2010-08-10

談話室沢辺 ゲスト:落語家・鈴々舎わか馬「知ってるようで知らない、落語家の世界」

落語がブームと言われて久しい。毎日でも聴きに行くことができ、
関連書籍やDVDもずっと出続けていて、落語に対する敷居はぐっと低くなった。
それでも一般の人はもちろん、いわゆるタレント・芸能人とも少し違う感じのする
「落語家」という人々の日常というのはいったいどんなものなのだろうか。
落語家にはどうやってなるのか? 毎日をどのように過ごしているのか?
落語家の日常を2010年9月に真打昇進を控える落語家・鈴々舎わか馬さんに聞いた。

(このインタビューは2010年7月13日に収録しました。)

プロフィール

鈴々舎わか馬(れいれいしゃ・わかば)
1974年、横浜生まれ。落語家。横浜平沼高校、明治学院大学卒。
1997年、鈴々舎馬桜に入門し、「わか馬」。
2000年、二ツ目昇進。2006年、鈴々舎馬風門下に移門。
出囃子は「スーダラ節」。
2010年9月に「五代目柳家小せん」を襲名し、真打昇進が決まっている。
ブログ「わかばブログ」http://reireishawakaba.blog84.fc2.com/

2.jpg

●落語はどこでも出来るのが強み

沢辺 今日は僕にはどうも想像がつかない落語家さんの世界を聞いてみたいなと思ってるんですが、わか馬さんの日常ってどんな感じなんですか?

わか馬 基本的には仕事があれば出かけてお客さまの前で一席やる。表立って見えるのはそれだけですよね。それ以外の空いた時間は噺の稽古に行ったり、本を読んだりとかして色々なものに触れて見聞を広めたりしてますね。そのあたりは自分の裁量で自由にできます。

沢辺 師匠のところに行くことはないんですか?

わか馬 前座(ぜんざ)の頃は毎日通ってました。8時、9時ぐらいに行って、師匠が起きてくる頃には掃除が終わって綺麗になっているという状態にしておく。前座修行ですね。
今の二ツ目(ふたつめ)という前座と真打の間の位になってからは、10日に一度、10時ぐらいに師匠のところに顔を出しています。寄席の番組っていうのは10日ごとに変わるんですよ。それで落語家は出番のあるなしにかかわらず、10日ごとの単位で話が動くことが多いんです。ですから番組の初日である1日、11日、21日に師匠の家に集っています。

沢辺 それは二ツ目の人たちがみんな決まって行くんですか?

わか馬 そうですね。みんなが顔を出して、ご飯をいただいたり、掃除したり、家の用事のお手伝いをして、それぞれ仕事があったら出かけていく。区切りのご挨拶みたいなものですね。集まって何をするというわけではないので、仕事が午前中からある場合はちょっと今度の初日は来られません、ということもあります。

沢辺 じゃあわか馬さんの場合は真打直前だけどまだ二ツ目だから、10日ごとのご挨拶にまず行くっていうのは決まりのスケジュールとして入っているんですね?

わか馬 噺家みんながそうではないですけどね。うちの馬風一門の場合はそうなっています。ただ、ゆるいところ、きついところ色々ありますけども。基本的には何かの時には師匠のところに顔を出すというのはありますね。

沢辺 落語を演じる場所って大きく分けるとどういうところがあるんですか?
「末廣亭」とか落語をかける小屋や、普通の劇場でやってる場合や、色々ありますよね。

わか馬 大きく分けると、「定席(じょうせき)」とそれ以外ですかね。今仰った「末廣亭」のようなところを我々は「定席」と呼んでいます。ここでは毎日落語をやっています。
それ以外だと色々とありますが、本当に我々はどこでも出来るっていうのが強みなんですね。何百人も入るようなちゃんとしたホールから、おそば屋さんの二階やお座敷でもできますから。
また他の形で分類すると、入場料をいただいてお客さんを集める席と、何かの集まりに呼ばれる場合とがありますね。集まりに呼ばれるっていうのは、企業から町内会、老人会まで色々です。呼ばれる理由も研修から楽しみの一席までいろんな席がありますね。研修で落語聞かせてどうすんだとは思いながらもね(笑)

沢辺 わか馬さんが落語をやるときはどのくらいの比率なんですか? やっぱり定席が多い?

わか馬 いや、定席はほとんど無いんです。あんまり若手に出番が回ってこないので。例えばさっき仰っていた新宿の「末廣亭」は昼の部と夜の部で1日二回公演があります。それで昼夜でそれぞれ20人ずつくらい噺家が出ますが、みんな真打なんですよ。昼の始めと夜の始めにそれぞれ二ツ目が出るという枠がありますが、最初に前座さんが出て、二ツ目の枠があって、その後は出る人みんな真打。
二ツ目の場合は時間的にも短いし、そんなに出してもらえる日数もないので、トントンッとやってあとの師匠方がやりやすいような雰囲気作りをするのが寄席の中での役目です。そういうところに出してもらうのも勉強だし、そういうとこで使ってもらえるようになんなきゃいけないんですけどね。
だから、自分のやる場所をどうやって開拓するかっていうのも仕事のうちなんです。

●落語というもの全体の一番の拠り所・寄席

沢辺 二ツ目や真打ってそれぞれ何人ぐらいいるんですか? やっぱり真打、二ツ目、前座とピラミッドになるんですか?

わか馬 びっくりするぐらいの逆三角形なんですよ。定かではないんですが、真打は東京だけで400人、東西合わせて500〜600人くらいかな。私が所属している落語協会という団体ですと、ざっくりとですが真打が250人、二ツ目が50人で、前座が20〜30人とかそんなぐらいですかね。

沢辺 じゃあ少子高齢化みたいな感じだ。それ昔からそうなんですか?

わか馬 わからないですが、そうかも知れないですね。ただ、落語家の数というのがいま歴史上一番多いらしいんですよ。前座の期間が3、4年で、二ツ目が10年ぐらいなんですが、その後真打になったらもう何十年とずっと真打なわけですから、当然人数も増えていきますよね。おんなじ世代におんなじ数だけいたとしても、最終的にはそういう比率になっていきます。

沢辺 落語家さんを目の前にしてこんな質問をするのはちょっと失礼かもしれないんだけどさ、悪い言い方をすれば簡単に真打を増やすようにしちゃったとか、そういうようなことは特に無いんですか?

わか馬 色々考え方があって、それで歴史的にはもめたりもしています。二ツ目になっても腕がまずければ生涯二ツ目のまんまで、本当に認められた選ばれし者じゃないと真打にしないぞっていう考え方もあったらしいんです。
でも今はもう年功序列でとにかく真打になれます。真打になっても腕の悪いやつは使われないだけですから。真打になって辞めるとかいうことはないですけど、あんまり活動を見なくなっていく人とかもいますしね。真打になれば安泰とか、認められてすごいってわけではなくなっているのが現在の実情ですね。

沢辺 そうすると話戻るけど、定席は狭き門なわけですよね。真打にしたって1日40人で10日ごとに落語家を全員変えても月に120人。ほとんど真打だとしても回ってこない人が出てきますよね。定席一つ出るのも大変だ。

わか馬 そうですね。あとは10日間なんてとても出れないよっていう意味で寄席に出てない師匠もいます。テレビなんかもそうですし、ほかの落語会とかいろんな営業とかで引く手あまたで。逆に出たいのに出してもらえない人もあまたいるわけでございますね。

沢辺 「末廣亭」って入場料払えば20人見れちゃうんでしょ? 定員は200人くらい?

わか馬 昼夜入替してないですから、その気になれば入場料2,700円で12時から21時までずっといてもいいんですよ。だから40人見れます。僕らが学生の時はやってましたね(笑)
定員は300は入ります。2階席もあるので300以上は入れば入りますけれども、毎日満席では無いですから。

沢辺 すると満員になったって100万円くらいだね。それを出演者で山分けするんですか?

わか馬 山分けっていうふうにはならないですね。まず寄席の方で取り分を取って、残りが落語協会の事務所にどんときます。そこからはそれぞれ芸人もランクがありまして、やっぱり偉い人はちょっと歩合が高めで、若い人はちょっと歩合低めで、と上手いこと割って分配されます。
正直言うとその寄席の定席のあがりだけでは食っていくのはちょっと厳しい。あの師匠を呼ぶならこのぐらいのギャラだよっていうのとは全然違う形でやってます。
一席やっていくらになるから出るという儲けづくではなくて、落語というもの全体の一番の拠り所であるものをみんなで守ろうっていう。

沢辺 じゃ、定席はみんなで守ろうっていう目的のためにやっていて、本当にそれで食うとなったら別なところの仕事をそれなりにやんないと、むしろ割のいい仕事をやんないといかんってことですよね。

わか馬 そうですね。いわゆる商売というか自分の生活のベースとしては、寄席以外が基盤ですね。

●食えるっていう意味では、若い頃から食える

沢辺 落語で食えるようになるようになる段階ってどのぐらいからなんですか?

わか馬 わりとね。食えるっていう意味ではね、食えちゃうんですよ、若い頃から。前座修行中は毎日師匠の家に行って、ご飯食べて、寄席に行って、先輩とどこかへいったらご馳走になってという生活ですから、自分でお金使うことはほとんど無いんです。
二ツ目になっても、そんなにいい暮らしはできなくてもお金を使わないようにすれば使わずに済むという生活ができます。その分、お客さんをちょっとでも増やせるように自分で一生懸命、落語会をやるんです。
他にも前座にしても二ツ目にしても、先輩が呼ばれた落語会のお手伝いやお供を頼まれることもあります。その時は落語をやらせてもらえることもありますし、先輩にお小遣い程度はもらえます。そうすると飢えることはないんです。

沢辺 よくバイトで飯食いながら芝居とか音楽とかをやる若いのがいるじゃないですか。そういうことはあんまり無い?

わか馬 ごく稀にバイトしてるらしいよ大変だね、っていうのはチラッとあるけども、基本的にはそういうことをやらずになんとか食えるは食える。我々は一人で行って営業取れますからね。役者さんだと一人じゃ出来ませんし、公演やるとなったら、大道具だなんだ、稽古だなんだって拘束がありますけど、落語の場合は当日一人で体を運んで、着物を持って行って、座布団さえあって、ちょっと高くした高座があって、あとはお客さんさえいればどこでも出来ますんで。

沢辺 そうだよね。歌手や芝居はそば屋の二階じゃなかなかやんないでしょうね。例えばそば屋の二階だと、イメージなんですけど畳じゃないですか。高座は何で作るんですか?

わか馬 普通のそば屋の座敷の畳だったら、お蕎麦を食べるテーブルを重ねてよければ二つ重ねて。もしくはビールケースとかあればそれを積んで上に板を敷いて作ったりはしますね。床からある程度の高さの台が出来れば、あとは赤い毛氈(もうせん)、なければテーブルクロスでも、カーテンでも何でもいいから隠して、それで座布団をポンッて置けばもう出来ますから。

沢辺 ちなみにわか馬さんって、自分で作る席ってだいたいどのくらいの比率であるんですか?

わか馬 自己主催は二ツ目になりたての頃はたくさんやっていましたけど、最近は半年に一度でやっているくらいです。地元の横浜にある「にぎわい座」って小屋を借りてやっています。
あとは半分自己主催というか。それを商売にしてる人じゃないんですけど、会場を借りたり、チラシを作ってくれたりといった事務的なことを手伝ってくれる人がいるので、それに乗っかって一緒にやったりすることはあります。

沢辺 それはわか馬さんがいろいろやってきて、お客さんっていうか、呼んでくれる人が徐々に増えて、自分でわざわざやんなくても埋まるようになった。体が動かないスケジュールっていうか。

わか馬 そうですね。そういうので知り合ったり、自分を気に入ってくれてた人がお客さんと友達の間ぐらい感じになって、手伝ってもらったり声をかけてもらってやらせてもらうとかはありますね。おかげさまで、ほうぼうでやらしてもらっているところですね。

1.jpg

●落語家になろうと決めたのは、就職どうするとなったとき

沢辺 わか馬さん、生まれはどこですか?

わか馬 生まれも育ちも横浜の戸塚というところでございます。今は引っ越して板橋に住んでおります。師匠の家が板橋の蓮沼の方にあったので。噺家になるにあたって東京に出てきたという感じですね。横浜って言っても、戸塚は田舎ですから。通えなくはないんですけども、特に前座の時には毎日朝早くに師匠のところ行かなきゃいけない。この時間に行ければいいじゃないくて、何かあったら駆けつけられるように師匠の家の近所にいたほうがいいんです。それで実家から出て噺家になるにあたって、都内で一人暮らしを始めて。

沢辺 子どもの頃はどんな子どもだったんですか? 子どもの頃から「噺家」みたいな?

わか馬 いや、むしろ逆ですね。クラスの中で人気者とか、先生のモノマネとかしてみんなを笑わせるとか、そういうのではさらさらなく。ごくおとなしめでございましたね。自分で言うのもなんですけど、わりと真面目な学級委員なんかやるようなタイプ。子どもの頃まではわりと成績も良かったですね。

沢辺 それで落語家になろうって思ったのはいくつくらいの時からなんですか?

わか馬 なろうと思ったのは本当にもう、就職どうするってなった時ですね。小学校の頃から好きで聴いてはいたんですけれども、昔から落語家になろうと思っていたわけではなかったです。

沢辺 子どもの頃から好きだったんだ。珍しいよね。一緒に行く友達を見つけるのも大変そうだし。どのくらいのレベルの好きさだったんですか?

わか馬 他に好きなこともありましたけれども、けっこう好きでした。休みの日に楽しみで出かけようと思ったら、どっかの落語会行こうとかいうのが中心で。友達はたまに話してて、興味を持って一緒に行く人はいて、行ったら行ったで楽しいねって言うぐらいだったのかな。
ずっと中学高校大学と吹奏楽をやってたんで、好きのジャンルは違うんでしょうけど、音楽もずっと力を入れて好きでした。だから落語はけっこう好きでしたけども、それだけでもなかった感じです。全て落語のためにっていうほどでもなく。

沢辺 吹奏楽は楽器は何をやっていたんですか?

わか馬 中学がトランペットで、高校・大学とパーカッション、打楽器をやってました。

沢辺 いわゆる落研とかには興味なかったんですか?

わか馬 大学に入る時点でチラッと思ったんですが、ずっと吹奏楽やってきて好きだったし、そっちをやろうと思いましたね。やっぱり何十人集まって一つのことをやるなんて学生の時しか出来ねえかなっていう思いがあったので。

●落語家になるにはどこかの師匠に弟子入りするしかない

沢辺 落語をやる側をちょっと試してみたいなとか、そういうのは子どもの頃からあったんですか?

わか馬 講談の赤穂浪士討ち入りのところをちょっと覚えてみようとしたことは中学の頃にありましたけど、それ以外にはなかったですね。はじめて人前で落語をやったのも噺家になって、前座として寄席に入ってからなんですよ。しゃべれるように覚えようっていう気もあんまりなかった。だから噺ができるようになったのは入門してからですね。聴いてても自然には入ってこないんですよ。今でも新しいネタに取っかかるときは毎回苦労しています。

沢辺 じゃあちょっと戻りますけど、なんで噺家になろうと思ったんですか?

わか馬 好きが高じてとしか言いようがないんですよね。大学三年の半ばくらいから就職活動を始めるとなったら、取り立ててほかになりたい商売があるわけではないし、すごく好きな世界だったからそこに入れるなら入りたいな、というのが芽生えて膨らんでという感じですかね。

沢辺 一般の会社なんかの就職試験は受けたんですか?

わか馬 まったく受けませんでした。世間でもう就職活動をはじめる大学3年の終わりくらいに、噺家になりたいんですっていうのを師匠に話しました。本来あってはいけないんですけど、僕は途中で師匠が変わっているので最初に入門した時の師匠なんですが、卒業したらいらっしゃいっていう話を頂いてたので、内定と言ってしまったらあれですけど。

沢辺 なるほど。落語家になる方法って、具体的にどうすればいいんですか?

わか馬 どうすると言っても道はひとつしかないんです。どこかの師匠に弟子にしてくださいとお願いをする。これしかない。あとはもうお願いの仕方ですよね。色々調べて家を訪ねるのか、どっかの落語会とか寄席の楽屋で待ちぶせをしてそこでお願いをするか、手紙を書くか。まあ手紙ってのはあんまりないですけど。

沢辺 ちなみにわか馬さんの場合はどうやったんですか?

わか馬 落語会でも打ち上げの飲み会があるような小さなものってわりと多いんですが、そういうところで一緒に飲んだりして顔見知りになっていって。最初はそれとなく噺家になりたいんですよ、みたいな話してたんです。もちろん「やめときな」と言われて。
それで、自分が就職活動とかそういう時期になった時に、今度は本格的にお願いをしました。私の場合はある日唐突に訪ねていってとかそういうドラマチックなことはなかったですね。

●落語家のネット活用

沢辺 一方でいまお笑いブームじゃないですか。でも、落語も実はブームらしいんですよね。

わか馬 らしいんですけど、ブームって言われるほどブームでもない微妙な感じがします。世間じゃ全然ブームじゃないけれども、いわゆる出版業界とかではいま落語ブームだからって、落語関係の本が結構増えてたり、DVDも増えてますね。そういうところでなんとなくブーム。今までこっそり落語が好きだって隠してた人が実は私落語好きだったとカミングアウト出来る程度のブームですね。

沢辺 なるほど。それでいきなり話飛んじゃいますけど、落語会におけるインターネットの活用ってなんか面白い活用してるとかって聞いたことありますか? わか馬さん自身もブログ書いてますけど。

わか馬 ポッドキャスティングで無料配信とか、若手の噺を配信してるとかって言うのがあって、ダウンロード数だかアクセス数だかもすごくて、なんか面白いことになってるというのは聞きますね。誰でもお金を使わずに発信者になれる、という意味ではうまく使ってる人はうまいです。私は書いてますけど全然最近更新してないな。

沢辺 インターネットってメディアのあり方とか、状況をけっこう劇的に変えてるような感じがしてるんです。特に落語ってネットに親和性が高いって気がするんですよ。ネットって誰でも使うことができるから一つ一つがちっちゃくなってると思うんです。さっき、わか馬さんが友達と支援者の中間くらいの人達が手伝ってくれるという話をされてましたけど、別の言い方するとコミュニティじゃないですか。そういう小さいけれどもそのかわり濃いっていうコミュニティが作りやすい感じがするんです。そういう点でなんか利用している落語家さんってどなたかご存知?

わか馬 マメな人だとブログでなんかやるのと、自分でラジオ番組的なことをポッドキャストで定期的に配信してる人とかもいます。噺家何人かで飲みながら、さして内容のない話をして。それは聞いててわりと面白いものになってる。それをブログへの客寄せっていう意味なのか、よく落語聞いてくれるお客さまへのサービスとしてやってるのかはわからないですけど、それで人気を集めてるブログをやってる噺家はいます。みんなそれぞれ手探りでやってますね。
ブログとかで予定を発信するというのは割りとそれぞれやっていますし、そういうのは本当にネットじゃなきゃこうはいかないっていうのがあります。何百人何千人っていうところでイベントをやるなら、雑誌に広告を出すこともできますけど、50人とか100人の規模の会をちょくちょくやってると宣伝のしようがなかなかないんですよ。広く宣伝するには予算もないし、逆にお客さんが詰めかけちゃっても困るので。だからネットに情報を出しておけば、興味のある人が検索してきて、見てくれるっていうのはいいですよね。
それ以前は噺家がお客さんに発信するっていうのはDMぐらいしか無かったんです。100人、200人出すと切手代だけで何万とかかるのを毎月送っていた。それをコストもかけずに好きな人だけが見てくれるという形で出来るのは、多かれ少なかれ芸人みんな使ってるんじゃないですかね。

3.jpg

●落語の噺と著作権

沢辺 落語って古典と創作っていう風に分かれるんだと思うんですけど、有名な古典は、作った人が分かる場合があるんですか?

わか馬 ざっくり分けると古典と創作という分け方もできます。ただボーダーライン上のものもあって微妙なんです。例えば、昭和のはじめぐらいに誰かが作ったものを新作としてやってて、それを教わって伝わってて、わりといまいろんな人がやるようになった噺。これも古典ってことでいいんじゃないの、でも誰それ作の新作だよ、っていう新作なのか古典なのかボーダーライン上のものもあります。
古い噺でも作者が分かる場合というのは稀にありますね。作家がはっきり解っている場合もありますし、作ったと言うより、原点をたどるとここに行き着く、これが膨らんでこの噺になったよっていう場合があります。
例えば「試し酒」という噺。古典落語としてスタンダードに今、いろんな人がやってる噺なんですが、これは昭和の初期に誰それが作った噺ですよとか。

沢辺 それは落語家さんですか? それとも落語に作家さんというのがいるの?

わか馬 作家さんです。落語作家というのはいまも一人だけいます。小佐田定雄さんという方で、大阪のほうで活躍されてる方なんです。落語作家だけが肩書ではないんでしょうけど。
でも基本的にはいません。まあ落語作家なんかやったって儲からないから(笑)商売にならない。だから小説家であったり劇作家であったり、そういう方が落語も書いたからやってみないっていうんで、親しくしてた落語家に「これやってみてよ」ってやって、それが残されているものもありますね。

沢辺 落語って誰でも、何話してもいいんですか?

わか馬 基本的には自分で作ってやるんだったら何でも勝手におやんなさいですけども、いわゆる古典落語というか伝わってるものに関しては、誰かに教わってちゃんと許可を得てやるというのが筋です。それは自分の師匠にかかわらず、どこに教わりに行ってもいいんですけど。
この噺を教えていただきたいんですとお願いして、許可が出れば面と向かって1対1で噺をやってもらうんですよ。で、それを聞いて覚えたら1対1で自分がやって聞いてもらって、直してもらう。で、直してもらって「まだまだだな、もう一度」ってなったりしながら、お客さんの前でやってもいいよと許可を得て初めてお客さんの前でやっていい。だから勝手にやるのは本来許されない。勝手にやるのは泥棒だと。

沢辺 え、じゃあ権利を持ってる人がいるわけですか。

わか馬 この噺の権利はどこそこの何とか師匠が持ってるから、そこに断らなきゃできないとかそういうことはなくて、権利の所有者というのがいるわけではありません。持ってる人っていうのは持ちネタとしてやってれば別にいいんです。色々な師匠が同じ噺をしているけど、自分はこの人のを覚えたいって思ったらその師匠のところに行けばいいんです。たいがい自分の一門とかじゃなくても教えてくれます。

沢辺 僕は出版社だからどちらかというと著作権的な意味でも興味があって。なかなか面白かったのが、最初の噺を変えたりするわけですよね。当然っちゃ当然なんだろうけど、つまり紙に固定しているテキストみたいなもんじゃなくて、ちょっとずつ微妙にズレて、噺そのものが増えたり削られたり。伝言ゲームですよね。

わか馬 どんどん変わっていきます。それがちょっとずついいものになっていってるんでしょう。だから伝承されて何百年伝わって、いまも生き残ってるんでしょうね。

沢辺 ただ、わか馬さんには全く関係ないかもしれないけど、著作権的に言うと同一性保持権っていうのがあるわけですね。勝手に改変しちゃいかんぞと。例えば「ウエストサイドストーリー」は基は「ロミオとジュリエット」じゃねえか、とかぐらい変えるんだったらタイトルも違うし、全然場所も違うし、文句は言われない。でも微妙に途中の誰かが死んだのを死なせないとか、勝手に改変しちゃいかんぞっていうのが同一性保持権なわけですね。だけど、そうやってどんどん噺を変えていく落語界では、噺を変えるということに関してはどうなんですか? 不文律というかムードとして。

わか馬 変えることに関しては自己責任ですね。全部。要はそれが受けるか受けないか、お客さんに受け入れられるか受け入れられないか。変えて受けなきゃそれまでだし、変えて前より受けたらそれは自分がその利益で人気が出ていくわけですから。だから法律的には先ほど言ってた著作権の改変もなにもないんです。
ただ面白いなと思うのは、さっき話した稽古を1対1でつけてもらうときに、師匠にやってもらって、今度は自分がやって直してもらうというのは「上げの稽古」って言います。噺を上げる、上げてもらうって言うんですけど。この上げの時には教わったとおりにやるのが礼儀なんです。出来れば一字一句変わらず、できるだけそれと同じになるようにして、どうでしょうって直してもらう。あなたのそれがいいと思って教えてもらうのですから、そこで新しい自分なりのギャグを入れたりとか、変えたりするのはこれは礼儀にかなわないですよね。上げの稽古の時はそのまんまやるのが基本。だから権利的なものじゃなくて礼儀としてですね。
許可をもらったら自分のもんですから、あとはどう解釈を変えようが、下手したら登場人物を変えようが、キャラクター変えようが、ギャグを放り込もうが、時代設定を変えようがそれはもう自己責任で。俺が教えた噺をあんなにしやがってって怒ったり、文句言ったりするかもしれないですけれども、ちゃんとその過程を経て自分のものとしてもらっていればあとは自己責任でおやんなさいと。

沢辺 なるほど。著作権法違反だぞってことじゃなくて、変えた結果つまんないよってことはあるかもしれないけど、お前が受けなきゃお前が恥かくだけだって。そういう合意が底流にあるわけですね。ちなみに新作はどうなんでしょう。自分で作る場合も、人のをやらせてもらう場合も許可や稽古っているんですか?

わか馬 自分で作る範囲はもう端から終いまで自己責任ですから。それは誰も何も文句は言わない。人のをやりたいなと思ったら、作者なりやってる人なりに、これやらしてもらいたいんですけど教えてくれませんかっていって、基本的には稽古をつけてもらってですね。じゃあ俺はこういう風に作ってやってみたけど、自分のセンスでこれを変えてやってみていいよって許可を貰えばできるでしょうし。法的権利じゃなくて仁義ですね。仁義を通すって意味で。

沢辺 僕は著作権って思わず言っちゃいましたけど、別に法的権利っていうのもある種の仁義だとか、そういうものがトラブらないように、万民が解るように法律に成文化したっていう、どっちかって言うとそういう理解があるので、むしろ仁義で処理できることのほうが素晴らしいと思うんですよね。わざわざ法律作らなくても、そりゃ仁義でしょって通用してる社会だったらそれで全然OKだと思うんです。
だから法的どうこうじゃなくて、その話をやらせていただきたいんで稽古つけてもらえませんかっていうことが、実質的な許可っていうか仁義としての許可・了解行為になってるわけですね。

わか馬 ちゃんと筋を通せばいいよって。特に新作なんかだと、それやりたいから教えてよって言っても、いやいいよ勘弁してよって許可が降りない場合もあるでしょうし。

沢辺 現に中身知らないで勝手な印象なんですけど、新作はやっぱりやらせてよっていうのは少ないんですか? ものすごくその人っぽくなりますもんね。

わか馬 まあ少ないんですかね。その人がやってこそおかしいっていうものも多いですから。そうじゃない新作もありますけど。

沢辺 例えばパルコでやってる志の輔さんの新作落語とかは、もうなんか志の輔さんっていう感じがしちゃいますもんね。あれが20年、30年経っていけば、徐々にみんなの物ってひょっとしたらなるかも知んないんだけど、出来立てっていうのがなんかね。それに聞くほうとしても志の輔さんが作ったこの前の正月のやつをちょっとやらしてもらいますって言ったら、他に山ほどあるわけだしわざわざって感じがするもんね。

わか馬 現時点であれ受けてるな、じゃあ俺もやってみようって大して親しくもないのにいきなり志の輔師匠のところに行って、あれやらしてくださいって言ったら、そりゃあ「コイツはバカだな」っていうので終わってしまいますからね。まして若手がそんなことやったらね。古典でもなんでも、もっと今やるべきことがあるじゃないですかってことになっちゃいますから。学ぶべきことはもっと他にあるんじゃないのって言われちゃうでしょうね。

沢辺 大学、学問の世界で言えば、原典があるんだから、まずそれ読めよみたいなことですよね。なんかすごく面白いですね。作ったことの占有権みたいな考え方が。ある意味ではすごく合理性が高いっていうか。だって変えたっていいわけですしね。

わか馬 で、それで時代にちょっとずつ合わせて、リニューアル、マイナーチェンジを重ねているから何百年生き残っているんでしょうし。背景が変わって解んなくなったからいま演じられなくなった噺もたくさんあるんですけど、ちょっと変えてすごい蘇る場合もあるだろうと思います。いわゆるギャグを色々工夫して入れて、それが語り継がれていくうちにだんだん面白い部分が増えていく、つまらない部分が削られていくっていうのが何代にもわたって工夫をして変えられて、いまの古典落語っていうものはあるんでしょうから。

沢辺 なるほど。そうですよね。なんか僕はいま著作権みたいな扱いがものすごく変なふうに硬直化している感じがして。著作権的処理の形だけ整えることばっかり増えちゃって、その本筋の仁義とか礼儀とかそういうことと関係なくなっちゃってる感じがするので、スゴク面白いと思いました。

●差別用語は生でやる分には関係ない

沢辺 落語って差別的用語って言われちゃうやつが多いじゃないですか。そのことで語れないってことあるんですか?

わか馬 多いですね。でも生で語る分には関係ないですよ。別に「めくら」って言おうが「つんぼ」って言おうが。でも、そういう方がいるところではやりません。仮に客席に目が不自由な方がいるよってなったら、目の不自由な方がきてますよって報せが楽屋に入って、それを前座さんが聞いたら出演者みんなに伝えてくれるので、それを承知の上でやります。生でやる分にはそんなに「言葉狩り」的に神経質にはならないですね。

沢辺 じゃあそれはあくまでもテレビに出るとかラジオに出るとか、公共の電波を使うとか、そういう時。

わか馬 そういう時はもちろんこちらも気をつけるし、流す側の人がそれ以上に神経使いますから。だから今でもちゃんと演じられてる噺でも、テレビラジオじゃできない噺は結構あります。盲人が出てくる話は大体ダメですね。耳が不自由、いわゆる「つんぼ」噺ですとか、もうタイトルからして「唖」とか出てきちゃう「唖の釣り」という笑いの多い名作があるんですけれどこれも「唖」っていうその字一つで絶対無理。あとはいろんな噺の中でもちょっと「びっこ」とか「キチガイ」とか出てくると、これはマズイよなってわざわざ言葉を変えたりとか。そんな風にもしますけども。そういう障害関係が多いですね。

沢辺 H系ってないんですか?

わか馬 それこそそうですね。あんまり生々しいのはやらないですね。色気を感じさせる、想像させるっていうのはありますけども。生々しいのは確かに放送でもやらないけど、これはあんまりオープンな落語会ではやらないですね。我々は「破礼(バレ)」って言ってるんですけど。破礼モノはちょっとしたお座敷とか、宴会の余興とか、もう何やってもダメだこりゃっていうようなところの飛び道具として、H系のえげつないものをやることがあります。

沢辺 でもそれってどの程度えげつないんですか? 落語でえげつないっていうのは。エロ単語とか出てきちゃうのもあるんですか?

わか馬 いや、落語にえげつないっていうのは、世間で言えば全然えげつなくはないですね。エロ単語がでるのはあるにはありますね。はっきり言っちゃうのもありますよ。「おまんこ」とか。言わずにすみゃいいんですけどね。

沢辺 どっちかって言うと「さね」とかなんかちょっとこう隠すイメージがあるんだけど。

わか馬 貝がどうしたとかね。そういうのもあります。「さね」とか「ぼぼ」とかね。

沢辺 落語業界ではその破礼噺っていうのはやっぱり飛び道具っていう扱いなんですか? あんまりそう言うのに頼っちゃだめだよみたいな。

わか馬 飛び道具ですね。ましてや噺家が大勢出る都内での落語会とか寄席とかでは、まずやらないですね。それぞれが地方に行って、自分だけとか二人ぐらいでいわゆるドサ回り、なんか落語っていうものなんか理解されてないなっていうような所では、力技みたいに何でもいいからとにかく笑わせたほうがいいだろうって時にはそういうのを使ったりもしますね。最終兵器っていうか最後の切り札というのかな。ま、そこまでやらずに受けさせなきゃだめだよホントはっていうそんな感じです。

沢辺 そんな露骨なものまで使わなくたって笑わせるのが目標だろうみたいな扱い。

わか馬 そうですよね。そういう人前でしゃべっちゃいけない言葉をしゃべって。あるいはこう服脱いでケツ見せて笑わせる。そんなの素人でもできるじゃねえかっていうことになっちゃいますからね。

※今回お話いただいた鈴々舎わか馬さんは2010年9月、「五代目柳家小せん」を襲名し、真打に昇進します。

2010-06-14

談話室沢辺 ゲスト:TBSラジオ「Dig」プロデューサー・鳥山穣「ラジオは変わるのか」

TwitterUstreamなどのリアルタイム・メディアが、日常に入り込んで来ている。
また、3月15日にはインターネットで地上波ラジオの生放送が聴ける「radiko」の実用化試験がスタートした。
新しいツールの登場は、ラジオ番組にどのような変化をもたらすのだろうか?
4月に「ニュース探究ラジオ Dig」をスタートさせ、Ustreamやニコニコ動画での同時放送を行なうなど、ラジオ番組の可能性を探っているTBSラジオのプロデューサー・鳥山穣さんに話を聞いた。

(このインタビューは2010年5月26日に収録しました)

プロフィール

鳥山穣(とりやま・じょう)
1979年、ロサンゼルス生まれ。2003年、TBSラジオ&コミュニケーションズ入社。2010年4月より、「Dig」プロデューサー。
Twitterアカウント(@joetoriyama)
TBSラジオ「Dig」
「Dig」のTwitterアカウント(@dig954)

●ラジオは一度殺されたメディア

沢辺 今日は、ラジオの現状と、その状況の中でどういう気持で「Dig」を始めたのかを聞かせてください。
なぜ鳥山さんなのかを先に種明かししておくと、この前「本はどこへ行くのか?出版業界の今と未来」という特集に出演させてもらったときも話したように、ラジオだけじゃなくて、新聞も出版も、メディア全体が変化の境目じゃないですか。現状を危機と呼ぶかは見方によって変わるかもしれないけど、メディアの有り様が大きく変わりそうなのは間違いない。鳥山さんはその変化を、ラジオという場所でどう見ているのか。そして、「Dig」という番組はどうやってその困難を突破しようとしているのかを聞きたいと思ったんです。

鳥山 ラジオは実際、しんどいですね。ただ、テレビや出版、新聞というメディアと違うのは、ラジオはテレビが登場した何十年か前に一度殺されていることです。テレビが出てきた後は細々とやっていて、途中なだらかなアップダウンはありつつ、基本的には低空飛行を続けていたのが、さらに死のうとしている、というのがラジオの現状だと思います。それについては、「だから他のメディアよりさらにヤバイ」と思っているし、一方で楽観視するところもあるし、ちょっと複雑な見方をしています。

沢辺 ラジオってどのくらいの人に聞かれているんですか? 出版業界は、「売上で年間2兆円」と言われていますが。

鳥山 5月24日に、4月に調査した聴取率調査の結果が出ました。東京を中心とした首都圏のラジオの状況なんですが、全局を足した「全局聴取率」は7.1%でした。この数字は、首都圏の人口を3,600万人として7.1%で約260万人になります。これを多いとするか少ないかとするか。全局で7.1%という数字ですが、過去に比べると徐々に下がっていますね。
お金の面でいうと、TBSラジオは2009年度は辛うじて黒字を確保していますが、ラジオ業界は軒並み大変な状況になっています。ラジオ業界の端くれにいるぼくですが、今まで通りの広告収入だけではやっていられない状況が見えています。

※株式会社TBSラジオ&コミュニケーションズ
従業員数は95人(2009年6月24日)。売上高は114億1900万円、経常利益は2億3200万円(2010年3月期)。
ビデオリサーチによる2009年6月の調査では、全局聴取率7.4%のうち、TBSラジオの聴取率は1.4%。
TBSラジオ 954Hz

沢辺 鳥山さんは入社何年目なんですか?

鳥山 今年8年目で、入社は2003年です。

沢辺 その頃の数字がどのくらいだったか覚えてますか?

鳥山 2003年の4月は全局の合計が7.8%でした。その後ゆるやかに減っています。

沢辺 でも、260万人って、俺の感覚では物凄い数だと思いますよ。

鳥山 ぼくは基本的に疑り深い性格なので何かを100%信頼することはなくて、聴取率調査も一つの指標として参考程度にとらえています。260万人という数も、どれだけ妥当性があるかわかりません。
でも、数字がいい番組は聴けばわかるんです。やっぱり、面白いか面白くないかですよ。ぼくは具体的な数字よりも、そういう空気のほうを自分の目安にしています。
たとえばここ最近、首都圏の全ラジオ局の中で一番数字を取っている番組を2つ紹介すると、TBSラジオの「安住紳一郎の日曜天国」という日曜日の朝10時からやっている番組と、これもTBSラジオで平日の朝8時半からやっている「大沢悠里のゆうゆうワイド」。首都圏で一位なので、結果的に日本で一番聴かれている番組になります。「日曜天国」は僕もファンです。面白い。手間も凄くかかっているようですし。

沢辺 たとえばどんなふうに手間がかかってるんですか?

鳥山 自分が作っているわけではないので細かい中のことはわからないですが、メールは全部見るし、お礼状は本人が書くというような喋り手の方の意識の高さに加えて、スタッフもよく準備をしています。構成を考えてブッキングをして企画を練るのにも時間をかけているし、その精度がすごいです。逆に、それだけ時間をかけて作り込むのは週1でないとできないと思いますけど。
中でもオープニングトークがすごくて、長いときは30分くらい喋ります。話している内容は、安住さんの周りで最近起こったこととか身近な話ですが、話の組み立て方、話の変え方、間、抑揚、ボリューム、いろんなことで「喋りのスキルというのはこういうことか」と思わされます。相方の中澤有美子さんとも相性がよくて、二人が喋っているところがすごく楽しそうなんです。人を惹きつける磁場が強い。
ぼくはニュースを扱っているのでアプローチが違いますけど、話が面白く聞こえるというのはすごいことですよね。
「日曜天国」の一部はポッドキャストで聴けますので、ぜひ一度お試しください(にち10ポッドキャスティング)。
平日毎日4時間半放送している「ゆうゆうワイド」も、大沢悠里さんというパーソナリティの力がものすごい。もちろん好き嫌いが分かれますし、僕自身そこまで聴いているわけではないですけど、本当の喋りのプロです。
それから、ラジオは習慣として聴く人が多いんです。「この話をしているから、今何時くらい」と時計がわりにできる作りになっているので、日常生活に入り込みやすいのだと思っています。「ゆうゆうワイド」は特に五十代、六十代の方に支持していただいていますね。

●番組とスポンサーの距離が離れすぎていた

沢辺 ラジオは基本的に、「流している広告で売上を上げている」と理解していいですか?

鳥山 基本的には広告収入です。スポンサーにお金を出してもらって収入にする。あとは番組を地方局に売ったり、コンサートやイベント、物販の収入もありますが、今は広告収入の割合が圧倒的ですね。その割合が今後変わっていくかどうかは、もうちょっと偉い人が考えているかもしれません。
個人的な見解ですけど、改めて広告モデルをブラッシュアップしていくのは「アリ」なんじゃないかと思っています。よく「広告モデルは終わった」と言われていますが。

沢辺 考えてみたら、インターネットって完全に広告モデルだからね。新しい媒体だけど、ラジオと全く同じ。

鳥山 ここからはぼくの誤解もあると思うので話半分で聞いていただきたいのですが、これまでラジオの広告は「番組をプレゼンして売る」ということがあまり機能的に行なわれていなかったと思うんです。新番組の立ち上げの時はプレゼンもするけれど、既に在る番組を改めて代理店やスポンサーにプレゼンして売るよりも、一部の人気番組だったり、強いコンテンツの営業ばかりやっていた時が長く続いたんです。その仕組み・ビジネスモデルを考えた人はある種天才だと思いますが、20年、30年前のアイデアにそのまま乗っかってやってきたのが、今のラジオ業界の状況じゃないでしょうか。

沢辺 強いコンテンツというのは、たとえばナイターとか?

鳥山 ナイターはAMラジオにとって大きな収入源であったし、数字も取れるコンテンツですが、最近は営業物件として効果的なものではなくなりつつあります。数字自体は実は下がっていないんですが、売れない。広告が取れない。「ラジオの中で一番数字が取れてます」というのは決定打にならないんです。

沢辺 本人を目の前にして言うのもあれだけど、ラジオ全体のメディアとしての権威は下がっていますよね。ラジオのトップと言われても「別に」という感じだし、ナイターという狭いセグメントと合うクライアントが少ないということもあるのかな。

鳥山 営業の人間が売り込みに行っても、ほとんど門前払いだと聞いています。そういった状況の中で、いま在る番組を材料に「こういう内容の番組だから、こういうお客に届くはずだ」という仮説をでっちあげて、「こういうスポンサーはどうだろう」というところにアタックしていくサイクルが上手く回っていない。
担当部署の人間が、やっていないというわけではなく、上手く回っていないということ。そして結果的に、スポンサーと代理店に主導権を握られた番組ができていくことになっています。
でも、そうやって取った予算には番組を作るコストは入っていても、番組を面白くするコストは入っていない可能性がある。
それは、スポンサー・放送局お互いにとってマイナスだと思うんです。その悪循環が続いているのは、いろんな放送局のラジオを一日聞いていただければ、わかっていただけるはずですよ。たとえば、とある食品会社にお金をもらって食品会社の食品を食べて、ただ感想を言う番組とか五分で考えたような番組になっちゃう。

沢辺 それに対して、鳥山さんはコンテンツの中身を上げようという考えですよね。それと広告との関係をもう一度整理すると、どういうことですか?

鳥山 ここしばらく、ラジオ番組の現場とお金との距離が開いていたのではないかと。基本的には「営業が持ってきた話に乗るか乗らないか」でした。「Dig」はスポンサーとの打ち合わせに、営業だけじゃなく、プロデューサーのぼくも同席しています。そうすると話が弾むこともあるんですよね。「こういうことはできませんけど、面白くするにはこうしましょう」とか。
営業の力が足りないといっているのではなく、現状を見てみると営業の人間は前々から引き継いでいるものが沢山あって、そういった収入の柱になっているものには煩雑な作業も多い。その作業で手一杯だと。だからそこに「新しいことをやってくれ」と言ってもなかなか上手くいかない。そうすると、制作側に話が来るころにはお金を出してくれるスポンサーの話を飲むか飲まないかになって、「なんだよ営業は」「なんだよ制作は」となる。

沢辺 そのことを単純に「だらしない」と批判していても、何も変わらないからね。

鳥山 そうなんです。すごく偉そうな言い方ですけど、その上で、ぼくらはプロなのでお金を作らなきゃいけないし、面白い番組を作らなきゃいけないというのは大前提です。
4月に「Dig」が始まって、これまで直接話すことのなかった人たちと話してきて、「ここは機能してないな」とか「こういうところもあるんだ」ということがわかってきました。それまでは本当に、代理店ともスポンサーとも没交渉だったんです。既存の代理店がどこまで機能しているかにも注目していますけどね。
営業の現場にいないとわからないこともあるけれど、外から見ると「何でやってないんだろう」ということが沢山ある。その中で、ぼくみたいな立場の人間が打ち合わせやプレゼンの現場に入ってみると簡単に解決するところもあるし、それだけではどうにもならないところも、ちょっとわかってきました。
今「Dig」をスポンサードしてもらっている毎日新聞とNECとトヨタとも直接話をして、お金もらって実験というのは失礼ですけど、これまでにないことをやって、探っているようなところがあります。

沢辺 プロデューサーが営業の人と一緒にスポンサーを回ることは少なかったんですか?

鳥山 あまりなかったですね。制作の現場ではTBSラジオはプロデューサーも何でもやるので、ディレクターとプロデューサーのやることが被ることが多いんです。プロデューサーもブッキングして、現場で原稿書いて、キュー振りもする。メールを印刷して線引いて渡すのもやるし、何でもします。

沢辺 普通はディレクターが現場監督で、プロデューサーはその上に立って全体を整理したり、社内の調整をしたりっていう分担? それが、TBSラジオでは現場のほうに重きがあった?

鳥山 現場で番組を作ってきた人間がプロデューサーになることが多いので。どうしても番組に目がいってしまうのはわかるんですよ。そのほうが楽しいですし、自分が知っていることですから。でもそれだけだと先細りなので、「そうじゃないことをやったらどうだろう」と思って色々やっているところです。

沢辺 今スポンサーとしてついている毎日新聞、トヨタ、NECで「これはDig的です」という企画はありますか?

鳥山 正直、まだそこまで中身に反映させられていない感じです。ニュースの話題が好きな人、「Dig」のような番組に興味を持った人をターゲットにしたいというスポンサーの話をお伺いして、それに乗ることができた、というところです。これまでは、それすらできていませんでした。

沢辺 俺が言葉を継いじゃうと、「ニュースでやるよ」というコンセプトは了解してもらった上で、スポンサーの個別の意向はある意味で無視して、具体的な企画や現場の作り方は、鳥山さんたちが自分たちで徹底的にやるよ、ということに重きを置いているということですか?

鳥山 たとえば毎日新聞は、「ニュース検定」という資格試験を知らしめたいという話だったので、「カンニング竹山さんと竹内香苗アナウンサーとで、こういう内容にしましょう」と提案しました。
トヨタは「F1は撤退したけれども、モータースポーツには力を入れていることをアピールしたい」ということで、脇阪寿一さんというレーサーの方が出てくれることになり、Ustreamとニコニコ生放送をやっている火曜日だったこともあって、そちらも活用しています。
動画も配信することで、これまでTBSラジオを聞いていない人が、脇阪さんを入口にして聴き始めてくれることもあるのかなあ、と思っています。
NECのコーナーは月替わりで出演者が違うんですが、NECサイドからテーマと出演者についての提案を頂き、その人を交えて「こういう話を4回に分けてしましょう」と作っています。

沢辺 鳥山さんが最初に言ったのは、言葉は悪いけど「これまではスポンサーの言いなりに番組を作ってきただけなんだよ」ということですよね。あえて疑った言い方をすれば、「Dig」の現状はそれとはどこが違うんでしょうか。先にぼくの考えを言っておくと、「スポンサーの意見を聞くのも、自分たちのやりたい事をやるのも、両方あり」だということかな?と思うんです。これまでは中途半端にスポンサーに向き合ってきたんじゃないかな。やるなら徹底的にやらないと。

鳥山 そう思います。相手が何を求めているのか、こっちがなにをできるのか、ちゃんと話をしていなかった。だから丸々受け取るか100%断るか、どちらかになっていたんです。そうじゃなく、そのまま飲むことも、そのまま断ることもしない、「今ある材料を使って良くするためにどうするか」という話をちゃんとしてこなかったかもしれません。その手間をかけてこなかったのか、手間が足りなかったのか、手間の方向が間違っていたのかは、わからないですけどね。

沢辺 矛盾って、ないことにするか、「しょうがねえや」のどちらかにしがちだけど、一番大切なのは、断りもせず諦めもせず、矛盾のまま持ち続けていくことだと思うんです。綺麗事に聞こえるかもしれないけど、常に悩みながらやっていくしかない。その中には、鳥山さんにしたら聞き飽きた言葉かもしれないけど「スポンサーに都合の悪いことを伝えることも番組全体の信頼性のためには必要だし、スポンサーが口を出すことも常に悪いことだと切り捨てるのではなく、ギリギリの線を保ち続ける」ということがあると思う。

鳥山 ラジオを聴いている人たちはもちろんバカじゃないんで、わかるんですよね。「いろいろ気にしてるんだな」ということはもちろんわかるし、「ここは頑張ったな」とか「ここは手抜きしたな」とか。

●ラジオ局の社員はいくらもらっているのか

沢辺 出版業界のことで言えば、講談社、小学館のような高給の大手出版社と、ポット出版みたいな低給のところのように、年収は大きく二分化しています。「書店員はジュンク堂、紀伊国屋レベルですら大した給料じゃない中で、どうして出版社はそんなに貰っているんだ。同じ業界の中でやっているんだから、不公平が強すぎないか」と言われることもあります。「リストラなう」というブログで、ある出版社の内情を書いた「たぬきち」さんは率直で面白いんだけど、「そんなに給料もらってたの?」という反応もある。ラジオ局の社員の収入は、どうですか?

鳥山 TBSラジオは、以前は「東京放送」という放送局の一部署だったのですが、2000年に「TBSラジオ&コミュニケーションズ」として分社したんです。ぼくは2003年入社で、大学新卒をオープンで取り始めた最初の代でした。
ラジオ局として分社する前の東京放送の頃に入社した人とは、だいぶ給料が違うようで、分社後に入社したぼくらのほうが平均は低いです。分社したもういっぽうの「TBSテレビ」の人の平均も、東京放送の頃と比べたら低くなっています。

沢辺 鳥山さんの初任給っておいくらでしたか?

鳥山 忘れちゃったな……。当時同級生と比べたとき、他の業種よりは高いけど、放送業界や新聞と比べたら低い、という感じでした。

沢辺 でもそれは高いところと比べるからでしょ。今、30歳になって一千万は超えてますか?

鳥山 ぼくは超えてないです。

沢辺 「一千万なんてとんでもねえよ」という感じ? それとも「まだ超えてません」という感じ?

鳥山 うーん。「Dig」が当たれば超えるかもしれないですね。

沢辺 成績が反映されることがあるんですか?

鳥山 そこまで機能しているとは思ってないですが、一応、「年俸制の評価型賃金」です。「Dig」がそれなりの成果を上げたら、それを持ってカチコもうと思ってます(笑)

沢辺 もう少し出版業界の話をすると、出版業界では、今、下請け化が進んでいます。ラジオ局の場合、たとえば「Dig」のスタッフでは、社員じゃない下請けの比率はどのくらいなの?

鳥山 これまでのTBSラジオではありえなかった話ですが、「Dig」のスタッフで社員はぼくだけです。

沢辺 それは面白いね。狙ってそうなったの?

鳥山 いや、いろんな理由がありますね。大きな動きの中に小さな動きが何個も重なった、という感じです。

沢辺 たとえば会社としては、経費を抑えたいから下請け化を進めたいわけだよね。

鳥山 大人の理論でいけばそうだと思います。

沢辺 いっぽうで、これまでのように「社員だから」とディレクターになるのではなくて、鳥山さんが面白そうだと思うヤツを引っこ抜いてこれるというプラスの面もある。だからマイナスの部分を利用しつつ「しょうがねえや」みたいな顔をして。

鳥山 そうです。もちろん、いま在るワイド番組は社員とプロダクションの人が一緒に作っているのが普通です。社員100%の番組もないし、プロダクション100%というのも、大きな番組ではないです。

沢辺 TBSラジオの社員は何人くらいいるの?

鳥山 100人はいなくて、90何人です。プロダクションなども入れた働く人全体の数は250から300人くらいだと思います。
そうした中でぼくは、プロデューサーは人より高い給料をもらっているんだから、周りのスタッフの人たちができることをわかった上で指揮系統を担当して、判子を押す、責任を負う、ということをやらなきゃいけないと思っています。実際、「Dig」全体の中でぼくは二番目に若いですが、責任を取る立場ですし、おそらくぼくのほうが高い給料をもらっています。もしかしたら違うかもしれないですけど(笑)
いま心配しているのは、今後の制作者たちが現場でのエクササイズを積むチャンスが、外注、外注へと流れるなかで減ってくるということです。現場のことを何も知らないまま大人になってプロデューサーになったとき、果たしてちゃんと指示できるのか。間違ったときに直せるのか、あるいは間違う前に直せるのか。周りのディレクターより面白いものが出せるのかどうか、ということには不安を感じています。
キャリア官僚じゃないですけど、社員がいきなり番組のトップになってもいい仕事はできません。

沢辺 話を戻すと、テレビとラジオがセットの会社から分社したのも、「社員の給料を下げる」というのが大きな理由にあったんでしょうね。出版社でも、正社員の給料に手を付けるのは、やる気もなくなっちゃうかもしれないしビビってできないから、分社して新しい仕組みを作って給料を下げたりする。

鳥山 TBSの場合もそう言われていますし、実際、そうだと思います。ただぼくは、「高いほうを下げるよりも、低いほうを上げる。そのためには、金を稼ぐ」という方向に行ったほうがいいと思うんですよね。

●ニュース探究ラジオ「Dig」は、なぜ生放送なのか

沢辺 鳥山さんがプロデューサーをやるのは、「Dig」で何度目ですか?

鳥山 初めてです。

沢辺 自分から「プロデューサーとして『Dig』をやりたい」とプッシュしたんですか? それとも上の人から「お前そろそろプロデューサーやれよ。何かないの?」と言われた?

鳥山 人それぞれですけど、私の場合は、別の時間帯の月〜金の帯番組の企画書を出していたんです。「今の番組はもう古いから、こっちのほうが面白いですよ」と。その企画書については「その番組を今すぐ終わらせることはないけど、受け取ってはおくよ」ということだったのですが、昨年の末に、「Dig」の前に同じ時間帯でやっていた「アクセス」が終わることが決定したんです。そのときに「夜だけどやる気はあるか」と言われたので、「ありますよ。受けます」と。それが2009年の12月です。

沢辺 そういう風に、自分から「こういう帯番組をやりたいんです」と言うのは、TBSラジオのシステムとしてあるんですか?

鳥山 いや、自主的なものですね。一応、空気としては「出せ、出せ」と言いますけど、「出さなきゃだめ」とか、「この日に出す」ということはないです。

沢辺 実態としてはどうですか? 若いヤツはどんどん企画書を出してる?

鳥山 いや、そういうのは少数派です。おとなしい子が多いし、やる気のあるやつも、どうしたらいいのかわからないという子が多いです。ぼくは直撃が好きなので、紙を書いて直接渡しに行きます。
「Dig」の前に「荒川強啓 デイ・キャッチ!」という番組のディレクターを5年半やっていたときも中身を色々いじらせてもらいましたけど、既にあった番組に入っていったので、できないこともあったんです。だから、「デイ・キャッチ!」ではできなかったことをやりたい、というところから企画書を書きました。それは今の「Dig」とはぜんぜん違うスタイルでしたけど。

沢辺 「Dig」は、どこからが鳥山さんのコンセプトなの? たとえば、ニュースじゃなくても良かった?

鳥山 基本的には全部ぼくです。ぼくはこれまで、すこしだけバラエティもやりましたけど、ほとんどニュースばかりやってきたので、社内でもニュース番組を上手く作れるほうだと勝手に自認して、その能力を活かすのが妥当だろうという判断で、「Dig」はニュースを扱う番組に決めました。
ただ、「前番組の『アクセス』のお客さんをガッカリさせたくない」という会社の意向もありました。
「アクセス」は、一般の方が電話で参加してニュースについて討論する番組で、クロスオーナーシップ、新聞社と放送局の資本の話など、大手メディアではなかなか報道されない話をしたり、比較的硬派な番組をやっていました。

沢辺 「ニュース」の他にはどういうコンセプトを立てたんですか。

鳥山 今、ニュースって、ケータイの画面やパソコンでヘッドラインを見るだけのものになりつつあると思うんです。あるいは、声のデカイ人や乱暴な物言いをする人に引きずられてしまったり。そういう人たちの中には、ぼくの好きな人も沢山いますけど、そればかりになってしまいそうだと感じていたんです。だから、新しい番組はヘッドラインを超える内容にしたい、と考えました。1つのニュースを掘って、とことん話してみたら何かわかってくるし、わかることが増えていったら、わからないことも増えていきますよね。そういう状態をもっと作りたい、というのが最初にありました。
それから、ぼくはこれまで「1時間の中の10分しか時間がない」という番組を担当してきたので、「もっと時間があったら、もっといっぱい質問して、それを放送にしたい」という思いがありました。取材の過程を生放送にしたら面白いし、手間も一回で済む(笑)
予算を削減する必要もあったので、何でもかんでもやるのではなく、ひとつのことをさんざん擦って転がっていくところを見せる方向で考えて。普通の番組だと最初に設定したその日のテーマを途中で変えるのは難しいですが、話が横に転がったり、真下に掘り進んでいったり、変化していく面白さを見せることにしました。出演者の要素としても、取材をすること、質問をすることがうまい人を考えていました。

沢辺 生放送はお金がかからないんですか?

鳥山 生だとやれば済みますが、録音だと「録って、編集して、出す」の三段階になって作業量が増えますよね。30分の番組では録音のものも多いですが、2時間50分の番組をちゃんと編集して組み立て直して出すという作業を毎日やるのは、ちょっと不可能ですね。今の陣容でも無理ですし、あと何人いたらできるのかわからないくらい厳しいと思います。でも生だったら、最低その場に人が集まれば放送できます。

沢辺 番組の企画を出すときに、「生」という要素も入れたほうが提案が通りそうだと思っていたんですか?

鳥山 そうです。帯番組にしたのも理由があって、今は土日はしっかりした番組が沢山あって穴がないんです。だったら帯を狙うほうが成功率は高いんじゃないか、と考えました。でも、自分のやりたいことをそのまま載せるのには週一という周期はとてもいいので、週一の番組の企画書ばかり出す人もいます。

沢辺 長い時間というのも、鳥山さんの考えですか?

鳥山 もともとは2時間で考えていました。2時間50分になったのは、後から言われたことです。「10時から12時50分までやってくれ」と。
だから、「生」はほぼ決定事項ですね。今TBSラジオは9割以上が生放送です。

沢辺 2時間50分というのはすごいよね。

鳥山 ぼくも「長えなあ」って思いますよ(笑)

沢辺 出演依頼をもらったとき、「どうせ5分か10分出て終わりなんだろうな」と思ってたら、2時間50分だったから驚いちゃった。嬉しかったけどね。

鳥山 人によりけりですけど、「長く話せるので」と喜んでくださる方はいらっしゃいます。大変ありがたいことですし、こちらにとっても嬉しいことです。テレビのニュースに呼ばれるような人ほど、そう言ってくださる方が多いですね。
30分録ったコメントを1分にするような使われ方は、コストパフォーマンスの面ではいいかもしれないですが、喋って出す喜びではラジオに分があります。
ニュース番組をやっているときは政治家によく出ていただいたのですが、政治家は自分の発言を切られずにそのまま喋れるので、喜ぶ人が多い。生放送なので、ぼくらにいじられない、と。もちろん、生で出ることはあちらにもリスクはあるし、出ない人はとことん出ないですけどね。

沢辺 ニュースによく出るような著名な人は、ギャラと拘束時間の費用対効果を考えて長時間のラジオには後ろ向きなのかな、という先入観があったんだけど、長時間であることはプラスに作用している?

鳥山 はっきりプラスですね。時間が長いから嫌だという人は、少数派です。むしろ「え、5分なの?」という人が多い。もう収入を得ている人がPleasure(=喜び、楽しみ)の部分で出てくれたり、喋りたいことはあるけど出し所がない方が出てくれたりします。

●死ぬほど準備をして、それが役に立たないときのほうが面白い

沢辺 4月の聴取率調査では、「Dig」の数字はどうだったんですか?

鳥山 夜10時から12時50分までの1週間の平均が、0.6%でした。首都圏の人口が3,600万人として、約21万人の人が聴いてくれたことになります。それプラス、愛知や北海道、熊本、宮城、新潟、富山、静岡のネット局で聴いてくれていた人、ストリーミングやradiko、動画サイトで聴いてくれた人がいる。ぼくはもっと悪いと思っていました。
今、同時間帯の1位はNHK。ニュースと「ラジオ深夜便」ですが聴取率は1.1%です。
「ラジオ深夜便」は50代〜60代の方を中心に聴かれていて、特に60代女性では圧倒的な人気です。30代〜40代の聴取率では負けていないのですが、ラジオの聴取者全体の構成として50代〜60代が多いので持っていかれた、という感じです。

沢辺 調査では年代もわかる?

鳥山 聴取率は12歳から69歳までの男女を、年代別に取っています。「Dig」は40代男性では全局で一番ですが、比較的高い年齢の女性には、あまり好かれていないようです(笑)

沢辺 出版社の場合、紀伊国屋で本を買ってくれた人の男女・世代が「パブライン」というサービスでわかるくらいで、実際にどんな人に本が買われているのかは、すごく不正確にしかわからないんです。最近はTwitterやブログの書き込みで少しわかるようになったけど。

鳥山 でも、ラジオもわからないですよ。ある限られた情報から想像するしかない。Ustreamやニコニコ動画にしても、視聴者の属性はよくわからないですよね。聞いてくれている人のことを知るメインはお便りで、「Dig」には12歳の子から80歳の方まで世代も場所もバラバラの方から、毎日平均で100通のメールが来ています。
ただ、送ってくださることは大変ありがたいことで、本当にすごいなと思いますが、それはあくまでも全体の一部だという認識を、作ってる側はすぐ忘れてしまうんですよね。
たとえば前番組の「アクセス」の、電話によるリスナーの意見が直接放送に反映されるシステムは、できた当初は画期的な仕組みだったのですが、2009年、2010年になって「わざわざラジオに電話してくれる」人は「めずらしい人」になりつつあったような印象があります。そういった方の意見があたかも皆の総意であるようなズレが生じたり、システムとして破綻した部分がある、というのが「アクセス」を終わらせた一番の理由です。

沢辺 今の電子書籍への評判・意見についても同じように感じることがある。ぼくら出版社の人間は、見やすいから、ついついネットで情報を見てしまうんですよ。ネット上では「なんで無料にしないんだ」とか過激なことが書かれていますよね。もちろん、そこに耳をかたむけるべき視点も入っているんだけど、実は世間から均等に100人を取り出してみたら、90何人かは「電子書籍なんてどうだっていいよ」という感じだよね。でもネットだけを見ていると、一握りの人たちが全体であるように錯覚する。

鳥山 だからぼくらに大事なのは、そういう論調がネット上にあると知った上で、そこだけには乗らない、ということです。ネットで語られていることも選択肢のひとつにはあるけど、その他もあることを見ておかないといけない。それは口で言っても若い子には伝わらなくて、自分でネットを死ぬほど見て、わかった上でさらに別の意見を立てていかないと。年寄りみたいなことを言ってますが、ぼくは多分、TBSの中で一番ニコニコ動画を見ている人間だと思いますよ。それでも、コメント欄は話半分で見ています。

沢辺 Twitterはどうですか? これまでTBSラジオの番組の中で使っていたことはありますか?

鳥山 去年くらいから、ライムスター宇多丸さんの「ウィークエンドシャッフル」「小島慶子キラキラ」、ぼくが前やっていた「文化系トークラジオLife」などで使っていました。「Life」は、今のプロデューサーとぼくの二人で立ち上げた番組です。

沢辺 「Dig」は今、FAX、メール、ハガキ、Twitter、それからニコニコ生放送とUstreamもやっていますが、それらのツールを使ってみて、どうですか。

鳥山 新しいツールが出てくると、それを使っているだけで喜ぶ人もいますが、やっぱり、「肝心の放送が面白くないとどうしようもない」というところに落ち着きます。その上で、本当に間口が増えたので「知っておかなきゃいけないことが増えて大変だな」という感じです。
それから、ラジオの電波を持っていることの有利さを感じます。とても安定していて、インフラとしてムチャクチャ強い。ラジオ電波があった上でいろいろ試すことができるのは、なんてラクをしてるんだ、と。

沢辺 番組としての手応えはどうですか?

鳥山 まだまだ、当初考えていたより面白くない。これからです。

沢辺 正直に言うと、俺が出た回は、いくら一般の人を対象にしているといっても、内容を知らせるという点で不十分だな、という印象でした。

鳥山 本当に面白い内容だったら、その話を初めて聞く人も、ずっと知ってる人も、どちらにとっても面白いはずなんですよ。だから、まだ本当に面白い話にたどり着く作業が足りていないと思います。まあでも、それができたら終わっちゃっていいんじゃねえかな、と(笑)
なにがわかっていて、なにがわかっていないのか、それの主体が誰かとか、もっともっと突き詰めて話さないといけません。
作り手の側は自分の思いを設計図にします。その上で、放送は生放送なので、事前に作った設計図がどれだけ予期せぬ方向に面白くなれるかなんですが、今はそこまでマネージメントできていません。もちろんぼくの責任が一番大きくて、スタッフはみんなぼくの無茶な注文に乗って頑張ってくれていて、本当に申し訳ないと思います(笑)

沢辺 自分のUst経験でも、「中身が良かった」とか「質が高い」という点ではなくて、何か揉めたときのほうが見る人が増えるんだよね。

鳥山 死ぬほど準備して考えて、でも役に立たない、というときのほうが面白かったりするんですよね。その準備があったから先に行けた、というアクシデントが起こせたら、作っていて面白いですよ。そういう経験を何回かすると、ラジオが好きになりますよ。いい経験をすれば乗れる。だから、若い子はまだいい経験をしていないと思うんです。「ラジオなんて誰も聴いてねえよ」と思って、誰かに言われてるからやってたり。そういう子に、なるべく早くいい思いをさせてあげて、ラジオを好きになってもらいたいし、リスナーにもいい思いをさせなくちゃいけない。

●パーソナリティはTwitterや2chを見ているのか

沢辺 ぼくが「Dig」に出させてもらったとき、荻上チキくんしかTwitterを見ていなかったのが意外だったんですよ。もちろん、あの程度の書き込み量だからチキくんも見ながらできるけど、スゴイ量の書き込みになっちゃうと追えないし、そうなると、誰か別の人がTwitterを見て、ピックアップしたものをパーソナリティに伝えたりしないと駄目だと思うけど。

鳥山 今はハッシュタグのついた書き込みを印刷して、話に反映させやすいものを抜き出して渡していますね。

沢辺 外山惠理アナウンサーが「私は怖くて見れない」と言っていたのも印象的だったんですよ。俺は「怖くて見れないっていう気持ちはわかるけど、そうしたマイナス情報も受け止めた上でやるしかないだろう」と思うんだけど。

鳥山 出演者がTwitterや2chの早い反応を見るかどうかは、今でも意見は分かれています。ぼくは、スタッフは見たほうがいいと思うけど、出演者はどっちでもいい、という考えです。「知っておいた上でやるかやらないか」という意味では知っておいたほうがいいですが、やりたい事がハッキリあるのなら、まずはラジオの放送を出すだけに徹するのもアリだと思うんです。
かなり驕りも入っていると思いますが、あとは「プラスになる反応かどうか」ですよね。書き込みを見て心が揺さぶられて肝心なパフォーマンスに影響が出るくらいなら、見ないほうがいい。一度、竹内アナがステジオに自分のパソコンを持ち込んでTwitterを見ながら放送したことがあったのですが、本編の放送に支障が出たように思えたので「止めましょう。まずはラジオの進行をちゃんとやりましょう」と言ったことがあります。
どちらにせよ「150kmの直球をイイ所に投げれば打たれない」という考え方も「変化球でちゃんとかわしていくピッチングが必要だ」も、どちらも正しいと思いますけどね。

沢辺 たしかに、現実的に難しいところがあるよね。Twitterに気をとられてラジオのお喋りが疎かになっちゃったら意味がない。

鳥山 「その場にいる人と面白く話をして、それを聴いてくれている人がいる」というのがラジオの一番シンプルな構図なので、ある一人のコメントに左右されて肝心の放送がつまらなくなってしまうようなことは間違っていると思います。
Twitterを見ながら、書き込みに左右されるのではなくて、もう一段上のところで進行できるチキくんや神保さんは特別ですよね。

沢辺 ただ、ぼくは家に帰ってハッシュタグを見直したときに、絶対突っ込み返したいネタもあったので、「その場で見たかったな」という思いがあったのも事実でね。

鳥山 微調整できるとうメリットはありますよね。今、放送中にハッシュタグをつかった書き込みが数百から数千ほどあるのですが、そちらばかりに意識を持っていってしまうのは、ラジオで聞いてくれている21万人に対してどうなのか。どっちも同じリスナーなだけに、一部に目がいってしまう危険性があるものは優先順位を低くしています
ただ、これまでのTBSラジオの番組では目にしなかった名前の方がメッセージを送ってくれているな、という手応えもあります。「デイ・キャッチ!」の頃も、今も、全部のメールに目を通していますけど、初めて見る名前の人がけっこういます。きっかけはTwitterなのか、別のものなのかはわからないです。

沢辺 ポット出版の場合は、意見を届けてくれるのはけっこう決まった人だ、という傾向があるけど、ラジオでも、積極的にメッセージをくれる人は常連になってるんですか?

鳥山 そうですね。どの番組にも送ってくださる方もいますし、この番組にはこの人、という方もいます。
それから、先週の「週刊文春」では小林信彦先生に辛口の批評をいただきまして。

沢辺 鳥山さんは、辛口の批評も平気そうだよね。

鳥山 ぼくは、すごく気にしますけど、大好物です。それに、自分の番組に触ってもらえたことが嬉しいですね。

沢辺 俺は正直に言うと、「批判大歓迎」という自分と、キンタマが小さくて「見たくない!」という自分と、両方いる感じ。

鳥山 ぼくはどちらかと言うと、書いた人を見返したい気持ちが強いですね。「なめんな!」と。それが原動力になりますし。
ラジオのいいところは、生放送ならその場で反応があることで、ものを作っていてこんなにうれしいことはないと思います。文章だと、書いたそばから単行本になることはありえないですが、ラジオは喋った側から放送になる。極端なことを言えば、その辺にある紙を裏返して文字を書いて渡せば、読んで放送に乗りますから。

沢辺 「Dig」のテーマやゲストはどのくらいのタイミングで決めてるの?

鳥山 最長1週間単位で決めてますね。一番短くて前日とか当日ですけど、平均すると3日くらい前。2、3日前に「何やろうか」と話しだして、そのときにざっくりしたテーマと、どの人に話を聞くか、そして全体のトーンや流れはこういう感じ、というのを決めてやっています。

沢辺 その進行は、ラジオのスケジュールとしては一般的ですか?

鳥山 いや、長いくらいです。平日午後3時半からの「デイ・キャッチ!」をやっているときは、朝9時半か10時に会社に来て新聞を全部読んで、テレビのニュースを見て、「じゃあこの人、この人、この人」とブッキングしていました。

沢辺 それはニュースだから?

鳥山 そうです。生ものだから。でも、「Dig」は比較的タイムリーではない話題も扱っている番組なので、2、3日前から準備ができる。ニュースに関係なくやるときは、1週間かけることもあります。

沢辺 「Dig」は各曜日ごとにパーソナリティがいて、1週間に一度担当していますけど、彼らとは、直接会って打ち合わせをするの?

鳥山 日常の連絡はメールと電話が主ですけど、カンニング竹山さんは毎週土曜か日曜に赤坂まで来てもらって、ディレクターと一緒に打ち合わせをしています。最初はぼくも参加して3人で打ち合わせをしていましたが、ディレクターと出演者の関係を作ることも必要と考えて、今は2人だけにしています。

●ラジオの「大きさ」

沢辺 radiko(/2010年3月15日から試験配信が行なわれている、インターネットでラジオ放送を聴くことができるサービス)って画期的だよね。

鳥山 本当にすごいと思います。ぼくや「ウィークエンドシャッフル」を作っている後輩の橋本吉史なんかはよく「なんで放送をインターネットで流さないんだよ」と話していたのですが、ラジオが家にない人やラジオの聞き方がわからない人はたくさんいるんです。
そもそもラジオ本体がなかなかお店で売ってないですし、首都圏では鉄筋の建物が多く、電波が入らない場所もある。実際、横浜のほうでは聞こえにくかったりもする。でも、そういった場所でもradikoがあれば聴いてもらえる。
ただ、まだ試験段階なので、もうちょっと発展して欲しいですね。まだサーバーが強くないので、ラジオのように100万人聞くことはできませんし、今は地域制限があるので、それをどう解消していくか。する必要があるのか。IPで無理やり地域制限をつけていますけど、抜け道はいくらでもありますし、インターネットには地域制限なんか関係ないですからね。
とにかく、今は普通に生活している人の選択肢に、ラジオが入っていないと思うんですよね。ケータイ電話、テレビ、本、雑誌、映画、芝居、いろいろある選択肢の中に入ることが最終目標ですね。その後はもう「選んでください」ですから。
だからこそ、選択肢に入るためには何でもしなくちゃいけません。守るものもそんなにないと思うので。
電波があるのがズルいと言われればそれまでですけど、強みは活かしてやる、というタフさはないといかんです。これからUstreamを始める人と、ラジオがあった上でUstreamを始める人では段違いです。
宇川直宏さんのDOMMUNE(映像作家・デザイナーの宇川直宏が2010年3月1日に開局したストリーミング・スタジオ。毎週日曜〜木曜の19時〜24時まで放送中)のような場合は「オシャレ」というアドバンテージがありますけど。

沢辺 でも、DOMMUNEで数千という規模であることを考えると、ラジオ番組の「関東圏で数十万人」はすごいよね。

鳥山 偉そうな話ですけど、20万部の雑誌を毎日出していると考えれば、すごいことだと思います。

沢辺 本や雑誌の数と比べたら、ラジオですら桁違いで、ましてテレビなんてね。本は『1Q84』ですら100万部だからね。

鳥山 テレビなら、100万ではいい番組とは言えないですからね。ラジオは、一番聞かれている番組で100万人くらいです。
最初の話に戻りますけど、そういった状況の中で、広告でもっとうまくできる方法があるんじゃないか、という熱意のある人を、味方に増やしたいと思うんです。業界内で人がすくないなら、こうやって外でお会いしたり、番組に出ていただいたりして仲間を増やしていけるんじゃないかと。

沢辺 この「談話室沢辺」も、半分、仲間を増やすという目的があるんですよ。いきなり「一緒に飲みませんか」とは言いにくい。

鳥山 そうですね。「いろんな人にあなたの存在を知らしめることができますよ」とか「誰々に会えますよ」ということがないと、なかなか来てくれない。
あと、今は課金への動きがあって、ぼくもそれには期待していますけど、Ustreamは視聴者が1500人とか3000人の世界ですよね。いま在るラジオ番組を運営するには、その人達が継続的にかなりの金額を払ってくれないと回らないんですよ。放送は全部ひとりで用意して、もう一人面白い人をブッキングして、その二人のギャラを払えるくらいだったらできるかもしれないけど、さらに会社の机を買ったり、放送以外の業務をしている人を養うのは不可能ですよ。
ネット上での意見では「全部課金にすればいいじゃないですか。私は払いますよ」と言ってくださる方もいて、それは大変ありがたいことですし、親切で言ってくれてると思うんですが。

沢辺 でも信頼はできないよね。捨てられたらひどい目に合うし。

鳥山 額が違いますしね。「Dig」は経費を削減していると言ってもまとまった金額を使って作っていますから。毎月毎月収入を探しながらでは、それこそ番組のほうに目をかける時間がなくなってしまう。

●「ぼーっと聴く」ことに関してはラジオが最先端

沢辺 ラジオの同時間性についてはどう考えていますか?

鳥山 大変有利だと思います。もともとは後ろ向きな「お金がない」という理由で生放送が多い状況ではあるのですが、今、テレビはオンデマンドが普及していますし、その時間につけたら生放送をやっている、というのは結果的にすごく珍しいことになっていると思います。同じ時間に、同じような話が好きな人がTwitterや2ch、そしてラジオの前に集まっている、という感覚を作れるのは大きな武器だと思います。

沢辺 たとえばテレビの番組を全部サーバー上に保存して、自分の見たい番組を見たいときに見れるよう状況は、近い将来に実現するじゃないですか。
だけど、その膨大なデータベースを俺たちは見切れるのか。本だけで考えても、既にどの図書館に行ったって生涯かかっても読みきれない量の本があるわけですよ。
そうすると、本でいえば今月発行分、Twitterなら小一時間か二時間分という同時間性が、時間を使うことに対して大切な意味を持ってくるんじゃないでしょうか。

鳥山 膨大なアーカイブがあったとしても、前段階の知識がないと、どの番組が面白いかなんて選べないですよね。社会学者の鈴木謙介さんが言っていましたが、だからこそ目利きの存在が必要になってくる。
あとはやっぱり、生放送はアクシデントです。ぼくもそれでいい思いをしたことがあるし、これから聴く人にもそれを提供したいと思います。
音楽もそうで、ラジオで音楽がかかるメリットは、昔は「最新曲がかかる」でしたが、今はむしろ「自分が選んでいない曲がかかる」こと。偶然聴いた曲がいい曲だったら、世界が広がることになる。
たとえばぼくが忌野清志郎さんの追悼番組を作ったとき、募集したリクエストから曲を選んで、ほとんど喋りは入れなかったんです。ラジオは、「そういえば清志郎の曲、こんなのもあった」という感覚を作ることができる。ニコニコ動画やYouTubeは、ぼくもよく使いますが、「見たいものを探してみるもの」ですよね。
「ぼーっと聴く」ことに関しては、もしかしたらラジオが最先端なのかもしれない。

沢辺 ぼくも清志郎好きなんだけど、ぼくの中に清志郎の曲をデータベースとして持っていて、「好きな曲はこれとこれ」と整理しておくことは不可能なんだよね。その漠然とした部分を刺激してくれるのがメディアの一つの役割だと思う。

鳥山 ラジオ局の人間は音楽に詳しくなくちゃ駄目でしょ、というのはあるんですけどね。どういう曲がかかったら喜ばれるのかを意識しなくちゃいけません。ただ単にレコード会社とか出演者に渡されたからかけるというのは、「お金がもらえる」とか正当な理由があればいいですけど、そうじゃなかったら、ただ何も考えていないマヌケ野郎ですから。

●「すべてのラジオ番組で一番になりたい」

沢辺 最後に鳥山さん自身について聞きたいんですけど、お生まれはどちらですか。

鳥山 生まれはアメリカのロサンゼルスです。でも8ヶ月しかいなかったので、ほとんど記憶はありません。その後、一時期ニューヨークにいたこともありますが、ほとんどは千葉県の市川市で育ちました。

沢辺 小中高は公立?

鳥山 小学校と中学校は地元で、高校は松戸にある専修大学松戸高校でした。大学は一浪して早稲田の第一文学部に入りましたけど、ジャズのサークルに入って朝の9時から夜の9時まで楽器を弾いていたので、ぜんぜん勉強しませんでした。ずっとウッドベースを弾いていて、それで食っていこうと思ったこともありましたが、TBSラジオに受かったので、楽器は後でもできると思ってサラリーマンになりました。

沢辺 なぜラジオ局を受けたんですか?

鳥山 もともとは新聞志望だったのですが、筆記で落ちました。ラジオは、焼き鳥屋でバイトをしているときにずっとかかっていたので「募集しているのかな」と思ったら募集をしていて、受けたら受かった。

沢辺 音楽以外では、趣味はありますか?

鳥山 漫画を読むことですかね。週刊誌を7、8誌は買ってます。それから、雑誌を読むこと。雑誌は昔から好きですね。

沢辺 最近面白そうだと思った雑誌はありました?

鳥山 「リバティーンズ」(太田出版)は面白そうだったので買いましたね。あとは「ブルータス」の30周年号とか。週間プレイボーイ、サーカスなどを気にしてます。

沢辺 活字の本で記憶に残っているものはありますか?

鳥山 最近は番組用の本ばっかり読んでいて、楽しみの本は読めていないです。好きなもので思いつくのはウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』とか遠藤周作の作品などでしょうか。

沢辺 音楽家では?

鳥山 ジャズではニューオリンズのものはだいたい好きです。モダンジャズだったら、レイ・ブラウン、ポール・チェンバース…。エリントンも好きですし。もっと前はパンクが好きで、ピストルズやクラッシュを聴いていました。それからブルースを聴いて、ジャズを聴いて、という感じです。
演奏は最近本当にできていなくて、自分のバンドも休眠状態でメンバーに申し訳ない状態ですし、去年の11月に「やっぱり楽器をちゃんとやろう」と思って憧れだったトランペットを買ったんですけど、その直後に「Dig」が決まってしまって、ほとんど新品のまんま家にあるという……。

沢辺 管もいいですよね。

鳥山 そうなんです。ジャズはトランペットが一番かっこいい。裏方ばかりだったので、やっぱりピッチャーがいいな、と。

沢辺 最後に、「Dig」のことでも、そうじゃないことでも、言い残したことはありますか?

鳥山 ラジオの番組に興味を持っていただいて、話をさせていただいたことはとても嬉しいのですが、一番にならなくては説得力が薄れてしまうので、まずは今ある聴取率調査で一番にならなくてはいけないし、これまでとは違う新しいところでも存在感を出さなければいけないと思います。さらにお金も稼がなきゃいけないと思ってますし、……まあ「みんなついて来い!」と。

沢辺 一番というのは、同時間帯トップの「ラジオ深夜便」を超えるということ?

鳥山 「安住紳一郎の日曜天国」や「大沢悠里のゆうゆうワイド」、「永六輔 その新世界」などを超えて、すべてのラジオ番組で一番になるということです。
だから、聴取率をもっと取らないといけない。夜の10時になったら、「なにしようかな、Dig聴こうかな」と思ってもらえたり、大きなニュースがあったときに「『Dig』ならなんて言うだろうか」と思ってもらえるような状況を作れるように。小さなことからコツコツとやらなきゃいけないと思ってますが、ぼくは昔から大風呂敷なので(笑)
今、ラジオ全体が本当に後ろ向きなんです。それはいかんですよ。やっぱり「ラジオはアリ」という状況を作って、若い人材とか、若くなくても良い人材が集まってくるような環境にならないと、未来がないと思うので。

●おまけ:ラジオの出演料

鳥山 そうだ。この前の出演料ですが、1コマ5000円、3コマなので1万5000円という計算でございます。

沢辺 どうもぼくの記事を読んでいただいたようで(ポットの日誌─ニュース探究ラジオDigに出演して思った)。

鳥山 あそこに書くのは露骨かなと思って、止めたんですけど……。

沢辺 いや、それがあると面白いかなと思って。

鳥山 安くてすみません。

沢辺 いやいや。ギャラを知らないまま受けたのは、ぼくなんだから。

2010-05-26

談話室沢辺 ゲスト:ITジャーナリスト・津田大介 「Twitterで書籍を共有する時代へ」

書籍がデータ化されることで、著者と出版者の関係、
そしてユーザーと「本」の関係はどう変わるのか?
音楽業界の電子化からコンテンツビジネスの変貌を追い続けている
ITジャーナリスト・津田大介氏に聞く。
(このインタビューは2010年3月31日に収録しました)

プロフィール

津田大介(つだ・だいすけ)
1973年、東京生まれ。ITジャーナリスト。IT・著作権・ネットサービス・ネットカルチャーをフィールドに執筆。2006年~2008年に文部科学省文化審議会著作権分科会の小委員会専門委員を務め、2007年「MiAU」(Movements for the Internet Active Users/「インターネット先進ユーザーの会」、2009年4月より「インターネットユーザー協会」に名称変更)を小寺信良氏とともに設立。
著書に『だからWinMXはやめられない』(2003年、インプレス)、『だれが「音楽」を殺すのか?』(2004年、翔泳社)、『CONTENT’S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ』(2007年、翔泳社、小寺信良氏との共著)、『Twitter社会論─新たなリアルタイム・ウェブの潮流』(2009年、洋泉社新書y)、『30分で達人になるツイッター』(2010年、青春出版社)など。
ブログ「音楽配信メモ」
Twitterアカウント:@tsuda
IMG_8240.JPG

●初めてインターネットに触れて受けた衝撃

沢辺 津田さんは現在、著作権にかかわるさまざまな活動をされていますが、その最初の動機、きっかけから聞かせてもらえますか?

津田 そもそものきっかけはインターネットとの出会いです。もともと僕は高校時代に『別冊宝島』シリーズにはまって、ルポライター志望になって、出版業界に入りたいと思っていたんです。それで早稲田大学に93年に入り、94、5年ごろ初めてインターネットに触り、これはメディア、そして社会を変えるな、と衝撃を受けました。

沢辺 94、5年のインターネットって、日本でいうと、むちゃくちゃ初期じゃない?

津田 そうなんですよ。95年はWindows95がリリースされ、商用プロバイダーがちょっとずつ出てきた時期ですね。大学の理工学部にあったUNIX(コンピュータのオペレーティング・システムの一種。1968年開発)の端末で立ち上げて「おおー、これはすげえ」みたいな。

沢辺 ブラウザはMosaic(ウェブブラウザの名称。1993年リリース)とか。

津田 最初はMosaicです。その後、大学のコンピュータセンターにNetscape1.1(ウェブブラウザの名称。1994年リリース)とかが入ってという世界だったんで。
早稲田の施設はすごく充実してました。学生向けに大学専用のアクセスポイントが用意されていて、家からも電話回線でパソコンでつないでインターネットができたし、大学に行けば、24時間高速回線でインターネットができる状況だったんで、インターネット漬けになったんですよね。

沢辺 そのころ、コンテンツはどんなのがありましたか?

津田 最初に見たのは確かビースティー・ボーイズのホームページでした。あとはやっぱり普通に「プレイボーイ」とか、「ハスラー」とかエロサイトを見てましたね(笑)。ちょうどそのころってデジタル系の雑誌がすごくいっぱい出てたんですよ。福岡俊弘(現『週刊アスキー』編集人)がやっていた『CAPE X』(1996年創刊、アスキー)とか、こばへん(小林弘人。現インフォバーン代表取締役)がやっていた『ワイアード』(1994年創刊、同朋社出版)とか毎日コミュニケーションズから出ていた『DIGITAl BOY』とか。僕、あのへんの雑誌が好きで、『別冊宝島』とともに、影響を受けましたね。
結局、大学も留年したんですが4年生の1月ぐらいからパソコン系のライターさんの事務所でアルバイトを始めてそれがライターになったきっかけですね。2年半ぐらいで独立してパソコン系とか、インターネット系など、実用系の物書きをやっていました。

沢辺 当時はどんな媒体で書いてたんですか?

津田 パソコン系の媒体ですね。僕が独立した当時はインターネット系の雑誌が16種類ぐらいあったんですね。『日経ネットナビ』、『インターネットマガジン』、『インターネットアスキー』、『あちゃら』、『ネットJ』、『YAHOO!Internet Guide』、『PC Japan』とか。
とにかくインターネット雑誌がいろいろあり、僕は13誌ぐらいに書いていました。創刊したばかりの『サイゾー』誌で自分が書いてたインターネット雑誌の比較記事を書いたりもしましたね。さすがにそれはペンネームでしたけど(笑)。
そのころはまだ全然著作権に興味はなかったんですけど、ベースにずっと「インターネットが好き」という部分があったんです。

●著作権に興味を持ったきっかけ

津田 転機になる出来事は99年1月に「ナップスター」(音楽ファイル共有ソフト)が登場したことです。
もともと、僕はアングラサイトをよく見ていて「一太郎」(ワープロソフト)とか、「Photoshop」(画像編集ソフト)とかの有料ソフトをダウンロードしたりしてたんですね。別に使うわけじゃないんですけど、とりあえずダウンロードして、CD-Rとかに保存しておくだけで嬉しい、みたいな感じで。インストールすらしないソフトとかもあったな。
ナップスターもすぐインストールして使ってみたんですけど、これは本当にすごかった。アーティスト名で検索をしたら、マイナーなアーティストでもmp3のリストが出てきて、曲名をダブルクリックすると、自動的に落ちてくる。たまたまそのとき働いてた編プロが「OCNエコノミー」という、128kbpsの専用線使いたい放題の環境だったので、ガーッといろんなmp3を落としまくってました。これには、インターネットに初めて触れたときと同じぐらいの衝撃があって、これからのネットとか、情報、コンテンツビジネスっていうのはこういうふうに変わっていくんだな、と思いました。
僕はそのとき、既に一応プロのライターになっていたんで、ある意味著作権で商売をしていた人間ではあったんですけど、今後音楽の世界は間違いなく変わるし、物書きだって今のままじゃいられないだろうなとナップスターを使って直感した。
そこから「コンテンツビジネスがデジタルやネットでどう変化するのか」というテーマは面白いと興味を持ち、いろいろ調べるようになったんです。当時ナップスターが、音楽業界、コンテンツ業界にもたらす変化を産業構造の部分もふくめて書いている人はいなかった。でも、インターネット雑誌はたくさんあって、僕以上に技術に詳しいインターネットのライターさんもいっぱいいたし、音楽ライターさんもいっぱいいたけど、両者を組み合わせて評論している人がいない。「だったらそれはもう俺がやろう」と思ったんですね。それが99年のことです。
それから音楽とか、デジタルとコンテンツビジネスの現場みたいな、業界構造に近いテーマの仕事があったら積極的に請けるようにして、3年間ぐらいいろんな現場に行ってレコード会社の人に話を聞いたり、音楽のデータ配信に関する取材をやりました。そういうふうにやっていたら、その分野について詳しくなっていって自分なりの考えも出てきた。それで著作権に対しても「こういうふうにすればいいのにな」と思えるようになってきたんですね。
IMG_8271.JPG

●いちインターネットライターからの転機

津田 そうこうしているうちに99年からの3年間で出版業界はがたがたになって、特に僕がメインで書いていたインターネット系の雑誌はどんどん廃刊していきました。2000年から2001年にかけてADSL(Asymmetric Digital Subscriber Line/電話線を使用するデータ通信システム)とかの普及で常時接続環境が当たり前になり、結果的に読者のインターネット・リテラシーが上がったからです。
僕も仕事がどんどんなくなって、このままだとまずい、単なるいちインターネットライターではやっていけない、自分の専門分野をつくってその名前で仕事がくるようにしないと駄目だなと思って、物書きとして名前を売っていこうと決めました。それが2002年のことです。
それで、「まずはウェブを作ろう」と思い、ブログ(「音楽配信メモ」)をつくり、最初は音楽とか、音楽配信とか、デジタルコンテンツに関係するニュースをいろいろクリッピングして、短いコメントを付けていくという形式で続けていました。
でも、そのうちに面白くなってきて、長文も書くようになっていったんです。ちょうど2002年はエイベックスがコピーコントロールCDを出したりとか、音楽業界サイドの権利主張と、ユーザーの利便性をめぐって衝突が起きた時だったんで書くネタはいっぱいあったんですね。で、僕はこんなのはあり得ないでしょう。ふざけるな、みたいな感じでコピーコントロールCD関連の取材もいろいろな雑誌を使ってした。、そこで得た知識をもとにブログでもいろいろ文句を書いたりしていたら、始めて半年もしないうちに人気サイトになってアクセスも集まるようになり、そういう分野の専門家として認知されるようになりました。それで出版社から依頼が来て2003年に『だからWinMXはやめられない』(インプレス)という、ファイル交換ツールのドキュメントの実録本を、2004年に『だれが「音楽」を殺すのか?』(翔泳社)という本を出しました。
『だからWinMXはやめられない』は、何度か取材させてもらった元ネットイヤー、はてな副社長の川崎裕一さんがたまたまそれを読んでくれて、日経に「面白いテーマあるよ」って僕を推薦してくれたんですね。それがきっかけで、日経のデジタルコアというグループから人生初の講演依頼があったんです。そのとき、肩書きが単なるライターだとなめられるかな……と思ってその講演からITジャーナリストを名乗るようになりました。今思えば「ライター」でも良かったんじゃねえかとは思いますが(笑)。
『だれが「音楽」を殺すのか?』は2002年から2004年にかけての音楽業界のさまざまな騒動─コピーコントロールCD問題とか、輸入権とか、ユーザーとレコード会社の対立とその背景─というのがテーマです。
それを書いたすぐ後にJASRAC(日本音楽著作権協会)のシンポジウムに呼ばれ、当時、ソニー・ミュージックのトップを辞めたばかりの丸山茂雄(元ソニー・ミュージック・エンタテインメント社長、2005年音楽配信会社「247Music」を設立 参照:「IT media news」)さんや、音楽制作者連盟のトップだった人とか、偉い人がいっぱいいる中で、ほとんど無名だった僕が金髪で出ていって「音楽業界のここがおかしい」みたいなことをがんがん言ったんです。それが好評だったみたいで、2005年、2006年のシンポジウムにも呼ばれたんですね。音楽著作権でいろいろな場所に呼ばれて話すようになったのは完全にそれがきっかけでしょうね。そういうこともあって2006年には、文化庁の文化審議会著作権分科会に「私的録音補償金制度」問題で委員として呼ばれるようになり、それと並行してほかの著作権系の研究会にも呼ばれるようにもなりました。研究会でいろいろ話をして議論する。そうすると、またその研究会で知り合った福井健策さんという弁護士の人から「著作権の保護期間延長の反対運動を手伝ってくれないか」と声をかけられて手伝ったり、音楽、映画、ゲーム、出版、いろんな人と会って知り合って彼らとディスカッションしていく中で自分なりの著作権に対する考えがまとまってきました。
僕自身は「デジタルコンテンツビジネスと著作権の人」という意識で活動していたんですけど、去年11月にTwitterの本(『Twitter社会論─新たなリアルタイム・ウェブの潮流』2009年、洋泉社新書y)がそこそこ売れてしまったので、今はすっかりTwitterの人と思われているという。実際は違うんですけどね。ある意味、下積み時代が凄く長いんですよ。

●出版業界のなあなあ体質

沢辺 いやいや、下積みは長いほうがいいですよ。じゃあ、そういう津田さんから見て出版界の著作権に対する姿勢はどう見えますか?

津田 音楽業界と出版業界を比較すると、出版業界はやっぱりお上品だなと思っています。
まず音楽業界について言うと、「著作権譲渡」がデフォルトなんですよね。アーティストがデビューするとなると、大体が事務所と契約し、事務所に権利を全部預けちゃう。その代わりに給料をもらうという形式がほとんどです。
CDをリリースするときは、まず音楽出版社という、またわけのわからないところにまず権利を譲渡し、利用された分だけ対価をもらうというのがデフォルトになっていて、そのうえレコード会社と契約して……みたいな世界になっている。レコード会社と契約すると、ライブで自分の曲を演奏し、それを録音する権利なども全部制限されるんですよ。
音楽業界は権利を全部アーティストから奪った上でおこぼれをアーティストに渡すというところからスタートしているので、ある意味、クリエーターの権利を骨の髄まで吸い取り、利益は独り占めするような仕組みになっている。
『およげ!たいやきくん』なんてすごい話ですよね。(歌った)子門真人のギャラは買い切り契約だから5万円だけですからね。ポニーキャニオンはあれで自社ビルを建てるぐらい儲かっているのに。そんなことが平気で起きている。これは、昔ながらのパトロンシステムのなごりでもあって、全部を否定するわけではないんですが、音楽業界の懐事情も変わってきて、そのやり方が時代と合わなくなってきている。
もちろん彼らなりの言い分もあって、結局、アーティストのCDを何十万枚と売るためには制作や宣伝に何億円と掛けなければいけないし、ほとんどのアーティストは売れなくて赤字だから、そのリスクは自分たちがとっているからという。それと、レコードの制作者には著作隣接権が認められていますからね。
出版は基本的に出版契約が終わったら、著作者に権利が戻ってくる仕組みになっているし、隣接権もない。Googleブック検索問題が出てきたとき話題になりましたが、「電子化権」みたいなものも想定されていなかった。理論的には著者はある出版社から出した本を、勝手に電子化しても問題はないわけで。
つまり、何が言いたいかというと、まず、出版と音楽はスタートが違う。音楽業界はクリエイターから権利をすべて買い上げるのがデフォルトで、一方出版業界は、基本的には著者が権利を持っていて、契約慣習すらあまりない中、慣行だけで処理している。ここが全く違う。
出版業界には著作権に関して綿密にうるさく言う人があんまりいない印象があります。それはビジネスのパイ一個一個が小さいから。まあ、村上春樹とかは別ですけど。
だからこそ、今、この電子出版時代に移り変わろうとしているときに、権利関係をめぐるトラブルというか、どうすればいいんだろうってみんなあたふたしている状況が生まれているのだと思います。

沢辺 どうも最近の電子書籍を巡る報道や、ネットの書き込みを見ていると、出版社が著作権、隣接権とか言い出して、自分たちの利益を確保するために権利を囲い込もうとしている、という印象が強いんじゃないかなって思うんです。

津田 もっと言うと、やっぱり音楽業界って「護送船団方式」なんです。昨日までエイベックスにいた人が今日から部署ごとユニバーサルミュージックに移りました、みたいな。要するに「日本レコード会社」っていうのが全体にあって、各レコード会社はその中の部署みたいなイメージ。だから、団結力があるので、文化庁に対してものすごいロビー力がある。
ところが、出版業界は「一橋グループと音羽グループは仲が悪い」みたいなところもあって、団結して権利を獲得していこうという運動は今までほとんどやってこなかった。
そもそも出版業界で権利ビジネスをどう回していこうか、みたいな問題意識が最近になるまではなかったわけです。出版社同士で団結して文化庁にロビーするという話にならなかったというのが、歴史的経緯としてある。そんな体質でずっとやってきて、今、急速にインターネットの普及で雑誌不況に直面している。
権利についてもそんなに考えていなかったのでしょう。たとえば著者の印税率。阿佐ケ谷ロフトでやった「2010年代の出版を考える」でも話題になりましたが、現状の10%っていう印税率は、やはり慣習ですよね。本にするコストを基準にして計算し、まあそのへんで落ち着くだろう、という程度の根拠でずっと続いている。
紙の本で出す以上、著者の印税率が10%から50%まで上がることは多分ないわけですよね。でも、その10%がもしかしたら15%、20%ぐらいだったらあり得るのか、そういう議論すらあまりない中で、ある種言い値でやってきたというのが著者と出版社の関係でしょう。ところが、電子書籍が出てきたことによって、その関係ががらっと崩れてしまう可能性がすごくある。

沢辺 ちょっと誤解を正したいので言っておくと、印税率は10%が多数だけど、それより低い出版社もいっぱいあります。
ポット出版もデフォルトは「実売」の10%にしている。そうすると、初版が全部売り切れれば、刷り部数×定価の10%になるけど、それより低い例もごろごろ出るわけ。
一方、10%より高い例もあって、たとえば付き合いの長い作家先生に「あなたの本は売れないから、5,000部です」とは言えないから、5,000部しか刷ってなくても1万部刷ったことにしてその分の印税を支払っちゃう。これが初版で止まっちゃったら実際の印税率は20%になるわけだよね。つまり、厳密に言うと印税率は一律10%というわけではなく、ばらつきはあるんですよ。

津田 まあ、印税の話は、著作権とは違って契約スキームの話なんですよね。そのへんが混同されやすい。でもそこのところでちゃんと議論をしないままで来てしまった責任もあると思う。著者側も出版社側も、今までこうだったからこれでいいじゃんと来てしまったが故に、今のあたふたがある。音楽業界があれだけあたふたしたのを間近で見ていたにもかかわらず、それを全然活かせていない、というのが今の出版業界の状況だなと思います。

沢辺 そう。ちょっと脇道にそれるけど、出版業界も自分たちの権利に関してちゃんと考えればいいのにって思うのと同時に、著者側ももっと考える、知っておくべきだと俺は思っています。
たとえば、この前文芸の出版社の人に聞いたんだけど、著者に絶版通知を出したら、著者から「何で絶版するんだ」ってクレームがきたんだって。出版業界的な理解をするとどうなるかというと、品切れしてもわざわざ絶版とは明示しないで「現在品切れ中。重版は未定」としておけば、取りあえず契約は更新されていくわけだからね。

津田 塩漬けになりますからね。

沢辺 そうそう。絶版通知を出すっていうことは、あなたに権利をお返しします。だから、これから好きに営業してくださいっていうことだから。

津田 むしろ、良心的な対応なんですよね。

沢辺 ところが、著者からすると、「おまえのは売れない」と宣言されたように思っているだけなんだと思う。
この間のGoogleブック検索や著作権保護期間延長への対応もそうなんだけど、音楽業界でいうコピーコントロールCDのような流れに添った書き手の主張ばかりが目に付くと思わない? ユーザーのことを考えていないと思うんだよね。

津田 結局、クリエイターも出版社も音楽レーベルもみんながみんな自分がこういうルールでやってほしいという「オレオレ著作権」を主張しているんですよね。それが僕も著作権周辺を6~7年見てきた中での素朴な感想としてある。

沢辺 そうだよね。

津田 「オレオレ著作権」は結構やっかいで、本来の著作権法すら逸脱したことでも平気で言うみたいなクリエーターもいっぱいいる。そのスタンダードをどこに置くのかっていう問題はやっぱり難しいですよね。その上で、じゃあ、どうルールをつくっていけばいいんだろうということをある程度実証データなどと照らし合わせて考えないといけない。

●電子書籍が著者と出版社の関係を変える

津田 だから、僕は電子書籍が、今、こうやって注目されているっていうのはいいきっかけだと思うんです。
Googleブック検索の件も僕は相当肯定派です。こういうものが出てきたことによって、検索して見てくれる人がいて、それが著者の収入になればいいし、そこから先の電子ビジネスは、もし出版社が自分の本の電子化を本腰を入れてやってくれて、しかも、それをうまく電子っていう特性に合わせて売ってくれるんだったら、じゃあ、印税を半分渡すから売ってよと。その半分は僕らにちょうだいよ、とか。
つまり、そういうことも含めてやっぱりいろんな話ができるきっかけになるだろうなと思う。日本って外圧でしか変わらない国なので、外圧、つまりGoogleやKindleやiPadの登場でそこが動き始めたという意味ではものすごく面白い。
さっき沢辺さんがおっしゃっていたように、なあなあで何となく著者側も出版社側もやっていた。でも、電子化することによって出版のライツビジネスとしての側面は加速する。そのときに、じゃあ、お互いにどういうふうにするか。そして、電子化を前提とした契約はどうあるべきなんだろうと考えざるを得なくなる。それが著者と出版社の関係性を変えるかなという感じがしていて、僕はそれをポジティブにとらえているんです。その中で淘汰される人も多分出てくるでしょう。でも、それはそれである種仕方がない。そこから先、どうなっていくかっていうのが何か本当に……。

沢辺 楽しみですね。

津田 ええ。著作権がどうこうっていうよりか、出版業界はこんなふうになっているけれども、うまくいけるんじゃないかなって思うんです。

沢辺 俺は本来著作物なんていうものは、たとえ書いたやつでも本当は独占できるものではないと考えているんです。他者に向かって公表するわけですから。たとえば、ブルースがあったからロック─つまりブルースから生まれたスリーコードのルールとか、いろんなものがあったから、次のロックンロールが誕生したわけですよね。

津田 そうですね。ノウハウがどんどん共有されてね。

沢辺 そうそう。それでリズムだけ8ビート、16ビートとか、いろいろ変えてみたらこうなるとか。ビートなんて、最初にやったやつも独占なんかできないじゃないですか。だから、そうやってある一部をパクリながらお互いさまでやっているっていうのが本当なんだと思うんですよ。

津田 いや、全くそのとおりだと思いますよ。著作権保護期間のフォーラムをやった時にもずっと言っていたのは、結局、著作物は一定期間経ったらパブリックドメインになって、それが新しい創作に影響していく。そのサイクルを守りたいというのが福井健策さんの主張だったし、僕もそれは同意します。
僕は出自がノンフィクションのライターだから、ノンフィクションって、まず事実があり、それに対する論評を書くものですよね。何かに対して付加価値を付けることによって成立するっていうものなので、常にその「何か」の影響があるわけですよね。そういう意味で、自分が出したものは自分の著作物ではあるけれども、それをやっぱり自分が無から全部つくり上げたという意識は全くないし、だからこそ自分が作った文章も開かれてなければいけないと思うんですよね。それがもちろん金銭的価値を生んでくれればうれしいけれども、僕が作るものは基本クリエイティブ・コモンズぐらいのルールで対応したっていいと思っています。
IMG_8233.JPG

●DRMかける/かけないの議論がない

津田 だから、日本で電子出版ビジネスが「いやいや、もうこれはわれわれの著作物なんだから全部囲い込みます。DRM(Digital Rights Management/デジタル著作権管理)もがっちりかけます」みたいな話になってしまうのが僕は本当にイヤなんですよ。それじゃあユーザーの利便性も上がらないし、クリエーター同士の相互振興にもつながらない。それって結局、目の前の金を取るだけで全然文化のことは考えてないじゃんという不満がすごくある。
DRMをどうするかっていう議論って、ろくなことにならないんですよ。そんなもの何のプロテクトもかかってないPDF(Portable Document Format/電子文書フォーマットの一種。汎用性が高い)が一番いいに決まってるじゃん、みたいな話で。
音楽業界ではDRMの論争がそれこそ99年ぐらいからあって、でもどこに落ち着いたかっていうと、DRMフリーのmp3が一番いいじゃんって。そんなのみんなわかってたんですよね。わかっていたのに、でも、買ったパソコンでしか再生できないとか、すごく不便な状態だった。音楽業界が一度DRMをかける方向にガーッていき、でも結局はDRMじゃなかったよね、となった経緯を見ておきながら、何で出版業界は今さら「どういうDRMにしようか」みたいな話をしてるんですかね。アホかって思いますよ。

沢辺 そうそう。おっしゃるとおり。DRMをかける/かけないの議論ってないんだよ。俺もそういう協議会にかかわったりしているんだけど、DRMをかけることは前提になっていて「そもそもDRM、おかしくない?」っていう議論がない。
たとえば、マガストアというiPhoneで雑誌を読むアプリがあるんだけど、テキストがコピーできないんだよね。
うちも新刊と並行して電子書籍版をドットブック形式(電子書籍のファイルの形式の一種)で出してますけど、それにはDRMがかかってる。だから、ドットブックビュアーで読めても、コピーはできないんです。
iPadも出てくるし、今本当にDRMの是非を問う議論を推進しないとな、と思ってます。具体的に言うと、もちろん『1Q84』のように、ポスターと新聞広告と書店店頭で大々的に宣伝して、バーッと売れるタイプの本もあるんですけど、ポット出版で出してるような本はやっぱりTwitterとか、ブログとか、いろんな人が書いて紹介してくれることが重要だと思うんですね。たとえばこの前出した『劇画家畜人ヤプー』。これはウェブとの親和性が高いこともあり、いろんな人が書いてくれている。
今『劇画家畜人ヤプー』は紙の本だけど、仮に電子書籍になったとき、俺だったら漫画の印象的なセリフをコピーして「このセリフにしびれた」とか、Twitterに書きたくなると思うんだよね。

津田 そうですね。

沢辺 紙の本ならともかくとして、電子になってもそれができないとなると、書く意欲が急に萎えちゃう。だから、実はiPadが出て、電子雑誌とか言われているけれども、みんなDRMがかかっているわけですよ。Twitterへのコピー・アンド・ペーストもできない。それから、今、俺たちって何かを調べるとき最初にGoogleで検索するわけですよ。でも、DRMをかけられていたらヒットしないでしょう。それはネット上では存在しないということになる。

●コピー制限は自分の首を絞めることになりかねない

沢辺 違法コピー問題についても聞かせて下さい。俺、自分でおやじバンドやっているんだけど、演奏するのはカバー曲ばかりなの。だから「この曲をやろう」と決めると、その曲を1枚のCDに焼いてメンバーにあげるわけよ。それは違法ではありますよ。だけど、違法行為にも二つの種類があると俺は思っていて、津田さんだって、実はPhotoshopをダウンロードして喜んでいただけでしょう。

津田 そうです、そうです。

沢辺 本質的にAdobeの利益を阻害していたというよりも、Adobeのデモアプリを使うようなイメージでしょう。

津田 だから、さすがに僕も自分で会社作ってPhotoshopが必要になった時は買いましたよ。8万円ぐらいするから「ああ、俺も大人になったな。大人になるってこういうことか」と思いながら買ったんですけど(笑)。でも、仕事で使うソフトはやっぱり買うし、最初は不正コピーのユーザーだった一太郎だってここ10年ほど毎年最新バージョン買ってますからね。

沢辺 そうなんだよね。違法コピーには本当に悪質なのもいっぱいあると思う。だけど、逆にいうと、違法コピーによってそれを知ったり、試してみたり、理解したりするきっかけも生まれている。

津田 そうそう。本当に組織だってやるようなデッドコピー(海賊版)はどんどん取り締まればいいと思うけれども、でも、そうではない個人のコミュニケーションのためだったりとか、コンテンツに興味を持つためのコピーは、制限するなとは言わないけれども、必要以上に制限してはいけないと僕は思うし、それはコンテンツ業界が自分で自分の首を絞めることにもなりかねないよ、って言いたい。

沢辺 そうだよね。そこが一番大切だよね。

津田 それはもう出版だろうが音楽だろうがテレビだろうがみんな同じで、コンテンツ業界は「まずは知ってもらう、興味を持ってもらう」のが一番大事で、その先にお金を払いたい人は払ってくださいというのが正しい姿だと僕は思っているんですね。著作権法でそこを締めることはできるけど、著作権を振りかざしすぎると、短期的な利益は守れるかもしれないけど、多分長期的な利益は守れない。
コンテンツ産業はどんどん多様になっているわけじゃないですか。インターネットが出てきて、携帯が出てきて、Twitterが出てきて、コミュニケーションもコンテンツ化してライツビジネスも伸びているという中で、あらゆるエンタメ、娯楽産業、コンテンツ産業はライバルがどんどん増えている。一方、人々の可処分時間は増えてないわけだから、そりゃあ一つひとつのパイは小さくなっていきますよっていうのが、今の本質ですよね。だから、売上低下の原因は、違法コピーとか著作権の問題じゃないんですよ。著作権ってそんな大したものじゃないし、厳しくすれば、売上が回復するというのは、局所的な議論に過ぎないと思います。

沢辺 違法にコピーしてそれを有料で売っていたら、そりゃダメだけれども、逆にいうと、普通の人々が「これ面白かったよ」って利用まで閉ざしちゃう。それをやっちゃうと本当にコンテンツは広がっていかないし、結果損しちゃうんだよね。業界の例で言うと、たとえば、図書館の人たちは本の書影もおっかなびっくり使ってたり、いちいち許諾取ったりするわけですよ。それって変でしょう。

津田 まさにそんなのフェアユース(fair use/著作物の公正な利用)ですよね。

沢辺 そうそう。フェアユースっていう考え方よりも、むしろ最初からオープンを宣言したほうがいい。

津田 確かに最初からね。

沢辺 ライターの松沢呉一さんが言っていたんだけど、彼が商業原稿で漫画の書評を書いたとき、漫画はうるさいから、一応「表紙の書影を使わせてくれ」って版元に断ったら、「内容を見せろ」って言われて、しょうがなく内容を見せたら「これじゃあ使わせない」ってことがあったんだって。それって著作権じゃないでしょう。松沢さんの批評が気に入らなかったっていうことを著作権でお返ししてるわけだよね。

津田 そうですね。その場合、その本がきっかけになって松沢さんの批評という新たなクリエイティブが生まれているわけですよ。

沢辺 そうそう。

津田 何で引用が認められているのかというと、創造のサイクルを守るためなのに、それを著作権を振りかざして止めにいくことがある。やっぱり著作権は、著作権者のいいように使える部分があるんですよね。厳しくとろうと思ったら、いくらでも厳しくとれてしまう。
電子書籍でいえば、何なら別にPDFにパスワードをかければいいじゃないですか。パスワードをかけて、単純なコピーだけだったら自由にやらせたらいい。もしくはiTunesのようにファイルに購入者情報を埋め込んでおけば、もしそれをネットで流す不届き者がいたらそいつを特定できるし、それだけで十分な抑止力になる。要するにインターネットに流すっていうことだけ制限して、あとはコピーは自由っていうので、大きな問題は生じないでしょう。DRMはそれぐらいの水準であるべきであって、少なくとも海外の音楽業界は紆余曲折を経てそこに落ち着いた。でも、ここから5年間、今の出版業界はそんな紆余曲折をやっている暇はないでしょう。
IMG_8264.JPG

●著作権法の改正なんて待ってられない

沢辺 ただ、俺は出版社の立場だから、それを著者、クリエーターに説得する義務がある。たとえば、今、カメラマンに「うちで出す本にはDRMかけないからね」って言ったら、どうだろう。お金を払ってくれるところだから文句は言えないなって、結果的に納得してくれる人はいると思うけど、津田さん的な理解で納得してくれる人はまあ1割、2割じゃないかな。

津田 もうそれはルールをつくるしかないと思いますよ。別にいいんじゃないですか、ポット出版はそのルールでいく、で。
一方でどこか大手はDRMがちがちでいくみたいなのも含めて、最終的には市場が決めていくっていうのが僕はいいと思っているんで。

沢辺 そうね。これを議論して納得してよ、ってするんじゃなくて。

津田 こうしました、でやるしかないと思いますよ。

沢辺 そうそう。うちもGoogleブック検索には、基本的に文字ものは全部出していて、その時、やっぱり著者にはいちいち断ってないからね。

津田 うん。

沢辺 要は著者からクレームが来たら、ごめん、ごめんってその人の本は外すけど、最初から許可を取っていると何も動けなくなるし、動けないことが結果的にいいことになるとは思えないんですよ。

津田 オプトアウトをデフォルトにした方がビジネス的には絶対正解ですよね。それでお金が入ってきたら、じゃあ、一緒にシェアしましょうでいいんじゃないですかね。金が入ってきて喜ばない著者はいないわけだから。

沢辺 ただ、現状は喜ぶほどの金額にならないという、まだ過渡的な問題があって難しいんですけどね。
まあ、戻るとDRMの問題は大きなことなんだけど、出版界では全然議論になっていないってこと。

津田 でも、今からやりましょうなんてやると、半年とか、1年とか、平気で動きが止まりますよ。だから、とにかくDRMなんてなしでいった上で、「こんな問題が生じました。じゃあ、これをどうしましょうか」ってちょっとずつ詰めていくってほうがいいでしょう。
昨日(2010年3月30日)、JRC(Japan Rights Clearance/主に音楽著作権を管理する著作権管理事業者。2000年設立)がUstreamかけてもいい曲を全部発表したんですよね。でも、それは一応3ヶ月の暫定ルールですよ、と。別にそれでいいんですよ。3ヶ月の暫定ルールを繰り返して市場の動向を見ながらやっていくっていうのでいいんですよ。
著作権法を変えるっていうと、やっぱり大げさなんですよ。審議会で1、2年かけて議論した上で国会に通して、と3~4年掛かりになってしまう。
今、出版界で起きていることの議論を受けて著作権法を改正しましょう、隣接権を入れましょうとなって、4年後に法改正がなされたとしても、どれだけの出版社が対応して潰れず残っているんですか。もう遅いですよ。契約のスキームや、DRMの水準であれば自分たちが主体的に決められるんだから、それを短期間でトライアンドエラーしながら変えていけばいいんですよ。でも、やっぱりそういうふうにはなかなか動けない。

沢辺 でも、今回「三省合同デジタル懇親会」(総務省、文部科学省、経済産業省が開催した「デジタル・ネットワーク社会における出版物の利活用の推進に関する懇談会」)が開催されて、「電書協」(日本電子出版協会。1986年設立)もできたでしょう。電書協は6月までに対案を出そうとしているよ。そういう話を聞くと、ちょっと心配しちゃうんだけど。

津田 僕もどういうふうになるのかはわからないですね。

沢辺 ただでさえ後ろ向きだし、KindleにもiPadにも、うまく乗れそうにない。『GQ』がiPadで電子雑誌を売りますって言ってるけど、画面上で表紙をタップ(tap/軽くたたく)すると動きますとか、そういう方向に向かってる。それは俺、違うんじゃないかなっていう気がしてならない。重要なのはDRMをどうするかでしょう。

津田 そう。だから、さっき沢辺さんが言ったように、「コピペできないじゃん」って感覚はすごく重要だと思います。これからの電子書籍はTwitterのようなソーシャルな場でどんどん共有化されていくわけじゃないですか。印象的なフレーズが抜粋されて、それに対する本人の感想が書かれて、本の内容が知れ渡っていく。まさにGoogleで検索できる世界にその本の中身が共有されていくわけで、電子書籍にするんだったら、みんなで回し読みをしつつそれが宣伝になるようにしていってほしいし、僕は電子書籍はそうなっていくべきだと思う。

沢辺 そうなると、少なくとも本の著作権の概念が「アクセス権」に変わっていくような気がするんです。

津田 そうですね。だから、本を買ったら電子データをもらえるよっていう、コルシカのサービスは面白かったじゃないですか。ああいう読者に対してわかりやすいインセンティブを与える仕組みがこれからの書籍や雑誌のデフォルトになってほしいと思いますね。データベース的に検索できることに意味がある本っていうのもたくさんありますからね。

沢辺 たとえば、雑誌で「津田大介が教える音楽著作権」という記事があって、面白いからファイリングしておこうと思うと、今だったら切り抜いたりするでしょう。でも、電子書籍だったら、それをEvernote(オンライン上にテキスト、画像、音声などのファイルが保管できるクラウドサービス。iPhoneなどスマートフォンからも利用できる)に入れておいて、キーワードで検索できるようにすることも可能でしょう。電子書籍には、そういう仕掛けのほうが求められている気がしてならないんだよね。

津田 そうだと思いますよ。たとえば、アクセス権っていえばアメリカの音楽配信サービスに、Appleが買収したlalaっていうのがあるんです。それが面白くて、クラウドにあるデータを1回試聴し、気に入った曲だったら、10セント(約10円)であなたのオンラインライブラリに入ります。ただし、iPodとかに入れて持ち歩きたい人はデータを79セントで買ってダウンロードしてください。ただし、オンラインライブラリで再生権を買った人は差額分を払うだけでリアルのファイルがダウンロードできますよ、っていうサービス。
僕、それを電子書籍でもやればいいと思うんですね。700円の新書だったらたとえば100円でオンライン上のデータのアクセス権が買える。でも、それは持ち歩くことができないと。持ち歩きたい人は、差額の400円を払って500円でダウンロードして、みたいな。あのモデルは本にもすごく適用しやすいと思う。そのためのデバイスは、Kindleであろうが、iPadであろうが、ソニーの端末でも何でもいいんですよ。好みで選べばいい。クラウドで本を売り、広く見られるようになっていく、そしてTwitterでも共有できるみたいな世界に出版界もなっていくと思う。
そうすると、実は今日の著作権というテーマからはどんどん離れていってしまう(笑)。それってビジネスモデルやデバイスの話ですから。著作権なんてどうでもいい世界なんですよ。今、隣接権がどうこうと言ってること自体がナンセンスで、新しい契約のスキームと、新しいコンテンツビジネスのスキームが出てきているんだから、とにかくそっちにチャレンジしないでどうするんですか。本当につぶれますよっていう話なんで。

沢辺 著作権はどうでもいいと(笑)。

津田 ある意味では、著作権はどうでもいいですよ。結局著作権法を決めてる連中の頭は固いし、実際問題、改正に3、4年掛かるんですよ。そんなの現実のコンテンツビジネスではあまり意味大きな意味は持たないですよ。4年後の音楽業界、出版業界がどうなっているか全く予想できないですもん。

沢辺 そうだね。なるほどね。考えてみたら、著作権保護期間延長問題だって、わざわざ70年に延長されちゃうのは嫌だけど、著作権者がクリエイティブ・コモンズに参加してこの著作権はこうなっていますとルールを最初から出していれば。

津田 そうしたら著作権法とは関係ないですよね。だから、問題は法律ではない契約スキームや、コンテンツビジネスのビジネスモデルで変えようとしているのが、結局、Apple、Amazon、Googleしかないっていうところですよね。日本でつくればいいのに、そうすると「さあDRMはどうしよう、著作権は大事だ、隣接権は……」みたいな議論でいつも止まってしまう。

沢辺 やばい。どんどん過激になっていくな(笑)。繰り返し言うけど、現時点では、日本の出版業界にDRMの是非を問う議論は全くなく、DRMはかけることが前提で、どうやってかけるかっていうことを散々議論している。でも、本当は今こそDRMの是非を疑わないといけない時期。

津田 日本の電子書籍におけるDRMの基準はどこなんですかっていう議論を、多分、やらなきゃいけない時期ですよね。

●出版業界にもJASRACが必要だ

沢辺 ところで、JASRACってどう思います? 僕の意見を先に言っておくと、JASRACって、何か評判が悪いイメージが先行するけど、JASRACによって楽になっている部分も大きいと思うんです。

津田 全くそのとおりですよ。JASRACが集金マシーンをやってくれるから、食えているミュージシャンは実際大勢いるし。
だから、僕はJASRACに関して総論では賛成。ただ、個別の徴収の仕組みでは、反対する部分もあります。お役所なので、お堅い部分もあるし、あれだけ儲けているんだから、もうちょっとこういう部分で働いてもいいんじゃないかっていう思いはあります。

沢辺 いいのはどういうところですか?

津田 著作権のデータベースをちゃんと持っていて、インフラの役割を果たしている部分です。あと僕がいいなと思うのは応諾義務があるところ。著作権には許諾権も含まれているので、著者が嫌だって言ったら、第三者の利用を止められる。だけど、JASRACに権利を委託すると、応諾義務があるから使う側が勝手に使って、使われた側はお金を請求するってことしかできないシステムになる。それを法律の条項で解決するのは大変なわけです。
これからのネット時代は全部報酬請求権化、つまりはオプトアウト型にしなければ意味がない、というか、ネットでいちいち許諾を取るのは現実的じゃない。だから、僕は報酬請求権ベースでいいと思っているし、そういう意味で実質的に権利を報酬請求権化しているJASRACの存在は大きい。ただ、JASRAC自体が、ネットに完全に対応できているかっていうと、そこはやっぱり足が遅いですね。早くしろよって思います。

沢辺 以前、伏見憲明さんの『欲望問題』(2007年)という本を出したとき、YouTube用のプロモーションビデオをつくろうって計画したんだけど、そのBGMをクイーン(Queen)の曲にしたいって伏見さんが言ったんです。で、JASRACに問い合わせしたんですよ。だけど、その当時JASRACにはYouTubeの配信はいくらで許可するっていう基準がなく、適用がいわゆるテレビCMの扱いになり、それが2~300万円。結局、それじゃあ払えないので、その話はおじゃんになったんだけど。

津田 そうそう。例外に対して、杓子定規な対応しかできないんですよね。そこがJASRACの個別具体的な問題点ではある。最近はずいぶん話がわかるようにはなってきましたが。

沢辺 逆にいうと、俺たちが撮ったようなビデオにクイーンの曲をBGMとして付けていいんだっていうことはすごく面白かったです。

津田 でも、多分、JASRACだけでは無理なんですよ。CD音源を使うんだったら、隣接権の許諾も取らなくてはいけない。そこでまた200万円プラス、みたいな感じですね。

沢辺 そう、それも言われた。で、一方、出版界はどうなっていたかというと、同じような例でいえば、『週刊金曜日』っていう雑誌に『伝説のオカマ 愛欲と反逆に燃えたぎる』という記事が掲載された際、あるゲイ団体が「オカマ」は差別用語だから謝れって編集部に抗議したら、『週刊金曜日』がそれを謝罪する特集記事を出したことがあったんです。
けれども、一方で別のゲイのグループからは「オカマは差別用語じゃないでしょう。抗議するのは違うんじゃないの」という意見が出た。
で、ポット出版ではその問題を巡って『「オカマ」は差別か─『週刊金曜日』の「差別表現」事件』(2002年)という本をつくったんです。そのとき、『週刊金曜日』編集部に、その特集記事を本に全文収録させてほしいと言ったら、「どういう内容ですか?」って。『「オカマ」は差別か』を簡単に言うと『週刊金曜日』の謝罪までの対応を批判する本なんだけど、結局、著作権を盾に掲載を断わられてしまった。出版界にも、JASRACみたいに「定価いくらで何部刷ります。○○ページ利用します」って申請書を提出して使用料を払って利用できるシステムがあったらな、と思いました。

津田 そうそう。出版界に応諾の概念、要するにJASRACがあれば、そういうことができるわけですよね。今後、電子書籍の権利情報データベースは間違いなくできていく。だから、そういう権利処理機能を持った機関をつくりましょうよっていう機運を高めるのも重要だと思います。問題はそれを日本文藝家協会は作れないだろうなぁっていう。団体の規模がJASRACとは全然違いますし。

沢辺 結局、そういうふうにやったほうが得だとか、別にそれで問題ないとか、そういう一部の状態がつくれれば、あとは著作権者たちも雪崩を打ってそっちへ行くと思うんだよね。

●電子版『Twitter社会論』

津田 僕自身の電子書籍への取り組みを言うと、今、『Twitter社会論』の電子書籍版をiPhone、iPadアプリ用に作っています。
それにはいろんな追加要素を入れてるんですね。東浩紀(批評家、小説家。早稲田大学客員教授)さんに解説を書いてもらい、追加原稿を僕が書き、あとはいろんなイベント、たとえば『クズが世界を豊かにする』(2009年、ポット出版)の刊行記念で松沢呉一さんとトークショーをしたときのテキストデータや、オーディオコメンタリーを入れたりしたら、すごく楽しいかなって思ってるんですよ。
僕の考えているモデルは、まず、本を出す。で、店頭で売れなくなってきたなっていうくらいの時期にデラックス・エディション版で電子書籍を出せばいいと。それにはTwitterで共有する機能や、音声コンテンツや、YouTubeへのリンクを入れたりする。そうすると、1回本を買って面白かったなと思った人が、もう1回iPhoneで買ってくれるじゃないですか。出版社は基本的に最初の本のデータを出すだけでよくて、その他のコンテンツはアプリの製作会社と著者とでつくっていく、というふうにする。
それを、たとえば1,000円で販売したら、まず3割はAppleが持っていくので70%の700円が入る。その700円を出版社と著者と製作会社で完全に3等分しましょうというモデルで考えているんです。そうであれば、出版社のほうも乗りやすいでしょう。本とはタイミングもずらせるし、著者としても22%ぐらいの印税率になるから悪くない。その最初のモデルケースとして、『Twitter社会論』の電子書籍版をやろうと思っています。

沢辺 それはどこから出すんですか。

津田 ナタリーっていう情報サイトを運営している「ナターシャ」という会社から出します。僕が取締役をやっている会社なんですけど。ナターシャでアプリを開発して、本の版元である洋泉社と今、話をつけているところですね。

沢辺 すごい。いつごろ出るんですか。

津田 一応、iPadの発売に合わせたいなと思ってるんですけど。

沢辺 じゃあ、4月下旬くらい。

津田 頑張ってつくります。でも、まだ全然作業が追い付いてないんですよ。追加原稿もまだ書いてないんで、書かないといけないんですけどね。いずれにしても、いろんな意味での実験としてやって示したいなと思っています。

2010-05-11

談話室沢辺 ゲスト:東京電機大学出版局・植村八潮 第2回「電子書籍をめぐる権利のゆくえ」

電子書籍は図書館で貸し出すべきか? 出版社が権利を持つ必要はあるのか? 出版界への批判はどこまで妥当か?
東京電機大学出版局の植村八潮さんに訊く、電子書籍をめぐる課題、第2回は権利のゆくえ。
(このインタビューは2010年3月27日に収録しました)

第1回はこちら→談話室沢辺 ゲスト:東京電機大学出版局・植村八潮 第1回「20年後の出版をどう定義するか」

プロフィール

植村八潮(うえむら・やしお)
1956年(昭和31年)生まれ。東京電機大学出版局長。日本出版学会副会長。共著に『出版メディア入門』(日本評論社、2006年)『情報は誰のものか?』(青弓社、2004年)。
東京電機大学出版局
連載「ネットワークと出版」

「いつでもアクセスできる」だけで価値がある

沢辺 読者の権利の方向はどう思ってますか? 今の読者の権利は、物体としての本を買うと、その物体をどのように処分してもいいでしょ。古本屋に売ってもいいし。

植村 物理的にはね。それは著作権が切れてるから。現状の著作権は古本屋に売るところまではコントロールしないということになってる。ファーストセールドクトリン、日本語で言うと「消尽」だけど、著作権は最初の読者で役割を果たしたと考えられているわけ。

沢辺 僕は今後の読者の権利は「アクセス権」になるんだと思う。コンテンツに対してアクセスする権利。今は物体を所有する「所有権」だけど。

植村 Kindleの『1984』事件があったよね(参照:Kindleユーザーの本棚から消えた「1984」、Amazonが勝手に削除!?)。『1984』を買った読者は権利を買ったつもりだったのに、嫌だと拒否することもできずに、一方的に消されてしまった、ということで問題になった。

沢辺 そっちの問題でもあるし、物体を所有する権利じゃなくて、アクセスする権利になると思う。

植村 でも、デジタルコンテンツは、そもそも「物体の所有」ではないでしょ?

沢辺 ハードディスクの中のデータが物体じゃないといえばそうだけど、1つのコピーの所有権を渡しているとも考えられない?

植村 いや、「所有権」ならば人に渡してもいいはずで、人には渡せないのだから、所有権という言葉ではデジタルデータは整理がつかないと思うよ。
デジタルデータになって、所有権から「読む権利」になったとき、電子書籍を買うことは、図書館における貸出やDVDのレンタルとどう違うんだろうか。僕はそもそも、図書館がネットを通じて本を貸し出す必要はないと思うんだけど。

沢辺 これは妄想で、技術開発が進めば状況は変わってくると思うけど、たとえばポット出版の本が図書館で購入され、それが貸し出されようが、誰にも読まれなかろうが、今は1冊分のお金をいただけるわけですよね。
でも「アクセス権」の概念に近くなっていくと、デジタルデータの提供は無料で、実際に利用者が読んだ分だけ、著作権者や出版社に利用料を払う、というかたちになっていくと思うんだ。

植村 そうじゃなくて、まずデータを図書館に置くところで半値を払ってもらったほうがいいんじゃない? 今でいう「本が館のなかにある」状態、つまり、「本のデータをいつでも自由に貸し出せる」状態で半値を払って、そこから先は利用された分、というかたちのほうがいいと思う。だって、館に置かれなければそもそもアクセスできないんだから。「アーカイブはでかいほど価値がある」ということもあるし、貸し出されることはなくても、置かれただけで価値は発生しているよ。

沢辺 そうすると、「館のなかにある」という概念も必要なくならないかな? 個別の図書館がデータを持つ必要はなくて、図書館協会のようなところのサーバーにすべてのタイトルを入れておいて、個別の図書館はそこからデータをもってくればいい。

植村 デジタルアーカイブになれば、個別の図書館がハブになる必要はなくなるかもしれないね。利用者は中央サーバーに置かれたデータに直接アクセスすればいいんだから。

沢辺 そのときのアクセス料金は、AmazonのKindleで買うときより安くなければならないと思うけど、無料はありえないよね。利用者にとっては無料になるかもしれないけれど、その場合は税金でカバーしなくちゃいけない。

植村 図書館の人たちは「税金でやって国民に無料でネット貸出をしたい」と思うかもしれないけど、その前に「ネット時代に公共図書館が必要か」を論じるべき。個別の公共図書館をなくしたら、その分の予算を国会図書館のデジタルアーカイブに回してすばらしいアーカイブができるかもしれないんだから。
僕は「有料レンタル」の領域を、「デジタル書籍を購入」という領域とは別に残しておかなければならないと思う。そして、デジタルコンテンツの図書館でのレンタルは、「有料レンタル」という概念にすべき。最近、国立国会図書館の長尾館長は「有料閲覧」という言葉を使っているよね。前は「自宅から借りられるようにします。それにお金を払ってもらってもいいですね」という言い方だったのが、「閲覧行為を有料化する」に変わった。これの反発は出版界よりも図書館界のほうが猛烈にでるよ。でも僕は、これがチャンスだと思う。有料閲覧を定着させていかなくちゃ。

沢辺 デジタルは、使われた回数がカウントしやすいしね。

植村 今までの図書館ではなぜカウントしていなかったかというと、カウントできなかったからでしょ? 昔ドイツでコピー機の値段に著作権料を上乗せしていたのは、回数をカウントできなかったからなのと同じように。いわゆる保証金制度だよね。版面権が導入されるときにゼロックスなんかが反対したのは、日本もドイツと同じように保証金をコピー機の価格に上乗せせざるを得なくなるのでは、と考えたからだよね。
でもデジタルなら、読まれた回数は完全にカウントできる。夢のような話かもしれないけど、書籍をコピーしたら、そのページの情報から書籍を特定して、著作権者にお金が行くようになればいいよね。

沢辺 それは妥当だと思うけど、俺は逆に怖い部分もあるよ。ポット出版が出している「ず・ぼん」は「図書館とメディアの本」という狭いターゲットに向けたものですよ。でも図書館の本だから、全国にある図書館がけっこう買ってくれるんですよ。今は買ってくれた分が利用者に読まれようが読まれまいが、1冊分のお金をもらえてるよね。でもそれが完全に利用回数に応じたものになってしまったら、今よりも入ってくるお金は減ってしまうかもしえない。
でもそれはしょうがないと思ってるよ。図書館員がチョイスしたことにお金が払われる時代から、利用者がチョイスしたことにお金が払われる時代に移るのはしょうがない。

植村 よく、「雑誌を記事単位で売ったら食えなくなる」という議論があるじゃない。雑誌は記事の集合体で、メインの記事やコラム記事などが、頭からお尻まで、流れに沿って配列された「雑」というパッケージを売っているものだから、記事単位では成立し得ない、という話。
だったら雑誌の記事単位の配信は、今のモデルではなくて、まずパッケージを買うところで課金をすべきだよ。その上で、記事単位に売らないと。
図書館が利用者に「今月号のうちAの記事を読むかBの記事を読むか」という選択肢を提供した時点でサービスが成立してるんだから、そこで基本料金が支払われるべきだよ。その上で、記事ごとのチャージが入るんだと思う。「ひとつも記事が読まれなければゼロ」というスタート地点は間違ってるよ。「基本料金+チャージ」ですべて成立すると、僕は思うけどね。
積ん読に意味があるのは、いつでもアクセスできる権利を買ったことになるからだよ。だから「いつでもアクセスできる権利にお金を払う」というモデルは既に成立してる。
デジタルの百科事典が出て、パソコンさえあればいつでも百科事典にアクセスできるようになったとき「こんなに便利な時代はないな」と思ったよ。これは「アクセス権」でしょう。
だから「アクセス権」という線は間違ってないと思う。あとは、時間軸の値段設定。「永久アクセス権」と「時間限定アクセス権」の値段の違いが問題になってくる。
デジタルにおいては、これまでの出版物の延長で考えてはいけないと思うよ。

ネット時代の図書館の意義

植村 アクセス権の定義の確認をしたいんだけど、「Kindleで本を買う」のは、そもそも「永久アクセス権」を買うことだったんじゃないのかな。それに対して図書館で本を借りるのは「期間限定」というルールがあって、だからこそ物理的な本を無料で読める。そうすると、「アクセス権」も期間限定になるのかな。
そもそも知的財産という考え方は、無体物を財産化していく仕組みで、一番最初は有体物の財産しかないよね。
無体物における財産を一番最初に定義したのはたぶん著作権だと思うけど、無体であるものに財産を認めようとすると、まず、範囲を決めなくちゃいけなくなる。物理的なものや土地なら範囲が決まっているけど、無体物は「私の権利はこうです」と定義しなくちゃいけない。たとえば特許の及ぼす範囲を克明に書き上げるとか、著作物だったら、「著作物の範囲はここからここ」と決めなくちゃいけない。
そして、情報というのはどうしても時間軸で価値逓減していくから、期限を切るしかない。だから特許も著作権も期限がある。
ということは、著者が死んで50年経ったら権利がなくなるように、Kindleで本を買ったときの権利は永久ではないんだよね。時間が経てばフリーで使えるようになるものだから。
そうすると、図書館は限定する期間が狭いから安い、というルールを持ち込むしかないよね。かたや永久、かたや一週間単位で、読み切れなければもう一度借りてください、というかたち。レンタルDVDと一緒だよ。レンタルDVDを借りるときも、1日延滞したらまた1日分取られるという約束で借りることができる。
僕が「図書館がネットでコンテンツを提供するサービスをする必要はない」と考えるのは、そこは税金で運営する範囲ではないと思うからですよ。
私たちのお金で価値を見出して市場を作る、産業を作る、というのが資本主義の美徳だとしたら、僕は「レンタルビデオってなんてすばらしいんだろう」と思う。図書館が紙の本にこだわっている間に、DVDを貸し出すというすばらしいサービスをしてくれて、カウンターにいる人も歯切れよく応対してくれる。
言ってはなんだけど、図書館は品揃えも少ないし、愛想のよくないカウンターで借りなくてはいけない。品揃えとサービスの面では、図書館よりもTSUTAYAのほうが圧倒的にいいんだから。もしTSUTAYAのサービスがなくて「DVDの貸出は図書館のサービスです」となっていたら、我々は今のようにDVDを借りる環境を持ち得てないと思う。これこそ、民間にやらせたからこそ素晴らしいサービスになっているものだし、ネットでコンテンツを流通させるのも民間のほうが絶対うまくいくよ。
だから図書館は物理的な館に留まるべきだと思う。紙の本はタフだから、紙の本を借りていく、という部分を深めていけばいいんだよ。皆が思うほど、すべてがデジタルにいくわけではないんだから。
教育がいかに人と人のコミュニケーションで成立しているかという話をしたけれど、それと同じように、図書館というリアルな場でやれるサービスはもっとあると思う。
図書館の人たちは、もっとそっちの議論をすればいいと思うな。

沢辺 今の図書館の人たちは、特に長尾さんを先頭にむしろデジタルのほうに話が向かっていて、「夢の電子図書館構想」という大目標があるけど、その方向ではないということだよね。

植村 ゆうき図書館(茨木県結城市)のように、館に来させるためにデジタルがある、館の中がいかに楽しいかを伝えるためにネットがある、としなくちゃ。あるいは館の中からネットワークを使って本の楽しさを演出してくれればいい。

沢辺 地域図書館にもうひとつ意味があるとしたら、渋谷図書館なら渋谷図書館でしか集められない情報を集める場所としての価値だよね。

植村 うん。中央サーバー「だけ」なんてことがありえないのは、絶対に地域でしか知ることのできない情報があるからだよ。

沢辺 例えば、地域の小学校が生徒に出したテスト問題を、図書館がすべて保存しておくとかね。そうすると、大人になったときに自分が受けたテストが見れる。

植村 あるいは、地域で配っている新聞のチラシを集めるとかね。何十年分ものチラシのアーカイブがあったら、メディア研究者は喜ぶよね。全共闘のアジビラを集めて社会学的に分析した素晴らしい本があるんだけど、それと同じように、スーパーのチラシのアーカイブだって第一級の資料になる。「ぱど」のような地域密着のタウン誌だって貴重なものだと思うけど、発行元だって全部のバックナンバーを保存していないんじゃないかな。そういった資料を保存するのが、地域図書館の本当の役割だよ。

沢辺 今デジタル化の方向を突き詰めれば、地域図書館はいらなくなっちゃうんだからね。

著作物の利用を許諾するのは誰か

沢辺 DRM(Digital Rights Management/デジタル著作権管理)についてはどう思う? この前山路達也さんという、小飼弾さんの本を共同著作者として作ったフリーの編集者に話を聞いて、それもこの「談話室沢辺」に載せたんですよ。そうしたらある人がその記事を面白がってくれて、対談の文章をコピペして、4回くらいTwitterで書いたんだよね。「面白かったので、ついつい一杯引用してしまいました」なんて言って。
だから俺は、別に怒ったわけじゃないんだけど、「引用じゃなくて利用だよね(笑)」と書いたんだ。当然、Twitterで書いた人も悪意があるわけじゃなかったんだけど、「ごめんなさい。不都合があったらすぐに消します」という返事が返ってきちゃったので、「いやいや、怒ってないよ。かまわないよ」と言ったんだよね。
今、出版社はそういう利用のされ方も嫌がってるんじゃないかな?

植村 いろんなところで利用されることを止めようとしている、ということ?

沢辺 そう。確かにTwitterにコピペするのは、著作権法上、引用でもなんでもなく、「利用」なんだよ。だけど、その利用の効果はあって、利用された部分を読んでポット出版のサイトに読みに来てくれたり、電子書籍だったら買ってくれる、という可能性もあるよね。
もちろん、完全なテキストを無料で配って歩くとか、ましてや有料で売ったりするのは違法だし取締るべきだけど、数万字の中の140字を数回つぶやいただけだよ。でも今の出版社は、そのつぶやきすら嫌がっていると思うよ。
だけど俺は、インターネットというのは、「利用」をされることこそが人気のバロメーターになると思う。DRMをかけて完全に閉じた空間に置いてしまっては、検索にも引っかからないんだから。

植村 そもそも本なんて、立ち読みできなければ売れないものだよ。立ち読みには物理的な制約があるということもあるけど、著作権法が成立する前からあった行為だから法規制がないだけかもしれない。その立ち読みはありなのに、一時期若い子たちがケータイで情報誌の欲しいところだけを撮影しちゃうことを「デジタル万引き」なんて言ってキャンペーンをやってたのは、その行為が販売に繋がらないからだよね。だから僕は、フリーミアム(基本的なサービスを無料で提供し、高度なサービスは有料で提供するビジネスモデル)って極めて特殊な例だと思うよ。
「ネット立ち読み」をどう否定するか、肯定するかを考えるなら「立ち読みを止めたら本は売れますか」と問い直したほうがいいと思う。
東京電機大学出版の本は、Googleパートナープログラムを使って、公式のサイトから20%立ち読みできるようになってますよ。それで本が売れなくなるとは思ってないし、まだ「やってみないとわからない」段階だよ。ネットの立ち読みが販売に結びつくかどうか、ちゃんとわかってる人は誰もいないんだから、やってみるしかないよね。

沢辺 今いろんな集まりで進んでいる電子書籍の話は無条件でDRMが前提になっているように思うんだけど、ちょっと違うと思う。
今ポット出版が「理想書店」から出している電子書籍も無条件にDRMをかけちゃったから、iPhoneで読んだときにテキストをコピーできないんだよ。でも、それって実はマイナスなんじゃないかと思うようになってきた。
インターネットの世界はコピーされたり検索に引っかかる場所に置かれたりすることで広がっていくところだから、その中に位置づけられる電子書籍はDRMを前提条件にして考えては上手くいかないんじゃないかな。

植村 今は、それを技術によって実現しましょう、という状況でしょ。Kindleで買った本は、KindleでもPCでもiPhoneでも読める。それはAmazonの仕組みの中で利用できる、ということだけど。

沢辺 でもそれでは、外に出て行かないよ。ポット出版のブログなら、いくらでもコピーできる。

植村 でも理屈から言うと、著作物の利用を他人に許諾する権利は、本を購入した人にはないよね。ポット出版のブログの記事は、沢辺さんが書き手だから「誰に利用してもらってもいいよ」と言えるけど、コンテンツを買った人間が、誰にでもコピーされ得る場所に置いて「利用させる」のは、難しいんじゃないかな。
だって、自分のアクセス権しか買ってないんだから、自分のアクセス権を無制限に他人に認めさせることはできないでしょ。

沢辺 いやいや、アクセス権を買った人が公開の場に置くのはダメでしょう。俺が言いたいのは、その一部をコピペできてブログで紹介したり、Twitterに貼ったりできるようにするってこと。今、出版社が「著作権法上の権利を作りたい」と強く言えるような状況に偶然なっているじゃない。さんざん叩かれてたけど。

植村 確かに、今は言えてるし、言える雰囲気作りは進んでるよね。

沢辺 でもそこは、正直言って評判が悪いわけだ。著作物の本来的な役割は、お互いが利用しあって来たことでしょう? 著作権とは著作物を利用しあう前提の上で、一定の期間限定で、創作者に経済的な利益を提供しましょう、というものだから、「いかに利用できるか」という視点に立たないといけないと思う。

植村 僕がクリエイティブ・コモンズ(Creative Commons/現行の著作権法に基づいて、著作物の利用を一定の条件で許諾するための雛形)という考え方は筋がいいと思うのは、その著作物の利用のされ方を許諾できるのは創作者だけにある、としているからだよ。いくら出版社が「嫌だ」と言ったって、著作者がクリエイティブ・コモンズに則って許諾をすれば、制限できない。今のところ、CCを使った解決策しかないと思うけどね。

沢辺 もうひとつ、登録制も考えられないかな。今、ディフォルトですべてに権利があることになっているけど、登録しない限り権利が発生しない、という解決策もあるんじゃないかな。

植村 それは理念として語ることはいいけど、現実の可能性は0%。なぜなら、「ディフォルトであります」がベルヌ条約の大原則だから。世界の著作権はベルヌ条約(1886年にスイスのベルヌで結ばれた、著作権に関する国際的な条約)の枠組みの中で動いてるんだから、登録制はありえないよ。
ベルヌ条約の枠組みは、無方式主義だから。アメリカは1989年までベルヌ条約に入っていなくて登録式だったけど、世界的な状況から抗しきれずに、加入したんだよ。
ベルヌ条約の枠組みを変えることは不可能なくらい困難。それを前提にすれば、クリエイティブ・コモンズは筋がいいと思う。それは、作り手だけが権利を主張できるから。ただし、ポータビリティを考えるのは別の議論だと思うよ。少なくともKindleは、Kindleの端末がなくても出先のパソコンやiPhoneで読むことができるわけだよね。それをKindle側のサービスとして全部保証した。これはありだと思う。でもKindleの戦略として、Kindleで買ったものをSONYのReaderで読めるようにはしないだろう。もちろん、ポータビリティを主張する人が「俺がKindleで買ったコンテンツを、SONYのReaderで読みたいんだから、移し替えさせろ」と言うのもありだと思う。だけど、それが可能なのはDRMの外側にあるフリーのコンテンツだけでしょ。例えば青空文庫のコンテンツは移せるようになるかもしれないけど、「すべての作品でポータビリティを保証しろ」という議論はないと思ってる。
それは、ポータビリティは技術で解決すべき問題だから、技術をサービスしている側がポータビリティを保証する、ということはあるとおもう。

沢辺 例えばAmazonじゃなくてbk1がポータビリティを保証した契約を作って、同じタイトルがKindleにもbk1にもある、という状況ができて、利用者がそれぞれ「値段が安いからAmazonがいいよね」とか「ポータビリティがあるからbk1がいいな」と選択できるようになればいいよね。

植村 「bk1ならどこでも使えます」というのは「Tポイントカードはどこでも使えます」というのと同じように、契約した範囲での話だけどね。bk1サービスに乗る電子書籍リーダーがどれだけ出てくるか。でも、技術はユーザーの要求があれば何とでも実現できるからね。

フォーマットをオープンにする意味

植村 もうひとつ記述フォーマットと実行フォーマットの話がある。素のXHTMLは、エディタで読めるわけだ。これにバイナリかけると実行フォーマットができる。
.bookを例にすると、.bookは実行フォーマット。でもその前に「TTX」という単純にテキストエディタで読める、タグ付きテキストの状態がある。TTXを「ドットブックビルダー」というビルダー(記述フォーマットを実行フォーマットに変換するソフト)に通して.bookにする。.bookもTTXも、ビュアーのT-Timeで開けば同じように見える。
同じように、AcrobatというビュアーはPDFという実行フォーマットを読む。Acrobat Professionalがビルダーだよね。
実行フォーマットを流通させるときDRMの仕組みを持たせるには、実はある特有のサーバの中に置いて、そのサーバーから発信するしかない。
ボイジャーはサーバーを自分のところで持って、DRMがかかったものしか流通させていないんだよね。
だから勝手に実行フォーマットをばらまいて、「僕が書いた文章だから読んで」ということもできなくはないけど、今はやっていない。
昔のエキスパンドブックの時代は自費出版みたいもので、自分の書いた作品を配布することに関してはタダだったけど。
今は青空文庫用のビュアーを提供していて、たぶん、中身はほとんどT-Timeだと思う。だから一応、青空文庫用にDRMがかからない流通する形態を作っているんだよね。
そうであるなら、.bookの自主流通はすでにやっていると言えるわけで、.bookの仕様もオープンにして、皆に使ってもらえばいいと思う。
ただ、仕様をオープンにするということは、誰でもビルダーを開発できるようになるということ。タグだけじゃなく実行フォーマットの構造も公開しないとだめ。
誰でもがビュアーを作れて、誰でもビルダーが作れる状況は、さっき例に出したPDFがそうだよね。ビルダーは商品として売っているけど、ビュアーは「皆さんフリーで使ってね」と配っている。
PDFは、アンテナハウスや情報処理学会がビルダーを作っているけど、なぜそれができるかというと、PDFの規格がオープンだから。
でもAdobeは技術を知っているから、Adobeが作るビルダーのほうが質がいいんだね。
例えば最近のコピー機はスキャニングしてPDFで保存できるじゃない。あれは多分、アンテナハウスのエンジンが入っているんだと思うけど、PDFのデータサイズがものすごく大きくなってしまう。そのPDFをAcrobatで読み込んで最適化すると、サイズがすごく小さくできたりする。
でも、いずれにせよPDFはオープンなことによってこれだけ広まったし、印刷を自分たちの世界に取り込んだわけだよね。
オープンにする部分と高い金を取る部分の両方作って、オープンでうんと広めることによってビジネスをしていくという戦略は昔からあって、PDFはその戦略が上手く機能した実例だよ。
だから僕は、XMDFでもT-Timeでも規格をオープンにして誰でもファイルを作れる環境を作りつつ、プロフェッショナルが高度なことをするときにはお金を取りますよ、という関係が作れたらいいと思う。

沢辺 それがオープン化だよね。

出版のルーズさを批判する人々

植村 例えばCCCD(Copy Control CD)は不評を買ったけど、不評の中の半分くらいは「それは違うんじゃない」と思う部分があるんだ。著作権上の逸脱行為を誰もやらないのであれば、CCCDなんて要らないんだよ。でも、逸脱行為をしていた人間が「こんなことやるからサービスが悪いんだ。自由にコピーさせることで人気が出て売上が上がるんだから、俺たちの自由にやらせろ」というのはとんでもないよ。
「本の中の20ページが読めますよ」「PDFで全文ダウンロードできますよ」というフリーミアムの発想は、提供者側がやるサービスなんだから。中国のコミック違法サイトに抗議すると「俺たちは貧乏だから金を払わないけど、俺がばらまくことでお前ら有名になって金を儲けているんだから、それでいいだろ」と主張しているらしいけど、絶対間違ってる。
個人が金も払わずにすべての著作物をばら撒き続ければ、絶対体系は崩れてしまうよ。そんな状況になったら、誰がコンテンツにお金を払うかな。

沢辺 CCCDのようなものに反対するとしたら、利用者側には「買わない」という対抗手段しかない、ということを言いたいわけだよね?

植村 そう。「CCCDはけしからん」と言っていた人すべてを否定するわけじゃなくて、金も払わずにYouTubeにアップロードしていたようなやつが主張できる話じゃないだろ、ということ。でも、ネット世論にはそういう人もいるから、そういう人の論には怒ってる。

沢辺 「反対派の半分には怒ってる」ならいいんだけど、俺が危惧してるのは、「おかしな主張が含まれているから、反対派は全部駄目だよね」となることで、今の出版界はそうなっているような気がするんだよ。

植村 そこは、僕らも含めて上手く議論を腑分けできていないよね。おかしな主張をする人は、出版社にだって著者にだっていっぱいいる。他人の本の引用にはルーズなくせに、自分の本をまねしたと怒る著者とか。「自分の本はどんどん無料で読ませてください。でも出版社はお金をください」と言うのもおかしいよね。「無料分は、印税はいりませんから」と言うのなら、まだ筋は通ってると思うけど。

沢辺 俺が腹が立つのは、締切を過ぎているのにも関わらず、うんともすんとも言ってこないようなライターが出版契約批判をしたりすることですよ。「ちゃんと契約をしてこなかった日本の出版界はおかしい」とよく言われるけれどさ。

植村 でも、契約のない出版社というのは本当に減ったよ。少し前まで契約はほとんどしていなかったけど、それは「契約をするような作家は二流だ」と作家側が認識していたからだよ。文芸作家と呼ばれる人は契約書なんて書かないし、今も書いてない人は多いと思う。契約書を持っていって怒鳴りつけられたという話も聞いたことがあるくらい。「電子化のこともあるし、そろそろ契約を結ばなくちゃいけない」と思って先生のところに持って行ったら「なんで俺からなんだ。俺はそんな二流か」と怒鳴ったんだって。だから、出版社だけの責任ではない。
でも、そもそも口頭契約は紙に書かなくたって立派な契約だから、「100%契約があった」と言い切れる。「よろしくね。いつもの通りでいいんだから」と言うのは立派な契約なんだから。

沢辺 だから出版社は、たとえ口頭でも「そういう契約はありませんでした」なんてことは言わないよ、という意思を持っているんだね。

植村 著者と出版社で、契約関係は完全に成立していたんだからね。著者も「契約書を書いていないから印税はもらえない」とは思ってないし。

沢辺 この前ネットで見たのは、「原稿を上げたのに、のらりくらりといつまで経っても本にしてくれない」というものだったけど、そんなことはいくらでもあるよね。

植村 出版社は「原稿入手後六ヶ月以内に出版する」という主旨のことが著作権法上の出版権の項目に書かれている。一方で、おおかたの出版契約には「著作物を作るための経費は著作権者が負う」と書かれているにもかかわらず、「悪いけどこの写真見つけてくれ」という場合もあるし、「先生、この写真駄目だから、僕のほうで見つけておきます」ということもある。それでお金がかかっても、著者に請求なんてしないじゃない。でもそういうルールの中でお互いやってきたんだから、それはある種の契約だよ。
村瀬拓男さん(新潮社)が「紙がなくても立派な契約だよ」と言うのはそういうこと。

沢辺 相手が契約関係を否定したら、紙の契約書が必要になるけど、口頭契約であってもお互いが「そういう契約をしたよね」と言えば、それが裁判でも前提になるわけで。

植村 出版契約上の裁判って、ほとんどないでしょ。著者との契約上のトラブルは少ないよ。
だから、出版社と付き合ってない人からそれほど批判されるような話じゃないだろう、と思う。
去年のことだけど,ある「出版シンポジウム」で,ちょっと面白いやりとりがあってさ。自称作家なんだろうけど,会場の参加者が質問に立って,「文学賞に丁寧に書き上げた原稿を投稿したのに、選考に通らなかったら返事もよこさなかった。傲慢だ。最近の出版社は駄目になってる」って発言したんだ。当の文学賞の主催出版社の社長がパネリストで,困惑して謝ったわけ。「そんなでき損ないの原稿を送りつけておいて、偉そうに言える話じゃないだろ」とは言えないよね。そしたら,別のパネリストが「書き手になろうと思うなら、そんなにナーバスじゃ生きていけいないよ」と厳しく諭したんだ。山ほどの原稿をダメ出しされて、それでも書き続けられるタフなやつが書き手になるんだから。
理不尽かもしれないけど,でき損ないの原稿を応募して、駄目だったら返事がないのは当たり前、それを受け止められないでどうすんだよ、って思うけど、みんなの前で言い切ったパネリストは、さすがだね。
だから僕らも、今のネット世論にナーバスになる必要はない。そもそもネットに限らず「世論」ってバイアスがかかっているものだからね。ただし、ネット世論を気にする必要はない、と言い切ることはできないよ。なぜなら、デジタルコンテンツを買うユーザーはネットの中にいる人達だから。
ということは、ネット世論が批判的に形成されればされるほど、デジタルコンテンツは売れなくなる。それはかつてのCCCDがそうであったように。CCCDだって、ネット世論が反発しなければ売れたと思うんだ。正規のユーザーまで敵に回したから、反CCCDのムーブメントが作り上げられたけど、CCCDが当時目指したことは、今SONYやAppleがやっていることと大差ないと思うよ。ネットを味方につけるある種のプロパガンダが上手いか下手か、という違い。当時のSONYが下手で、Appleが上手かった。やっている技術的な制約はほとんど変わらないんだから。
だから、ユーザーがネットの中にいる以上、ネットの言説はお客さんの声なんだから、謙虚に耳を傾けたほうがいいよね。
出版社はそこに意識が低いよね。

沢辺 「文学賞に応募して返事がなかった」という話はレベルが低いと思うんだけど、出版界に片足突っ込んでるライターたちだって、「契約書をちゃんと作れ」という論に加担している人は多いよ。

植村 それはもちろん、だらしない出版社まだまだ沢山あるよ。ライターを搾取しているような連中もいっぱいいる。だからライターやレイアウターや編プロが劣悪な環境で仕事をしている仕組みは現実にある。契約なんかとてもできないような、ね。

沢辺 でも、契約したからギャラが上がるかというと、上がらないんだから。でもそのレベルのことに、出版業界に片足突っ込んでそれなりにものを知っているライターが「それはおかしい」って言ってるんだよ。出版NETSだって、「出版条件の明確化」「契約書をちゃんと作る」というのを運動目標にしているでしょう。

植村 下請法は、契約内容は劣悪なままでいいの?

沢辺 下請法で単価が上がるわけじゃないから、交渉する以外に方法はないでしょ。それと「ライターは打ち合わせで約束した締切通り原稿を書いてくるか」というと、締切が守られないこともいっぱいある。契約は双方向問題だから、ライターの側だって責任取らなきゃいけなくなってきつくなると思う。
契約って本来、「何月何日納品」というものだよ。

植村 なるほどね。期日を守らないライターは次から使ってもらえないけど、今回の仕事に対してペナルティはない訳か。そういえば昔、電大でも情報系の本を出しているから、プログラマーやSEに執筆依頼したことがあったんだけど、彼らの原稿の締切を守ることに対するナーバスさは凄かったな。「すみません! とにかくあと3日待ってください」という感じ。3年待つような原稿もあるのにさ(笑)
プログラマーの世界では、納品といえば絶対厳守で、しかもバグ取りして全部動くまでランスルーして確認して、というやり方で鍛えられている人だから、原稿も同じ世界だと思っているらしくて、「3月末まで」と約束して書けなかったプログラマーが本当に必死になって謝ってきたけど、僕から見たら著者だから「いいですよ、先生。そんなこと言われたの、僕生まれて初めてです」なんて話をしたけど。
プログラマーの世界は厳しいけど、それと比較してライターの世界なんて確かにルーズだよね。

沢辺 プログラマーの世界では、納期から遅れたら損害賠償請求ってされるのかな?

植村 昔聞いた話だけど、プログラミングの契約って納期から何日遅れたらいくら下がる、というところまで書いてサインしていたからね。

沢辺 だから、あるところを超えたらタダ働きになるんだよね。出版も、そういうことになるわけですよ。
でも、この話がどこから来たかというと、ネット世論で「契約書もない」という不満が通用している、というところからだから。

植村 その不満がある人ほど、暇こいてネットで書いてるわけだよね。

沢辺 実情を知っているライターですらネット上の「しっかりした契約を」的な主張への共感がある。
そこにふたつ見方があって、ひとつはさっき話に出たように、「ネットの世論は味方につけなければいけない。どうせならばAppleになろうよ」ということ。これはそのとおりだと思う
もうひとつは繰り返しになるけれど、出版社がちゃんと言ってこなかった、というのがあるよね。気持ちはわかるんだけどさ。

植村 やっぱり不況だからさ。景気がいいときはライター稼業なんて困りはしなかったんだから。でもおいしい時代に戻るのは無理なんだとしたら、お互いにシビアな契約書を結びましょう、でいいと思うんだけどね。
印税は何割で締切はいつで、締め切りを過ぎても原稿が上がらなければペナルティはいくら、というかたちで。
でも、本当にそれでいいのかな? ネットで契約のことを言う人たちは、そういうことまで含んで言ってるのかな。

沢辺 いや、そこまでは思ってないでしょ。2月1日に阿佐ヶ谷でやった「2010年代の出版を考える」のイベントのときも「印税10%に根拠はない」と言う人がいたけど、でもそれは当たり前のことだよ。

植村 うん。それは俺の原稿料がペラ1枚1000円なことに根拠がないのと同じことだよ。「お前は2000円あげられるライターじゃないんだもん」という話だからさ。

沢辺 その根拠は、植村さんの過去の実績から示せないことはないのかもしれないけど、意味はないよね。

植村 意味ないよ。「じゃあ、君じゃなくていいよ」と言うだけだもの。印刷所にページを組んでもらうときに見積りを出すけど、ページ組代でしか見積もらないじゃない。それに根拠はあるかと言われれば、ないよね。印刷所の機械が年間何回回って、と計算するなんてありあえないよね。

沢辺 うちでデザインの仕事を請け負うときも、話せば大体方向性が合意できてすごく仕事のしやすい人もいれば、何も考えないで全部アイデアで持ってきて、「3つも4つも並べて選ばせて」という編集者もいる。
そんな時は請求額変えたいよね。例えば印刷屋でいえば何字赤字を直したとか計算できないこともないけど、ページいくらでやってるからね。
もちろん、印刷屋もそこはある程度計算していて、電大に出す値段とポット出版に出す値段を変えたりしてるし、面倒な会社には紙代やいろんな部分に上乗せしたりしてるよね。その塩梅に根拠が示せるかと言われても、担当者の感覚くらいだよ。
もちろん根拠を求めて考えることは大切なんだけど、要はどう合意を作るかが問題だよ。
Googleブック検索にしても、俺はやっぱり「オプトアウト」でいいと思うんだよね。先にやっちゃって、嫌だったら外しますよ、で。

植村 Googleのときの説明会でも「こういう風にしますので、問題ある先生は言ってきてください、じゃ駄目ですか」と質問があったよ。「うちは著者だけでも2000人いるので、いちいち許可なんて取ってられない」って。でも、それこそオプトアウトだよね。「全著者に通達がちゃんとされてないから、駄目でしょうね」と言われていたけど。通達がされてないと、裁判になったときに弱い。

沢辺 でも、裁判するやつなんていないんじゃない?

植村 うん。でも刺すようなやつがいたときに怖いよね。だから、刺すような付き合いをしてきちゃ駄目ってことだよ。
昔に怨念を持たれたライターがいるとか、印税を払ってない著者がいるところは出来ないね。

絶版は独占権を打ち切ること

沢辺 ある出版社の人は「著者に絶版通知を送ったらクレームが来た」って言ってた。その出版社は最近、絶版通知をしたんだって。そうしたら「なんで俺のものを絶版にするんだ」と著者から抗議を受けて、担当の編集者からも「勘弁してくれ。絶版通知なんて出さないで済まそうよ」と言われたって。でもこれは、話が逆だよね。絶版にするということは、著者の人に「あなたの著作物をどこに持って行ってもかまいませんよ」と言うことなんだから。

植村 でも、未だにそういう認識だっていうことだよね。著者のためにやってるのに、そう思われない。「俺は天下の大出版社から本を出しているんだ」ということにしがみついている著者もまだいるんじゃない?

沢辺 しがみついてるから、腹が立つんだろうね。でも、本質的に考えれば、品切重版未定で塩漬けにされるよりはいいんだから。

植村 そんな話はいくらでもあるよね。出版社が著作権が切れるのを死後50年から70年に延長しようという話にウンと言えないのは、著作権が切れるからビジネスできてる部分があるからだけど、著作権についてわかっていない編集者なんてゴロゴロいる。
あと、出版界には単行本を出したところと別のところが文庫化をするときは、最初に出した出版社が何%からもらえるという商慣習があるじゃない。あれは慣習としてそうなっているけど、どこにその権利があるだろう、と考えてみると変だよね。

沢辺 いや、文庫化の場合は権利はあるでしょ。出版契約が生きていた場合は、独占使用権を打ち切ることになるんだから。

植村 でも、単行本が絶版になったあとも、ちゃんと払い続けるんだよ。そもそも単行本があるときには、文庫本化を認めないんだろ?

沢辺 ポット出版の本を別の出版社が文庫にしたときに、その出版社がどういう論理立てで交渉してきたかというと、独占契約の解除と在庫補償だったよ。極端に言うと、「在庫は何冊残ってますか」と聞いて、言われた部数を買い切ったほうが文庫化料の2%より安くなるんだったら「残りは全部買い占めます」と言うんだそうだ。そうしたら、元の版元にはリスクはないわけだから。
そもそも、著作物のことを考えたら、もう一度文庫なりに姿を変えて市場に出るのはいいことだよ。

植村 なるほど、文庫の方が初版部数は多いしね。

沢辺 うん。ポット出版に権利を置いたままで今後爆発的に売れる可能性がほとんどないことは発行後数年経って明らかになってるのに、権利だけをかさに取って「嫌だ」と言うのはいやだ。
それよりは、著作物がもう一度世に出直すほうがいいと思う。
2%は大したことないといえば大したことない額ですよ。むしろ、世に出るチャンスを潰さないほうが大切だな、と思う。そのときに10万くらいもらうのは、別に悪いことじゃないんじゃないかな。

植村 売る力がない出版社が抱えているくらいだったら、著者のことを考えても文庫出版を認めるべきだよね。

沢辺 むしろ、岩波なんかのほうが抱え込んでるよね。

植村 抱え込んでる。絶対出さないよ。

沢辺 俺、岩波に電話したとき「うちはそういうことはやってません」って言われたことあるよ。

植村 そう。だからやっぱり、ライターに対して「お前にこの文章の権利はないんだ。出版社にあるんだ」と言っちゃうような編集がいるのも事実なんだよね。勉強不足なのに主張しちゃって馬脚を現してる連中もいるから、出版社批判も無下には否定できないんだけどさ。
だからやっぱり、「つぶれていく出版社はつぶれてください」と言いたいわけ。
その上で、出版社が本来果たしてきた役割の中の残していきたい部分を、どう残していくか。そこでは、デジタルやネットによってこそ生かせるものがあると思ってる。そういうものはやり続けないと見えないから、まず、やってみようよ。
もちろん出版そのものが好きだし、著者に出会って「こういうものがいいですね」と思いついて出せるのは楽しいんだよね。(了)

第1回はこちら

談話室沢辺 ゲスト:東京電機大学出版局・植村八潮 第1回「20年後の出版をどう定義するか」

2010-05-10

談話室沢辺 ゲスト:東京電機大学出版局・植村八潮 第1回「20年後の出版をどう定義するか」

電子書籍や出版の未来をめぐって、出版界の内外ではさまざまな意見が飛び交っている。しかしそもそも、書籍が電子化されることの意味とは何だろうか? 「本であること」と「紙であること」はどう違い、どう結びついているのか?
電子書籍の権利やフォーマット、教育現場での活用に詳しい東京電機大学出版局の植村八潮さんに訊いた。
(このインタビューは2010年3月27日に収録しました)

プロフィール

植村八潮(うえむら・やしお)
1956年(昭和31年)生まれ。東京電機大学出版局長。日本出版学会副会長。共著に『出版メディア入門』(日本評論社、2006年)『情報は誰のものか?』(青弓社、2004年)。
東京電機大学出版局
連載「ネットワークと出版」

電子書籍とは何か

植村 そもそも電子書籍、電子出版をどう定義化するかによって、話は全然変わってくるよね。日本には電子書籍市場が全然成立していないと言う人もいるけど、ウェブサイトコンテンツの広告モデルやケータイコミック、電子辞書へのデータ提供などそれなりにやってきてるよ。電子辞書なんて、日本が世界に誇れるコンテンツの再利用の仕組みだよ。上手くやれるところからやってきていて、一番やりにくいところを今までやってきていないだけだと思う。

沢辺 この間の電子書籍をめぐる議論の中で、俺が「足りない」と思っているのは、大元に立ち返った「編集の重要性」のような部分。
それから、出版界のムードと出版界の外側で出版に興味がある人たちのムードが明確に違っていることも危惧している。
たとえば日本電子書籍出版社協会(電書協)での野間省伸さん(講談社)の挨拶は批判を受けてた。批判される理由もわかるんだけど、そもそものイメージとして「出版社は既得権を維持しようとしている」と思われちゃってるわけだよ。そこを打破したいんだけどさ。

植村 「電子書籍にどう対応しますか」という問いに対して、出版社は真面目に対応しようとしているし、既得権を守ることを中心に動いてはいないと思うよ。電子書籍は個別、地方戦ではけっこう成功している。一方みんなが騒いで主戦場だと思っている文芸書では確かにうまくいっていない。僕に言わせると、そこを主戦場にしているからダメってだけで、その場所には今まで市場がなかった割り切ってしまえばいいと思うんだけどね。

沢辺 植村さんは、そもそも今紙の本で読んでいる情報が電子に置き換わっていくと思いますか?

植村 何割とは言えないけど、かなりの量が置き換わっていくと思う。ただし、電子書籍が市場として成り立つのは、今紙であるコンテンツ以外の新しい作品が入ってきてから。市場を活性化していくのは、今ある紙の本のエネルギーではなくて、ディスプレイで文字を読む新たなコンテンツのエネルギーだよ。
具体的にはケータイ小説みたいなもので、ケータイ小説がどれほど多くの若い人たちにディスプレイで文字を読むことを習慣化させたか考えてみてよ。だけど、出版界の人たちはケータイ小説を出版とも小説とも認めないよね。こういうエネルギーを認めないのであれば、出版の将来は明るくない。

沢辺 そうだね。

植村 僕は一時期、時計を例え話に使っていた。
時計はかつて歯車ゼンマイの精密機械製品だけが「時計」と呼ばれていた。ところが昭和40年代前半、世界の三流時計メーカーだったセイコーやシチズンがクォーツ時計を開発をし、スイスの時計メーカーに先駆けて腕時計として商品化していった。セイコーやシチズンが開発した新しい時計がその頃なんと呼ばれたかと言うと「電気時計」とか「電子時計」なんだよ。なぜかというと、それはそれまでの「時計」ではなかったから。時計王国スイスの人は「あんなのは電気屋が作る電機製品で、時計じゃない。二流メーカー三流メーカーにやらせとけばいいんだ」と考えた。
でも、私たちがいま腕につけているものを、誰が電子時計と言いますか?
これは「時計」だよ。現代に生きる人のほとんどが使っている時計は、かつての定義で言えば時計ではなかったもの。「時計」という概念はそれだけ変わっているということ。
だから「電子出版」「電子書籍」と呼んでいる間は、電子出版が出版に入り込んでいない証拠だよね。CD-ROMやネット、ケータイが出てきたときに、10年もすれば、それらを当たり前のように「出版」と呼ぶ時代がくると思ってたけど、まだまだだよね。それは出版の人たちの保守性が「出版」と「電子出版」を仕分けをしすぎているからだと思う。
でも、これは必ずしも出版社だけの責任ではなくて、読者の本に対する習慣が強すぎることもあると思う。まだまだ僕らはディスプレイで読むことを「本を読む」と感じていないからね。

沢辺 技術的にも、ディスプレイやネットワークが多くの人の実用に耐えうるところまで届いていなくて、紙の実用性にはほど遠いしね。
でもここ数年、特にネットワークの概念は劇的に変わったわけで、この先何が起こるかはわからないと思う。マクドナルドで当たり前のようにWi-Fiが使える時代は、ちょっと前には想像できなかったことだよ。

植村 普通、メディアが立ち上がるときは、技術的な進化の面と、社会の人々がメディアをどう発展させるか、という二つの見方を持つよね。「とにかく技術が進めば広がるんだ」という技術決定論は技術屋の思い込みだと思う。技術屋は技術開発競争をするけど、競争の結果、すごく多機能になって使いにくくなったりして、むしろユーザーから飽きられてしまうことがままあるじゃない?
かつてのPDAがそうで、電子手帳からPDAへと使えない機能ばっかり持ち込んだことによって、PDAそのものが使われなくなってしまった。
技術開発が進んだからといって市場が広がるとは限らないし、たいした技術でなくても、人々が飽きずに楽しんで使うことによってメディアは発達するものだよ。
残念ながらいまのところ電子出版は、技術的にも社会的にも、それほど大きな進歩の段階には来てないんだね。

沢辺 うん。たとえばケータイ小説や「電車男」のような電子状況を使った表現へのチャレンジはなされてはいるけど、それがまだ全面化していない。

植村 新しいメディアが成り立つかどうかの判断基準として、そのメディアの市場が、ちゃんとお金が動いて再生産できるメカニズムを持ち得ているか、という視点があると思う。みんながボランティアで作り上げている段階では、まだまだ社会性が確立されていない段階だよ。
サスティナブル(Sustainable/持続可能)とよく言うけど、そのシステムが自立的に再生産、拡大し続けながら、人々が生活できたり、営めたり、楽しむことができるように作り上げなくては、メディアとしては進んでいかず途絶えてしまう。金は儲からないけどPCに向かって書いている、という状態を否定はしないけど、そこから得るものがなくては進んで行かないでしょう。

沢辺 そこは植村さんと俺のズレを感じるところだなあ。

植村 でも、システムを運用するお金や、書き手に対して社会的な成果や名誉を与える仕組みがなければ、メディアは止まっていくよ。だから今、ケータイ小説は急速に人気が衰えていっている。
それはケータイ小説がシステムの内部に再生産のメカニズムを持ち得ていないからではなか。それでもある程度まで上手くいったけど、その先に、ケータイ小説をメディアにする力がなかった。
もっといろんな方法で参入してよかったはずなのに、「魔法のiらんど」だけではメディアとしての定着が弱かったんだと思う。

沢辺 現にケータイ小説は、紙にしたときに売れなくなっているよね。

植村 うん。ただ、僕は紙にして売れなくなったのはいいけど、若い人たちがケータイで書くことで遊んだり、読むことを楽しんだり、コミュニケーションをとったりする市場が乏しくなっていくことが寂しい。

沢辺 決着はまだついていないんじゃない?

植村 もちろん。だから、新しいやり方を考え出す人が、ケータイ小説というメディアをより大きくするんだろうね。メディアというのは少し成長したと思うと上手くいかなくなって、それまでとは違うやり方を考えた人がもっと大きくしていくという、螺旋階段を上がるように広がっていくものだから。今は引き潮の段階で、次の波が来れば状況は変わると期待しているけど。

沢辺 たとえばiPadが普及したら、ケータイ小説の書き手が自分でイラストを描いたり、友達にイラストを描いてもらったり、いろんな工夫がなされるようになるとかね。

植村 あるいは、書き手そのものが作品を売って対価が得られるようになる。

沢辺 うーん。俺は、確かに再生産には売って対価が得られることが必要だっていうのもわかるけど、それだけでもない気がするんだよね。
たとえば学術出版の世界は「売って対価が得られるから、研究書が出る」というわけではないじゃない。

植村 学術出版の場合は、対価というよりも、「名誉」という強力なインセンティブが得られるから、それで人のモチベーションが高まるんだよ。
その意味では対価というよりはインセンティブだね。ケータイ小説だったら「ケータイ小説の女王」ともてはやされたり、実在する人間として評価されるというインセンティブを得られないと、書き手たちは書き続けられないと思うんだ。
インセンティブは大きく分けると金と名誉の二つだと思う。金は実利で、名誉は社会的な評価。例えば学者だったら、社会的評価がなかったら大学の教授になれなかったり、ノーベル賞もらえなかったりする。ノーベル賞が欲しくて何億という予算を国からとってきて、一生懸命競争しているよね。
でも今のケータイ小説は、ネットで匿名のまま書いて人気を得て、紙の本を出すときも匿名のままだったりするじゃない。それでは長く続いていかないと思う。

沢辺 ケータイ小説は「匿名」というより「ペンネーム」くらいの感じじゃないの?

植村 だけど、そのペンネームの人がリアルな世界で人気が出たことがある? 僕は知らない。

沢辺 そういう意味では匿名かもね。

植村 でしょ。魔法のiらんどは、ビジネスモデルとして作者を守って見せなかった。だから今年終わった。
もっと書き手をもてはやして、人気者にすればよかったんじゃないかな。
原宿を歩いていたらスカウトされてデビューしたモデルみたいにもてはやせば、もっともっと人が動いたかもしれない。

ネット時代における編集者の仕事

沢辺 今メディアで起こっていることはどういう事だと思います?
俺は、『FREE』(クリス・アンダーソン著)や『新世紀メディア論』(小林弘人著)、佐々木俊尚さんの一連の著作にある程度共感するところがあって、基本的にメディアの垣根がなくなっていく方向に進んでいくと思う。
小林さんの言い方でいう「誰でもメディア化」の状況の中で、一部の人は「印税9割」とか言ってるけれど、書き手の立場から見たら、今よりもきつくなるはずだよね。つまり、今まで本を書く人は特権的な立場にいたけど、無料で書く人が沢山生まれる状況では、その特権が崩れていくんだから。

植村 僕は誰でもメディア化することにおける底辺の広がりには期待するけど、一方で質を意味するピラミッドの高さを否定するのは間違いだと思う。
品質や価値観は個人の判断で押しつけるものではないし、Twitterで「飯食った」とか「どこどこ着いた」と書きこむことによる横の広がりも認めるけれど、本当に深くて必要な情報の価値は、それらとは別の軸としてちゃんとある。そこに対して集中的にコミットメントしてエネルギーをかけなければ、信頼性や感動を与える力のある作品は生まれないと思うよ。
自分は表現することだけで生きていきたいと思う人間と、そういう人の作品を徹底的に世の中に広げたいと思う編集者がタッグを組んだ作品と、ブログで野放しに書かれた作品は別なんだからさ。
「誰でもメディア」と言ったとたんにすべてが横一列のように思われてしまうのは、僕は抵抗がある。

沢辺 俺も一列ではないと思うよ。そうではなくて、サッカー協会が日本全国に少年チームを作って底辺を広げたようなイメージ。底辺が広がることによって高さも高くなったわけでしょ?

植村 うん。テニスのときは、テニスコートが増えたにもかかわらず日本のトッププロのレベルは高くならなかった。それはなぜかというと、わいわい集まってテニスをやって、その後ファミレスでおしゃべりするようなおばさんたちを増やしたって、高さは上がらないからだよね。サッカーはそれを反省して、上を目指すことを底辺に教えたから上手くいった。
サッカーはピラミッドを高くする仕組みを作ったけど、「誰でもメディア」の状況は、今のところ、作家や作品の高さを上げる方向に向かっていないでしょ。
僕はCGM(Consumer Generated Media/消費者生成メディア)を否定はしないけど、CGMの動きは、かつて出版が担っていたような作品を作り上げる方向には向いていないと思う。今のところはね。
CGMビジネスは成立しないと言っているわけでも、生み出される作品が読み手やユーザーにとってつまらないと言っているわけでもなんでもない。
でも、本当に人々を感動させる作品や価値ある作品、投資に見合う作品は、やっぱりお金とエネルギーと時間を投資しなくては生まれないと信じている。

沢辺 俺はそこはちょっとずれてると思うな。

植村 だけど、たとえばネットの中から「電車男」を見つけるのは偶然ではなくて、「電車男」を見つけ出して売っていくシステムが働いたからでしょ?

沢辺 うん。それはその通り。

植村 バジリコや魔法のiらんどの人間がネットの中で書き手を探しまくって、人より早く見つけて交渉する、その仕事を僕は評価しているんだよ。昔だったら編集者が徹底的に文芸同人誌を集めて読んでいたのがネットになっただけだと言える。
重要なのは、そこで見つけた作品を世に出すエネルギーがなければ、優れた作品も世に出て行かない、ということ。
music.jpの佐々木隆一さんがよく言っているけど、リヴァプールに音楽が好きで才能のある若者が四人いただけではビートルズは生まれないのであって、ビートルズを世界のビートルズに仕立てるためにはプロデューサーのジョージ・マーティンやスタッフの存在があり、EMIによる投資が必要だったわけだ。誰かが、その役割を果たすことは今後も変わらない。
ただ、こういうことを言うと「だから出版社は必要だ」と受け取る人がいるから癪なんだけど、違う。現状の出版社がこの先その役割を果たすとは全然思っていないよ。今の出版社の連中の体たらくではできなくて、バジリコや魔法のiらんど的なセンスを持っている連中のほうが上手いと思う。
小林さんが自分のことを「いまだに出版人だと思っています」というのはそういうことだと思うよ。彼が果たしている役割こそが、このネット時代における編集者の仕事だよ。
そういった意味での編集者として自身の存在を賭けるやつがいなければ、やっぱり人々を魅了する作品は生まれていかないし、世に広まらないだろうと思う。
出版社なんか潰れてもいいんだよ。何もできない70過ぎのおっさんたちが集まって「既得権益」だと思われるんだったら、潰れちゃったほうがいい。

沢辺 そうだよね。たとえば野間さんが「作家を育てる役割」と言ったけど、そこにある胡散臭さは「作家を育てる」ということそのものの胡散臭さというよりも、「出版社は本当にそれをやってるの?」という胡散臭さだと思う。やっている人もいるのはわかるけど、胸を張って「育てている」と言えるのかな?

植村 僕はその胡散臭さは、紙しかなかった時代では正しかったことしか意識していなくて、デジタルにおける広がりが見えないから感じるものだと思う。
もし「我々は新たなクリエイターを育てることにおいてネットとも付き合うし、ボーンデジタルの作品を作り上げたいと思っている。そして、そのことのノウハウは自分たちが一番知っているつもりだ。もし俺たちよりも編集のノウハウがあると言うなら出てきてくれ。俺はいつでも胸を貸すよ」とでも言ってくれたら、もうちょっと違うんだと思うけど。
今後は紙の外の部分での勝負が増えてくると思うよ。
だから僕らは、魔法のiらんどがやったことをもっと評価しなくてはいけない。

なぜ電子化は進むのか?

沢辺 紙の本は電子化はされていく、というところに話を戻すと、そもそもなぜ紙の本は電子化されていくと思う?

植村 それは、電子書籍が従来の紙での流通速度と複製手段をはるかに凌駕する機能をもっているから。印刷技術の登場が何をもたらしたかを一言で言えば「大量複製」だよね。それまでは手書きで複製していたけど、大量に複製可能にしてくれた。
これが何をもたらしたかというと、まず科学技術の進歩がある。全く同じものが複数存在することで変更不可能性が生まれるので、情報を完全に定着させることができる。

沢辺 それはたとえば、悪い弟子が先生の書いたものを勝手に書きかえたりできなくなるので信頼性が生まれる、ということだよね。

植村 逆に言うと、先生が「俺はここまで解ったけど、この先は解らん」と書いておけば、その弟子が「先生が解からないと書いたことはこうだった」と解るのが科学技術の進め方だとも言えるよね。
印刷技術によって、前の人があるところまでやったものに基づいて次の世代がさらに積み重ねていく仕組みを持ち得たから、科学は発展していけた。
それから、ただ複製するだけじゃなく、パッケージ化して流通させられるようになった。今ここで話している声は「今ここ」で終わっちゃう、再現できないものだけど、紙に残しておけば東京から北海道に届けることができるし、時間を越えて明日にも届けることができる。複製できるようになったことで、空間的制約と時間的制約を超えたんだよね。
でも、印刷技術による複製は装置産業として金がかかったから、印刷会社や技術者のような特権的な連中しか複製できなかった。
その投資を保護するために「出版権(copyright)」ができたのだけど、今は誰もが複製できて、しかも誰もが世界中に流通させられる時代。
印刷をはるかに凌駕した複製速度、流通速度を持った仕組みが、普通の人の手に入ったのだと考えれば、印刷技術の登場よりも遥かにすごい文化形成力があるのは当然だよ。

沢辺 印刷物よりも低コストで劣化せず、時空も空間も越えていくんだからね。

植村 うん。電子書籍、デジタル技術って、マルチメディア化の方向に進むと思われてたし、今もまた「iPadならこんなことまでできる」と派手に書いた記事が話題になってるよね。でも、「そうじゃないだろう」と思う。
文字は言語そのものであり、私たちの一番基本であるコミュニケーションなんだから。
文字表現がさらに速度を増して、さらに距離と時間を超えて複製されることが重要なのであって、デジタル技術の発展の本質はマルチメディア化じゃないよ。
「教科書も何も、すべてがマルチメディアになる」と言われたこともあったけど、実際そんなことは起こってないじゃない。ブログもSNSもTwitterもケータイメールもケータイ小説も、みんな文字だった。
だから電子書籍のことを考えるときも、膨大な文字流通のほうを意識するべきだと思う。
だとしたら、これこそ出版がやってる根幹だよ。

沢辺 俺も、「書籍とは何か」を考えるとき、書記言語であることは大きいと思うんだよね。もちろん、現に本に写真やグラフが載っているように、動画が電子本に載ることはあって当然だし、文字以外を排除するわけじゃないんだけど。

植村 何かの意思を伝えたり議論を積み重ねたりするときは、やっぱり言語で表現することが中心で、そこでは、言語の考えを助けるために図や表や動画や音がある。

沢辺 そうそう。録画しておいたビデオ、今だったらHDDやDVDって、録画しただけで見てないものが溜まっちゃったりするじゃない。
あれは、2時間なら2時間、1時間なら1時間と、一定の時間拘束されることに対する抵抗感じゃないかと思う。動画だと進むスピードも全員に対して同じ。
でも、本は拾い読みもできるし、じっくりと、しゃべるスピードよりもさらにゆっくり読むこともできる。自分で自由に選択できるんだよね。

植村 その分野に熟達した人は早く読む一方で、入門者は丁寧に読んだり、同じコンテンツでも利用の仕方が変わるよね。
もちろん、それが本の特徴だとして、映画と比べてどちらが上か下かということはないよ。完全にストーリーの中に時間を任せてしまう満足感は、映画でないと得られないものがあるしね。
ただ、表現の多様性においては一番シンプルなはずの文字が実は一番深いと思う。小説を読む想像力や、そこで作られる世界観は、読み手に任せれば、任せるほど満足や感動が深くなったりするじゃない。
人間がいる限り想像力はなくならないし、言語である以上、文字表現も絶対に滅びない。
だとしたら、今後も出版が文字表現をベースとした情報流通をしていくのなら、滅びるわけがないんだよね。
紙はなくなるかもしれないけど、文字はなくならないよ。

教科書が電子にならない理由

沢辺 よく植村さんが「教科書は電子にならない」と言うのはなぜなの?

植村 厳密に言えば、「現在の授業形態の中で、教科書をそのまま電子化しても使えない」ということ。少し手前から説明すると、現在の学校教育の一斉授業のシステムは、固定的な、ページ概念を持った本の上で成り立ってるところがあるんだよね。
例えば、先生が「35ページの上から2段目から読んで」と言えば全員が35ページの2段目という同一のコンテンツに辿り着けるような、印刷書籍がもたらした世界観に強く貼付いて存在している。
だから一人一台PCを使う授業は失敗したんだと思う。
それぞれの手元にPCがあると、生徒全員が自分の手元のPCを見て先生を見なくなる。そうすると先生は生徒をコントロールできなくなっちゃうよね。
やっぱり教育には、先生が「ハイここ見て」と黒板をポンと指した時に40人の目を集める、という人間くささが含まれているんだよ。教科書も、そういう人間くささの中に位置づけられていると思う。

沢辺 確かに、そこには身体性が必要だよね。

植村 電機大学ではeラーニング実験もやってるけど、やっぱりまどろっこしくなるんだって。先生がカーソル動かすと全員の画面のカーソルが動くといっても、直接的なコミュニケーションのほうがどれだけ優れているか。それは「さあみんな、解りましたね」と言った瞬間にみんなの心が頷くのを感じて次に進めるのと、「解りましたか」と言ったあとに、みんなのカーソルが動くのを眺めるまどろっこしさを比べれば明らかだよね。
そんなことをしていては、教室という空間で一斉授業をやる意味がないよ。
教科書が自習書として果たす役割と、教室において果たす役割は明らかに違う。今の教科書のシステムは学校教育の一斉授業の中で、かなり鍛えられてきてるから、そうそう電子にはならないと思う。
各人の手元にモニターがあると、先生が教室の生徒全員をコントロールして一点に集中させる力は落ちざるを得ないよね。人間が指さしたほうが上手にできることを、技術にやらせる必要があるんだろうか。技術決定論的にすべてを技術に置き換えなきゃいけない理由は全然なくて、私たち人間同士のコミュニケーションとしての「教えあう/学ぶ」という環境を維持したほうがいいと思うよ。

沢辺 身体性の話でいうと、直接会ってネゴ(ネゴシエーション/交渉)するのと、電話でネゴするのと、メールでネゴするのって、成功度が違ったりするよね。

植村 完全にそうだよ。我々も物理的な存在なんだから、人間が果たしうる役割は今後とも変わらないよ。全部技術で解決するなんてのは、幻想だよね。
もちろん、今のe-bookリーダーが技術的に未熟なものだったり、私たちが使い方をちゃんと理解できていない、ということはあるかもしれないんだけど、本というのは、本そのものとして独立して存在しているだけじゃなくて、ある社会的・文化的なシステムに組み込まれているものだから。そのシステムの中での電子化を考えるなら、今まで本でできなかったことを加味してくれる方向でいかないといけないと思う。
たとえば、風邪を引いて休んでいる生徒が自宅から授業を覗けるようになる、という方向でないとメリットはないよ。
むしろ電子化のデメリットはいくらでもあって、たとえば「あれはどこに書いてあったかな」と本をぱらぱらめくって探すときの一覧性は、e-bookリーダーのほうがはるかに低い。

沢辺 でも、e-bookリーダーだったら検索できるんじゃないの?

植村 検索は、検索キーワードが無いと見つけられないんだよ。本だったら「あれってなんだっけ」というぼんやりした記憶で探せる。
決まったキーワードを探す速度では人間はコンピューターに追いつけないけど、曖昧な言葉から特定する能力は、まだ人間のほうが高いからさ。

紙であることの利点

植村 読書を身体論だけで語るのはどうかと思うけど、本を読むという行為は紙の上にある文字をただ目で見る、視覚だけを使うものじゃないしね。手で持ってめくりながら読んでるから触覚も使っているし、300ページの本の290ページまで読み終わったら、「さあ終わりだ」と思うじゃない。どこで終わるかを感じないままに、ディスプレイの中にある物語を読み続けるなんてできるだろうか。

沢辺 それは植村さんや俺たちの世代の保守性である可能性もあるけど、俺も「自分は今どこにいるのか」がわからないのが電子書籍を読んでいて一番不安。
スクロールバーのあるウェブブラウザのほうが、まだ全容がわかる。
T-Timeや他の電子書籍のブラウザにそういう表示が全くないかというと、そんなことはないんだけどさ。

植村 それはやっぱり、電子書籍はストーリーの中の位置を視覚でしか確認できないからだと思うよ。紙の本のときは視覚だけじゃなく、手に持った時の厚みを触覚で確認しているから、いちいち目で確認しなくてもいいんだよね。

沢辺 でもウェブブラウザのスクロールバーでなんとなく位置確認ができる感じには慣れたから、電子書籍を読むときの感覚も、ひょっとしたら慣れるのかもしれない。

植村 スクロールバーやパーセントでの表示に慣れるかもしれないし、今の携帯小説のように限りなく短くセンテンスで区切って、振り返ることの無いような、クリック感で読むようなものに、中身のほうが変わってくるかもしれないね。

沢辺 こんな話をしてると、非出版社系の人にはノスタルジーと思われるだろうね(笑)
ちょっと横道にそれるけど、電子ジャーナル花ざかりの大学図書館の人と話してると、研究者たちはみんなPDFをプリントアウトして、そこに線を引いたり綴じたりしてるんだってね。iPadやKindleが話題になっているけど、研究者たちは電子のまま利用なんかしちゃいなくて、ある意味でオンデマンド印刷のようなことをやってるんだってさ。

植村 筑波大学で図書館情報学をやっている佐藤翔くんがTwitterに書いていたけど、これまでとの違いは「いつでもプリントアウトできていつでも捨てられること」なんだよ。
多量に読むにはやっぱり紙じゃなきゃダメなんだけど、多量に紙で読んで、必要でなくなったらすぐ捨てられて、また欲しくなったらすぐプリントアウトすることができることが良いんだ。
だから電子ジャーナル好きの研究者は、電子ジャーナルをディスプレイで読むことが好きなのではなくて、いつでもどこでも検索できることが好きなんだよね。

沢辺 この「談話室沢辺」というコーナーも2時間、3時間とインタビューするから、結構長文になるんだよね。そうすると「読み切れないで今日は止めました」というコメントも見たりする。
たしかに、ディスプレイで何万字も読みたくない気持ちはよくわかるよ。
でもそれはデバイスの進歩で解消されると思ってる。

植村 それに電子ジャーナルは、明らかに紙の論文の形式を踏襲したもので、「紙によって保証された」という前提の上にしか電子ジャーナルは成立してない。紙の上での査読やレフェリーという手続きを踏まえた上で、最後に電子データで提供してるだけ。DNAは明らかに紙なんだよね。

沢辺 査読やレフェリーは電子上でやってもいいんじゃないの?

植村 もちろん、電子的なデータで送って「査読して下さい」ということは今でもあるけど、僕がレフェリーを担当して読む時は電子データをプリントアウトして読んで、それに対してメールでコメントしたりしてるよ。だから紙でやってることと行為的には変わらない。
いまだに論文を「ペーパー」と呼んでるように、ページ数に関するルールもかつての論文誌の制約を踏襲している。本当に重要なものはページ数の制約を無視してもいいはずなのに、そのルールは電子になっても全然外れていってないんだよ。

沢辺 それは「過渡期だから」のような気がするけどな。

植村 ネットでしかできない方法として「Nature」(イギリスの総合学術雑誌)が「open peer review」という名前の公開査読を試みたけど、半年で中止している。なぜかというと、研究者は忙しいから。「査読を願いします」と言うと「えー。締切いつ?」と言いながら、「しょうがねえな。これも学会員の役割だからな」ってギリギリになって査読が返ってくるのが普通なんだよ。だからオープンにして「いつでもいいです。みんなでコメントしましょう」では誰もコメントしない。で、すごい好きモノ、悪く言えばすごく偏屈なオタクがひたすらコメントし続けることになって、うまくいかなくなる。

沢辺 Natureの場合は特殊事情で、あんまり普遍化はできないと思うよ。

20年後の「出版」をどう定義するか

沢辺 紙と電子の割合が今後どうなっていくかはわからない?

植村 僕が人前で話すときは、長尾真先生の電子図書館に関する論文を使わせてもらってるんだよね。74年に書かれた長尾先生の論文には「今から20〜30年後には、出版されるものの70%は電子形態のみになる。残りの30%は紙と電子と両方で」と書いてある。論文の中の「20〜30年後」は今から15年くらい前に過ぎちゃったけど、僕は「今から20年後に、70%が電子形態のみになると思う人は手を上げて」と必ず言うようにしてる。
どれくらい手が挙がるかはオーディエンスによってすごく差があって、印刷会社の人たちは結構手が挙がる。それはやっぱり、印刷は技術によって進化してきたから。印刷会社の中には、ディスプレイでの文字表現をやってる人が一杯いるよ。
出版社の人たちはあんまり手を挙げない。出版社でも電子出版をやっているところは手を挙げるけど、出版社のオーナーを相手にした講演では、あまり挙がらない。
電機大学の学生に聞くと、かなり手が挙がる。まあ、元々電機大学の学生が技術オタクで本読まないこともあるかもしれないけど。
他大の文学部にいる学生に聞くと手が挙がらない。文学部に行くような学生は、紙の本が大好きだからね。
一番挙がらないのは図書館で、図書館の人は本当に紙の本だけが図書だと思ってるように感じる。

沢辺 図書館の人は、紙の本以外のことを知らないんだよな。

植村 知りたがってないのかもね。毎日目の前に膨大な量の紙の本があって、愛着もあるだろうし。
僕がこの質問で聞きたいのは「20年後に7割が電子だけになるかどうか」ではなくて、みんなが「20年後の出版をどう定義したか」なんだ。
もし出版という概念を広く捉えたら、当然7割は電子形態にしかならないですよ。だって、今ですらケータイ小説が120万点あるんだよ。どれを1点ととるかの議論は残るけど、とにかく120万点ある。それに対して現在流通している紙の本は80万点と言われていて、そのうち書店で買えるのは多分60万点くらい。120万対60万だとしたら、すでに70%近くが電子形態でしか手に入らない状態だよ。
だからケータイ小説を出版だとすれば、すでに過半数が電子書籍でしか手に入らない。ブログやTwitterまでパブリッシュだとしたら、もっと圧倒的なデータ量だよ。当然、紙のほうが少ないよね。
逆に、私たちのような出版社が編集して流通させるものに限定して捉えたら、20年経ってもそれほど変わらないと思うよ。でも、紙の市場がシュリンクしていこうというときに、出版を狭く限定的に定義したら、出版の将来性はますます小さくなるよね。
出版が培ってきた役割は間違いなくあるんだから、その役割を電子によってさらに実現していく、という発想を持つべきだと思う。
僕は学術書出版とか専門書出版の世界に出自があるし、学術情報における出版社の役割は、かなりしっかりあったと思ってる。
例えば学術出版の世界では、知識という宝庫に続く門の前で待っている「知のゲートキーパー」「知の門衛」が出版社だって言われてる。
出版社のドアをノックしてその中に入れば、出版社によって保証される、手続きを通った作品がある、ということ。
今はその役割を果たすことが難しくなって来ているけど、もしかしたらITによって再生できるかもしれない。あるいは厳しくなってきた学術出版を電子化によって、より推し進められるんじゃないかな。
僕はポジティブに捉えてるよ。
従来の出版の仕事に限定したとしても、電子化の中で果たす役割はあるんだからさ。
一方、ケータイ小説のような、我々がまったく想定しなかったものがドンと来ることもあるけどね。

次回へ続く

談話室沢辺 ゲスト:東京電機大学出版局・植村八潮 第2回「電子書籍をめぐる権利のゆくえ」

2010-04-16

談話室沢辺 ゲスト:飯田泰之 実践派エコノミストが提案するベーシック・インカム

実践派エコノミストが提案するベーシック・インカム

近著『経済成長って何で必要なんだろう?』で実務家の経済学者としての立場から経済成長の必要性を説き、「では、そのためになにが必要なのか」を3つのシンプルな方法─〈競争〉〈再分配〉〈安定化〉─で提案した飯田泰之さん。
統計、データを実証したうえで描かれる、日本の社会保障システムと税システムの改革デザインをうかがった。
(このインタビューは、2010年3月24日に収録しました)

プロフィール

●飯田泰之(いいだ やすゆき)
1975年、東京生まれ。エコノミスト、エッセイスト。東京大学経済学部卒業、同大学大学院博士課程単位取得中退。現在、駒澤大学経済学部准教授。財務総合政策研究所客員研究員。著書に『世界一シンプルな経済入門 経済は損得で理解しろ! 日頃の疑問からデフレまで』(2010年、エンターブレイン)、『考える技術としての統計学─生活・ビジネス・投資に生かす』(2007年、NHKブックス)、『歴史が教えるマネーの理論』(2007年、ダイヤモンド社)、『ダメな議論─論理思考で見抜く』(2006年、ちくま新書)、『経済学思考の技術─論理・経済理論・データを使って考える』(2003年、ダイヤモンド社)、共著に『日本経済復活一番かんたんな方法』(2010年、光文社新書)、『経済成長って何で必要なんだろう?』(2009年、光文社)、『日本を変える「知」─「21世紀の教養」を身に付ける』(2009年、光文社)など多数。ブログ「こら!たまには研究しろ!!」

_MG_8044.JPG

●経済学者の役割は政策立案の実務だ

沢辺 僕は、シノドス(飯田氏が所属する「知」の生産と流通を目的として活動しているグループ。セミナー、レクチャーの開催、メールマガジンの発行、出版を行なっている)は面白い活動をやってるなと思って見ていました。その中で、『経済成長って何で必要なんだろう?』(2009年、光文社)を読んで、飯田さんの話が抜群に面白くて、こんなすごい人がいるんだってビックリしたんです。それは考え方が正しいか正しくないかっていう前に、きちっと実証的に議論をされているところがものすごく珍しいように思えたからです。
で、今日はベーシック・インカムについてお話いただきたいと事前にお願いしましたが、それも半分ぐらいは口実です(笑)。どこかできちっとインタビューさせていただきたいと思っていました。

飯田 シノドスでは政策提言がある人を、論者を選ぶ際の一つの基準にしています。文芸批評や現代思想なんかが典型ですけれども、結論がないんです。で、結局何すればいいんですかって聞くと、「なんか色々」なんですよね。
やっぱり結論がないとディベートも出来ないし、答も出せない。結論を出して、「それは違う」とか「こうじゃないか」と議論していってこそ答がでるものでしょう。
これまでの論壇における経済学というのは、伝統的に言葉と戯れるというか、知的ゲームをやってるというノリが本当に強かったんです。『日本を変える「知」』(2009年、光文社)にもちょっと書きましたが、これには理由があります。日本の場合は発展途上国、中進国くらいだったこともあり、アメリカ様かイギリス様かドイツ様の横文字を、官僚が一生懸命翻訳すればそれが政策になってしまっていた。そのせいで日本人は最近まで独自の政策を考える必要がなかったんです。で、実際、横のものを縦にしただけの法律、政策立案で突き進んできた。実際それで経済成長もしちゃってる。
このような現実の中で論壇の使命というか、インテリって失われゆく過去を記録しようとか残そうという、前に進む社会に対してこぼれ落ちたものを拾っていくという役割を担ってきた。
しかし、1970年代の末から80年代のはじめには、横のものを縦にすればいい経済環境ではなくなってしまった。にかかわらずインテリは変われなかったわけです。80年代のころの論壇が典型だと思うんですが、まー何いってるか解らない。僕は柄谷行人や岩井克人が大好きでして、読んでると確かに楽しい。でも、そこから何か出るかって言ったら何も出ないんです。論理は緻密ですし、パズルの美しさを楽しむというか芸術品を見ているみたい。しかし、それでは今の論壇は回らない。
論壇に限らず、日本の場合、伝統的に大学では純粋理論をやる。貨幣とは何か、とか考える。で、実際のアメリカ型の経済学は官僚が研究所でやる。具体的には経済企画庁経済研究所だけで行なわれるのが伝統だったんですけど、もうそういう時代ではなくなってしまった。
実際、実証分析は経済学の場合大体データになるんですけれども、データ分析の蓄積が遅れている。よく官僚で海外の論文を出してる人がなにをしているかと言うと、海外でやった研究をデータだけ日本に入れ替えて、「~~~~ in Japan」としている。「in Japan」だけで結構な業績になる。でも学者がみんなそういう仕事をやらないんです。
今やっと30代ぐらいのエコノミストから雰囲気が変わりだしてると思います。政治学の世界もそうだし、社会学の世界もそう。だいぶ風向きが変わっているというか、むしろそれが出来ないんだったら学者って何してる人なんですか、と僕は思います。

沢辺 仰る通りですね。

飯田 日本の場合、一時期学会が実際の知見をやる人は下で、「中世ドイツのなんとか制度」とか役に立たなければ立たないほどいい、みたいな様式美のような世界になっていたんです。
すごいですよ日本って。イギリスの人口の専門家がイギリス本国より多いんじゃないかとか、意味の解らないことが起きてる。
大学が大衆化する中で、大学に求められていることは変わってきたと思うんです。昔は大学は趣味で楽しいことをやってればよかったんです。だけれども、現在のように5~6割が大学に行ってしまう社会だと、大学に普通の子がくるんですよね。当然学問には興味がなく、勤め人になっていく。そういう人たちにとって役に立つ知識を与えられないなら、なんの面目があって授業料もらってるんだろうと思います。

沢辺 本当ですよね。

飯田 僕は、去年の今頃はのんびり大学人として過ごそうと思っていたんですけど、このリフレムーブメント、経済成長、ベーシック・インカムで一気に論壇寄りになってしまいました。
日本って、びっくりするぐらい人間(ひと)がいないんです。政策論といわゆる政策立案指導ができる学者はほとんどいない。はっきり言って僕は研究業績にたいしたものはないんですよ。だけれども、もっと研究業績がある人はすごい理論的なことをやっているので、実際の政策立案指導って出来ない。だから僕ばっかりに仕事が回ってくる。
これは危機的で、はっきり言って、僕は海外、アメリカに行ったら専門家としての仕事があるかどうか怪しい。僕の能力じゃ少なくともメジャーな大学とか、あと財務省やアメリカのFRB(Federal Reserve Bank/連邦準備銀行)のエコノミストになんか絶対なれないです。アメリカだと学者のかなりの割合が政策立案系なので、質もものすごく高いんです。それに比べると日本には人材が全然いない。

●ベーシック・インカムが目指すのは「とりあえず生きられる」保障

沢辺 なるほど。では、本題のベーシック・インカムについて聞かせてください。まず、「ベーシック・インカムとは何か」を確認させてください。

飯田 ベーシック・インカムっていうのは、一つは、取得するために制限をつけないで行なわれる社会給付です。
ベーシック・インカム推進論の中心には二つの核があります。一つがいわゆる左翼運動の中で、社会民主主義的な意味での給付として行なう、というグループ。
もう一つは新自由主義的な考えを持つグループで、政府が公的なものを立てたり、用意するのは必ず無駄が生じる、政府の失敗が起きるから、むしろお金で渡した方がいいんだよというもの。この二つのムーブメントです。
やや特徴があるとすれば、給付額が違うこと。社会的な意味での給付を推進しているグループは15万円程度、一方新自由主義グループは月5~6万円だと主張しています。僕自身は後者に近くてよく7万円と言っています。その根拠は老齢基礎年金が7万円だから。
分類としては僕は新自由主義寄りということになるんでしょうが、新自由主義という言い方は嫌いで、旧自由主義とか自由主義型と呼んで欲しいんです。そのベーシック・インカム論は急場をしのげるとか、ゲタになるっていうのを重要視するんです。たとえば月5万円のベーシック・インカムがあり、さらにアルバイトすればなんとかなるじゃないかと。だからベーシック・インカムだけで生活させるビジョンは少なくとも僕にはないんです。ベーシック・インカムで生活出来てしまったらマジで働かないと思いますもん。
むしろ不幸にも非正規雇用とか、不十分な所得しか得られなくなってしまったときに、労働環境の悪いアルバイトを週に3日すればベーシック・インカムと合わせて生存は出来るぐらいの感じを目指しているんですね。

●生活保護制度はもらいにくい

飯田 現在の生活保護制度は大きな問題を抱えています。その一つが生活保護のスティグマ性です。
本当に困っていても生活保護だけはもらいたくないと思っている人が多い。周りから「あいつは俺たちの税金でズルして暮らしてる人」とみなされ、イジメられるからという感じです。

沢辺 ほー。

飯田 生活保護をうけるためには資力テストが必要です。本当に生活保護が必要かという資格審査というわけ。ただこのテストの基準がものすごく恣意的なんです。自治体によって基準が全然違ったり、あとはなんらかの仲介や後押しがあると楽々クリアなのに、自分一人でいってもなかなか許可されないとか。
この不明確な審査が生活保護受給者への「色眼鏡」の原因でもある。だからこれはもうやめよう。資力調査なしで、ただ配るようにしましょう。ここから導かれる提案が日本国民全員に配るというベーシックインカムなわけです。
実はこれについては、僕自身は最終的には「給付付き税額控除」、「負の所得税」という形が落としどころと考えています。
その理由は、完全なベーシック・インカムだと国経由で動くお金があまりにも大きくなりすぎるから。そんなでかい金を国が扱えるのかな、と。日本国民全員、一億人に年間80万円配るとすると、80兆円。でも、それをやると老齢基礎年金は廃止できます。これでマイナス15兆円。事実上、追加で必要な額は65兆円ですね。それでも、まあ、デカすぎでしょう。一般会計予算の7割規模ですから。

沢辺 消費税でいうと……。消費税って1%あたりの歳入予定額はいくらぐらいでしたっけ。

飯田 1%で2兆円です。65兆円だと約30数%ですね。それはどうしたって無理ですよ。給付付き税額控除にすると、だいぶ必要額が減ります。これは正確な試算が必要ではありますが、高齢者分を除くと10兆円台にはなるんではないかと。

沢辺 今までの話を確認しておくと、飯田さんは自由主義経済のポジションでのベーシック・インカム推進派で、もっと正確に言うと、「給付付き税額控除」、負の所得税というかたちでのベーシック・インカムを推進している。

飯田 そうです。整理すると、ベーシック・インカムが必要なのは、現在の生活保護法式はすでに機能していない。なぜなら生活保護をもらうということ自体に抵抗感もあるし、そこが不平等感を生んでいることによってなおさら生活保護を受けたらおしまいだ、という感覚がある。そういうことを変えるために、とにかく調査をしない形の社会保障給付が必要である、と。

沢辺 社会主義的な、つまり国はすべてを保証しろ的なベーシック・インカム推進派もいるけど……。

飯田 意見はやっぱり、そちらとは違います。でも、協調出来るところは協調しなきゃいけない。

沢辺 それが『経済成長って何で必要なんだろう?』には出ていますよね。飯田さんと湯浅誠(自立生活サポートセンター・もやい事務局長。2008年末から2009年年始に「年越し派遣村」を村長として運営。著書に『反貧困─「すべり台社会」からの脱出』2008年、岩波新書 など)さんとの議論はどうなるのかなと楽しみにしたんですけど、飯田さんはかなり徹底して協調出来るところは上手く協調しようとしてるなと思いました。

飯田 そうなんですよ。

沢辺 「内ゲバ」しててもしょうがないもんね。

飯田 そう。途中まで一緒なら途中までは協力して戦うべきなんです。内藤朝雄(社会学者、明治大学文学部准教授)さんの分析によると、日本の論者というのは、たとえば天皇制反対ならば、太平洋戦争は日本が悪かった、教科書検定も反対で、法人税増税は賛成となる、それ一本なんですよね。そこはまたいじゃいけない。こっちとあっちで線引きをして「お前は敵」と言って喧嘩をする。それが伝統的な日本の論壇のあり方なんですけど、全く馬鹿げていると思います。

沢辺 たとえどんな主張・背景があっても、結果的に政策が実現できればいいと。

飯田 そうです。その視点がなかったので、日本は全然政策立案が進まなかったんじゃないでしょうか。今でも自民党案だから反対、民主党案だから反対みたいなことをやっていますけど、それではいけない。協調出来るところは何でも協調、野合すればいいと思うんですよね。

_MG_7945.JPG

●負の所得税とは

沢辺 で、その負の所得税ですが、現状の所得税には基礎控除とかいろんなことがあるじゃないですか。負の所得税をもうちょっと具体的に言うとどんなイメージですか?

飯田 まず負の所得税方式では控除システムは単純化されます。

沢辺 基礎控除とか社会保険控除とか。

飯田 そう。とにかくその種の複雑な控除システムはやめる。で、年間の所得が、たとえば0円の人に対しては、100万円あげる。税金って普通はとるだけですよね。負の所得税は所得が低い人にはあげる。今想定しているのは、たとえば年収300万円までは何らかの形で税金の割戻しをする。割戻しっていうのは払ってもない税金の割戻しですね。で、年収300万円を超えたあたりから税金を納めるようになる。僕はそういうシステムがいいと思っています。

沢辺 例えば一人100万円で、僕は今年は10万円しか稼げなかったから、90万円貰えると。俺は95万円稼げたんだよって言うと、5万円くれると。でも、もうちょっとそれは段階的にしないと……。

飯田 そうなんです。で、僕が考えているのはこういう図です。

Graph_sai.jpg
*2010.04.19 グラフ修正

飯田 横軸が実収入。縦軸が給付額と実収入を合わせた手取額です。これをどうするかと言いますと……。納める税金もなければ給付もないと仮定すると、実収入と手取りが同じになる。このグラフでいうと下の点線です。負の所得税は、実収入が0円の場合は100万円が給付される。で、実収入が300万円くらいまで段階的に給付がある。これが上の実線。実線と点線の差が給付額となります。

沢辺 なるほど。じゃあたとえば、100万円の実収入があったとしたら……。

飯田 100万円だったら1/3だから33 66万円もらえる、と。

沢辺 満額の100万円までは届かない。でも、実収入の100万+33 66万円給付して貰えるから、働いたほうが得だということですね。

飯田 そう。で、これと子ども手当を組み合わせる。僕は子ども手当はベーシック・インカム型でいいと思うんです。全員に月額2万6,000円の子ども手当と、成人には負の所得税のシステムを導入する。成人全員というのが大変であれば、たとえば25歳以上から支給でもいいでしょう。そうすると15歳~25歳くらいまでは厳しくなるんですけど、まあまあそこは何とかしてくれやと。体力もありますし。
で、そういった形を組み合わせると、たとえば夫婦と子ども一人の3人家族だったら、最低でも230万円の収入があるんですね。それはなんとかなるんじゃないかな、と。つまり、お父さん働いてない、お母さん働いてない、それぞれが100万円ずつもらえて、子どもは子ども手当で計230万円。

沢辺 これは世帯という考え方は一切なく、個人にすると。

飯田 そうです。そのほうがいいですね。
日本の所得税における世帯の考え方には、一般的ではない世帯、たとえば母子家庭であったり、養子をとっていたりすると、急に制度が複雑になってしまうというまずいところがあるんです。で、子ども手当っていうのが一つ光を与えるのは、扶養者に給付するっていう形にすると……。

沢辺 里親になるのでもいいわけだ。

飯田 その通りです。現在はほとんど篤志家によって運営されている子ども施設に、公的なお金が一人当り月額2万6,000円入る。今まではDVにあったり、両親に捨てられたりした子の養護施設はどうしても寄付に依存せざるをえなかった。だけれども、こんなに景気が悪いと大きい額を寄付してくれる篤志家がいない。そのうえ篤志家も年をとって代替わりをし始めてるんですよ。そうすると何が起こるかと言うと、よくあるのが、相続対策のために株式会社にする。すると二代目の社長はサラリーマンの雇われ社長だから、自分の意志だけでお金を使うことはできなくなる。
だから子ども施設はだんだんと篤志家依存から行政のお金で運営する、って形にしないといけない。そうなるとすぐ国立または市町村立の子ども園を作ればいいっていう意見が出るんですけど、そんなことしても、ろくなことにならないと思いますよ。

沢辺 うん。ろくなことにならない。

飯田 県の上級職出身の理事長が来て、市の職員出身の副理事長と事務長がいて、そいつらが年収1,000万円(笑)。その次にその施設の職員の管理に公立保育園からの天下りが来たりと、下手すりゃ働いてる人が半分以下になる。

沢辺 公務員準拠の給料を貰える人が2、3割で、残りは時給900円のアルバイトっていう介護保険状態になるわけですよね。

飯田 で、公務員並み待遇の人は一切仕事をせずっていうね。

沢辺 ひどい世界。

飯田 そうですよね。それだったら自発的に、ビジネスって言うと変な言い方ですけど、NPOとして組織が運営出来るための原資を社会的に与えるのがいいと思うんですよね。やっぱり、これからのキーって「いかに市場の力を正しく使うか」ってことだと思うんですよ。

沢辺 この前、橋爪大三郎さんと竹田青嗣さんが、朝日カルチャーセンターが主催する講演会で「核兵器のない世界平和は可能か」というテーマで対論をやったんですけど、その時出てきたのが社会政策としては動機づけを作らなくてはいけないっていうこと。だから今言われたのはビジネスとして成立しなきゃいけないとか、お金の、市場っていう言い方だったけど、別の言い方すれば、これをやると得するよねとか、インセンティブが必要だ、と。

飯田 コミュニティの問題を考えると、社会参加したいとか町おこしに参加したいっていう現役世代は沢山いるんです。でもそんなことやってたら暮らせないわけじゃないですか。別にがっつりお金が欲しいとは思ってないんですよ。夫婦と子どもの面倒見るぐらいの金は必要で、それ以上はガツガツ稼ぐよりもという人は結構いる。それを満たしてあげられるような、お金が回る仕組みは作ってやらなきゃいけない。現在だと行政からの補助金がほとんどを占めているんですが、行政からの補助金っていうとどうしても使い勝手が悪いんですよね。

沢辺 報告書をいっぱい書かなきゃいけないし、使い方にいちいち縛りがある。

_MG_8035.JPG

●現行の福祉施策とどう折り合いをつけるか

沢辺 では、飯田さんのベーシック・インカムについて、ツッコミをいくつか考えたんですけど、まず、他の福祉施策との連動はどうするのか。

飯田 そう。それが一番難しいんですけども。

沢辺 ひとつひとつ具体的にいきましょう。まず、年金は?

飯田 老齢基礎年金は廃止して、ベーシック・インカム型に一本化します。これで15兆円浮きます。

沢辺 話が少し脇道にそれますが、僕は以前、渋谷区役所で年金課の公務員をやっていました。そのとき年金課の職員が30人くらいいたんですよ。

飯田 あの業務、事務手続きが大変ですよね。

沢辺 公務員が僕も含めて怠けてたっていう説ももちろんあるんだろうけど(笑)、当時の職員の平均年収が500万円だとしたって、1億5,000万円から2億円くらい。渋谷区の当時の住民数は20万人だったんですね。

飯田 けっこうな額かけてますよね(笑)。

沢辺 たぶんそのうち国民年金加入者は数万くらいでしょう。2万人としたら年間1万円。それに対して当時の国民年金保険料は月4,000円くらいで年額で5万円。5万円集めるのに1万円とか5,000円とか使ってたかもしれない。この人件費だけ年金に回した方がよっぽど楽じゃないかって思うんですけどね。

飯田 何よりも年金ってなんのためにあるのかを、みんな見失ってると思うんですよね。年金って老後の生活保障のためにあるんであって、金持ちにも配ってることの意味が分からないんですよ。
たとえばですね、子ども手当の予算は5兆6,000億円です。とんでもない財源になってるんですよね。でも、いわゆる高齢者向けの社会保障給付はだいたい20兆~30兆円。これは高いって言わない。
現在、日本人の平均年齢はだいたい44~45歳と言われています。だからすごい高齢者目線になってしまっている。
僕は「子どもに選挙権を与えよう」とよく言っちゃってます。実際に子どもに選挙権を与えても判断することはできませんが、子どもがいる人には、たとえば夫婦二人で子ども二人だったら、その世帯には選挙権4票にしたらどうかって。これは日本国憲法の原則から言って出来ないんですけれども、僕はそれもいいと思うんですよね。

沢辺 それはつまり、高齢者は自分たちの不利益にならないように投票行動するっていう話ですよね。でも、僕が甘いのかもしれないけど、そんなにひどいのかな?と思います。例えば日本航空だって企業年金の減額に最後は賛成したじゃないですか。僕、ちゃんと年寄りに向かって説明すれば可能性もあると思うし、それから年寄りが意地汚いから若いヤツが困ってるって言われる世の中ってどうよと言う前に、真正面から向かって年寄りに説得した人がいないのがおかしいと思うんですよ。

飯田 そうなんですよ。オバマ大統領は選挙キャンペーンのときに、ネットで大学生にとりあえず実家に行ってお祖父さんとお祖母さんを説得してこい、というキャンペーンをやって、それは大成功をおさめたんですよね。社会保障の再構成なので、高齢者はあまり喜んでいない。だから、それをマスキャンペーンでなんとかするのは不可能だ、と。だから若者はとりあえず、自分の親とじいさんばあさんを直接説得してこい、というキャンペーンです。

沢辺 なるほど。実存を使うわけですね。知らない若者からお金をもらっちゃってるって感覚だと後ろめたさは少ないけど。

飯田 おじいちゃん、僕から税金を持ってってるんです、と。

沢辺 素晴らしいアイデアだね。

飯田 変な話、収入のある日本の高齢者が我慢してくれるだけで、社会保障の危機は劇的に回避できるんですよね。

沢辺 それともうひとつ高齢者も死ぬまで働いてくださいよ、ということもありますよね。

飯田 そうなんですよ。

沢辺 ただし、60歳以上は法定労働は週30時間、70歳を超えたら20時間といった制限は必要だと思うけど。

飯田 そう、そう。実際、60歳定年制が一般化したのは、昭和50年代なんですよね。その頃から比べても平均寿命が10年くらい伸びていますから。たとえば今の60歳代と昔の60歳代は全然ちがうじゃないですか。昭和30年代の60歳代といまの60歳代では何もかも違うんですよ。それを昔ながらの方法で捌いているというのが失敗の元だと思うんです。

沢辺 僕の親父は88歳なんだけど、30歳くらいから小学校の教員をやっていて、60歳で定年して、それから28年間、年金を月25万円ずつもらっているわけですよ。ならせば給料を倍もらっているようなもので、道義的にみてもこれは許されないよな、と思います。

飯田 年金については、積み立てに変更するというのが一番リーズナブルな案なんです。積み立てというのは何かというと、自分が現役世代に払ったものに金利をつけて老後に返してもらうシステム。平均寿命まで生きたら金利分だけ。平均寿命より長生きしたら得で早めに死んだら損、というシステムを作ればいい。いまは若者から集めたお金で年金給付を行なっているんですね。これは賦課方式というものですが、人口成長率がけっこうな数字でなければ維持できないシステムなんです。日本は、完全に維持できないことがわかっているのに、若者からの徴収を増やしてなんとか帳尻を合わせようとしている。これはもう現時点で無理が出てきていて、団塊の世代が65歳を超えたら本当に危機的状況になりますよ。それを改革するという案がどこの党からも出てこない。

沢辺 相変わらず、基礎年金7万円全員保障とかね。

飯田 財源をどうするんだ、と。僕が社会保障について思っているのは、一時的な特例公債、年金国債みたいなものを発行し、それによって年金改革をしてしまう。システム改変のために出す一回限りの国債です。
具体的にどうやるかというと、現在50歳以上までの人は現行の方式を守り、50歳未満の人は自分が払った年金を金利つきで受けとるという形にする。そうすると、人口構成の関係がなくなる。自分が貯めたお金を老後に受け取っているだけなので。
その方針に移行するというのが、唯一日本の社会保障をもたせる原案です。社会保障をもたせるために、子どもが増えればいいといいますが、今日いきなり子どもが増えたとしてもその子たちが主力の納税者になるには30年後。その頃には年金制度は完全に崩壊していますから、そういう無理なことを言うのはやめよう、と。人口の変化と年金・社会保障はリンクしないように、切断されなければいけない、というのが、重要な提言だと思うんです。
学習院大学の鈴木亘(経済学者。学習院大学経済学部教授)さんという方がかなり具体的な数値計算をやられています。こうやって年金について、改革を行なうのが本筋だと思うんですね。人口減少はしょうがない。起きることになっている。なのでそれに対する対策を立てなければならない。

沢辺 ここまでを整理すると、負の所得税にすることによって、現行の基礎年金は廃止していいじゃないかと。それがなくなれば基礎年金にかかわる給付費用なども、現状の所得税のシステムの中に組み込まれて制度のため費用を削減できる。そして、いわゆる厚生年金にあたる職域での年金に関しては、積立方式にすると。

飯田 つまり、厚生年金に関しては払わなかった人は払ってなかったからもらえない。以上、終わり、としたい。その上で、最終的にはその役割は民営化すべきだと思っていますが、当面は国がやるっていうのも一手でしょう。

沢辺 医療保険、厚生年金は若い人ほど厚生年金に入ると掛け金が増えるんですよね。

飯田 そう。社会保険に支払う額が何によって決まっているかというと、単純に言えば、いまいくら高齢者に払わなければいけないか、という基準で決まっていて、納税者の経済能力があんまり関係なくなっちゃっているんですね。これは是正していかなければいけない。自分で掛け金をかけて、貯金と同じですよね。強制貯金という方式にすればいい。老齢基礎年金の7万円の部分はベーシック・インカム型。年寄りになって、大家だったり、配当収入があったりする人は、「基礎年金はご遠慮ください。だってあなたたち金持ちなんだもん」という形にしていくことができればいい。

沢辺 健康保険についてはどうですか? これは単独の制度で残しておくということでいいのかな。

飯田 そうです。日本の健康保険はきわめて優秀なシステムで、一人あたりの国民医療費の負担額は、公的負担も含めて先進国の中で最低なんです。なぜかというと、早期発見早期治療ができるので、逆にお金もかからない。逆にアメリカは、一人当たりの国民医療費が先進国中トップなんです。それは多少体調が悪くてもぎりぎりまでがまんするから。病院に行くときには重病なんです。
じゃあ、その最低限の医療支出で、パフォーマンスがどうかといえば、世界でいちばんの長寿国なわけです。もちろん日本や韓国は食べ物の影響もあるらしいですが、それにしても優秀です。これは維持しなければいけない。
そういう意味でいうと、いわゆる社会保険のなかで医療と介護については切り離し、別の制度にする。

沢辺 日本の医者の給料がアメリカより断然安いという説もあるけどね(笑)。では、各種福祉手当てに関してはどう考えておられますか?

飯田 障害者手当てと母子加算だけは維持すべきだと思います。場合によっては、母子家庭は子ども手当てを増やしてもいいと思う。
たとえば子ども手当てを2倍にする。親がベーシック・インカムで月7万円。子ども手当てを倍額支給で5万2,000円(2万6,000円×2)で12万2,000円ですね。現行の生活保護より少し減るけど、そのかわり、母子家庭であるというだけでもらえる。そこから働きに出てもいいし。今の生活保護の厳しさは、働いちゃうと支給されなくなってしまうという恐怖があるわけですが、それがないわけですよね。

沢辺 生活保護は、月に10万円稼いだとしたら、その10万円分の支給が減るわけですよね。

飯田 つまりは、働いても働かなくてもおんなじですよね、それだと、ゲタの部分がない。

沢辺 だから100万円稼ぐことができても、ベーシック・インカムとして33万円をさらにもらえるようにしよう、ということですよね。

飯田 障害手当ては残し、母子加算は子ども手当てのほうにのっけたほうがいいのではないか、と思います。

沢辺 簡素化するためにね。

飯田 そうです。制度は簡単なら簡単なほど運用できるんです。複雑になれば複雑になるほど元の意図とは違うものができあがっていくんですよね。

_MG_7947.JPG

●日本の財政改革の本丸は相続税

沢辺 では次に、それらを実現するための財源について、飯田さんはどのようにお考えですか?

飯田 財源は、相続税を一律20%に上げる。控除をつけない。これで8兆円出てきます。将来的には死ぬ人が増えるので10兆円出てくることになるでしょう。さらに景気回復で5年で10兆円。所得税の累進をもとに戻すことでだいたい3兆円出てきます。それでどうしても足りないなら消費税を5%上げれば10兆円出てきます。これで十分です。
実をいうと、僕は、日本の財政改革の本丸は相続税だと思っているんですね。相続税をあげると日本が崩壊する、みたいな言い方がよくなされるのですが、これはまったく間違っている。いわば、1,000万円の財産を200万円で買う権利を一生に一回もらえる、これはすばらしいお得な話じゃないかと。さらにいえば、1,000万円の土地を担保にして200万円貸してくださいと銀行に言えば、もう二つ返事ではいよ、と貸してくれますよ。相続税があると土地を売らざるをえなくなるというのはウソなんですね。
ちなみに相続財産のうち不動産の部分は、日本の場合相続税路線価で決めているので、実質より安いんですよ。それに2割かけるというだけで、みんな反対する。それはおかしい。なんでそんなに金持ちを優遇しなければいけないんですか。

沢辺 生まれの差を……

飯田 なんとか維持しようということですよね。リバタリアンという無政府主義に近い自由主義があるんですが、その代表である一橋大学の森村進(法学者。一橋大学教授。著書に『自由はどこまで可能か─リバタリアニズム入門』、2001年、講談社現代新書 など)先生は、相続税は100%にすべきだ、と言ってます。理論上はその通り。相続税というのは、決して自由主義に抵触しない。個人が稼いだお金は個人のもの。死んじゃったら人間じゃなくなるんだから、その人の財産をなぜ子孫が継ぐことになっているのかわからんわけです。第一にその人が稼げたのは、日本のおかげであり、社会のおかげであり、あとは運でしょう。僕は過激派ではないので、相続税100%とは言いませんが、そのうち20%を国に納入してください、と。その上でたとえば1億円を超えたら30%とかね。それだけで8兆から10兆円出てくるという事実を、もうちょっとみんな考えてくれよと思うんです。
上手に遺産分割をすれば1億近い財産をほぼ無税で相続できてしまったりする。これはもう許されざることだと思いますよ。生まれによって、宝くじ一回分くらい差別をつけられたうえで闘えといわれているようなものですよ。一流大卒と高卒で生涯賃金で1億円の差はつかないですから。いまは、親が金持ちかどうかだけでほぼ人生決まっちゃってる。
また、僕は子ども手当についての討論会に出席したとき、所得制限反対だと言いました。なぜならば同じ所得300万円でも、たとえば継げる家がある年収300万円は悠々自適かもしれない。そのいっぽうで継げる家がまったくない、相続財産ゼロであることがわかっている年収300万円はカツカツですよ。だからもう所得で切るのはやめよう、と。所得で切るのはベーシック・インカムのところだけでいいじゃないか。そんな話をしました。相続税が一番期待できる財源だと思います。

●法人税はいびつな税制だ

飯田 逆に、僕は法人税については減税派です。

沢辺 へェ~。でも諸外国も法人税そのものはあるじゃないですか。

飯田 諸外国は、法人税を残さざるを得ない理由をわかってる。それは、法人税は脱税が難しいので取りやすいからという理由です。
法人税の存在は、あくまで徴税上の利便性、と言い方をしますけど、楽だから法人税があるんですよ。本当はやめたいんです。ですから、国民背番号制を導入して、あるいは租税の捕捉効率がよくなるに従って下げていきたいという大前提がある。いまは法人税を取ってますが、これは本当は取りたくないけれどもしょうがないから取っているんですよ、という前提で話がすすんでいるので、たとえば技術がよくなったり、徴税効率がよくなればいつでも下げる準備ができている。

沢辺 ご存知だと思うけど、会社をやっていると利益が出ますよね。その配分の際、従業員への決算賞与なら法人税の課税対象からはずされるけれども、役員への賞与だと課税対象なんですよね。確かにお手盛りという可能性がある。それで抑止するのはわかるけど、お手盛り抑止の基本は役員給料の公開だろう、と思うんです。
それから株主配当。特に日本の中小企業の配当ってものすごくインチキになっている。

飯田 法人税は二重に課税してることになるんですよね。法人税をとって配当されて配当所得に課税されるっておかしい。

沢辺 いびつだよね。
情報公開とからめて社会的に監視されるというところでやるべきで、税務署にがたがたいわれるのは変だと思います。僕たちは税務署のために帳簿をつけてるんじゃなくて、自分たちのためにつけているんだから。

飯田 次に、消費税について言うと、理論上、消費税はそんなにいい税金じゃないんですよ。ですが、消費税は、システムがシンプルだという、ものすごいいい魅力がある。所得税だと、ごまかしているんじゃないか、とかあるので、なんとなく好かれるのは消費税。

沢辺 細かい話で恐縮だけど、所得税には消費税がかからないから、業種による労働分配率の差によって実質消費税負担って違うんですよね。

飯田 それを防ぐために厳密な付加価値税方式にすべきなんですけどね。そういうわけで理論を重んじる人は消費税を嫌うんですよ。ただ実務肌の学者は消費税を推す。それは消費税の捕捉のラクさを知ってるから。

沢辺 付加価値総額から5パーセント、だから一番簡単な計算だよね。

●まずグランドデザインを描くべき

飯田 でかい話になりますけど、日本はまず社会保障システムと税システムの理想のデザインを、有識者が膝を寄せ合ってで一年かけてつくったらいいのではないかと思います。それに向かって前進的にシステムを改革していく。いままで日本は改革の際に、グランドデザインを描かないで一つひとつ場当たり的にやってきた。これはひどい話です。社会保障、財政再建まで含めた税制改革、財政社会保障大綱を数値で作って、じゃあそれに向かって国債発行がいくら必要になるのか、とデザインをしなきゃいけないのに、なんでかそこにすごく政治の介入があり、たとえば社会保険庁の仕事がなくなるようなのはだめだとか、本当に八方塞がりになってしまっている。
政治主導をやりたければ政治側がグランドデザインを描いてしまえばいいんですね。一つずつ細かいところばっかりやろうとしたら、それは実務の人は抵抗しますよ。
また、税制について僕が思うのは、とにかく日本の税制は難しすぎるということ。これは税理士さんには申し訳ないんですが、税理士はないに越したことはない職業だと思うんです。なぜなら、税金が誰にでも理解できるくらい簡潔だったらば、税理士という役割は存在しないはずなんですね。そこに、会計の知識もあるビジネスが出来る人が税理士という仕事に投下されている、これは世界的な資源の無駄なんです。税理士が最小限になる社会を目指して税制を変えなければならない。

とにかく現在の日本の財政は危機的であり、社会保障に至っては、危機的の向こう、もう事実上だめというところまできているわけですから、いつかはやらなきゃならない。もう先送りできないです。
改革はここ5年が山場だと僕は言っていますが、それには理由がありまして、ひとつは日本最大の人口コーホートである、団塊の世代が年金になだれ込んだら、もうもたないから、です。
もうひとつは世論形成の話で、団塊の世代の次のこぶは団塊ジュニア世代、70年から75年生まれですね。僕が、団塊ジュニア末尾なんですけど、この世代が年をとって逃げ切りたくなってきはじめたら、もう何も変えられないですよ。団塊ジュニア以降、ほんとに子どもの数が減っていくので、僕がいま35歳、いちばん上の世代は41、2歳です。
この人たちが40歳代後半になったら、そろそろシステム改革をいやがりはじめるんですよ。自分の世代までは逃げ切れるんじゃないか、と。こうなっちゃったらもう何もできなくなるので、団塊ジュニア世代が40歳代後半になるまでに改革できなければ日本はアウトだと思うんです。
人間って50歳を境にけっこう保守化するんで、特にサラリーマンだったりすると、このままダラっとなんとなく老後まで行こうというノリになってきちゃったら、政治的に通らない。
団塊ジュニアが若くて改革しなければやばいという意識をもっているうちに改革してほしい。だからタイミングはあと5年です。

沢辺 そこには個人的に二点異論があります。
ひとつはグランドデザインの必要性はよくわかるんですが、とはいえ、グランドデザインを認めろといっても、現実的には複数のグランドデザインが並立するわけだから、あんまりそこは原理的にならなくてもいいんじゃないか、ということ。
もうひとつは社会に対する甘い夢なのかもしれないですが、僕も、おやじやおふくろに「60歳すぎても働けよ」と言い続けてきたんだけど、実際にはいやで働かなかった。だから説得できないということも確かにわかるんだけど、いっぽうでは、でも人間そんなに捨てたもんじゃないから、自分たちが逃げ切れればいいやとほんとうに思えますか?というと、そこにはもうちょっと期待感はある。

飯田 そこがすごくむずかしいのは、なぜか人間って自分にとって得な言説を支持してしまう傾向があるんですね。あんた逃げ切りですよ、とちゃんと説得できたら社会は変えられると思うんですが、必ずそこで、いや飯田が出しているグランドデザインは実はこういう問題もあって確実なものではないんだ、みたいな言い逃れを供給されるんですね。そのときその言い逃れに勝つ力があるかどうかについては、けっこう僕は悲観派なので、なるべく早いうちにと思うんです。

沢辺 なんでそんな話をしたかというと、とはいえ、これらは大きな実験だと思うから。もしも飯田さんの描くグランドデザインが大間違いだったとしたら、後戻りするのはたいへんなものですね。だからもうちょっと国レベルで、仮説→実験の過程をしていったらいいんじゃないかと思う。いまの議論って、みんなこれで絶対解決するという保障を出さなければならないというふうになっていて、1ミリも動けなくなっている。

飯田 それについては中島岳志(北海道大学公共政策大学院准教授)という人が面白いことを言っています。いわゆる仮説実験でだめだったら後戻りする、それが正しい意味での保守主義。僕もその意味において保守主義者なので、グランドデザイン一発で全部一気に改革というのはいやで、ある程度の目標をもちながら、一つずつ変えていくべきだと思う。僕が子ども手当に賛成しているのは、とりあえずやってみようよ、と。だめだったらなんとかもとにもどろうよ、という意味での賛成です。

沢辺 僕は飯田さんの言う、負の所得税のようなグランドデザインの上に、仮説→実験の過程でここは撤退する、という部分を入れたほうがいいと思う。現状は正しさだけが議論されてしまっているように思います。

●経済成長は大手術のための麻酔だ

飯田 まったくそのとおりで、年金改革にしたって、年齢ごとにステップを変えていくという鈴木亘さんの説もそうなんですが、それだと後戻りできるといえばできる。
税制については、将来増税が必要なのは間違いない。最近の僕のテーマである「経済成長には2%の持続的な成長が必要」な理由は、多少ほころびが出ても2%成長していれば動けるから。2%成長は先進各国どこの国でも達成しているので出来ない相談じゃないだろう、と。2%成長プラス、2%インフレ、4%成長だと、栄養ドリンク飲みながら、改革が行なえる状態。なんでも改革を行ないながら、一回か二回失敗して後戻りしてもちゃんと財源がもつ。
勝間和代さんが最近好んで「デフレ対策は日本の問題解決のボーリングの一番ピン」だという言い方をしていますね。これはなかなか示唆的です。景気回復そのものが最終目的ではない。景気回復したっていろいろ解決しない問題だらけ。でも、それはそうなんですけれども、少なくとも景気回復しなければ別のことを考えられないでしょというわけです。

沢辺 いまおなかが痛いんだよ、ということですよね。

飯田 そう。とりあえず麻酔打ってから考えようぜっていう話で。
石橋湛山(ジャーナリスト、政治家。第55代内閣総理大臣)が昔、「根本主義者の誤り」というきわめてすぐれた小論文を書いてます。昭和恐慌のときに、日本経済は根本的に変えなきゃいけないという論に対して、そうかもしれない、だけど根本問題の治癒はたぶん無理だよ、なんとかだましだましで、根本問題によって生じる問題を緩和しながら、やれる改革はやったらどうだ、と。だから石橋湛山は常に景気拡大論者なんですよね。景気が拡大していると、根本問題から上手に目をそらしながら改革ができる。僕が「景気回復はできる、経済成長でふっとばせ」というと、よく「根本的な問題から目をそらしている」と言われるんですね。その通りなんです。根本問題から上手に目をそらせるくらいにしとかないと、根本問題は解決しないと思うんですね。逆説的なんですけれど。

沢辺 そうだね。僕の大好きな竹田青嗣さんの言い方でいえば、あらかじめ理念を先におく思想は間違っている、ということかな。僕の理解だけど、たかが人間ごときがこういうふうにすれば社会はすべてうまくいくなどという理念をつくれるわけじゃない。我々は「去年やったあれは成功したね」と事後的に妥当性を確認している。
彼は在日朝鮮人なんだけど、在日朝鮮人の民族のアイデンティティを守ろうというのも、理念を先に置いているという意味で批判している。もっと言えば、マルクス主義とか、これをすることによってすべて解決だよというものへの根底的な批判だと思うんだけど。

_MG_7987.JPG

●まずは相続税の増税と、法人税の減税

飯田 そういった理念的なグランドデザインに比べて、税制を変えるグランドデザインは、だいぶちっちゃい具体的な話なんですよね。
税制の中でいまやれることはなにかというと、いま景気が悪いじゃないですか、だから景気をディプレスするような税制改革は待つべきです。
そして景気に対して影響がない改革といったら、相続税の改革なんです。なぜなら相続税があがると、生前に使おうとか、消費が加速するんですよね。景気に対してプラスな増税なんです。
あともうひとつ、これは冗談ですけど、鳩山政権だからこそ相続増税ってできると思いますよ。日本屈指の額の相続税を払うことになりそうな人が相続税改革をする、と(笑)。その意味で第一歩は相続税ですね。

沢辺 鳩山さんがやれば「相続への怨念」とか「ねたみ」とは思われない。

飯田 そうそう、僕がやったらたぶん怨念になっちゃう(笑)。

沢辺 親からお金をもらっているという現在の批判にも有効だよね。ごめんなさい! 相続税改革します! 最高税率40%です、と。

飯田 相続税でおさめさせていただきます。とにかくへんな控除はなくします、と。拍手喝采だと思います。
続いて、法人減税だと思っています。各国は、あくまで徴税上の利便性によるものなんだと意識したうえでの法人税。日本みたいに大企業が儲けてけしからんからといって税金をとる法人税とは根本発想が違う。
僕もやりますけど、みんなで啓蒙していきたいのが、法人税はおかしい税なんだよ、と。しょうがないからやってるんで、できれば減らしていきたいというビジョンです。
最近、シンガポール政府は日本企業の誘致に乗り出し始めているそうです。「法人税が安いので本社を日本からシンガポールに移しませんか」という具合です。それにのっかる企業がどんどん出始めたら、日本はなんだかわからない国になってしまいます。日本企業なのに本社は全部シンガポール。さすがにナショナルフラッグ、トヨタやパナソニックなどは基盤が大きくてできないでしょうけど、中堅企業はやるところがいつか出ると思いますよ。従業員2~300人で顧客が海外という企業は、別に本社が日本にある必要はないかもしれない。この流れを押しとどめるためにも法人税は引き下げないといけない。いきなり下げるのはなしなんですが、なぜ法人税を取るのかについてしっかりした認識が必要。
もうひとつ、実は法人税って税収面で非常に欠陥を抱えている。なぜかというと、利益がでなかったら法人税はゼロですよね。そうすると、景気によって税収がとんでもなくぶれるので怖い。やっぱり安定的な財政を行なうためには、安定的な財源が必要なのに、こんなに景気に動くのをあてにして財政運営していたら危険といえば危険なんですよ。

沢辺 人間は、所得は一定程度ないと暮らしていけないけどね。現に鳩山政権だって、こんだけ苦しんでるのは法人税がすっとんでいるからですよね。

飯田 直近のピーク、2000年代頭からいえば、10兆くらい下がっているはずですね。

沢辺 じゃあ、最後に。よく言われるんですが、モラルハザード問題をどう考えられますか?

飯田 モラルハザードについては非常に大きな誤解があります。もともとモラルハザードとは、契約後に観察立証できないことによって生じる問題のことを指すんですね。
でも、たとえば社会保障のモラルハザードといったときに例としてあげられるのは、生活保護を一回もらっちゃえば、決して生活保護をはずされることはないので、裏でバイトしちゃう、とか。それはモラルハザードとは呼べるのですけれども、この場合、一回あげちゃっているので、正確な意味でモラルハザードは起きない。
生活保護制度に関して考えられるモラルハザードは、お金を持ったら働かなくなるんじゃないの、という、社会保障中毒みたいな話です。それが、ベーシック・インカムの額を7万円、もしくはもうちょっと低いくらいに押さえろ、と僕が主張する理由のひとつなんですね。
いくらなんでも7万円もらったらもう仕事はしない、という人はいないんじゃないかな、というのが僕のモラルハザード論への答です。

沢辺 つまりモラルハザードは起こりうる、と。ただしそれは金額のたかや働いた分だけタダになっちゃうとかっていうシステムの問題に予防策がひそんでいるんじゃないかということですよね。

飯田 そうですね。ですからモラルハザードに考慮したベーシック・インカム論の推進派には5万円という人が多いんですね。

沢辺 もうひとつ、さっきちらっと出たんだけど、社会保障システムと税システムの改革に、国民総背番号制は密接不可分ですよね。

飯田 完全不可分です。やるべきことは、税制番号、相続税、あと法人税についての将来の道筋。これは正しくない税金だということをわからせる。そこから順次進んでいくのが一番いいのかなと思っていて、この中で一番政治的な実現ハードルが低いのがまずは国民総背番号制ですね。相続税は政治のハードルが異様に高いんですよ。だけれどもこれはやるしかないんだよ、ということをわからせたほうがいい。よく相続税をあげると海外に資産が逃げるというんですけど、それはあり得ない。なぜならば日本の場合、ほとんどの相続財産は不動産なんです。渋谷区の不動産をもってアメリカに逃げることはできない(笑)。それはもともと杞憂なんですよね。

沢辺 ところで、いま地方税すら、2009年の1月1日から12月31日までのものを翌年3月に計算して、5月くらいからの徴収になってますよね。これに国民健康保険が連動しているわけです。でも、失業したときにベーシック・インカムがもらえるというふうにすると、これは即払われないとだめですよね。

飯田 つまり即払われなければならないというのは、前年度の税額計算で給付付き税額控除だと問題だ、と。そこはなかなかむずかしいんですが、失業した場合は自己申告するという手があると思うんですね。自己申告して仮給付。そして働いてたら、年度の終わりに年度末調整をする。あれを全国的にやる。
なかなか制度ってむずかしいんですよね。たとえば飲食店で働いてるフリーターで源泉徴収の10%を取り戻している人ってほんと少ないんですよ。全然制度をわかってない。そう考えると理想はベーシック・インカムなんですけどね。だけどそれだと動く額がでかすぎてどうやって達成していいかわかんないという大問題があるので、そういう意味でいうと折衷案が給付付き税額控除。それでいけるんだったら徐々に純粋ベーシック・インカムっていうのが手だと僕は思います。(了)

2010-03-25

談話室沢辺 ゲスト:石川輝吉 若き哲学者が考える、今を生きるための「哲学」とは

◎「ひとそれぞれ」の中にある普遍性を取り出す
──若き哲学者が考える、いまを生きるための「哲学」とは

先頃『カント 信じるための哲学──「わたし」から「世界」を考える』(NHKBOOKS、2009年6月)というはじめての単著を出版した哲学者、石川輝吉さん。
著書は、若者がよく口にする「ひとそれぞれ」というキーワードを軸に、現象学的にカントを読み解いていったものだ。
「ひとそれぞれ」から出発した若者たちは、この「困難なき時代」にどう向き合っているのか。哲学という学問と、いまを生きる若者の「困難」をどうきり結んでいくか。
学生時代に竹田青嗣氏、そして哲学と出会った石川さんは、竹田哲学を継承しつつ、次の時代の哲学をどう切り開こうとしているのだろうか。
(このインタビューは、2010年1月6日に収録しました)

プロフィール

●石川輝吉(いしかわてるきち)
1971年、静岡県生まれ。英国エジンバラ大学哲学部修士課程修了。明治学院大学国際学研究科博士後期課程修了。現在、桜美林大学非常勤講師、和光大学オープンカレッジ「ぱいでいあ」講師。
共著に『はじめての哲学史』(有斐閣)『知識ゼロからの哲学入門』(幻冬舎)

2010年春からは、朝日カルチャーセンター新宿教室で「哲学ゼミナール──『悩み』のかたちを探る」の講義授業「ぱいでいあ」ではハイデガーの『存在と時間』の講読授業を行う予定。

terukichi_1.jpg

●「本物の哲学がここにある!」竹田哲学との出会い

沢辺 何年生まれですか?

石川 1971年です。

沢辺 どこで生まれたんですか?

石川 静岡県の島田市というところです。当時は人口7万人ぐらいの市だったと思います。地方の市としては中くらいですかね。

沢辺 島田事件という有名な冤罪事件があったところですね。

石川 そうです。

沢辺 犯人はたしか、赤松……

石川 赤堀さん。

沢辺 ああ、赤堀だ。

石川 「赤堀さんは無実だ!」というポスターがよく町に貼ってありました。小学生の頃は意味もわからずにみんなで「赤堀さんは無実だ!」と叫んでいました(笑)。

沢辺 ところでどういう青年だったんですか?

石川 ちょっと引きこもりぎみの青年で、学校へ行かずに家にこもっていて、ヘッドフォンで音楽聞いてたり、近くの大井川の河原に行って、本読んでたりしてました。
河原で本を読んでいると、陽が強いもんだから目が痛くなって、家に帰ろうと思ったら、河川敷に置いてあった自分の自転車がなくなっていたんですね。「あー自転車がない。ああやっぱり僕は世界から疎外されてるんだ」と半分かっこつけて家に帰ったら、家に自転車が届いてたんですよね(笑)。近所のおじさんが、河川敷で僕の自転車を見つけて、僕は学校行ってるはずだから、これは盗まれたんだって思って、親切に家に届けてくれてたんです(笑)。そんな、まあすごくいいところに住んでました。でもその頃は田舎が嫌いで東京に出ようと思ってた。「田舎には文化がない!」なんてかっこうつけたことをよく言ってましたね(笑)。大学で東京に出てきました。

沢辺 高校はどこ?

石川 島田高校です。地元の中堅進学校ですかね。

沢辺 大学は?

石川 早稲田大学に入りました。

沢辺 その当時は、竹田青嗣(哲学者。早稲田大学大学院教授)さんはまだ早稲田で教えてないよね。まだ明学(明治学院大学)だったよね。

石川 そうです。哲学との出会いは、大学に入ってからです。周りの連中が頭がよさそうに見えて、じゃあ思想とか哲学とかやってみようと思ったんですね。ただ、いきなりむずかしい本に入るのはよくないと思って、ちくまライブラリー(現在はちくま学芸文庫)の竹田青嗣さんの『自分を知るための哲学入門』を読んだんです。
僕、田舎の優等生だったんですね。その当時僕がどう考えていたかというと、どうしてみんなは僕のように真面目にならないんだろうかと、強く思ってて(笑)。周りの人達に、「おまえら僕のようにちゃんとやるように!」と学級委員的な人間だったんです。

沢辺 嫌なやつだね(笑)

石川 そうです(笑)。非常にいやなやつで。乱暴な言い方とかして。そうすると全然周りがついてこない。でも自分にその理由がわからなかった。このことに悩んでから引きこもりがちになっていきましたね。いま考えればそんなやつ相手にされないのはあたりまえなんですけど(笑)。
自分の中に強く持っていた「これが本当の生き方だ!」と強く思っていたものが、自分を逆に苦しめてたんだなーということが、『自分を知る哲学入門』を読んだら、よくわかった。
竹田さんの若い頃の革命とか正義への感応の仕方──そういった感じがすごく共有できたんですね。僕には社会を変えようといったような思いはなかったんだけど、これが正しい生き方だと縛られていたものがほのけた。そのあと、竹田さんの本を読みあさっていったんですね。動機はただかっこつけたかっただけなのに、けっこうのめりこんでしまいましたね。

沢辺 『自分を知る哲学入門』を読んで、偶然竹田さんを知って、竹田さんがいいなあと思ったの?

石川 当時、大学の授業とかはほとんど出席せずに本を読んだり、ビデオ観たりとかぶらぶらしてたんですよ。怪獣ものも好きで、切通理作さんの『怪獣使いと少年』(宝島社文庫)という本を読んだんですね。そこにね「面白いと思った人がいたら、会ったほうがいい、とある先生に言われて、自分はいろんな人にインタビューをしたりとか、ミニコミをつくったりして、物書きになった」というようなことが書いてあって、僕、当時、将来どうなるんだろうと不安だったので、じゃあ将来どうなるかはわからんけどとにかく興味ある人に会ってみようと思って、竹田青嗣さんに会いにいったんです。

沢辺 へえー。

石川 東京にはカルチャーセンターがたくさんあって、竹田さんも教えていたので、まずはそこに行きました。講義が終わったあとに竹田さんが「みなさんコーヒーでも飲みませんか?」とみんなを誘ってくれるんです。そうすると昔からカルチャーに通っている重鎮の方々が「きみら若いんだから、先生とお話してごらん」と言ってくれたりして、「わたくし、先生の本を読んで感動しました」と話したりして。当時はなんか芸能人というかスターにはじめて会ったみたいに緊張しました(笑)。あとでカラオケに行ったらほんとにスターだったんですけど(笑)。(注:竹田青嗣氏は歌の名手としてもしられている。ここ数年は年に一度のペースでワンマンリサイタルも行っている)

大学2、3年の頃は、赤瀬川原平さんとかみうらじゅんさんの講演にもよく行きました。本を読んで面白いひとがいればとにかくナマで見てみよう、と。それに、最後に話できる機会がないかなあとか。気持ち悪いですけど。それで、町田でみうらさんの講演に行ったときに、帰りの電車でたまたま、みうらさんやいとうせいこうさんと一緒になったんですよね。僕、当時美術とかにも興味があって、仏像を主人公にした版画を彫っていこう、とかそんなよくわからないアーチスト志向みたいなのもあって(笑)。それで、自分で作った版画をその時ちょうど持っていたんですね。で「みうらさん、これつくったんです」って、いきなり危ないやつみたいに電車の中で渡したら、みうらさんはその版画を見て「あーばかだなあ」と言ってくれた。いとうさんは「こいつは危ないやつじゃないか」ってちょっと引いてて(笑)。当然ですけど(笑)。

それで、みうさらんには、竹田青嗣さんの弟子になって数年後、高円寺でやってた小さなサイン会で、また言葉を交わす機会があったんです。そのとき、あのときの版画をいきなり渡した危ないヤツ覚えてますか? と聞いたら、「あー、覚えてる、覚えてる。危なかった。で、病気治った?」と聞かれたんですよ。そのときぼくは、「えー、まあ」としか答えられなかった。ほんとはなにかかっこよく答えたかったんですけど。いまになって考えてみると、ぼくがやってる哲学というのは、ずっと、あの青春時代のノイローゼの治療をやってるみたいなもんです。

沢辺 僕らの頃は、いきなり大学にしのびこむとか、研究室に行くとかしかなくて、もっとハードルが高かった。80年代後半には、浅羽道明さんの『ニセ学生マニュアル』(徳間書店)なんかも流行ったしね。そういうふうに潜り込んでという方法論しかなかったけど、朝カルみたいな装置があるというのは、いいよね。お金さえ払えば誰でも入れるわけだから。そこで竹田さんと会える。

石川 そうですね。ワンクッションあってよかったです。

沢辺 じゃあ、それから竹田さんが来てもいいよと言って、明学の竹田ゼミに潜り込んだりして、それで大学院は明学に行ったわけですか。

石川 そうです。

沢辺 早稲田の大学院にはなぜ残らなかったの?

石川 お世話になった先生もいたんですけど、その先生の言っていることは、「山を見たら自然が話しかけてくる」、自然を大切に、みたいな話に当時の僕には聞こえた。人間関係はけっこう良好で、いろいろお世話にもなったんですけど、心の底では、全然考えがあわないなーと思っていたし、ずらりといた先輩方のほとんどをおっかないと思っていました。やなヤツですね。いまはちがう考えもできると思うんですけど、当時は、この人たちはダメな哲学をやってる、なんて生意気に思ってて、興味なかったです。

沢辺 やっぱ竹田さんは本物だと。

石川 ええ、本物の哲学がここにある、と(笑)。それに、学者じゃなく物書き、というか、そういうスタンスも好きでしたね。なんかロックっぽいというか(笑)。

沢辺 竹田さんがいたから明学に行きたかった、と。竹田さんは明学の院で教えてたの?

石川 僕と金泰明(キムテミョン:現在、大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター教授、専攻は人権学。著書に『欲望としての他者救済』NHKBOOKS、など)さんが竹田さんのはじめての院生だったんです。大学院の授業を竹田さんが持つことになった、ちょうどいい時期に入ることができたんです。

沢辺 泰明(テミョン)さんって年は俺と同じくらいでしょう?

石川 いま58歳くらいかな 。(注:金泰明氏は1952年生まれ)

沢辺 じゃあ俺より5歳上だ。

●イギリスでは、学問としての「哲学」が、ひとびとの日常から遠い

沢辺 明学の院では、将来どんなことをしようと思ってたんですか?

石川 その頃はもう勉強勉強で。もちろん大学の先生になれたらいいなとか、物書きになってみたい、とかありましたけど、これっていうのはあんまりなかったんです。夢いっぱいという気持ちがあるいっぽうで、全然哲学の本も読めないし、満足のいくようなものも書けなかったし、レジュメも全然書けなかった。
泰明(テミョン)さんは、在日韓国人政治犯を救援する活動を長くやり、人権問題をずっと考えてきた方なので、俺はああいう場面にいた、こういう場面にいた、ああいう救援運動をやった、というのを聞くと、立派だなあ、俺だめだなあとコンプレックスが強かったですね。自分は、ただ好きで哲学をやってるだけなのかなあ、立派な理由が見あたらないなあと悩んでましたね。

沢辺 時代的なこともあるよね。いまはたいした苦労もしないでのほほんと大人になれるしね。
いまね、若者は、相変わらず困難探しをしている傾向があるような気がするんです。
例えば派遣切りとか格差問題、ロストジェネレーションとか。以前、「論座」(朝日新聞出版社、現在は休刊)で「希望は戦争だ」と書いた赤城智弘さんとか、若い世代の書き手も相変わらず、自分たちはすごく困難だということを探している。
でも石川くんは、「困難がないことが、ぼくらの困難だ」といったん引き受けている。そこが、僕が、石川くんがいいなあと思うところなんだよね。
まあこのあたりのことはあとでゆっくり聞きましょう。
浪人はしなかったの?

石川 現役で受かった大学もあったんですけど、実家に引きこもっちゃって大学行けなくなって2年間引きこもってました。うまくいかなさがずっとあって、俺ダメなんじゃないかと思って、外に踏み出せなかった。俺は正しい、世の中が間違っているというのをずっと持ってて、それがなかなか抜けなかった。

沢辺 じゃあ2年浪人して、早稲田に行って、4年いて、明学に行った、と。

石川 はい。

沢辺 明学には何年いたの?

石川 2年いました。そのあと、師匠(竹田さん)がイギリスに行くことになって、そのとき師匠が「おまえ留学しろ」と。「箔をつけてこい」と言われて、たいした動機もなく、師匠に言われたのでという感じで、イギリスに留学しました。師匠の勧めを疑わず、「はい」と言って実行するのが弟子なんです(笑)。

沢辺 イギリスには何年いたんですか?

石川 2年半ですね。

沢辺 どうでしたか、向こうの哲学は。

石川 ぼくの感想で言えば、あまりいいとは思いませんでしたねえ。日本のほうが水準が高いと思いました。
イギリスは、日本と違って、大学で勉強する人と一般の人の差がかなりあるんだなと感じました。日本では昔から文芸批評の伝統がありますよね、小林秀雄、吉本隆明、江藤淳、竹田青嗣、加藤典洋、柄谷行人、浅田彰、中沢新一、東浩紀、小浜逸郎、小坂修平……、そういう層がないんです、イギリスには。哲学に関していえば、いきなり勉強しましょう、になっていた。一般と大学の間を埋めるようなサブカルチャーというような層が全然なくて、ああ、考えることって大学に限られてるのかなあと思いました。哲学は大学の中だけなのかなあ、と。
もうひとつは、イギリスでは分析哲学が主流なんです。分析哲学とは、言葉を厳密に使えば、正しくまちがいのないことが言える、真理が言える、ざっくばらんに言うと、そういう哲学です。ちなみに、一方で、哲学は想像力だ、言葉にはいろいろ使い方があり、なんとでも言える、というのも流行っていました。簡単に言うと、普通のひとが白と言っているものをどう黒と言うか、白を黒くいいくるめるような言葉を生みだす想像力を哲学者はもっていなくちゃいかん、みたいな。そんな傾向もありましたね(笑)。
大きく言えば、フランス・ドイツはフランス・ドイツのお家芸があって、イギリス・アメリカはイギリス・アメリカの分析哲学がある、だからそれをやるんだ、と。大学も政治的な決定をして、うちの大学は分析哲学でおしていきます、というような流れがあった。日本の場合は、東洋哲学だろうとなんだろうと並列で、なにをやってもいいわけですが。
僕がちょっと幸運だったのは、大陸哲学を勉強していた反主流派の先生といいコミュニケーションができて、そこで勉強させてもらったんです。ハイデガーとかヘーゲル、あと、ヒュームというイギリスの哲学者がいて、もうイギリスでもほとんど勉強されてないんですけど、ヒュームもやりました。
そう言えば、ぼくがお世話になったその先生、スティーヴン・プリーストというひとで日本でも一冊くらい翻訳があるんですけど、専門はなんですか? と聞いたら、フィロソフィカルクエスチョンだ、と言ったんです。ようするに、自分とはなにか? 心とはなにか? 他者とはなにか? といろいろな問いがあるけれど、その問いを考えるなら、イギリスの哲学でも、ドイツの哲学でも、東洋の哲学でも、どんな哲学も素材として使ってもいい、そういう立場だ、と言ったんです。メジャーな立場ではなかったけれど、カント専門、ヘーゲル専門、といった具合にある哲学者の専門家にならなくても、問いがあれば哲学ができる。そういう彼のスタンスは好きでしたし、勉強になりましたね。
でも、イギリス全体としては、哲学を一般に広める層もあまりないし、分析哲学しかやらないという感じがよくないなと思いましたね。もう10年前の感想ですけど。

沢辺 日本で言うと、哲学学会と普通の人の間にはひらきがあるけれど、そういう感じ? 例えば小浜逸郎さんでいえば、哲学を専門にしているわけじゃないけど、哲学も視野にいれながら、日本の差別や女性問題を語りますよね。小浜さんもカントも語ろうと思えば、語るし。

石川 はいはい。

沢辺 そういう小浜さんみたいな人がいなくて、いきなり哲学学会がある、というような……

石川 そうです、そうです。

沢辺 ちょっと話が横道にそれるけど、中央公論新社から出ている『哲学の歴史』という13巻くらい出ている本があって、あの本はポットでデザインしたものなんですね。

石川 ああ、そうなんですか。あの赤いやつですね。あのデザイン、けっこう好きです。

沢辺 デザインだけで、中身には全然関わってないんだけど、あの本には竹田さんは出てないんだよね。おそらく哲学学会の本流の人たちが書いてるんだなあと。哲学学会の大物がいて、しかもハイデガー系やフロイト系の大物が子分に分担している、という構図なんだなあと思ったんです。いい悪いは別にして。もちろんまとめたことには意味はあると思うんだけどね。

石川 大学のとき、竹田青嗣の本読んでるんだ、と哲学の院に行っている先輩に言ったら、こんな文芸評論家のジャーナリスティックなものを読んでちゃだめだ、と言われたことをいま思い出しました。そのとき、けっこうカチンときましたけど、よけいに竹田さんのほうを勉強した、ということがありましたね。いけないことのほうが真実だ、とかそんな禁止されたものへの魅力もありましたね(笑)。

沢辺 『哲学の歴史』をひろい読みしただけの感想だけど、「解釈」しているだけだよね。

石川 情報はたくさん盛り込まれていて、研究するのにはとてもありがたいと思うんですが、このことの意味はいまの私たちにとってはこうです、というのはないんですね。

沢辺 そうなんですよ、そこが面白くなくてね。別にカントが言おうがヘーゲルが言おうがなんでもいいんだけど、この哲学書を読んでラクチンになったとか、そういったものが何もないな、と。これも偏見かもしれないけど、そう思ってしまう。
イギリスはまさにそういう竹田さんたちのような層がスコーンと抜けている、と。

石川 僕が知らなかっただけかもしれないけど、イギリスにいたときの同級生に聞いてもそこの部分がなかったですね。案内本とかは一応あるんですけど、日本のようにそこがひとつの層をなしている、というのはないですね。

沢辺 日本もそんなに満足、というわけでもないけど、でもいることもいるよね。
それってヨーロッパの階級制ということに関係あるのかな?

石川 ですね。あの大学は金持ちが行く大学だとか、労働者が行く大学だとか、大学によって行く階級が違ったりするんですよね。

terukichi_2.jpg

●レジュメをまとめるコツは「ひとことで言うと何か」

沢辺 で、イギリスから帰って……

石川 竹田先生の博士課程に入って、4年で出ました。その間に和光大学で非常勤講師をやりはじめて、博士課程を終えて直後に、京都精華大学に西研(哲学者。和光大学教授)さんがいらして、西さんに呼ばれて、そこで3年勤めました。
京都精華大では、とにかく忙しくて、書く時間が全然とれなかったので、東京でいくつか非常勤の話をいただいたので、東京に戻ってきてしまいました。

沢辺 いまは、桜美林大学と……?

石川 和光大学の市民講座をやっています。精読の機会があって、参加していただいている方には楽しんでいただいているみたいです。和光の授業は10名ほどですので、僕が解説のレジュメをつくってみんなで哲学の本を1冊たいらげようとやってます。ニーチェ、バタイユときて、この春からハイデガーの『存在と時間』をやります。

沢辺 年に1冊?

石川 バタイユは半期で『呪われた部分』を読み終わったんですけど、だいたい年に1冊ですね。

沢辺 たいへんだね。

石川 でも好きなので。

沢辺 好きですか? 俺は苦手だね。いやでいやでしょうがない。根気が続かない。

石川 昔、和光大でやっていた授業は大教室でおいしいとこだけやる授業だったんですけど、おいしいところだけをやるためには、最初に細かく読んでないといけないんですよね。だから、まあ自分のためにもなるし。

沢辺 嫌いじゃないというのは、すごい才能だな、と思いますね。
俺、こう見えて、いまでもレジュメ書こうと練習してるんですよ。この前、太田出版から出ている『atプラス』
いう雑誌に岩井克人(経済学者。東京大学大学院教授)さんのインタビュー記事が16ページくらい載っていて、これがなかなかよかったんですよ。それで、よし、これをレジュメにまとめようと思い立って、やりだしたんですよ。でも、2ページほどやったところで、止まっちゃった。もういやになっちゃってさ。

石川 僕も竹田さんのところに入門した頃は全然レジュメ書けなくて、途中のままで提出しちゃったりしてました。そうすると師匠も「しょうがないなー」って感じで、自分の書いたレジュメをポーンと出されたりして。いやーすごいなー、がんばらなきゃなーと思って、そういうふうに少しずつ……。

沢辺 まあ、訓練だと思いますけど、なかなかねえ。僕、抜き出せないんですよ。

石川 わかります。昔、竹田青嗣さんと加藤典洋さんの主宰の勉強会で橋爪大三郎(社会学者。東工大学大学院教授)さんの本を読んだとき、全然レジュメが切れなくて、山のようにレジュメつくっちゃって時間内で全然終わらなかったということがあって、迷惑かけたんですよ。そのとき橋爪さん本人もいらっしゃってて、申しわけなかった。

沢辺 なかなか切れないんだよねえ。これも面白い、あれも面白いって、全部引き写しちゃって。そうするとくたびれてくる。

石川 で、いい方法見つけたんですよ。

沢辺 え、教えて教えて。

石川 例えば、もうレジュメいやだなーというところにきたら、そこでいったん本のほうを見るのはやめて、途中まで書いたところの下に●や★といった印をつけて、それまで自分が書いてきたことを2行くらいでまとめておくんです。また、レジュメいやだなーというところにきたら、また印をつけて、そこまで自分が書いた部分を2行くらいでまたまとめておくんですよ。つまり、自分のレジュメをまとめる。自分のレジュメをレジュメするわけです。
そうでないと、読み下しみたいになっちゃって。最終的に写経になってくる(笑)

沢辺 そうそう、そうなの(笑)

石川 竹田さんは、長いレジュメをやると、いらいらするんですよ。で、そうすると必ず「ひとことで言うとなんだ」と聞くんです。だから、そうか、と思って、レジュメをつくるとき、きりのいいところで印をつけて、ここはひと言でこうだ、と書いておくようになって。それで、ああ、じゃあこの印をつけてまとめた2行をつなげていけば簡潔なレジュメってできるんだなって、そういうふうになりました。

沢辺 俺がふだん社員に言ってることとまんまおんなじだ。「おまえの言ってることわかんないよ、ひとことで言うとなんだ」とかさ、「メインタイトルはなんだ」と、僕もよく言いますね。そうやってねちねちいじめるんですけどね(笑)

石川 僕もそういう中でやってきました。まあ師匠はねちねちではなくて、何にも言わないんですね。ただ、「ひとことで言うと何?」とだけ言うんです。それは「おまえ、レジュメが長いぞ。無駄話だけだぞ」という意味なんです。そういうのもこっちが全部受け取って、やっていく、と。けっこう鍛えられましたね。
最初のうちは、長いものなんだけど、だんだん、そのレジュメの中で大切なことは何だろうっていうのをつなげていけるようになるんですよね。それで、最終的にどうするかというと、その大切だと思う部分を、自分の言葉でいうと何かな、というふうになると、やっとレジュメが書けたかな、となる。そこまでいくのに何年もかかりました。

沢辺 それも俺がふだん社員に言ってることとおんなじで、「ものごと循環なんだよ」って、「おまえ一回で正解にたどりつこうとしてるだろ、そんなの天才じゃなきゃできないよ」「まず、自分が思うことを全部出すの。それからもう一回、その中から重要なものを選び出して、そしてもう一回、頭に戻って、やる順番に並べてみよう、とやるんだよ。そんなの無理だよ」って。

石川 いやー、竹田さんのまとめ方をみると、この人は一回でなんでこんなのが出るんだろう、と思うんだけど、ほんとは陰で竹田さんもきっとそうやってたんでしょうね。そういうことがわかるようになったのは、自分で練習し始めてからなんですよね。

●自分や自分の問題をはっきりさせるために「哲学」がある

沢辺 ところで、ちょっと聞きたいのですが、石川くんは、哲学の主要な著作をどれくらい読んでるんですか?

石川 かなり読んでます。かなりじゃわかんないですね(笑)。主要なものはすべて読んでいると思います。

沢辺 ちょっとマイナーな人、そこまで読まなくてもいいだろっていうような人は?

石川 ちょっと話題になったアントニオ・ネグリという人のは読んでないですね。『<帝国>』という本とかちょっと話題になりましたけど、こんなに厚くてちょっとやだなと思って(笑)。

沢辺 ソクラテスとから、王道のヘーゲル、カントからアレントくらいまでだったらほとんど全部読んでる?

石川 はい。

沢辺 ところでだいたい言ってることわかる?

石川 わかんないところもあるんですよ。だけど哲学の読み方って、竹田さんのところで学んだんですけど、要するに言いたいことは本のほうにあるんじゃなくて、自分がその言葉によってどれだけ整理されるか、なんですよね。
ああ、この人のこの感じって、俺のあのときのあの感じに似てるなあとか、この哲学者の思想は、俺の高校のときの袋小路の感じだけで終わってしまってるからこの人の哲学ってあんまり建設的じゃないし、先がないんじゃないか、とかね。いわゆる自分と比べてみて考えているところがありますね。
昔はそれこそ、哲学って立派なものだ、でもわかんないから困る、ということもありました。でもある時期から哲学が怖くなくなったんですよね。いまは、哲学者がすごいことを言っているかどうかということにはあんまり興味がなくて、自分がうまく整理できたらいいと思うし、自分の何がそこに思い当たるなあということがわかればいい、と。
細かい解釈はいろいろあるし、この哲学者は誰の影響を受けて、とか一応そういう本も読むことは読みますけど、自分の整理に役に立つことがいちばん大切で、そのための文脈として仕入れればいい。自分たちのもやもやした何かがはっきりすれば、それでいいんじゃないか、というのがあります。

沢辺 確かにそれはわかる。読んでると、ときどきスコーンと落ちるときがあって、例えば竹田さんのちくま新書の『現象学は思考の原理である』を読んで、ああ竹田さんが言いたい現象学ってこういうことなんだ、と俺なりに落ちた。
例えば、絵画のよしあしを美術評論家がジャッジするわけよね。若い頃は、そういうものに反発があったわけ。

石川 評価することへの反発があったということですか?

沢辺 そうそう。それこそ石川さんの本にもあった言葉で言えば、「ひとそれぞれじゃん」と思ってた。でもそれも変だなと思い始めて、例えばゴッホの絵は好きじゃないけど、やっぱり力強さを感じたり、いいものを感じたりすることがある。
それで僕はどうやって折り合いをつけたかというと、もちろんそれぞれがこの絵を好きか嫌いかと思うことはまったくオッケーだ、と。ただ、それなりに多くの人が「いいよね」と思うものは世の中にあって、多くの人がいい絵だというものはきっといい絵で、そこには一定の妥当性がある、と。
俺の竹田さんの現象学の読み方は、正しさをジャッジする、という話だと理解したのね。
ゴッホの絵を嫌いだという人を認めないわけじゃない。そういう人がいてもいいんだけど、一方、多くの人が認めている、ということも認めていいんだ、と。そういう俺の言葉に置きかえられたときに、竹田さんの言っていることがわかった気分になれたのね。やっぱり自分と重ね合わせないと、落ちてこない。そういう感じとはまた違う?

石川 沢辺さんがおっしゃってくださったことと、僕も重なるところがあるんです。
現象学、あるいは竹田さんの考えになぜ自分がすごく魅かれたかというところですが、自分が持っていた理想の姿や正しさが自分も苦しめ、他人に対しても苦しめていた、という話をさっきしましたけど、もうひとつは、僕は不登校気味のとき先生とか権威が大嫌いだったんですね。むしろ「ひとそれぞれ」でいいんじゃないかって思っていた。ある意味で、懐疑主義というか、立派なこと言ってるけど、たいしたことないよ、絶対なんてないんだ、自由でいい、俺はある意味ボヘミアンというか、アンチでやっていくんだ、とかっこよくやっていたんです。でもそれもそれで、自分のひとつのかたくななスタイルになっていた。
はじめはすごい真面目主義者で、人とうまくいかず、自分を苦しめ、次に懐疑主義者で、自分も苦しめ、人も苦しめてたんです。つまり、それまでは、僕の中には理想主義と懐疑主義とふたつしかなかった。でも現象学の考え方は何かというと、確かに「ひとそれぞれ」でいいんだよ、だけどひとそれぞれの中に必ず人とつながりうると自分が感じるものもあるはずだよね、それを言葉で取り出してみよう、と。そういう感じがある。
ごりごり真面目青年から、次にちょっと気取った懐疑青年、というふうにきたもんだから、現象学と出会って、自分がほのけ、かつ開かれるようなそういうよさがあった。そのふたつを通ったからこそ、現象学のよさがはじめてわかった、と思うんです。

沢辺 そういうふうに落としていくということだよね。

石川 この前、小浜逸郎(評論家)さんから僕の『カント 信じるための哲学』の感想をいただいたんです。あの本のモチーフ、「ひとそれぞれ」(主観性)から、「これはいい」というときは、僕以外でもいいと思っているという確信があって、それをどう取り出すか(普遍性)、ということをちゃんと読みとってくださったうえで、ちょっと終わりのほうに、「物自体」の解釈などは、竹田現象学風の受け取りなのでは、というご指摘をいただきました。この本については、いろんな方から感想をいただいたんですが、その中に「カントは現象学なんですか?」という質問もあって、ハッと気づいたんですね。
僕は、現象学を通ってきた者がカントを評価するとしたらどういう点か、というところからあの本を書いてたんですね。カントは現象学の祖であり、現象学的にカントを読みますよ、と書いておけばよかったとちょっと思ったんですけどね。

沢辺 カントをよく見すぎてるんじゃないの? そこまでのことはカントは言ってないぞ、という指摘ですよね。

石川 たしかにその通りなんです。だから現象学のことをちゃんと書いておけばよかった、と思ったんですね。

沢辺 俺はカントよくは知らないよ。だけど、一応、哲学史でいくと、そのあとフッサールが出てきたわけだから、そうするとカントはそこまで見通してたわけじゃなくて……

石川 見通してないですね。でも、その見通しの芽はカントのなかにきちんとあると思います。

沢辺 確かに石川くんの『カント』は、そのあとに積み重なってきた現象学からもう一度見直すと、カントの正しさの判定の仕方はこういうふうに読み取れるよね、というような内容だったように思うんですけど、俺の理解では。

石川 そうです。

沢辺 だから別にいいんだよね。
哲学にいま一番足りない感じがするのは、そこじゃないかと俺は思っていて。石川くんが言うようなことまでカントが考えていたのか、考えていなかったのか、というふうな論争をいくらしてみてもあんまり意味がない。

石川 それはやっぱり僕がそういうふうに哲学を読んでいるからだと思います。僕らがこういう問題があるから、そこの整理としてカントをネタとして使ってみよう、と。僕はカント研究者でもないので。今回はカントの研究書もかなり取材しましたけど。
やっぱり自分や自分たちの問題がはっきりする方法をカントは持っていて、しかもそれを自分なりに先にすすめればこうなってくるんじゃないのか、と現象学をフィルターとしてやってみた、というものです。

●ぐずぐずしている過程を「哲学」でとらまえたい

沢辺 ところで「ひとそれぞれ」という言葉は誰かからのいただきなんですか?

石川 いや、自分で考えました。学生と接していると、なんかいいところで「ひとそれぞれでいいじゃないですか」と言われる。だから「いやいや、そこをちゃんと言ってみようよ」と言うんですけど、学生たちは、途中で「いや、まあ、ひとそれぞれということで」と言ってやめちゃうんですよね。

沢辺 今回、あの本のなかでいちばんよかったのは「ひとそれぞれ」という言葉だった。
現実の社会では、けっこうその言葉に直面するわけです。
これでも社長ですから、スタッフの給料を決めるわけなんですが、例えば同じ年齢などで入った社員にも差をつけることがある、わずかですけどね。そこに社長としてのジャッジが入る。
本当は、1年でいくら昇給する、と決めておくのが楽だと思う。でもそれだと「ひとそれぞれ」は反映されないわけです。
いっぽう、「ひとそれぞれ」でいこうとすると、明確なルールを定められないと、俺のその時の気分になってしまって、「俺は正しくジャッジできているんだろうか」ということに常に揺れ動くわけです。
だけど俺は、給料表をつくる、みたいなシステムはできるだけ先送りしたいと思っている。決めごとができるとそれに依存しちゃって、「システムがこうなっているんだから、こうだよ」と説明をしないですむ状態になっちゃうんじゃないか。それよりも、同じ条件なのに、「あいつとはなんで3000円も違うんですか?」と社員から聞かれたときに、「俺はこう考えたんだよ」というものを持っていなければならない。もちろん「ごめん、俺が間違っていた」ということもありにして、ね。
もしそこに俺の極端な独断やえこひいきがあったら、結果、社員はみんな離れていくだろう、と思うしね。
うちは毎月社員の給料明細を、全員に回覧してるんです。社員にそれを見てもらった上で不満が出てきて、「こんなのやってられないから辞める」と言われない状態を作る以外に、きっと「正しさ」っていうのはないんだよなって。これはね、俺にとっての「竹田現象学」なんですよ。

石川 すごくよく解ります。当然企業ではワンマン社長もいるだろうし、それがいきすぎる場合もある。その時にどう考えるかっていうと、それこそ現象学的な方法で「妥当」をどう生み出すかという形で考えるしかない。
ただいっぽうで、教師とか社長には、評価する立場や責任がありますよね。もちろん説明もしなくちゃいけないんですけど、そういう立場の人間は最終的に「俺が評価基準だ」って言える部分もどっかで必要だと思うんですよね。
もちろん合意やみんなでこれが妥当な線だって示すことも必要ですけれども、「評価の基準はなんですか?」って聞かれたときに、例えば、教師としての責任として、出席日数だとか細かいことも説明しつつ、けれども、最終的な基準は俺だと言えるような部分はあったほうがいいんじゃないかって。
そういうのが組織や人との関わりでけっこう重要かと思いますね。

沢辺 そのことで言うと俺も全く同じように考えている。
俺が基準なわけですよ、スタッフに対しては。
じゃあ俺がダメだったときはどうしようというのがずっと悩みだったんだけど、ダメだったらきっと会社が潰れるなり、社員が辞めてくなりして、そういう形で結果がでるでしょう、と。それしか方法はない。
俺はね、そういうふうに落ちたのは橋爪大三郎さんなんだよね。橋爪さんからはいくつか今日の自分の、自分がブレないでいられる基準をもらっていて。
過去に、橋爪さんに質問したことがあるんです。当時、成果主義が社会で話題になっていて、「橋爪さん、僕も会社で成果主義をどうしようかなとか考えてるんですけど、どうなんでしょうかね?」って。そしたら、橋爪さんからは「ああ、成果主義、必要ですね」と明解に答えが返ってきた。「でも橋爪さん、普段いろいろ点数化してみてもね、何やってもね、どっか評価って危ういなって思うんですよ。その評価をちゃんとするのは、どういう方法があるんですかね?」って質問したときに、「それは沢辺さん、あなたがやればいいんです」と。それがさっき石川さんが言われたような「俺が評価軸だ」って言えるようになんなきゃねっていうのと全くおんなじ。
それで、「沢辺さんがダメだったら、沢辺さんをクビにすればいいんです」って。「沢辺さんはそうやって評価されるんです」と。ああなるほど、俺が評価軸だって言い切らないと、ダメなときにクビにもできない。マニュアルに従ったら言い訳が次から次へと出てきちゃうわけでしょ。それで、自分のなかにポーンと落ちた。

石川 ホントにそう思います。僕はその考えをだれから教わったかと言うと、実は加藤典洋(文芸評論家。早稲田大学教授)さんです。
僕は文章の授業をここ数年やってるんですけど、あるとき加藤典洋さんにこう教わったんです。「学生の文章にABCとか基準を作る。学生がいろいろ文句をいってくるかもしれない。だけどそういう時にこっちが腹くくってなくちゃいけないのは、文章を評価する基準はなんですか、と問われて俺だと言えなくちゃいけない」って。
僕は民主主義ボーヤっていうか、「ひとそれぞれ」なところがあって、いろんなことはやっぱり学生と相談して決めなくちゃなんないのかな、と思ってたところもあった。でもそんなんじゃこっちは気を使って疲れちゃうし、何よりもまとまりが何もつかないんですよね。授業運営を学生とみんなでやっていこうっていうのでは。もちろん学生たちとは仲良くして楽しくはやってるんですけど、完全平等主義みたいな、教員もまたクラスの一人、みたいなそういう考えで行くと全然上手くいかないなって。コミューン主義っていうか、そういうのは、よくないなって……。

沢辺 まあ、教育の現場の課題っていうのはどうもそういうところらしいって気がしませんか?

石川 そうですね。むかし神奈川県の教育研修センターというところで講師をやってたことがあるんですけど、「近代社会の理論」というテーマで話したとき、共通の権力がたたなくちゃダメだというような話をしたんです。そしたら、小学校の先生がやはり共通の権力がなくちゃダメだと言ってましたね。小学生に自由で楽しくみたいなことを認めてたら、動物園になっちゃうと。みんなキャッキャッキャッキャしちゃってどうしようもない。だからちゃんと小学生にはルールと俺が先生だっていうのをちゃんと見せつけなきゃいけない、と。

沢辺 ただ辛いのは、以前は先生っていう肩書きができれば権力が自動的についてきたけど、今は民主主義になって、その権力が剥がれちゃっている。実は先生という免許と採用試験に通っただけでは、もう全然通用しなくなってきている。結局は人間にしか根拠は無いってことじゃないですか。こうなったときに一人ひとりにものすごい負荷がかかりますよね。

石川 わかります。だから私たちが考えちゃうんですよね。

沢辺 そうそうそう。そしてその負荷がかかっているというのは、実は一番いまの若い人たちにとってもおんなじで、つまり一人ひとりが問われちゃうんだよね。自由になったからこそますます。だから、自転車を届けてくれるような近所関係もないということは、自分で自分の自転車を取りに行かなきゃいけないわけです。自転車を取りに川原に行くくらいだったらいいけど、これが全てに起こるわけでしょ。
例えば恋愛とか、結婚するとかしないとか、子供作る作らないとか。昔だったら子供は作るもんだという暗黙のルールがあって、それに従わなければならなかった。けど今は選べちゃう。その時に一人ひとりがちゃんとした判断をしなきゃいけない。これってものすごく困難っていうか大変なことでさ。それが今日の若い人達のニヒリズムみたいなものを生み出しているのかもしれない。

石川 自分のことから話すと、さっきもちょっと言いましたけど、僕は最初「ひとそれぞれ」っていうのすごく好きだったんですよね。どうしてかと言うと自分が懐疑青年だった時にはそれが一つの武器だった。「ひとそれぞれでいいじゃねーか。なんで先生は偉そうにするのか」と。
で、その時に「ひとそれぞれ」って新しい生き方だと、すごく新鮮に思えたんですね。
田舎のみんな一緒の世界に住んでいたこともあったし、さっき言った自転車を届けてくれるような環境が、僕は嫌だったんですね、ベタベタした感じで。その中から抜け出すための道具として僕には、「ひとそれぞれ」があったわけです。
でもしかし、それだけではなかなかうまくいかない。
いっぽう今の学生たちはやたらと「絆」と「地元」を使うんですね。学生が書いてくる文章に「やはり絆は」とか「やはり地元は」とかが多いんですよ。「あれ? この子たちってそういうのを疑ってみたことないのかな?」と思ったんですね。
よく考えてみたら、いまの学生は「ひとそれぞれ」が当たり前のところから始まっているからこそ、「絆」や「地元」になっているのか、と。
逆に、「地元」や「絆」っていうのにすごく縛られていて、自分を主張できない子もいるんです。男子学生が授業中に一緒にトイレに行くとかあるんですね、いっつも一緒に。なんか変な感じなんですけど。で、僕が「お前らトイレ行ったり、食事したり、いつも一緒だね」って聞くと、「いやあ、本当はそんなに仲良くないんですよ。まあめんどくさいけどそういう流れになっちゃって」って。で、そいうことはよくあって、「本当はひとりで集中して文章書きたいんですけど、なんかあいつと一緒にべらべらしゃべっちゃってすいません。本当は僕はひとりで書きたいいんです」なんて授業後に言ってきたりして。お前もうちょっとはっきりしろよ、みたいに僕は思うんですけど。
それで、彼らは「ひとそれぞれ」から出発して、「絆」や「地元」に憧れて、いいものだと思ってつながったけど、それに逆に縛られてるなんてそんなこともあるのかなって。そんなことも今の問題としてあるのかなと思います。
で、もうひとついま興味があるのは「めんどくささ」、というか「ぐずぐずする」ということなんです。哲学は原理の学問とも言われていて、いろんな問題をすっきりさせる言葉を提出して、その言葉が原理なんですけど、その原理が手に入ればすごい、とその答にすぐにパッと飛びつきたい、というイメージもあるかと思います。
だけど人はもうちょっと「ぐずぐずする」と思うんですよね。腑に落ちるのはやっぱりぐずぐずしてたから腑に落ちるんです。自分で判断しろって言われるけどなんかめんどくせえな、流されちゃうタイプなんだよね俺、とか。そういったぐずぐずした感じ、そこをこれからうまく言葉にできていけたらいいし、哲学からもいろいろ拾っていけたらいいかなって思っているんです。
原理ってすごく大切なんですけど、そこまでいかないぐずぐずさがうまく形として取り出せるといいかな、と。そこがなくて、最初に原理がきちゃうとなんか面白くないというか、こっちがぐっと引き込まれることもあんまりない。

沢辺 身につかないんだよね、きっと。俺が評価したんだ、俺の判断だ、といくためには、「ひとそれぞれ」で揺れてしまったこととか、どっかに権力がありゃいいのになって逃げ込みたい気分になったり。それらをくぐった後の俺だ、というんじゃないとね。大学生ぐらいが俺が評価だって言ったって、すごく薄っぺらくなる。

石川 そうなんですよ。その途中の揺れがないと哲学もおかしなことになる。

futari.jpg

●いいでもなく、悪いでもなく、「こういう生き方はそう悪くはない」

石川 ぼくは原理っていうのはすぐ入っちゃ生きてこない、と思っています。たとえば、ヘーゲルには「承認」という言葉があるんですけど、その原理を出す前にヘーゲル自身もかなりグダグダしてるんですよ。そこの醍醐味があってこその原理っていう感じ。そこの揺れが上手く生きてこないと哲学ってやっぱり死んじゃうなって。そこのグダグダも含まれてないと、それこそ沢辺さんや僕が「評価っていうけどひとそれぞれでいいかなー。みんなで民主的に決めたほうがいいかな」って悩んじゃうことがないと生きてこないんじゃないかな、哲学は。そういう感じを持ってますね。

沢辺 俺は哲学に限らず、楽に生きるって言うと語弊があるんだけど、困らないとか、肩がこらないとか──なかなか当てはまる言葉がないんだけど、そういうふうに生きていける社会にするためには、今言われたような両方のブレのなかで、まあこのあたりかなっていうところでぎりぎり確保しておく。でもこれも常に揺れるわけよね。というか、むしろずっと揺れてなきゃいけないんだよね。そしてその揺れてる自分を承認することが大事。
だって、俺も常に100%正確なジャッジなんてできない。だけど100回のうち80回くらいはなんとかまともなジャッジができてるってことを目指す。間違ったときはゴメンって言える楽さもおいておく。でもそれは、いきなりそこにはいけなくて、さんざん困ったなーって過程が必要だってことなんだよね。

石川 そうなんです。
承認というキーワードはいまどれくらい注目されているかわからないけど、このキーワードの意味は、簡単に言えば、認められることとか誉められることだけど、それを言うためには、一方で人と関わるということはめんどくさいことだとか傷つきたくないとか、それが一緒にセットで出てこないと意味がない。ヘーゲルは一緒に出してるんですよね。
それから沢辺さんのお話聞いてて思い出したんですが、僕は時々哲学の講義で、だいたいニーチェくらいまでくるとこういう話をするんです。ニーチェは生の肯定の人だから、生の肯定っていうと、大ざっぱに言うと「生きててよかった、元気が出る!」って感じだけど、そういう風に言っちゃうと、なんかちょっと過剰な感じがするよね、と。
そこで、僕が何を挙げるかっていうと、水木しげるの言葉なんです。僕は水木しげるがすごく好きで、その水木しげるのエッセイの中に、人生自分の好きなことやってもいいよ、みたいな話が出てくるんです。で、ぼくが授業で言うのは、自分の好きなことをやる人生はいいよ、っていうことがメインじゃなくて、一番最後に水木しげるが、そういう生き方は「悪くはない」って言っている、その「悪くはない」と言えるかどうがけっこう大切なんじゃないか、いうことなんです。
ぼくらは人生はもういやだと悲観するときもあるし、一方で、なんか「いいぞ人生って、どんどん力が出てくるし生きててよかったわー」みたいな過剰なよろこびの一瞬もあるかもしれないけど、実は、一番大切なのは人生「悪くはない」って言えることじゃないかと。文法的な話ですけど、良いでもなく悪いでもなく、ブレながらも「悪くはない」って言えるような、そういうのが人間大切なんじゃないかなって思いますね。
この話を授業の最後にやるんです。みんなこれからいろいろあるかもしれないけど、「悪くはない」って言える人生って大切だよ、と。

沢辺 それも本当にそのとおりだと思うよね。
よく好きな仕事に就けなきゃいけないと言うけどさ、俺自身、好きな仕事を選んでやってきたという実感は全くない。むしろ、これやんないと飯食えないなとか、締切があるしなーとかそんな程度の小さな選択の積み重ね。けれど、そういう選択の結果、今がある。それを今、「沢辺さん好きな仕事やってますか」と聞かれたら、「まあね」と俺は言えるとは思うが、それって別に目指してきたわけじゃなくて結果なわけです。何で「まあね」という曖昧な言葉になるかっていうと、せいぜい「悪くはない」くらいのことでしかない。で、それでもいいんだっていう感覚が何となく持てたのは、やっぱり一回一回、小さな選択をしてきたから、そう言える。だから、若い人に好きな仕事を目指せって言うことを押しつけるのは、酷だなあ、と。

石川 本当にそう思いますよね。みんな最初にすごい目標を置いてやらなきゃいけないんじゃないかと思ってて、夢に向かって、みたいなのが年々増えているような気がする。僕の周りだけかもしれないですけど、すれてる子がだんだん減ってるんですよね。文章を書かせてもそうなんですけど、「夢に向かって」「頑張ります」って。何か大変だなって思うんですよね。すごく大きな夢を実現してすごく「よい」人生送らないといけないと思っちゃってて、それってある意味で脅迫なんじゃないか、そういう大変さがあると思います。だからそういう子たちにいい言葉がないかな、と。だから、「悪くはない」っていう言い方はすごくいいんだよ、って言うんです。

●「見通せることの不自由さ」を抱える若者

沢辺 そういう社会になったのは哲学的に解説するとなぜなんですかね?

石川 哲学的にというと……うーん、哲学的な解説ではないけれども、頑張れば何とかなるって感じがけっこう広まって来たってことなんですかね。

沢辺 例えば竹田さんの言い方を借りれば、自由を獲得できる道ができたっていうのが近代社会。で、現実に職業選択も自由になったわけだよね。で、それなりの自由を獲得してしまうと、自由を使わないといけないという逆転が起きてるってことなのかな。

石川 そう。自由を使わなくてはいけない。それから本の最後のほうにも書きましたけど、なんにでもなれる自分とこうでしかあり得ない自分っていうのを強く意識せざるを得なくなった。いまの子どももそうだと思うし、僕だってそうだったんですけど、「なんにでもなれるよ」って言われて育てられてきたわけですから。昔は違いますよね。

沢辺 お前は俺の後を継いで百姓やるんだから、今から草取りやっとけ、と。おまえの職業は決まってんだって言われてたわけだよね。

石川 そうなんですよ。それが、今度、自由の困難さに直面している。僕自身そうなんですけど「ひとそれぞれ」って言えること自体すごくいいこと。けれど、そのあと、なんですよね。そのあとの時代を生きる私たちはどういう困難さを持っているのか。自由に夢に向かって生きていいよって言われる時代に、人はまた苦しみを抱える。そういう時に一体どういう言葉が役に立つか。その苦しみの中身も含めて、僕はちょっと考えてみたいなと思っています。
さっきすれた子がいない、減ってるんじゃないかと言ったんですけど、でも実際は、夢に向かってゴーと言われて育ってきた子が、そうは言っても夢の通りに自由に何にでもなれるわけではないわけです。いまどきの若者は、どのように不況を知って、どのように就職できない現実を知り、一体どのように冷めていくのか。「現代の若者のさめてる事情」といったものを、一回ちゃんと調べてみたいと思っているんです。

沢辺 俺の知り合いの子どもが小5のとき、将来の夢は部長だと言っててさ。社長にはなりたくない、めんどくさそうだから。夢を持とうという社会なのに、社長は大変そう、でも、かといってペーペーはやだから部長。小学生でも、けっこうリアリティを持って考えちゃってる気がするんだけどね。

石川 ただ、いきなり部長にはなれないですよね(笑)

沢辺 そこは小学生の抜けてるところで(笑)。
俺はね、若い子たちも、将来の見え方というか自分の見通しは実は漠然と持っているんじゃないかなと思う。先生に将来の夢を書きましょうと言われたら、公式発言としてフライトアテンダントになりたいとかこういう職業につきたいとか書いちゃう。でも本当にそう思ってるかっていうと、どっかにそれは実は自分には難しいかも、ってことも解っている気がするんだよね。
ポットでは『ず・ぼん』という図書館関係の本を出していて、2年くらい前に、司書課程を専攻している大学生の座談会をやったのね。きてくれたのは、みんな女子学生だったんだけど。
今、図書館の司書事情がどうなっているかというと、司書になって公立図書館で働くという道はほとんどないんですよ。通常の公立図書館で働くには、公務員試験にまず受からなければならない。しかも公務員になっても、図書館司書という枠があるわけじゃないので、図書館に配属される可能性はさらに少ない。さらに、図書館業務の委託化が進んでいて、委託職員だと給料はものすごく低いわけ。せいぜい高くて1,400円くらい。しかも昇給はほとんどなし。そういう就職状況は、出席してくれた学生たちはみんなわかっているわけです。
で、その中に短大生とわりと名のしれた4年生大学の学生がいて、いわゆる社会で言われている偏差値でいうと、いっぽうは偏差値のさほど高くない大学で、いっぽうはそこそこの大学。そうすると、これは俺が勝手に感じただけかもしれないんだけど、就職に対する向かい方が、如実に偏差値の差を反映しているような気がしたの。4大生は、司書になってもしょせん生涯給料は安いし、下請けだし、委託だし、だからどうしようかなって悩んでいる。いっぽうの短大生は、そういうよろしくない労働条件に対して違和感をさほど持ってないっていうか、むしろ、短大なんてなかなか取ってくれないし、みたいな向かい方。つまり、なんとなく自分の学校の偏差値とかで、選べる道が解ってるような気がするんですよ。
「見通せちゃうことの不自由さ」っていうのがどうもある気がする。

石川 そうですよね。逆に、見通せなくて可能性のある時代っていうのはあったんでしょうか。景気のいい時代とかはありましたかね。

沢辺 いや、俺はなかったと思ってる、結局は。いつの時代も常に同じことを抱えてるんじゃないかと思うけど。
例えば俺の親父。今88歳で、アルツハイマーになってボケちゃってるんだけど、まだ60歳くらいの時かな、久々に話した時に、俺は若い時に芝居やりたかったんだよなって言い出した時があってさ。親父は浅草に住んでて近所に芝居小屋があって、「小さいときは大人の人の脇にくっついて入っていつも観に行ってたんだよ」って言うんです。三益愛子っていう大女優がいたんですけど、その三益愛子さんがね、「坊や毎日来てるわね」って頭撫でてくれたんだよって言ってさ。だけど生活のために、その道は諦めたんだって言ってて。当時、自分の生まれた家庭環境を見れば、自分が何ができるのかは見通すことができていた。
で、親父よりもうちょっと後で、中卒が金の卵といわれた時代。地方から集団就職で上京した人たちがたくさんいたけど、その人たちは田舎の地域共同体から抜け出る自由は獲得したかもしれないけど、好きなことも何も考えもせずに、田舎から出れるというだけで都会に出て来た。だからある程度見通せてたわけでしょ。
70年代になってもやっぱりないんじゃないかと思いますね。よしもとのお笑い学校があるけれど、あれだって、勉強ができなくてもお笑いなら自分もできそうな気がして学校に入る。でもテレビで紳助みたいになれるとは思ってない。多分かなり分かってる気がするんだよね。

●「哲学」の原理を活かす「文学」の可能性

石川 さっき、現代冷めてる事情を知りたいと言いましたけど、考えてみたら、もっというと人間ってどっかで冷める時っていうの結構あるんですよね。

沢辺 そうそう。俺は冷めてることはいけないことではないと思ってる。

石川 そう思いますね。

沢辺 当然でしょ。生きる知恵だもん。

石川 なんかそういうのを、うまい感じで言葉にできないかな。
夢、冷めてる、と来て、あんまり関係ないかもしれないけど、笠井潔さんに、現代の文学や社会を「妄想」ってキーワードで語っている文章があって、そういえば、学生がよく「妄想」という言葉を使うんですよ。好きな彼と一緒にデートして、あーしてこうしてとかわいいデートの話をして、それで最後に、なんか「妄想」しちゃった、私、って。でも我々から考えると、「妄想」ってもっと怖いものだって感じしますよね。「想像」じゃなくて、「妄想」っていうところ、そこら辺もちょっと面白いかなって。
それから、これも関係ないかもですが、女の子が最近、私は「ドSだから」とか「ドMだから」とか言いますよね。それで、SMってどういう言葉から来てるか知ってる? って話をすると、えーやばいとか言ったりして(笑)

沢辺 へー、しらないんだ。

石川 サディズムもマゾヒズムも知らないんです。
あ、「妄想」で思い出したんだけど、僕、漫画家の花くまゆうさくさん好きなんですよ。『ダメ人間グランプリ』(青林工藝社)っていう漫画があって、エロ本の『スーパー写真塾』に連載してたものなんですけども、結構妙なリアリティがある。いまの若者のそういった「妄想」の一部を取り上げてる感じがするんです。

沢辺 サブカルチャーのどんな人が好きなの?

石川 花くまゆうさくさん、それから、やっぱり、みうらじゅんさん。みうらさんの『アイデン&ティティ』(角川文庫)なんかはバイブルですね。しりあがり寿さん、リリー・フランキーさんも好きだし。さいきんのひとではタナカカツキさんの『オッス!トン子ちゃん』(ポプラ社)なんかも読みましたね。その漫画は、前衛芸術かぶれのひとが出てきて、まあ芸術幻想が強くて、しかしその幻想だけでは生きられないというような。竹田さんは、ロマンという言葉を使いますけど、ロマンは試されなくては生きられないっていうような。いちがいには言えないですが、そういうテーマを持った作品がけっこう好きですね。
サブカルチャーでは、そのロマンでぐずぐずになってる人が描かれていて、そういうところがやっぱ僕が惹かれるところですかね。
学問になると若者のダメさを分析してみたりとか、若者の動向を統計で調べてみたりとか、見田宗介さんだったら「理想」の時代、「夢」の時代、「虚構」の時代とかキーワードを置いて考えているけど、サブカルチャーの世界だとそういったロマンに囚われておかしくなってる人間がちょっと異常な感じで描かれるところが、きますね、僕には。

沢辺 文学ってのはそういうことなんですかね。

石川 文学も好きです。

沢辺 哲学のように理屈理由はつけられないんだけど、ズルズル惹かれてっちゃうようなものがきっと文学なんですかね。

石川 僕はやっぱりそういうものがないと哲学が生きてこないし、竹田さんがいいと思うのは、竹田さんにそういう感性があるからなんです。『自分を知るための哲学入門』なんて3分の1くらいダメな青春時代みたいな話ですよね。ああいうのがいいんですよね。あれがあって原理が生きてくるっていうか。僕はそういう考えで。
昔、加藤典洋さんが「竹田の現象学っていうのがある。あれはなかなか大した考えだけども、文学っていうのはちょっと違うんだ。文学っていうのは誤りうることがテーマなんだ」と言ってて、「誤りうることってなんなんですか」って聞いたんですが、その時点ではむずかしくてなかなか僕には解らなかった。
いま沢辺さんとお話していて思ったのは、僕がなんでそういうのが好きかって言うと、誤りうることというのは、人間グダグダするんだ、っていうことなんだと思うんですね。哲学は原理を提示するけれど、文学は、人間がその時、その時代で、あるいはもっと普遍的に、人間というものがグチグチとしながら行ったり来たりする、そこをちゃんと言葉や物語にしていくんだっていう感じかなあと、いまそう思えて。そういうところが結構好きなんですよね。

沢辺 そうだよね。それは物語じゃないとダメなんだよね。それは哲学ではカバーしきれない領域かもしれない。

石川 哲学にもそういう部分もあって、ヘーゲルはもうガチガチの論理で書いているようにみえますが、じっさいもそういう呪文のような言葉で書いているんですが、彼が語っている「自己意識の自由」の3類型というのがあって、これは難儀な自己を抱えた三つの類型、という感じなんですが、これをイメージでいうと、こんな感じなんですよ。一つめのストア主義というのは、要は引きこもり。で、二つめのスケプシス主義というのは、ニヒルなカッコいいやつ。三つめの不幸の意識っていうのは理想と現実で引き裂かれる人間。なんかそういうところが面白いっていうか、物語になってるって感じがするんですよね。

沢辺 なるほど。竹田さんもたぶん言ってると思うんだけど、その哲学者が生きてきた時代背景だとか、その人がどう生きてきたのかってこともまた重要だ、と。
俺の友達で大学で哲学を教えてる人がいるんだけど、その人は誰かを取り上げるときは顔写真を必ず見せるそうなんです。人となりが、顔に出るみたいなことあるんだ、と。
生きてきた物語が、哲学の理解の助けになるみたいなことってあるよね。
もっと言うと、たぶんヘーゲルはそういうことを含んで読まないと、なんかよく解んないということもあるし。

石川 そうですよね。ヘーゲルがそうやって悩んできたことを自分なりに言うとなんだろうな、引きこもりかなとか、人と関係するのが怖いとか、そんなような自分の中の翻訳装置を作っておくこと。また逆に紹介するときにちゃんと翻訳してつなげていく。そういうことが大切ですかね。そういうことのためにちゃんと文脈も調べてみるってことが大切だと思いますね。

●哲学者を引っ張り出さないで「哲学」する

沢辺 じゃあ、最後に、次に何か考えてらっしゃいますか?

石川 はい。さっきちょっといいましたけど、グチグチした人間のあり方というのが、実は哲学の中ではけっこうありましてですね、悩みの形というテーマで哲学を斬ってみたいなというふうに思ってます。いま企画中なんですけど、あんまり最近では取り上げられないショーペンハウエルとか、モンテーニュとか、そういう人も取り上げつつ哲学の面白さを紹介していきたいなと考えています。
モンテーニュという人は、小学校のホームルームでみんなでなんか決めようって時に、隅っこで、俺はそういうの関わらねえよっていう人。モンテーニュのキーワードは「宙ぶらりん」なんですね。で、そういうあり方をどんどん見ていって、やってみたいなって思ってます。

沢辺 僕はね、もし仮にお願い出来るとすればさ、哲学がもうちょっと現実に生きるような仕事をできればしてほしいなって思いがある。偉そうな物言いになってしまうけど。
今、社会のあり方がアンチノミーというかニヒリズムっていうのか、どうしたらいいのっていうことになってる気がするんですよ。その時にもうちょっと哲学が手伝ってあげることってないのかなと思う。
それともう一点は、現実の社会の困難にもう一歩回答を与えるような仕事。竹田さんの「現象学」を読めば回答があるんですよ。俺はそうだと思う。だけど、もう一段伝わるものにしたい。それをどうやったらいいのかは解んないんだけどね。
それから、もう一つ、今の若い人たちの困難は俺たち以上の困難がある気がしているんです。社会全体で言えば、竹田さんが言うようにどんどん自由になっていて、近代ってそんなに捨てたもんじゃないよっていうことはベースにはあるんですけど、しかし現象的に言えば、夢を持つのがいいことだっていうのは、結構とんでもねえなって思ってたりする。

石川 僕は例えば「ひとそれぞれ」から入ってどういうものが見えてくるのかっていうのはやっぱり考えてみたい。
実は僕は、哲学者の解説をしなくたって哲学はできると思うんですよね。もちろん、現代的な視点で哲学者を解説することはとても重要だと思うし、これからもやっていきたい。けれども、考えるってことが本当は大切で、哲学者を引っ張り出さなくてもできる哲学にもチャレンジしてみたいです。さっきも言ったように、悩みのかたちで哲学を紹介して、そこでもし悩みのかたちが取り出せたら、もう後は哲学者の名前そのものはいらないと思うんですよ。整理できたわけですから。そうした作業で取り出されたものを使って今度は具体的な事例と一緒に考えていきたい。
でもそういう時にどういう素材が必要なのか。例えばサブカルチャーや文学作品とか取り上げたらいいのか、あるいは、事件を取り上げた方がいいのか、あるいは、学生たちとかなり接していろんな証言を求めたらいいのか、と切り口をどうしたらいいのかっていうのが今考えているところですけど。

沢辺 いや、もう僕はさっきからずっと、次は若者のインタビューじゃないかと思いますけどね。出来るだけ濃い話を聞いていく。

石川 ちょっとやってみたいです。いろんな子に話を聞いてみようかな。

沢辺 ぜひやりましょうよ。

2010-03-05

談話室沢辺 ゲスト:竹田青嗣 第2回 「資本主義と国家の市民的制御」

●資本主義に替わる経済システムはありえない

沢辺 発展途上国も前より部分的によくなっているけれども、先進国の上がり方がすごいから、その距離に問題を感じるわけですよね。だからルサンチマンも生まれやすい。ある意味イスラムや911に通じる。

竹田 いま宗教的原理主義がルサンチマンの受け皿になっているんだね。

沢辺 貧しい国を引き上げる以外に、ルサンチマンの解消の道はないですね。

それから、たっぷんたっぷんになってしまった我々の欲望はどうしたらいいのでしょうか。いま若い人達が就職せずフリーターに流れているのは、社会が悪いと言われることもあるけど、たっぷんたっぷんの状況のなかで、なにも無理してやることないんじゃないの、と考えているのではないでしょうか。

竹田 それは社会批判の思想の新しい大きな課題です。これまでの社会批判の代表的な思想として、保守系を別にすると、資本主義批判を軸としたマルクス主義系のものがあり、これは徐々にポストモダン思想系のものに移ってきた。

しかし、現在資本主義のオルタナティヴとなる経済システムはありえません。でもそれは、いまの資本主義をそのまま認めるほかないということではぜんぜんない。繰り返すと、これまで資本主義はいろんな矛盾があっても、経済成長があればなんとかそれを修復してきたし、これからもそうだろうと考えてきた。しかしこれからはそれが効かない。でも経済システムとしては資本主義の代替策はない。そこで、資本主義の国家間的な調整ということが必ず必要となる。

大量消費と大量廃棄、格差の拡大を続けていくとどこかで絶対的な希少性が現われ、カタストロフィが生じる。そういう基本の展望がまだそれほど意識されていない。それで私は『人間の未来──ヘーゲル哲学と現代資本主義』(ちくま新書、2009年)を書いたのだけど、残念ながら多くの知識人は、まだ国家と資本主義に替わるものをどうやって考えられるかという線でやっている。国家と資本主義の根本的批判は、二十世紀の批判思想のメインストリームだったけど、早くこれにふんぎりをつけないとたいへんまずい。ここには原理と可能性がないからですね。

沢辺 格差の問題にしても、昔のように、資本家が悪いんだ、自民党が悪いんだ、と説明をつけて、簡単にわかった気になれた時代は幸せな時代でした。いま民主党政権が何々手当をくれると言っているけれど、日本国民は「税金は本当に大丈夫なの?」とか、「その税金って自分たちが出さない限り増えないんでしょ?」ということは基本的にわかっていますよね。手当をくれるから民主党に一票いれたというわけじゃありませんし、手当をよくするためには結局自分たちも一部負担しなければいけないよ、ということを前提にしていると思うんですよね。

竹田 いまの民主党に対する国民の期待のありかたは、とりあえずいままでの自民党の政治構造を大きく変えてほしい、ということです。長く政権交代が起こらないと、政治権力と特権階級、官僚との癒着は必ず固定化してくる。その度合いが大きいほど政治の権益は特殊利害に流れて、一般福祉に回らない。そのことをいまはもう一般の人が感覚として知っている。

なぜ小泉さんの郵政改革になぜあれだけ支持が集まったかというと、直感的に、長く続いている権力と官僚や公共事業の癒着をなんとかしよう、と言うような人間が首相になったことがまず新しかった。経済的な構造改革はじつはいろいろ問題があるが、構造改革という言葉に多くの人が反応した。民主党がそれを変えるとは思わないが、自民党の構造が変わるなら可能かもしれないと感じたのだと思う。で今回は民主党が支持された。結局、自民党ではそこまで行かないということがはっきりしてきた。そういう流れだったと思う。要するに、人びとは、一般福祉に配慮するのは誰かという意志をはっきり示すようになってきたんだと思います。

「一般福祉」というのは、私の言葉で言うと、普遍資産再配分の問題です。この社会が作り出している富は、全体としては社会の成員みんなで作ったものなので、特殊利害や大きな偏りがあるとしたら、それは正当性をもたず改変されないといけないという感度ですね。もうひとつは、日本の将来、若い人が大勢の年寄たちをどう養うか。そういう問題もあった。誰がそれをより多く配慮するのか、二党制の体制で政権が大きく変わるというのは、国民が地方の特殊利害ではなく、そういう一般的な問題への配慮を重視して政治権力を選び始めたということだよね。ある意味、今回はじめて日本の政治で二党制が機能したとも言えるわけだけど、民主党がどこまでできるかはともあれ、そのことは、戦後の日本社会がまた一つ新しい局面にまで入ったと言えると思います。

_IMG_6142.JPG

●人類が向かうべき次の目標

沢辺 いまお話になった社会学が抱えている新たな課題というのは、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の言う「ある一定の社会の成長の先にニヒリズムが現われる」ということと結びつくんでしょうか? それとはまったく違いますか?

竹田 ニーチェの場合は、ヨーロッパのキリスト教の権威の没落ということが大きな指標だった。これはもうドストエフスキーの小説が典型的で分かりやすい。『罪と罰』にしても『カラマーゾフの兄弟』にしても、もし絶対的な超越性がどこにも存在しないということがはっきりしたら、一体人間は、ぎりぎりのところ、何によって自分の倫理のルールを支えうるのか、というのが大テーマですね。キリスト教はヨーロッパの人間の生の意味の絶対的な配給源だった。それがこけたら当然ひどいニヒリズムが現われる。だからこのニヒリズムとそれにともなうルサンチマン(誰も悪や不合理を決済しないのだから、社会のルサンチマンの総圧力は当然高まる)に抗う思想がどうしても必要になる。これがニーチェのモチーフですね。でも実際は、二十世紀の近代社会は、ニーチェが考えたほどの倫理の総崩れは起こらなかった。

それを支えた最大の思想はマルクス主義です。マルクスの「類的人間」の観念は、いま考えるとなかなか驚くべきことだけど、未来社会の理想的構図があって、それが若いインテリ層のハートをつかんだ。つまり、倫理性の軸になったんです。時代は厳しかったが、みな希望をもっていたんですね。それがここ2、30年ほどで、根本的に変わってしまったと思う。人間の未来がどこにゆくのかという像がもうどこにもありません。すると、キリスト教の没落のせいではないが、新しいニヒリズムが出てくる。こんどはヨーロッパのニヒリズムではなくて「世界ニヒリズム」です。はげしい社会競争が、それでも経済成長をもたらすような感度があれば、社会の中で仕事をすることにもなんらかの「意味」が感じられる。しかしいまはただ没落しないために普遍競争があるだけですね。だから、一人ひとりの労働や仕事の意味も、個人の実存の意味も見えないし、だれも保証してくれていない。貧しい国では絶望が深くなって原理主義や救済思想がでてくる。ただし断片的で総体的な力にはならない。そうして先進国では、市民の社会意識のニヒリズムがじわじわ進行していく。

ただ、ここ数年で言うと、さすがにポストモダン的社会批判はもう終わりつつある。日本でのいちばん最後の火が柄谷行人の『トランスクリティーク──カントとマルクス』(批評空間、2001年)かな。ある意味でこれは創造性があったが、あとはいろいろあってもバリアント(variant/変型、変種)ですね。そのあと動物的ポストモダンとか、国家論とか少し出てきて、いまは、アメリカリベラリズムかな、最新思潮は。社会正義の「公準」をどこに定位できるか、という議論ですね。

ともあれ、労働の話からだいぶはずれてしまいましたが(笑)、アレントには、ひとつの大きな展望の可能性がある。アレント的な前提で言えば、未来社会の可能性は、「人間の条件」として必要労働の要素を小さくしていって、<仕事>の要素がふえ、この要素の上に人間的「活動」というものの領域を徐々に拡大してゆけるか、というのが基本の構図ですね。国家や資本主義の廃絶という方向性の中心は、「権力」や「格差」のない世界というイメージですね。これはじつはルソー的な「自然と調和する人間像」を根に持っている。しかしこれは本質的にロマン主義です。アレントの方向はちがう。人間の「自由」の本質が、人間的「活動」がさまざまな多様性をともなってあらゆるところで沸き立つというイメージです。そしてこれは、ヘーゲルの近代社会像と基本的に同じ方向なんです。必要<労働>を上手に削減していって、<労働>を<仕事>に変え、<仕事>を<活動>に変えてゆく、というのと、社会的な関係を、「よい営み」を競い合う普遍的な「事そのもの」ゲームになしうるというヘーゲルのアイディアが最も近親性があります。わたしは彼等の考えが現実的でもあり、かつ本質的だと思います。

沢辺 そのアイディアの芽は、何かありますか?

竹田 「原理」だけなら、だいぶはっきりしてきたと思う。「資本主義と国家の市民的制御」ということがキーワードです。市民国家の権力は、ほんらい市民の一般意志だけを根拠とする。そうであるかぎり経済システムも同じです。十九世紀と二十世紀の国家と資本主義が、特定階層の独占支配の形になっていたいちばん大きな原因は、国家間の競合原理を抑制緩和できなかったことです。普遍闘争の原理は、国家権力の集中を最大化させるように働くけど、まったく同じ原理がここでも働いている。力のある先進国の民主化と市民的成熟が、市民国家間の協調的成長のルールを整備してゆくための第一歩です。それだけが資本主義の無益で不合理な競合原理の加速化を抑制してゆくための大前提です。

それから、世界大では人口を削減すること。私のプランだと、二、三世紀くらいかけていまの1/3から1/4くらいまで持続的に人口を抑制してゆくことは可能です。これがうまくいけば、エネルギー革命が起こるたびに(これはどこかで必ず起こる)、飛躍的に人間の一般的生活条件は上がってゆく。もし国家間の協調で人口抑制の課題をすすめられなかったら、エネルギー革命は生産性も飛躍的にあげるが、同時に人口爆発も起こす。これだと結局、いたちの追いかけっこです。

この課題をクリアできれば、一般生活条件があがることで、社会的な<労働>と<仕事>の質が変わってゆく。必要<労働>は完全にはなくならないかもしれない。しかし労働時間をもっと削減するための<仕事>、そして人間の楽しみやエロスを拡大するための<仕事>の領域は拡大してゆく。その上で、文化的な表現と相互承認承認のゲームとしての<活動>の領域も拡大してゆく。そのあとはもう人間にとって未知の領域になると思う。また新しい矛盾や問題が現われるかも知れない。しかし、少なくとも、文明発生以来はじめて、普遍的支配構造が終わり、普遍消費が実現する可能性は存在する。これはとりあえず人類が向かうべき決定的なつぎの目標となる。

●社会の流動性を確保するためのアイディア

_IMG_6176.JPG

沢辺 労働に関して別な視点から言うと、最近、肉体労働と知識労働の問題も解決しなければいけない課題だと思えるんです。知識労働の比率が増えてきていて、それはたぶん、これからも増えざるを得ない。肉体労働は機械化に取って代わられるわけで、たぶんそういう方向になるでしょう。そのときに、100人のうち90人くらいが知識労働をやるほど広く、人間は知的能力を持っているんだろうか?という疑問があります。

もうひとつ、こっちのほうが大きい問題なのですが、知識労働と肉体労働の比率で言うと、圧倒的に肉体労働は少数になっています。このとき、肉体労働者に対する他者からの承認、生き甲斐といった価値観を我々は生み出せるんだろうか? 肉体労働者の自己了解を俺たちはつくれるんだろうか? そういうことが最近、もう一度気になっているんですよね。

竹田 知的労働と肉体労働は、生まれつきの資質があるので、これを流動化するのはなかなか遠い課題です。美醜の格差のほうが、早くクリアできるかもしれない。考え方としては、社会のどういう矛盾から解決してゆくかについてのプライオリティに関して、できるだけ大きな合意を作り出すということです。とりあえずいま社会が解決しなければならない問題は、生活条件の格差、階層化、社会の先の展望と希望、老後の不安、ということですね。

でも若い世代が、未来社会の像についていろんな面白いプランを出すことはとても大事です。私の中心のアイディアは、何度も言うけど、まず週休三日制です。最低年齢別必要労働時間と、国民の年齢別最低年収。これは、マネーゲームをしたい人と、文化ゲームをしたい人とを両立させるための前提となるアイディアです。もちろん税金もいろいろプランがありうる。累進相続税の比率はとても大事です。もともと市民社会は、競争ラインの対等ということが理念的には存在する。いきなりやると恐ろしい抵抗が起こって、紛争になるかもしれないが、数世代かけて市民の競争のスタートラインがなるべく対等になるように変えてゆくことは、市民社会の成熟にとってとても大事なアイディアの一つです。

あと、たとえば、隣の韓国では、二年間の徴兵制がある。19歳から29歳くらいまでの間、好きなときに二年間兵役に服する。戦争のためではなく、市民社会の平等なシステムとして、若いときのどこかで二年間とか三年とか、休みとかもきちんととって、公的労働制度でみんな社会のための必要<労働>をする、というものです。老人の介護とか、人手不足の教育要員とか、私は三十過ぎまでフリーターでずっと働いていた。社会的な承認はそのあとでOK。その間に<仕事>のためのスキルを上げるといい。肉体労働と知的労働の分業は競争原理だけに任せると、なかなか流動化するのが難しいから、世代的に若いときは、できるだけ肉体労働するようにすればいい。いまは大学入試と、新卒時の就職で、社会階層がほとんどきまってしまう。これは、きわめて固定的な希望のない社会のシステムですね。さまざまな多様なゲームがあり、なるべく多く敗者復活やリセットの可能性がある社会のほうがよい。

アレントによれば、ギリシャでは、いちばん下に奴隷労働があって、つぎに家事労働があって、その上に少し<仕事>があり、いちばん上に自由市民の<活動>がのっかっていた。<活動>の中に精神の自由が発露する可能性があった。だけどいちばん上の人間の「自由」は、はっきりした階層支配によってはじめて支えられていた。これは市民社会では、固定的階層構造ではなく、年齢階層としてやればいい。これだとみんな対等だものね。若いうちはみな奴隷労働(笑)。二十歳代はみんな肉体労働をやる、という了解。労働をたくさんして公共に奉仕するその度合いにしたがって少しずつ「自由」を享受できる度合いが上がってゆく。これがいちばん不満をもつ人間が少ないシステムだね。若いうちに死んだやつはかわいそうじゃないかということになるけど、そこまではなんともできない(笑)。

ともあれ、そういう成熟したシステムのアイディアをいろいろ考えるだけでも意味がある。でも、資本主義、国家反対とか言っているうちは、いつまでたってもそういう方向に社会意識はすすまない。いかに気の利いた言い方で、いまある国家や資本主義を辛辣に批判するか、これがいま若い人が知識人として成功することの秘けつになっているとしたら、なかなか悲しい現状です。

沢辺 でも、奴隷が下にいるから自由な市民が乗っかっていられるという一部の人たちだけが自由を獲得できるようなやり方は、人類がこれまでになくならせてきたものではないですか?

竹田 近代社会は、そういう固定的階層構造を取り払おうとするプロジェクトだった。ただもちろんそう簡単にいかない。たとえば、十九世紀、二十世紀始めの、ロシア、イギリスの文学、トルストイ、ドストエフスキー、オースティンなどは、プチブル階層のインテリがまず「自由」に目覚めるんだけど、自分たちの自由・文化・教養は、完全に虐げられ自由の自覚もない蒙昧な下層階級の<労働>の犠牲の上に立っている、という矛盾の意識をはっきりもっている。漱石にも強くあるね。とくに貴族階級に生まれたトルストイは、このことで晩年深い意味の意識にとらわれた。人類にはいつかそういう階層のない社会に進んでいける知恵はもっていると思う。平等な社会の実現は難しいけど、流動性の高い社会なら原理がちゃんとある。

沢辺 そういう意味の階層は、いまの日本ですら少し残っているかもしれませんね。たとえば東大生の親の年収が高い、といったような。

竹田 それは大事な課題で、身分ではなくて、教育の程度で階層が決まる、このことがじつは市民社会が階層の流動性を確保する基本のシステムだったわけです。教育のコストがこれ以上かかるようになると、階層の固定化が加速度的に進んでいく。すると市民社会の根底があやうくなる。お金ではなくて、努力と能力で教育が決まるようなシステムを確保することは、とてもプライオリティの高い問題です。

沢辺 流動性がなくなりますもんね。

竹田 せっかくの市民社会が、実質的に、無限に階層社会、階級社会に近くなる。教育と競争経済のシステムは支え合って市民社会を支え合っているので、平等な教育も平等な経済もありえないが、それが流動性を確保できなかったらすべては水泡に帰す。アイディアとしては、お金と時間のコストをかけるほど成績点があがるようなメモリ能力評価中心の教育システムを組み替えて、討論や論理思考などの能力を中心的に評価できるシステムに変えるだけで、かなり流動性は確保できるはずです。実際に企業が競争に必要とする能力も、メモリ能力は半分でしかない。メモリ能力を上げていくことにたくさんのコストをかけるのは、社会の普遍資産の無駄遣いで、失業状態が多いのと同じです。何がじっさいに社会活動や人間関係にとって必要な能力なのかを研究する教育学がなくてはいけない。この意味でも社会的のコストの効率をあげるほど、人びとの一般福祉があがるはずです。教育は政治権力、軍事、警察、医療と並んで、単に競争原理だけに任せておいたら、市民社会の土台を壊してしまうような重要な領域で、まさしく「市民的制御」が必要なんです。

_IMG_6109.JPG

●近代哲学の深い理解から新しいすぐれた思想が生まれる

締めくくりにもう一度言うと、こういう社会的展望は、資本主義と近代国家自体を批判する発想からは出てこない。まず二十世紀の批判思想がはやく解体して新しい展望へ進み出るべきなんだけど、そのためには新しい世代が、ほんとうに知的能力を身につける必要がある。若い人は、いきおい最新流行の思想をやりたがる。そのほうがカッコもいいし、ある人たちには身を立てる上での早道でもある。しかし、できるだけ知的にどん欲であるべきだけど、私としては、志のある者は、なによりまず哲学を五年やってほしい、だね(笑)。

最新流行思想ももちろん大事だけど、近代哲学をちゃんとやっていると、その歴史的な意味と位置づけがきわめてクリアに分かるし、個々の思想がどの程度原理的な有効性があり、何が根本的に欠落しているのかということも、すぐに理解できる。自分が専門なので、我田引水になってしまうけど、近代哲学を欠いたまま流行思想をやると、どうあがいても日本の思想はアメリカとヨーロッパの知識人の後追いしかできない。十九世紀以来の日本の思想を見れば一目瞭然です。むしろこの半世紀、欧米では分析哲学とポストモダン思想のおかげで、近代哲学に対する関心度が下がっていた。いまこれをしっかりやると、そのうち知的体力で勝ってくるかもしれない。

沢辺 なるほど。たしかに忘れられてる感じですね。

竹田 哲学や思想というのはそういうところがあって、つぎのすぐれた思想は、前の思想の深い理解を土台にしてはじめて出てくる。いまやマルクス主義やポストモダン思想が一般教養でいいんです。デカルトとホッブズ、啓蒙思想から全部やり直すのがいい。するとマルクス主義もポストモダン思想の存在理由もはっきりしてくる。どこからどの程度の深さで掘り直すかによって、新しい思想の強度がきまってくる。それは自然の理なんだよね。

沢辺 昔、呉智英さんが本で書かれていたんですが、中国にすごく頭のいい百姓のせがれがいて、貧乏だったから上の学校にあがれなかったんだけど、卒業式に先生が、「きみは上の学校にはいけないけれども、勉強というのはどこでもいつでもできるんだよ。勉強は続けなさい」と言った。その何十年後かに、その先生が偶然、その頭のよかった生徒に会ったら、「先生、こういう問題が解けました」と見せてくれた。でもそれはもうすでに誰かが解いた方程式で、それを百姓をやりながら、自分一人で何十年もかけてやったのか、とびっくりした。学校へ行かせて、武器としての方程式を手渡してあげればよかった、とその矛盾にがっかりした。そういう話を呉智英さんが引いてたんですよ。竹田さんが、「五年哲学をやりなさい」と言うのは、そういうことですよね。

竹田 その通りです。わたしも経験があるけど、若いときは何か独創的な見方をしたいんです。だからできるだけ新しいものを食べたがる。でもほんとうに視線が上がるのは、ちょっと土台を積んでいくことによってです。するとあるとき気がつけば、視線が高くなり、視野と地平が広がっていることに気づく。地平が広がることではじめて思いつきの考えをすべて殺すことができる。ほんとうに独創的な考えはそういう条件から出てくる。近代哲学は土台の煉瓦なんです。いま世界の先端の思想は、アメリカリベラリズムでも、ポストモダン思想でも分析哲学でも解釈学でも、二十世紀思想の後退戦です。自分はその先に出ようと思う人は、まず近代哲学からやって欲しい。それが結局いちばん効率的でもある。

沢辺 早く効率的にいけて、自分のオリジナルを生み出す時間が増えるということですよね。(了)

これまでの回

第1回「自由と労働」

プロフィール

竹田青嗣(たけだ・せいじ)
1947年大阪生まれ。哲学者、文芸評論家。
早稲田大学政治経済学部卒業。現在、早稲田大学国際教養学部教授。

『低炭素革命と地球の未来』発売中

『低炭素革命と地球の未来』─環境、資源、そして格差の問題に立ち向かう哲学と行動
著●竹田青嗣、橋爪大三郎
定価1800+税
ISBN978-4-7808-0134-7 C0036
B6判 / 192ページ /並製
[2009年09月刊行]
目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。

2010-03-02

談話室沢辺 ゲスト:山路達也 「電子出版時代の編集者」

◎電子出版時代の編集者

電子出版時代の編集者の役割は、「必要/不要」では語れない。
2009年10月に、アルファブロガー・小飼弾氏との著書『弾言』『決弾』のiPhoneアプリ版を自らの会社から発売したフリーのライター/編集者の山路達也さんに、書籍の執筆・編集から電子書籍発売後のフォローアップまで、それぞれの段階で何を考え、何をしてきたかを話してもらった。
「2010年代の出版を考える」、編集者編。
(このインタビューは、2010年1月19日に収録しました)

プロフィール

●山路達也(やまじ・たつや)
1970年、三重県生まれ。フリーのライター/編集者。
パソコンやインターネットに関する書籍を中心に活動中。
著書に『頭のいいiPhone「超」仕事術』(田中拓也との共著、2010年、青春出版社)、『マグネシウム文明論』(矢部孝との共著、2009年、PHP新書)など。
binWord/blog
Twitter:@tats_y

●『弾言』『決弾』の下地

沢辺 まず山路さんの経歴を教えてくれますか。

山路 93年4月に大学を出て新卒でソフトバンクに入ったんです。当時は今ほど有名ではなく、出版事業とPCソフトの卸売をやっている会社でした。その出版事業の、『Oh! PC』というPC-98専門雑誌の編集部に入ったんです。

ソフトバンクに入って1、2年目が、ちょうどQuarkXPressというDTPソフトで雑誌をつくり始めたころでした。その頃の私はMacに詳しくありませんでしたが、入社したころは、出版社が経費削減のためにDTPの作業まで編集者に押し付けていた時代でもあったので、編集者の作業だけじゃなく、DTPもやりました。それでDTPに慣れた部分もありましたし、ガジェットやITっぽいものへの知識もつきましたね。

3年と3カ月勤めてからソフトバンクを辞めて、1年ぐらいオーストラリアに行っていました。
ワーキングホリデーのビザをとって、メルボルンの近くのジロングという小さな町のレストランで働いたんです。キッチンハンドといって、皿洗いみたいなものでしたけど。

その後外国人向けの専門学校に通って英会話をやり、オーストラリアをぐるっとバスで1周した後日本に戻ってきて以来、何となくフリーの編集者兼ライターとしてやってますね。

沢辺 もっと遡って聞いてもいいですか。生まれはどちらですか?

山路 三重県の四日市です。

沢辺 小さいころはどういう子供だったんですか。

山路 本はよく読んでましたね。おやじは普通のサラリーマンでしたが、とにかく本をよく買う男で、休日に出掛けても、紙袋にいっぱいに中古の本を買ってきました。

沢辺 お父さんはいくつ?

山路 昭和9年生まれだから、今75歳です。ただ、父親が読んでいた本は気に留めていませんでした。そんなに仲が良かったわけでもないので、父親が薦めるものは読まなかったり(笑)。
父親の書棚にあった本で覚えているのは、松本清張と、ノーベル文学賞を取ったようなものですね。
沢辺 じゃあ、文学が多かったんですかね。

山路 でも、週刊現代のグラビアも大好きで、写真集もいっぱいありましたよ。

沢辺 いま山路さんは謙遜してそう言ったかもしれないけれど、俺は携帯小説だって何だって、日常的に読んだり書いたりすることは、自分の問題を考えたり解決したりする力をつけるために大切だと思う。本を「文化」にするのはあんまり好きじゃないんですよ。佐伯泰英でもエロ小説でも、日常的に文章を読む習慣があるほうがいいんですよね。

山路 私も「本は高尚なもの」という考え方は違う気がしますね。「目の見えない方向けに世界名作文学を点訳して読ませよう」なんて人もいますが、ふざけるなと思います。名作文学だけが本ではないですから。
でも、子供としては破格に本を読んでいたかもしれません。1〜2週間に1回図書館に行って、借りられる限界の冊数を借りてきてました。

沢辺 そのころ、勉強はできたんですか?

山路 小学校の時はできましたね。ただ、勉強をする習慣はなかったんですよ。だから小学生の時はよかったんですけど、勉強する習慣はずっとなくて、中学校に入ってからも最低限でしたね。

沢辺 だけど、最終的に東大に入ったんですよね?

山路 勉強したのは高3になってからですよ。進学校ではありましたけど、中高一貫だったから入ってから5年間は勉強をする習慣がなかった。

沢辺 大学は何を専攻したんですか。

山路 文学部でしたが、文芸批評ではなく、言語学でした。
ただ、言語学に進んで「やっぱり違うな」と思ったんです。その当時、脳に電極をつなげて活動を見たり、人はどのように考えているのかを心理学的に追求したり、いろんなアプローチで言語を探ろうという動きがあったのですが、自分が進んだのは本当に旧態依然とした言語学だったので、幻滅してしまったんです。
もちろん、向学心にあふれる学生ならば自分で学際的な分野を見つけて研究するだけの話なので、単純に私に向学心がなかっただけですけどね。

大学卒業が93年なのですが、89年から90年代前半は16ビットパソコンが出てきて、MS-DOSも出たころですね。
それを使って自分なりに簡単なプログラムを書いて言語学の仮説を分析したりしていました。

●なぜ「iPhone」だったのか?

沢辺 でも、それが昨年発売したiPhoneアプリの『弾言』『決弾』にも繋がっているわけですよね。今日一番聞きたかったのはiPhone版の『弾言』と『決弾』をなぜ自分の会社でiPhoneアプリにして販売までしたのかということと、実際やってどうだったのか、やる過程で何を考えたのか、その3つです。

山路 深い考えはないんですよ。単純に、iPhoneはユーザーの側から見て面白いじゃないですか。Appストアにも、既に「電子書籍」というカテゴリーがありましたし。最初のころはグラビアとかコミックぐらいしかなかったですけど。
それ以前にも、ちょっとした文章のPDFを転送したりしていました。iPhoneなら文庫本と遜色ないサイズで、PDFでも結構読みやすいですよね。
そういうこともあって、これで本を出さない手はないな、と思いました。

今回iPhoneアプリにした『弾言』は、自分でも「いい出来だ」と思った仕事で、本の中で小飼氏が語っている考え方は、若い人にももっとアピールしたいと思っていました。iPhoneを使っている層は特にITに興味がある人だし、小飼さんとのマッチングもかなり高いと思うので、その点でも適していました。

沢辺 iPhoneについて、もう少し詳しく聞かせてください。山路さんは今、iPhoneをどんなふうに使っているんですか?

山路 怖いぐらい生活に溶け込んでいるので、「何が」と言われると、逆に悩んじゃうぐらいですね。

ひとつずつ挙げていくと、まず、MobileMeでPCと連動させて、予定やアドレスの管理をしています。

沢辺 メールはどうですか? 僕はiPhoneは読むにはいいんけど、書くのが面倒くさいから、本当に必要最小限で、特に社内のメールのやりとりだと「よし」や「OK」の2文字で済ましちゃいます。

山路 私も、iPhoneではあまりメールは書かないですね。読んで重要なことを振り分けたり、ちょっとした返事に使っています。メールは全部Gmailで管理していて、読まなくていいものはその場で処理して、後で返事をするものにはラベルを付けて、改めてPCで処理したりしています。
会社のメールもプライベートのメールも全部Gmail上で一元管理できますから。
Gmailなら検索も早いし、iPhoneからも過去のメールのすべてを呼び出すことができます。

スケジュール管理も、とても便利になりました。例えば取材に行く場所の住所をメモ欄に貼り付けておけば、それをクリックすると地図が表示されて、そのまま経路検索までできちゃう。

あとはEvernoteというサービスを使えば、情報を集めるだけじゃなくて、同時にメモにもなります。仕事のメモや気になった記事をとりあえず全部放り込んでおくことができるから、「あの情報はどこにあったんだっけ」ということがなくなるのがいいですね。

沢辺 僕はこの6〜7年、すべてのことがなるべくメール上で完結するようにしているので、Evernoteに乗り換えるかどうか迷ってますね。
原稿もテキストエディタを使わずにメールソフトのThunderbirdで書いて途中経過を保存しておくくらい。
書き終わったら社内の一斉配信アドレスに送ります。絶対読まなきゃいけないわけじゃないけど、「社長がこんな原稿を書いたぞ」というのを知っておくことができるように送っています。さらに俺は、できるだけブログに公開するようにしてるんだよね。

山路 それは素晴らしい。

沢辺 ブログで公開しておけば、ブログが自分にとってのデータベースになるんです。例えば雑誌の場合は、1カ月後には次号が発売されますよね。だから原稿を編集部に送るときはメールに直接貼りつけて送って、「1カ月後に公開させてもらいます」と一応断っておくんです。そうすると、自分の記録がブログとメールで全部見れる。
Evernoteのほうが良いところがあるのもわかるんだけど、今身についてる習慣を変えるのが面倒くさくて。

山路 でも、Evernoteはメールと連動していますよ。Evernoteの自分のアドレス宛にメールをすれば、それがどんどん蓄積されていきます。社内に送っているものを、Evernoteの自分用の投稿用アドレスにccしておけば勝手にたまっていくので、同じ習慣のままEvernoteにもアーカイブができていくのではないでしょうか。
Evernoteなら、音声や出先で写真、ウェブ上のクリップ、あるいは名刺をスキャンしたものなど、何でも入るので便利ですよ。でも、人それぞれのスタイルがありますから、それに合ったものが一番いいですね。

他にiPhoneでよく使うのは、手書きメモとTwitterです。Twitterのクライアントは、以前はTweetieでしたが、最近はTweetDeck

沢辺 なぜ変えたんですか?

山路 個人用やブログからの情報を発信する用など、複数のアカウントを使い分けているので、それを切り替えて見るのにTweetDeckがいいんです。例えば私だったら、最近出した『マグネシウム文明論』(PHP新書、2009年)という本の評判が気になりますよね。だから、「マグネシウム」というキーワードを自動で検索して集めるカラムもあれば、Green Techに関するキーワードで検索しているものもあって、そのすべてがTweetDeck1つで見えちゃう。今日(2010年1月19日)日本の開発者が出したTweetMeというソフトもTweetDeckと同じことができるらしいです。

●編集者も著作権者になる

沢辺 紙版の『弾言』『決弾』を出すにあたって、山路さんはどのようなポジションだったんでしょうか。

山路 言わば、ゴーストライター兼編集者ですね。人間、普通に話していて頭から終わりまでがきれいにつながることはないですよね。だから、著者と話しながら引き出したいことを聞いたり、難しいところでは、「その話は、例えばこういうことなんですか?」とキャッチボールをして相手の言葉を引きだしていきます。文字に起こした後もさらに私のほうで例を足したり、もっとスムーズに伝わる文書表現を考えながらドラフトを書いて、著者に確認してもらいました。

沢辺 そもそも言い出しっぺは山路さんだったんですか?

山路 「小飼さんと本をつくろう」と言い出したのは出版社の人です。私は、出版社の人から「小飼さんの本を出したいから企画を考えてくれ」と言われたかたち。そこから企画書を書いて小飼さんにアプローチして受けてもらいました。話をしているうちに企画書とは全然違うものになっていったので、今のかたちにしたのは「誰」ということでなく、「共同作業」ですね。

沢辺 印税は「編集」としてもらった?

山路 たしかに「編集」もしているのですが、出版社側の編集者がいて、原稿を見て直したり、「ここはこうしたほうがいい」ということも言います。校正も出版社側がやりました。
だから『弾言』と『決弾』に関しては、「著者印税を分割」した感じですね。私はあくまでも書き手として参加しているという考え方です。

沢辺 じゃあ、著作者は小飼弾と山路達也の2名だと明示された契約書を交わしたということですね。

山路 はい。ただ、多くの出版社が同じだと思いますが、契約書を交わしたのは本ができた後でした。
著作権者として契約を結んだからこそ、iPhone版を出すことができたんです。iPhone版『弾言』『決弾』のポイントの1つは、著者自身が本を売っているということだと思うんです。

沢辺 著者だから、iPhoneでやりたいというのも言いやすかったと。小飼さんは二つ返事だったんですか。

山路 はい(笑)。「いいですねえ。どんどん進めて下さい」と。

沢辺 出版社はどうでしたか。

山路 出版社にiPhoneアプリについて打診してみたのですが、会社的にはあまりiPhoneアプリに乗り気ではなくて。

沢辺 じゃあ、最初から自分でやろうと思っていたわけではなかったんですね。

山路 そうです。どうも出版社から出なさそうだったので、私が出版社に使用料を払って、私の会社から文庫本を出すかたちにするんだったらどうですか、と提案しました。正直、出版社としてリスクはない代わりにうまみがあることでもないから、普通の出版社だと「うちでも将来やるかもしれないから」みたいな返事をするところが多いと思うのですが、長いこと一緒に仕事をしてきた編集者だったことと、出版社としてもどんな反響があるのか興味があるということがあったので、OKになりました。

できればiPhoneに限らずPCや携帯も含めた「電子書籍」を考えていたのですが、「全部はちょっと」ということだったのでiPhone限定で、使用権の許諾を得ました。

実は、そのために会社設立もしたんですよ。仕事をするときに法人のほうがスムーズに頼めることが多いから、どのみち会社にしたほうがいいかなと考えていたタイミングだったし、それほど深い考えがあったわけじゃないですが。
ついでに会社申請をオンラインでやって、法務省のオンライン申請システムがいかにアホかという記事を書くこともできるかなと(笑)。

●電子書籍化にかかったコスト

沢辺 では今回は、本が出た後に電子書籍のことを考えて、本が出た後に出版社に相談したということですよね。最初にこの本をつくるとき、電子書籍を展望してなかったわけですか。

山路 全くないということはないですね。数年前から、本をつくるたびに、電子書籍の展開はできないかということは頭の隅にありましたよ。

数年前にある本をつくったとき、私は「将来的にPDFなり電子的な形態で配布できるように絶対しなきゃいけない」と主張したんですね。出版社の人にもそう言ったんです。後で別の判型にして再利用したり、あるいはそのままの判型だけどPDFのかたちで売れるようにしたい、と。再利用は今後絶対に大事になることだからと強く主張したのですが、デザイナーが「このフォントでないとやりたくない」といってきたフォントが、埋め込みのできないOCFフォントだったんです。とにかくそのフォントにこだわりがあって、「読者はそこまでフォントにはこだわらないから、ちゃんと再利用できるかたちでつくってくれ」と何度も言ったんだけど、結局説得できませんでした。

沢辺 では、数年前から電子化を考えていたということですね。

山路 そうです。将来的な流れとしては、そうならざるを得ないと思っていたので、その時から、再利用できるかたちでと思っていたんです。それも説得できずという例なんですけど。

沢辺 でも、そういう思考があったから、『弾言』『決弾』に繋がってるんですね。僕が聞きたいと思ったのは、例えば書いている段階で「電子化権を僕にくれませんか」という話は出てこないのかな、と。
これが村上春樹だったら、著作権契約する時に「電子出版権は私にください、そうじゃなかったらサインしません」と言えば、出版社も同意せざるを得ないですよ。だけど、大半の著者と出版社の間には、実際上、力関係がありますよね。

山路 私は村上春樹みたいな力はないですからね。

『決弾』の出版社の契約書のフォーマットは、紙以外の発行形態に関しては、その時に著作者と協議する、という1項が入ってるんです。電子化のことは頭の片隅にあったので、その点は確認しておきました。

沢辺 iPhone版にしたとき、出版社には何%払ったんですか。

山路 大体、文庫化と同じ相場ですね。

沢辺 じゃあ、僕の相場観だと2%〜3%前後かな。

山路 ほかに、イラストレーターとデザイナー、装丁家にiPhone版を出す時の2次使用料、オーサリング会社に技術使用料を、私の会社から払っています。

●アップルによるiPhoneアプリ審査の問題点

沢辺 ここまででiPhoneアプリ化に向けて権利関係は処理したわけですよね。次は、具体的な作業とアップルとの交渉ですか?

山路 「交渉」ではないですね。ほとんど自動ですから。年間99ドル払ってiPhone Developer Programに登録すれば、誰でも販売できるんですよ。

沢辺 登録してしまえば、あとはアプリ個別の審査だけ、と。

山路 ただ、大谷和利さんがアップルのことを書いた本をAppストアで出そうとしたらリジェクトされたことがありましたね。今の基準はわからないですけど、少なくとも、最初はアップルのことを書くとリジェクトされることがあった。

沢辺 エロとかグロに対する感覚も日本とはズレがあるそうですね。例えば日本ではスカトロのエロ雑誌もあるけれど、アメリカではスカトロに対する排除感が強いらしく、雑誌では出せないそうです。その一方でモロ見えは年齢制限があればオーケーだったり、日本とはわいせつに対する基準が違うらしいんですよね。

山路 でも最近、エロいアプリが増えている気がしますけどね。けっこう過激なグラビアもあるし、息を吹きかけるとスカートがめくれたりするものもある。それが審査を通っているのに、文章でエロ表現があったらリジェクトするのはどういうことなのかと。(注:最近AppStoreの審査基準が変更になり、セクシー系アプリはほとんど削除されています)

沢辺 混乱期だし、迷いもあるでしょう。基準をどの程度に設定するのがいいのか。
ともかく、『弾言』『決弾』に関しては、審査はどうってことなかったですよね。

山路 そうですね。ただ、どれぐらいの期間がかかるかや、今どういう段階にあるのかがわからないので、そこはドキドキしました。2〜3カ月経ってからリジェクトされることもあり得ると聞いていましたし。それこそ、Developer Programに申し込んだ時の銀行口座の確認にしても、「ちゃんとやってるのかい?」とわからん不安感はありました。

沢辺 アップルもそうだし、GoogleもAmazonもそうだけど、お客さんに対するサポートは丁寧なんだけど、パートナーに対しては不親切さがありますよね。

山路 売るなら、売れば、みたいな。
アップルの製品は、すごくスムーズで格好いいユーザーインタフェイスじゃないですか。でもiPhoneデベロッパープログラムのサイトは、売上を確認するページと、その他の登録を行なうページとで、ユーザーインターフェイスが全然違ったりするんですよ。とてもアップルがつくっているとは思えないぐらいの手抜きっぷりで、本当に不親切です。
表の部分の顧客の部分に力を入れていて、手が回らないのかもしれないですけど。

沢辺 顧客の部分が大切だというのはわかるけどね。

●電子書籍の未来はフォーマット次第

沢辺 さて、電子書籍をつくってAppストアで売るという方針が定まった上で、フォーマットはなぜドットブックにしたのでしょうか。

山路 フォーマットは、結構悩みました。青空文庫のビュワーアプリを開発している人にお金を払って、テキストを埋め込んだかたちでのアプリをつくってもらうことも考えました。そうすれば文字の拡大・縮小も自由ですし、読みやすいものができます。その代わりに、高くつく。

電子書籍を出すんだったら検索機能やフォントを切り替えをやりたいのは山々だったんですが、コストのことを考え、一番低コストでなおかつ読者から見栄えがいい。とにかく読書体験としてスムーズに読むことができるものとして、ボイジャーさんのドットブックを使ったアプローチを選んだんですね。

ボイジャーさんは、販売の条件など、さまざま柔軟に対応してくださったことも大きかったです。社長の萩野さんは1993年のエキスパンドブックのころからずっと電子書籍をやっていらした方で、すごく理解のある方でした。

沢辺 ちょっといかれたおじいさんだけどね(笑)。

山路 (笑)。一般の作り手にあれだけ安くソリューションを提供して、企業からはそれなりの金を取って何とかビジネスとして回して、なおかつそれを普通の本の文化の作り手に還元するって、普通の人ではできないことですよね。それに対して感情的に共鳴した部分もあります。

『弾言』を出したときはフォントの切り替え機能はなかったですが、今多くの人が読んでいる文庫本だって、多くの人が読めるサイズにしてあって、「どうしても読めない人は老眼鏡を掛けてください」というメディアですよ。だから、9割の人が満足できるフォーマットという意味で、妥協できる範囲かなと。
一応、目次から該当箇所にジャンプできますしね。

これもドットブックの問題点といえば問題点ですけども、表現力がすごいわけじゃないじゃないですか。TTXというドットブックのソースファイルにHTMLのようなスタイルシートを使って装飾できるのかと思ったら、全然できないんですよね。凝った見出しをつくろうと思ったら、画像で貼り付けるしかない。でも、画像で貼り付けるとなると、今後、解像度の違う機種で展開する時にどうするんだ、とさまざま問題が出てくる。そこは悩んだんですが、あまり凝った見出しにしないということで妥協しましたね。

沢辺 僕は小見出しとか、飾りつけについては、どうでもいいかな、とい個人的には思っています。でも、例えば、表組みはHTMLのようにしてほしい。現状、InDesignでの組版で表を入れる場合、Illustratorでつくった見栄えよくつくった表を「画像」にして貼りこんだりしているわけですよ。

最終的には、僕は電子書籍はテキストに戻っていって欲しい。出版されるのは大元のテキストで、ビュワーの側でCSSのようなものを適用させることで、見栄えがよくなる。

山路 私も、それが実現されないといけないと思います。新しいHTML5はグラフもきれいに生成できるし、動画もそのまま動きます。電子書籍のフォーマットも、純粋なテキスト部分と装飾部分は分離されるべきだと思います。

そういった普遍性のあるフォーマットができないと、電子書籍の可能性は本来の100分の1も出せないと思います。共通のフォーマットがあれば、書籍間で相互に参照できるようになります。相互に参照することができれば、ある本の中に別の本から引用している文章があったとして、そこをタップしたら引用元の書籍の該当部分が表示することができるし、さらに該当部分のページを買いたければ買えるようにもできます。もちろん、丸ごと買うこともできる。フォーマットが一社の独自の形式だったら、書籍間の相互参照はできないですよね。それこそHTMLのリンクのような形式は整えてくれないと、豊かな電子書籍の利用の世界は開けないと思います。

今はGoogleも本に関しては「Googleブック検索」という仕組みの中での検索結果を出していますが、情報を知りたい人にとって、それが本であるか、ウェブであるかはどちらでもいいことですよね。ウェブと本を同じように扱うためにもフォーマットは必要でしょう。

沢辺 でも、本と名乗っていようが、EPUB形式であろうが、何形式であろうが串刺しできるようになると、検索の結果が膨大になってしまわないですか?

山路 それは純粋に技術的な問題だと思いますね。
今後「本」という言葉は、ものすごく広い範囲の言葉になると思います。「文字が印刷されたものを綴じた」という定義じゃなくて、「ある程度の、ある集まりの人たちによって編集された情報の集まり」のような定義になり、「ここはきれいに編集されたコンテンツですよ」ということを識別するのに「本」というラベルが貼られるだけになる。そういう世界に参加するためにも、やっぱり共通フォーマットが必要だと思いますね。

12.jpg

●本はどこまで構造的にできるのか

沢辺 実際に電子書籍をつくってみて、悩ましかったことは他にあります?

山路 専用のエディタがあると便利だと感じました。私は見せ方にもうちょっと凝りたかったので、自分でソースコードを書くことを選んだのですが、やはり面倒だったので。ただ、まだ工夫次第で何とかなるレベルの面倒なので、それほど大きな問題ではないですね。

沢辺 僕は技術的なことではなくて、編集的な面で、文章の構造化が課題になると思っています。章・節・項、大きいところから小さいところへという概念が、今はいい加減すぎると思う。
逆にいうと、今の山路さんのような編集的ポジションにいる人に求められるのは、本の構造をきっちりつくることではないでしょうか。

山路 現状でも、それを考えてつくってはいます。
でも、紙の本をつくる際は、デザイナーに渡される時点で構造はある意味、破壊されていますよね。渡される時には大見出し、中見出し、小見出しとあっても、デザイナーはそれをざーっと流し込んでいくイメージじゃないですか。
多分、最初にざっと流し込んだレベルでは、まだ階層構造は保たれていると思うんです。でも後から修正するときに、GUIのインターフェースで修正すると、論理構造が完ぺきじゃなくなっていくんですよね。

結局どうしたかというと、InDesign上のテキストだけをエディターに貼り付けて、自分なりに「これは大見出し、これは小見出し」と手でマークを付けていき、マークを正規表現で一括置換してタグに置き換える、という作業をしました。
そこのところはAdobeやほかのソフトウェア会社に頑張ってもらいたいですね。

沢辺 俺は、Adobeなどのソフトウェア会社が何とかする余地は十分あると思いますけれども、重要なのは人間だと思ってるんですよ。著者も編集者もデザイナーも、三者が文章の構造の重要性をふまえてつくってないと、電子書籍にするのは難しいと思うんです。

もしくは、三者全員が構造を考えてつくるのはあきらめて、デザイナーだけがオペレーターとしてこだわりを持って徹底的に構造化するようになるかもしれない。

山路 私は、最初の著者の段階で論理構造を持っていないと、デザイナーがこだわりを持っても難しいとは思いますけどね。
だから、今後は著者から出版社に原稿を送る時にタグを付けたものを送るのがマナーになってくるんじゃないでしょうか。

沢辺 いや、そんなことができる著者はほとんどいないんじゃない?

山路 タグといっても、そんな難しいことじゃないですよ。今だって「大見出し」「小見出し」くらいは書いているのではないでしょうか。私が書くときは、プレーンテキストで送る時でもマークをつけるなどして、必ず構造がわかるようにして送っています。

沢辺 でも今は、例えばWordで原稿を送ってもらったら、見出しはフォントがでかくなっているとか、そのくらいですよ。Wordが浸透したので、著者も見た目を意識するようになったとも言えますが。

山路 そのWordにだって構造化を前提にした機能があって、「見出しレベル」を設定しておけば、その見出しだけ一括してスタイルを変えることもできるんですけどね。

沢辺 でも、誰も使ってないよね。

山路 Wordは書くツールとして使いづらすぎるから、構造化を意識した機能があっても、物書きが物を書くツールとしては使い得ないところがありますよね。

でも、せめて大見出し、小見出しさえ意識しておかないと。

テキストエディタによっては、行頭にピリオドを付けておけば見出しに、2つピリオドを付ければ、小見出しにということもできます。

沢辺 Wikiみたいにね。でも、僕はWikiが嫌いなんですよ。
構造化は大切だと思うんだけど、Wikiを見ていると、プログラム屋さんの発想のままのような気がするんです。

山路 沢辺さんの言いたいこともわかるのですが、そこで一般寄り