2010-05-10

談話室沢辺 ゲスト:東京電機大学出版局・植村八潮 第1回「20年後の出版をどう定義するか」

電子書籍や出版の未来をめぐって、出版界の内外ではさまざまな意見が飛び交っている。しかしそもそも、書籍が電子化されることの意味とは何だろうか? 「本であること」と「紙であること」はどう違い、どう結びついているのか?
電子書籍の権利やフォーマット、教育現場での活用に詳しい東京電機大学出版局の植村八潮さんに訊いた。
(このインタビューは2010年3月27日に収録しました)

プロフィール

植村八潮(うえむら・やしお)
1956年(昭和31年)生まれ。東京電機大学出版局長。日本出版学会副会長。共著に『出版メディア入門』(日本評論社、2006年)『情報は誰のものか?』(青弓社、2004年)。
東京電機大学出版局
連載「ネットワークと出版」

電子書籍とは何か

植村 そもそも電子書籍、電子出版をどう定義化するかによって、話は全然変わってくるよね。日本には電子書籍市場が全然成立していないと言う人もいるけど、ウェブサイトコンテンツの広告モデルやケータイコミック、電子辞書へのデータ提供などそれなりにやってきてるよ。電子辞書なんて、日本が世界に誇れるコンテンツの再利用の仕組みだよ。上手くやれるところからやってきていて、一番やりにくいところを今までやってきていないだけだと思う。

沢辺 この間の電子書籍をめぐる議論の中で、俺が「足りない」と思っているのは、大元に立ち返った「編集の重要性」のような部分。
それから、出版界のムードと出版界の外側で出版に興味がある人たちのムードが明確に違っていることも危惧している。
たとえば日本電子書籍出版社協会(電書協)での野間省伸さん(講談社)の挨拶は批判を受けてた。批判される理由もわかるんだけど、そもそものイメージとして「出版社は既得権を維持しようとしている」と思われちゃってるわけだよ。そこを打破したいんだけどさ。

植村 「電子書籍にどう対応しますか」という問いに対して、出版社は真面目に対応しようとしているし、既得権を守ることを中心に動いてはいないと思うよ。電子書籍は個別、地方戦ではけっこう成功している。一方みんなが騒いで主戦場だと思っている文芸書では確かにうまくいっていない。僕に言わせると、そこを主戦場にしているからダメってだけで、その場所には今まで市場がなかった割り切ってしまえばいいと思うんだけどね。

沢辺 植村さんは、そもそも今紙の本で読んでいる情報が電子に置き換わっていくと思いますか?

植村 何割とは言えないけど、かなりの量が置き換わっていくと思う。ただし、電子書籍が市場として成り立つのは、今紙であるコンテンツ以外の新しい作品が入ってきてから。市場を活性化していくのは、今ある紙の本のエネルギーではなくて、ディスプレイで文字を読む新たなコンテンツのエネルギーだよ。
具体的にはケータイ小説みたいなもので、ケータイ小説がどれほど多くの若い人たちにディスプレイで文字を読むことを習慣化させたか考えてみてよ。だけど、出版界の人たちはケータイ小説を出版とも小説とも認めないよね。こういうエネルギーを認めないのであれば、出版の将来は明るくない。

沢辺 そうだね。

植村 僕は一時期、時計を例え話に使っていた。
時計はかつて歯車ゼンマイの精密機械製品だけが「時計」と呼ばれていた。ところが昭和40年代前半、世界の三流時計メーカーだったセイコーやシチズンがクォーツ時計を開発をし、スイスの時計メーカーに先駆けて腕時計として商品化していった。セイコーやシチズンが開発した新しい時計がその頃なんと呼ばれたかと言うと「電気時計」とか「電子時計」なんだよ。なぜかというと、それはそれまでの「時計」ではなかったから。時計王国スイスの人は「あんなのは電気屋が作る電機製品で、時計じゃない。二流メーカー三流メーカーにやらせとけばいいんだ」と考えた。
でも、私たちがいま腕につけているものを、誰が電子時計と言いますか?
これは「時計」だよ。現代に生きる人のほとんどが使っている時計は、かつての定義で言えば時計ではなかったもの。「時計」という概念はそれだけ変わっているということ。
だから「電子出版」「電子書籍」と呼んでいる間は、電子出版が出版に入り込んでいない証拠だよね。CD-ROMやネット、ケータイが出てきたときに、10年もすれば、それらを当たり前のように「出版」と呼ぶ時代がくると思ってたけど、まだまだだよね。それは出版の人たちの保守性が「出版」と「電子出版」を仕分けをしすぎているからだと思う。
でも、これは必ずしも出版社だけの責任ではなくて、読者の本に対する習慣が強すぎることもあると思う。まだまだ僕らはディスプレイで読むことを「本を読む」と感じていないからね。

沢辺 技術的にも、ディスプレイやネットワークが多くの人の実用に耐えうるところまで届いていなくて、紙の実用性にはほど遠いしね。
でもここ数年、特にネットワークの概念は劇的に変わったわけで、この先何が起こるかはわからないと思う。マクドナルドで当たり前のようにWi-Fiが使える時代は、ちょっと前には想像できなかったことだよ。

植村 普通、メディアが立ち上がるときは、技術的な進化の面と、社会の人々がメディアをどう発展させるか、という二つの見方を持つよね。「とにかく技術が進めば広がるんだ」という技術決定論は技術屋の思い込みだと思う。技術屋は技術開発競争をするけど、競争の結果、すごく多機能になって使いにくくなったりして、むしろユーザーから飽きられてしまうことがままあるじゃない?
かつてのPDAがそうで、電子手帳からPDAへと使えない機能ばっかり持ち込んだことによって、PDAそのものが使われなくなってしまった。
技術開発が進んだからといって市場が広がるとは限らないし、たいした技術でなくても、人々が飽きずに楽しんで使うことによってメディアは発達するものだよ。
残念ながらいまのところ電子出版は、技術的にも社会的にも、それほど大きな進歩の段階には来てないんだね。

沢辺 うん。たとえばケータイ小説や「電車男」のような電子状況を使った表現へのチャレンジはなされてはいるけど、それがまだ全面化していない。

植村 新しいメディアが成り立つかどうかの判断基準として、そのメディアの市場が、ちゃんとお金が動いて再生産できるメカニズムを持ち得ているか、という視点があると思う。みんながボランティアで作り上げている段階では、まだまだ社会性が確立されていない段階だよ。
サスティナブル(Sustainable/持続可能)とよく言うけど、そのシステムが自立的に再生産、拡大し続けながら、人々が生活できたり、営めたり、楽しむことができるように作り上げなくては、メディアとしては進んでいかず途絶えてしまう。金は儲からないけどPCに向かって書いている、という状態を否定はしないけど、そこから得るものがなくては進んで行かないでしょう。

沢辺 そこは植村さんと俺のズレを感じるところだなあ。

植村 でも、システムを運用するお金や、書き手に対して社会的な成果や名誉を与える仕組みがなければ、メディアは止まっていくよ。だから今、ケータイ小説は急速に人気が衰えていっている。
それはケータイ小説がシステムの内部に再生産のメカニズムを持ち得ていないからではなか。それでもある程度まで上手くいったけど、その先に、ケータイ小説をメディアにする力がなかった。
もっといろんな方法で参入してよかったはずなのに、「魔法のiらんど」だけではメディアとしての定着が弱かったんだと思う。

沢辺 現にケータイ小説は、紙にしたときに売れなくなっているよね。

植村 うん。ただ、僕は紙にして売れなくなったのはいいけど、若い人たちがケータイで書くことで遊んだり、読むことを楽しんだり、コミュニケーションをとったりする市場が乏しくなっていくことが寂しい。

沢辺 決着はまだついていないんじゃない?

植村 もちろん。だから、新しいやり方を考え出す人が、ケータイ小説というメディアをより大きくするんだろうね。メディアというのは少し成長したと思うと上手くいかなくなって、それまでとは違うやり方を考えた人がもっと大きくしていくという、螺旋階段を上がるように広がっていくものだから。今は引き潮の段階で、次の波が来れば状況は変わると期待しているけど。

沢辺 たとえばiPadが普及したら、ケータイ小説の書き手が自分でイラストを描いたり、友達にイラストを描いてもらったり、いろんな工夫がなされるようになるとかね。

植村 あるいは、書き手そのものが作品を売って対価が得られるようになる。

沢辺 うーん。俺は、確かに再生産には売って対価が得られることが必要だっていうのもわかるけど、それだけでもない気がするんだよね。
たとえば学術出版の世界は「売って対価が得られるから、研究書が出る」というわけではないじゃない。

植村 学術出版の場合は、対価というよりも、「名誉」という強力なインセンティブが得られるから、それで人のモチベーションが高まるんだよ。
その意味では対価というよりはインセンティブだね。ケータイ小説だったら「ケータイ小説の女王」ともてはやされたり、実在する人間として評価されるというインセンティブを得られないと、書き手たちは書き続けられないと思うんだ。
インセンティブは大きく分けると金と名誉の二つだと思う。金は実利で、名誉は社会的な評価。例えば学者だったら、社会的評価がなかったら大学の教授になれなかったり、ノーベル賞もらえなかったりする。ノーベル賞が欲しくて何億という予算を国からとってきて、一生懸命競争しているよね。
でも今のケータイ小説は、ネットで匿名のまま書いて人気を得て、紙の本を出すときも匿名のままだったりするじゃない。それでは長く続いていかないと思う。

沢辺 ケータイ小説は「匿名」というより「ペンネーム」くらいの感じじゃないの?

植村 だけど、そのペンネームの人がリアルな世界で人気が出たことがある? 僕は知らない。

沢辺 そういう意味では匿名かもね。

植村 でしょ。魔法のiらんどは、ビジネスモデルとして作者を守って見せなかった。だから今年終わった。
もっと書き手をもてはやして、人気者にすればよかったんじゃないかな。
原宿を歩いていたらスカウトされてデビューしたモデルみたいにもてはやせば、もっともっと人が動いたかもしれない。

ネット時代における編集者の仕事

沢辺 今メディアで起こっていることはどういう事だと思います?
俺は、『FREE』(クリス・アンダーソン著)や『新世紀メディア論』(小林弘人著)、佐々木俊尚さんの一連の著作にある程度共感するところがあって、基本的にメディアの垣根がなくなっていく方向に進んでいくと思う。
小林さんの言い方でいう「誰でもメディア化」の状況の中で、一部の人は「印税9割」とか言ってるけれど、書き手の立場から見たら、今よりもきつくなるはずだよね。つまり、今まで本を書く人は特権的な立場にいたけど、無料で書く人が沢山生まれる状況では、その特権が崩れていくんだから。

植村 僕は誰でもメディア化することにおける底辺の広がりには期待するけど、一方で質を意味するピラミッドの高さを否定するのは間違いだと思う。
品質や価値観は個人の判断で押しつけるものではないし、Twitterで「飯食った」とか「どこどこ着いた」と書きこむことによる横の広がりも認めるけれど、本当に深くて必要な情報の価値は、それらとは別の軸としてちゃんとある。そこに対して集中的にコミットメントしてエネルギーをかけなければ、信頼性や感動を与える力のある作品は生まれないと思うよ。
自分は表現することだけで生きていきたいと思う人間と、そういう人の作品を徹底的に世の中に広げたいと思う編集者がタッグを組んだ作品と、ブログで野放しに書かれた作品は別なんだからさ。
「誰でもメディア」と言ったとたんにすべてが横一列のように思われてしまうのは、僕は抵抗がある。

沢辺 俺も一列ではないと思うよ。そうではなくて、サッカー協会が日本全国に少年チームを作って底辺を広げたようなイメージ。底辺が広がることによって高さも高くなったわけでしょ?

植村 うん。テニスのときは、テニスコートが増えたにもかかわらず日本のトッププロのレベルは高くならなかった。それはなぜかというと、わいわい集まってテニスをやって、その後ファミレスでおしゃべりするようなおばさんたちを増やしたって、高さは上がらないからだよね。サッカーはそれを反省して、上を目指すことを底辺に教えたから上手くいった。
サッカーはピラミッドを高くする仕組みを作ったけど、「誰でもメディア」の状況は、今のところ、作家や作品の高さを上げる方向に向かっていないでしょ。
僕はCGM(Consumer Generated Media/消費者生成メディア)を否定はしないけど、CGMの動きは、かつて出版が担っていたような作品を作り上げる方向には向いていないと思う。今のところはね。
CGMビジネスは成立しないと言っているわけでも、生み出される作品が読み手やユーザーにとってつまらないと言っているわけでもなんでもない。
でも、本当に人々を感動させる作品や価値ある作品、投資に見合う作品は、やっぱりお金とエネルギーと時間を投資しなくては生まれないと信じている。

沢辺 俺はそこはちょっとずれてると思うな。

植村 だけど、たとえばネットの中から「電車男」を見つけるのは偶然ではなくて、「電車男」を見つけ出して売っていくシステムが働いたからでしょ?

沢辺 うん。それはその通り。

植村 バジリコや魔法のiらんどの人間がネットの中で書き手を探しまくって、人より早く見つけて交渉する、その仕事を僕は評価しているんだよ。昔だったら編集者が徹底的に文芸同人誌を集めて読んでいたのがネットになっただけだと言える。
重要なのは、そこで見つけた作品を世に出すエネルギーがなければ、優れた作品も世に出て行かない、ということ。
music.jpの佐々木隆一さんがよく言っているけど、リヴァプールに音楽が好きで才能のある若者が四人いただけではビートルズは生まれないのであって、ビートルズを世界のビートルズに仕立てるためにはプロデューサーのジョージ・マーティンやスタッフの存在があり、EMIによる投資が必要だったわけだ。誰かが、その役割を果たすことは今後も変わらない。
ただ、こういうことを言うと「だから出版社は必要だ」と受け取る人がいるから癪なんだけど、違う。現状の出版社がこの先その役割を果たすとは全然思っていないよ。今の出版社の連中の体たらくではできなくて、バジリコや魔法のiらんど的なセンスを持っている連中のほうが上手いと思う。
小林さんが自分のことを「いまだに出版人だと思っています」というのはそういうことだと思うよ。彼が果たしている役割こそが、このネット時代における編集者の仕事だよ。
そういった意味での編集者として自身の存在を賭けるやつがいなければ、やっぱり人々を魅了する作品は生まれていかないし、世に広まらないだろうと思う。
出版社なんか潰れてもいいんだよ。何もできない70過ぎのおっさんたちが集まって「既得権益」だと思われるんだったら、潰れちゃったほうがいい。

沢辺 そうだよね。たとえば野間さんが「作家を育てる役割」と言ったけど、そこにある胡散臭さは「作家を育てる」ということそのものの胡散臭さというよりも、「出版社は本当にそれをやってるの?」という胡散臭さだと思う。やっている人もいるのはわかるけど、胸を張って「育てている」と言えるのかな?

植村 僕はその胡散臭さは、紙しかなかった時代では正しかったことしか意識していなくて、デジタルにおける広がりが見えないから感じるものだと思う。
もし「我々は新たなクリエイターを育てることにおいてネットとも付き合うし、ボーンデジタルの作品を作り上げたいと思っている。そして、そのことのノウハウは自分たちが一番知っているつもりだ。もし俺たちよりも編集のノウハウがあると言うなら出てきてくれ。俺はいつでも胸を貸すよ」とでも言ってくれたら、もうちょっと違うんだと思うけど。
今後は紙の外の部分での勝負が増えてくると思うよ。
だから僕らは、魔法のiらんどがやったことをもっと評価しなくてはいけない。

なぜ電子化は進むのか?

沢辺 紙の本は電子化はされていく、というところに話を戻すと、そもそもなぜ紙の本は電子化されていくと思う?

植村 それは、電子書籍が従来の紙での流通速度と複製手段をはるかに凌駕する機能をもっているから。印刷技術の登場が何をもたらしたかを一言で言えば「大量複製」だよね。それまでは手書きで複製していたけど、大量に複製可能にしてくれた。
これが何をもたらしたかというと、まず科学技術の進歩がある。全く同じものが複数存在することで変更不可能性が生まれるので、情報を完全に定着させることができる。

沢辺 それはたとえば、悪い弟子が先生の書いたものを勝手に書きかえたりできなくなるので信頼性が生まれる、ということだよね。

植村 逆に言うと、先生が「俺はここまで解ったけど、この先は解らん」と書いておけば、その弟子が「先生が解からないと書いたことはこうだった」と解るのが科学技術の進め方だとも言えるよね。
印刷技術によって、前の人があるところまでやったものに基づいて次の世代がさらに積み重ねていく仕組みを持ち得たから、科学は発展していけた。
それから、ただ複製するだけじゃなく、パッケージ化して流通させられるようになった。今ここで話している声は「今ここ」で終わっちゃう、再現できないものだけど、紙に残しておけば東京から北海道に届けることができるし、時間を越えて明日にも届けることができる。複製できるようになったことで、空間的制約と時間的制約を超えたんだよね。
でも、印刷技術による複製は装置産業として金がかかったから、印刷会社や技術者のような特権的な連中しか複製できなかった。
その投資を保護するために「出版権(copyright)」ができたのだけど、今は誰もが複製できて、しかも誰もが世界中に流通させられる時代。
印刷をはるかに凌駕した複製速度、流通速度を持った仕組みが、普通の人の手に入ったのだと考えれば、印刷技術の登場よりも遥かにすごい文化形成力があるのは当然だよ。

沢辺 印刷物よりも低コストで劣化せず、時空も空間も越えていくんだからね。

植村 うん。電子書籍、デジタル技術って、マルチメディア化の方向に進むと思われてたし、今もまた「iPadならこんなことまでできる」と派手に書いた記事が話題になってるよね。でも、「そうじゃないだろう」と思う。
文字は言語そのものであり、私たちの一番基本であるコミュニケーションなんだから。
文字表現がさらに速度を増して、さらに距離と時間を超えて複製されることが重要なのであって、デジタル技術の発展の本質はマルチメディア化じゃないよ。
「教科書も何も、すべてがマルチメディアになる」と言われたこともあったけど、実際そんなことは起こってないじゃない。ブログもSNSもTwitterもケータイメールもケータイ小説も、みんな文字だった。
だから電子書籍のことを考えるときも、膨大な文字流通のほうを意識するべきだと思う。
だとしたら、これこそ出版がやってる根幹だよ。

沢辺 俺も、「書籍とは何か」を考えるとき、書記言語であることは大きいと思うんだよね。もちろん、現に本に写真やグラフが載っているように、動画が電子本に載ることはあって当然だし、文字以外を排除するわけじゃないんだけど。

植村 何かの意思を伝えたり議論を積み重ねたりするときは、やっぱり言語で表現することが中心で、そこでは、言語の考えを助けるために図や表や動画や音がある。

沢辺 そうそう。録画しておいたビデオ、今だったらHDDやDVDって、録画しただけで見てないものが溜まっちゃったりするじゃない。
あれは、2時間なら2時間、1時間なら1時間と、一定の時間拘束されることに対する抵抗感じゃないかと思う。動画だと進むスピードも全員に対して同じ。
でも、本は拾い読みもできるし、じっくりと、しゃべるスピードよりもさらにゆっくり読むこともできる。自分で自由に選択できるんだよね。

植村 その分野に熟達した人は早く読む一方で、入門者は丁寧に読んだり、同じコンテンツでも利用の仕方が変わるよね。
もちろん、それが本の特徴だとして、映画と比べてどちらが上か下かということはないよ。完全にストーリーの中に時間を任せてしまう満足感は、映画でないと得られないものがあるしね。
ただ、表現の多様性においては一番シンプルなはずの文字が実は一番深いと思う。小説を読む想像力や、そこで作られる世界観は、読み手に任せれば、任せるほど満足や感動が深くなったりするじゃない。
人間がいる限り想像力はなくならないし、言語である以上、文字表現も絶対に滅びない。
だとしたら、今後も出版が文字表現をベースとした情報流通をしていくのなら、滅びるわけがないんだよね。
紙はなくなるかもしれないけど、文字はなくならないよ。

教科書が電子にならない理由

沢辺 よく植村さんが「教科書は電子にならない」と言うのはなぜなの?

植村 厳密に言えば、「現在の授業形態の中で、教科書をそのまま電子化しても使えない」ということ。少し手前から説明すると、現在の学校教育の一斉授業のシステムは、固定的な、ページ概念を持った本の上で成り立ってるところがあるんだよね。
例えば、先生が「35ページの上から2段目から読んで」と言えば全員が35ページの2段目という同一のコンテンツに辿り着けるような、印刷書籍がもたらした世界観に強く貼付いて存在している。
だから一人一台PCを使う授業は失敗したんだと思う。
それぞれの手元にPCがあると、生徒全員が自分の手元のPCを見て先生を見なくなる。そうすると先生は生徒をコントロールできなくなっちゃうよね。
やっぱり教育には、先生が「ハイここ見て」と黒板をポンと指した時に40人の目を集める、という人間くささが含まれているんだよ。教科書も、そういう人間くささの中に位置づけられていると思う。

沢辺 確かに、そこには身体性が必要だよね。

植村 電機大学ではeラーニング実験もやってるけど、やっぱりまどろっこしくなるんだって。先生がカーソル動かすと全員の画面のカーソルが動くといっても、直接的なコミュニケーションのほうがどれだけ優れているか。それは「さあみんな、解りましたね」と言った瞬間にみんなの心が頷くのを感じて次に進めるのと、「解りましたか」と言ったあとに、みんなのカーソルが動くのを眺めるまどろっこしさを比べれば明らかだよね。
そんなことをしていては、教室という空間で一斉授業をやる意味がないよ。
教科書が自習書として果たす役割と、教室において果たす役割は明らかに違う。今の教科書のシステムは学校教育の一斉授業の中で、かなり鍛えられてきてるから、そうそう電子にはならないと思う。
各人の手元にモニターがあると、先生が教室の生徒全員をコントロールして一点に集中させる力は落ちざるを得ないよね。人間が指さしたほうが上手にできることを、技術にやらせる必要があるんだろうか。技術決定論的にすべてを技術に置き換えなきゃいけない理由は全然なくて、私たち人間同士のコミュニケーションとしての「教えあう/学ぶ」という環境を維持したほうがいいと思うよ。

沢辺 身体性の話でいうと、直接会ってネゴ(ネゴシエーション/交渉)するのと、電話でネゴするのと、メールでネゴするのって、成功度が違ったりするよね。

植村 完全にそうだよ。我々も物理的な存在なんだから、人間が果たしうる役割は今後とも変わらないよ。全部技術で解決するなんてのは、幻想だよね。
もちろん、今のe-bookリーダーが技術的に未熟なものだったり、私たちが使い方をちゃんと理解できていない、ということはあるかもしれないんだけど、本というのは、本そのものとして独立して存在しているだけじゃなくて、ある社会的・文化的なシステムに組み込まれているものだから。そのシステムの中での電子化を考えるなら、今まで本でできなかったことを加味してくれる方向でいかないといけないと思う。
たとえば、風邪を引いて休んでいる生徒が自宅から授業を覗けるようになる、という方向でないとメリットはないよ。
むしろ電子化のデメリットはいくらでもあって、たとえば「あれはどこに書いてあったかな」と本をぱらぱらめくって探すときの一覧性は、e-bookリーダーのほうがはるかに低い。

沢辺 でも、e-bookリーダーだったら検索できるんじゃないの?

植村 検索は、検索キーワードが無いと見つけられないんだよ。本だったら「あれってなんだっけ」というぼんやりした記憶で探せる。
決まったキーワードを探す速度では人間はコンピューターに追いつけないけど、曖昧な言葉から特定する能力は、まだ人間のほうが高いからさ。

紙であることの利点

植村 読書を身体論だけで語るのはどうかと思うけど、本を読むという行為は紙の上にある文字をただ目で見る、視覚だけを使うものじゃないしね。手で持ってめくりながら読んでるから触覚も使っているし、300ページの本の290ページまで読み終わったら、「さあ終わりだ」と思うじゃない。どこで終わるかを感じないままに、ディスプレイの中にある物語を読み続けるなんてできるだろうか。

沢辺 それは植村さんや俺たちの世代の保守性である可能性もあるけど、俺も「自分は今どこにいるのか」がわからないのが電子書籍を読んでいて一番不安。
スクロールバーのあるウェブブラウザのほうが、まだ全容がわかる。
T-Timeや他の電子書籍のブラウザにそういう表示が全くないかというと、そんなことはないんだけどさ。

植村 それはやっぱり、電子書籍はストーリーの中の位置を視覚でしか確認できないからだと思うよ。紙の本のときは視覚だけじゃなく、手に持った時の厚みを触覚で確認しているから、いちいち目で確認しなくてもいいんだよね。

沢辺 でもウェブブラウザのスクロールバーでなんとなく位置確認ができる感じには慣れたから、電子書籍を読むときの感覚も、ひょっとしたら慣れるのかもしれない。

植村 スクロールバーやパーセントでの表示に慣れるかもしれないし、今の携帯小説のように限りなく短くセンテンスで区切って、振り返ることの無いような、クリック感で読むようなものに、中身のほうが変わってくるかもしれないね。

沢辺 こんな話をしてると、非出版社系の人にはノスタルジーと思われるだろうね(笑)
ちょっと横道にそれるけど、電子ジャーナル花ざかりの大学図書館の人と話してると、研究者たちはみんなPDFをプリントアウトして、そこに線を引いたり綴じたりしてるんだってね。iPadやKindleが話題になっているけど、研究者たちは電子のまま利用なんかしちゃいなくて、ある意味でオンデマンド印刷のようなことをやってるんだってさ。

植村 筑波大学で図書館情報学をやっている佐藤翔くんがTwitterに書いていたけど、これまでとの違いは「いつでもプリントアウトできていつでも捨てられること」なんだよ。
多量に読むにはやっぱり紙じゃなきゃダメなんだけど、多量に紙で読んで、必要でなくなったらすぐ捨てられて、また欲しくなったらすぐプリントアウトすることができることが良いんだ。
だから電子ジャーナル好きの研究者は、電子ジャーナルをディスプレイで読むことが好きなのではなくて、いつでもどこでも検索できることが好きなんだよね。

沢辺 この「談話室沢辺」というコーナーも2時間、3時間とインタビューするから、結構長文になるんだよね。そうすると「読み切れないで今日は止めました」というコメントも見たりする。
たしかに、ディスプレイで何万字も読みたくない気持ちはよくわかるよ。
でもそれはデバイスの進歩で解消されると思ってる。

植村 それに電子ジャーナルは、明らかに紙の論文の形式を踏襲したもので、「紙によって保証された」という前提の上にしか電子ジャーナルは成立してない。紙の上での査読やレフェリーという手続きを踏まえた上で、最後に電子データで提供してるだけ。DNAは明らかに紙なんだよね。

沢辺 査読やレフェリーは電子上でやってもいいんじゃないの?

植村 もちろん、電子的なデータで送って「査読して下さい」ということは今でもあるけど、僕がレフェリーを担当して読む時は電子データをプリントアウトして読んで、それに対してメールでコメントしたりしてるよ。だから紙でやってることと行為的には変わらない。
いまだに論文を「ペーパー」と呼んでるように、ページ数に関するルールもかつての論文誌の制約を踏襲している。本当に重要なものはページ数の制約を無視してもいいはずなのに、そのルールは電子になっても全然外れていってないんだよ。

沢辺 それは「過渡期だから」のような気がするけどな。

植村 ネットでしかできない方法として「Nature」(イギリスの総合学術雑誌)が「open peer review」という名前の公開査読を試みたけど、半年で中止している。なぜかというと、研究者は忙しいから。「査読を願いします」と言うと「えー。締切いつ?」と言いながら、「しょうがねえな。これも学会員の役割だからな」ってギリギリになって査読が返ってくるのが普通なんだよ。だからオープンにして「いつでもいいです。みんなでコメントしましょう」では誰もコメントしない。で、すごい好きモノ、悪く言えばすごく偏屈なオタクがひたすらコメントし続けることになって、うまくいかなくなる。

沢辺 Natureの場合は特殊事情で、あんまり普遍化はできないと思うよ。

20年後の「出版」をどう定義するか

沢辺 紙と電子の割合が今後どうなっていくかはわからない?

植村 僕が人前で話すときは、長尾真先生の電子図書館に関する論文を使わせてもらってるんだよね。74年に書かれた長尾先生の論文には「今から20〜30年後には、出版されるものの70%は電子形態のみになる。残りの30%は紙と電子と両方で」と書いてある。論文の中の「20〜30年後」は今から15年くらい前に過ぎちゃったけど、僕は「今から20年後に、70%が電子形態のみになると思う人は手を上げて」と必ず言うようにしてる。
どれくらい手が挙がるかはオーディエンスによってすごく差があって、印刷会社の人たちは結構手が挙がる。それはやっぱり、印刷は技術によって進化してきたから。印刷会社の中には、ディスプレイでの文字表現をやってる人が一杯いるよ。
出版社の人たちはあんまり手を挙げない。出版社でも電子出版をやっているところは手を挙げるけど、出版社のオーナーを相手にした講演では、あまり挙がらない。
電機大学の学生に聞くと、かなり手が挙がる。まあ、元々電機大学の学生が技術オタクで本読まないこともあるかもしれないけど。
他大の文学部にいる学生に聞くと手が挙がらない。文学部に行くような学生は、紙の本が大好きだからね。
一番挙がらないのは図書館で、図書館の人は本当に紙の本だけが図書だと思ってるように感じる。

沢辺 図書館の人は、紙の本以外のことを知らないんだよな。

植村 知りたがってないのかもね。毎日目の前に膨大な量の紙の本があって、愛着もあるだろうし。
僕がこの質問で聞きたいのは「20年後に7割が電子だけになるかどうか」ではなくて、みんなが「20年後の出版をどう定義したか」なんだ。
もし出版という概念を広く捉えたら、当然7割は電子形態にしかならないですよ。だって、今ですらケータイ小説が120万点あるんだよ。どれを1点ととるかの議論は残るけど、とにかく120万点ある。それに対して現在流通している紙の本は80万点と言われていて、そのうち書店で買えるのは多分60万点くらい。120万対60万だとしたら、すでに70%近くが電子形態でしか手に入らない状態だよ。
だからケータイ小説を出版だとすれば、すでに過半数が電子書籍でしか手に入らない。ブログやTwitterまでパブリッシュだとしたら、もっと圧倒的なデータ量だよ。当然、紙のほうが少ないよね。
逆に、私たちのような出版社が編集して流通させるものに限定して捉えたら、20年経ってもそれほど変わらないと思うよ。でも、紙の市場がシュリンクしていこうというときに、出版を狭く限定的に定義したら、出版の将来性はますます小さくなるよね。
出版が培ってきた役割は間違いなくあるんだから、その役割を電子によってさらに実現していく、という発想を持つべきだと思う。
僕は学術書出版とか専門書出版の世界に出自があるし、学術情報における出版社の役割は、かなりしっかりあったと思ってる。
例えば学術出版の世界では、知識という宝庫に続く門の前で待っている「知のゲートキーパー」「知の門衛」が出版社だって言われてる。
出版社のドアをノックしてその中に入れば、出版社によって保証される、手続きを通った作品がある、ということ。
今はその役割を果たすことが難しくなって来ているけど、もしかしたらITによって再生できるかもしれない。あるいは厳しくなってきた学術出版を電子化によって、より推し進められるんじゃないかな。
僕はポジティブに捉えてるよ。
従来の出版の仕事に限定したとしても、電子化の中で果たす役割はあるんだからさ。
一方、ケータイ小説のような、我々がまったく想定しなかったものがドンと来ることもあるけどね。

次回へ続く

談話室沢辺 ゲスト:東京電機大学出版局・植村八潮 第2回「電子書籍をめぐる権利のゆくえ」