすくなることも必要ですよね。

来週アップルのタブレットが発表されるという噂があって、すごく楽しみにしているんですよ(2010年1月19日収録時。アップルのタブレット型パソコンiPadは1月27日に発表された)。iPhoneのときがそうだったけど、発売直後に1日でも早く欲しいと思ってる。最近こんなふうに思う製品は珍しい。

山路 それはありますね。昔は新しいものが出るとちょこちょこ買っていたのですが、最近は本当に、本ぐらいしか買わなくなりました。あとはiTunesストアで音楽を買ったり、アプリを買ったりで、物は買ってない。いろんなものが欲しいという欲求がなくなったかもしれません。
電子レンジはあるし、生活に生きていくものはあるんだから。

沢辺 みんな内需拡大とか、日本は貧乏だから消費が伸びないとか言うけど、「買うものがない」という理由も大きいと思いますよ。

山路 最近読んだ『経験経済』(B・J・パインII&J・H・ギルモア著、岡本慶一&小高尚子訳、ダイヤモンド社、2005年)という本は、クリーニング屋のようなサービス産業はどんどんコモディティになっていき、その次にくるのは経験を売ることだ、ということを説いた本でした。つまり、旅行に行って単にホテルや交通機関のサービスを提供するのではなく、素晴らしい経験を売ることがこれからの産業の主力になってくる、ということです。素晴らしい経験こそが大切な意味を持つ。多分、アップルはそういうところを突いているんだと思います。iPhoneや、iPod。iPodが出た時だって、「自分の部屋でずっと聞いているライブラリーを全部持ち出せて聞ける」という、製品というよりは経験を売っていた。そういう変化が起こっているということだと思いますけどね。

沢辺 僕も電子書籍に関していうと、沢山の本が小さなデバイスの中に詰まっていて、飲み屋でお姉ちゃんとおしゃべりしながら、「この間読んだ宮部みゆきの『英雄の書』(毎日新聞社、2009年)、ファンタジーみたいでなめてたら、最後のセリフがむちゃくちゃよかったんだよ。ほらこれ」って実物を見せられたらうれしいな、ということですよ。今は「最後のせりふが良かったんだよ。何だっけな」となっちゃうけど。

山路 最初に使う目的がキャバクラなんですね(笑)。でも、そういう新しい経験をさせてくれそうな気がするから、わくわくするんですよね。

沢辺 山路さんが目をつけている「環境」も、広い意味での経験のために割高な買い物をしてますもんね。安い電球なら100円で買えるのに1,200円ぐらいする蛍光灯にしたほうがいいと思って高いものを買ったり。

山路 そうですね。電気代が安くなるという理由だけではなく、ムーブメントに参加している喜びもあると思います。

沢辺 500円ジーパンも、生活に困って500円のジーパンしか買えないのではなくて、「ジーパンを500円で買う」ということがウケているという感じがします。ある種ゲーム的なね。

山路 100円ショップの社長がまさに同じことを言っていました。「これだけのものが100円で買えるのかという驚きを提供するのがうちの商売なんです」と。なるほどと思いましたよ。

沢辺 でも、それはもたないよね。「話題だから試しに買いにきました」なんて言ってる500円ジーパンのお客さんが、うちに帰ったら着れる洋服を捨てているわけでしょう。

山路 そこも難しいですよね。これは単純にものを買う話ではなくて、いろんな衣装を取っ換え引っ換え着たい人にとって、クローゼットのために部屋を用意しておくのか、あるいは500円で服を買ってきて使い捨てるのか、どっちが得かという話です。もしかしたら、使い捨てで服を買ったほうが安上がりになる人もいるかもしれない。だから、安い商品というより、高い付加価値を付けるものを見つけられないことが問題なのかと思います。
値段だけで言えば、もう限りなく安くなっている。それはデフレじゃなくて、自動でつくれるようになっているからで、その流れは止まらないでしょう。それより、「このジーパンは遠い国の貧しい人がつくりました」というような物語を付けてないと売れない。

沢辺 500円じゃなきゃ、着るものがなくて困る社会じゃないですからね。
若いやつはまだ貯金がないから「安い」も大切だと思うけど。でも、俺の使っている電子レンジは、もう15年使っているわけですよね。買った当時は何万円かしたけども、15年で割れば、1日当たり何十円という世界になってる。
でも、若いやつらはこれから買わなきゃいけないから、初期投資が掛かっちゃう。現に品物が良くなったから、10何年平気で持ったりして買い換える意欲もないわけですよね(笑)。壊れるまでいいやと。だから、生産の過剰でデフレが起こっているというよりも、僕たちそんなに欲しいものがないって感じがする。

でも、お金に余裕があるから本屋に行って無駄遣いをするかというと、そういう無駄遣いも嫌だから、図書館で借りられるなら借りるという合理的な行動を思わず取っちゃう。

結局一種のゲームみたいに、図書館で借りて得した私がうれしいとか、話題の500円ジーパンを買えたのがうれしい、ということなんじゃないかな。ジーパン1本を持てないわけはないんだもん。

山路 それに、ジーパンの原価自体もともとそんなに高いわけじゃなかったというのも、あるとは思いますね。今までは、「リーバイス」のようなブランドを付けて、原価は数百円のものを数千円で売っていたわけですが、今はブランドという物語を面白いと思わなくなったのではないでしょうか。それよりも、すごく安いものを買えるゲームに参加するほうに価値を見いだすようになったのかなとも思うんですけどね。

沢辺 ありがとうございました。すごく面白かったです。いろいろ考えているし、適切ですよね。

山路 誰の言葉だったか、「フリーランスは、存在をみんなが忘れたら死ぬ」そうです(笑)。試行錯誤をやって、ちゃんと動いたことを人に見せていれば、その関係性の中で生き延びることができるみたいなところがあります。そうやって生き延びながら、ちゃんと金につなげていかないといけないですね。

沢辺 でも、金はあとからついてくるような気もします。最終的には、飢えなきゃいいわけで、それよりもAppストアで『弾言』『決弾』を売ることに価値を置きたいですよ。(了)

2010-02-26

談話室沢辺 ゲスト:竹田青嗣 第1回 「自由と労働」

●労働、仕事、活動に分類される人間の行為

沢辺 今回のテーマは「労働」です。竹田さんは、人間の社会の大きな流れが経済ゲームから文化ゲームへと変わっていくと言われています。僕は「労働」というものも、やがて文化ゲームと混じっていって、生きるためにするのか、楽しむためにするのか、その境目が溶けていく性質を持っている気がするんです。そこでまず、そもそも「労働」とは哲学的に言うとどういう性質のものなのでしょうか?

竹田 哲学的には、人間の活動を「労働」と「文化」と分けるのがわかりやすいです。これを私はハンナ・アレント(Hannah Arendt,1906-1975)から受け取って、なるほど、と思いました。

有名ですが、アレントは人間の行為を<労働>、<仕事>、<活動>の三つに区分しました。<労働>は人間が共同体をつくって生きていく上で絶対的に必要なもので、もし<労働>がなければ人間は滅びてしまう。しかしアレントの図式では、<労働>の必要が大きくなればなるほど人間の生の条件としては悪くなる。アレントが言う人間の条件の基本は「自由」であり<活動>がこれを担います。<労働>は自由と背反的なものです。

アレントのいう人間の生の条件はギリシアの自由ポリスをモチーフにしていますが、自由ポリスでは、市民は奴隷労働の上で何もせず遊んでいるわけです。市民は労働をしないので、自由がある。その自由があることによって、言論活動を行ない、「人間の自由は、言論活動のなかではじめて成立している」というのがアレントのイメージです。

奴隷労働の上に乗っかった自由な活動を称揚してもいいのか、という問題は残ります。しかし直感的に言って、本当に人間の自由が沸き立つための条件としては、<労働>はなるべく少ないほうがよい。もちろん、アレントのイメージひとつの概念の提示で、労働にもいろんなよい面がある。ヘーゲルやマルクスはむしろよい面を取り出そうとしています。

ヘーゲルは、労働によって人間の内的本質が外化して、形になった労働が営みになる事によって、はじめて人間の精神の本質が相互に交換可能なものになる、と言います。自由は内面として持たれているだけではなく、表現という形をとり、人間の営みの基本構造は、人間がものをつくることのなかにある、というのがヘーゲルの言い方です。有名な主奴論で、ヘーゲルは一見自由である主より、むしろ奴のほうに真の人間的自由の可能性があると言います。奴のほうが、労働、奉仕、耐えることを知り、そのことで、自然を自己化する方法をつかむからです。これは抽象的に思えるかれしれないが、かなり深い本質観取です。人間がもし労働と奉仕と忍耐を知らずにすべてを与えられて育ったら、自由の何たるか、いかにしてそれを育てつかむかをまったく知らない、わがまま息子やタカビーお嬢さまになるほかない(笑い)。

ともあれ、アレントは、そういう場面はすてて、人間の生の自由の条件を考えるために、<労働>、<仕事>、<活動>とという大きな枠組みを立てました。これはなかなかよい分け方だということがすぐ分かってくる。<労働>というのは、社会の人々の生活を支える基本要素で、それがないと社会それ自体が成り立たないものです。<労働>の条件が悪くなると財が希少性に陥るので、闘争になってしまう。したがって、<労働>の安定したシステムは、社会がなんとか戦いの契機を排除して成立しているための基本要素です。

ところが、<労働>だけだと自由がありません。そこでアレントは、単に人間を養うだけの<労働>から、人間的な自由を少しずつあげていくための工夫として<仕事>がでてきた、という言い方をしています。人間的生活を作り上げていくために、日々の<労働>の中のさまざまな工夫が、時間的にたまったものが<仕事>として成り立っていく。そして、その一番上位にあるのが、<活動>で、イメージとしては、<労働>と<仕事>という土台の上に、<活動>という人間の自由な表現活動がある。

自由ポリスは何をしていたかというと、おもに政治をしていました。政治には、自分たちの国をどうやって上手に守るか、そして、社会のなかで出てきた問題や矛盾をどう上手に調停するか、というふたつの課題があります。それを戦いによって決めるのではなく、説き伏せたり、納得したり、そういうやり方で決める場所が自由ポリスにはあった。そこで、ギリシアでは自由の領域と<労働>と<仕事>の領域ははっきり分かれていました。しかし、近代になると、はっきりとした文化が消えてしまって、<労働>の論理にすべてが覆われてしまった、というのがアレントの近代批判の大枠です。

そこでアレントの言い方を受け取って元の問題に戻ると、人間性の本質は自由の相互的な表現にあり、これは私の考えでは、ヘーゲルの「事そのもの」の考えと深く通じるところがあり、ヘーゲル的には、自由な精神の相互承認的な表現ゲームだと言えます。自由の相互承認の表現ゲームを「文化」という言葉で規定すると、<労働>はその対極にあるもので、できれば<労働>を減らしていったほうがいい、という枠組みになります。人間が<労働>の必要にしばられていればいるほど、人間的自由の余地がどんどん小さくなり、<労働>によって希少性を解決できなくなると、普遍闘争に陥る。

哲学的には、この構図がもつ原理は非常に正しいと言えます。したがって、近代社会の人間の課題を、大きなスパンでいうと、どうやって人間における必要<労働>の要素を少しずつ小さくしていくか、です。もちろん<労働>の要素を小さくすれば文化の要素が自動的に大きくなるわけではない。そこで、文化の要素をどうするかを考えないといけない。ともあれ、近代以前はどんな時代でも、ほぼ15%が支配階級で、85%が被支配階級だった。それがかなり支配社会の普遍的構造です。それで85%の人間は、ほとんどただ<労働>だけしていた。必要<労働>にしばりつけられていた。共同体の役割というのは、<労働>を上手にシステム化して整備すること。それがうまくいかないと、希少性が生じて、戦いが起こる。これがホッブズの普遍闘争原理の意味です。

沢辺 最初に僕が言った「労働」というのは、<労働>と<仕事>の区別はついていなかったのですが、いまお話を伺っていると、アレントはふたつを整理して分けていたんだ、ということですか?

竹田 その通りです。<仕事>の中には自由の要素があって、生命維持のためだけでなく、人々の生活のために役立つ便利さや楽しさをも作り出します。そして<仕事>よりももっと上位の人間的活動が「活動」です。

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●近代社会における労働から仕事への展開

沢辺 こう理解していいですか? たとえばアメリカの奴隷時代、奴隷が綿花を摘んでいた。そこには移動の自由もないし、朝から晩まで働くだけ。ということは<労働>にしかならない。

しかし、綿花を摘むこと自体が嫌なことか、というとそうではなくて、「こういう摘みかたをすると5倍早くつめるよ」と誰かが思いついて、それに対して「すごいね、俺もやろう」と他者からの承認も生まれると、それが喜びになって、だんだんその綿花摘みの労働に仕事的な要素が増えてくる。

人間の近代の自由を前提にすれば、やらなければならないという意味での<労働>の要素をできるだけ減らしたり、まわりからの承認の要素を増やしていくことによって、<労働>が<仕事>に変化していくものだ、ということでしょうか?

竹田 奴隷の状態を考えると、奴隷が仕事の効率をあげる動機がありません。共同体があって、みんなで共同労働をしているのであれば、よい摘み方の工夫は<仕事>になりうる。その人は承認されるし、共同体全体が生産性を上げ、一緒に働いている人の<労働>を削減することになるし、それは大きなメリットです。

しかし、奴隷は共同体の一員というより、<労働>のための道具です。変に効率的なことをすると、もっともっと効率を、となる可能性もある。がんばったからと言って人間的承認があるわけではない。つまり、<労働>が<仕事>へと展開していくには、そのことが共同体全体にとってプラスであるような一定の自由の要素がなければいけない。はじめから<労働>にしばりつけられている場面では、少しずつよくしようとする動機が出てこないわけです。

例えばギルドのようなシステムでは、お互いに生産性を上げ合うというより、むしろ地位を守り合うことのほうが大事な要素です。新しい効率的な発明が出てくると、それまでの安定した体制を危うくしてしまう要素になる。ギルドはそうならないように職能を協同的に守るものです。もちろん、その中でも一緒に働いている人の<労働>を楽にする多少の工夫はありましたが、職能共同体自身をゆるがす工夫はそれほど必要とはされなかったはずです。つまり、アレントの言うような<仕事>が本質的に展開するためには、社会システム自体が多少自由になっていないといけない、という条件があるわけです。

役割関係や階層関係が固定しているところでは、<労働>が<仕事>の喜びになるのは、非常に限定された形でしか起こらないでしょう。アレントも、「近代が進展していくなかでさまざまな仕事が起こってきた」と言っていて、<労働>が<仕事>になるのは、それがみんなとシェアでき、みんなの生活を豊かにするという前提の上でなんですね。

ところが、アレントによると、近代が進むと、<労働>の論理が普遍化されるので、<仕事>をしてもそれ自体がお互いの競争になる。つまり、ひとつよい<仕事>があると、すぐ他の人間がその真似をする。そうするとあとは能率を上げてゆく競争がはげしくなって、全体としては結局<労働>の論理がひたすら強化されていく、いうことになり、それが自由には展開していかない。それが近代だ、と。それはある意味当たっています。
近代社会というのは、ピラミッド型だった社会を各人が対等な丸い形にして、固定的な階層関係、役割関係を解体した。そのことで、人間の<労働>が効率だけでなく創意や工夫を取り入れ、<仕事>になっていく可能性を持ったわけです。その点では近代社会は評価できるのだけど、一方で近代社会競争による経済なので、誰かが効率をあげると、もう一方もそれに追いつかないと没落していく。だからだれもが負けないように効率をたえず上げつづけないといけない。そのために、<労働>が自由を含んだ<仕事>に転化するや否や、あらゆる工夫が、単に新しい質の<労働>になってしまう。すると、絶えず<労働>の効率化が行われるだけで、結局、そこでは人間の自由の要素は死んでしまうわけです。

エンゲルスが描いたイギリスの労働者の状態を見ると、技術力と生産力はどんどん上がっていくけれどもそれが労働者の労働の強度をますます上げるようなシステムになっていることがよく分かる。何かを発明した人には特許などで儲けが返ってくるけれど、<労働>の絶対的な効率競争になってしまい、すべての人間が労働時間の下に従属させられる。そうなると、自由の条件を含む<仕事>の余地がどんどん小さくなってゆくわけ。またひとつの社会がそうそう労働効率社会になると、国家間では競合が激しいので、どの国もまったくおなじ状態になる。どの国もいかに早く資本を蓄積するか、いかに効率的にそれをできるかという話になる。本来、<労働>の中で常に新しい工夫を見出すことは、発見のエロスと、見出したことよって生産性が上がり、人間の生活に資するはずというふたつの意味を持っていた。ところが、それは最終的には合理性追求の果てない競合の運動のなかに巻き込まれ、なんのために<労働>の工夫があるのかわからなくなる。それが近代社会の<労働>の状態です。

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●競争原理に打ち消された人間の自由

沢辺 ミクロ的に見ると、例えば昔だったら著者にゲラを手渡ししていたものが、いまは宅急便やメールになって、移動にかかっていた時間は確実に減っている。けれども、トータルな労働時間が減っているかというと、新たなサービスや新たな労働が増えたので、結果的には全然減っていない、というようなことでしょうか?

竹田 生産性を上げるための一切の工夫や創意は、結局、競争の原理が強く働いている限り、決して人間の生活に余裕をもたらさない、というのが、20世紀における先進国の一つの大きな経験だと言えますね。二十世紀後半、つまり大戦後から20年ほどは、先進国は例外なく7%前後経済成長をしていた。これは10年たつと豊かさが倍近くになるということです。ところが実際人間の生活はどうかと言うと、たしかに客観的な数値としては一定の豊かさを達成したことは認めなくてはいけない。しかし、人間の心意としては、ほんとうに高度成長によって多くの人間が未来に希望を描けたのは、おそらく1970年代までで、そのあとはもう社会の先行きの見通しはどんどん閉塞していった。いまは世界的に、すべての先進国が高度成長を続けるような可能性は、どこにもない。その理由はちょっとあとで言うけれど、ここではふたつのことがある。ひとつは、生活の豊かさの感覚は、「社会がこういう風によくなっていく」という持続的成長のビジョンのもとでだけ可能であるということ。もう一つは、豊かさの感度は、常に相対的なものだということ。つまり、たとえば40年前とくらべると、人びとの所得はたしかに倍増以上になっているし、また当時は考えられなかった週休二日制がほぼ実現している。しかし、それを“豊かになった”と感じるのは、一定の世代だけで、今の若い人にとっては、もうそんな感度はまったくない。わたしはそれを、欲望の底板の不可逆性と言っているんだけど、豊かさの感覚は、生活条件のたえざる上昇ということ、それが持続的に続くという展望、という二つの条件を必要とするわけです。いま先進国の所得は貧しい国の数十倍もある。しかし、われわれはそれを比較して見るとき以外は、生活の豊かさというものをほとんど感じてはいない。可能性ということが大事なんです。

沢辺 主婦労働は便利さが楽につながっていない典型ですよね。掃除機も洗濯機もできて、機械化によって圧倒的に効率的になったはずなのに、主婦の労働は楽になっていない。これを調査した社会学者がいるんですが、昔だったらお茶わんなんてお茶ですすぐだけで、洗剤をつけて洗ったりしなかった、と。洗濯だって、いまは毎日洗ってますが、僕が子供の頃は、上の服なら三日は着てた。だから、確かに生活全般はより清潔になっているけど、主婦労働は一向に楽になっていない、ということですよね。

竹田 考えなくてはいけないのは、いつも言っていることですが、近代は人権の確保という点で「自由」を解放したいっぽうで、社会の全体が、経済競争の論理を強めてきた。生産性はぎりぎりまで追求されてどんどん上がってきたけれど、そこで、格差、負け組感覚、余裕のなさ、希望のなさというものが、じわじわ大きくなっていると多くの人が感じている。つまり、万人の生活に余裕を与えるという近代社会の本義は、競争原理によって打ち消されてしまって、昔より悪くなったとまでは言えないとしても、少しずつ進んでいるという感覚はまったく存在しない。

競争の原理が強く働いているかぎり、国家どうしは、生産性の効率を上げることに必死にならざるをえない。つまり、国家どうしの競争原理をどう緩和してゆくかという工夫がない限り、資本主義はどこまでいっても<仕事>や<活動>の領域は拡大せず、人間はどこまでいっても必要<労働>にしばりつけられ、そこから出ることができない。近代社会の意義の中心をもう一度はっきり自覚しなければならない、というのが私の言いたいところです。

もちろん近代社会にはいくつか大きな課題があって、ひとつは国家間の普遍闘争です。近代国民社会は国家の内側については、徐々に各人が権限を委譲しあう人民主権を打ち立てましたが、国家どうしではそのまったく原理が働いていない。ゆえに近代社会は国家間の普遍闘争を抑制する方法をはじめから持っていなかったのだければ、それでも先進国どうしの普遍闘争は第二次大戦で実質的には終わりました。東西対立は潜在的に続いたけれど、それも現在は終焉して、いまのところ先進国どうしでは戦争をする理由はなくなってしまった。

しかし、代わりに経済競争が残っています。過剰な経済競争をどう制御するかという次の課題をはっきり自覚しない限り、近代の理念である「人間の自由」は実現しない。戦争についていうと、国民国家が戦争共同体として武力的な競合関係にあるあいだは、大衆消費はありませんでした。どんな国家も飛躍的に増加した生産力のほとんどを軍備に費やさねばならなかったからですね。たとえば、列強国どうしで、軍艦の持ち分について条約をつくったりしている。ともあれ、その後、第1次大戦が終わったときに、これに参加しなかったアメリカで消費社会が現われてきた。軍備に膨大な予算をまわさなければ、一般福祉に回るという象徴的な例です。

第2次大戦以降、アメリカはむしろ自由国家を請け負って、ソビエトと軍備競争をやったけれど、それでも実際に戦力を使うことはなく、もっと本格的な大衆消費状況がアメリカで起こり、その状況は先進国にも広がっていった。敗戦国の日本ですら、戦後10%を超えるような高度成長をみたわけです。これは、近代社会の本義からいうと、まず大きな一歩だと言える。ほとんどの一般大衆が労働だけで生きるのではなく、「消費」し、享受できるようになったわけ。

次に起こった大きなエポックは週休二日制。これはドイツから始まって先進国で広まっていった。理由は第二次大戦後、日本やドイツ、イタリアも含めて進んだ国がどこも民主国家になったからです。民主国家になると、戦争もう難しくなる。もちろん専制的国家で好戦的な国がある限り、民主国家も対抗上戦争する。民主国家では基本戦争の決定はきわめて難しくなる。

それからまた、先進国が民主化していくと、はじめは支配階級、富裕層を代表していた政治権力は、必然的に中間層、中産階級の意向を受け取らざるを得なくなってくる。要するに、「一般福祉」をそれなりに配慮しなければ、政治権力として支持されなくなってくる。つまりどんな国家も社民化してくるわけです。これは必然で、20年くらい前からヨーロッパがどんどん社民化し、一般福祉が上がり、週休二日制という労働時間の短縮もその結果の一つですね。つまり、大衆消費状況と労働時間の短縮のふたつは、近代市民国家にとってそれが前進しているかいなかの大きな指標です。

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●資本主義の限界

竹田 しかしそのあと何が起こったかというと、1980年代ほどから、先進国の経済成長が落ち込んできた。戦後、ほとんどの先進国が大きな成長を続けてきた理由は、十九世紀から二十世紀にかけて資本主義の弾み車=モーメントがあって、それは石油の発見と、電気その他科学技術の大きな革命があったからだと思います。でも、その弾み車もいま使い切って、もう先進国が、大戦後の20年のような経済成長を続ける要素はなくなってしまった。これは、おそらく新しいエネルギーの発見と大きな技術革命が起こらないと、世界規模で資本主義の回転がどんどん大きくなるということは難しいわけ。こさまでの感覚は、自由競争をどんどん活性化して、資本の回転を高めれば、生産力はますます上がり、経済成長も続くだろうとという感覚があった。格差は、ケインズ的方式で適度に再配分をやっていれば、結局は、人びとの一般福祉も持続的に上がっていくだろうと考えていた。しかしこのパースペクティブはもうありえない。
それから、二番目三番目の中進国であり、人口巨大国である中国とインドが、先進国に変わって新しい要因で経済成長を上げていることは、また大量生産と大量消費という資本主義の宿命的な弱点を大規模な形で浮上させた。さらに、人口爆発が、さっきいったように貧しい国の統治の不安定と先進国の食料生産の技術という要素で続いている。簡単にいえば、中国がもし日本なみの生活水準に達したら、このままの成長率でいくとあと20年ほどでそれに近づくが、資源的に、地球がもう一つ必要になるという試算がある。中国だけの話です。つまり、資本主義が大量生産、大量消費を続ければ、もう間もなく先に絶対的希少性の問題が現われる。それはここ3、40年の話です。希少性が現われると、現在人類は核をもっているので、カタストロフィ的戦争になる可能性が非常に高い。これが現在の資本主義の進んでいる水路です。タイタニック状況です。

さっき言ったけれど、資本主義はいろいろ弱点もあるが、基本の最大の意義は、普遍消費を拡大し、人間の自由の条件を少しずつ上げてゆく点にある。必要<労働>」の契機を縮減して<活動>の領域を拡大する。それが人間の自由の基礎条件だというのがアレントの展望ですね。たしかに二十世紀の資本主義は、紆余曲折をへながらも少しずつはその道すじを進んできた。ところがいま人類がぶつかっているのは、ここままの進み方で普遍消費が進めば地球がパンクするという破局的事態です。いま資本主義が進んでいるコースをはっきり変えるほかはない。哲学的なスパンではそのことがはっきり言える。

沢辺 いまのところでいうと、資本主義が石油などのエネルギーという弾み車を使いながら成長してこれたことで、多くの普通の人の消費と自由が拡大してきた、ということですよね。でも僕はいまの日本の状況を見ると、日本の民衆の消費のスポンジは、もうすでにたっぷんたっぷんなんじゃないかと思います。

竹田 そのとおりで、考え方として、成長を回復することで矛盾を解決するという発想はもう効かなくなってきた、むしろ偏りや格差を上手に調整するという方向で考えるほかはない。それから、一般民衆が十分な消費をもてるようになったのは先進国だけで、そのあいだに、貧しい国の人たちの生活がますますきつくなってきた。注意すべきはその大きな原因として、この四十年のあいだにまずしい国で人口が爆発した。また、その増大した人口を養ってきたのは明らかに先進国の技術力です。先進国の生産性と技術力が爆発的に増大したことが、逆に、世界の人口爆発をささえてきたわけです。その結果、惨めな状態の国の人口が、また急激に増えてきたんですね。

次回へ続く

第2回「資本主義と国家の市民的制御」

プロフィール

竹田青嗣(たけだ・せいじ)
1947年大阪生まれ。哲学者、文芸評論家。
早稲田大学政治経済学部卒業。現在、早稲田大学国際教養学部教授。

『低炭素革命と地球の未来』発売中

『低炭素革命と地球の未来』─環境、資源、そして格差の問題に立ち向かう哲学と行動
著●竹田青嗣、橋爪大三郎
定価1800+税
ISBN978-4-7808-0134-7 C0036
B6判 / 192ページ /並製
[2009年09月刊行]
目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。

2010-02-12

談話室沢辺 ゲスト:小浜逸郎 第2回「日本人と死」

●西洋における死、日本人における死

沢辺 改めてもう一回、小浜さんが自殺も含めて死というものについて、どう考えているか聞かせてくれませんか。
もう一回そこをちゃんと押さえておいたほうがいいと思うんです。
「人間学アカデミー」第7期での、山折哲雄さんの講義が、僕にはすごくインパクトが大きかった。それは、あまりにも死が悪いことになった社会、死を悪いことにし過ぎちゃっているな、という問題意識がでした。
この前忌野清志郎も死んで、芸能人で有名な人も死んでいるんだけど、いいじゃん、って。

小浜 死というものに対しては、いろんな側面からいえると思いますが、日本人の国民性という側面からすれば、日本人は生きるということに対して、そんなに貪欲じゃないですよね。

日本には「武士道」や「葉隠(はがくれ)」のような、死に直面したときの態度を絶えず準備しておく考え方がありますよね。また西行の有名な歌に「願わくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」なんてのがあって、この歌は時代を超えてすごく愛唱されてきたわけですが、ここに、日本人の、死に対する淡々とした覚悟のようなものがよく表わされていると思います。
命というものに対して、西洋人ほど、どうしても生き延びたいというものでもなく、比較的、生と死の境目を絶対的には考えない伝統がまだ残ってるんじゃないかという感じがするんです。

敗戦のように、とんでもないことに直面すると、なんにせよ生き残って、もう一回社会を立て直さなきゃいかん、という気分が盛り上がるのは全世界共通だと思うんですが、今の日本は、格差だ、ニートだ、フリーターだ、非正社員だなんだといろいろ言われてはいても、絶えず外部との緊張のなかで生き延びていかなければならない、という緊張感があるわけではなく、むしろなんとなくうっすらとしたニヒリズムみたいなものに支配されてると思うんですよ。

そういう空気が、仮にあるとすると、日本人は小さなことでも、ちょっと指で突いただけで、生と死の境を越えちゃう、そういうふうになりやすい民族なんじゃないかなっていう感じがあります。

それはたとえば日本に仏教がなじんで、キリスト教がなじまないっていうことでもわかります。
キリスト教、プラトニズムは、魂の不死とか、永遠の生命とかね、そういうことを臆面もなく言うじゃないですか。
でも仏教はそうじゃない。輪廻転生の教えというか、観念がありますけど、あれは誤解している人が多い。
実は、輪廻転生というのは、仏教の理想にとってはよくない状態なんです。魂が身体から離れても、いつまでたっても成仏しないでいろんなところに漂っていて、別の肉体にとり憑いてしまうわけだから。

魂魄(こんぱく)っていいますよね。魄が身体です。魄が滅ぶと同時に魂も滅びて終わり、というのが涅槃の境地で、つまり煩悩を全部なくしてしまう、解脱してしまうというのが仏教の理想なわけだから、他の肉体に宿ったらまたその動物に特有の煩悩が出て来てしまうわけです(笑)。

それが日本の国民性になじんだ。元々は自然から生まれ、自然にはみんなアニマ(anima/霊魂)が宿っている、という考え。一種の多神教ですね。そしてやがて自分は死んで、自然の懐に抱かれて帰っていく、と。自然崇拝です。「人間到る所、青山あり」なんてことわざがあるのも,日本独特ですよね。
西洋人みたいに、自然と対立して、いろいろな暴威を力でねじ伏せて克服し、人間のためのものに変えてしまうなんてことは、日本人は得意でない。

よく言われることですが、日本の自然は四季がはっきりしていて、台風がきて、人智を越えた自然の力でねじ伏せられたかと思うと、今度はパッと変わって、海の幸山の幸の恵を与えてくれる。そういう自然に対する親しみを持っていて、今でもそれはそんなに失われていないと思うんです。

だから、日本人は、西洋人ほど「生きたいんだ!」とは考えていなくて、ずっと理想として静かに死の世界にソフトランディングしていくみたいなイメージを、持ってるところがあると思うんです。
事実、人間は、いきなり死ぬのではなく、だんだん死んでいきますよね。

沢辺 だんだん死んでいくというのは?

小浜 医学的には、ここに境目があって、こっち側は生きていて、こっち側は死んでいると決めていますよね。
でも、それだって、ちょっと不安定で動きます。脳死の問題が出てくると、どこからが死か、という議論が出て来る。
だけど、脳死で臓器移植するのが許されるのかという議論は、アングロサクソンや欧米では起こらない。もう死んだのだから、当然だと考えます。
脳死の議論がこんなに騒がれるのは日本ぐらいです。つまり、脳死を死として認めてよいのか、という議論は、日本特有じゃないかと思います。
日本では、その生から死に移っていくグラデーションを、家族や身近な人たちがすごく大事にします。本人はもう解んなくなっちゃってるかもしれないけれども。
たとえば沢辺さんが死ぬとき、脳死状態でも人工呼吸器が動いている間はあったかいじゃないですか。そしたら奥さんは、「まだ父ちゃん死んでないわよ」って言いますよね。「これは脳死状態なんです」と医者が言っても、すごく抵抗感があると思うんですよ。だから災害や戦争で死んじゃった人たちの遺体をものすごく大事にする。
キリスト教はそうではありません。たとえば、ローマの骸骨寺に行ったことはありますか?

沢辺 いえ、ありません。どういうところなんですか?

小浜 それは要するに、ローマ・カトリックの納骨堂なんですけど、一人一人のお墓ではないんです。
死んだ人の人骨を全部バラバラに解きほぐして、それで細工を作って、イコン(icon/聖像)を作る。キリストが真ん中にいて十字架があり、周りに髑髏が並んでいたりする。
今、西洋では再生医療が盛んですが、これは、身体のパーツは利用できるもんならどんどん利用したらいいじゃないかという思想が根底にある。つまり、魂と身体とはまったく別物で、永遠の魂さえ保証されるなら、身体はどうでもいいという、キリスト教的な考え方、そこにも繋がっていると思います。だからあんなに臓器移植の技術が発達するのでしょう。
ドナーカードなんて、オーストラリアでは結構強制的に登録させられるでしょう。提供するかしないか、運転免許証に書かれるらしいんですね。でも、日本にはそういうのはない。

だんだん死んでいくっていうのは実感として、ありませんか? 僕なんかは、だんだん死んでいってるって感覚があります。
身も心も、死んでいくな、衰えてる、老いていくなっていう。

沢辺 死に近づいてるなっていうか、今までだったら成長っていう気分があったんだけど、プラスがもう終わって、どんどんマイナスになってくいく感覚はあります。

小浜 なってきますよね。なんかこう、無意識のうちに自分の今の傾斜してるあり方みたいなものをどこかで繰り込んでいるでしょう。それで生きている。

沢辺 でも、反論になりきれないんですけど、敢えて反論すると、このまえWOWOWで、「ヤングアットハート」っていうドキュメンタリー映画を見まして、それがけっこう面白かったんです。
どういう映画かというと、アメリカに爺ちゃん婆ちゃんのロックコーラスグループがあるんですけど、もうメンバーはヨボヨボで平均年齢は80歳くらいなんです。
それが「あの娘は俺に惚れてるぜ」とか、「なんで行っちゃうんだ」とか、「振られたよ」とか、そんなロックを合唱してやるもんだから、その落差が面白くて。アメリカでも人気あるらしいんです。
で、そのグループが海外公演をやるまでを、追っていましてね。その過程で二人ぐらい死んでしまうんです。
エンドロールに、公演の時に結構いいパートをやっていたお婆ちゃんが、そして三ヶ月後に死んだ、誰々は死んだ、と出てくる。

その映画では、当然死の受け入れ方についての話しが出てくるわけですよ。お婆ちゃんが、「もうすぐあたしは逝っちゃうから」とか。
それで、「公演中に死んだらどうしますか?」という質問に、「それは幸せじゃん」というくだりがあって、死をことさら忌避するというよりも、死を上手く受け入れていて、「ああ、やっぱそういうことだよな」って思いました。

だからある種、山折さんが言っていたように、今はもう死を受け入れない社会になっていっちゃってるけど、やっぱり人間って死とセットなんじゃないか、って。アメリカにも、ある種のそういうものっていうのはありそうだなって思うんです。
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●死は「悪」なのか

小浜 もちろん、西洋でもそれはあるでしょう。違いをちょっと強調しすぎたかもしれません。
ただ思想・哲学から見てみると、たとえばソクラテスは、感覚で捉えられる世界は欲望を満たすだけの世界だから、死んで、それよりももっと高級な世界に行く、という理屈を付けています。
それは逆に、生きたいという貪欲さの表れで、日本人にはあんまりそういう貪欲さはないんじゃないか、と思います。

私は、山折さんが言ったように、生と死というものを、ひとつながりのものとして捉えて、死を悪いものというふうには見ないほうがいいと思う。

沢辺 逆に言うと、死ねるから。だから価値ってありますよね。

小浜 そう、死ねる、と思うんですね。若々しくて精力旺盛に生きているときだって、どこかで人間というのは、いつかは死ぬことを射程に入れていますよね。
それがないと、人と約束することもできないし、企画を立てることも出来ないし、自分の夢を叶えようとすることも出来ない。

もう一つ思うのは、僕は今62歳ですけど、もう子どもも自立して、孫も別のところに住んでいます。
今はかみさんと二人で住んでいますが、一人である可能性もあるわけです。
今はもうとにかく、後期高齢者という言葉はけしからんとなっていて、お年寄りを、ちょっとバカにしたような言い方は、タブーになっていますね。
でも、ほとんどなにもわからない認知症になっていたり、身体が動かなくなったりしている人たちを、ヘルパーさんたちが一生懸命お風呂入れて洗ってくれたり、幼稚園児扱いみたいな言葉遣いをされたりするのをテレビで見ると、私はああいうふうにはしてほしくないな、と思う。
たとえば80歳くらいになっても生きていて、まだ完全にぼけてはいない状態で、しかも人間関係ももう希薄になり、仕事の関係も、それから血縁も親族関係もなくなり、子どもももう向こうで立派にやってるし、つまり要するに自分がもう必要とされなくなった、という状態になったら、一番楽な、苦痛のない死に方で、お酒呑んで、雪の中に入って死ぬとかしたいです。

沢辺 したいですよね。僕の親父は、88歳で、今認知症で入院しているんですけど、見舞いに行って話すと、否定的なことばかり言うんです。
直接聞いたことはないんだけど、お袋に聞いたら、「早くお迎え来ないかな」って言ってみたり、それから僕にも、「ダメだったな、俺は」っていうふうなことを言ったりするんです。

親父は小学校の教師をやっていて、卒業した昔の生徒たちが、クラス会をずっと続けてやっているんですね。
この間、彼らが還暦を迎えた記念のクラス会っていうのをやってたそうです(笑)。親父はそこに毎年呼ばれていたんですけど、さすがに入院しちゃったから、今年は断ったら、その人たちがわざわざ入院先まで、5人くらいきてくれたんです。これってものすごく、幸せなことでしょう?

小浜 それは幸せですよ。

沢辺 最高に幸せな面があるわけじゃないですか。自分が生きてきた中で、これだけの成果があったら、これはもう無条件に肯定していいのにな、と僕は思うんですけど、「いや、ダメだよ」って。半分ボケてるんだけど、そう言うんです。
そういう成果とか成功があったにもかかわらず、それをもう丸ごと「いやもう、俺の人生はろくなもんじゃなかった」と、どんどん総括が悪くなるんだったら、その手前に死んだほうがいいんじゃないのって思うくらいです。かといって自分は死ねるかどうかはわからないんですが。
あと、小浜さんが言ったように、88歳までになると、もう周りに誰もいないんですよね。

小浜 友達も死んじゃってたりね。だから、誰にも必要とされていないんですよ。
それなのに老人ホームなんかに入っていると、一生懸命介護してくれるでしょ。あれって何の意味があるのかなって思うけど、それはタブーになっていて言えない。でも、そういうことをタブーにしてる社会って、なんか変だなって思うんです。

沢辺 現実に、民主党が雇用対策で、介護職の雇用促進をやっていますが、僕は、あれは若い人のやる仕事ではないと思うんです。

小浜 そうなんだよね。

沢辺 給料が安いから若者が辞めていますよ、ということだけではなく、仕事の内容が、看護婦さんとは違って大変なんだと思うんです。
看護婦さんはまだ一生懸命介護をして手伝ったら、その人が元気になって、「ありがとう」という関係のゴールがあるけど、あれはゴールが死ぬことですからね。

小浜 一種のターミナルケアですよね。気がしっかりしてれば、ターミナルケアは仕事として意味があるかもしれないけど、もう認知症で、わからなくなっちゃっている人の身体をどうこうしたってねえ。はっきり言うと、死体処理と、そんなに変わらないじゃないですか。

沢辺 「ああ、この人たちは死んでいく人たちだな。だけどじゃあ、その中で自分になにができるか」ぐらいまで思えるには、かなり年を経ないとムリなんじゃないかなって思う。
僕の友達にも介護施設をやっている奴がいますが、若い人が次から次に辞めていく。お金の問題はもちろんあるし、もちろん、辞めてくれ、ということも多いらしいですが。
そうすると残るのは、たとえばドメスティック・バイオレンスで、旦那から子ども連れて逃げて来て、でも稼いで生きてかなきゃいけない、ともかく、この仕事しかないからっていうふうなタイプとかになるらしい。
むしろそういったある種の切迫感がないと持たないって言ってます。特にインテリで、社会のため、というふうに言ってる人たちが。

小浜 何となく空々しいですよね。でも、マーケットとしてはあるんだよね。だって、これからはしばらくは団塊の世代が要介護になっていくわけだから。
マーケットとしてはあるけれども、マーケットがあるからって言ってもなあ……。
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●死を積極的に受け入れる社会

沢辺 でも、単に死は悪いことだから長生きしてねってことでなく、死を積極的に受け入れることだってあっていいじゃないかっていうのは、思想のレベルではあるかもしれないけど、政策や、具体的になにするんですかっていうレベルにまで落とし込む、っていうのはとってもむずかしいものがありますよね。

小浜 でも、オランダでは安楽死が認められてからもう20年ぐらい経つんじゃないかな。本人と家族の了解を得て、医者が注射を打つ。どれぐらいの数が行なわれているかは知りませんが。

沢辺 民主党でも自民党でもいいけど、人は死にゆく存在なのだから、それをちゃんと上手くいい形で収束に向けていくための政策を実行しましょう、というマニフェストがあってほしいと思うんですよね。

小浜 でも、今の政権では、そんな政策をたてるなんて絶対しないと思う。本当はそういうことがあってもいいと思ってる人は、すごくたくさんいるのに、世論としては出て来ないんだと思います。「そんなのとんでもない」という話になって出てくるんじゃないかな、と思う。
『死にたくないが、生きたくもない。』(幻冬舎新書・二〇〇六年)という本に書いたんですが、昔読んだSFで、国民がみんな背番号を持っていて、ある年齢以上になると、特定の背番号に国家からお知らせが来る。そして、そのお知らせを受けた人は、それを受け入れて、粛々と殺されていくんですね。こういうイメージって、思想としてはあっていいんじゃないか。でも、実際には政策として打ち出す人は誰もいないでしょうね。

●ものごとの前提を問いなおすべき

沢辺 それは埋めがたいんですかね。話ずれちゃうかもしれないけど、今日の社会で限界にぶち当たっているのは、一番大切なことを語れないで、その手前の綺麗ごとに止まってしまう、ということだと思います。教育についても、そうじゃないですか。

小浜 まったくその通りだと思います。

沢辺 子どもたち全員に、人間として自由に生きるための読み書きそろばんっていう武器を手渡したいんだよ、っていうのはもちろんなんだけど、それを裏返して言えば、読み書きそろばんっていうレベルの延長線上にある、知的な活動の能力は、悲しいけど全員が平等ではない。手先は器用だけど、知的能力がそれほど優れているわけではない、という子どももいますよね。
そういう現実に、もちろん不平等なかたちではなく、だけどそれは何を手渡していくのか、っていうことをもう一回ちゃんと精査しようよっていうことが、教育の場に求められてると思います。
たとえば犯罪捜査の可視化と言われていて、可視化ももちろんあったほうがいいとは思いますが、じゃあ現実の犯罪捜査のレベルで、どうやってやるんですかっていうこともそうです。
刑事が脅したりっていうことも含めて成立してきた治安維持、犯罪抑止効果っていうのもあると思うんですよ。

小浜 そう。それは僕もすごく思います。
あれは冤罪はとんでもないという視点から入ったから、取り調べで、精神的な拷問を二十何時間やるなんてとんでもない、だから可視化して、そういう過酷なやり方をさせないようにしようってことでしょう。
ところが本当は、冤罪は割合から言ったら少なくて、本当はやっている奴がほとんどですよね。やってる奴をはかせるために長年培われてきた暗黙のテクニックって、きっとあると思うんです。
で、取調室を可視化することによって、それを使えなくしてしまうと、今度は本当にやってる奴を、果たして捕らえることができるのかな、と思います。

沢辺 そのときにも、一番大元のところでどうするんだ、という議論の妨げはあるわけですよね。
それは死も含めて、高齢者問題も全部そう。長生きするのがいいことだってことしか前提にできない。

●闘争のない世界は実現できるか

小浜 それはやっぱり思考停止していますよね。
オバマ大統領が核廃絶の演説をチェコでやり、鳩山首相が、被爆国の責任といった内容のことを演説で言ってはしゃいでいる。オバマさんは本気で言ってるようには思えないんですけど、鳩山さんはボンボンで、本気になって言っているような感じがします。

私は核は廃絶してはいけないと思っています。でも、そういうことを言う人は、ほとんどいないでしょう。
演説では、綺麗ごとが言える。でも、人類が科学技術を飛躍的に革新させた結果できてしまったものを、なくせるはずがないんです。核のない社会なんてできるわけがないでしょう。持ってる人が、せーの、で宇宙空間に放り出すんですか。

沢辺 それはスパンの問題じゃないかと僕は思いますが。

小浜 私は核はむしろなくしてはいけないと思っています。拡散しないように地球連合政府のようなところに全部集め、そこが地球の他の地域の紛争などを処理していくための最終的な決め玉として持っていなくてはいけない。そうでないと平和は絶対保てないと思います。
今、核の保有量はロシアが一番多い。それを、率先して捨てたら、どんどん拡散してしまう。新興国や後発国が、どんどん陰で作るに決まっていますから。それこそどうしようもない自然状態です。

沢辺 今持ってる国が減らす以前に、まず拡散させないことが重要なんですね。でも、今は具体的に誰もアイデアを持っていないけど、その先に持っている国が少しずつ減らそうよってことがあっていいと思います。
小浜さんが言っているのは、ホッブズじゃないけど、人間はほうっておいたら死に至る闘争をしてしまうので、強力な権力をどこかに置くしかないということですよね。

小浜 僕はホッブズの考えって性悪説に基づいていて、だからこそ非常にシビアな、いい見方だと思います。その見方は捨ててはいけない。核廃絶をしたら、みんなの人間性、ヒューマンネイチャーが変わり、世界中が平和で仲良くなりますか。そんなバカなことあるわけないじゃないですか。
捨ててはダメなんです。集中させて、絶対的な権力を作り、それによって地球全体を管理する。私はそんなイメージを持っています。

沢辺 過渡的にはそうですね。ものすごく長いスパンで言えば、その先にさらに核を減らすことはあり得るかもしれないけど、そこまで誰も展望できていないとは思いますけど。

小浜 でも本当は、その過渡期のことをキチッと言う、評論家なり思想家がいないといけないんですよね。誰もいないっていうのはおかしい。
ただ核廃絶という、起こりそうにないことだけを言っている。

沢辺 そうですよね。ただ、僕はそこに至るには、やっぱり経済の問題が大きいと思う。

小浜 それはもちろんです。
でも、それでみんなが裕福になって、経済的な格差がなくなり、争いがなくなる……そうなるかなあ。私は、そうはならないと思います。

沢辺 そうですか? たとえば世界中が今の日本ぐらいの経済水準に到達すれば、強盗やるよりも、まあ稼いだほうがいいか、ということになると僕は思うんです。

小浜 でも、そもそも人間の闘争とか紛争は、他者と関わって、取引したりするってところから生まれてきているわけでしょう。
そういう交流は今後も行なわれていくわけで、そこでのトラブルが皆無になるってことはあり得ないでしょう。

沢辺 そのへんに、僕は若干のズレを感じます(笑)。性悪説って言ったけど、僕は性悪説があるのと同時に、性善説もあるかなって思っているんです。
たとえば近江商人の「三方よし」みたいな考え方。本当の意味で競争するときには、単に死に至る闘争で競争するっていう段階を経て、本質的に三方みんなが得をする、みたいな視点を持っていないと、競争そのものにも勝てないということがあり得ると思います。
世界を眺めれば、ベトナムだってあんな酷いことになった中でも、徐々に社会秩序はいいほうに向かっているじゃないですか。

小浜 でも近江商人の「三方よし」っていうのも、純粋な倫理として言われているんじゃなくて、要するに本当に競争に勝つには、みんなが満足する形に持っていくのが結局はいいんだという、一種の功利主義道徳ですよね。競争否定ではないと思うんです。日本にはそういう考え方がけっこう定着していますよね。利潤追求が本懐の商家の世界から、正直や誠実の徳が生まれてくるというのには、それなりの必然性がある。私は道徳っていうのはしょせんそういう功利主義的な発生源を持っているものだと思います。
それから、ベトナムの秩序がいいほうに向かっているっていうのはその通りなんだけど、その秩序は何によって支えられて、守られているのかっていうことに対する厳しい視点を失ってはいけないと思う。短期的な世界状況としては、覇権国家がなかったら、たぶんダメでしょう。

沢辺 僕も、アメリカはただちに覇権を手放せ、とは思わないし、ベトナムでも、きっと警察力の強化のおかげで社会秩序が保たれている面があると思います。
でも、警察権力を強化すると、過渡的には行き過ぎた賄賂の横行とかが起こることは、もちろんあると思います。しかし、日本で賄賂が見えないくらいなくなっているのは、単に日本の民族性というよりも、やっぱ賄賂やるより、普通にやったほうがいいんだ、とみんなが思っているということがあるんだと思うんです。

小浜 それは性悪/性善とはまた違ったニュアンスで、人間が賢くならなくてはいけないわけですよね。神様に近づかないといけないんだけど、
それは難しいと思います。ならないと思うんだよな(笑)。

●日本の思想家の役割

沢辺 で、まさにそういう人類最高の問題に直面したのが今の日本なのかな、と僕は思うんです。

小浜 世界中の人がある程度経済的に豊かになり、賢くなり、このほうが得だって戦争なんかしなくなったとしても、その先にまた、究極の問題として、いま、日本で起きているような精神的なアノミーの状況が生まれてしまう。それは多分、ニーチェが言うニヒリズムっていうのと同じだと思います。
だから逆説的かもしれないけど、日本は上手くいってるからこそ、アノミー的な自殺者が多いんじゃないですか。そういう論理も成り立つかもしれません。

沢辺 だからこそ、日本の思想家は、綺麗ごとに留まらないで、この問題をちゃんと考えなくてはいけないと思うんです。
今の日本の問題を、単に貧しいからだとか、格差が生まれたからだ、という単純なレッテルを貼るだけで終わらせてはいけない。

小浜 政治の課題として取り上げられることだけで、物事を見てはいけない、と。
もうちょっと、死んでいく人、自殺する人や、爺さん婆さんの、その人の息づかいがわかるところまで入り込んで物事を見る。その見方を上手く確立することが、思想としては大事ですよね。

沢辺 それから新たなコミュニティや関与の関係の、新たな可能性も、不関与になりきった今の日本人こそが、探れるんじゃないかと思います。

小浜 つまり、自由主義国家として築き上げてきた、自由と豊かさは維持しつつ、新たな可能性を探っていく。それを維持するのは、絶対の条件ですからね。

沢辺 その中にきっと、小浜さんが言ったように、人間に求められる素養、力っていうのが、高すぎるんじゃないのか、という視点も折り込みながら考えていくことが今思想に求められている。

小浜 現実の我々の生きている、まあこれがいいよねって共有できる倫理感覚からあんまり乖離しない形で、もうちょっとその先までいくって言うんですかね。それは必要だと思います。

沢辺 それは政治ではなく、思想の役割ですよね。小浜さんや竹田さん、それからもっと若い世代も含めて、そういう人たちが今一番大変なところにいると同時に、世界的には極めて重要なポジションにいるような気がしてならないんです。今日はどうもありがとうございました。(了)

これまでの回

第1回「そもそも、自殺はそんなに悪いことか」

プロフィール

小浜逸郎(こはま・いつお)
1947年、横浜市生まれ。批評家。
横浜国立大学工学部建築学科卒業。国士舘大学客員教授。
思想講座「人間学アカデミー」主宰者。

小浜逸郎の新刊『子供問題』、『大人問題』発売中

『子供問題』─学校、家族、メディアに見る子供をめぐる矛盾
著●小浜逸郎
定価1900+税
ISBN978-4-7808-0136-1 C0036
四六判 / 192ページ / 上製
[2009年12月 刊行]
目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。

『大人問題』─目標喪失した社会を正しく生きるために
著●小浜逸郎
定価1900+税
ISBN978-4-7808-0141-5 C0036
四六判 / 200ページ / 上製
[2010年02月 刊行]
目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。

2010-02-05

談話室沢辺 ゲスト:小浜逸郎 第1回「そもそも、自殺はそんなに悪いことか」

●自殺を本質から捉えなおす

沢辺 日本の自殺率が高止まりしていますよね。
それはバブルが崩壊し、金融危機が起こり、格差が拡大して、リストラされたり、貧しくなってるからだ、と理由があげられています。
それを受けて社民党の政策などでは、雇用を確保しろとか、社会保障を充実させろという流れになっている。
自殺って、人間の死が前提になっているから、それには抗えない。「自殺を減らすために社会保障を充実させようよ」って言われたら、なかなか反対しきれないですよね。

小浜 そうですね。

沢辺 でも、例えば南アフリカは、ネルソン・マンデラが大統領になっても、皮肉なことにますます格差が拡大してしまい、酷いらしいじゃないですか。
自殺が単純に格差や貧しさの拡大で起こるのであれば、南アフリカは世界最高の自殺率、ということになるけど、実際、そうはなっていない。
それで、もう一度、自殺っていうのを大元のところから考えておいたほうがいいんじゃないかって。
前提となる数字を踏まえ、自殺というものの本質的な問題と、そこから考えうる対応を整理しておきたいと思って、今日のインタビューを考えました。

小浜 まず、世界的に一番権威ある自殺についての考察は、社会学者のエミール・デュルケーム(Emile Durkheim,1858-1917)の『自殺論』です。

彼は自殺を3種類に分類しています。
一つが「自己本位的自殺」。個人的にプライドを傷つけられたり、誇りを失ったりしたことで起きる自殺です。
いまのような経済的な困窮も関係あるでしょう。それで生きる望みを失って死ぬという、いわゆる普通の自殺です。
二つ目が「集団本位的自殺」。いわゆる自爆テロや、ハラキリとか、理念のために命を捨ててしまうというものです。
三つ目が「アノミー(anomie)的自殺」です。アノミー=無秩序ですね。「アノミー的自殺」の定義は、すこし解りにくいのですが、私はこれが日本の自殺率の高止まりに関わっているのではないかな、と思っています。
無秩序の感覚というのは、宮台真司さんも言っていますが、この社会はもう底が抜けてて、みんな何に寄りかかっていいのか解らない、という感覚です。

日本では、自殺は一般的に、心の問題としてとらえられています。だから心の悩み相談室のように、「自殺したくなったら電話して下さい」となる。
しかしデュルケームは社会学者だから、あくまで現象を鳥瞰的な位置、外から分析していくというやり方をとっています。
さすがはデュルケームで、こういうやり方って、日本では自殺対策を考える際、あんまりなされてないんですよ。
だから私は、「アノミー的自殺」が、もし今の日本の自殺率の高止まりに関係があるのであれば、日本での「アノミー」とは一体なんなのか、ということから考え始めなくてはならないと思うんです。

政治として、自殺が増えていることにどう対策をとるかというと、自殺は生命が失われることであるから、なにがなんでも数を減らさなければならない、という話になってしまうことは仕方がない。それには抗えないですよね。
でも、今回政権交代がありましたが、例えば子ども手当の支給や、高校の無償化など、福祉的な対策を手厚く講じるということによって自殺が減るとは、私にはあんまり思えないんです。

それはどうしてかというと、自殺は誰にとって悪いことなのか、ということをちゃんと問い詰めていないからです。とにかく命が失われることは悪いことだから、何とか政治的な対策をしましょう、予算を出しましょうということにすぎない。
なんで人は自殺するのか、ということに関わってくると思うのですが、挑発的な言い方をすれば、「そもそも、自殺はそんなに悪いことか」と私は言いたい。

もう一つの問題は、内閣府が発行している『自殺対策白書』では、自殺の原因を経済的理由、家庭の理由、などと分類をしていますが、でも本当は、自殺の理由は複合的ですよね。白書でも、理由は複合的だとことわってはいますが。

でも、私は、自殺の最終的な問題っていうのは「孤独」だと思うんです。金があっても自殺する人はいる。

食っていけなくなったから死ぬ、というのは、リクツとしてはわかりやすいかもしれないけど、この「食う」という概念をもう少し詳しく見ると、食っていけなくなる、ということは、同時に社会関係の一つ一つを失っていくということですよね。女の人にも甲斐性なしとして見放される(笑)。すると孤独になります。

中高年男性に圧倒的に自殺が多いことの理由に、孤独と、「自分の一生は一体なんだったんだろう」とか、「この先生き続けても大して面白いこともありそうにないな」という気分の問題がすごく大きいと思うんです。

何年か前、NHKスペシャルの『ひとり 団地の一室で』(2005年9月放送)という番組を見ました。
40代後半から60歳以下ぐらいの男性ばっかり1500人くらいが、松戸の老朽化した市営団地に住んでいたんです。
ホームレス寸前のような生活で、ゴミがすごいんですよ(笑)。
不謹慎な言い方になりますが、面白いのが、民生委員とか、地域の世話人みたいなおじさんたちが対策を考えて、見回り訪問をするんですよ。
大丈夫か、死んでないかって。その見回ってる人たちは70歳くらいの高齢者なんです(笑)。
それで、48歳とか55歳の人たちが「大丈夫ですか、○○さん」とか言われててね。

要するに、解雇されれば社会関係は一時的にしろ失うわけです。
男は仕事を失うと、プライドを激しく傷つけられます。がっくりと落ち込むんだけれども、その時にエロス的な関係性、つまり女性なり誰かがいて、支えてくれるということがあれば、たぶんそんなには自殺しないと思うんです。本当はそこが、この問題のキモじゃないかと私は思っています。

沢辺 僕は労働が蔑まれすぎちゃっているってことも、そこに絡むような気がします。
つまり、仕事は本筋ではなく、生活が本筋なので、仕事は生活のための道具だ、という扱いになってしまっているでしょう。
ところが実態は、実は仕事って面白くて、他者からの承認も十分得られるし、中途半端なボランティアよりも、よっぽど達成感や承認感っていうのは大きいじゃないですか。

小浜 報酬も得られることだし。報酬には精神的な承認という意味もこもってますからね。

沢辺 はい。人間ってやっぱり食わなくてはいけないから無理矢理働いてるんだ、というより、百姓が畑の作物を心配してしまうように、そのことそのものに引かれるってこともあると思うんです。

小浜 そうですね。百姓の場合は愛と言ってもいい。

沢辺 それが、「実は労働に意味はなくて、生活こそ大切なんだよ」とされたうえに、さらにそれをちょん切られてしまう。
じゃあ俺は一体この50までなにをやっていたんだ、と。そこには女房子供を食わせてきた自負とか、いろいろ付随してるけど、やっぱり人間には、まず労働をやってしまう、という性質がある気がするんです。

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●男と女の差

沢辺 もう一ついうと、そこには男女の差も感じます。

小浜 男女差はありますね。それは自殺の数字にもはっきりと表れています。おばさんとおばあちゃんの自殺率は、同世代の男性とは比べ物にならないくらい低い。
自殺者数が一番多かったのは2003年(平成15年)です。その年の45歳から59歳までの自殺を男女で比べてみると、何と男性は女性の4.2倍(男性8,680件/女性2,047件 参照:厚生労働省「人口動態統計」)です。つまりこの年代では男性の自殺が全体の8割以上を占めている。
経年変化を見ても、昔と今とで中高年女性の自殺率は全然動いていません。(平成20年版 自殺対策白書参照)下げ止まりというか、ずっとそうです。

沢辺 僕は奥さんとの間ですごく差を感じます。
奥さんは友達と買い物に行こうとか、飯を食いにいこうっていうことができるんです。でも、僕はその前に何かがないとできない。
たとえば「人間学アカデミー」の講座があって、その帰りにみんなと飲むっていう流れには参加できるけど、その前がなくてただ単に飲みにいこうっていうのはできない。なんていうか、言い訳がないとできないっていう感じがある。
離婚したとしてもね、奥さんは、きっと友達と「買い物行きましょう」で会える。

小浜 まったくその通りだと思います。その差はすごく大きい。
ウチのかみさんは、どっちかっていうと男性的なタイプで、細々したことはあんまりやらないで、酒飲んで寝てる方がいい、みたいなことを自分では言うんですね。そういう点で私と気が合うんですけども(笑)。
でも、実際には、日常の細かな気配りにとても長けていますし、かみさんの友達には、かつての同僚とか、写真をやっている仲間がいて、その人たちが、細々したもの、たとえばお料理とか、ビーズ細工だとか、刺繍だとかをやっているんですね。
仲間がいて、その仲間との間でごく自然に日常の時間を埋めていく。そうすると、かなりいいネットワークが自然とできている。
男はそういうことをやらないでしょう?
もちろん男も、囲碁・将棋や麻雀、釣りやゴルフや、と趣味は持っているんだけど、趣味から人間関係へ、という感じにはなかなかいかないところがある。
そういう面から見ると、男は孤独になりやすいというのは確かですよね。

「人間学アカデミー」第八期のシンポジウムのとき、私が「女性は強いですね」って言ったら、精神科医の斎藤環さんが「いや、強いんじゃないんだ。男は立場、女性は関係」と言っていました。それは上手いとらえ方だなって思ったんです。

沢辺 そうですよね。結果的に今の社会だと、女の人の「関係」のほうが有効なんですよね。
昔は、最後の拠り所として父親という立場がありましたが、今では父親という立場に意味がなくなってしまった。

小浜 だいたい、子どもが思春期過ぎてからの「父親」は、経済的には支えているわけだけれども、心情的にも支えているということは、あまりないですよね。

沢辺 そうすると、関係性に強い女性のほうが今の社会への適応力が高いと。
確かに、男の「立場」っていうものの今の社会への適応力は、恐ろしく弱いということが自殺率の8対2という数字に現れてますよね。

小浜 そうですね。
話を戻すと、要するに孤独感というのは男性に特有で、非常に強い。それは心の問題、精神的な問題のように思えるけれど、例の松戸団地の番組を見ていると、孤独を長く続けると、男というのは、身の回りもだんだんホームレス状態に近くなっていくということがひしひしとわかる。
つまり、本来はメンタルの問題であったものが、だんだんだんだんフィジカルなところに及んでくる。それが寿命だって縮めると思うんです。

『熟年性革命報告』(小林照幸/2003年/文春新書)という本に面白い話があります。
養護老人ホームで売春をやっている80の婆さんがいて、その婆さんをめぐって、70代の男二人が、決闘をやったんです。熊手と竹箒かな。一方が怪我をしちゃって、それが発覚したという(笑)。
やっぱり男って、ゲームでもスポーツでも、互いに闘う場が形成されれば、そこでは結構ハッスルする。
でも、今の日本はそれがなくなってしまった世の中ですから。

沢辺 国会議員が年寄りでもはつらつとしているのは、国会議員という、立場が確保できているからですよね。

小浜 闘ってるもんね。闘ってると生き生きしていますよね。政治家ってホント若い。

沢辺 大体土日もなにかやってるじゃないですか。俺は最近、日曜日も仕事って思うとがっくりしちゃいますが、この人たちはずっとやってるんだと思うと、すごいなあ、と。それは、やっぱ立場かな。

でも、僕は、これが男という性に本質的なものなのか、社会的なものなのかっていう議論には、あんまり意味がないかなって思います。
仮に社会的なものだとしても、それは社会的な状況の変化が100年くらいないと、変わらない感じがします。
だから今は、そういうんじゃダメなのっていうのを言ってみてもあんまり意味がないから、ちょっと横に置いておいていいかなと思うんです。

小浜 僕もいいと思いますよ。それはどっちがよりいいかっていうような倫理的な判断の問題じゃなくて、現実にそうだってことですから。

●行き過ぎた社会の不関与化

小浜 ところで、今、20代女性の自殺率が上昇しているんです。と言っても全体が少ないから、数は少ないのですが。
昔は、20代の自殺は、女性が4割から5割近くを占めていました。
1960年代から80年代にかけて、20代男女の自殺は減少して、1995年くらいまで20代の自殺は本当に少なかったんです。
でも、ここへ来て男性のほうも増えると同時に、20代女性の自殺が、ミクロな範囲だけど上昇しています。
やはり男性の労働現場でのキツさと同じもので、なおかつ若いから、という理由でもっとハードなものが20代の女性に来ているんじゃないか、という気がします。
さっき、中高年男性の自殺は「孤独」がキーポイントだと言いましたが、20代女性の自殺の増加には、そういう意味での味気なさっていうか、潤いのなさのような感覚、気分に支配されてるんじゃないかなっていう気がします。

沢辺 それは、「社会の不関与化」というふうには考えられませんか?
2年くらい前、京都精華大学で日本語リテラシーという授業をやっている野口勝三さんと、「ゲイをめぐる状況」について議論したことがあります。
そのときに面白いと思ったのが、社会全体が関与=関係することを、減らしているという考えです。たとえばベタベタな親子関係とか、地域関係とか。「小浜さんちの逸郎は相変わらずぶらぶらしてる。仕事も行かないで何やってんだ」とか(笑)。そういうのはイヤだったわけですよね。

小浜 そうですよ。我々はみんな煩わしかったわけです。だからそういう、他人の心に土足で踏み込むみたいな関係のあり方をできるだけ避けるようにしてきた。

沢辺 そこからどんどん逃れて核家族化したり、引っ越しをしたりして、社会はだんだんそれを克服し、今、そういう関係は基本的に減ってきている。

小浜 都市社会にみんなが集まり、だけど、みんな隣は何をする人ぞ、と。
個人主義で、経済的にはそこそこ裕福、という社会になりましたよね。

沢辺 彼はそれを「不関与」と言っています。しかし不関与の弊害がここにきて出てきているのではないかと。
たとえばゲイをめぐる視線も、昔だったら「小浜さんちの逸郎くんは結婚もしないで、怪しいよ。なんかちょっとコレっぽくない?」とか(笑)。そういう噂に、誰も意味を感じなくなり興味を持たなくなった。そもそも基盤にするコミュニティがないから、そんな噂をしても「え、小浜くんちの逸郎くんって誰のこと?」となってしまうから、なくなったわけです。
だけど、僕はそれはそれでいいことだと思います。野口さんも悪いことだと言ってるわけではありません。
それは、みんながゲイという存在を積極的に肯定したのではなく、他者に対する興味を失っただけ。でも、それはそれでゲイが生きやすくなったから、いいんだと。
ただここにきて問題が出てきているのは、たとえばゲイの中にも、関与がなくなって好き勝手なことができるけど、そうなると逆に関与を求めだしてきている。ゲイの間でパートナーということが話題になる率が高くなっている気がする、というんですね。
つまり、行き過ぎた不関与に対する反動が起こっているからで、やっぱり適度なコミュニティは必要なのではないか、ということです。特にゲイは、顕著に独身が多いから。

小浜 ただ、長くつき合ってるゲイカップルもいますよね。

沢辺 いるけれども、条件として男女関係より難しいですよね。浮気がどんどんできてしまうし。

小浜 普通の男女関係より乱脈だからね。

沢辺 はい。そうするとつがいであることがむずかしい、つがいが弊害になることもある。
だけど、年をとると、やっぱりつがいっていう安定性が欲しくなる。それは関与されることを積極的に求めることですよね。
これは伏見憲明さんも前から言っていますが、ゲイの状況はある種、例えば性関係が乱脈になるってことについていっても、人類の先行きを過激にやっている面がある。

小浜 一種の実験みたいな感じでね。

沢辺 だから不関与が行き過ぎて、今ゲイが、パートナーシップが欲しくなっているということは、今後ノンケの人たちもそういう方向になっていくだろうという見通しの材料になると思うんです。
今の話を聞くとやっぱり、社会全体が不関与になってきているように感じます。ただ、それを悪いことだと総括する必要は全くありませんが。

小浜 それの行き過ぎた状態っていうのが現われてるんじゃないか、ということですね。
それは言えるでしょう。宮台真司さんが『日本の難点』(2009年/幻冬舎新書)の中で「コミュニケーションの希薄化」という言葉で、同じようなことを言っていたと思います。
沢辺 そう。宮台さんも小浜さんも、竹田青嗣さんなんかも、視点はそれぞれ違いますが、不関与問題は、ちゃんと見ている人はちゃんと言っていますよね。
その反動的な場合が、「家族の復権」とかっていう意見。そこにはもう後戻りはできない、と僕は思うんですけど。

小浜 保守派はもうそういう感性で、理想型が固まっていますから。そこから全部発想している。「それがいいんだ」と。
これから違う形になっていくのに、みんな「これは壊れてるんだ」とか、「ヒビが入っているんだ」と見てしまう。

沢辺 でもそこにある感覚は、壊れているという認識までは同じですよね。それを元に戻ろうよっていうのは……。

小浜 戻ろうというのはたぶんダメでしょう。

沢辺 元に戻るのは無理だから、別の装置を考えるということしか進む道はないですね。ところで、さっき話した松戸の男たちのように、男は立場、女は関係、という社会の中で、立場をなくしてしまい、奥さんにも見放されてしまった男たちが、ある種アノミー的になる、ということなんでしょうか。

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●秩序の崩壊で広がるアノミーの気分

小浜 ミクロな圏内での、一種のアノミーなんじゃないかなと思います。
つまり、日本社会が全体としては、ある程度目標達成をしてしまい、なんとなくアノミーの気分が広がっていて、ミクロの圏内では現実的にアノミーが出現してきている。
最初に読んだときは概念が分からなかったんだけど、デュルケームが言ったアノミー的自殺が、今、日本で増加している自殺に当てはまるんじゃないかと思う。

沢辺 秩序の崩壊ということですよね。

小浜 そうです。ミクロな秩序の崩壊です。それは法律みたいにどこかに書かれているわけじゃないから、よく見えないんですね。
でも小さな範囲に絞り、倍率を大きくして眺めると、そこにアノミーが見えてくるということはあるんじゃないでしょうか。
で、そのアノミーに男が弱いんです。

沢辺 男がアノミーに弱いんでしょうか?
というのは、男が依って立ってきた秩序が崩れた。一方、女の人はその依って立ってきた秩序を、むしろ自分たちで崩してきたと思うんです。
自分たちが前向きに崩したことだったから、それは女性にとっては「無秩序」ではなく「変革」なんじゃないかと思うんです。

たとえば、僕の同じ年の友人に、若くして結婚し、専業主婦になり子どもを育て、子供も手を離れたからこの5年前ぐらいから働きに出ている女性がいます。単なるパートではなく正社員で、まあ、一人前の働きに出たわけです。
だけど、その旦那は相変わらず「俺がちゃんと働いているから」みたいな、専業主婦時代の気分をずっと引きずっている。

小浜 養っている、と。

沢辺 そこまでは言わないだろうけど、「俺は忙しい」と。
で、「私だって忙しいよ」と言うと、ここからは僕の想像ですが、「お前は自分で選んでわざわざ仕事しているだろ」と。
それは選んだ忙しさで、俺のは俺がやらなきゃしょうがない忙しさなんだ、と。
でも、お前の忙しさは選んだ忙しさだから偽物で、俺の忙しさは本物だ。これは、もう2009年の日本ではまったく通用しないでしょう。

小浜 そうですね。成り立たないよね。

沢辺 だけど、これはたぶん半世紀ぐらい前までは、当たり前に成立していた。夫という立場、親という立場っていう秩序ですよね。
でも、それが崩壊した。男が主人公だ、家長だ、という秩序は崩壊し、でも男はそれに気付いていない。というよりむしろ、まだ直面していない。
つまり、奥さんにとっては、いい意味での秩序の崩壊だから、アノミーにはならない。一方、夫にとっては困ってしまうことだから、気付かないようにしている。で、もっと大きく直面した時に、アノミーにいってしまうのかなって思う。
ミクロで見れば、そういうことがあちこちに起きているんですよね。これは政策として子ども手当を出したり、社会の制度を変えたとしても、なかなか解決できない問題ですよね。

ところで、男が立場を失ったときの対策、っていうのは当面取り得るんでしょうか。
よくあるじゃないですか。定年以降、NPOでパソコンを教えるとか、料理をやれるように男の料理教室に通うとか。
それを積極的に、たとえば松戸の団地に住んでる人の間ででも、やっていくような対策です。

小浜 でもそれは、そうとうきめ細かなケアになりますよね。
松戸の団地に関しては、女性はみんな逃げてしまったのだから、誰がそこまで面倒見てくれるのか、と思います。

沢辺 そうですよね。であれば、自分たちでやればいいのだけれど、そんな意欲が残ってるような人だったら……。

小浜 だから意欲を失って甲斐性もなくしているんですよね。

沢辺 松戸に居着かないですよね。いいとこ、独り所帯に辿り着かないでしょう。

小浜 そうなんですよ。

沢辺 じゃあ、ある意味小浜さんは幸福かもしれませんよね。「言語哲学研究会」や、「しょーと・ぴーすの会」(※ともに小浜氏が主宰・参加している勉強会)をやっていますから。

小浜 私は、ああいうのは意識的にやっています。自分にとっての自己ケアという意味合いもあるんです。そうしないと、外に出る機会がなくなってしまうから。
人と呑んで話すのは好きなので、そういう自分にとっての意味っていうのはありますね。
最初からそんなに意図してやっていたわけではないんだけど、巧まずしてそういう逃げ道を作っているんでしょう。でないと、余計鬱が募ってしまうというか。

沢辺 でも、小浜さんはそれを現実に自分の力で上手く、それもものすごく上手くやっていますよね。

小浜「シネクラブ黄昏」(小浜氏が主宰する映画鑑賞会)もね、ホントはそうなんですよ。できることならそこでの人間的出会いそのものを趣味として位置づけてやりたいんですね。一人でやってても寂しいから。みんなでひとつのテキストをめぐってわーわー言い合うのが、好きなんです。一種の鬱対策ですね。

次回へ続く

第2回「日本人と死」

プロフィール

小浜逸郎(こはま・いつお)
1947年、横浜市生まれ。批評家。
横浜国立大学工学部建築学科卒業。国士舘大学客員教授。
思想講座「人間学アカデミー」主宰者。

小浜逸郎の新刊『子供問題』、『大人問題』発売中

『子供問題』─学校、家族、メディアに見る子供をめぐる矛盾
著●小浜逸郎
定価1900+税
ISBN978-4-7808-0136-1 C0036
四六判 / 192ページ / 上製
[2009年12月 刊行]
目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。

『大人問題』─目標喪失した社会を正しく生きるために
著●小浜逸郎
定価1900+税
ISBN978-4-7808-0141-5 C0036
四六判 / 200ページ / 上製
[2010年02月 刊行]
目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。

2009-12-02

談話室沢辺 ゲスト:太郎次郎社エディタス・須田正晴 第3回「小さな出版社が、電子書籍について考える」

●電子化によって、本の買い方が変わる

沢辺 電子書籍に関しては、何か考えていることはある?

須田 電子書籍は、様々あるフォーマットに合わせて提供する必要があるので、小さい出版社が一社でやるのは大変だと思うんです。だから、提供のプラットフォームを皆で作っていきたい。版元ドットコムがやらないんだったら、他を見つけないとやばいな、と思っています。版元ドットコムのメーリングリストでも話題が出ていましたけど、やっぱり紙の本だけでやっていると、CD屋さんみたいに悲しいことになってしまう。だから、紙の本は紙の本でやっていくけれども、別の形でコンテンツを活かしていく仕組みを作っていかなければいけません。

沢辺 オレは、電子が一定の割合を占める状況になると思うんだけど、それはどう?

須田 それは、なると思います。これまで電子に行かなかった一番の理由って、ディスプレイの解像度が目の解像度よりも低かったからだと思うんです。チカチカして疲れるという理由もあると思うんですけど、一番は解像度の問題で、本の見開き分の情報量を出せて、簡単にめくれるようなスペックを持ったディスプレイがなかった。それがクリアできれば、一定量が電子書籍に流れるだろう、と思っています。
だから新しいデバイスには手を出して、「どういうものだったら将来性があるかな」というのは自分の実感として知っておかないといけないと思いますね。沢辺さんから「iPhoneでメルマガを読むようになった」という話を聞いたときは、「なるほど、こうやって可処分時間がだんだん電子デバイスの方にいくんだな」と思いました。

沢辺 別にこんなこと予言しても仕方がないんだけど、須田くんの感覚では、何年くらいで、どの程度の本が電子で読まれるようになると思う?

須田 どのくらいでしょうか。今のところ、選ぶ場所としての書店の役割が結構大きいですよね。「書店で買うこと自体がエンターテイメントとして好き」という人は、それなりの割合でいます。それに対して、必要でする読書が電子の側にどんどん奪われていく、という状況がある。
若い世代の電子化がどれくらい進むかによるでしょう。
とはいえ、遅くとも3年後には、「え、まだ取り組んでないの?」という話にはなると思います。
あとはデバイスの性能と普及次第。

沢辺 あと、コンテンツの問題もあるよね。

須田 でも、既存の出版社からコンテンツの提供がなかったら、電子専業でコンテンツを提供する人が現れて、既存の出版社を押しのけて提供側になりますよね。デバイスさえあれば、それはどんどん出てくると思うんです。なので、3年以内に市場規模として1割から3割くらいのところに行くんじゃないかな、と思います。
買われ方も変わっていって、音楽がiTunesミュージックストアなどの配信によってアルバムがあまり売れなくなって、シングル化したように、本もある程度はシングル化するんじゃないかな、という気がします。1冊まるまる売るのがアルバムだとしたら、その時読む部分だけ買う、という買い方。
Twitterで「Kindleでアレコレ買おうと思ったけど、読む時に買えばいいんだ、って気づいた」と書いている人がいましたけど、その感じだと、最初から1冊買う必要はなくって、言及されている気になる部分から買っていって、全体が気になったら1冊まるごと買う、という買われ方になるんじゃないかと思いました。
買われ方が変われば、読まれ方も変わってくるので、それにふさわしい提供の器を作る必要があると思います。
でも、私は正直なところ、紙の本の色々なつくりが好きなので、デジタルに偏った本作りをする必要はないのかな、とも思います。紙の本の中の1章だけを切り売りするのは、すごく不完全な部分もあるけど、そこで1章毎に完結するようにしよう、と考える必要はあまりなくって、単に切り売りするためのフォーマット、例えばISBNにどう枝番を付けるかとか、そういう準備だけしておけばいいんじゃないかと思っています。
実のところ、電子専用のフォーマットに向けて、あまりたくさん準備はしたくないし、その投資は結構先々まで割に合わないだろう、というのが私の感触なんです。
だから、出版社としてまず大事なのは、「今作っているものを手軽に電子化するためにはどうすればいいのか」というノウハウを持つことじゃないでしょうか。

●電子書籍を視野に入れたデータづくりを

沢辺 でも準備といっても、そんなに難しい、大げさなことじゃないように思ってるんだけど。

須田 PDFでフォーマットを持っていて、著作権者との間で分配についての解決ができていればいい、というだけの話ですよね。
細かく言えば、入稿した後にデータを直したり、印刷所で何か処理をしている場合があるので、そのPDFデータを紙の現物と同じ内容にしておくのが結構大変ですよね。
正直、太郎次郎社エディタスではその辺りの管理が全然つくれていないので、これから社内の体制からつくっていかなくちゃいけない、と思います。

沢辺 オレは、InDesignでデータを作る時に、その場しのぎのことをしないで、段落スタイルと文字スタイルをちゃんと適用していれば、問題はないんじゃないかと思ってるんです。甘いと言われるかもしれないけどね。
InDesignは本のデータをXMLで書き出すことができるけど、InDesignで段落スタイルを当てるのはXMLやHTMLでいうタグを付けるのと同じで、「ここからこの要素が始まります、ここでこの要素は終わります」と指定することなんだよね。
だから、きちんとスタイルを適用して作ったInDesignデータから書き出したXMLなら、電子書籍のフォーマットに変換するときに、必要なタグは一括で置換できるし、不必要なケバみたいなタグも、やっぱり一括で削除できるはず。
ただ、InDesignでデータを作る時にイレギュラーなことをやっていると、面倒なことになる。
例えば、オレもやったことあるけど、「1─◯◯◯◯◯◯」みたいに、罫線を使った見出しを作るとき、罫線の部分をインライングラフィックにして貼り込んだりする。そういうデータの場合、単純にグラフィックのところだけを削除しちゃうと、「1」と「◯◯◯◯◯◯」のところが詰まっちゃったりする。
だから、ある例外処理をする場合も、XMLに書き出したときにちゃんとなる、というのを意識した例外処理をしていかないとダメなんだよね。

須田 見出しだけアウトライン扱いのデータということも、本の世界では結構ありますもんね。
うちのように社内組版をしていない場合でも、印刷所にデータを渡すときに、明確なルールに基づいた形にする必要があります。
それから、印刷所に組版を依頼する場合は、「印刷所は組版データを引き渡してくれるのか」という問題もありますよね。「他に仕事を持っていかれるかもしれない」と思うからか、しぶる印刷所もある。だから、「版は出版社のものである」と明らかにしておかないといけません。

沢辺 オレは元々デザイナーなんだけど、昔、それで逡巡したことがあるんですよ。例えばグルメ雑誌のように定型的なフォーマットの場合、「お店の名前、電話番号、住所、本文、代表的なメニューと値段」が入ったものを一度作ってしまえば、次からはある程度コピペで処理できるでしょう? もちろん、ある程度だけどね。
そうすると、「組版データをください。次からは編集者にやらせるから、デザイン料はタダね」と言ってくるところがある。明確に「タダ」とは言わないんだけどさ。

須田 まあ、データをくださいと言われれば、そういうことなのかな、と思いますよね。

沢辺 で、それにどう対応するかなんだけど、最終的には、「編集者が再現して満足されるレベルであれば、お呼びがかからなくても諦めるしかないな」というところに落ち着きましたよ。データをあげるあげないのところで踏ん張ったところで、勝ち目はないしね。

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[参考:はじめてのドットブック作成【本の現場編】│ポット出版]

●電子書籍にも流通が必要

須田 ここまではデータメイクアップの部分でしたが、他に電子書籍への準備としては、そうやって作ったデータをどこに流通させればいいのか、というのがありますよね。電子の世界でも書店があるわけですから。出版社のサイトに直接買いにきてくれる人の数は、先々も大きくならないと思います。決裁手段をあちこちに分散させるだけで、読者としては嫌ですもんね。太郎次郎社の本を買うためにいちいちクレジットカードの番号を入れたくないですよ。AmazonやiTunesストア、Appストアで買えれば、それがいい。じゃあ、そういうところにどうやって提供していくか、というのが課題ですよね。聞く話だと、ずいぶんいい率を抜かれるらしいですが。

沢辺 その辺りのことを考える上で、『デジタルコンテンツをめぐる現状報告』の中のモバイルブック・ジェーピーの佐々木隆一さんの話が参考になるよね。結構具体的な数字も言ってくれたし。

須田 やっぱり流通割合がかかるんだな、と思いました。解決するのは置き場所問題くらいですかね。

沢辺 ですよね。電子書籍好きな人は、「出版社はもういらないし、著者が直接売れば本も安くなる。何もかも一挙解決」みたいな夢を語ってたけど、「やっぱりそうはならねえよ、ざまあ見ろ」って(笑) 現状、総制作費のうちの紙代と印刷代が占める割合って、そう高くないですからね。

須田 流通もなくなるって言われたけど、なくならないですからね。情報だって流通はあるんだから。

沢辺 それから、決裁手段を提供してもらえば、そこにマージンもコストもかかる。だから、今書店に22%払っているとしたら、電子書籍の場合はカード会社に5%、電子書店にも10数%持っていかれて、結局、今と同じくらいのマージンがかかる。そうすると、劇的に安くすることはできないよね。

須田 劇的に安くすると、どこかの人が死んでしまうわけですよね。死んでしまうと出版物は出力されないので、死なない程度の値段を皆で出さざるを得ない。

●電子書籍の、権利のゆくえ

沢辺 ここまでの話をまとめると、須田くんは電子書籍に対して、「手間なく出せるようにする」「どこに出したらいいかを探る」という二つの準備をしようとしている。

須田 そうですね。フォーマット的な準備と、流通の準備。あと権利者へのケアも重要ですね。
実際に電子書籍を出すときには、「事前に説明はするけど、報告は金額が大きくなるまで待ってね」というやり方でないと動き出せないと思います。分配割合を決めて逐一報告するのは、最近のメールで連絡を取り合っている著者に対してはできるけど、そうじゃない著者にはできない。
あとは、太郎次郎社エディタスは新刊の売上割合がそれほどないので、今後電子の方に比重が移るとすれば、既刊を電子化していくことも必要になります。既刊を電子書籍にしたものも、長期的にはペイすると思いますが、既刊の場合は、新刊を電子で出すよりも権利がやっかいです。かなり前に出した図書に関しては、ご本人が存命でない場合もありますし。
でも、やりたいな、と思います。もしかしたら、連絡もなかなかとれない著者のものを電子化するのは、出版社の仕事じゃなくなるのかもしれないですけど、最初にツバつける権利は出版社にある気がするので。

沢辺 オレは、現状出版社に著作権はないし、版面権もないけど、電子化にあたって、「やる手」だと思ってるんだよね。
テープに起こせるかどうかわからないけど、オレの本音を極端に言えば、電子書籍を売り出したら、「このようにしました。売上は立ってきたら報告しますので」と連絡はするけど、「いついつまでに何なにを」という具体的な約束はせず、「いつか報告するよ」ということにしちゃうかな。「いつか報告して、その時に取り分については相談しましょ」と。
もっと極端に言えば、許諾を得ないでどんどん電子化を進めちゃって、「あなたの本を電子化して販売を始めました」と通告するかもしれない。それで「ゴメン、やだよ」と言われたら「ごめんなさい。じゃあ、電子本から外します」という、ある種Google的なやり方も考えてる。
権利割合についても、後から「もう売っちゃってるけど、今まで売ったのは何冊で、これくらいの割合で支払いたい」と交渉すればいいんじゃないかな。

須田 実施側としては、どうしてもそうなりますよね。
利用者の立場から電子書籍の権利の話をすると、この前、Kindleで購入した『1984』が消されましたが(参照:「Kindleユーザーの本棚から消えた「1984」、Amazonが勝手に削除!? | ネット | マイコミジャーナル」)、一度世に出した出版物が、あんなに簡単に回収できてしまうのは考えものですよね。

沢辺 ただ、オレは電子本に関しては、権利関係が変わるんだと思うね。所有権ではなくて、利用権・ライセンス権になっていくんじゃないかな。

須田 そう思う部分もあるんですけど、一読者として言うと、ライセンス権はすごく不安ですよ。例えばある出版社の本を買って一定期間利用できるとしても、その会社が消えてなくなったときに、自分が買った本の利用権はどうなるのか。
今あるものだと、着メロは利用権的なものですよね。あれは、機種や通信会社が変わったときに、データを移せません。それに対してiTunesミュージックストアで買ったものは、マシンを変えても聴くことができる。着メロのような限定的な利用権までいってしまうと、読者の意欲を削ぐのではないかな、という気がしています。
だから、「利用権でいいや」という人が多くなるか、「やっぱり手元のデータのところは永続的な権利で欲しいよ」ということになるのかは、ちょっと微妙だと思いますね。

沢辺 ちょっと話がそれるけど、オレは、今後利用権の考え方が広がって、アプリケーションを時間で買えるようになればいいな、と思うんだよね。今ポットでは、広く薄く、みんながInDesgin使っているんだけど、編集者がInDesignを触るのは、1ヶ月200時間働くうちの10時間だったりする。だから、社員10人に対して今のように10個分の権利を買うんじゃなくて、5個分くらいで勘弁して欲しい。5個のうち2個は、決まった2人が年がら年中使うけど、あとの3個は、残り8人のうちの誰かが使います、というライセンスにしてくれたら、もっと金を払いたくなるはずだよ。
で、出版社が倒産したらどうするの、という問題は、やっぱり共通インフラを作らないといけないかな。

須田 レジストリ的なものがあって、出版社が立ち行かなくなって両手を上げたあとも、最後に「こういう条件でこういうプロテクトをかけてました」という情報をレジストリに戻せば、引き続きレジストリ側が管理をしてくれて、著者への支払いのアクセスもそこで担保されるとか。そういう仕組みがないと、安心して買えないですよね。ただ、そのレジストリの信用度をどうやってつけるか、という問題はありますけどね。

沢辺 それはもう、小学館、講談社が入るしかないよ。で、オレたちもその中にぶら下がる。だけど「お客様」じゃなくて必要な金は出す準備はしなくちゃいけないし、口出しもできないとね。「なんだよそれ、高過ぎるだろう。内訳見せてみろ」ということが言えるポジションを作っておく、というのが課題かな。

須田 そういうとき、版元ドットコムが果たせる役割があると思います。業界インフラの「一社いくら」の分担金ってだいたい、小さい出版社ほど、売上金に対して高くなるようにできてるんです。もちろん、そのことには合理性もあって、一社いれば一社分の事務手続き、IDやパスワードを発行して請求書を出したりするコストを反映しているわけです。だから、小さな出版社が何社か集って、「講談社は一社で何十人もPOSを見る人がいる。使ってる人数の合計は俺たちと同じくらいなんだから、金額も同じくらいにしろ」と言っても「手間考えろよ」と言われちゃいます。でも「版元ドットコム」という一つの主体なら、「窓口は一本でいけるので、一社扱いまではいかなくても、三社扱いくらいでどうですか」と言える。
一社でやると撥ねられるかもしれない、というのは、ずっとコンプレックスになっています。取次窓口に「出版VANの加盟の仕方を教えてください」と言っても、「えっと、部門がどっかにあるはずなんですけどね。今度調べてお知らせします」と言われてそのままだったりしますから。
それに、やっぱり大手さんは数が少ないから、話が早く進んでしまう可能性がある。

沢辺 ただ、オレの経験で言うと、大手の出版社は零細出版社にもの凄く気を遣っている感じはするけどね。例えば「小学館の社長は、書協の理事長にはなるないようにしている」と聞いた。確かに書協のリストを見ると、理事長は小峰書店とか、中堅ですよ。小学館は副理事長にはなるけど、トップにはなってない。

須田 大手が勝手に物事を進めている形にならないようにしているんですね。

沢辺 でもそれって、他の業界ではありえないでしょ。例えば、新聞協会だって、「秋田さきがけが会長で、朝日新聞は必ず副会長です」なんてのは、多分ないだろうし。

須田 出版業界は、国連に近いですよね。国連の事務総長はP5の中からは出てこない。

沢辺 そうそう。そして、書協で物事を決めても実効性がないのも、まさに国連と同じでしょ(笑)。

須田 そうですね。小さいところの実勢を尊重するから、「これを進めます」と言っても進められないところがある。

沢辺 それが、商品基本情報センターの登録料1冊500円を、書協の会員社ですら、少なくない数が払ってないという実態が生まれる根拠でさ。まあ、書協というのも凄い組織だな、と改めて感じましたけどね。

●まだ見えない、本の未来

沢辺 最後の最後に、どうですか。出版業界、版元ドットコム、なんでもいいんですけど、何か言い足りないことは。

須田 そういえば、永江さんの『本の現場』を読んで、「これからの本の行方として、こういう形が続けられるかな」と思ったことがあるんです。
『本の現場』って、連載していた原稿だけじゃなくて、章毎に単行本用の補遺がありますよね。あの補遺での読者との距離感は、電子本では出しにくいものなんじゃないでしょうか。
というのは、連載時の部分は、ちょっと上下を着てる感じなんですけど、補遺の中では、「ぶっちゃけ、新書の新刊がクズばっかりだ」という話が出たりしてるじゃないですか。
ああいったものは単行本で読む読者にはとてもうれしい。ああいう、単行本という媒体によってできる親密さというのは、電子では出にくい部分じゃないでしょうか。ホンネをぶっちゃけるだけなら、ブログなどでもする人はいますが、それとはまた違ったかたちの文脈を共有してきたことによる親密さというのは、結構大事な出版文化なんじゃないかな、と思っています。
本を読むという行為には、「著者と一緒に長い時間、対話する」というところがあって、その時の著者と読者の距離は、すごく近い気がするんだけど、実際はネットのようにすぐにコメントを書き込んだりメールを送ったりできるわけでもなく、けっこう遠い。そういう距離感で、著者の肉声によりそって一緒の時間を過ごした後にポンと本を閉じる、という感覚が、電子にはなかなかない。
その感覚が電子にも出てくるようになれば、私自身、紙じゃなくてもいいと思うんですけど、今のところ、紙の本にはその辺りの距離感の面白さが、著者と読者と業界の色んな人たちが作ってきた結果としてある。その体験を電子の本にどうやって置き換えていけるのか、というのが課題なのかな、と思います。その中で、「出版社の位置ってなんなんだろう」ということも考えていきたいです。

沢辺 実は今日、そこのところは話をしなかったんだけど、電子書籍の話をすると「今ある紙のものを、どうやってそのまま電子に置き換えますか」ということになることが多いじゃない? でも実は、電子書籍には電子書籍だから生まれる何かがあるんだと思う。いい例は思い浮かばないんだけど、無理矢理例えて言えば、文語体だけでなく口語体が生まれたような変化が、電子でありえるかもしれないし、その中には、須田くんが言ったような距離感、上下を着てるときとざっくばらんな感じ、という微妙なニュアンスも存在するかもしれない。

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須田 ネット上にあるものって、検索で飛び込んできた人の目を何となく意識してしまうところが、今はあるのかな、という気がするんです。
本の場合は1冊通して読まずに片言隻句だけあげつらう人がいたら、かなり恥ずかしいじゃないですか。でも、Webの文章に関しては、そういうあげつらいが恥ずかしいという意識がちゃんと持たれにくい。それは、1冊の本としての存在感が電子上のものにないからじゃないでしょうか。
本はある種の強制力を持っていて、必ずそうしなくちゃいけないわけじゃないけど、1ページから200ページまで通して読ませる構造になっていますよね。
その結果、本というのは著者と読者の親密な空間を作るんじゃないでしょうか。親密といっても、肉親のような関係とは違う、本独特の、かなり貴重な空間ですけどね。

沢辺 オレは、どこにどういう発明があるのかはわからないけど、何かの可能性は意識しておかないといかん、と思うんだよね。本だったら引用だったものがリンクになるのか、カギカッコという道具が発明されたように、別な道具立てが発明されるのか。とはいえ、現状オレは何も思いつかないから、前に行くしかない(笑)。一方で可能性を意識しつつもね。

須田 出版社って、リスクが大きい商売で、だからこそ、「出版するんだからそれなりの内容だろう」という信用があった。スタジオ・ポットSD日高崇さんが「『本になったものだったら典拠として正しい』というのは本による情報ロンダリングだ」と言っていたけど、その信用は出版への敷居の高さが支えていたわけです。今は本を出す物理的コストがどんどん下がってきちゃってるから、「出版社が編集したものは、それなりのクオリティなんだよ。リスク背負って出してるんだよ」というのを出版社側がアピールできないと、出版社の役割ってなくなっちゃうんじゃないかな、と思うんですよね。
流通自体も、電子の流通は、既存出版社だからといって優遇してくれないと思うので。そこで既存出版社が残っていくには、「リスクをとって手間ひまかけて本にしてますよ」というところしかないかな、と思いますね。

沢辺 オレは、既存の出版社は、まだ2、3年のあいだ優遇されると思うから、その短い期間、相対的優位性があるうちに、とっととポジションを築いておかないいけないと思う。
ただ、優遇と言ったって大した優遇ではなくて、5年10年経ってしまえば、「何それ?」と言われても不思議はない程度の脆弱なものだから、開拓時代のアメリカみたいに、早いところ「海辺の、港ができそうないい土地」を切り取らないとね。
その先、今度は港よりも飛行機の時代になっちゃって、海辺の土地に価値はなくなっちゃう、ということもあるかもしれないけどさ(笑)
(了)

これまでの回

第1回「太郎次郎社エディタス・須田正晴は如何にして版元ドットコムに入ったのか」
第2回「いまだに、信頼できる書誌データがない」

プロフィール

須田正晴(すだ・まさはる)
太郎次郎社エディタス 営業部勤務
1995年太郎次郎社入社。2003年太郎次郎社エディタス設立にともない移籍。
版元ドットコムには設立時より幹事・組合員の一員として参加している。
Twitterのアカウントは@sudahato

2009-11-30

談話室沢辺 ゲスト:太郎次郎社エディタス・須田正晴 第2回「いまだに、信頼できる書誌データがない」

●ノウハウを、もっと共有していきたい

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沢辺 太郎次郎社エディタス、もしくは中小零細出版社、もしくは版元ドットコムとして、須田くんは今後何をやりたいと思ってるんですか?

須田 版元ドットコムとしては、細かいノウハウの共有を、もっとたくさんやっていきたいです。あまりアイデアがあるわけでもないし、利用者がどれくらいいるかわからないんですけど、高島さんや私が売上分析や書誌整理のためのエクセルのテンプレートを公開したりしてる(版元ドットコム:資料・ツール)じゃないですか。ああいう、何か始めようと思った人のきっかけになるものがあるのがすごく大事だと思っています。
私が版元ドットコムで活動していてありがたかったのは、入社直後に先輩が辞めてしまい、部署的なすれちがいもあって誰からも教わることができなかった営業を教わる場所ができたということでした。そういう場所として機能していくために、今FAQなどでやっているのを、もっと整理していきたいです。
例えば出版用語辞典も、「なかなか難しい」という話になったんだけれども、あれを簡単なところからもう一度立ち上げられないでしょうか。具体的に言うと「辞書」なんですけど、たとえばパソコンを買って来たばかりの状態では、「トーハン」って変換では出ないじゃないですか。「日販」も出ないし、「日教販」も出ないし、「延勘」も、「返条付注文」も出ない。そういう類のものって、大きい会社ではちゃんと辞書があると思うんですよ。それとも、個々人が鍛えてるんでしょうか。

沢辺 なるほど。そこは疑問に思ったことはなかったな。

須田 まあ、沢辺さんは自分で鍛えちゃうんだと思うんですけど、個々人が辞書を登録しているのって無駄じゃないですか。出版用語辞書を作ってあれば、それを入れるだけで出版関係の用語が簡単に出てくるようになって、しかも「じょうび」と入れたときに「常備」という漢字だけじゃなくて「本の所有権は出版社にある」とか、検索候補の中にヘルプが出てくるようにできたらいいな、と思ってます。細かいことなんですけど、ただでさえ小さい会社の人間が、一つひとつやっているのは手間ですから。そういうツールが入った便利箱が版元ドットコムにあって、各自が作ったものをどんどん入れていけたらいいな、と。
まあ、辞書に関しては本当に使いでのあるものになるかはわからないですけど、社内にパソコンを入れる度に出版関係の用語を入れるのが面倒くさい。新しいパソコンでその用語を初めて打つときに辞書登録するから、あっちのパソコンには入ってるけど、こっちのパソコンには入ってない、ということになるわけです。そんなの統一しちゃいたいと思うんですけど、社内のためだけだと、あまりやる気がしない(笑)。というのも、得することよりも、その辞書をメンテする手間の方が大変なので。ただ、共有辞書に少しずつ上げていくのであれば、後の人のためになるし、誰かが上げてくれれば、自分も苦労いらずでたくさんの語彙のものをダウンロードできますからね。
自社の用語の使い方と多少違ったとしても、やっぱり、共通であったほうがいい。そういう小物のノウハウ共有をもっと進めるのが、版元ドットコムでやりたいことの一つです。
あとは、そろそろ書店直送が現実的にできるんじゃないかな、というのが、沢辺さんたちの35ブックスの話を聞いて出てきました。今のところ、返条付は難しいかな、と思うんですけど。
他にも、前にトランスビューの工藤秀之さんと何人かが、取次の改訂版の書式について組合会議で話しているのを聞いて、「そんな書式があるんですか」と言ったら、メールでパッと書式を貰えたのが、非常にありがたかったです。まずそういう書式が存在することすら知らないと、貰うこともできないことじゃないですか。だから、本当は問題あるのかもしれないけど、そういうのもどんどん版元ドットコムの共有箱に入れていって、「最新版は窓口に貰いに行ったほうがいいかもしれないけど、こういうものが存在しているんだよ」ということが恒久的に分かるようにしておくのがいいと思うんです。
それなりに大きな会社では、「この時には、こうなってるから」というノウハウは社内の誰かが教えてくれるのかもしれない。でも小零細の出版社の中にいると、それがない。だから、版元ドットコムはノウハウ共有の一助になることを期待されているんだろうな、と思います。だから、そこは読者が、というよりは会員さんに使い勝手がいいものですね。

沢辺 オレはもうちょっと皮肉な、斜めな目線で見ちゃうんだよね。例えば改訂版のノウハウにしても、工藤くんは、そこでパッと書式が出てくるわけだよね。これ自身、なかなか凄いことだよな、と思うわけですよ。トランスビューって、社員3人くらいで、営業やってるのは1人だよね? つまり、工藤くん自身がそこまで全部カバーしていて、パッと出てくるわけよ。この前も、「d/sign」っていう太田出版の雑誌から松本晶次さんの『わたしの戦後出版史』(トランスビュー)という本の書評を書いてくれっていう依頼があって、書いたんだけどさ。依頼を受けたあと、会議か何かで工藤くんに会ったとき、「今度あの本の書評書くんだよ」って言ったの。そうしたら「書評のPDF送りましょうか」と、1ファイルになった書評のPDFが送られてくるわけよ。そういうのをキチッと整備しておくのって、意外と大変じゃない?

須田 工藤さんの整理能力と事務能力は、何か異常だと思いますよ。

沢辺 でしょ? 工藤くんのようにできる人はこの世にそうそう居ないんだから、彼を基準にしちゃいけないな、と。それと、須田くんのように改訂版についてのクエスチョンを立てられるということだけでも、大したものだと思うんですよ。問題を立てるのって、結構難しいじゃん。わかってないと、問題意識もないしね。
オレが何を言いたいかというと、現状の組合員はかなり優れている人が結構入っているから、組合員の基準で版元ドットコム全体を進めることはできないよね、ということで。

須田 「それはついていけないよ」というのは、頭においておかなきゃ、と思います。でも、皆がすぐできることはどのくらいか、というのは考えてるんじゃないでしょうか。例えば、自分は組合員なのに、このあいだメーリングリストに流れた版元ドットコムの会員社アンケートをまだ答えてないや、いうことが現実にあります。組合員社にもそういうズボラなのがいるんだから、会員社には、もっとメーリングリストをちゃんと見ていない人がいるだろうな、というのは想像できるわけです。

沢辺 そのアンケートのことについて、一つ「あ、いけない」と思ったのは取次の集品回数と出版社の納品サイクルを入れておけばよかったな、と。書店にとっては、それを情報として集めるのは大変でしょ。

須田 そういえば、日販の王子流通センターには「出版社カレンダー」というのがあるみたいですね。つまり出版社の営業日を把握してるみたいなんです。お盆とか暮の時期になると、日販から、「王子はこういう動きです。おたくの会社はどう動きますか?」というアンケートが来るんですけど、そのアンケートに「これは出版社カレンダーには反映されません」と書いてあるのに気づいたんです。ということは、出版社カレンダーというものがあって、書店はそれを参照してるんじゃないか、と。それがここ半年くらい引っかかってる疑問としてあって、もちろん電話して聞けばいいんですけど、電話したらいなかったのが2回くらいあったのでそのままになってる(笑)
日販のカレンダーは日販と取引している書店さんにしかいらないでしょうから、集品の期日とかと合わせて、書店さんに持ってもらえたらいいですよね。

沢辺 それは、版元ドットコムのMLに直ちにメールしておく手だよ。「出版社カレンダーというのが前から気になっていて、僕が調べます」でもいいじゃない。そうすると、誰かおせっかいな人が、おせっかいじゃないや、親切な人が「知らないの? こういうのがあるんだよ」って教えてくれたりするかもよ?

●出版社は、書誌情報をどこに持っていけばいいのか

須田 それから、既刊の書誌のメンテナンスについて。版元ドットコムは、新刊の書誌情報を流すことは結構しっかりやってきたんですけど、既刊のメンテナンスは大課題だと思っています。歯抜けになっている書誌情報があるのに、それがそのままになっている。さらに、その既刊の書誌は日外アソシエーツ・紀伊國屋連合、トーハン・TRC連合が持っていて、出版社ではなかなかタッチさせてもらえない。あれをなんとかタッチできるようにさせてもらって、既刊のデータも版元ドットコムと同期を取っていくのも、地味なようで大事な仕事なのかな、と。
最近ジュンク堂から「書誌情報の整備のために、『絶版』や『品切・重版未定』の情報が欲しい」という話があったみたいに、書店があてにできる既刊のデータベースは、現状、ありません。その状況は問題があるので、一括して版元ドットコムから呑み込んでもらえるところを増やしていきたいですよね。一方で、版元ドットコムに書誌情報をちゃんと登録してない会員社も多々あるので、信頼度のあるものを作らなくちゃいけない、と思うんです。でも、そこは鶏とタマゴで、使ってもらえるんだったらメンテしようか、という気にもなりますよね。

沢辺 須田くんの言う通りで、オレも年に3回くらい、「一斉メンテナンスやらないとまずいよな」と思うんだけど、「版元ドットコムのデータをメンテナンスしても、それを反映させてくれる場所がまだない」というのと、「反映させるべき場所が一杯あって、その全容を版元ドットコムも確定しきっていない」という2つがもう一歩、前に出れない「カベ」になっているんだよね。

須田 そうですよね。日外アソシエーツに行って聞いても、相変わらず全容はわからない。「何となくあの辺のブロックとあの辺のブロックが書誌を融通し合ってるみたいだけど、変えてもらうにはどこに持っていったらいいのか」がわからない。

沢辺 そうそう。例えば日外は紀伊國屋・日販グループだけど、日外の書誌を直してもらえば、日販や紀伊國屋も直るのか、逆に日販を直すと日外に反映されるのか、それとも個別に直してもらわないといけないのか、というのがわからない。

須田 そうです。聞きにいってもよくわからなかった。誰も把握してないんじゃないでしょうか(笑)

沢辺 書誌データに関しては、図書館の書誌データも気になってるんだよ。例えば国会図書館の書誌データと我々の書誌データが、果たして同一性が取れているのか。

須田 国会図書館といえば、ビックリしたことがあって。この間、小社で写真集を出したんですけど、そのあと国会の人から電話がかかってきて、「この著者は、小学館の児童向け絵本で写真を撮っている人と同じ人ですか」と言われたんです。「えっ? そんな仕事してたんだ?」と思って編集部の人に聞いたら、どうもそうらしいと。

沢辺 それも書誌データと同じで、せっかく国会が著者の同定をしてくれているのに、出版社側はそれを全く利用できていないよね。つまり、国会図書館の著者同定の作業でわかったことの中には、実は出版社が知らないことも、意外とあると思う。確かめてないけどね。
それでわざわざ『ず・ぼん12』で、「国会図書館の地下では、どうやって書誌情報を作っているのか」を調べに行った(記事のPDF:「国立国会図書館・JAPAN/MARCの現場を歩く[インタビュー]」)んだけど、やっぱり、かなりのことをやってるわけですよ。
例えば著者を同定する作業なら、その同定の経過も記録してるの。

須田 「出版社の営業部の須田に電話をしたら、『そうだ』と答えた」とか。

沢辺 そうそう。「出典はこれで、同一人物として確認した」とか、その出典もコピーして貼付けて、全部確保してる。せっかくそこまでやってくれてるのに、それを出版社が利用できていないのは、逆にもったいないと思う。

須田 既刊の書誌データの話に戻ると、受け入れ先としてジュンク堂はいいな、と思うんです。というのは、ジュンク堂のデータが充実すれば、どんなに売れない本でも3年に1冊くらいは注文が来るんじゃないか、という気がする。そうするとモチベーションが上がる。
他では、太郎次郎社がずっと前に出して、後からISBNを付番した本があるんですが、ISBNがついていない本としての情報がAmazonの中にあるんです。それがあろう事か、Amazonの検索順位で、ISBNがついているほうよりも上位に来ちゃう。具体的に言うと遠山啓さんの著作集・全29巻なんですけど、「遠山啓」で検索すると、岩波新書とかが上位に出てきて、次にうちから出している遠山さんの本の中で売行きが良い本が出てきて、そこから下のほうに、古本屋が出品している著作集がダーッと出てきて、そのさらに下に50冊くらい掘っていった先に、太郎次郎社の新品の著作集が在庫有りで一応出てる。でも、そんな下位に在庫有りで出ていても、誰も見てくれないですよね。
「ISBNがついている時代とついていない時代があるけれど、同じ本だからマージしたい」と思うんですが、マージできないんですよね。Amazonに直接聞いてみたことがないのでわからないんですけど。仕組みからしてどうも無理だろうって思ってます。

沢辺 「大きくつかまえて細かいことは無視する」というAmazonの商売の考え方は、それはそれで妥当性はあると思うんだけど、「本を売るうえで、同じものは同じものとして表示したい」というのもわかる。Amazonの中に「どうしたらいいですかね」と相談のできる人を見つけられていないのは、課題だよね。

須田 そうですね。Amazonや図書館のデータベースの中に話に乗ってくれる人がいて、「じゃあ出版社のほうでメンテしてくださいよ」と言ってくれるかというと、言ってくれないわけですからね。
だから今回、ジュンク堂が向こうから話を持ってきてくれたことに対して、「こういうこともあるんだな」と、ちょっと感激してるんです。その一方で、品切などの情報についての感度では、版元側と書店側には乖離があるじゃないですか。版元側は売り逃すのが嫌だから、少部数でも在庫があるものは「ある」と表示させたいのに、書店側から来るのは、「新規出店に出せるか聞きたい」とか、「一回貰えばメンテはもうしなくていいよ」という話になってしまう。今回、せっかく向こうから言ってきてくれたんだから、もっと詰めていって、リアルタイムとまではいかなくても、週に一度とか、それでも無理なら月に一度とか、在庫情報とクリーニングした書誌情報を更新する仕組みを作りたいですね。

沢辺 インターネット上のどこかに基本的な書誌情報を網羅したものがあって、そこから吐き出されるものをAmazonやジュンク堂が持っているデータとマッチングする仕組みが作れたらいいよね。マッチングしてズレがあったら自動的に出版社に問い合わせメールを出して確認、修正する、ということもできるかもしれない。例えば国会図書館のPORTAのデータを、ジュンク堂もAmazonも信用します、ということになれば、版元は国会のデータを直せばいいことになる。そういうルートができるのがいいよね。
でも、こういうことが具体的にオレたちの頭に立ち上ってきたのは、やっぱり10年間、あれこれ考えながら版元ドットコムをやってきたからだよね。

須田 そうですね。どの辺に問題があって、何が分からないのかが見えてきたのは、10年経ったからですよ。

次回へ続く

第3回「小さな出版社が、電子書籍について考える」
前回分は、
第1回「太郎次郎社エディタス・須田正晴は如何にして版元ドットコムに入ったのか」

プロフィール

須田正晴(すだ・まさはる)
太郎次郎社エディタス 営業部勤務
1995年太郎次郎社入社。2003年太郎次郎社エディタス設立にともない移籍。
版元ドットコムには設立時より幹事・組合員の一員として参加している。
Twitterのアカウントは@sudahato

2009-11-27

談話室沢辺 ゲスト:須田正晴 第1回「太郎次郎社エディタス・須田正晴は如何にして版元ドットコムに入ったのか」

●太郎次郎社は、なぜ版元ドットコムに「入って来た」のか

沢辺 今回の談話室沢辺の最初のテーマは「版元ドットコム」でいきましょう。そういえば版元ドットコムのことって、組合員(幹事)とちゃんと話したことがなかったな、と思ってね。

須田 版元ドットコム大全』にまとめたりはしていますけど、生きた言葉ではあまりないですよね。今日、『大全』を読みながら来たんですけど、99年の呼びかけから数えたら今年で10年、サイトオープンからは来年で10年なんですよね。

沢辺 そうそう。組合員が何人かいる中で、なんで須田くんと話すのかというと、結成当初の役員メンバーの中で、ダントツに若かったから。

須田 そうですね。今だと会員社の中に若い人もたくさんいるけれど。99年からいる人は、沢辺さんと私以外では、青弓社の矢野恵二さんと、第三書館の北川明さんで。

沢辺 あと、幹事を辞めたの佐藤英之さん、凱風社の新田準さん。当時矢野さんたちが50代半ばくらいで、僕が40代前半。須田くんは20代だったでしょ?

須田 僕は25歳だったから、ちょうど20代の真中でしたね。

沢辺 それから、版元ドットコムと流対協(出版流通対策協議会)との関係はそんなに深いわけではないのだけど、そもそも版元ドットコムのアイデアが流対協の中の勉強会の過程で生まれた。版元ドットコム立ち上げ時のメンバーは、須田くんがいる太郎次郎社以外は流対協の会員社だったんだよね。
だから、まず「ところで、太郎次郎社は、なんで版元ドットコムに入って来たんだっけ?」というところから聞きたいな。
立ち上げの時から居たんだから、「入って来た」というと語弊があるのかもしれないけど、他はみんな流対協の勉強会をやってたから、やっぱり感覚的には「入って来た」という感じだった。

須田 経緯を説明すると、1999年の12月に、飯田橋の「東京しごとセンター(当時はシニアワーク東京)」でやった版元ドットコムの呼びかけ会に、私が行ったんですよ。
説明会があることは、12月1日の朝日新聞の記事で知りました。その記事は私が見つけたわけではなくて、社の先輩が「こういうのやるらしいけど、須田くん興味あるんじゃないの?」と言ってくれたので「じゃあ、見てきます」となったんですけど。

沢辺 枝葉の話なんだけど、そのときの新聞記事は、オレ的には、「ズレた報道のされ方をされているな」という意識があったよ。「書誌情報」より「産直」の話が重視されていて、「出版社が、インターネットを使って直接販売するらしい」みたいな感じで書かれていた。

須田 僕はその頃、「インターネットで今すぐたくさん本が売れる」とは思っていなかったです。でも、出版社のホームページがいくつかでき始めた頃で、太郎次郎社はまだサイトがなかったから、その辺のことは知っておかなければならないな、という意識がありました。
説明会に行ってみようと思った一番の理由は、書店側に本の情報が届いていない、という状況への問題意識です。その頃、大手はすでに出版VANで動いていたけれども、太郎次郎社は出版VAN(※参照「高島利行の出版営業の方法:第21回 新・出版ネットワークあるいは出版VANの今とこれから」)に接続していないため、まだ流通している本なのに、「書店で品切れって言われたんだけど」と、言われることがあったんです。つまり、アルバイトの書店員さんが検索機を叩いた時に出てこなくて、それを「こんな本はありゃしない」とか「こんな本は絶版です」と言われてしまっていた。
これは何とかしなくては、という意識を持ち始めた頃に、ちょうど版元ドットコムに出会ったんです。

沢辺 そういうことがあったね、あの頃。

須田 今でも、正題と副題を間違って叩いちゃったり、取次の書誌のほうがちがってたりして「ない」と言われることがありますよ。あと、取次によっては、すごく長い取り寄せ期日になるとか、「取り寄せできるか不明」というステータスが出ちゃうことがあって、それをお客さんに「品切れ」と伝えちゃう書店員さんもいます。もちろん、以前と比べたら減りましたけど。
これは多分、書店員さんというよりも、取次データベースのインターフェースの問題だと思うんです。ただ、当時我々出版社側が「その本はあります、この本はありません」と言っていなかったことも確かで、「言わないんだから、わかるわけがない」と言われればその通りでした。
でも、その「在庫の有無」をどうやって言えばいいのか、というのが自分にはわからなかった。だから、「版元ドットコムという団体は、そういうのをやるらしい」と知ったときに、「良いな」と思ったんですね。
それから、ネットで本が売れるとは思っていなかったけれど、「調べるのはネット」の時代になっているんだな、という感覚がありました。あの頃はまだGoogleもなかったから、検索ってすごくノウハウのいるものだったんですけど、気の利いた人は検索で調べていましたから。

沢辺 なるほど。確かに版元ドットコムは「書誌を自分たちで発信するんだ」と言っているけど、そこに至ったのは、須田くんが言ったような泥臭い理由なんだよね。要は、たとえばジュンク堂の大阪店で「そういう本はありません」「ポット出版は取引がありません」と言われちゃったりとか。取引があるのにだよ(笑)
もちろん、アルバイトの人がポット出版のポの字も知らなくても当たり前じゃん、という面もあるけどね。
在庫情報のことは、自分たちとしても当時強調したいポイントだった。

須田 そうですね。在庫の「ある/なし」の話は、今でも気になっているところです。最初の考えは、「あると言いたい」だったんですが、ずっと後になってから語研の高島利行さんに影響されて、「ないですよ、も大事なんだ」と思うようになったり。

沢辺 そうだね。在庫があるということを発信してないのに、「書店が探してくれない」とか不平を言っていても仕方がないから、まず自分たちで「ある/なし」をちゃんと発信しようよ、と。
それで、最初の説明会を聞いて、どうだったんですか?

須田 説明会を聞いてビックリしたのは、最初から出資社を募集していたことですね。入会はこうで、幹事社になるのはこうだ、というのを言ってたと思います。出資金20万円、入会金1万円、会費はこのくらいの見通しでできそうだ、という話でした。すごく面白い取り組みだと思ったし、在庫情報の発信は一社で四苦八苦しながらやっていても到底できないと思ったので、「これは乗る手だろう」と思ったんです。
会社に戻って、「これは入会ありですよ、会員になりましょう」という話をしたんです。そうしたら社長から、「こういうのはサービスに乗っかるだけじゃ駄目なんだよ。会議に行って『良い話聞いてきました』だけじゃつまらないだろう? 作る方に乗っからなくちゃ。幹事になれよ」と言われて、「やらせていただけるんだったら、やります」と。

沢辺 それはまず、社長がすごいね。

須田 振り返ってみると、「あのときは何だったんだろう」と思うんですけどね。社長はふだん、「本業よりも、そういう活動で世話を焼くのが好きなやつっているんだよな」と言っていて、自分も社員も会社の外の活動をするのがあまり好きではなかったので。太郎次郎社も他の団体に入っていた時期があったんですが、それも「毎月毎月会議ばかりしていて、何も実りが戻ってこない。あんなところ抜けちまえ」といって抜けたんですよね。その頃、私はバイトだったので、正確な経緯は知らないんですが。
とにかく、外向けの団体づきあいが好きではない人だったので、「幹事に入ってやれ」と言われたのは何でだったのかは、ちょっとわからないですね。推測で言うと、私が社内の内向きの仕事に向いちゃう体質なので、ちょっと外側に窓を開けた方がいいんじゃないか、という意識もあったのかもしれない。

沢辺 なるほど。「須田育成方針」として、外部のフレーバーを混ぜたほうが良い、という個別の判断だったのかも、と。でも、社長が言ったことはその通りで、版元ドットコムは、「結局、自分でやるほうが得なんだ」ということを大切にしてきたよね。

須田 そうですね。単なる参加者でいるよりは、作る側にいる方が得なんだ、ということですよね。

沢辺 そして、それはそれなりにうまくいってきたと思うんだよね。でも、投下労働量と成果を比べたら「はたして本当か?」ということはあるかもしれないけどね(笑)

須田 直接の営業業績という意味では難しいかもしれないですけど、明らかに視界が広がったとか、普段会わない人に会えたことは大きいですよね。その機会が業績に繋がっていないのは、どっちかというと私の問題で(笑)

●10年前に考えていたこと

沢辺 社長のひと言があって、いきなり幹事社として参加することになったわけだけど、発足前後の印象的な論争ってありますか?

須田 版元ドットコムの名称自体も結構揉めましたけど、印象的だったのは、「どうやって送料無料にするか」「送料無料で送るのは値引きの一種じゃないのか」という送料論争。
あと、定価表記について。「定価」と表記するのかどうか、表示は税込みなのか税抜きなのか、という話があった。消費税に関しては、99年の時点ではほぼ決着していたんですけど(消費税5%実施は97年4月1日から)、定価のほうは「2000円+税」のどこまでが定価なのかといった話もしていて、「ああ、いろんな経緯があるんだ」と思わされました。
僕は「定価」という表記について、皆がこうしているから、くらいに思っていたんですけど、出版社が定めているから「定価」なんですよね。それまでは値札を付けているのと同じような感覚でいて、「この価格で拘束している」という意識は全然なかった。
それから、どうやって組織を立ち上げるかとか、どうやって受注を各版元に回して発送から決裁までやるかという、実務上のフローの問題ですね。各版元が無理なく書誌情報を公開して、送料無料でお客さんにお送りする仕組みをどう作るのか、と。その頃ちょうど、TS共同流通組合が版元を回ってトラックで取りに行く仕組みを作っていましたけど、あれは出版社が受注のない日も毎日Webに見に行かなきゃいけないサービスだったので、「あんなの無理だよね」と話したり。
ほかには、会員の加盟資格をどうするか。結局、沢辺さんの「明文化できない」というのがすごくシックリきたんですけどね。あの頃だと「法の華」が入って来たらどうするんだとか、セクト系の会社がたくさん入って来たら、そういう風に見えるんじゃないかとか。「何を出版しようと自由じゃないか」という考えと、「最初から色がついて見られるのはよろしくない」という意識とがせめぎあっていて、その兼ね合いの付け方も面白かったです。
最後に、レジュメと議事録が毎回ちゃんと回っていること。社内の会議だと、決定事項は各自がメモをして、「これで進めますね」でおしまいで、その後の議事録は、あまり作ったことがなかったんです。だから、レジュメを作って会議をやって決定して、議事録がメールで回るのはすごく新鮮でしたね。メールを使って複数人数で動くプロジェクトに参加したのも初めてでしたし。

沢辺 正直言うと、あの頃はまだメールもあまり普及してないころで、メーリングリストを使った組織運営のノウハウがあったわけではなかったんだよ。
でも、今須田くんが指摘してくれたような、会議を開くときはレジュメ、終わったら議事録、それを役員だけでなく会員社にも全部回すことで、読まないかもしれないけど、しようと思った時にチェックができる公開性を確保する、というのは、実は一番大切なこと。色んな組織が立ち上がってはつぶれていく中で版元ドットコムが上手くいった最大の根拠は、そこのような気がするんだよね。

須田 メーリングリストで突っ込みが入るような、「口を挟んでいいところなんだな」という雰囲気があるのも大事だな、と思います。特に、会員の人は自社のことがあるから振り返って色々言えなかったりするんだけど、会友の人はすごく気軽に「こうなったらいいんじゃないの」と口を挟んでくれるので、運営サイドとしてもありがたいと思います。
例えば、最初は日程調整ひとつとっても、みんなでガタガタやってましたね。そうしたら、会友の川添歩さんが「日付を縦に書いて、その後一人ずつ自分の都合を○×で貼っていけばできるんです*」と教えてくれて、「すっげぇ、頭いい〜!」ってなったのを覚えてます。

*例
     川添 須田 沢辺
12/14月 ○  ◯  △
12/15火 ×  ◯  ×
12/16水 ○  ×  ◯
12/17木 ○  ◯  ◯
12/18金 △  ×  ×

沢辺 そういう会友のひと言は大事だよね。
当時全体として決まったけど、個人的には異論があった、ということはありました?

須田 うーん。異論はなかったと思います。ただ、立ち上げた後、書店向けの買い物かごがずっと実装されないことについては、「何でこれは優先順位が低いままなんだろう。客注が遅いのは問題なんだから、送ればいいじゃん」と思ってました。でも、今は150社だから少しは有用性があるかもしれないですけど、あの頃に「版元ドットコム30社は客注を直送します、と言ってもなあ」という感じですよね。
当時はそれがわからなかったから、「書店への直送もやると言っていたのに、なんでだ」という思いとともに「でも、有用なアピールの仕組みを自分でも思いつけないな」というのがありましたね。

●個人・須田正晴のライフヒストリー

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沢辺 なるほど。2番目はもっと遡って、そういう須田さんという人は、どのようにして太郎次郎社、それから版元ドットコムに至ったのか、を聞かせてもらえますか?
オレは、その人のキャラというのは、その人の活動と結びついているところもある思っていて、バックグラウンドとしての個人史が大切だと思うんですよ。

須田 私は1974年(昭和49年)生まれで、小学校のときは不登校児でした。小学校一年生の最初から「行きたくない」と泣きわめいていたそうで、なんだか知らないけど、学校になじみがよろしくなかったです。小学校6年間のうち、行ったのは実質3年か4年くらい。
それで「これは中学校に行ったらもっと酷くなるだろう。変わった学校を受けてみたらどうなんだ」という話があって、埼玉の飯能にある自由の森学園に、中学校受験をして入ったわけです。中学高校はそこで過ごしました。
私の実家が横浜のあざみ野なので、飯能まで電車で通学すると2時間半から3時間くらいかかるんです。だから寮に入って、中学校から親元は出て。高校1年生くらいになると寮にいるほうが面白くなって、土日も家に帰らないようになりました。
高校一年のときに、その頃はまだ珍しかったんですが、親がワープロを買ってくれたんです。
というのも、私は今でも字が下手ですけど、昔はもっと下手で人には読めないものだったので、中学の卒業制作はワープロで書いたんですね。そのときは寮の先輩に借りて。表示画面が3行しかないようなものだったんですが、手で書くよりは大分ましだったので、それで書いたんです。それを見た親が、「この子は文章を書くんだ」と思ったようで、パナソニックのU1s55Aiというワープロを買ってくれました。持ち歩きができるタイプで、フロッピーは2DDで入りました。
親がワープロを買ってくれた頃から、怪しげなビラを学校に貼ったり、同人誌を作ったりするようになりました。今思えば、その頃に出版のもとみたいなものがあったのかもしれません。4の倍数になるページ数でクリアファイルに面付けして入れて、リソグラフを回してガチャンガチャンと冊子にまとめたり。人から原稿を集めて作った冊子を、学園祭で無料で配ったりしてました。
ゆるい学校だったので、紙もインクも含めて、学校の印刷機をタダで使わせてもらえたから、コスト意識はなかったですね。自分たちで紙を折ってホチキス製本する気力の分だけ部数が作れたので。

沢辺 ちょっと話が戻るけど、自由の森の時は不登校にはならなかったの?

須田 中学1年のときは、土日に実家に帰って、そこから寮に戻れなかったことも、けっこうありました。中学1年生のときの寮は中学1年生と2年生しかいない寮で、毎日が修学旅行みたいな感じで、安心して寝られないところがあったんです。
中学2年生になったときに高校生と同じ寮に移ったんですが、中学2年生から見ると、高校生って大人じゃないですか。そうすると中学生が騒いでも高校生の仲裁が入るから、わりあい落ち着いた生活が手に入りました。馬の合う先輩とも繋がりができたし、それなりに友達もできたので、中学2年からはちゃんと通ってましたね。
その後、高校の時にいくつか本を読んで、「歴史の勉強がしたいから大学に行こう」と思ったんですが、自由の森というのは、いわゆる学力偏差値は付けてくれないところなので、自分で予備校に通って受験勉強をしなくちゃいけない。それで高校を卒業した後、一年浪人したんですが、勉強する習慣をもっていないので身が入らず、結局現役のときと浪人のときと二回落っこちました。
その浪人中は、時間があるので新聞なんかをすごくじっくり読むわけです。そのうち、世間での日本語の使われ方、主に漢字の文字使いがとても気になって、「交ぜ書きはすごく汚くて、ゆるせない!」という文章を浪人生のルサンチマンをたたきつけるように書いたんです。それを、後輩の卒業式で母校に行った日に、国語の伊東信夫先生、自由の森は国語じゃなくて日本語科といったんですけど、その先生に「こんなの書いたんですよ」と渡した。そうしたら、「君は、勉強もそんなに身が入っていないようだから、太郎次郎社というところに行って、日本語がどう使われているかを実地で学んできなさい。最初は使い走りかもしれないけど、何か分かるよ」と言われたんです。太郎次郎社は自由の森学園の設立にコミットしていて、伊東先生も太郎次郎社の著者の一人だったんですね。
ところが、「伊東先生の紹介で」と電話してから面接に行ったら、事前の紹介にちょっと行き違いがあって「なんだ、お前は」と、けんもほろろに追い返されまして。
その突き返され方が非常に腹立たしかったので、その足で都立日比谷図書館に行って、社長の浅川さんがどういう人なのかを紳士録であさったり、太郎次郎社がどんな会社か調べたりしたうえで、「字が汚いので宛名書きはできないけど、宛名出力のシステムを作ることはできますよ」とか、「面接でもらった雑誌のこことここが誤植ですよね。こういう『間違い探し』くらいならできますよ」というような手紙をワープロで書いて送ったんです。
自分でも「こんなこと言われて雇う人いないよな」と思ってたんですけど、最初に行って帰されたのが5月で、確か7月に太郎次郎社から「手紙を見て気になってたんだよ。来なさい」と連絡があって、8月から勤め始めたんです。最初は出庫係だといわれました。その頃の太郎次郎社はそこそこ人数がいたので、出庫をやったら次は雑誌の編集に行ったり、営業と編集が1年とか2年毎にローテートしていたんです。私も勤め始めて半年後からは、編集部のほうの使い走りになったり、また営業に戻ったりと、行ったり来たりするようになりました。版元ドットコムの話を聞いたのは、営業にいた頃です。1994年の8月に時給のアルバイトで入社して、版元ドットコムの呼びかけが1999年末だから、6年目でした。

沢辺 当時、既に本郷三丁目にある自社ビルだったの?

須田 そうです。ビルの地下に倉庫があって、そこで出庫をやっていました。

沢辺 ということは、取次が取りに来る、集品版元だったんだ?

須田 そうです。トーハンと日販は毎日あって、栗田、大阪屋、中央社、日教販は共同集品で月水金、太洋社は一社集品だけど月水金、あと鈴木書店と大曲にあったトーハンの専門書センターの納品は、赤帽さんに頼んでましたね。
まず、回収してきた短冊と、電話注文を書き起こした短冊を、社内コード順に並べるわけです。それを取次別に分けて、ピッキングリストを書いて、リストを元に本を棚から出して来て、短冊を挟んで、合計冊数が間違いなかったら納品伝票を打つ、という流れでした。セット組みなどもあるので、200点くらい出庫すると、3時間から4時間はつぶれます。それが終わったら、代引きや直販の出荷をやる。それは点数は少なくても1点あたりの時間がもっとかかるので、他に自社の中のスリップを刷ったり付き物の手配もして、だいたい4時間か5時間、午後一杯は出荷の仕事でしたね。

沢辺 その時はデータベースとか作らなかったの?

須田 作らなかったですね。

沢辺 怠けてたんじゃないの(笑)?

須田 はい、そのとおりです。ちょっと言い訳すると、出版社システム自体は、既に入っていたんです。それは日販コンピュータのシステムで、モニタは単色、OSはPC-DOSというものでした。素性は上等なものなんだけど、いじり方がまったくわからなかった。いっしょにカード型データベースも入っていたんですけど、訳の分からない言語で、アプリケーションも何も入れようがないし、ちょっと手が出せませんでしたね。その後にMS-DOSベースのものが入って、それはもうちょっと使い勝手のいいものだったし、移行時にCSVやSYLK形式経由での転換もやったので、書誌情報を整理しようという気は起きていたんですけど、怠けてやってませんでした。
ただ、怠けていたのにも理由があって、ISBN順のリストや紹介情報を作っても、出力先がないわけです。だから、作る理由も出てこない。紹介文は図書目録に載ってるから、これでいいじゃん、と。だから、95年から99年までの間に、DB的なトライアルというのは、ほとんどしていないですね。
ただ、雑誌の定期購読管理だけはDB的なことをやっていました。日販コンピュータのシステムには雑誌の定期購読管理システムが入っていたんですが、MS-DOSベースの安いシステムに変えたとき、定期購読管理がついてこなかったんです。
だから定期購読管理を作らなくてはいけなかったんですが、自分ではとても作れないので、高校のときの友達に頼むことにしたんです。「ヤツの力を借りたいんですけど、いいですか?」と社内にも聞いて。でも、彼もかわいそうだったな。5万円くらいで引き受けたばかりに7日か8日会社に泊まり込みで(笑)
その時に初めてAccessに出合いました。96年か97年くらいですね。友達にAccessでシステムを作ってもらって、「DBってこういうものか。便利なものだな」と思いました。彼はクエリ・マクロからVBAまで高度なことを駆使して作ってくれたけれども、私はその作り方がわからなくて、Excelよりも並べ方が便利なシステム、くらいの意識で使ってましたけど。

沢辺 なるほど。それが版元ドットコムに至るまでの、須田くんのライフヒストリーだね。

次回へ続く

第2回「いまだに、信頼できる書誌データがない」

プロフィール

須田正晴(すだ・まさはる)
太郎次郎社エディタス 営業部勤務
1995年太郎次郎社入社。2003年太郎次郎社エディタス設立にともない移籍。
版元ドットコムには設立時より幹事・組合員の一員として参加している。
Twitterのアカウントは@sudahato

2009-11-20

談話室沢辺 ゲスト:J STYLE BOOKSオーナー大久保亮  第2回「書店経営の実情」

●書店の仕事とは


沢辺 最近印象に残る人の例はどんなもの?

大久保 子供向けのワークショップをされてる方から、子どもに土を使って何かを学ばせたい、それから野山に関する知識を面白く子供に伝えたい、ひいては環境問題に目を向けさせたい、という問い合せがありました。僕なりの観点から、その人の企画に使えそうな本をリストアップして、それぞれの本をすべて解説したりとか。

沢辺 で、買ってくれました?

大久保 買ってくれますよ。まあ買ってくれたということよりも、いい企画が出来たってフィードバックをもらえて、楽しいですよね。やっぱりその人の世界でしか考えられないこと以外のことを僕が提案できたので。例えば、野山駆け巡りながら環境問題も面白いけど、家畜をテーマにして、その家畜と肥えた土壌の関係だとか、そんなところからやるともう少し世界が広がって見えます、とかね。僕なりのセンスでアプローチの仕方を提案すると、「あ、これ企画いただき」とかそういう話になるんですよね。そうするとやっぱり在庫のない本屋でも少しは役立てるかなって(笑)。こういうことは、僕の今までのキャリアを活かした仕事にはなってるかなとは思いますね。というのは、会社勤めのときには、例えば役員が、あれどうなってる? これは?って思いつきでいうこともあるわけです。それをいちいちこう全部調べて、きれいに資料に落とす。またこれを調べたら当然こういう質問も来るだろうっていうのを考えた上で資料をまとめるわけですよね。こういう経験はいま役立っていますね。
だから、そういう人には、馴染みの本屋だけの域じゃなくなって、すごく大切にしてもらえるようになってきたなっていうのは自分でも感じますね。そこまでやってくれるなんて思ってなかったし、まあ普通だったら金を取れるくらいですよね。それくらいのクオリティのものをやってるっていう自信はあります。

沢辺 そうだよね。六本木の有料図書館だったら、有料なんだから、そのくらいのレファレンスはやってほしいっていうレベルの話だからね。

大久保 資料探しだけでもみんな大変なんですよね。例えば大きい書店さんに行って、自分の考えていることに関わる本を選ぶ時間だけだって相当な時間がかかるわけじゃないですか。ここからだって新宿行って往復もうそれで1時間でしょ。本を選んで、なかったらまた渋谷に行って、ってやってたら、もう何日分もそこで労力を浪費する。僕だったらだいたい1日、長くても2日。場合によっては1回リスト出して2日で取り寄せて、見ていただいて、すり合わせして。回答は1日くらいで返してますね。しかもその間、その人は別の仕事ができるじゃないですか。僕はそういう役の立ち方をしたいなって思うんですよね。やっぱり地域の人が仕事で上手くいってくれないと私も困るわけですよ。大不況でアパレルの方に次々倒れられちゃったら、僕は商売をしていけないんですよね。遠くから来ていただくような店じゃないですから。とにかく地元の人に役立つ。それはクリエイターさんだけじゃなくて、お年寄りから子供まで。地元の人に役立てられる店じゃないと僕は意味がないと思うんですよね。

沢辺 でもひょっとしたらそれで金取れるようになるかもしんないね。

大久保 いや、まあ取るつもりはないですけどね。

沢辺 いやもちろん。大久保さんにはないかもしれないけど。

大久保 普通だったらコンサルティングフィーは十分取れますよ。本代よりよっぽどこっちのほうが高いですよ。

沢辺 いやいや、本だけでなく、そういう付き合いがあればそこに目をつけて、ねえねえちょっとこういうのを10万円でやってくれない?って声がかかるとか。

大久保 4回くらいスカウトされましたもん。ウチの会社来ない?って。中には怒りだしちゃって、「君がここで店番してなきゃいけないのか!」とか言って(笑)。いけないんじゃなくて好きでやってんですからってなだめたりとか。いろんな人がいますよ。

沢辺 金払うからってやってよという人もいるでしょ?

大久保 全然本に関係ない仕事とか手伝ったりもしますよ。英語でプレスリリース書いたりとか。海外の展示会初めてなんだけどどうしたらいいかっていわれて。じゃあプレスリリースをまず雑誌に出すとか、とにかくもう宣伝しましょうって言って、結局翻訳もして。

沢辺 いいこと聞いたな。こんど頼もう。違うか(笑)

大久保 いいですよ。そういうお付き合いですよね。

沢辺 声がかかるかもしれないよね。

大久保 かかってます(笑)

沢辺 だけどこういうことって、最初からそういうことやりますからなんか声かけて下さいって言ってもダメで、大久保さんがそういうことを本という媒介を通じてみせてきたことっていうのが先にあって、それで付いてきているってことだもんね。

大久保 まあそうですね。
でも、僕が金を取らないのは、別にサービスで人間関係をつなぎ止めたいって思ってるわけじゃなくて、それで金を取っちゃうと、書店業のクオリティが下がると思うんですよ。そこまでやらなくても、例えばそれがレベルAだとしたら、レベルCとかDぐらいのサービスを店舗の中で出来ないと本当はおかしいんですよ。それが書店員の仕事でもあるわけじゃないですか。理想論ですよ、理想論。実は、それが、書店という小売業のクオリティと事業体力をつけさせることにつながる。だからそれを付加価値として、あらたに金を取るようじゃ書店員はダメだと思うんですよ。それだとただの売り子になってるだけで……。

沢辺 うん。そうそう、解る解る。

大久保 そういう思いがすごくあるので、あえて金を取らないという気持ちもすごくあります。

沢辺 コンサル目指してるわけじゃないもんね。書店的基盤があるからこそ、今受けてるっていうか、相談してくれたりするってことももちろんあるわけだしね。

●神宮前という土地柄

大久保 あとは土地柄が特殊だっていうのはありますね。これが町田の駅前の本屋で同じようなことをやろうとしたってたぶん出来ないですよね。ここにいるお客さんだからってのはすごく大きいと思います。

沢辺 なるほど。

大久保 だからまあ、そういう意味でもあの場所は、この場所っていうのは商売は難しいですけど、良かったかなと思いますよね。何が幸せかって言うと、いままでもう4年目ですけど、1回もここじゃなきゃ良かったなって思ったことなかったですね。ここじゃなかったもっと商売しやすいのにとか、こっちの方が良かったなとか、早まったなって思ったことはないですね。それは店を構える人間としてはすごく幸せですよね。
商売はもちろん難しいです。今日も来て下さったお客さんから「こんな目立たないところに本屋があったんだ」て言われた。その人は竹下通りからもっと先にある、アパレル関係の方だと思うんだけど、「こんなところにこんないい本屋あるの知らなかった」って。「ここは目立たないよね」「知らないよね」って皆さん言いますよね。まあそれが良くも悪くもあるんです。

沢辺 良くもあるでしょ。

大久保 そう、もちろん。

沢辺 裏通りの目立たない路地にあって、あれこんなとこに書店ができたんだって、見つけたときって、見つけるほうもうれしいわけですよ。それって裏通りで目立たないっていうマイナスが、プラスになるよね。

●軌道に乗せるまでの試行錯誤

沢辺 でもどうなんですか? 商売的に言うと、初年度は黒字になったんですか?

大久保 なってない。なってるわけないじゃないですか(笑)。やっと今年に入ってからですかね。

沢辺 え、じゃあ今現在は何とか黒字になってるんだ。

大久保 まあ威張れるほどの黒字じゃないですけど。黒字っていうか、ロスは出してないって言ったほうが正確ですね。いや、伸びてますよ、このご時世でも。伸びてますけど、ゆっくりゆっくりです。

沢辺 それ売上ベースで?

大久保 そうですね。

沢辺 でも減価償却は?

大久保 そんなこと考えてないですよ。考えられませんよ(笑)

沢辺 MBA持ってるくせに?(笑)

大久保 そう。考えない考えない(笑)

沢辺 損益分岐点とか……(笑)

大久保 そんなこと考えない(笑)。そんなこと考えたら毎日暗くなるじゃないですか。だからそりゃね。富士山登るような感覚なんですよ。朝、頂上のことを考えたら、毎日仕事なんてできないですよ。

沢辺 今日は一合目までいこうとか?

大久保 そう。達成できる地点をひたすら眺める。

沢辺 自分の食い扶持は出せます? 十分に。

大久保 そりゃ十分じゃないですよ。
ただ、垂れ流しは止まりました。

沢辺 何年ぐらいで止まったの?

大久保 2年かかりましたね。
1年目はボロボロで。なにやってもなにやってもダメでしたね。

沢辺 なにやってもって、どんなことをやったの?

大久保 品揃えもそうですし、商品の入れ替えも頻度はすごかったし。チラシは月に1万枚を2年間毎月やりましたね。

沢辺 1万枚のポスティングを?

大久保 はい。

沢辺 例のハガキ式ですよね。

大久保 ハガキ式もありますが、いろいろ試行錯誤しました。最初はビニールのショッピングバッグに広告と、あとちょっと興味を引きそうなチラシを入れたりして。そのままゴミ箱に捨てられないような、あ、この中に入ってるのってなんだろうって思ってもらえるようなものを組み合わせて入れて。

沢辺 版元のチラシみたいなとか?

大久保 いや、それはお客さんの宣伝や、お店のカードだったりですね。袋に入れて、配る手間は一つなんで、同じぐらいの時期にオープンしたレストランのチラシとかも入れて、配りましたね。

沢辺 月に1万枚ってことは……。

大久保 週3千枚強。

沢辺 週3千枚。っていうことは1日、7日毎晩やったとして一晩430枚。

大久保 一晩1千枚目標でやりました。

沢辺 そうだよね。毎日は出来ないもんね。

大久保 1千枚から2千枚くらい。この辺は、集合住宅ばっかりなので、1時間1千枚はいけますよ。何の自慢にもならないですけど。

沢辺 例えばさ、J STYLE BOOKSを起点にすると、どれくらいのところまで配りきれるの?

大久保 北は山手線の線路際から千駄ヶ谷方向にはサザビーズくらいまででだいたい1千枚ですね。2丁目から3丁目にかかるところで1千枚。で、表参道駅方面で言えば、まい泉あたり6丁目のエリアまでで1千枚とか。そんな感じですね。

沢辺 じゃあそれ1時間。まあそれなりに大変だわね。

大久保 いや、もう出来ないですよ。

沢辺 もう出来ない?

大久保 もうやる自信ないですね。倒れる。いまはもう考えたくもない。走りますからね。
昼間ポスティングしてる人たち見ると、いいなって思いますよね。こんなにのんびり配ってられてって。だって店が終わって、配れるのは3時間しかないわけですからね。

沢辺 小走り?

大久保 小走り。走ってる方が気持ちが保てるので。タラタラとやってると気持ちも落ちちゃうじゃないですか。だからタンタンタンってリズムつけて走る。ペースつけて配ってると気持ちもやっぱり乗るわけですよ。でも、配ろうとしたら「入ってくんな!」と怒鳴られたりとか。40歳近いMBAホルダーが……泣けてきます(笑)。
でもまあそれもやっぱ楽しくて。あ、いつも領収書を切ってくれるあの人はこんなところから来てくれてたんだって発見があったり。
チラシってすごいベタじゃないですか。コンサルティングをやってる人とかは、そんなのゴミになって終わりだよって、やりもしないくせにみんな言うわけですよ。だけど、意外にみんな見てて、しかも見たらすぐ来てくれるんですよね。こんなの入ってたって言ったり(笑)

●ポスティングの効果

沢辺 MBA仕込みの応答率で言うと(笑)、0.2%くらい?

大久保 いやいやいや、もっとありますよ。1%くらいはあるんじゃないかな。感覚的には。

沢辺 じゃあマーケッティング的に言うと、かなりの好応答なんじゃないの?

大久保 好応答だったと思いますよ。だから僕は、ポスティングが無意味かっていったら、無意味じゃないと言い切れます。ただ、やり方ですね。どういう内容でチラシを作るか。どういう形で入れるか。それは何百通りとやりましたよ。
ちょっと厚みのあるフリーペーパーで、くしゃっとされないようにしたりとか。で、最後に行き着いたのがハガキなんですよね。ハガキは意外にみんな捨てないんですよ。ホントのハガキと思うのかどうかわかんないですけど。

沢辺 厚みじゃないかなあ。それとさ、J STYLE BOOKSのハガキチラシってさ、大久保さんが作ってる感じがするの。

大久保 あ、そうですか(笑)

沢辺 大久保さんが自分のインクジェットプリンタかなんかで、つくってる感じがする。いや、素人の手作り風がいいと言っているわけじゃなくて、大久保さんらしくいろいろ工夫されてるなっていう風に思うんだよね。

大久保 それは言われたこと何度もあります。2年もやりましたから、1人何枚も見るわけじゃないですか。見てくうちにその変化も見えてくるし、やっぱりこの辺はグラフィックの方が多いので、ああいうの気になるのか、「あ、ここ変えた」とかそういうのちゃんと見てくれるんですよね。で、店に来てみたら、いつもこの人1人しかいないな……。

沢辺 そうそう。

大久保 もしかしたらこの人が自分でつくって、自分で配り歩いて、全部一人でやってんのかなって、そこまで見てくれるっていうのもまたありがたいですね。だから、一人でやってたから良かったかなっていうのは今はありますね。この人は店を閉めたあと、一人でやってるんだって、そのチラシの背景までちゃんとみんな見てくれる。

沢辺 物語、ね。僕は、店ができた時にぱらっと覗いたときはね、オシャレなカッコいい本屋出しやがって、という第一印象ですよ。率直に言えば。

大久保 (笑)気取りやがってって感じで。

沢辺 いかにもじゃないですか。場所も場所だし。そういう人がやりそうだなって。で、大久保さん二枚目だしさ。

大久保 いや、そんなことないです(笑)

沢辺 なんだけど、やっぱ一番印象に残ってんのはチラシ話だよね。

大久保 もう無茶苦茶、泥臭いですよね。

沢辺 時々立ち話するようになって、まあ一応応答は親切だから、ただキザってわけじゃないんだなって。それで時々お喋りするようになって、一番すげーって思ったのが、チラシ。1千枚撒いてるって言ってたとき。

大久保 そうですねー。あのときは絶好調のときです。チラシだけは(笑)

沢辺 僕もポスティングやったことあるけど、ホント嫌だった。

大久保 嫌ですよ。ポストに入れてる時に住民の人に会うのも嫌だし。

沢辺 そうそう。僕の場合は商売がかかってなかったから、どんなぼろアパートでも、ともかくポストの数があるとこ見つけりゃ、嬉しいっていうだけになっちゃって。だからポストの中にチラシが溢れているようなところでも入れる。そうすると一応減って嬉しいなあって思うんだよ。でもそんなそんなの効果もないってことは見た瞬間に解るのに、効果とか考えないでともかくこの手元を減らすっていうことしか考えなくなっちゃうじゃん。一戸建てかなんかが続いてるとさ、もう腹がたってきたりさ、やんなってきたり。一体何のためにチラシ配ってんですかねみたいな。

大久保 だから、配り方も考えましたよ。さあ今日やるぞって行って、でもポストがチラシだらけだったらその日はもう止めるし。何曜日が一番効果あるかとか。日曜日に頑張って配って、月曜の朝一にOLさんが見て、週末楽しかったねみたいな話をしながら手紙をさばいて、その中にチラシがあって、あ、本屋だっていうのを想像したりとか。何曜日が一番効果あるのかとか。配り方も色々考えたり。それがどれだけ効果あったのかっていうのは解んないですけど、ただ、そこで繋がってる方もたくさんいますし。

沢辺 僕が話したときに、「ねえねえ大久保さん自分で配ってるわけ?」みたいなことを聞いたと思うんですよ。

大久保 そうですね。その時話したのは、なるべくポストにある名前を頭に刷り込むようにしてるんです、と。

沢辺 そうそう。

大久保 あれもよかったんです。こっちは顔と名前が一致するわけじゃないですけど、領収書の宛名見て、千駄ヶ谷の先の方ですかっ?って話しかけたりして。えーなんで知ってんのって。もしかしてチラシ見てきて下さったんですかって。やっぱり自分の手で配ってよかったなと思いましたね。

沢辺 僕なんかもう人間が堕落してるからさ。チラシ配ろうとか思うと、いかにコストを落として、誰にどうやって効率的に配らせるかなんてことを考えるけど、「大久保さんが自分で配ってるの?」って聞いた時に、「もちろんそうですよ。ポスト見て名前も覚えるようにしてるんですよ。領収書を切る時に一声かけると割と喜んでもらえるんで、それだけ覚えるようにしてるんですよ」と言ったときに、やっぱちゃんと一生懸命やってんなーって思ったわけです。人間の共感って言うのかな。それがついてる気がすんだよね。

大久保 そうかもしれないですね。僕自身もチラシなんて効果ないって思ってやってたんですよ。そう思ってやってたんですけど、やる限りは、たとえ効果が1でも、0じゃない限りはやれば効果がそれなりに出る。だったら、その努力は惜しむべきじゃないですよね。だからやれることは全部やろうって。そういう感じですよね。やれることをやってんのかって言うのは、いつも自分に言い聞かせてますよね。それはキャリアがないから上手には出来ないですけど、ただ、ちゃんと考える。僕なりに考えて、お前自分がいまできることやってるかっていうのは常に思ってますよね。

●転職、独立で見えてきたこと

沢辺 だから大久保さんって、なんか変な言い方だけど、転職をプラスに転化してますよね。

大久保 転職をプラスに……いやもう、それはそれしか食ってけるものがないですからね。こっちも必死ですよね。

沢辺 転職ってさ、必ずしもプラスに出来る機会は多くなく、どっちかっていうと転職するたびに給料減ってくみたいな。

大久保 給料は減ってますけどね(笑)

沢辺 もちろん給料は減ってるけど、書店を自営するっていうものすごい困難な道を何とかやっていけてるのは、大久保さんの前の仕事経験を十二分に活かしているから、っていう気もするんですよね。
でも最初のデザイン書はあんまり……グラフィックデザイン系の本は、あんまりよろしくなかったですよね。

大久保 最初の品揃えですか?

沢辺 うん。

大久保 最初の品揃えはまあ、僕自身もマーケティングしてたわけじゃないし、ここにどういう人がいるかも解らなくて。例えば建築家の方がこんなにいるとは思わなかったし。まあせいぜいファッション系の人は多いだろうなぐらいですよね。で、開店して一ヶ月もしない頃、たぶん近所に住んでる方なんですが、その方に「あなたね、自由が丘だったらいいわよこれで。でもここにいるのはね、プロ中のプロよ。トップクラスの人たちが、とにかくいるわけだから、これじゃああなた、商品が弱い」って言われて。総入れ替えです。それでもやっぱり僕の専門分野じゃないですから。僕もグラフィックは好きで、趣味程度には買ってましたけど、やはりプロの求めるものって言うのは解んないですよね。今でも解んないかもしんないですけど(笑)。そんな感じです。
でもそう言ってもらえるのって、僕にとってはラッキーなことなんです。

沢辺 ねえ。


窓際には、デザイン関係の書籍を並べている。

大久保 言われなかったら解んないですよね。たぶんそこで、かなりのお客さんを失ってるんですよね。皆さん期待して来て下さっているのに、ああなんだ、ちょっと素人っぽいなって。最初は僕はそんな玄人好みのものよりも、いろんな分野に、例えば建築の興味ない人が、建築に興味を持ってもらえるようなイメージだったんですよね。で、とにかく、ジャンルは、学参とかアダルトとか抜いたとしても、それ以外のものはなるべく幅広いジャンルでやろうとした。みんなが今まで興味を持たなかったジャンルも興味を持てるようなイメージで品揃えはしてたんで。それじゃあ、やわいと言えば、やわいですよね。そこで品揃えをがらっと変えて。

沢辺 よくその人がいてくれましたよね。

大久保 そうですよね。で、言ってくれた。

沢辺 普通だったら言わないよ。でもそれを引き出せたっていうのが、大久保さんになんかあったのかもしれないね。
でもさ、大久保さんを基準にすると今の本屋さん、大変だよね。

大久保 いや解んないですよ。僕は他の本屋さんのことは良く知らないので。本屋の友達ほとんどいないですからね。
組織に入っちゃうと、やる意識はあっても自由が与えられない、っていう話くらいは耳にしますけどね。まあそれぐらいしか知らない。

沢辺 不安じゃなかったですか?転職して。

大久保 転職して、いや、不安ですよ。

沢辺 僕も独立したての時は、いてもたってもいられないほど、泣きたくなるほど不安だった。


知人が雑貨や食器などを展示し、大久保さんがそれに合わせた本を展示するスペースもある。

大久保 でも、それもお客さんに助けられてますね。1年目から来てくれているお客さんで、やっぱり1人で独立して、その不安な時期を過ごした経験のある方が、ああ、俺も良くわかるよ、デザインをやってて、今日は1日中だれともしゃべってねえなと思ったりとか、そういう辛かった経験や失敗した経験だとかをお店に来ては話をしてくれたりとか。
励ましてくれて、買い物してくれて、という人はね、けっこういるんですよ。だからこのエリアはあったかいなって思いますもんね。会社辞めるときは上司に「世の中冷てえぞ」って言われましたけど。冷たいなって思ったことはないですね。不安はもちろんあるし、朝まで寝られたことって数えるぐらいですよ。夜中絶対起きますし。けど、まあ割と図太いんですよ。線細そうに見えて、負けず嫌いなんですよね。

●書店、出版業界に思うこと

沢辺 じゃあ最後に、書店業界では仕入正味が少ないっていう意見が多いわけだよね。で、大久保さんが4年かけて、日曜日もでて、アドバイスも含めてレファレンスサービスみたいなことまでしても、まあ自分の食い扶持くらいは出ますよ、という程度だとしたら、やっぱり商品マージンが余りにも低いっていう思いはありますか?

大久保 いや、それはマージンは高いにこしたことはないんですけど。規模の小さい、新しい書店だからなおさら思うのですが、制度は一つのルールだと思ってるんです。そのルールの中でどうにかするのが僕の仕事。なので、そのルール自体を改正しようということに心血注ぐよりは、そのルールの中でいかに実入りを増やすかとか、売り上げを伸ばすかとかということを考えることしかしてないですね。
当然マージンは多ければいいんですけど、かといって、他の業界で置き換えて考えてみたら、最終的なマージンってどうなのかなと思うんですよね。例えば、アパレルは、マージンがたくさんある。でも、在庫をたくさん抱えるし、違うところで費用が、例えば営業費用がかかったりするじゃないですか。トータルで考えた時に、残るマージンは、アパレルだって似たようなもんなんじゃないの、なんて。レストランなんかもそうですよね。そんな儲かんないよって。マージン少ないし、廃棄しなきゃいけないし。船場吉兆みたいなこともしてらんないし。
そう考えると商業ってそんなとこなんですよね。そこをうだうだ言うのはやめようと。「大久保さんここに本屋開いて下さい」って誰かに頼まれてやってるわけじゃない。僕はやりたくて、マージンが低いのは承知の上でやってるわけだから、そこをうだうだ言う暇はないですよ。
それよりも、仕入のロスや返品のロスをいかに減らすかとか、自分のスキルを高めることでそういうのをカバーしていくほうがいいんじゃないかなって。
もちろん取次とか見てると、もっとね効率のいいオペレーションやってローコスト化して、お互いのマージンを増やすことは簡単だろって思いますよ。改善の余地はたくさんあると思う。でも、僕自身、制度がどうだこうだいうようなレベルじゃないし、もっと自分にできることは何かと考えますね。
僕は商店経営を極めたいと思っているんです。開店の時に数千万レベルの資金を持ってたら、会社を辞めるときにそれを担保にお金を借りて不動産でも買って、家賃収入が得られるように安心を確保しておいて、その余力で本屋をやれば、食い扶持に困ることもないし、資金も回る。でもそこは敢えて、ちょっとカッコいい言い方ですけど、背水の陣を敷いてギリギリのところで自分を追い込みたい。少しでもない知恵が絞れるように。やっぱり困らないと知恵なんか出ないじゃないですか。困らないとチラシなんか配んないですよ。

沢辺 そうだよね。出来れば帰ってすぐ寝たいもんね。

大久保 寝たいですよ。やっぱり自分をどれだけ追いつめてるかだと思うんですよね。そうしないと知恵なんか出て来ないですよね。

沢辺 うーん。まあルールは横並びで、大久保さんだけが低いわけじゃないんだもんね。

大久保 ええ。みんなに決められたルールなんですよ。

沢辺 まあ少々の差はあっても、みんな一緒だしね。ちなみにいま返品率ってどのくらいですか?

大久保 返品率……。どれくらいだろう。

沢辺 そういうのは出してない?

大久保 出してない(笑)。

沢辺 業界平均は40%だよ。

大久保 40まではいってないですね。

沢辺 書籍はほぼ注文どおり? 見計らい(※書店からの注文ではなく、取次会社の判断で納品される商品のこと)が来てるんですか?

大久保 ん? すいません業界用語がわからなくて……。

沢辺 いやいや、そんなの全然問題ないですよ。

大久保 配本、自動配本みたいなものですか?

沢辺 そうそう。

大久保 それは、ほとんどないですね。たまに1〜2冊注文以外の本が混じってるけど。

沢辺 じゃあ、ほぼ自分で注文出した分?

大久保 全部自己発注ですね。小書店がパターン配本を外して個別注文すると欲しいものが入らないってよく聞きますが、いまひとつピンとこない。

沢辺 欲しいものが入らないっていうのは、「1Q84」みたいに置いとけば売れる本ってどんな店でもほしいわけですけど、そういうのが取り合いで小さな店に入らないっていうことだと思いますけど。ピンとこないっていうのはどういうこと?

大久保 欲しい本は入ってるから。

沢辺 例えば「1Q84」にしても?

大久保 うん。入ってますね。『ミシュラン』とかも入ったし。もちろん500冊とか言ったらくれないでしょうけど。

沢辺 いくら「1Q84」とか「ミシュラン」でも、500冊も売れるわけじゃないもんね。

大久保 売れないですよ。だけど、十分さばくくらいは入ってます。

沢辺 ふーん。

大久保 あと僕から『本の現場』で唯一不満なのは、出版不況の正体が分からない、ということ。明らかにされてないと僕は思うんですよ。
感想メールでマクロだのミクロだのって話をしたと思うんですけど、本では、出版統計の数字が語られていたり、あとはまあアナログ的な話はされてるんですけど。
でも、例えばの話をすると、「SWEET」っていうファッション誌が最近売れています、と。マクロ統計的にはいままで下火だったのが伸びてます。評論家とかが何年後かにその数字を見て分析する時に、ああ、あの時は原宿にH&Mやフォーエバー21が出来て、ファストファッションが流行って、それがファッションの意識に火をつけて、それで「SWEET」は伸びたんだ。そんなふうに分析するかもしれないですよね。統計の上辺の数字だけを見て語る人は。
だけど、実はあれはおまけが売れたんだよというのが現場レベルでの実際だったりする。そういうミクロの分析がたぶん必要なんですよね。
そのうえで、出版不況ってホントに不況なの?って、ほんとは僕は疑ってるんですよ。ホントにみんなが言ってるほど不況なの?って。たぶん沢辺さんもそういうところおありだと思うんですけど。

沢辺 うん。

大久保 出版不況の正体って誰も語ってないと思うんですよ。ホントの意味で。正体が語られずに、制度変更のことばっかり言ってるのは、非常に危険だと思うんですよね。出版業界の川上から川下までみんな不健全で、不健全な状態の中で外科手術したらみんな倒れます。手術にならないですよね。そういう怖さがあります。
ルールづくりにタッチできない側としては、どうなろうとそれに従うしかない。いつの間にかそういう論調になって、勝手に決まったら怖いなという不安はありますよね。それは、沢辺さんとか永江さんとか、発言力を持っている方がきちっと言ってくれると嬉しいなっていうのはありますね。

沢辺 うーん。僕も不況だとは思ってないのね。日本経済全般においても。例えば、車にしても、明らかに俺たちが若い頃のステータスシンボルにはもうなってない。俺たちの若い頃は見栄があったわけね、MARKⅡ乗りたいなとか。そんなのいま何もないでしょ。

大久保 みたいですね。

沢辺 僕自身も、いやあレンタカーでいいよって思ってるわけね。明らかに効率的だから。社会全体が、もうそんなにどうしても買いたいものがなくなってしまった状況でしょ。これはよく言われることだけど、可処分時間に占める読書の割合が減ってきているわけですよね。それはインターネットが、時間だけじゃなく中身も代替えして奪っているからだと思う。だから相対的に雑誌とかが落ちている。ま、本は微減だけど。
だから、大して不況なんじゃなくて、いままでみたいなどバカ売れの仕方がもう通用しなくなってるだけに過ぎないような気がしてならない。ちょっと前だったらセブンイレブンを10店舗出せば8店くらいは黒字になっていたけど、いまは厳しい。ただ出せばいいというわけにはいかなくなって、既存店も落ちてきていると。それは不況ではなくて、社会の変化だと思う。町の小さな本屋が潰れていくというのも、他の業種だって小さな店は潰れてるでしょ。

大久保 本屋だけじゃないですよね。

沢辺 この近所の裏通りで八百屋が潰れたでしょ?

大久保 あ、そうですか。

沢辺 まい泉の近くには豆腐屋があって、なかなかいい豆腐屋だと思ってたんだけど、あそこも潰れたし。それと同じことじゃない。
和民に行けば、みんなで飲んで、1人2000円ぐらいで割り勘できちゃうのに、大して高くない店で3千、4千円。で、和民のほうが種類も豊富だしさ。そうすると、ここはあのおばあちゃんのみそ汁うまいんだよ、みたいな特徴がないと、小売業は難しい。豆腐屋が潰れるのと同じ理屈だと思うんだけどね、本屋が潰れるのは。違いますかね?

大久保 僕なんか下町の人間なんで、僕の祖父や曾祖父はわずか数十年というあいだに、関東大震災、太平洋戦争があって、店や家を失って、それでも続けてやってきたことを考えると、どこまでが不況なのかっていうのはあるんですよ。ちょっとやそっとのことで世の中のせいにしてられないなとは思いますよね。

沢辺 うん。そうですよね。

大久保 あくまでも僕の場合ですけど、世の中のせいにしてなにかを変えよう、などというのはまだ早いと。という感じですね。感情的ですけど(笑)。そういう意地とかは必要だと思います。なにをやるんでも。

沢辺 ところで、大久保さん、J STYLE BOOKSをやっていくなかで、いくつかは捨てたわけだよね?

大久保 ん? 何をですか。

沢辺 んー。日曜日の休みもないとか。

大久保 ああ、犠牲にしているものは沢山ありますね。もう仕事一色ですね。

沢辺 ですよね。でも後悔はないよね。面白いんだもんね。

大久保 そうですね。後悔はないですね。考えたこともないですね。先への不安はまだまだありますが(笑)。来月どうなってるかなんてわからないですからね。

沢辺 そうね。

大久保 だからいまだに通勤定期は1ヶ月分しか買ってないんですよ。もしかしたら来月不要になるんじゃないかと思って。

沢辺 はあー。

大久保 それがずっと続いてますね。

沢辺 その気持ち解る。

大久保 その、キャッシュフローを持たせたいとかじゃなくて、気持ちの問題なんです。

沢辺 わかる。気持ちの問題だね。来月はどうなるかわからないと言ったって、何か起こった時には、後始末だってあるわけで、3ヶ月分買っておいても全然無駄になることなんてありはしないし、仮に無駄になったって大した金額じゃない。だけど、なんかそこから始めないと、緊張感が途切れるみたいな気分だよね。だから、なぜか1ヶ月ずつ買う自分っていうのはあるんですよね。

大久保 そう。なんかね、あるんですよ。

沢辺 なんかあるんですよね。そこでこうなんか崖っぷちにいるぞ、みたいな。

大久保 ええ、あるんですよ。

沢辺 そうですね。いやー面白かったです。どうもありがとうございました。(了)

次回予定

J STYLE BOOKSオーナー大久保さんとの談話は今回で終了です。是非、お店に行ってみてください。
次回の「談話室沢辺」は11月2027日(金)を予定しています。
ゲストに、太郎次郎社の須田正晴さんをお招きして、版元ドットコムのこと、電子書籍のことを語りました。
お楽しみに!

プロフィール

大久保亮(おおくぼ・あきら)
J STYLE BOOKSオーナー

J STYLE BOOKS

Web http://www.jstylebooks.com/
住所 東京都渋谷区神宮前2-31-8メイハウスビル1F <Google Map>
TEL & FAX 03-3402-7477
定休日 日曜(不定休)
J STYLE BOOKS

2009-11-13

談話室沢辺 ゲスト:J STYLE BOOKSオーナー大久保亮 第1回「書店経営を選んだ理由」

●本屋を始めた理由

沢辺 よく聞かれると思うんですけど、いまどきなんで本屋だったんですか?

大久保 よく聞かれますね(笑)。本屋を始めた動機は3つあります。
自分にしか出来ないことを、自分らしく楽しくやりたいっていうのが一つめの動機。
二つめは、ゼロから何かをやる経営者になりたいということ。経営の勉強をして、実務でそれを活かしてきたので、経営というものに対してもすごく興味があるんです。会社の中でも戦略的なことはやってたんですけども、自分で興したわけではないので、それをやってみたい、と。
三つめは、それを通して何らかの形で世の中に貢献できればな、ということです。それを総合的に叶えられるかなと思ったのが本屋だった。
大学を出て、その後社会人としてある程度キャリアも積んだ時に、「この先そんなに長くないな」と思ったんですよ。35歳ぐらいの時かな。自分の寿命の短さを意識したんです。もうそこに40歳が見えてて、60歳でだいたい定年を迎える。あと10年もやったらある程度人生が見えてくるだろうなあ、と考えたとき、何か自分を変えられるのってあと10年ぐらいのもんで、意外に短いんだな、って思ったんです。
それなりにキャリアも積んで、勉強もしてきた。でも、そのキャリアを積むってどういうことなんだろうって考えた時に、自分は幸せでないとおかしいし、幸せのほうに向いてないとおかしい。じゃあ幸せって何だろうって思った時に、自分にしか出来ないことを自分らしく、楽しくやれたら、それは幸せだな、と。
じゃあそれを今の自分に置き換えてみて、自分に何ができるんだろうと考えたときに、出てきたのが本だったんです。本屋っていうのは、ビジネスで成功する、しないは別にしても、そういう環境っていうのは自分なりに作れるんじゃないか。それを作れるのであれば、ビジネスとして成功させることにチャレンジするのは無駄じゃないな、と。

沢辺 経営に興味があった?

大久保 経営には興味ありましたね。元々、高校生までは、編集者、もしくは物書きになりたかったんです。
昔から本は好きで、小学校の文集にも本屋になりたいって書いていたぐらいで。物を読んだり書いたりするのが大好きだったんですよ。それで、大学もその方向で、将来編集に携われたらいいな、ぐらいに思って、英米文学部に入ったんです。

●馬術部での経験から経営に目覚めた

大久保亮
沢辺 大学はどこでしたっけ?

大久保 成蹊大学です。ところが、大学で体育会の馬術部に入部したことで、経営に目覚めたんです。特にお金もないのに馬術部なんか入るもんだから、やはり金に苦労するんです。で、馬術部も、代々そんなのが集まっていたので、馬術部自体、もう大借金地獄。僕が下級生だったときはみんな総出でバイト。アルバイト部だったんです。

沢辺 へえ、そうなんだ。

大久保 活動のほとんどはバイトなんですよ。バイトか馬のフン掃除か(笑)。
それで代々積み重ねて来た借金を、みんなで返してた。でも、それじゃあ楽しくないですよね。僕が入部したときの先輩たちの方針だったから、まあ馬に乗るのが楽しかったんで、黙ってやってましたけど。
でも、僕がキャプテンになった時には後輩にはそんな思いさせたくないと思ったんです。
で、いろいろ考えました。
その頃ちょうどバブルだったので、競走馬がたくさん余るんですよ。どういうことかというと、当時、例えば不動産会社で地上げ屋の社長さんなんかが馬を買って、自分の娘の名前なんか付けちゃったりするんです。「メグミハヤテ」とか。
そうすると、いざ故障したとき、娘の名前も付けちゃったし、殺すのはちょっと偲びないな、っていうのは人間だからあるでしょう。競走馬って、やっぱりデリケートでちょっと故障すると肉になるんです。でも、できることなら生かしてやりたい。
そういう人を見つけて来て、馬は絶対殺しません、と言って、その馬を僕らが請け負うんです。ちょっとした骨折程度なら、競走馬では使えなくても、乗馬用の馬で使えることって沢山あるんですよ。
僕らはその馬を乗馬用として、1ヶ月調教し直して、乗馬クラブに100万円くらいで売るわけです。お金をそれで稼いで、借金を返済、ってことをやったんです。
それで部の財政を立て直したんですけど、その経験ですね、経営って面白いって思ったのは。
何が面白いかっていうと、部員みんなのモチベーションとか、目が変わってくるんですよ。人が変わってくるんですよね。その変わりようっていうのは、もう本当に肌がゾクゾクするくらい。
当然ですよね。それまでは自分のお金にもならないアルバイトをずっとやってたのが、やらなくてすんで、本来の馬術部の活動に向けられるようになったんですから。

沢辺 自分が働くことの意味が、垂れ流しの借金の補填のためではなく、みんなで1ヶ月間交代で調教した馬が、たとえば100万円になるとか、そういう目に見える成果があったからなんですかね。みんなの目が輝くってことは。

大久保 みんなが変わったのは、部としての本来の活動を取り戻して、明るい未来が見えるようになった、っていうところですよね。それを僕は実際に行動で示した、と。
その経験から、僕は経営っていうものに興味を持つようになっていったんです。その時点で、もう文学はどうでも良くなったっていう感じ。どうでも良くはないんですけど、まあ元々勉強してなかったんですけどね(笑)。

沢辺 転部とかしたわけではなくて、最終的にはそのまま英米文学部を卒業した?

大久保 そのままですね。

●部の財政を抜本的に立て直す

沢辺 僕、ディテールが好きなんで聞かせて下さい。たとえばその馬術部って何人ぐらい部員がいて、借金返済も含めて、年間いくらぐらい稼がなきゃいけなかったの?

大久保 部員は大体20人ぐらい。

沢辺 四学年で? 少ないですね。

大久保 だって入っても辞めちゃうんですもん。そりゃあそうですよ。借金がなくても馬と一緒に寝泊まりして、馬の世話をやるわけですからね。
華々しくなんかないんですよ。もう本当に馬糞処理してる時間の方が圧倒的に長い。

沢辺 ますますディティールにいっちゃうけど、大学の中に馬術部のスペースがあったんですか?

大久保 厩舎があるんですよ。そこで馬を飼ってて、厩舎の横に部室があって、24時間、必ず誰か一人はついているんですよ。

沢辺 そうだよね。で、飼料も他の人の手は借りずに自分たちでやる?

大久保 部員たちで全部やります。

沢辺 飼料って配達してもらうんですか?

大久保 もちろん配達です。ロットで買いますからね。

沢辺 馬は何頭ぐらいいたんですか?

大久保 一番増やしたときで15頭です。最初、僕が入部した当初は7頭ぐらいですかね。僕の代で倍にしたんです。

沢辺 それは売るために?

大久保 いや、それもありましたけど、基本的にはそれまで、競技用の馬さえあんまり持てなかったんです。
僕の代のときは、同学年が運良く7人いたんですね。で、上級生になって、7人がそれぞれ自分の馬で試合に出て行ける、っていうのが理想なんです。

沢辺 なるほど。

大久保 なので、財務を良くしていったので、そういう馬も増やしました。

沢辺 つまり、最初に飼ってた7頭は、必ずしも全頭が競技に出せる馬ってわけではなかった。

大久保 はい。

沢辺 俺、馬のことあんまり知らないけど、競技に出せる馬っていうのは、サラブレッドとか?

大久保 サラブレッドでも、きちんと調教された能力の高い馬とそうじゃないのがいますね。

沢辺 僕らが知ってる競技用の馬は、サラブレット。一番走るのが速そうで、高価そうで、だけどどっか足も華奢で、ちょっと転倒すると折れそう、みたいな印象ですよね。

大久保 そうですね。

沢辺 だけど、道産子みたいな、荷物引っ張っても、ひっくり返っても、骨なんか折れないでいくらでも起きてきそうな馬もいるじゃないですか。

大久保 乱暴な言い方をすれば、その中間、とまではいかないんですけども、サラブレッドよりちょっと丈夫なアラブ種っていうのがあるんですけど、その種もいましたね。

沢辺 サラブレッドでなければ競技に出ちゃいけない、というわけではないんだ。

大久保 じゃないんですよ。サラブレッドよりは見かけがずんぐりむっくりしてたりして、優雅じゃないですけど。

沢辺 じゃあ7人が全員一斉に大会に出る時、「おい、大久保、交代」とかじゃなく、それぞれが、俺はこいつ、あいつはあの子、っていうふうに、マンツーマンでやれるようにするために増やしたと。それも、競技に出していい馬っていうか、ちゃんとした馬を。

大久保 そうですね。それでもちゃんとはしてなかったですけどね(笑)。

沢辺 金持ちクラブにはかなわない。

大久保 かなわないです(笑)。金持ちクラブは、学生でも平気で一億とかのレベルですからね。俺ら一番高くても、それこそ100万円くらいですよね。

沢辺 買ってくるときも?

大久保 ええ。

沢辺 大久保さんたちのクラブで?

大久保 そうですね。それも同じような馬がですよ。ただ、もうちょっといい調教を受けています。競走馬に毛が生えているくらいなんだけども、馬の質がものすごく良くて、で、ちょっと上手な人が乗ってくれてたりとか。その程度のものを買ってきてるんですよ。

沢辺 ふーん。じゃあ年間の予算は1千万円規模?

大久保 1千万円を超えるくらいですね。けっこう金がかかります。

沢辺 飼葉代も含めて。

大久保 飼葉代と、あと獣医。けっこう獣医代がかかるんですよ。

沢辺 ああ、うちの犬もかかるわ。

大久保 でしょ。それも馬ですからね。部員で女の子がいたりすると、「ちょっとあたしの馬おかしい」となると、すぐ獣医を呼ぶんですよね。
来てもらうだけでもお金がかかるし、よっぽどのことがない限り、人間みたいにはっきり病状はわからないんですよ。グレーゾーンになってくると、「とりあえずこれやっときましょう」なんていうと、それでまた、けっこうお金がかかるんですよね。あとは、馬の足に蹄鉄を装着するのにもお金がかかる。
だから、馬売るのもそうでしたけど、金になるものは馬糞でも売りましたよ。それまでは業者に頼んで金払って引き取ってもらってたんですよ。それを一生懸命、千葉とか調布の方の農家の方に片っ端から電話して、1万円でもいいからトラックで引き取ってくれるってところを探しました。

沢辺 肥料に馬糞どうですかって?

大久保 はい。トラック1台分を1万円くらいで。それでも、今までお金を払っていたことを考えたら、今度はもらえるわけですからね。ずいぶん楽になるので、もう、徹底的にやりました。

沢辺 金儲けを、って言うと変だけど。

大久保 金儲けじゃないですけど、まあ緊縮財政をひいたわけです。
一番笑ったのは、馬場に敷く砂も買うわけですよ。でも、あれも金がかかる。僕の同期がいろいろ見つけてきて、競馬場の砂は1年に1回入れ替えするんですよ。それをもらってこようっていって、OKもらったんです。
ところが、「じゃあ何トンいる?」っていわれた時に、馬場に敷くのは何トンって、感覚的には解んないじゃないですか。で、適当な数字を言ったんです。
そしたら大型トラック3台くらいが学校の正門に並んで、守衛から「どうすんだ」って電話があって、仕方ないから無理矢理トラック入れさせて、砂を降ろしたら、しばらく富士山みたいな山になってました(笑)。
そんなことをしながら、部の財政とかみんなのモチベーションを上げていったんです。本来は競技のために体育会はあるわけですから、大学時代に馬術部やって、この成績を残せて、俺たち良かったよね、っていうふうに卒業したいよなって。

沢辺 大学からの部費って出たの?

大久保 援助はありますけど、240万円くらいじゃなかったかな。

沢辺 とすると、予算が1千万円強だとすると、1人あたり4、50万円は部に入れないといけないってことだよね。

大久保 そうですね。本当に金かかるんですよね。夏になったら馬を涼しいところに連れてかなきゃなんないし。

沢辺 涼しいところって、軽井沢とか?

大久保 軽井沢とか栃木ですね。僕のときは那須に連れて行きました。専用のトラックで移動させて、厩舎借りて、そこ合宿所にして。で、そこでもまたバイト。とにかく金がかかったんです。
でも、それじゃあ根本的な解決にならないから、そこで考えたのが馬の売買の商売でした。それでも、馬を売りもんにするのかとか、OBから大反対されました。僕からしてみたら愛馬精神とは言うものの、ちょっと違うんじゃないかなって、ま、悩みましたけどね。

沢辺 売るのは乗馬クラブのようなところに売るの?

大久保 そうですね。

沢辺 成蹊大学の乗馬クラブは100万円くらいで売っていたけど、普通はいくらぐらいで買うものなんですか?

大久保 ピンキリです。値段なんてあってないようなもんです。だからその時に、いかにいい馬に見せるか、ですよね。そうするとなんか悪い人のように聞こえるかもしれませんけど(笑)。
その時に、僕が調教して、これだったら乗馬クラブに遊びにきた初心者の人も、危険なく乗れますよとか。で、乗ってみて、値踏みするわけです。大久保亮

●サラリーマン、留学時代

沢辺 じゃ、会社の話にいきましょうか(笑)。
馬術部の経験で、経営が面白くなっちゃったから、その時点で出版社とか、本に関わる仕事をしようかな、という気持ちは消えて、経営的なことができる仕事がしたい、となったわけだ。

大久保 はい。大学出てからは住友スリーエムっていう会社にいて、そこで3年営業やって、留学をして、富士通に入りました。
やっぱり文学部なんで、経営に携わるような仕事をしたいと思っても、なかなかなかったんです。でもメーカーで営業から始めるのは悪くないかなと思い、最初は営業として入りました。
ただ、やっぱり経営に興味を持っていたので、経営戦略に関わる仕事がしたかった。けれど、そういう仕事に自分を当てて下さいという根拠もない。
だったら留学して、ちゃんと基本的な知識を身につけて、僕はそういう職種で役に立ちますっていう人になって、次のキャリアをスタートさせようと思って留学したんですよね。

沢辺 ちなみに留学の金はどうしたんですか?

大久保 金は、自分の貯金と、親から借りました。

沢辺 何年間留学してたんですか。

大久保 2年半、イギリスです。

沢辺 どんなこと学んでたんですか。

大久保 経営学部です。経営大学院、MBAです。

沢辺 じゃMBAも持ってるんですか?

大久保 はい。

沢辺 かっこいいですね(笑)。

大久保 (笑)ま、響きはいいですね。でもまあ、それで富士通に入って、海外の事業戦略の部隊で働きました。

沢辺 海外にいたし。英語も堪能だし。

大久保 まあそうですね。幸い、ちょうどイギリスに子会社を作ろうという計画があって、その立ち上げをずっとやっていました。

沢辺 大久保さんは何年生まれでしたっけ?

大久保 西暦で言うと1967年です。

沢辺 ってことは、そのころは90年代?

大久保 そうですね。94年に留学して、96年の12月入社かな。

沢辺 富士通では何年働いたの?

大久保 9年くらいです。2005年の10月20日付で辞めて、J STYLE BOOKSは2006年の3月オープン。

沢辺 辞めてからオープンまで早いね(笑)。

大久保 早いですよね(笑)。ちょっと焦りすぎて、中途半端なまま開けちゃったっていうのは反省としてありますね。
やっぱりあの物件、あの場所がすごく好きだったんで、少し焦っちゃったのもありますね。
あの大家さんだったらそんなに焦らなくても、僕のペースで任せてくれたって、今になると思いますけど、僕ももう、他に取られちゃうっていう焦りと不安があったので。

沢辺 しょうがないよね。

●「どこで」書店をやるか

大久保 しょうがないですよね。かなり中途半端な状態で開けちゃいました。
ちょっと話が戻るんですが、その2005年から遡ること3年くらい、2002年くらいの頃から、本屋のことを考え始めていて、場所探しも、土日を使って3年くらいしてたんですよ。
それでもやっぱり中途半端なところしかなくて、で、いいかな、と思っても不動産屋に相手もされなくて。不動産屋ってこんなに横柄なんだって、本当に思いましたね。
僕が最初に探してたのは文京区で、ちょうどその1年前に決まりかけた物件があるんです。茗荷谷の放送大学のすぐ近くの欅並木があるきれいな場所にあった物件。まあその物件も中途半端なんですけど、とにかく不動産屋が横柄で。

沢辺 2004年前後っていうと、不動産がまだ調子良かった頃かな。

大久保 ま、そうですね。1階の物件なんか見つかんないよって言われてました、その時。
ただ、ちょうどその茗荷谷の物件が決まりかかったときに、会社で中国に工場を作るという大きなプロジェクトに取りかかり始めて、なかなか辞めるに辞められなくて。自分がいい出したプロジェクトでもあったので、もうこれは気合いを入れて責任を全うしよう、それから辞めよう、思ったんですね。1年後に、僕が抜けても、迷惑がかからないというタイミングがあったので、もうこの機会を逃したら絶対ダメだと思って、辞めました。
場所は何も決まってなかったんですけど、まあ3年間探ししてもダメだったんだから、のんびり探すかと思ってたら、今の場所に出合ったんです。独立して一からスタートするわけだから、事業計画をきちんと立ててやらなければというところなんですけど、そういう経営戦略を学ぶためにMBAも取ったわけですし。だけど、自己資金だけでやるわけだし、ここはもうマーケティング無しで、好きなことを好きなようにやろうと思った。そのかわりやっぱりビジネスとしては厳しい。難しいことを自分でつくりだしてしまうのはもう覚悟の上でした。
とにかく、最初に話したように、自分の好きなことを好きなところでやりたかった。それが、この場所だったんですね。僕、このエリアはホント好きで。中学生のときから来てたんですよね。当時は、まだ何もないところで、オンサンデーズがまだ今のワタリウムの向かいのちっちゃなポストカード屋だったし、ヴォイスっていうちっちゃい古着屋さんが材木屋の2階にあって……。

沢辺 材木屋なくなっちゃったね。

大久保 ええ。原宿橋のたもとのところに店があるぐらいで。その後、シピーとかジーンズ屋が出来ましたけど。何しに来てたんだろ?と思うんですけど、なんか居心地が良くて好きで、しょっちゅううろうろしてたんですよ。
とにかく好きなところで店を開きたかった。だけど原宿だから敷居は高いだろうなとたかをくくってて、アプローチを全然してなかったんですよね。しかも茗荷谷でつんけんされたから、原宿なんて相手にもしてくれないだろうと思って。
でも会社は辞めたのに場所はなかなか見つからない。だったら一度でもいいから自分の一番好きなところに当たっても損はしないなと思って来てみたら、トントン拍子に話が進んで。12月の末には契約しました。そこからです、準備をはじめたのは。

●開業までの道のり

大久保 書店開発という会社とフランチャイズ契約をして、書店を始めたんです。太陽の別冊のレクチャーブックだったかな?(※太陽レクチャーブック005「本屋さんの仕事」平凡社) そこで、吉祥寺にあったTRICK+TRAP(2007年2月12日閉店)というミステリー専門の本屋の方が、書店開発いいみたいですよ、と勧めていて、だったらここに頼めばいいやというくらいの気持ちで、書店開発を訪ねてみたんです。そしたら、「まあ、いいですけど、あんた本気ですか?」みたいに言われちゃって(笑)。
で、どういう書店にするのかをいくら説明しても相手にわかってもらえなくて。あの本屋を言葉で説明するのってすごく難しいんですよね。結局、「ちょっと手伝いようがないから、とにかくどんな本を置きたいのか自分で考えて教えてくれ」と言われて。それからトーハンと直でやり取りし始めました。正月に、入れたい本のタイトル、出版社、著者名、ISBNを全部一覧にしたリストを作って、トーハンに送ったんです。ま、あとはトーハンが適当に数合わせの本を突っ込んでくれて、という感じでした。いっぽうそれと平行して内装にかかりはじめました。内装は、以前から自分が頼みたい建築家を決めていて、お願いしてみたら、一発でOKしてくれたんですね。年末年始返上で、一生懸命やってくれたんです。

沢辺 若い建築家なの?

大久保 50歳手前くらいですね。

沢辺 その人はなんで知ったの?

大久保 昔、雑誌で見て、この人いいなって思って。自分が家を建てるならこの人に頼みたいなって思ってたんです。彼はモンスーンカフェとか手がけた人なんだけど、住宅もやっているんです。その住宅がとにかく素晴らしいんですよ。電話して、内装なんですけどやってもらえませんかって言ったら、その人も本が大好きで、それなら是非みたいな話になった。

沢辺 本好きだって知ってたの?

大久保 いや知らないです。

沢辺 偶然ですか?

大久保 偶然。

沢辺 お店は、何坪あるんですか?

大久保 15坪です。

沢辺 ところで、最初に本を仕入れる時は、何百万円ってかかりますよね? 一種の保証金というふうに解釈されているけど、要は本を買うということですよね?

大久保 いえ、初期在庫の代金と保証金は別です。在庫分は普通に一括で支払って、保証金は別途、坪数×10万円を書店開発に納めるんです。

沢辺 そうすると、うん千万円かかる?

大久保 そうですよ。本屋って開業するには金かかるんですよ(笑)。テナントを借りるのだって保証金かかりますからね。

沢辺 そうだよね。

大久保 保証金だから返ってはくるんですけど、初期投資としてかなりかかります。

沢辺 3千万円くらい?

大久保 そんなにはかかってないですね。

沢辺 1千万円じゃすまないでしょ。

大久保 すまないですね。開店が1年前だったら、頓挫してましたね。

沢辺 え、なんで?

大久保 そこまでの金が用意できなかったですから。一年間、プロジェクトにかかった期間、稼げたのは良かった。でも苦労して稼いだ金が(笑)、初年度とかはどんどん出ていきました。始める勇気より続ける勇気の方が大変だなと思いましたね。

●書店経営の面白さ、難しさ

沢辺 やってみたらどうでした?

大久保 面白いのと、まあ当然ですけど、こんなに難しいもんなのかと。

沢辺 難しかった?

大久保 難しい。それは今でもそうですけど。僕は富士通にいた時に、ヨーロッパのコンピュータ会社をゼロから立ち上げて──もちろん僕一人でやったわけじゃないですけど、事業戦略を組んで、3年で黒字化させて、5年でヨーロッパで第2位に持っていったんですね。
でもいまから思えば、楽なものですよ。書店の経営って、比べものにならないくらいもう全然難しいですね。
富士通でやったことを自分の成果だなんて思ってたら、人間ダメになってましたね。エリート気取りだったし。当時は、富士通で副社長のブレーンみたいな立場だったんで、すごく特別なんですよ。本社部門では、2階級上の人とは直接喋れないんですよ。例えば、平社員が部長に話すと、「課長と話せ」って。酷い上司になると、部長の机の前を通っただけで怒られる。そういう官僚的な会社だったんです(笑)。でも僕は、副社長に直接戦略を提言する立場にいた。戦略会議とかもちろん取締役会議とかにもアテンドしてましたから、議論の場で解説したりとか、ここはこうでこう判断されるのがいいと思いますとか言ったり。無茶苦茶恵まれていたわけです。でも当時と比べて、独立してからの3年間のほうが桁違いに勉強できたと思いますね。

沢辺 勉強って例えばどんなこと?

大久保 企業にいるときは、狙いすましたマーケティングをしてきたわけです。マーケットでは需要がこうなってて、こうこうこう進むっていう見込みがあって、ウチの強みはこうだからってこれを活かしてって論理的に組み立てる。すると、みんなふんふんって納得してくれる。ところが、いまはまったく逆。俺はこれ好きなんだ、これやりたいんだって。でも、社会というのは、実はこっちのほうが受け入れてくれるんじゃないかと思う。
はじめはね、この店をぱっと見た印象では、こんな場所で、自分の好きな本ばっかり置いて、こいつはどっかの大金持ちで、道楽でやってるんだろって、たぶん皆さん思ってたと思うんですよね。

沢辺 俺思ってた。ごめん(笑)。

大久保 だから最初の1年って、なんか僕の品定めをしてたんじゃないかな。自分の本気度をみんな確かめてた、品定めをしてたなっていう感じは今はしますね。だけどそんな中で、「あ、君よっぽど本好きなんだね」って言ってきてくれる人がいたり。そんな偶然の出会いが物事をよく廻してくれてたり。まあちょっとまだ解ってないとは思うんですけど、あ、世の中ってもしかしてこういうことなのかなっていううんですかね。もっと自分をさらけ出していいんだって思えたのが一番の勉強かな。

沢辺 俗論なんだけど、例えば、出した店が富士通のパソコンショップだったとしたら、誰もが知ってる会社だし、しかも名の通った会社だから、よっぽど変なことはないだろうっていう、まあベースの信用があるじゃないですか。でもいきなりJ STYLE BOOKSっていう名前も聞いたことないし、大久保さんっていう個人と今まで付き合いがあったわけでもなく、どこの骨かも解らないっていう、そういう落差みたいなことなんですかね。そういう感じではない? つまり会社の信用とかブランドがあって勝負していないという……

●お客との会話

大久保 っていうか、考え方が真逆のような気がするんですよね。例えば、個人で仕事をやって成功されてる方とかが気に入ってくれて、いろいろアドバイスをいただいたりとかするんですよね。そのときに、ああなるほどなと思ったのが、とにかくね、自分にウソついちゃダメだと言われたこと。自分の好きなことやりなさい。途中でダメになるやつは、ダメになってよくなりかけてる時に手放しちゃうんだと。もうちょっとガマンしたら上手くいくのに、その手前でみんな手放すんだ。そこで踏ん張れるかどうかというのは、ホントに自分がそれを好きかどうかなんだよ、と。やっぱりこの辺にいる人は好きなことやって生きてる人が多い。みんなファッション好きだとか、グラフィック好きだからとか。

沢辺 まあオシャレだからってやってるやつもいると思うんだけどね。カッコいいからとかさ。

大久保 長い間続けてきて、そして成功されてる方は、ですよ。

沢辺 なるほど。続けられてる人ね。

大久保 好きでやったから成功して、いくらお金を持ってても、昔のスタイル崩してなかったり。そういう人を見てるとやっぱり、ああそうだな、マーケットがどうこうじゃなくて、自分中心。自分の気持ち中心で、それに素直にやっていく。これは、サラリーマン時代とは真逆ですよね。それがやっぱり一番のカルチャーショックですよね。まあちょっとね、僕が言うときれいごとっぽく聞こえちゃうんですけど、やっぱりそういうね、実体験で語ってくれる人の言葉は励みになりますよね。

沢辺 え、だけどさ、本屋のレジに立ってて、どうしてそんなことが聞けちゃうわけ?

大久保 (笑)なんでですかね。うちの店って話になるんですよ、人と。そんな大成功してない人でも、普通のその辺の、それこそポットの社員さんとかでも。今これやってんですけど、とか。他愛もない話から重い話まで、とにかくうちの店ってなぜか会話になるんですよね。それが僕は一番楽しみでもあるんですけどね。ほんといろんな人と毎日会話してますよね。

沢辺 カウンター広いし、それに何もないもんね。チラシが2、3あるくらいで。

大久保 本を選んでる人を会話に引き込むこともありますね。もうちょっと商売っ気を出した方がいいんじゃないかって反省するんですけど。とにかく会話になりますよ。皆さん余裕のある方だから、こいつ危なっかしいなとかって思うんでしょうね。思ってると思うんですよ絶対(笑)。

沢辺 余裕があるかどうかっていうのは一概に言えないけどね。

大久保 それは僕の目から見てですけど。だからいろんな師匠がいますよ。近くに住んでる元証券マンの80歳近いおじいさんがいるんですが、彼は本田技研の株式上場を立ち上げた人で、本田宗一郎さんとも一緒に仕事をしていて良く知っている。で、僕も経営の話はついていけるので、本田さんと藤沢武夫さんはもうとにかく立派だったとか、これこれこういう時の振る舞いはすごかったとかって、とかいろんな話を聞かせてくれるんです。で、5月くらいだったかな。日曜日に電話がかかってきたんです。最初は、一応日曜日は休みということにしてたんですけど、5月くらいから日曜返上でずっと店開けてるんですよ。まあ100年に一度の不況と言われてますから、何が起きても後悔しないようにと思って。それで電話を取ったんですよね。そしたら「この経済状況の中、日曜日定休日で当たり前に休んでたら経営者失格だと思って電話したんだよ」って。それ、おっかないでしょ(笑)。もうつくづくこの辺の人はね、優しくもしてくれるけども、とにかく目が厳しいと思った。審美眼もそうだし、人を見る目、事業を見る目、とにかく厳しい人が多いとは思ってたものの、やっぱりつくづく怖い人に囲まれて仕事してんだなと思いましたよね。そういうのがやっぱり勉強ですよね。

沢辺 でもそれって最高のエールでしょ。

大久保 ええ。

沢辺 たかだか行きつけの店にしたって、そこまではやんないよね。この不景気で小売店も大変だし、調子が良かったセブンアンドワイだろうがイオンだろうが安売り競争に走って大変だ大変だってなってる時に、その小売店の末端の小ちゃな個人営業みたいなところが日曜も平然と休んでるようじゃダメだよっていう着目もすごいね。

大久保 電話かけてくるところがすごいですよね(笑)。

沢辺 電話をかけてくれるなんて、これはもう大久保さんに対する共感だよ。

大久保 奥さんには止められたって言ってました(笑)。

沢辺 そりゃそうでしょ(笑)。

大久保 やめとけってやめとけって(笑)。
だから、日々勉強してます。これは一言では語り尽くせないですよね。いやほんと勉強になりますよね。

沢辺 でもね、さっき大久保さんは富士通の時はいわゆるマーケティングで理詰めで調査分析して、データを出して戦略を立ててたけど、今は真逆のことやってますよ、って言ったじゃない? でも僕は、本田宗一郎さんだって、ほかの人にしたって、仕事で名を残した人というのは、結局は人間力、というか、自分の好きで勝負していたんじゃないかと思う。うまく言えないんだけど、マーケット戦略はもちろん立ててるとは思うけど、その手前には、企業だろうが個人だろうが、同じものがあると思うんだけどね。

大久保 いや、それは今はまだわからないですね。自分がやってることはまだあんまり冷静に見えてないですから。いまは、水の流れにそって左手はこうかいて、右手ははこうかいてって優雅に泳げるような状態じゃなくて、とにかく両手足バタバタさせてるだけですから。ですからまだまだ自分を俯瞰できないですけど。まあとにかく面白いというか、充実感のある毎日です。
実は僕にはもう一つ目標があって、これは商売とは全然関係ないんですけど、人間って何人と喋ったのかってすごく大切だと思うんですよ。何人と会ったか。何人とどんな話をしたか。だからいまは毎日いろんな人に会える。今日いい天気ですねで終わる人もあれば、深い話をする人もいますけど、そういう環境にいる、というのはすごく楽しいですよね。こんなこと言っちゃあれかもしれないですけど、本はついでに売っている(笑)。そっちの方が楽しくて仕方がない。
場所柄、仕事の資料を探しに来られる方もすごく多いので、やっぱりそこに役に立たないとやっぱり意味ないなと僕は思っているので、なんとか役立ちたいと思う。たいていはインターネットをお使いですから、そこで調べてもたどりつかなくて、困った果てに来られることが多いわけです。そういう中で仕事のお手伝いとかさせてもらうと、また、よりその人との関係が深まるし、その人がどんな仕事されてて何に困っているのかって僕自身もわかってくるので。結局、人との関係がすごく面白い。

次回へ続く

第2回「書店経営の実情」は11月20日(金)に公開します。

プロフィール

大久保亮(おおくぼ・あきら)
J STYLE BOOKSオーナー

J STYLE BOOKS

Web http://www.jstylebooks.com/
住所 東京都渋谷区神宮前2-31-8メイハウスビル1F <Google Map>
TEL & FAX 03-3402-7477
定休日 日曜(不定休)
J STYLE BOOKS

2009-10-16

ゲスト:永江朗 第3回「紙の本の値段、電子書籍の値段」(最終回)

●出版社には、書店の利益を確保する義務がある(少なくとも現状では)

沢辺 あと、これまで出なかった再販維持論者の意見として、「再販制がなくなると価格が高騰するからよくない」というのがあるけどどう思う?

永江 筑摩の松田さんとよく言っていたのは、本の値段を倍にするだけで、日本の出版界が抱えている問題はかなり解決するよね、っていうことで。
本の原価率が高すぎるというのと、書店のマージンの絶対額が低すぎる、というのが解決するでしょ。出版点数も絞らざるを得なくなるから、値段を倍にするといいことばかりなんですよ。大洪水もブレーキかかるし、本ももっと大事にされるし、書店の余裕も多少出来るだろうし。
値段の高い安いを消費者がそんなに気にしているかというと、『○型の説明書』は中身薄くてぺらぺらで、1000円でしょ? あんなに消費者にとってコストパフォーマンスが悪い本はないのに、4タイトルで500万部売れるわけですよ。
『1Q84』だって、2冊合わせて3600円するのを100万人以上が買うわけですよ。6000円の『羯諦』がミリオンセラーになることはないけど、あの写真集は2000円でも買わない人は買わないし、売行きはあまり変わらない。
ただ、今回僕が出演しているラジオ番組のパーソナリティーの小西克哉さんに「えっ!? 『本の現場』、1800円? 村上春樹と同じ?」って言われたときは、ちょっとひるみましたよ(笑)
文豪村上春樹と同じ値段で消費者の方からお金をいただく自信は、正直ないですからね。

沢辺 いや、村上春樹のはユニクロのフリースと一緒で、いっぱい売れるから1800円なんでね。
で、書店のマージンの絶対額が低い問題を解決するのは、実額のことを考えなくちゃならないんだよね。

永江 そう。売上高で見ていてもしょうがないわけで、利益額をどう増やすかが問題なんですよね。
見かけの売上が上がっていても利益が全然なければ意味がないわけだし、売上が低くても利益が取れていればいいわけですから、パーセンテージの問題と絶対額の問題は、両方見ていかなきゃいけない。車を売るのに、ベンツのSクラスと軽自動車を、パーセンテージで勝負したら全然話にならないじゃないですか。

沢辺 そうそう。軽自動車なら、毎日1台売れなきゃいけないけど、ベンツなら月に1台でいい、小売りとしてそのための金の掛け方をしよう、ということだよね。
だから本もちゃんとその辺のことを考えたほうがよくて、ひたすら新書作って安く、以外の方向もにらんでやれるんじゃないかな、と思う。書店の取り分を増やすことだって、定価を上げればやりやすいもんね。

永江 少なくとも現状、本の価格の決定権は出版社にあるんですよ。
再販制っていうのは、出版社が一方的に小売店に自分の売りたい値段を押しつけて拘束しているわけだから、出版社は書店に対してその定価に対する利幅で食っていけるだけの利益を確保する義務があるんですよ。
それを、低価格のものが売れているとかなんとか言って低価格競争に走って、書店の絶対的な利益を少なくしているのは、本来からすると許されないと、私は思っていて。
だから、再販制を残したい出版社がいるなら、それはそれでいいですよ。その代わり出版社は、個々の書店がちゃんと食えて、彼らの子どもが、少なくとも親と同程度の教育が受けられるくらいのお金が家庭に生じるくらいの面倒は、ちゃんと見てやれよ、と思いますよ。

●『本の現場』を電子書籍にしよう

沢辺 ちょっと話は横道にそれるんだけど、電子本の場合でも、取次とか書店にあたるものがありますよね。例えばiPhone用の電子書籍を売ろうとすると、アップルが30%くらいとるわけですよ。
電子本だからといって直で売るのが効率がいいということはなくて、やっぱり配信するところは必要なわけよ。
『デジタルコンテツの現状報告』の中でも音楽配信をやっているモバイルブック・ジェーピーの佐々木隆一さんに聞いてるんだけど、彼の話でも30%から40%くらいは配信手数料と決済手数料でとるんだよね。
つまり、現状の出版の出し正味65%前後と、たいして変わらない。
そうすると、なくなるのは紙代と印刷代だけなんですよ。
例えば『本の現場』の場合に紙代と印刷代は何%くらいかかっているかというと、初版2500部で30万円くらいだから、ざっと1冊120円くらいですよ。希望小売価格1800円の、6〜7%。これで何で値段が半額に出来るのか、ですよね。
紙代と印刷代に編集制作費とデザイン代を合わせた20%弱がポットの原価率。
これに永江さんの印税を10%入れたと考えると、30%弱になる。
出版社から取次に卸す値段が約65%だから、65%−30%で、35%前後が1冊あたりポットに入ってくる金額ですよね。1800円の1/3、600円くらいになるのかな。
これを、紙の本の半分、つまり900円で売る場合、1/3はアップルに持っていかれるとしても、ポットには1部につき600円入る。紙の本用のデータを電子本のフォーマットにするのにコストがかからないわけじゃないし、紙の本を出さずに最初から電子本でやる場合はまた別だけど、ざっとこういう計算だよね。

永江 だから、日本で出た紙の本をスキャンして蓄えているGoogleが、「Googleはアナタの本の電子版を配信したいんですけど、いかがですか?」っていうビジネスは十分有り得ますよね。
今まではたまたま日本語の壁によって日本の出版社は守られていたけれど、これからは、新潮社が出した本もGoogleが世界に配信する、ということもあるかもしれないですよね。65%とか払って。

沢辺 じゃあ、とりあえず『本の現場』をiPhoneで600円くらいで売るかな。

永江 買う人いるのかな(笑)

沢辺 そのかわり、印税はダウンロード数に応じた額でお願いしますよ。データは全部永江さんに公開するから、ポットがかかった手間も考えて、具体的なパーセンテージはそのときに決めるっていうことで。

永江 それ面白いと思うなー。

沢辺 永江さんの言うように、電子本で大幅ダンピング、1800円の本が600円で読める。
俺、今後の本は、電子本と紙の本の同時発売っていうのをiPhoneでやってみようと思っててね。まだ電子本はそんなに売れないとは思っているけど。
その第一弾は、『本の現場』をやってみますか。

永江 やりましょう、やりましょう。そしたら、またどこか取り上げてくれるかもしれないですね(笑)
僕の本はそんなに大して売れないと思っているから、色々遊んでもらえればいいんですよ。これでまた仕事が大分減るんだろうなあ、とか思いつつね。

沢辺 出版ニュースの清田さんも、それを心配してましたよ。でも、攻撃的に出てこられるってことは一切なくて、ただ戸惑われてる感じだよね。もともと大した反発はないと予想していたけど、予想した通りで、色々やってみて全然平気だった。

永江 やってみて平気だってわかっただけでも、成果は大きいわけですけどね。

沢辺 あと、これは余談だけど、近江商人の「三方皆よし」っていう言葉があるじゃないですか。「売り手よし、買い手よし、世間よし」っていうね。
で、よく出版の公共性っていう議論があるんだけど、「公共性」という堅苦しい言葉で考えなくても、世間も含めてみんなが良くならないと、結局商売って長続きしないんだよね。
三方には「売り手」も入っているから、もちろん、働いてるやつがとんでもなく貧乏になるのも駄目だよ。

永江 なるほど。じゃあ、ポット出版の給料はさぞかし高いことでしょうねえ(笑)

(了)

●次回予定

永江朗さんインタビューは今回で終了です。永江さん、ありがとうございました。
次回の「談話室沢辺」も現在進行中ですので、公開日決定次第・告知いたします。どうぞよろしくお願いいたします!

●プロフィール

永江朗(ながえ・あきら)
フリーライター。1958年、北海道生まれ。法政大学文学部卒。
1981年〜1988年、洋書輸入販売会社・ニューアート西武勤務。
83年ごろからライターの仕事を始める。
88年からフリーランスのライター兼編集者に。
1989年から93年まで「宝島」「別冊宝島」編集部に在籍。
93年からライター専業に。ライフワークは書店ルポ。
現在、『週刊朝日』、『アサヒ芸能』、『週刊エコノミスト』、『週刊SPA!』、『漫画ナックルズ』、『あうる』、『書店経営』、『商工にっぽん』、『この本読んで!』などで連載中。

●本の現場─本はどう生まれ、だれに読まれているか

本の現場
著者●永江朗
希望小売価格●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0129-3 C0000
四六判 / 228ページ / 並製

目次など、詳しくはこちら

2009-10-09

ゲスト:永江朗 第2回「今の出版界でも出来ること」

●本のニセ金化は、もう続かない

沢辺 永江さんの考えは「新刊洪水の制度的な要因を考えると、本のニセ金化、地域通貨化だ」ということだよね。
そのことに関して言うと、俺が自分で本を出している感じでは、ニセ金化をやり続けていたら、最終的には出版社はやっていけないと思うんだよね。保ってあと数年じゃないかな。

永江 具体的な社名を挙げるのはあれだけど、「河出書房神話」ってあるじゃないですか。あそこもずっと自転車操業で来て、もう駄目だと倒れそうになった時に、いつも何かヒットがあるっていうね。オカルトじゃないんだけど、不思議なことに、出版社って自転車操業で倒れそうになると、何か当たるんですよ。
 例えば筑摩書房だと、駄目かと思ったところで『老人力』とか『金持ち父さん貧乏父さん』とか、ポコンポコンと来るんですよ。松田哲夫さんも言っていたけど、ちくま文庫とちくま新書を創刊してなかったら、多分また倒産していただろう、ということだし。少なくとも自社ビルをまた購入することはなかったと思う。
もちろん、それぞれ厳しくやりくりしているんだと思うんですけど、でも、ニセ金化での自転車操業状態のところって多くて、「本当にこれであと十年続くの?」っていうところは一杯ありますよ。
 十年後のことを考えると、欧米は日本と構造が全く違うので、また別の話ですけど、欧米で起きたのはコングロマリット(複合企業)化でしょ? コングロマリットが出版社を買って、出版社もグループ化していって、メディア総合産業になっていったり、全然関係ない企業がメディアを買ったり。そういう風になっていく可能性はありますね。ポット出版が、キリンビールに……それはないか(笑)
 でも、日本でも小規模な出版社がIT系の会社に買われたりするし、出版社のブランド構築がちゃんと出来ていればお互いにメリットがあるし、別に良いことでも悪いことでもなんでもないと思いますけどね。

沢辺 俺は、余力を使い切って自転車操業を続けてるような出版社を買って得られるメリットは、取次口座くらいだと思うな。

永江 その取次口座も最近では、資本関係が変わると条件見直しになったりもするらしいね。古い出版社って滅茶苦茶取引条件がいいんだけど、それを狙って買ったら、実体が変わっているからといって、また歩戻しがついたりね。

沢辺 でも、新刊洪水の原因がニセ金化を利用した自転車操業なんだったら、出版社がつぶれていくことによって新刊が減っていくという面もありますよね。
 点数に関しては、日本の新刊は8万点で、アメリカの23万点と比べると少ないと言う人もいますが。

永江 それは単純に比較は出来なくて、日本の場合の8万という数は「取次経由」の数字ですから。だから、実はジュンク堂なんかが扱っている同人書籍だったり、大手町にある農業書センターが扱っている専門的な本だったり、あるいは自治体とか独立行政法人とか学校が作っているものも全てカウントしていくと、アメリカの20万点には及ばないかもしれないけれど、10万点は突破しているかも、と言われてますね。
 出版社でも、ミシマ社みたいに取次を使わないところもあるし、書店でも、神保町の南洋堂みたいに、大取次を使わずに神田村だけでやっていて、しかも定価で売らない、割引して新刊本を売っているようなところもあるんです。だから、やろうと思えば今だって出来る。

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●応援したい書店をえこひいきする方法

沢辺 永江さんがミシマ社や南洋堂、あるいはイハラハートショップなんかを取り上げるのは、書き手としてのエールだし、「こんな面白いことをやってますよ」というのを広めていっている、ということだよね。頑張っている店は生き延びて欲しいな、ということに対する具体的な行動として。

永江 ポット出版の具体的な行動として「面白い本屋は正味を安くする」というのはどうですか? 「沢辺ポイント」とかつけて、沢辺ポイントが高いところは、正味を安くする(笑)
 出版社がお気に入りの書店は優遇するくらいはあっていいと思うんですよ。あからさまに正味だとあれだから、見本をどんどんつけちゃいますよ、とかさ。それも現行制度でも出来ることだし。ただ沢山売ってくれる本屋を優遇するのではなくて、「ここは応援したいなあ」というところに高いポイントを付けて、良い本屋と悪い本屋を数値化するのはいいと思うな。

沢辺 うちでやっているところで言えば、お客が急いでいるとか、注文したのにまだ来ないとか、そういう連絡を直接ポットにしてくれた本屋さんには、送料無料、受領書の返送用封筒(切手付)を入れて送ってる。つまり、書店には一円も出してもらわなくていい、というようにしてるのね。
 それは、「何かあったときに直接電話して言ってくれる」というのを、嬉しい行為だと考えてるからですよ。ケチな話かもしれないけど、送料とかはこっち持ちで「とにかく今日中に送りますよ」という「特別扱い」をしているつもり。永江さんが言ったみたいに予めポイントをつけるのとは違うけど「こういう行動をしてくれたら、ありがたいのでおまけをつけます」という形にしてね。

永江 専門書店をはじめとして、面白い本屋は全国に沢山あるんですけど、どんどん閉店している。専門書店が成り立ち難いのは、どんなに児童書を揃えてもジュンク堂の児童書売り場には負けてしまう、ということがあるからです。でも、ジュンク堂の2千坪に行くよりも、60坪の児童書店に行くほうがいいことが一杯ある。その60坪の書店の意味を出版界も認めているのだったら、そういうところをえこひいきしたっていいじゃん、と思うんですよね。

●「直取り>取次ルート」の可能性は?

沢辺 それをやるとしたら、今のところは直取りしかないかな。

永江 そこなんですけど、何で直取りをもっと増やさないんですか? やっぱり面倒だから? 事務経費がかかり過ぎる? でもミシマ社の三島くんに出来るんだから、出来そうですよね。

沢辺 ポット出版も、全てではないけど直取りもしていて、取次と取引のない書店とも、積極的に取引をしていますよ。たとえば中野のブロードウェイにあるタコシェだったら、一度に合計30部以上注文してくれたら、60%で卸してるんですよ。その代わり、買切りだけど。

永江 まあ、その正味で返品されたら辛いよね(笑)

沢辺 他の書店でも、買切29部までが65%、30部以上は60%で卸すのを基本スタンスにしています。

永江 いま取次経由で取引している書店を直取りに変えていくのは難しいんですか?

沢辺 ひとつは、返品で取次に迷惑をかける可能性が怖い。例えば、直取りで卸した本が取次経由で返品されても、現状の取次のシステムではチェック出来ないと思う。そういうことはどうでもいいよ、とやってしまうのもアリだと思うんだけど、今の取次とつき合っている以上、細かな条件設定を書店毎、タイトル毎にやっていくのは、とても難しいんですよね。
 ちょっと話は変わるけど、今度中小出版社8社でやろうとしている35ブックスは、ある種「このタイトルは特別だよ」という処理を取次にしてもらうんです。全部の商品が一本正味で入っちゃう大型書店なんかにも書店の取り分35%で卸せるように、取次がシステムを改変してくれた。最初は「初回に配本するときは特別扱いでやれるけど、通常の補充の時には、いちいち特別扱いしてられないから、無理だ」と言われたのを「なんとか補充も特別正味でやってくれないか」と交渉したんです。これはつまり、商品によって特別扱いが出来るようになったということだから、今後ポット出版が出す本は全部時限再販でポットの出し正味65%にするとか、やろうと思えば出来る。
 で、「なんで直取りをやらないんですか?」ということについて言うとね。最初は直取りなんて発想にもなかったのが事実。でも、トランスビューが直取りをやりはじめて、そういうことも出来るということがわかった。そのときに、トランスビューのマネをするのは嫌だなって思ってさ。俺、あまのじゃくだから(笑) あとはさっきも言ったけど、既存の制度をもう少し引っ掻き回したいな、というのもあるかな。

永江 別に海外の制度が優れているとは思わないけど、アメリカでもイギリスでも直取りがメインじゃないですか。その上で、直取りでフォロー出来ないところは取次がやる。
 日本の場合それが逆で、メインが取次ルートで、取次がフォロー出来ないところは直取りでやる、ということになっている。それは必然的にマイナーな出版社とマイナーな書店にとっては厳しい戦いを強いられることになりますよね。だから、版元ドットコムが出来たり、地方・小出版流通センターが出来たりしたんだと思うんですけど。
 版元ドットコムとして直取りをやるっていうのはどうですか?

沢辺 ふーむ。版元ドットコムとして直取りをやるのは趣旨と違うかな。版元ドットコムは「私たちの趣旨は本の情報を出版社自身の手で発信していこう」って言って集まっているものだから。やるとしたら、版元ドットコムとは別の団体を立ち上げるかな。

永江 でも、版元ドットコムが取次機能も持って、「うちは流通までやります」って言えば、インパクトはあるよね。

沢辺 版元ドットとコムは、この前、出版社と取次の間の流通を請け負っている大村紙業と提携したので、直取りが出来る条件は整いつつあるんだけどね。発送は会員社140社分の本を集めて段ボールに詰めてもらえて、伝票も一個で済む。一社一社で伝票を作らなくて済むので効率的だし、版元ドットコムがやるのは集金機能だけ。でも、クレジットカード決済か何かを書店が選択してくれないと嫌だな。書店の支払いは常に課題だからね。

永江 確かにね。流通の話を色々してても、結局は金にまつわる仕事を取次におっ被せている以上は変わらないんですよ。

沢辺 でも、お金のことに関しては、技術革新でガラッと変わると思うよ。

永江 そうかなあ。あの金払いの悪い書店のオヤジにどうやって払わせるのか、難しいですよ。

沢辺 でも、金払いの悪いオヤジはポットの本を扱ってくれないと思うよ。

永江 業界全体での話をしようという時になかなか動かないのも、その辺ですけどね。

沢辺 出版社でも「支払い悪い問題」ってあるんだよね。版元ドットコムでは会費を4ヶ月滞納したら自動的に退会処理をするようにしている。版元ドットコムに参加するような、比較的新しい出版社は元々キチッと支払うところが多いんですけど。

永江 それは書店もそうですよ。新しいところは、取次にお金を支払わなくていいなんて想像もしていない。払うのが当たり前だと思っている。まあ、当たり前なんだけどさ(笑)

沢辺 でしょ?

永江 しかも、新しい書店だと歩戻しもなかったりする。日書連の集まりとかで歩戻しの話になると、新参の書店は「それって何のことですか…?」って感じなんだよね。で、「100%払うと取次からご褒美でお金がもらえるんだよ」って説明すると「うちは今までちゃんと払ってるのに、一回ももらってない!」ってことになる。取次は書店同士をあまり仲良くさせたがっていなくて、それはタレント事務所がタレント同士をあまり仲良くさせるとギャラの話をされるから、個別管理したがってるのと一緒だよね。

沢辺 さっきの話に戻ると、ポットにつき合ってくれるようなところは、支払いとかそういうところをちゃんとやってくれる書店なんだよね。小さい書店からすれば、ポットの本を並べるってことは、ちょっと工夫してみようとか、チャンレジしてみよう、っていうことじゃん。だからポット単体で考えたら、実は直取り自体にそんなに心配はないのかもね。

永江 最初の話と言うか、今回のテーマに戻すと、再販じゃなきゃいけないとか、委託じゃなきゃいけないとか、「なきゃいけない」っていうのを外せば結構自由に出来るわけですよね。
 今回の『本の現場』だって、単にノリで「希望小売価格」にしたんだけど、あれは加賀美(アルメディア)さんだったら怒るよ。加賀美さんは、「希望小売価格が当たり前」という人だから、わざわざ希望小売価格とか非再販って表示すること自体がおかしいってね(笑) 「定価」の方がイレギュラーなんだからって。

沢辺 それはあまりにも原理主義だな〜。

永江 あとは今回トーハンの広報誌の担当編集者が、「永江さん、やっぱり『書店経営』に『本の現場』を紹介出来ませんでした。ごめん」って謝りに来て。「室長もぴりぴりしてたもんで」って。「でも、昔出した『菊地君の本屋』(アルメディア)も非再販なんだけど、あのときは別に何もなかったけどなあ」って言ったら「誰も気がつかなかったんです」って(笑)
 実際はそれくらい別にどうってことないことですよ。非再販にしたって。
 委託制だってしなくていいんだし、本当の委託である、売れた時清算の委託だって、取次を通さなければ出来るわけで。取次だけが本を書店に並べるルートじゃないですから。

沢辺 何か俺、挑発されてるなあ(笑)

永江 ははは。でも、現にミシマ社とかトランスビューとか、やれてるところはあるわけで。それに、やってみて失敗して潰れたら、また別でやればいじゃない。アメリカのリーダーズ・ダイジェストが破産法の適用を申請してたけど、あれは日本でいう民事再生みたいなもんだから、要するに死んだフリして借金チャラにして、またゾンビのように甦れるということ。法律がそれを認めてるんだから、どんどんやればいい。まあ、取引先は泣きますけども。

沢辺 その他現実に出来ていることは、新刊委託をしないで、最初から注文だけ受けるということ。
 全部を注文だけにしているわけじゃないけど、最近ポットが出した本でいうと『羯諦』(山中学、定価6000円+税)は新刊委託をしなかったです。

●次回へ続く

次回、「談話室沢辺 ゲスト:永江朗 第3回『紙の本の値段、電子書籍の値段』」は、10月16日(金)に更新予定です。どうぞよろしくお願いいたします!

●プロフィール

永江朗(ながえ・あきら)
フリーライター。1958年、北海道生まれ。法政大学文学部卒。
1981年〜1988年、洋書輸入販売会社・ニューアート西武勤務。
83年ごろからライターの仕事を始める。
88年からフリーランスのライター兼編集者に。
1989年から93年まで「宝島」「別冊宝島」編集部に在籍。
93年からライター専業に。ライフワークは書店ルポ。
現在、『週刊朝日』、『アサヒ芸能』、『週刊エコノミスト』、『週刊SPA!』、『漫画ナックルズ』、『あうる』、『書店経営』、『商工にっぽん』、『この本読んで!』などで連載中。

●本の現場─本はどう生まれ、だれに読まれているか

本の現場
著者●永江朗
希望小売価格●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0129-3 C0000
四六判 / 228ページ / 並製

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2009-10-02

ゲスト:永江朗 第1回「重要なのは再販制度、じゃない」

●再販制は、あってもなくてもどっちでもいい

沢辺 今回の「談話室沢辺」は『本の現場』の販促も兼ねているので、再販のことについて話そうと思うんですよ。

永江 やっぱり、再販のことになりますか。

沢辺 出版業界の人も、新聞やテレビも、再販のことになると来るんだよね。

永江 最初から話をひっくり返すようだけど、それが不思議なんだよね。再販についてはさんざん議論され尽くしたじゃん、っていう気分があって。まだ出てない論点ってないだろう、という気もするんだけど。

沢辺 でも、再販必要論は山ほど出てるけど、「再販はいらない」論がない。永江さんはどうかわからないけど、俺は「再販いらない」論じゃなくて、「再販絶対必要論がよくわからん」という立場なんです。
 もうちょっと手前から言えば、俺は、完全な市場原理は基本的には成り立たなくて、経済に対する一定程度の介入は必要だと思ってる。だから、再販も市場をコントロールする制度として選択することがあってもいいとは思う。存在そのものが悪なんじゃなくてね。だけど現状、再販制度が出版活動に何か良い作用を与えているかというと、現実的、具体的には何も感じない。だから「絶対必要」という人に対しては「何で?」って聞きたいんです。
 一方で、わざわざ再販を壊そうとは全く思ってなくて、正直なところ「どっちでもいいや」が俺の考えなんです。永江さんの基本スタンスはどうですか?

永江 僕も「どうでもいい」なんですよ。どうでもいいし、再販を選択してもしなくても、それは出版社と書店が自由に決めれば良いんじゃないか、ということですよね。再販というよりも「定価制度」と言った方が良いかもしれないけど、再販じゃない定価制度のやり方はありますよ。
 たとえば本当の委託。「エンドユーザーに渡るまでは、所有権は出版社のもの」ということにすれば、売れた後に清算するまで、書店はお金を払わなくて済む。だから書店の負担もうんと軽くなるし、出版社も売価のコントロールができるわけです。デパートなんかでは、そういう本当の委託、「消化仕入」という形態でやっていて、商品が売れるまで、そのデパートにとって在庫はゼロなんですよ。売れた瞬間に仕入れと売上が同時に立つという感覚。出版界は今まで50年くらい再販制でやってきたけど、例えば「消化仕入れ」というやり方もある。
 とにかく「再販制はあってもなくてもどっちでもいい」というのが私のスタンス。でも、「永江朗が取材するような書店」という限定が付くけれど、これまで会ってきた書店の経営者の多くが「再販制はなくてもいいんだよね。大きい声で言えないけど」って言うんです。特に異業種から参入して来た人は「ない方がいい」とまで言います。だけど取次は「再販制守れ」って言うし、日書連も「再販制守れ」が公式見解だから「大きい声では言えないんですけどね」って言うわけですよ。
 「それは何でかな」って考えた時に、再販制が委託とくっついて運用されていることによって、けっこう弊害があるからじゃないかな。 一番大きな弊害は、このままいくとネット書店と大型店、ナショナルチェーンとローカルチェーンだけが残り、あとはインディペンデント系の書店が大都市部でちょぼちょぼ、という状況になるであろう、ということ。そんな状況になって楽しいのだろうか?
 もうひとつの弊害は、この10年くらいメガストア化が進んで来た中で、ランキング依存と言われるような状況がどんどん酷くなってきていること。チェーン店を取材して「どういう風に仕入れしてるんですか?」と聞くと「本部からの指令で、トップ50のタイトルは欠かさないようにしています」と言うんです。ランキングの上位だけ置いておけば良いとまでは言わないけど、「それだけは欠かさないように」と言うわけですよ。10年後20年後に全国のチェーン書店がそうなってしまったら、やっぱりつまらないんじゃないの?
 もちろんランキング下位の本でもAmazonで買えるんだけど、小売店がもう少し「遊べる」要素を作るには、今と違う流通の仕方も考えていかなきゃいけない。再販制を守っていこうという人の論拠はわかるけど、「じゃあ現状このままでいいの?」「このまま行ってどうなるの?」と聞きたい。

●書店の自由のつくりかた

沢辺 『本の現場』を出したことで、新聞記者やテレビ局に取材されたんですけど、やっぱり「何で非再販の本を出したんですか?」って聞かれるんですよね。自分なりに理由を考えてみたけど、正直に言えば「ノリでやった」で、理屈をつけるとしたら「書店に自由を増やしたい。その自由を色々行使して、永江さんの言葉でいえば『遊べる書店』が増えていって欲しい」ということ。
 メーカーである出版社として、どんな「書店の自由」が提供出来るかというと、ひとつは、「販売価格を縛っていることをやめて、自由に設定できるようにする」ということ。もうひとつは、35ブックスでやっているように、書店の取り分を増やすことで値引き原資を作ることですよ。

永江 35ブックスに関していうと、商品を自分たちに選ばせて欲しかったって、書店は言ってますけどね。

沢辺 確かに、35ブックスが完璧じゃないのは十二分にわかってますよ。ラインナップに不満があるということもね。ただ、35ブックスに対する一部の書店の反応に対して、腹が立つこともある。書店が「たった35%じゃん」という言い方なんだよね。「35%のマージンで歩安入帳なんてやってられません」っていう意見があった。書店はいつも正味が高すぎて利益幅がないって言っていて、それに対して、35ブックスは何かをしようとしたのに、「全体の中のこれだけじゃ意味ない」とか「もっと利幅を上げろ」とか、マイナスを先に見つけて言ってもしょうがない。

永江 それは流対協(出版流通対策協議会)の『本の定価を考える』という本の論調でもそうだけど、こういうことをしたら、こういう悪いこともあります、ああいう悪いこともあります、って先回りして悪いことばかり並べて「このままで行きましょう」っていうやり方だよね。自民党が民主党のマニフェストにいちゃもん付けてたのとそっくりで、「じゃあ変わらずこのまま沈没すれば?」っていう感じですよね。

沢辺 そんな中で積極的なのは大手チェーン店なのよ。色々考えて、現状に何か風穴空けなきゃな、と思ってるのは、むしろ大手チェーン店なんじゃないですか? 日書連からは、「試しにやってみよう」とか「こう変更したらどうだ」といった声が聞こえてこない。
 Googleのブック検索に対する出版社の対応もそうでさ。確かにいきなり「合意しないならオプトアウトしろ」とか言われたのは乱暴と言えば乱暴だけど、結果、本を検索出来るようになって読者に利益があるんだからさ。それで本がいちじるしく売れなくなるような可能性が滅茶苦茶高いかというと、そんなこともないと思うし。

永江 電子本の状況を見ていると、アメリカは本当にダイナミックだな、と思いますよね。方やハードカバーで30ドルくらいの本が、電子本だと9.95ドルで売ってたりする。ソニーのリブリエは日本では撤退したのに、アメリカではニューバージョン出すでしょ? それはつまり、ソニーとしては「日本人はバカだからもうつき合わない。日本人にはプレステだけ与えておけばいいよ」みたいなもんじゃない。経営者がアメリカ人だからかもしれないけどね。
 日本でも紙の本と電子本を同時発売して、しかも電子本は紙の本の半額とか3分の1くらいの値段でやっていくくらいのダイナミックさがあればね。現行の色々な取引の枠の中では、書店がやれることはすごく少ないから。大げさな言い方をすると、中小零細の書店に「発注する自由」とか、「発注する自由を成り立たせる諸条件」が整っていない。
例えば、計画的な発注をしていくためには、事前の出版情報が必要ですよ。再販制がなくて、委託制もないアメリカでは、本のビジネスもアパレル業界と同じようにツーシーズン制がベースになってるんです。具体的に言うと、あらかじめカタログを作って事前情報を書店に行き渡らせたうえで、版元の営業やセールスレップ(Sales Representative:営業代行)が回って「我が社は今度こういう企画の本をやります」と説明をしながら注文を取っていく。実際はもっと複雑だけど、少なくとも理想としてはそうなっている。
 日本の場合、その仕組みを取次が代行してきましたよね。極端なことを言うと、来週自分の店に入ってくる商品を知らないでもやれるのが日本の書店です。少数の、パターン配本を使わずに全部自分で仕入れるという店は別ですけども。その状況が読者として楽しいのか。

沢辺 でも俺、本でそれをやるのは無理だと思うんだよね。たとえばレヴィ・ストロースの幻の原稿が発見されたのなら、「翌年の春に発行しますよ」でいいと思うんだけど、Googleのブック検索問題があったので、アメリカの「フェアユース」って何なのかとか、知的財産ってそもそも何なのかとか、アメリカと日本の著作権法の違いを扱った本を1ヶ月か2ヶ月で仕上げて出すということだって、あると思うんですよ。むしろどっちかというと、そういう本のほうが多くなっているんじゃないですか?
 ハリー・ポッターとか村上春樹のレベルになれば、「来年の春」でもいいだろうけど、それ以外の、例えば携帯小説だって、流れが来ている時に即出そうよ、というほうが多いのだろうし、「半年後じゃなければ出来ない」としちゃうと、逆に出版がつまらなくなっちゃうんじゃないかな。

永江 それはもちろん、ガチガチの制度は要らないという前提の上でね。それから、実は日本だって老舗でかための出版社を中心にして、ちゃんと事前情報を出して計画的にやっているとこもあるんです。例えば新潮社は「来期の主力企画発表会」として、業界の人を集めるパーティーを定期的にやってるんですよ。みすず書房や岩波書店も、年末になると「来年度の我が社の出版計画」を出してるし。

●悪いのは出版界の制度?

永江 実を言うと、再販制と委託制も、スタートしてから四半世紀くらいは上手くいっていたと思うんですよ。それが高度経済成長期を終えるくらいの段階、つまり1970年代半ばから80年代頭くらいの段階で、最初の想定と条件が大きく変わったんだと思う。
 変わった点のひとつは「出版点数の増大」で、もうひとつは、講談社文庫の市場参入がきっかけと言われているけど、「フリー入帳にした」こと。もともと新刊だけ委託配本という形だったのは「サンプル」だったからですよね。アメリカのように前もって出版計画を作ってセールスレップが全国の書店を回るわけにいかないから、取次経由でサンプルを配って、見てよかったら追加発注してください、ということだから。それを全品委託配本・フリー入帳にした。そのときに「本のニセ金化」が始まって、本とお金が同じように売れるようになってしまった。
 制度を作る時に想定していなかった事態が色々生まれたのだから、制度も少しくらいいじってもいいんじゃないの、と思うんですけど。

沢辺 結局、書店員が選書をする必要があるっていうことじゃないのかなあ。

永江 うん。でも、それが何故難しくなっているのかというと、ひとつは取次が良く出来すぎているから。

沢辺 でもそれはしょうがないよね。「子どもたちに主体性がなくなった。教育システムが完備されて、通信教育から塾から何まで全部あるから、自分で図書館に通って勉強する奴がいなくなっちゃった」って言っても、意味がないと思うんだよね。「もっと自覚的に、何もかも与えられるんじゃなくて、やらせるべきだ」という「べき論」は出来ると思うんだけど、そのときに、便利なシステムを提供しているところが悪いと言っても、意味がないでしょう。つまり、取次が出来過ぎだと言っても意味がない。そこで甘えてた書店に自主性がなくなったって、それは書店自身に奮起を促す以外にはないんじゃないかな。

永江 小泉純一郎みたいな言い方に聞こえるかもしれないけど、委託配本・フリー入帳であることによって、頑張りたい書店が足を引っ張られる状況があるじゃないですか。たとえば、注文しても本が取れないとか。さっきも言ったように、特に新規参入のところから「買切りでいいのになんで本を売ってくれないのか」という意見が出る。買切りで100部欲しいと言ってるのに、「これは行き先が決まってますから」となるのは、硬直ですよ。
つまり「米は一粒たりとも輸入しません」みたいに「非再販は認めません」となる空気は気持ち悪いね、と思う。実用書なんかだと、出版する段階で「これは一年後には陳腐化して、市場で価値ないよな」っていう本もあるんだから、そういう本は時限再販でいいじゃないですか。時限再販にする必要すらないかもしれない。「その辺りをもう少し緩くやっていけばいいんじゃないの?」という程度のことです。
 もうひとつは、別に諸外国が上手くいっているとは言わないけど、再販制のある国って、先進国では珍しいくらいになっているわけですけど、たとえばフランスなんかは再販制があってももう少し緩いですよね。例えば一定枠内での値引きは認めていたり、基本は時限再販だったり。公取みたいな言葉だけど、もう少し柔軟性のあるやり方をしないと、息苦しくて窒息しちゃうんじゃないかな。

沢辺 でも、やる気のある書店は本当に足を引っ張られてるのかな? たとえば神宮前にあるJ−STYLE BOOKの大久保さんという書店員が『本の現場』を読んで思ったことを書いてくれたんだけど「現状のシステムの中でも努力して頑張れるノリシロはある」と彼がいうのは、今の永江さんの言葉で言えば、「僕は足引っ張られてるって感じはしませんよ」っていうことですよ。
 大久保さんみたいな人が増えていくことが、「チェーン店ばかりになってしまう」という危惧に対する、ひとつの対抗になるんじゃないかな。大久保さんの売りたい本とポットの出す本って微妙に違うので直接には役には立たないんだけど、大久保さんとか、そういう固有名詞をめがけて、その人に「沢辺さん、それグッドだよ」って言ってもらえるようなことをしたいな、と思うんだけど。

永江 それはいろいろなんじゃない? 「足を引っ張られてる」っていう人もいれば「そうじゃない」という人もいる。僕が取材をしていて中小の書店から言われるのは、「なんでウチにはベストセラー送ってこないの? 隣のチェーン店にはあんなに積んであるのに」ということですよ。それは取次が悪い。日書連の議論を見ていても、取次の不公平な取引条件の改善を申し入れる、という話ばかり30年間くらい、ずーっと同じことを言ってる。

沢辺 日書連みたいな人がいて、ずっと同じことを言いつづけている、っていうのは分かりますよ。おっしゃるとおりだと思うし。『本の現場』に関しても、「いきなり最初から非再販にするのではなくて、時限再販じゃない。いきなり非再販にして、Amazonに値引きされちゃったら敵わない」って感じ。そういう人がいる一方で、かたや大久保さんみたいな人もいて、スムーズだとまでは言わないけど「不公平は感じていませんよ」という人もいるわけよね。

●本が読者に届くなら、今の制度はなくなってもいい

永江 再販含めて本についての色んな制度を考える時に、何を優先して考えるかってなると思うんですけど、従来の「再販制を守っていこう」という話は、「出版社や書店をどうやったら生き残らせるか」というのが多いじゃないですか。
 私は出版社や書店がなくなろうがどうでもよくて、まずは「本が生き延びること」が大元にあるんです。次に、読者にとって本を読む機会が沢山あること。それに付随して出版社があったり著者があったり、取次や書店があると思う。
だって、本の五千年の歴史を考えたら、最初は書店も出版社もなかったわけですよ。プロの書き手が出て来てそれで食えるようになったのは遡ってもせいぜい200年ぐらい。それも、日本でも何人かいるか、くらいの規模ですよ。紫式部は原稿料もらってなかったですからね。
 そう考えると、本があって読者がいるっていうことがまず大事なんだけど、それが今の出版流通の中でどうなっているかというと、本の圧倒的な短命化ですよ。作ってもすぐ消えて、読者に届かない。平均返品率が40%ですから、新刊だけで考えたら60%を超えていますよ。この前学生に「需給バランスっていう概念は出版界にはないんですか?」って言われましたけど、少なくとも、作った本があっという間に市場から消えて読者に届かないとか、手に入らないとか、そういう本が存在したことすら知らない間になくなっていくという状況は、あまりよくないでしょう。
 「じゃあ、なんでそういう風になっているの?」って考えた時に、出版大洪水の状況があり、なんで出版大洪水の状況になるのっていうと、本のニセ金化があるからであり、本のニセ金化がなんで起こるのかというと、委託制と再販制が一体化して、本がお金と同じようになっていて、その要に取次の存在があるからだ、と考えてるんですけど。

沢辺 永江さんはちょっと断定的すぎるんじゃないかなあ。「出版社や書店が生き延びることよりも、本が生き延びることが大事」というところまでは大賛成なんですよ。いまはもう、近所に山ほどあった写植屋はなくなっちゃった。出版界はデザイナーに写植屋や製版屋の代わりをやらせることで、そういう職業をつぶしてきたわけだから。それをセンチメンタリズムでいえば物悲しい感じもするんだけど、でも技術や環境が変わった結果だから、しょうがないとしか言いようがない気がする。
 その写植屋を出版社に置き換えても同じで、「技術や環境が変化したから、お前のとこ、もう要らないんだよ」と言われたら退場する以外にないし、それを生き延びさせるのは価値が逆転しちゃってる。永江さんみたいに、本そのものとして良いものを作っていくとか、それを読者に届けていくというところに価値を置いた時、結果的に生き延びていく出版社は生まれると思うけれど、「生き延びる」の方に価値を置いたら、上手くいかないと思いますよ。ここまでは永江さんと同じ。でも、「本の存在を知らない」という点に関しては、ネットが補完していると思うんだよね。それは極論?

永江 うーん。それは大都市の、それなりの環境のある人だけだよね。

沢辺 でもネットなら、大都市に限らず全国平等ですよ。

永江 僕、この前田舎に帰ったんですけど、地方と東京の環境の格差、それから年齢や所属している環境による格差っていうのは結構凄いんだなと思って。70歳以上でネットを使いこなす人は少ないじゃないですか? 彼らにとっては、たまに行く地方のチェーン店に並んでいるのが、新刊書の全てなんですよ。「本読みたいんだったらパソコン買って使い方を覚えろ!」というのも正論かもしれないけど、70歳超えた人には言えないよね。だからと言って、私は別にネットをなくせと言っているわけじゃなくて、ネットは本の存在を知らしめる、もの凄く役に立つ道具であることは事実だと思ってますよ。でもまだまだ十分とは言いがたい。
 その上で書店の店頭での話に絞ると、書店に並んでいる時間が1週間が良いのか、1ヶ月がいいのか、3ヶ月がいいのか、ということですよ。今だと、否応無しに1週間になっちゃってるところがある。それは制度的な原因が色々あって、個々の書店がそう選択せざるを得ない状況があるんだと思います。じゃあ例えば、それをもう少し辛抱して3ヶ月ずつくらい並べるにはどうしたらいいだろうかって考えた時に、全国1万6千の書店がみんな同じ品揃えにしようとすると1週間しか並ばないかもしれないけど、その地域にあるA、B、Cの各書店がそれぞれ違う本の並べ方をしようとすれば、頑張れば1ヶ月半ぐらいずつは並ぶかもしれないよね、という組み替えをやっていけると思うんですよ。そのためだったら制度をいじってもいいんじゃないのかな。

沢辺 その辺が、永江さんと俺との温度差なのかな……。制度をいじるという結論には賛成なんだけど、どっちかというと俺は、今の制度の中にあっても大久保さんをどれだけ増やせるか、というところに興味があるんだよね。大久保さんは多分、3ヶ月くらい並べている本の方が多いと思う。

永江 でもそれは一部のとてもやる気のある書店の話で、このままじゃチェーン店ばっかりになっちゃいますよ。

●次回へ続く

第2回「今の出版界でも出来ること」は、こちら

●プロフィール

永江朗(ながえ・あきら)
フリーライター。1958年、北海道生まれ。法政大学文学部卒。
1981年〜1988年、洋書輸入販売会社・ニューアート西武勤務。
83年ごろからライターの仕事を始める。
88年からフリーランスのライター兼編集者に。
1989年から93年まで「宝島」「別冊宝島」編集部に在籍。
93年からライター専業に。ライフワークは書店ルポ。
現在、『週刊朝日』、『アサヒ芸能』、『週刊エコノミスト』、『週刊SPA!』、『漫画ナックルズ』、『あうる』、『書店経営』、『商工にっぽん』、『この本読んで!』などで連載中。

●本の現場─本はどう生まれ、だれに読まれているか

本の現場
著者●永江朗
希望小売価格●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0129-3 C0000
四六判 / 228ページ / 並製

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2009-09-30

談話室沢辺とは

「談話室沢辺」は、ポット出版社長の沢辺均が聞きたいこと、知りたいことを、専門家に直接ぶつける対談コーナーです。毎回設定するテーマについて、真っ向からとことん語り尽くします。