2010-03-08

会社の役員になってくれと頼まれた [下関マグロ 第20回]

パインが間借りしていた事務所には、パインの他に、伊藤ちゃん、伏木くん、坂やんなどなどのライターがいた。更にそこに三角さんという元編集者が加わって、なぜか経理のようなことをやっていた。

パイン以外の人間は、ずっとそこにいるわけではなく、勝手気ままに出入りしていた。なので事務所には、それまでワイワイといた人がふっといなくなるような瞬間があった。

パインが重要な話を持ちかけてくるのは決まってそんなときだ。

「増田くん、有限会社オールウェイの役員になってくれないかな」

僕が反射的に「金は出せませんよ」と答えると、パインは笑いながら首を振って否定した。

「ここにいつまでも間借りしているわけにはいかないだろ。だから、自分たちの事務所を借りようと思うんだ。で、その機会にオールウェイもちゃんとした会社組織にしようと思ってるんだよね」

「えっ、名刺には有限会社ってあったけど、今までちゃんとしてなかったんですか?」

「登記はこれからなんだ。で、役員が3人必要なんだよ。オレが代表取締役で三角と増田くんにも役員になってもらおうかと思っているんだ。名前だけだから、お金は要らないよ」

なんだかちょっと、おかしな話だと思った。三角さんのことはどうだかわからないが、僕よりもパインに近い人間はたくさんいるわけで、名前を貸すだけとはいえ、なんで僕なんかに声をかけてきたんだろう。そのことを単刀直入に聞いてみた。

「伊藤ちゃんなんかには金を出して貰うからさ、君ら、金は出せないだろ」

金の出せない奴は名前を貸せということである。まあ実際、僕はオールウェイに出入りしているが、まったく金を入れていない。というか、利益を上げていなかったので、当然金もなかった。

というわけで、僕は有限会社オールウェイの役員となった。といっても僕がなにかにサインをしたとか、そういうことはいっさいなかったし、会社関係の書類を見た覚えもない。本当に名前を貸しただけであった。

新事務所への引っ越しは1985年の暮れだった。場所は新宿5丁目にある靖国通り沿いのマンションの一室。けっこう大変なのかと思ったら、意外とあっという間に終わった。

引っ越し作業が終わったとき、伊藤ちゃんが「コーラをカーッと飲んでポテトチップスでもつまみたいねぇ!」と言ったのを皮切りに、「引っ越しなんだから、ここは蕎麦でしょ。もう夕飯時だし、出前でも取ろうよ!」というようなことをみんなでワイワイガヤガヤ言っていると、パインが意外なことを言った。

「じゃ、せっかくだから寿司でも取ろうか」

全員、いや、たぶん一番貧乏な僕と伏木くんの顔が曇った。寿司だなんてとても高くて……。

それを見透かしたパインは「心配しなくてもいいよ。代金は会社から出すから」と言った。

ホッとしたが、普段はケチなパインが、高価な寿司代を出してくれるというのはあまりにも意外だった。そして、自分の財布でなく、「会社の経費として出す」というのもなんだか意味がよくわからず、多少引っかかったりした。しかし寿司が到着すると、たちまちそんなことはどうでもよくなり、僕は桶からウニとイクラを立て続けに頬張った。

今思えば宙ぶらりんな1985年は、こうしてのほほんと暮れていった。

僕がライターとして独り立ちするきっかけとなる、青春出版社『BIG tomorrow』の仕事を伊藤ちゃんから紹介してもらうのは、この直後のことである。

2010-03-01

間借りを脱し、新宿に共同事務所を開くことに [北尾トロ 第19回]

いつまでも間借りのままでは落ち着かない。仕事を充実させるためにも自前の事務所を持ちたい。パインは前々からそう言っていたから、年内に引っ越しする計画を聞いても驚きはしなかった。

事務所を構えるのはあくまでパインの会社・オールウェイなのだから、自分に密接なことだというリアリティがほとんどないのだ。ぼくや増田君は、パインの事務所に出入りするフリーのスタッフ。4つある机のうち専用の席があるのはパインのみで、用がある人間がそのつど適当に座っていたから、埋まっていれば喫茶店で原稿を書いたりする。それが不満なのではなく、フリーならそれが当然だし気楽でいいと思っていた。だから、意気込むパインとの会話もいまひとつ噛み合わない。

「今度は我々だけの事務所だから、外で書くなんてこともなくなるよ。専用電話だし、ファクスもそのうち入れるつもりだ」

「そうですか」

「コピー機もいるな。机も1つか2つ増やそう。打合せスペースも欲しくない?」

「あるといいですねえ」

「伊藤ちゃんも間借りのままじゃやりにくいだろう」

事務所を借りるとなると家賃もかかる。そのあたりをパインはどう考えているのか。割り勘なんてことになったら、ぼくは払う自信がない。ぼくだけじゃなくて増田君とか坂やんとかもそうだろう。みんな、家の家賃を払うだけでやっとこさの貧乏ライターなのだ。

「わかってるって。とりあえず家賃はいらないから」

ということは今まで通りか。だったら反対する人間はいないだろう。反対も何も、パインがいなければいまの場所は使えないのだ。パインが動けばみんなそこに行くことになる。

「そういうことじゃなくて、俺としてはみんなに協力してもらってオールウェイを大きくしていきたいと思うんだよ」

「ふーん」

「ようするにさ……」

どこまで理解できたか定かじゃないが、パインは自分自身ではなく、オールウェイという会社をうまく軌道に乗せたいと思っているらしい。もちろん自分が先頭に立つけれど、編集プロダクションの経営者としてもやっていく腹づもりなのだ。

そうか、そうだったのか。そういえば、パインの家に居候していたときこんなことを言われたことがある。ライターの“アガリ”は、専門分野の書き手になるか、作家になるか、編プロ経営者になるかだ、と。ライターデビューすらしていない時期だったから聞き流していたけれど、あの頃からパインは、自分は編プロ経営者で行こうと考えていたのだろうか。尋ねると、まあなと頷いた。

「俺ももう30歳超えてるし、出版社で編集者やってたわけでもなく成り行きでこの世界に入ってきたわけさ。ハングリーだったからさ、食うためにがむしゃらに働いたよ。で、たまたまパソコンっていうものを知り、これからはコレだと思って大金はたいて買い、勉強してそこそこ書けるようにもなった。でもさ、もともとマイコンやってた人間とかと比べたら、俺の知識なんてたかが知れてる。何より情熱というのか、パソコン触ってるだけで楽しいってほどじゃないんだよな」

「へぇ、そうなんだ。てっきり新しいモノが好きなんだと思ってた」

「嫌いじゃないけど、好きでやってるヤツとは全然違う。あくまで食うためだよ。そうなるとさ、俺は有名になりたいとは思ってないだろ、残るのは編プロのオヤジってことになる。みんなとワイワイやるの好きだから向いている気がするんだよ。スタッフさえいたらパソコンに関する仕事をいくらでも取れると思う。だから伊藤ちゃんも一緒にやろうよ」

パソコンに興味があれば、あるいはパインとともに編プロを切り盛りするつもりなら、いい話なのかもしれない。が、あいにくぼくにはどちらもない。ライターの仕事に面白みを感じ始めたところなのだ。しばらくはこのまま続けたいし、編プロはイシノマキで懲りてもいる。編集者にはもう戻りたくない。

「ま、そういうことは先の話でいいよ。会社は俺が個人でやって、三角さんに経理を手伝ってもらうつもりだから」

ライターとして出入りしていた、元編集者の女性の名が具体的に挙がったところをみると、パインは着々と会社経営の足場を固めていると考えていいだろう。

「心配しなくていいよ。伊藤ちゃんとか増田君にパソコンの仕事をやらせたら困るのは俺だもん。ゆくゆくはオールウェイをパソコンだけじゃなくて総合誌でも書籍でもこなせるプロダクションにしたいから、そういう仕事でも引き受けられるようにしておきたいんだよ。出会ったみんなに一人前になってもらいたいのと、そういう意味もあって、共同事務所の形式にして自由に使って欲しいと思ってるわけさ」

将来はともかく、いまのところぼくはパインの構想の勘定には入っていない。つまり、ポジションはいままでと同じ。パインの示す条件は駆け出しライターにとってラッキーの一言だ。なんていい人なんだろう。ぼくは感激し、つい余計なことを言ってしまった。

「だけど事務所を借りるの、金かかるよね」

「まあね。みんなに少し出してもらえたら助かるけど、そうもいかないからな」

ああ、まずい。でも勝手に口が動く。

「単行本のギャラから20万円なら出せるよ」

「え、いいのか」

「どうせ馬券で溶かしかねないからいいよ」

……見栄っ張りなオレのバカバカバカ。こうして苦労して得た『サラブレッドファン倶楽部』の50万円は、5万円が源泉され、20万円がパインに、20万円が親への借金返済に飛んでいった。そして案の定、残った5万円は失地挽回をもくろんだ有馬記念できれいになくなってしまうのである。

2010-02-22

金はないが、時間だけはたっぷりあった [下関マグロ 第19回]

久しぶりに伊藤ちゃんから電話がかかってきた。その頃の伊藤ちゃんは単行本を執筆しているとかで、ほとんど顔を合わせていなかった。

「まっさん、どうしてんの?」

どうしてんのと言われても、どうもしておらず、その日も暇にしていた。
具体的にいうと、僕はテレビで「夕やけニャンニャン」を見ていた。電話のベルが鳴ったので、テレビの音量を小さくして電話に出たところだ。

秋の日の夕暮れで、東中野の木造アパート二階の部屋には西日が差し込み、テレビ画面の見え方もいまいちだった。

お互いの近況など、他愛のない話をしたあと、「じゃあ、ちょっと行くよ」と言い、電話を切った。

僕はジャケットを羽織り、財布を持って外に出て、ブラブラと歩き始めた。行き先は伊藤ちゃんの住んでいるマンションである。伊藤ちゃんが住む吉祥寺へは、電車で行くことにした。

途中の東中野駅前商店街で寄り道。本屋でパラパラ立ち読みしたり、パチンコ屋で少し打って負けたりしてから、総武線三鷹行き電車に乗った。

吉祥寺の駅で降りると、また駅前のパチンコ屋と本屋を冷やかして、その並びにある吉野家で牛丼を食べた。そういえば伊藤ちゃんは晩ご飯を食べたのだろうかと思い、持ち帰りの牛丼をひとつ買って、伊藤ちゃんの住む「コーポインマイライフ」へ。

僕が牛丼を差し出したら、伊藤ちゃんは言った。

「牛丼嫌いなんだよね」

そうだ、忘れてたけど、この人は牛丼が嫌いなんだ。普通は「しまった」と思う場面だが、僕はこう言った。

「でも、せっかく買ってきたんだから、少しくらい食べてよ」

まったくどうしようもないと今なら思うが、若いころの僕にはかなり押し付けがましい面があったのだ。結局、人のいい伊藤ちゃんは、まずそうに牛丼を食べていた。

たいていこの頃、集まって話すことといえば、「今後の仕事をどうするか?」ってことだった。

パインが、間借りしている四谷の編集プロダクションから独立して新事務所を借りるという話を、伊藤ちゃんから聞いた。

パインは、引っ越した事務所でも僕たちとバリバリやる予定にしているようだったが、僕は乗り気がしなかった。あまり長くパインの下で仕事をしたいと思わなかったからだ。せっかくフリーになったんだし、あんまり人から命令されてなにかをやるということに嫌気がさしていたんだろう。

話し込んで、時計を見たら11時を過ぎていた。そろそろ終電なのだが、またそこからダラダラと話しはじめる。

いい加減で切り上げなければならず、伊藤ちゃんが「じゃ、ちょっとそこまで」とサンダル履きで駅まで送ってくれたが、すでに終電は出ていた。まいったなぁ。

「ウチに泊まってってもいいよ」

伊藤ちゃんはそう言ったが、明日もなんの予定もないから寝る時間の心配もいらない。「東中野まで歩いて帰るよ」と僕は言った。

「じゃ、ちょっとそこまで送っていくよ」と伊藤ちゃんが言い、いっしょに歩き始めた。

「あ、トマソンだ」

伊藤ちゃんが指さす先を見ると、空き地にコンクリートの階段だけがある。建物もなにもない、無用の階段だ。

トマソンというのは赤瀬川原平が提唱した言葉で、「街で見かける立派なんだけど無駄なもの」という意味だ。

僕らは夜道を、「おお、あれこそトマソン!」「これぞトマソン!」と、持っていたカメラで撮影したりもしながらダラダラ歩いた。

そうこうするうちに、白々と夜が明けてきた。その先に駅が見える。おお、どこの駅だろうか?と近づけば、まだ阿佐ヶ谷の駅ではないか。深夜に吉祥寺駅から歩きはじめ、夜明けに到着したのが三つ先の阿佐ヶ谷駅。なんという牛歩だ。

ボクたちは阿佐ヶ谷駅前で早朝からやっていた立ち食いそばの店に寄った。伊藤ちゃんはとろろそば、僕は天ぷらうどんを食べると、総武線で、それぞれ逆の電車に乗って、帰宅した。

金はないが、時間は有り余っていた20代半ばの頃の話。

2010-02-15

スポーツライターへの道が開かれた!? [北尾トロ 第18回]

なぜアフリカ雑誌の企画がスキーに? 唐突すぎる福岡さんの電話には戸惑うしかなかったが、だんだんその気になってきた。ジャンルはともかく、新創刊というところに惹かれるのだ。スポーツには縁がないが、ダメでもともと。それより、雑誌がどのようにカタチになっていくのか体験してみたい。

数日後、五反田の喫茶店で福岡さんに会った。

「どう、やってみる気になった?」

「はあ。でも、スキーができないんですよ。大学のとき、一度行っただけで道具も持ってないくらいです」

「ははは、そんなの気にすることないですよ」

気にするよ! 滑れないヤツが書いたスキーの記事なんて誰が読むっていうんだ。でも福岡さんはそんなことを気にする素振りを見せず、アフリカ雑誌について語ったときと同じく、夢見るように言うのだった。

「そりゃあ滑れないより滑れるほうがいいですよね。だけどボクはクラスマガジンだからってガチガチの実用誌にはしたくないんですよ。目指すのは新しいタイプのクラスマガジン。日本人のレジャーへの意識を変えてしまうような、こんな雑誌を待っていたって喜ばれるものを作ります」

「クラスマガジン?」

「専門誌ね。どのジャンルにもだいたいあって、技術とか役立つ情報を載せてるわけ。でも、ぼくが作りたいスキー雑誌はもっと一般的な、娯楽性の高い雑誌なのね。読んで役立つというより、おもしろいものにしたい。だけど、スキーができておもしろい原稿が書けるライターってあまりいそうにないでしょ。ボクはライターの部分を重視したいんです。スキーの腕はどうとでもなります」

どうとでも……なりますか。

「取材に入る前に合宿をやるからね。うまくなくてもいい。最低限、取材ができるくらいには鍛えてあげる。できますよ、伊藤君にも。ぜひスポーツライターになって下さい」

スキー雑誌はこれからどんどん需要が増すはずだ。売れるし広告も入るだろう。スキー場を巡るのが仕事だから取材も楽勝。ゲレンデには可愛い女の子がたくさんいてアフタースキーが盛り上がる。読者層は同年代が主流で、自分がおもしろいと感じたことが読者にとってもおもしろい。日本中にスキー場が作られていくので書くネタはいくらでも見つかる……。福岡さんの口調は驚くほど軽い。聞いていると、何の根拠もないのに「それもそうだな」と思えてきた。そうか、できるか。まあ、スキーができない人間が一人くらいいたっていいかもな。で、他のスタッフはどういう人たちなんだろう。

「よそのスキー雑誌をやってた人間を一人呼んでデスクをやってもらいます。あとはまだこれから。ボクは編集畑じゃなかったので書き手の知り合いが少なくてさ。伊藤君のまわりに若くてイキのいいライターいない? 良かったら、そういう人たちにも参加してもらいたいんだけど」

「スキーができそうなのはいませんが」

「いいんですよ。ボクは、この雑誌が勢いのある若手ライターが集まる梁山泊みたいになればいいと思っているんです」

この話に乗った最大の理由はふたつあった。ひとつはスキーがシーズンスポーツで、取材が年末から春先に限定されること。福岡さんの話では、とりあえず今シーズンは1冊だけ出してあとは取材、来シーズン以降も年間6〜7冊の発行になるという。準備に入るのは10月あたりからで、5月から9月くらいまではすることがないわけだ。シーズン中は忙しいが、その期間は寝て暮らしても、他の仕事をしてもいい。年間を通してのスケジュールみたいなものがはっきりしていて、じつにメリハリがあるのだ。取材経費も出してくれるというから、これまでに比べれば生活も安定するだろう。また、忙しくなればパインからの仕事を断ることができる。苦痛で仕方がないパソコン雑誌の記事をいつまでも書いていたら、いつまでたっても自立などできやしないのだ。

もうひとつの理由は、前述したように創刊から関わることに好奇心がうずくからだ。みんなで新しいものを作っていくのはおもしろいに違いない。トップにいるのがのんびりした性格の福岡さんなのもやりやすそうだ。どうせ崖っぷちである。本を書いてもさっぱり売れなかったんだし、失うものは何もない。スポーツライターがどういうものか見当もつかないが、かまうものか。

「それじゃ、もう少し具体的になってきたら企画の相談をしましょう。年明け早々にでも合宿をやりたいね」

福岡さんと別れ、パインの事務所へ行くと増田君たちがいた。さっそく話をすると、スキーができないから無理だと尻込みする。が、僕にはわかっていた。現状の仕事に満足しているヤツはいないのだ。福岡さんの口調を真似て楽観的な話を繰り返すうちに、スポーツ経験のある坂やんが乗ってきた。続いて金のない伏木君が参加を表明し、最後まで嫌がっていた増田君も及び腰ながらやろうと言った。

アテにしてなかった僕が仕事を得てきたことに、みんなのために無理して仕事を振りわけてきたパインは大喜びした。

「こうなったからには腰をすえて働ける環境が必要だな。いつまでも間借りのままじゃ俺も気が引ける。新宿辺りにオールウェイの事務所を構えようかと思う」

とうとうきたか、と思った。パインは前々から、早く自前の事務所を持ちたいと漏らしていたのだ。

2010-02-08

決意というより成り行きでライターに [下関マグロ 第18回]

最近はそうでもないのかもしれないが、昔はエロ業界について勘違いしている男が多かった。

僕がアダルトビデオの助監督やエロ本の仕事をしていると言うと、「撮影現場に連れてってくれ」というようなことをよく言われた。

そんな物見遊山感覚のお願いは実に困る。こちらは遊びで行っているわけではない。仕事なのだから。

たしかに、アダルトビデオの撮影現場では、男女がセックスをしているのを間近で見ることができる。しかし、現場のスタッフがそれを見て興奮することは皆無といっていいと思う。

全員、仕事をしているわけで、それぞれ果たさねばならない役割がある。見ていて楽しむ余裕などなかった。

そういえば、エロ本とか変態雑誌に記事を書いていると言うと、これもまた「編集部に行ってみたい」という人が多かった。これは男性、女性限らずだった。

しかしこれも行ってみたところで、おもしろい場所ではない。どんな変態雑誌の編集部に行っても、やっていることは同じ。編集者がひたすら編集作業をしているだけだ。

扱っているものがエロというだけで、普通の雑誌にしろ、エロ雑誌にしろ、やることは同じなのだ。

アダルトビデオの現場も、僕が行っていたサムビデオはけっこう仕事に熱かった。

社長の賀山さんはSMに詳しく、時には監督をやることもあった。しかし大規模な撮影の場合はたいてい土屋さんが監督をやり、賀山さんは縛り師の役回りをした。

こんな時はよくややこしいことになってしまう。監督は土屋さんなのにもかかわらず、賀山社長はついつい熱が入ってしまい、女優に演技指導なんかをしてしまうのだ。

何度かそんなことがあって、ついに土屋さんがキレた。

「だったら、あんたが監督をやればいいじゃないか」

そう叫び、監督は現場を飛び出して行った。現場は一時中断。賀山社長もしまった、というような顔をしている。助監督の僕はその顔を見た瞬間、急いで土屋監督のあとを追いかけた。

スタジオの前にいた監督に、追いついた僕はこう言った。

「監督、気持ちはよくわかります。でも、いま監督がいなくなっちゃうと誰もディレクションする人がいませんよ」

そうして現場に戻って貰った。賀山社長は謝りこそしなかったが、その後の撮影では口をはさまなくなった。そんなことがあったのが、1985年の秋くらいだろうか。

そして秋も終わる頃、雑誌『ムサシ』の編集者である柳井くんから、「なにかいいネタない?」と久しぶりの電話があった。

夏に伊藤くんと「オイルぬりぬりマン」をやって以来、『ムサシ』では仕事をしていなかった。

「いまアダルトビデオの助監督の仕事をやってるんだけど、アダルトビデオの現場レポートなんてどう?」

「いいねぇ。写真撮れるんだったら、ぜひぜひ」

と、安易に企画がまとまった。

助監督としての仕事があったのは月に2回くらいだった。さっそく、サムビデオのオフィスへ行き、土屋さんに聞いてみた。

「助監督の仕事を優先にするのは約束しますんで、助監督体験記というような記事を書かせてもらえませんかねぇ」

「おお、増田くんが写真を撮ってレポートしてくれるの。宣伝にもなるし一石二鳥じゃないの。いいよぉ、うまく書いてね」

ということで僕は張り切ってSMの現場に入り、そうだ賀山社長にも話しておかなければ、と思って雑誌取材のことを切り出した。すると賀山社長は怒り出した。

「ダメダメ! そんな、他人のふんどしで相撲を取るようなことはダメだ!」

そう言われてしまい、あえなく僕の企画は打ち砕かれた。今は雑誌がアダルトビデオの撮影現場を取材するケースは多いのだが、このころはまだ少なかったのだ。

そのやりとりを見ていた土屋監督がスーッと僕のそばにやってきて、耳元でこう言った。

「ああゆうのをヤブヘビって言うんだよ。言わなきゃいいのに…」

しかしよく考えると、助監督をやりながらそれをネタに原稿を書くというのは、なんだかズルい、と僕には思えてきた。ライターと助監督、どっちかに決めなくちゃ。

そう思い始めると、その後パッタリと助監督の仕事が来なくなった。結果的に、自然とライターの仕事に軸足を置くことになった。

その後、僕はライターとしてアダルトビデオの撮影現場に行く機会があった。そこで見るAD(もはや助監督ではなくこう呼ばれていた)のハードな働きぶりを見て、僕の助監督時代は、まだのんびりしたもんだったのだと思ったものだ。

2010-02-01

本が出ても何も変わりはしなかった [北尾トロ 第17回]

机の前に座り、原稿用紙を広げて早4時間。1文字も書けないまま時計の針だけが規則正しく先へ進む。初の著作となる『サラブレッドファン倶楽部』は出だしから行き詰ったままだった。肩に力が入っているせいか、最初の1行でつまずいてしまい、数行書いてはボツ。ゴミ箱は書き損じの原稿用紙で山盛りだ。そのうち飽きてレコードを聴き始め、夜に賭けようと昼寝を貪り、夜になると明日に賭けようと読書に逃避。煙草を吸いすぎて、一日中気持ちが悪い。

単行本といっても初心者向けの競馬ガイドブックで、中身は実用的なコラム集。2ページから4ページほどの原稿が数十本入る形式だ。馬券の買い方やオッズの説明、歴代名馬の解説など、テーマ設定もありきたりのものだから競馬必勝法を考案する必要もなく、1テーマにつき2千文字程度の読み切り原稿をコツコツ書いていけばいいのだ。が、頭のなかではわかっていても、これが実行できない。部屋にこもって4日目になるのだが、1日に1本書くのがせいぜいで、しかもことごとくつまらないときているから実質は0本である。

どうして計算通りに行かないのか。普段のペースなら1日3本は堅いのに。理由を考えると「本の執筆だから」としか答えが出ない。そうなのか。本なんて興味がないと思っていたけど、その実、めいっぱい緊張しちゃってるわけか?

違うと言えば嘘になる。やはりこう、著者という響きにはたまらないものがあるのだ。

迷惑ばかりかけてる親も、馬鹿息子だと思ったら本を書く人になったと勘違いしてくれるだろう。仕事だってそうだ。競馬ライターになりたいとは思わないが、どこの誰が読むかわからないではないか。こんなところに逸材ありってことで、仕事がバンバン舞い込んだりしてなあ。いやいや、それほど甘くはない。うん、それは高望みだ。でも、思いがけない世界が開ける可能性もないわけじゃない。そうなれば、まったく興味のないパソコンの記事を書いて家賃を払う生活からオサラバできるかも……。

そう、これはライター生活初のチャンスらしいチャンスなのだ。そのためにはおちゃらけた実用書といえど、読んでおもしろいものに仕上げなければ。出だしから読者の気持ちをつかみ、笑いを取り、競馬ウンチクもさりげなく身につけられるような書籍を作らなければ。むむむむむ。

なんだよ、欲望のカタマリじゃん。こんなモヤモヤしたものを抱えて、いつも通りの調子でなんて書けるはずがないのだ。

最初の1週間は何も書けないまま過ぎた。書けないからパイン事務所に行く気にもなれず、それじゃ困るパインから、ちょくちょく電話がかかってくる。そのたび、何もできてないとも言えず、ボチボチ進行中と言葉を濁していたが、そのたびに憂鬱な気持ちになってますます書けなくなってしまう。何としてもそれは避けたいと考えたぼくは、パインに頼んで締め切りを少し延ばしてもらい、女のところに逃げることにした。『競馬四季報』をはじめ資料が山のようにあるが、背に腹は代えられない。めったなことでは乗らないタクシーを奮発した。

朝、出社する彼女を見送ってから原稿用紙に向かい、夜9時か10時頃、彼女が戻ったところで打ち止めにする。原稿渡しの日まで17日間。後がないのだ。

3日に一度着替えを取りに戻るだけで、ひたすら引きこもって書く。転がり込んだ当初は「同棲してるみたいだ」と喜んでいた彼女も、本のことで頭が一杯で、話していてもうわの空のぼくにアキレ気味だったから、日曜日だけは仕事を休み、一緒に外に出かける。

文体も固まってないのに気の利いた文章を書こうとするとボロが出るので、語尾を「ですます調」にすると決めてから調子が出てきて、内容はともかく量だけは書けるようになってきた。能力がない分、締め切りだけは守ろうとする意識が強いせいか、残り時間が少なくなるにつれ余計な考えにとらわれずに済むようになるみたいだ。

締め切り日の昼、ようやく最終ページまでたどりつき、原稿用紙の束をバッグに入れてパイン事務所に行った。

「全然家にいないから、どっかトンズラして戻ってこないかと思ったよ。それ原稿? ちょっと見せて下さい。ふ〜ん、オレ競馬はさっぱりわかんないけど結構おもしろそうじゃない」

2、3枚に軽く眼を通したパインが言った。できればもっと読み込んでから感想を言って欲しかったが、進行が遅れているからパインもあせっているのだろう。データ関係だけは間違えないようにと念を押されて、編集者チェックはあっけなく終わった。

「じゃあこっちは伊藤ちゃんのメモに沿ってイラストを発注しておくから、写真を集めてくれ。それと、あとがきもよろしく。ご苦労さん」

事務所を出て、ひとりで喫茶店に入り、ハイライトをくわえる。久しぶりにうまいタバコだ。とにかく最後まで書いた。ぼくの胸には安堵感だけがあった。

突貫工事で本の仕上げ作業が進む。写真を調達してからは、原稿の直しをできる範囲で行なったが、甘い採点をしても「まあまあ」以上の出来ではない。競馬や馬券本に詳しくないパインは、売れる本になりそうだと楽観的なことを言ったが、実用性も娯楽性も中途半端な本になりそうだ。装幀についても、こうしてくれという主張ができず、ずいぶん子どもっぽいものになってしまった。

奥付の発行日は11月1日だが、10月末には書店に並ぶと聞き、紀伊国屋書店新宿本店まで様子を見に行った。新刊書コーナーにはなかったが、競馬コーナーを見ると、おぉ、我が著書が平積みされているではないか。小さくだが、表紙には伊藤秀樹とぼくの名が記されている。

うれしさがこみ上げてくる。なんだかんだ不満はあっても、自分の本が完成したのだ。ライター生活1年、27歳で本を出せたのは、我が人生の歩みを振り返ってみても奇跡的なんじゃないだろうか。パインからは5冊貰ったが、売り上げに弾みをつけるためにも1冊買っておくか。並べてすぐに売れたとなると、書店の印象も違ってくるかもしれない。でもプロフォール欄に顔写真載せちゃったからなあ。著者自身だってバレて笑われたらどうしよう。そのときは照れることなく胸を張ってだな、手持ちがなくなっちゃってね、とでも言おうか……。無駄な思考を重ねてレジに向かい、定価780円なりを支払う。店員はぼくの顔さえ見ず「カバーはどうしますか」とだけ言った。

『サラブレッドファン倶楽部』が発売されても、ぼくの生活には変化など起きなかった。本は売れず、書評にも取り上げられず、つぎの本に取りかかったパインはすぐにそれを話題にしなくなり、競馬雑誌からさえ原稿依頼はなかった。内容は良かったが運に恵まれず売れなかったのではない。駆け出しライターが専門家のフリをして出した本に対し、世間は正しい反応を示したのだ。良かったねと言ってくれたのは親と彼女だけで、増田君や伏木君からも芳しい感想は届かなかった。この分じゃ、半年も立たずに絶版にされるだろう。悔しいが完敗である。チャンスは去ってしまったのだ。

しかし、ライターとしても素人同然、本を書いてもダメな自分に、上がり目なんてあるんだろうか。仕事を始めて1年経ったが、うだつが上がらないのは文章書きのセンスがないからで、こんな調子ではいくらやってもモノにはならないのでは。パインのように専門分野があるならいいが、いまだライターとしての方向性を決められずにいるのも、考えてみれば情けない。業界の人たちも、いつまでも駆け出しだからと大目に見てくれないに決まっている。

すっかり落ち込んでいたところへ、学研の福岡さんから電話があった。すぐにでも会いたいという。例のアフリカ雑誌の話だろう。いいよ、もうどこへでも行ってやる。半年くらい、大陸を流れ歩きたい気分だ。

だが、そんな話ではなかったのだ。喫茶店で会うなり、福岡さんは照れたように頭を掻いた。

「あの話、ダメになっちゃってね」

ガックリ。そんなことなら電話で言ってくれればいいのにと内心舌打ちして黙っているぼくに、福岡さんが言葉を続けた。

「それで、スキー雑誌を創刊することにしたんだけど、手伝って下さい」

2010-01-25

アダルトビデオの助監督という仕事 [下関マグロ 第17回]

「もしもし、増田くん、またお願いできるかな」

芳友舎の土屋監督から電話がくるとうれしかった。アダルトビデオ助監督の仕事依頼であるが、うれしい理由はギャラが取っ払いだからだ。

ライターが原稿料を受け取るのは、早い場合で仕事をしてから一ヶ月後、遅い場合は半年後なんていうのもあった。失業保険の支給がなくなった僕にとって、働いてすぐに現金が貰えるというのはとても魅力的だったのだ。

しかし、なんでその場でお金を貰うことを「取っ払い」っていうんだろう。

「たとえば芸能人なんかが、所属事務所経由でギャラを貰うんじゃなくて、興行主から直接お金を貰うってことだと思うよ。すなわち中間を〝取っ払う〟ということ」

1万円の領収書を書きながら土屋監督に質問したら、そう教えてくれた。

芳友舎の事務所は六本木にあった。もともと社長の賀山茂という人がやっていたSMサロンがビルの地下にあり、その店の裏側のようなところに事務所はあった。

土屋さんはガタイのいい人だった。学生時代にラグビーか何かやってたように見えたので、聞いてみたが、スポーツ系や格闘技の経験はないと言っていた。

アダルトビデオの現場というのは、今でもそう変わらないと思うが、みんな意外と大まじめである。仕事なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、このあたりのストイックさは、中に入って働いてみないとわからないのである。

実際ぼくも仕事をする前は、女の子の裸が見れるぞってなニヤけた気持ちだったんだけど、それだけではとてもやっていけない世界だということは、すぐにわかった。

助監督の仕事は現場の雑用である。出演者の弁当や、お菓子や飲み物を買ってきたり、機材を運搬したり、とにかく監督が言う通りになんでもやる。少し要領がわかってくると、監督の言いたいことを察知し、先回りをしていろいろなことをする。そういう仕事である。

芳友舎はサムビデオというレーベルで、おもにSM作品をリリースしていた。縛られた女優さんがおしっこをするシーンがあった。洗面器にするはずが、うまくいかず床にぶちまけることもあり、そんなおしっこを雑巾で拭き取るのも僕の仕事だった。

そのときの撮影場所は、六本木のSMサロンの近くにある、菊島里子さんという女優のマンションであった。菊島里子さんは、ちょっとポッチャリとした美形の人だった。頼まれて女優をすることも多かったが、そんなふうに自分のマンションを撮影に貸すことで料金を得たりもしていた。それこそ、取っ払いの世界である。

ある日、僕は土屋監督から仕事に呼ばれ、菊島里子さんのマンションにいた。現場に入ったのはお昼過ぎだったが、撮影はなかなか終わらなかった。夜の9時くらいまで粘っても、菊島さんからなかなかいい表情が出ないというので、監督が悩んでいた。

「じゃ、増田くん。合図をしたら、菊島さんの太ももをつねってね」

というわけで、僕は合図を待った。仰向けになった菊島さんの上半身をカメラは撮っていた。それまで何度もNGを出していたので、ここは一発でキメなくちゃ。そう思って、僕は合図が出ると少し強めに太ももをつねった。

本当は顔をしかめるくらいの加減でよかったのに、菊島さんは痛みのあまり大声で泣き叫んでしまった。カメラはその姿を撮っている。

アダルトビデオの現場でいちばんエライのは女優さんである。この人がへそを曲げたりしたら、撮影できなくなってしまうからだ。だから気を使わなければならない。現場に緊張が走り、カメラが止まった。

「アザができたらどうするのよ!! 他の仕事ができなくなるじゃないの!!」

菊島さんはとにかく怒っていた。

「そんなに強くはつねってませんよぉ…」

僕は力なく、そう言うのが精一杯だった。そこで撮影は中止。土屋監督は僕を叱るかと思ったが、とにかく口を挟まない姿勢を貫いた。

すべてを片付け、ギャラを貰ったところで、土屋監督が、「増田くん、飯いかない?」と声をかけてきた。落ち込んでいる僕を見て、気を使ってくれているのを感じた。

「増田くんは悪くないよ」

六本木のラーメン屋で、ビール、餃子、ラーメンの黄金のトライアングルをやりながら、土屋監督はそう言って僕は励ましてくれた。実はこのときの監督の温情があったからこそ、僕はこれを一生の仕事にするべきかどうか悩んだのだが、その後ある事件がきっかけで、ライターになる決意をするのだ。その話は次回!

2010-01-18

いきなり単行本の著者になった [北尾トロ 第16回]

パインの仕切りで、夏の終わりに総勢10名数名で長野県の野尻湖へ遊びに出かけた。車なんてシャレたものはないから電車である。大半が普段フリーで活動しているライターやデザイナーなので、大勢でどこかへ行くというだけでむやみに盛り上がる。30歳を超えているパイン以外は全員20代の、明日をも知れぬ生活をしている業界人たちだが、先行きの不安などないかのようにはしゃいでいた。みんなの気持ちはわかる。ぼくも、乏しい銀行残高をやりくりして参加したひとり。遠くまできてしみったれた話をするくらいなら最初から参加しない。1泊して、翌日にはレンタサイクルで湖を一周。テンションが下がることなく東京に引き上げた。

きっと、同じように貧乏で、同じようにヒマだった駆け出し仲間だったから盛り上がった小旅行だったのだろう。また旅行に行こうと誓い合ったものの、みんな忙しくなってそれぞれの道を歩き始めると、誘い合って大勢で出かけることは困難になってゆく。そればかりか、何人かとはやがて連絡も途切れ、ニ度とそんな機会が訪れることはなかった。

この夏はもうひとついいことがあった。前から好きだった女の子とつき合い始めたのだ。もしかしたら運勢が上向きになってきたんだろうか。長らく底打ち状態にあるサイフ事情も上向きになるのだろうか。根拠のない希望がわいてくる。

「伊藤ちゃん、本書かない? 確率は高くないけど、企画が通れば出せるよ」

アートサプライ内のパイン事務所、オールウェイでうだうだしていると、打合せから戻ってきたパインが突然言った。本って何だ。書店で売ってる本のことか。

「そう。いまナツメ社ってところと単行本の企画について打合せしてきたんだけど、先方はいろいろやりたがっててさ。ぼくはパソコン関係の企画なら出せるけど、もうひとつふたつ欲しい。何かあったらプッシュするよ」

そう言われても、自分には即座に対応できるほどの引き出しがない。詳しい分野なんて競馬くらいのもので……。

「いいじゃない競馬。それで行こうよ。実用的な企画を求められているからちょっと違うかもしれないけど、たとえば入門書とかさ。競馬界ってどうなの、入門書は出尽くしてるわけ?」

そうでもない。数だけは出ているが、面白みのある入門書は皆無だ。最近、競馬は盛り上がっていて若い連中にもファンが増えているはずだけど、その層に十分応えているとは思えない。個人的にはこれから女性ファンが増える気がするので、競馬場へ行く気にさせる入門書があってもいい。でも……。

「あまり気乗りしてない感じだな。伊藤ちゃんは自分の本を出したくないのか」

戸惑っていた。目の前の仕事をこなすのにもヒーヒー言ってる現状なのに、パインはなぜこんなことを言い出すのか。こっちはいまだかつて本を出すなんて考えたこともないのだ。いずれは本を書きたいという目的があってライターになったのでもない。

「でも、作家になろうって話じゃないからさ。いつまでも雑誌だけで食っていくのは大変だよ。オレたちみたいなライターは常に先行き不安定じゃない。伊藤ちゃんもだいぶ原稿がこなれてきたけど、オレが持ってくるパソコン関係の仕事をやってても、詳しくなろうとか努力しようとはしない。かといって他に連載があるわけでもないじゃん。著書があれば名刺代わりにもなる。そうやって抜け目なく営業してかなくちゃダメだよ」

単行本を書けっていうのは、ぼくを心配してくれてのことなのか。内心、少し嬉しくなっているとパインが先を進めた。

「有限会社オールウェイとしては営業マンがオレひとりじゃキツい。みんな自分のことしか考えてないし、広告営業マンとして期待した増田君もさっぱり契約を取ってこない。だから伊藤ちゃんには、パソコン以外のお客さんを開拓して仕事を取ってきてもらいたいんだよ」

なんだ、そういうことかよ。まあ、パインを当てにしている面があるのは事実だが、だからといって社員でもないぼくに仕事を取って来いと言われてもなあ。だいたい、本を書くのが営業に役立つと言われても、この先どんな仕事をしたいのか、自分自身でわかっていないのである。自信もまるでないから積極性にも欠ける。競馬の本を書いて競馬雑誌から仕事を頼まれたら困るとさえ思う。

「そうか。本を書いたらまとまった金が入るけどな」

「えっ、単行本ってお金貰えるんですか? 何万円くらい?」

「何万ってことはないよ。そうだな、今度の企画は原稿買い切りだから50万ってとこだろう」

そんなに。名もない著者が書いても金がもらえるってことだけで驚きなのに、50万円とは。知らなかった。反省します。やりますとも。ぜひ書かせてもらいましょう。

「……伊藤ちゃん、無知すぎる。単行本のギャラには印税と買い切りの2種類があってさ……」

大急ぎで企画書を書き、おおまかな構成案を作った。そしたら、タイミングが良かったらしく通ってしまった。いまいちピンとこないが、このぼくが著者になるわけである。うむむ、どうやって書けばいいのだろうか。

「楽しい入門書であればいいんだから、イラストや写真をうまく使って、コラム集みたくするか。伊藤ちゃんは各項目3千字くらい、ちょっと笑えて役に立つ文章書いてよ。言ってみりゃ競馬版の『見栄講座』のイメージだな。あれみたいに太文字でキーワードを目立たせよう」

パインが主導権を握っているのは、オールウェイがちゃっかりと、編集やデザインまで含めてこの仕事を受けたからだ。そのアイデアはどうか。『見栄講座』は独特なので真似すればミエミエになる。個人的には普通のデザインでいきたいものだが、その意見は通らなかった。

発売予定日まで3ヵ月を切っている。パインの指示はできれば半月、長くても3週間で書き上げること。競馬関係の資料を買い揃え、ラフレイアウト上がっておよその文字数が決まると、すぐにゲートが開く。この日から、ぼくは馬車馬になって働いた。

2010-01-11

読者チャレンジ企画とAVの助監督 [下関マグロ 第16回]

新橋の駅ビルの地下に、ウエイトレスの制服がミニスカートの喫茶店があった。といってもいかがわしいお店ではなく、ごく普通の喫茶店だった。

僕はその喫茶店で雑誌『とらばーゆ』の原稿を書いた。『とらばーゆ』は週刊だったから、最初の頃は毎週足を運んだ。慣れてくると数週間分の原稿をまとめて書けるようになったので、そんなに通わなくなった。

調子よく原稿をこなせるようになり、それでとんとん拍子にライター専業になったかと言うと、答えはノーである。相変わらずエロ雑誌のカメラマンはやっていて、1985年の夏は伊藤ちゃんと鎌倉の由比ガ浜で「オイルぬりぬりマン」を撮影していた

ライターはいくつかやっている仕事のひとつに過ぎなかったが、その年の夏はまた新たな仕事が舞い込んだ。それは「オイルぬりぬりマン」の企画をやった『ムサシ』という雑誌にいた、上川くんからの依頼だった。

「今、集英社の『ビジネスジャンプ』の編集部にいるんですよ」

上川くんは転職していた。

「ダイエットの企画なんですけど、増田さん、出てもらえませんかねぇ。ギャラは3万円と、それから一週間分の食料を差し上げます」

へえ、一週間分食事がもらえて、ギャラももらえるなんて、うれしいじゃ、あーりませんか。てなわけで、さっそくやらせてもらうことにした。読者がいろんなことにチャレンジするというコーナーでの企画だそうだ。

しばらくすると、東中野の僕のアパートに一週間分のダイエット食品が届いた。それを食べ続け、いったいどれくらい痩せるかという実験である。今なら、タレントなんかがテレビでやっているような企画だが、昔はよく雑誌でもこういうのをやっていた。ちゃんとマジメにやったが、中にはまずくて食べられず、半分くらいしか食べなかった食品もあった。しかしとりあえず、提供されたもの以外は食べないというルールを守り、マジメに取り組んだ。こういうのも自分としては仕事のひとつだと思っていたからだ。

そしてもうひとつ、その年の夏に始めたのが、アダルトビデオの助監督である。今では、ADと呼ばれる仕事だが、当時は助監督と呼ばれていた。

それは一回行けば、とにかく1万円がもらえた。撮影が長引いて徹夜になっても1万円、撮影がトントン拍子に進んで半日で終わっても1万円で、当たり外れがあった。

当時のAVは今とはまったく違ったものだった。今はAVとしてきちんとした制作のシステムができあがっているが、その頃はまだできたばかりのメディアである。ピンク映画などから多くのスタッフがやってきていた。ADではなく助監督といわれたのもその流れではないかと思う。今のAVはほとんどが本当にセックスをしているが、当時はそういうことはマレで、ほとんどがお芝居であり、まさにそれはピンク映画の世界だった。

照明や音声スタッフの人たちは、かつてとてつもない大スターに照明を当てたり、声を録音していた人たちだったりした。だから、「そういえば、裕次郎がね」なんてことを現場で話していたりするのだ。裕次郎というのは石原裕次郎のことで、そういったスターの名前がバンバン出てくる。

で、僕の助監督の仕事は、以前いたSESというスワッピング雑誌を発行していた田中社長からの紹介だった。芳友社というAVの会社で、最初は台本を書いてくれと言われていたのだけれど、どういういきさつか助監督をやることになった。

ちなみに助監督の仕事は要するに現場の雑用である。出演者の弁当を買ってきたり、機材の運搬をしたり、とにかく監督が言う通りに、あるいは先回りをして、いろいろなことをする。僕は意外に、この仕事には向いていた気がする。自分の職業として、AVの監督も悪くないなと思い始めていた。

何度かやった助監督の仕事だったが、拘束時間の長短だけではなく、ものすごく楽な現場もあれば、非常につらい現場もあった。そのあたりの話は次回また!

2010-01-04

オイルぬりぬりマンの夏 [北尾トロ 第15回]

季節は巡り、暑い夏が近づいてきた。去年の今頃はパインの家に居候してプール通いをしていたのだ。あれからもう1年。相変わらず生活はカツカツだが、ライター稼業で持ちこたえてきたのは上出来のような気がする。

キンキンに冷房を効かせた部屋で、ベッドに寝転がってハイライトに火をつける。イシノマキのときは風呂なしアパート住まいだったことを思えば、ずいぶんマシになったもんだ。たまたま出会った仕事だけれど、辞めてしまいたいと思わない。最近はもっとうまく書けるようになりたいと欲も出てきて、自分でも驚く。こんなの初めての経験だ。

親父が典型的なサラリーマンだったため、ぼくは幼い頃から2、3年おきに転校を繰り返してきた。そして、平日はほとんど顔を合わせることもなかった親父は、ぼくが19歳のとき、目標だったマイホームを持つ前に、48歳で突然この世から去っていった。何だろう、この人生は。ぼんやり過ごしていたぼくに、親父の生き方はひどく虚しいものに思え、自分はその轍を踏まないようにしようと誓った。

といっても、特別に好きなことがあるわけでも、やりたい仕事があるわけでもない。引っ込み思案な性格で、新しい環境に飛び込んでいくのも苦手だ。そこでぼくは、親父を否定するために“絶対にサラリーマンにはならない”という決意にしがみつくようになり、大学卒業後もプータロー生活を続けてきた。元来不器用で、フリーライターなる職業も知らなかった自分が、こうしてその仕事をするようになったのは幸運なことかもしれない。

ただ、そのように考えて、よりよい生活とか一流の書き手になろうとかいう建設的な考えに至らないのがダメ人間。何とか食えるのであればそれで良し、あとは公園で昼寝したりして30歳までは遊んで暮らそうと浮かれてしまうのだった。しばらくは余分な金も家庭もいらない。我が人生のテーマは、“いかにフラフラするか”なんだからそれでいい。親父の呪縛はまだ生きていた。

『ムサシ』からまた仕事を頼まれたと増田君から電話がかかってきて新宿で会った。前回やったパネル子との同棲生活みたいに、くだらないのがいいと言う。

「あと、今度は生身の女の子で記事にしてくれって。夏だし、遊びがてら海にでも行くかね。ビキニの女の子でも適当に撮影してさ」

いいねえ、『ロンロン』で鍛えた女の子撮影の腕が活きるってか。だけど、女の子の写真を並べるだけじゃつまらないよな、記事としては。

「そこなんだよ。ナンパ企画にしないと。トーンはお笑いでいいんだけど、裸は無理でもそれなりにエロさが欲しいね」

「なるほど、もっともだ。で、増田君はナンパしたことあるの?」

「ないよ。伊藤ちゃんは?」

ない。まったくの未経験。

「…… やり方もわからないようでは成功はおぼつかないね。それに成功したって、その先どうするかってこともあるよね。キャンプでもするかね。うーん、普通過ぎておもしろくない。何か仕掛けが必要だよね。そうだ、浜辺で焼いてる女の子にサンオイルを塗ってあげるのはどう? 男の夢を実現、とかさ」

「それだー! オイルを塗らせて下さいって看板持って浜辺を営業するんだよ。いまなら無料で、とかさ。オイルぬりぬりマン参上! いーねー、まっさん冴えてるよ」

「よし、それで行こう。この企画は絶対とおるよ。じゃ、伊藤ちゃん頑張って下さい」

「え、ぼくがぬりぬりマン?」

「当然でしょう。パネル子の企画でもキミが被写体だったんだから、キミじゃなくちゃ編集者が納得しないよ」

まったくそんなことはないと思うが、いいくるめられてしまった。

鎌倉の由比ガ浜に到着後、すぐ水着に着替え、看板を持ってビキニの女の子のまわりをウロウロする。

「えー、浜辺で日光浴中の皆さん、サンオイルの補充は充分でしょうか。背中、太ももを無防備にさらしますと後で大変なことになりますです。そこでワタシ、オイルぬりぬりマンにお任せ下さい。塗って差し上げます。無料です。塗らせて下さいビキニの貴女」

道中、増田君と考えてきた営業文句を口にしてみたが、振り返る人は誰もいない。

「セリフはいいんだけど声が小さいねえ。それじゃ誰にも聞こえないよ」

 そんなこと言われても、恥ずかしくて大声など出せんわい。出したとしたってヘンな眼で見られるだけ。ヘタすりゃ監視員が飛んでくる。

「こうなりゃ個別にアタックするしかないな」

「おぅ、ノッてるね伊藤ちゃん」

なわけないだろ。でも、ここまできて収穫なしでは帰りたくない。自分はライター、これは仕事なのだと言い聞かせ、2人連れの若い子に近づいた。

「ちわ。オイルぬりぬりマンです。サンオイルを背中に塗るサービス業っていうか、そういう企画で雑誌の仕事してて、良かったらオイルをですね、塗らせてもらえませんか」

「は? あんた誰」

「ですから私、オイルぬりぬりマンでして」

「やだっ」

「だよね。見知らぬ男にオイルを塗られるなんてカンベンしてほしい。わかる、わかるけどそこをひとつ、すぐに終わるから」

「いいです。友達に塗ってもらうから」

あっけなく玉砕だ。でも、こんなのはいいほう。ほとんどは話しかけても無視、聞こえないフリだ。その様子を冷静に撮る増田君の顔も次第にしょっぱくなる。

「どうもイカンね。伊藤ちゃんには照れがある。こんなバカな企画考えちゃったんだからもっと弾けていかないと」

「そうだな、明るく声をかけないとな」

何組も断られてヤケになってきたのか、もはや羞恥心はない。気持ち的にも、オイルぬりぬりマンに成り切ってきた。そして通算10組目。

「オイル乾いてるんじゃない? 塗ってやるよ。いいからいいから、オレそういう仕事だから、そのままの姿勢でいいんだから。頼むよ。お願いします!」

「えーっ、じゃあお願いしようかなあ」

ぬ、塗らせてもらえるのか。OK出たってことなのか。

「写真も撮りたいんだけど。顔出るのまずかったら下向いててくれればいいから」

背中だけだったが夢中で塗った。時間にして1分くらいのものだったが、終わったときには全身に汗をかいていた。

これで自信がついたせいか、打率が上がった。こうなると図に乗りやすい性格である。ブラひもの下に手を差し込んだり太股をマッサージしたり動きも軽い。同時に女の子のカラダを触っている実感も湧いてきて、いい仕事だなあなんて思ったりもする。幸いトラブルもない。話術に長けていないため、終わると逃げるように立ち去るからだ。

「もうページはできるね。欲を言えばあと一人、綺麗どころが欲しいかなあ。あそこに白ビキニがいるから塗らせてもらおうよ」

「了解。もう誰にでも塗っちゃうよ」

白ビキニの隣にはサングラスをしたヒョウ柄ビキニもいてオトナのムードだ。しかも、いずれも写真映えしそうな美人でスタイルもいい。よし、勝負だ。

「こんちわ、オイルを塗らせてもらえませんか。ずっと浜を移動しながら塗ってるんです。怪しいものじゃなりません、はい。もう、オイルさえ濡れればいいってわけで」

「へー、この人がサンオイル塗ってくれるんだって。あそこにカメラ持ってる人がいるけど、雑誌かなにかの企画?」

ここで趣旨を説明。すでに何度もこなしたパターンだ。

「でもなんか怪しい〜」

顔を写したいわけではないし、警戒心さえ取り除ければ案外、うまくいくのである。もう一押し。粘り強く口説くのみ。気配を察したのか、増田君も離れたところで妙なポーズを取って二人を笑わしてくれている。

「ねえ、どうしよっか。この人たち、撮らないと帰れないんだって。もう2時間もこれやってるらしいよ」

「オイル塗るだけなら別にいいと思うんだけど……」

よし、OKが出そうだ。増田君、撮影の用意を。と、白ビキニが立ち上がって砂を払って歩き始めた。

「でも、いちおう聞いてくる」

聞くって誰にだ。行き先を目で追うと、すぐそばの海の家。白ビキニがその中に向かって声をかける。

男が二人出てきた。げ、カップルだったのかよ。しかも屈強そうというかパンチ系というか、こわそうなお兄さんたちである。まずい。一からまたオイルぬりぬりマンについて説明して、わかってもらわないといけないのか。はぁ〜。

そこに増田君が駆け寄ってきた。

「そんなのが通じる相手じゃないね。ヘタすりゃ殴られるよ。撤退、てった〜い! お姉さん、失礼しました!!」

お辞儀マシーンのように頭を下げながら後ろ歩きし、追いつかれない距離まで離れたところで走り出す。

「楽しいねえ、最高だよ」

増田君が走りながら笑い出し、つられてぼくにも笑いがこみ上げてきた。

つま先さえ海に浸さないまま引き上げ、翌日には上がってきた写真を見ながらオイルぬりぬりマンの奮闘を書いた。女の子に塗ることばかり考えていて自分では塗らなかったので、背中が焼けまくり、しばらくは身体がほてってしょうがなかった。

2009-12-21

初めてのライター仕事 [下関マグロ 第15回]

1984年の暮れのことだ。手帳に書きとめた住所と地図を交互に見ながら、新橋にある『とらばーゆ』の編集部にやっとたどりついた。

担当は長崎さんという、僕と同じくらいの年頃の女性だった。テキパキと事務的に打ち合わせが進んでいく。

「読者ページのこのコーナーなんですけどね」

と長崎さんは『とらばーゆ』のひとつのコーナーを指さした。<私のリフレッシュ方法>という読者の投稿ページであった。働く女性が、仕事のストレス解消にどんなことをしているかというような内容だった。

「ここに読者からの葉書があるんで、使えそうなのを選んで原稿に起こしてください」

そう言い、すでに選別された数十通の葉書を渡された。ほんの10分くらいで打ち合わせは終わった。帰ろうとすると長崎さんがこう聞いてきた。

「原稿用紙持ってます?」

いいえと答えると、バックナンバー数冊と一緒に、『とらばーゆ』という名前の入った原稿用紙の束をくれた。

まだ手書き原稿の時代、各編集部には雑誌名の入った原稿用紙が用意されており、ライターはそれに原稿を書いた。たいてい200字詰め100枚がひとつの束になっていた。

東中野にあった三畳のアパートで、僕は読者葉書を一枚一枚見ながら、適当なものを選んで電話取材した。読者葉書には大概、ほんのひとことふたことしか内容が書かれていないので、詳しい話をさらに聞く必要があるのだ。

そのときは〆切りまで一週間くらいだったろうか。400文字くらいの原稿だったが、何度も書き直した。

そして〆切りの日に書き上げた原稿を編集部まで持っていった。長崎さんは、さっと原稿に目を通す。

「いいでしょう」と言われたときには、本当にホッとした。

「では、これが次の号の葉書です」と再び葉書を大量に受け取って帰った。

1985年1月の最初の週に発行された『とらばーゆ』に、僕の書いた初原稿が掲載された。それまでにもイシノマキで『週刊ポスト』のデータマンをやっていたが、それはあくまでもデータを集める仕事で、自分の書いたものがそのまま印刷物になるわけではなかった。しかし今度は、読者投稿ページとはいえ自分が書いた原稿が活字になったのだ。

今はパソコンで書き、メールで送ったものが印刷物になる。しかし昔は、自分の書いた手書きの文字が印刷物になるわけで、今とはまた違った感慨があった。

電車に乗ったら、若い女性が『とらばーゆ』を読んでいて、ちょうど自分が原稿を書いたページを開いていた。

思わず、「これ、僕が書きました」と言いたくなるようなうれしさがあった。

しかも、その小さなコラムだけで原稿料が1万円も貰えたのだ。『とらばーゆ』は週刊だったから、これだけで月4万円になる。

とはいえこの時点では、僕にはライターを専業にしようという気持ちがまったくなかった。この頃の僕は、大学入試の電報屋の仕事をしたり、テレビ番組のエキストラ集めの仕事をしたり、カメラマンをやったりしていた。雑誌ライターの仕事もそのうちのひとつくらいにしか考えていなかったのだ。

そんなお気楽な感じで、2回目の『とらばーゆ』の原稿も仕上げ、長崎さんへ届けに行った。

「今度は日高さんがこのコーナーを担当することになったんで」と言われて紹介された担当者は、僕より少し若そうな、おっとりした女性だった。

その日高さんにも慣れたころ、

「増田さん、料理やりますか?」

こう聞かれた。住んでいる三畳のアパートにはキッチンがない。だから料理なんかしているわけないのだが、これはなにかあると思い、

「料理ですかぁ、もちろん……。好きですよ」

と答えた。日高さんは急に笑顔になり、

「そうですかぁ。それはよかった。困ってたんですよ。ここのお料理のコーナーやってもらえませんかねぇ」

と追加の仕事を依頼をされた。<私のリフレッシュ方法>の半分くらいの文字量で、原稿料5千円だった。タイトルは<私の簡単クッキング>というもの。読者が考えた料理を紹介するコーナーである。

「原稿料が安いんで、今までやってた人がやめちゃうんですよ」

原稿だけではない、簡単なイラストまであって、それも描かなきゃいけないというのだ。

ネタは前と同じ読者ハガキから自分が選んで、アレンジする。どうにかなるだろう。

どこぞの居酒屋ではないが、即座に「喜んで!!」ってなかんじで仕事を引き受けた。

イラスト部分は料理の説明である。バックナンバーを見ながらフライパンやら鍋などを真似して、苦労しながら絵を描いた。そして、週に一回、2つの原稿と一点のイラストを持って編集部へ行く。不思議なもので、編集部に顔を出していると、また別の原稿も頼まれたりする。

1985年、こうして僕の生活の中で、ライターの仕事の割合がどんどん増えていくことになる。

2009-12-14

幻のアフリカ旅雑誌企画 [北尾トロ 第14回]

「アフリカの雑誌をやりたがっている人がいるんだけど会ってみない?」

1985年の3月頃、デザイナーの友人から電話がかかってきた。海外なんて学生時代にインドへ旅行したことしかないが、こっちはおもしろそうな仕事に飢えている身。返事は考えるまでもない。

「行く! コンゴでもケニアでも行く!」

「まだ企画段階で、これから会社に話を通さなくちゃならないらしいのよ。で、そのためにダミーっていうか、イメージを形にしたい。ついては、一部原稿つきのページを作りたいってことなんだけど。ギャラも出るんだか出ないんだか」

「ダミー? よくわからないけど、やる!」

「じゃあ紹介するよ。よかったわ、ヒマなライターはいないかって言われて伊藤君しか思いつかなくてさ」

その一言は余計だ。でも事実だからしょうがないか。

数日後、アフリカ雑誌の発案者に会った。学研の福岡という40歳くらいのおじさんである。学研と言えば科学と学習とか学年誌のイメージが強いが、大きな会社で、いろんな雑誌をだしているらしい。そこで、と福岡さんは身を乗り出した。

「最近は情報誌が流行だけど、単なるカタログ雑誌はつまらないと思うんですよ。ぼくは前から旅雑誌がやりたくてね、他社がやらないようなものをと考えていったとき、アフリカだと思ったわけ」

「はあ。ということはアフリカへは何度も」

「行ったことないんだよね」

「は?」

「行ったことないけど憧れはある。でも、どんなところなのか、どこをどうまわればいいのかよくわからない。普通のガイドブックにはありふれた情報しか載っていないし、『地球の歩き方』はバックパッカー向きでしょ。ぼくはね、これから個人旅行の時代がやってくると思うんだ。日本人がいろんなところを旅してゆく時代。そのツールとなるような、大人のニーズに耐え得る読み物が充実したアフリカ雑誌を作りたいんですよ」

 なぜアフリカなのかいまひとつわからない説明だったが、カタログ誌にはしたくないとか、個人旅行の時代がくるとか、福岡さんの話には駆け出しライターをその気にさせる魅惑的なフレーズが散りばめられていた。

「ウチは知っての通り堅い会社ですから、企画が通るかどうかはわからないんだけど、どうしてもやりたいんだよね。新しいことにチャレンジしたいんだよね。伊藤君は旅好きと聞きました。力になってくれませんか」

旅と行っても海外はインドしか。それもひどい貧乏旅行で……。

「インド! いいじゃない。アフリカもやろうよ。あの広い大陸を飛び回ってくれませんか。アフリカに興味があっても出かけるまでには至らなかった人たちのために、そこで何が起き、どういう暮らしが営まれ、どんな体験ができるのか、肌で感じたことを存分に書いてみようよ。ぼくはそういう大胆な雑誌を編集するのが長年の夢なんだよね」

くぅ、シビレるぜ。ぼくは少し酔ったように雑誌とは何か、編集者とは何かを語り続けるこの人に、心の中で“夢見るおじさん”とあだ名を付けた。

「それで、ダミーとかいうのを作ると聞きましたが」

「あ、そうそう。変わった雑誌だから、ただ企画書を書くだけでは通りにくいでしょ。そこでダミー版を作り、こんなイメージの雑誌だというのをカタチにして提案するつもりなんです。通常ならダミー版は企画が決まってから広告クライアント向けに作るものなんだけど、ぼくにとっては学研そのものがクライアントみたいなものだからね、熱意を示すためにも自腹を切って、企画会議でバーンとさ、上に見せたいと思ってるの」

おぉ、“夢見るおじさん”は本気だ。上から何か出せと言われてひねり出したのではなく、自らの意思で企画を立ち上げていく。必要とあらば自腹だって切る。こういう人こそ編集者と言えるのではないだろうか。

ダミーは12か16ページの内容で、若干の記事とデザインのアイデア案、広告サンプルなどで構成されるという。ぼくが頼まれたのは記事部分。映画『カサブランカ』を題材に原稿用紙4枚のエッセイを書く仕事だった。

「ビジュアルを組み合わせて2ページ作ります。お礼は2万円しか出せないけど、やってもらえるかな」

素朴な疑問はいくつもある。アフリカ雑誌に需要があるのか。需要があったとしても学研がそれを許すか。アフリカに行ったことのない人間がトップのアフリカ雑誌って無理があり過ぎないか。そして、最大の疑問は、大事な役割を持つダミー版の、貴重な記事をなぜぼくなんかに任せるのかということだ。気合いを入れて作るなら、誰もが名を知る作家に書いてもらうほうがいいのでは。一般公開されないダミー版なので頼みにくい事情はあるにせよ、せめてアフリカ通の書き手に依頼するべきじゃないのか。にもかかわらずぼくに頼んだのが引っかかるのだ。

まあ、あれこれ考えたってラチがあかない。目的は企画会議を通過させることなんだから、期待に添うものが書けなければ却下されるに違いない。約束だから原稿料はくれるだろうが、見切られて創刊メンバーに自分が入れなくなるようなことにはなりたくない。

図書館で『カサブランカ』製作の逸話を探し、モロッコについての本を読み、何度も何度も推敲して原稿を書いた。約束の日、緊張しながら原稿を見せると、福岡さんは時間をかけて熟読し「いいね、おもしろいよ」と何度も言ってくれた。編集者に目の前でほめられるのは初めての体験だ。嬉しさがこみ上げてくる。

「結果が出たら連絡します。今後も力になって下さい」

やった。これでやっと、ライターらしい仕事ができるかもしれない。そう思うと身も心も軽くなり、パインから振られる雑務みたいな仕事にも精が出る。

だが、連絡はなかなかこない。2カ月後、ギャラは振り込まれたが、それっきりだ。アフリカ雑誌の企画は通らなかった、そう考えるべきだろう。舞い上がっていた気持ちはしぼみ、淡々とした日常が戻ってくる。だけどショックというほどではなかった。どこかホッとした気持ちがある。あの調子で、いきなりアフリカに飛ばされたところで、いまの自分に大したことができるとは思えないからだ。

ぼくはあっさりとアフリカ話を忘れ、目の前の仕事に追われるようになっていった。半年後、“夢見るおじさん”から電話があり、思いがけない方向にライター生活が転がってゆくとは夢にも思わず……。

2009-12-07

高橋名人とカメラ [下関マグロ 第14回]

このシリーズには多くの個人名や会社名が出てくるが、ほとんどは月並みな仮名にしてある。しかし、編集プロダクションの社長につけられた「パイン」という名前は、なんだか突拍子もない感じがするだろう。

それには理由がある。パインというのは仮名ではなく、僕と伊藤秀樹だけが使っていた社長のあだ名なのだ。
ちなみに由来は、とりあえずパイナップルとは関係がないとだけ言っておこう。詳述は避けるが、名前の一部分を英語にするとそうなるという単純なものだ。

パインは、歌舞伎役者のような古いタイプの二枚目で、声が低く、話し方に妙な説得力がある男だった。

パインの事務所に顔を出すようになってから数日後のことだ。

「会社の名前、『オールウェイ』にしたよ。ほら、前に話しただろ、これからの編集プロダクションはいろんな道で食っていかなきゃいけないんだから」

パインはニコニコしながらそう言って、名刺の入った箱を僕の前に置いた。パインが僕の名刺を作ってくれたのだ。見ると、有限会社オールウェイとあり、僕の名前の横には「営業部」という文字が入っていた。ちなみに他の人たちは「ライター」とか「エディター」という文字であった。もちろんパインの名刺には代表取締役と書かれている。

この名刺を持って、僕はパソコン関連の会社へ営業に行くことになったのだ。

パインが編集を請け負っていたパソコン関連雑誌やムックに掲載する、広告をとってくるのが僕の仕事である。

といっても、給料を貰うわけではない。出来高制で、広告を取れればそこからいくらか貰うという約束であった。

ずいぶんといろいろな会社へ出かけて行った。秋葉原などの会社を飛び込みで一軒一軒まわった。我ながらよくやったと思うのだが、成果はまったく出なかった。

とはいえ、オールウェイの誰にも言っていなかったけれど、僕は当時、失業保険をもらっていたので、実はお気楽なものだった。まあ、取れなければ取れなかったでいいか、くらいの気持ちで、せっぱ詰まったものはなかった。

それで出かけていった会社のひとつが、オールウェイの近所にあった「ハドソン」というゲームソフト制作会社であった。そこは分室なのか、マンションの一室にあり、大きな机でゲームをしている男がいた。

あ、テレビで何度か見たことがある、高橋名人だ。彼は当時一世を風靡していた、有名なファミコン名人だった。
飛び込みで入ったにも関わらず、高橋名人は僕の話を聞いてくれた。

時折、ヘッドセットタイプの電話機で誰かと話すのだが、それが終わると、また話を聞いてくれた。妙に話がはずみ、広告営業だけではなく、『ムサシ』で女の子の写真を撮った話などもした。

すると高橋名人は、自分が持っているカメラを買わないかと言い出した。見ればけっこう高級な一眼レフカメラである。ほとんど使わないので、半額でどうかと言う。金額はよく覚えていないが、2、30万円だったろうか。しかしそんな金は持ってない。そう言うと名人がこう言った。

「ちょうどね、欲しいビデオデッキがあるんだけど、それをローンで買ってくれればいいよ」

つまり、ビデオデッキの代金(今調べたところ、当時のビデオデッキは10〜15万くらいだったようだ)をローンで支払えば高級一眼レフが手に入るというわけだ。僕は、心当たりがあるからちょっとまってくれと言い、急いでオールウェイの事務所に戻り、伊藤ちゃんにその話をした。
というのも、僕はすでに中古の安い一眼レフを自分で購入していたので買う必要がなかったのだ。そして、ふたりで街頭の女の子写真を撮る仕事をしていたとき、彼も自分で撮りたいというようなことを言っていたのを思い出したのだ。

この話はうまくまとまり、伊藤ちゃんは高級一眼レフカメラを手に入れた。いま考えれば、当時の伊藤ちゃんに高級一眼レフが本当に必要だったのかとか、色々なことを思うのだが、当時の僕らはそういうことは考えない若者だった。

そんなこんなで、1984年は暮れようとしていた。それとともに僕は少々あせり始めていた。失業保険の支給が12月で終わるからだ。

広告営業のほうは思わしくない。来月からどうすりゃいいんだろうか…と思っていると、オールウェイで伊藤ちゃんが声をかけてきた。

「まっさん、ライターの仕事なんだけど、『とらばーゆ』って雑誌、やる?」

おお、有名雑誌じゃないか。僕がそんなのやっていいのか……。つうか、できるのか。

しかし、仕事はない。やるしかないだろう。だいたい、いくら飛び込み営業をやっても広告が取れなきゃお金にならない。しかし、ライターは原稿さえ書けば金になるのだ。

当時、『とらばーゆ』はリクルートではなく就職情報出版という関連会社から発行されていた。新橋のビルに編集部はあった。僕はそこで初めての原稿書きに挑戦することになるのだ。

2009-11-30

パイン事務所での暗黒時代 [北尾トロ 第13回]

パインの事務所では月刊誌の「ロンロン」に加えて、パソコン周辺機器のムック製作が始まった。当時はまだパソコンそのものが一般的になりつつあった頃で、この手のカタログ的なものにも需要があったのだ。いち早くパソコンを使いこなしていたパインにとって仕事はいくらでもあり、ひとりではさばき切れないほどである。そこでパインは、少しでも知識のある若手ライターにどんどん仕事をまわし、編集プロダクション「オールウェイ」を大きくする作戦を立てていた。

「俺はもう30過ぎだろ。このままライターで食っていけなくもないけど、プログラミングから自分でやるほど詳しいわけじゃないし、パソコンの専門家になりたいわけでもない。それよりは編プロのおやじになるほうが、この先生き残れると思ってるんだよ。秀樹も手伝ってくれると助かるんだけど」

そう言われてもパソコンは大の苦手。ぼくの出番はあまりなさそうだ。

「秀樹にそれは期待してないから。むしろ俺にはこないパソコン以外の仕事を中心にやってってくれればいいんだ」

パインは先々、ぼくに編プロの主要スタッフとして働いてもらいたいようなことを言う。そういえば、パインの部屋に居候していたときから、そんなことを言っていたなあ。それに最近は増田君あたりともそんな話をしているようだ。

一人じゃ心細い気分もあったので一瞬うれしかったが、何か引っかかる。また、イシノマキのような日々が繰り返されるのではという恐怖だ。パインには世話になっているし、先輩ライターとしてつき合う分には楽しいのだけれど、自分が編プロの社員になることには抵抗を感じる。いい予感がしない。返事を濁すと、パインは首を傾げて言った。

「いますぐどうこうじゃないから考えといて。いずれはここを出て自前の事務所を借りるつもりだから」

ムック製作は佳境に差し掛かり、ぼくも大量のキャプション書きを手伝った。その程度なら、資料にあるスペックを整理するだけなので、ぼくにもやれるのだ。また、この仕事を通じてパインの仲間たち、デザイナーやイラストレーターとも知り合った。みんな、少し世代が上の気のいい人たちだ。フリーとして何年もやってきているので、淡々と仕事をこなし、ソツがない。腕のいい職人を見る思いがした。

この仕事には伏木君も参加しており、ぼくと同じくキャプション書きに精を出していた。どちらも仕事が遅く、毎晩のように終電近くまで働いても予定が消化できないのだが、家に帰ったってやることもない。内職に精を出す人のように、原稿用紙の升目を埋めるだけだ。

「助かりますなあ。こういう仕事は頭を使わないでいいですから。パインさんのおかげで来月も家賃が払えそうです」

そうなんだ、まったくそうなんだ。ぼくの住居は家賃が5万円。光熱費や交通費でざっと2万円。定期仕事を持たない我々は、生きていくのに最低限必要な金さえラクには稼げないのである。だから仕事を与えてもらうとホント助かるのだが、しょせんはその程度でもある。

「そうですなあ。坂出君のような能力があって、パソコンを持ってなくても原稿が書けるようじゃないと、食っていくのはキビシそうです」

「まったくだなあ」

「はあ……。チラシのスペックをただ書き写している我々は、これからどうなっていくんでしょうか」

坂出君というのは、やはりイシノマキに出入りしていたライターの一人で、ぼくより3歳くらい歳下だった。歳下とは思えないほど落ち着きがあり、原稿もうまい。パインも坂出君の能力は高く買っていて、大事な部分は彼にまかせる。仕事をすることは少なかったが、一緒に食事をしたりするうちにだんだん打ち解け、ぼくは彼のことを坂やんと呼ぶようになっていった。

坂やんは、パインのこともクールな目で見ていて、仕事を振ってくれる先輩ライター以上でも以下でもないつき合い方をしていた。主戦力の一人だから事務所に席はあるが、完全にフリーの立場で関わるのだ。ぼくには坂やんのやり方がベストなように思えた。

ムック製作は1984年末から85年春にかけての仕事だったと思う。以前書いた電報屋のアルバイトも同じ時期。大きなことは何も起きなかったが、ちょこちょこ人に会ったりトライアル的な仕事をしたりして、貧乏ヒマなし一直線の日々だった。知人を介して「ビッグトゥモロウ」の編集者と会ったり、「とらばーゆ」という女性求人誌を紹介されたり、自分の発想にはない仕事が目の前に現れ始めたのだ。

家賃の支払いにも悩んでいる駆け出しライターとしては考えるまでもない。やるべしである。まだまだ仕事を選べる身分じゃないのだ。

なのに気が進まなかった。自分自身では何のドリョクもしていないのに、飛び込んできた仕事のチャンスに、俺はこういうのがやりたいわけではないんだなあ、と呟いて意気消沈するばかりだ。やりたい仕事が飛び込んでこないのは要するにツキがないのだ、こんな気持ちでやったとしてもうまくいきっこない、寝ているほうがイイ。思い切り後ろ向きの考えしか出てこない。

「ビッグトゥモロウ」のデータマンを1、2回やり、やっぱり嫌になってしまった。「とらばーゆ」は担当者に会うこともせず逃げた。増田君とパネル子との同棲記事をやるまで、ずっとこんな調子だった。

毎日、立ち食いそばばかり食べていたら、だんだん顔色が悪くなってきた。

2009-11-23

エロ本の仕事で女の子の路上撮影 [下関マグロ 第13回]

若生出版の柳井が応接室で見せてくれた雑誌は『ムサシ』というごく普通のエロ雑誌だった。まだインターネットもない時代、エロ雑誌というのは、いまから考えられないほど種類があったし、部数もけっこう出ていた。

業界にはまだ余裕があり、当時はボクのようなズブの素人でもライターやカメラマンになれたのだ。

『ムサシ』での最初の仕事は、3ページほどのモノクロ記事であった。「新宿でナンパした素人の女の子」というような記事内容である。千葉くんが文章を書き、写真は僕が撮影することとなった。

ボクと千葉くんは、まず実際に夜の歌舞伎町でナンパをしてみた。千葉くんから借りた一眼レフのカメラをカバンに入れ、一晩中歌舞伎町で粘ってみたが、やったことのないナンパなど成功するわけもない。そこで、どこでどう知り合ったのか今ではまったく覚えていないが、顔が出ないことを条件に若い女の子に写真を撮らせてもらうことになった。いわゆるヤラセというやつだ。

撮影場所は新宿のラブホテルだった。千葉くんが3人で入ってもOKのホテルを探してきて、そこで撮影をした。

いまナンパした女の子をホテルに誘って撮らせてもらいました、というようなシチュエーションの写真だった。具体的な絵はまったく思い浮かばないが、唯一はっきり覚えているのは、こんなに出るかというくらいにボクの顔面からボタボタと汗がしたたり落ちていたことだ。

撮影したフィルムはモノクロであった。このとき、千葉くんからプロカメラマン専用のラボの存在を教えて貰った。こういうヌードを撮影したものは、町のDPEに持って行っても現像やプリントをしてもらえない。しかしプロ専用ラボならば、ヘアや性器が写っていても現像してくれるのだ。昔はそういうラボがあちらこちらにあった。

ボクは四谷にあったラボへフィルムを入れ、翌日もらいに行った。運良く写っていた。何枚か紙焼き写真を選び、喫茶店「ルノアール」で待ち合わせた千葉くんに渡した。

「また仕事やろうよ」

ボクはそう言ったが、千葉くんは浮かない顔をしていた。

「原稿料、安いからねぇ」と言ったっきり黙っている。

たしかにそうだった。ボクは若生出版から直接ギャラを振り込んで貰ったが、いくら頑張って数をこなしても、食って行くにはほど遠そうな金額だった。

それからボクもすっかり若生出版のことは忘れていたのだが、しばらくすると『ムサシ』の柳井から電話がかかってきた。

「またお願いしたいんだけど」

ボクは遠回しに、前回の仕事では苦労が多い割りには得るものは少なかったというようなことを言うと、

「うん、そのかわり好きなことをやっていいから」と柳井は言った。

そこでボクは打ち合わせに赴いて簡単にできそうな企画案をいくつか話し、実際に仕事をすることとなった。

うろ覚えだが、ページ5千円くらいだったろうか。もちろんその5千円は、写真と文章をあわせたギャラである。

千葉くんに電話したが、彼はもうやらないという。今から考えればボクがひとりで文章を書き、写真を撮ればいいわけだが、そういう自信がボクにはなかった。そこで、パインの事務所にいた伊藤くんに声をかけてみた。

そこから、前回の北尾トロの原稿にあるようなパネル子との同棲企画をやったのだ。もう時効だろうから許して貰いたいが、ぶっちゃけた話、パネル子は、旅行代理店の店頭からかっぱらってきた娘である。昔は等身大の水着娘が街中にいたものだった。

雑誌『ムサシ』だけではなく、2人で組んでの仕事は他にもやった。ボクがカメラマン、伊藤くんがライターという組み合わせだ。

ひとつは『ロンロン』という、パインの事務所が請け負っていたパソコン雑誌である。そこのカラーページの見開きで、道行く女の子にロンロンを見せて感想を聞くという企画をやった。

感想を聞くというのは、とってつけたようなもので、要するに可愛い女の子が写っていればいいのだ。しかし、モデルプロダクションに女の子の調達を頼むとギャラが発生する。それにひきかえ道行く女の子はノーギャラだ。当時、雑誌でよく使われた安直な企画である。

四谷から歩いて市ヶ谷に行った。市ヶ谷駅から飯田橋方面へ行く土手で、女子大生らしい女の子に伊藤くんが声をかけていく。声をかけて話を聞いてくれそうだったら名刺を渡し、雑誌を見せて企画の説明をする。OKが出れば、ボクは女の子のところへ行ってカメラを向け、シャッターを切るという段取りだった。しかしそうトントン拍子に事は運ばない。

「ダメだね、市ヶ谷は」

伊藤くんはそう言い、ボクたちは総武線に乗って新宿駅まで行った。新宿南口あたりで、女子大生に、伊藤くんが声をかけはじめた。

立ち止まって写真を撮らせてくれる女の子はけっこういた。市ヶ谷に比べ、こっちは調子いいぞ! と、思っていたら、警官2名がやってきた。

「向こうで苦情を言ってる人がいるんですが……」

そうボクらに声をかけてきた。ボクは適当に謝ってその場を去ろうとしたのだが、伊藤くんはキッとした表情になり強い口調でこう言った。

「なにも悪いことはしてませんよ」

そして自分の名刺を取り出すと、警官の顔の前に突き出した。

警官はその名刺をいったん受け取り、じっくり見たあとで、伊藤くんに返した。

「そんならいいけど、苦情が出ないようにやってくださいね」と言って警官たちは去っていった。

そのときボクは、伊藤くんは仕事に対する気迫がボクとはぜんぜん違うなぁ、なんかすごいなぁ、としみじみ感じたのだった。これが1985年(昭和60年)の3月くらいだったろうか。そして、例のパネル娘の企画はその年の初夏。そして、夏にはあの伝説の企画<オイルぬりぬりマン>を『ムサシ』で敢行するのであった。

2009-11-16

等身大パネルと愛の暮らしを [北尾トロ 第12回]

いつものようにアートサプライ内のパイン事務所でうだうだしてると、増田剛己がやってきて仕事の話があるという。

「最近知り合ったムサシっていうエロ本の編集者から、何かやってよって言われてるんだよ。一緒にやんない?」

「ほぅ、ムサシか」

「あれ、知ってるの?」

「まったく。でもヒマだからいいよ。やる、やります、やらせてください!」

「ギャラはすごく安そうなんだけど、打ち合わせの経費は出るから、うまいもんでも食べてくれって。しゃぶしゃぶでも食べに行きますか」

「いいねえ。しゃぶしゃぶなんて一度しか食べたことないよ。行こう行こう。企画会議ってことで」

増田君が見せてくれた『ムサシ』はエロ度の低い、あまり特徴のない雑誌だった。いかにもお手軽なヌードグラビアが並び、合間に息抜きの活字ページがある。我々は活字の企画で4ページほど受け持つことになった。増田君によれば締め切りなどもゆるく、何かできたら載せてやるから持ってこい、という感じらしい。編集者にしてみれば活字ページはオマケみたいなもので、おもしろい記事ができればめっけものということだろうが、こっちはヒマを持て余す身。自由に書かせてもらえる媒体となれば張り切らないはずがない。

それに、すでにゲップが出るほどしゃぶしゃぶを食べてしまったから、何かしなければ編集者に申し訳ない。

「ぼくが写真を撮るから文章は伊藤ちゃんが書きなよ」

まず役割が決まる。企画のほうは、いちおうエロ本だからエッチな方向で攻めたほうがいいだろうと意見が一致。ぼくが犬に扮装し、新宿のアルタビルの前で、「バター犬です」と書いたカードを首にぶら下げて女の子をナンパ、カラダのどこかにバターを塗ってもらいそれを犬が舐める方向でいったんは固まった。なにしろ、しゃぶしゃぶ腹一杯でご機嫌なので、そんな気味の悪い企画に乗ってくれる女の子がいるかどうかなんて考えない。バターを塗る場所が胸ならともかく、手首だったりしたら果たしてエロいのかという疑問もあるにはあるが、ここまでやって手首かよってことで、読者も笑ってくれるんじゃないか。

「問題は犬の着ぐるみをどうするかだね。ああいうの、借りると高いらしいよ」

「伊藤ちゃんの知り合いにボランティアで作ってもらえばいいんじゃ」

「おお、そうだな……って、そんな都合のいい女いねーよ」

「わかった。じゃ、着ぐるみなしで。ぼくがヒモで引っ張るから四つ足で歩いてよ。首輪をつけたら犬に見えるんじゃない?」

「見えねーよ!」

あっけなくバター犬企画は挫折。実現可能なことでなきゃとふたりで知恵を絞ったのが、化粧品屋や旅行代理店の店頭に置かれているキャンペーンガールの等身大パネルを恋人に見立てた同棲企画だった。実際の大きさと等しいのだから、妄想力を高めれば、これはもうリッパな異性だ。

吉祥寺界隈で1体調達してきて、我がコーポインマイライフにご案内。おずおずと肩に手を回し……カラダの厚みがないのが興ざめだが、そこは気合いで乗り切って、恋人気分を醸し出してみた。

「挨拶が済んだらデートでしょう。井の頭公園でも行くかね」

カメラマン増田の指示で、ぼくとパネル子は外に出る。公園のベンチで愛を語るふたり、の図だ。

「いい感じだ伊藤ちゃん。シュールっちゅうの、こりゃムサシでも大受け間違いなし」

「チューしちゃおうかな」

「お、手が早いね。初日でそこまで行きますか」

「行きますとも。もうね、俺ガンガン攻めちゃうタイプだから」

パネル子とはそれから数日間、一緒に暮らした。体温がないため添い寝するときひんやりするのが難点だったが、妙なものでだんだん愛着が出てくる。増田君もいないのに、ぼくは何かするたび、パネル子に話しかけるようになっていた。出かけるときなんか、声色使うもんなあ。

「アナタ、行ってらっしゃーい」

「うむ、今日も頑張ってくるよ」

本当にくだらない……。

しかし、愛の暮らしは長く続かなかった。数日後、増田くんがやってきて締め切りが近いことを告げたのだ。

「わかった。では最後にパネル子とシャワーを浴びさせてくれ」

「勝負に出るねえ。よし、失敗しないように撮影するよ」

全裸男と立て看板、炎の濡れ濡れカットである。ずぶ濡れになったパネル子はあえなく剥がれてゴミと化し、同棲生活は幕を閉じた。

掲載されたことは確かだが、このときどんな記事を書いたか、いまとなってはまったく覚えていない。たぶん、どうしようもない原稿だったろう。その後、『ムサシ』で仕事を続けたかどうかも記憶の彼方だ。

ただ、振り返って思う。6、7年後、北尾トロとして初めて手応えのある原稿を書いたのが『裏モノの本2』(三才ブックス)でのダッチワイフ体験リポートだったのは、単なる偶然ではないだろうと。編集者がワイフとの同棲企画を提案してきたとき、まったく抵抗なくOKしたのは、パネル子との経験があったからこそだろうと。

しばらくしてからギャラをもらった。ふたりで1万円だったと思う。しゃぶしゃぶを食べたから安いとは思わなかった。

2009-11-09

こうしてエロ本の仕事をすることになった [下関マグロ 第12回]

今でも四谷四丁目から四谷三丁目にかけての新宿通りを歩くと、ここを3輪の原付バイクで走ったことを思い出す。時期は1984年の秋から1985年の暮れまで。麹町にあるパインの事務所に通っていたのだ。

今でもそうだが、新宿通りから行けば、四谷四丁目の交差点から歩道も車道も広くなり、視界が開ける。僕は劇的に変わるこの景色が好きだった。

JR四ツ谷駅を通り過ぎると、右に上智大学がある。その並びのビルに『SPA!』になる以前の『週刊サンケイ』の入っているビルがあった。ここには、オリーブオイルのPR仕事で一度お邪魔したことがある。上智大学の学食はその後何度も食べに行ったことがある。

ルノアールがあり、その先につけ麺大王があった。今は両方ともない。その先に「蛇の目寿司」がある。これは今でもある。ただし一度も行ったことがない。というか、当時はお金がなく、自分たちにそんな選択肢があるということは思いもしなかったのだ。そのお寿司屋さんの手前のビルの地下にあったのがアートサプライという編集プロダクションで、パインたちはここに間借りしていたのだ。

パインが僕に期待をしていたのは、広告営業だった。

「編集プロダクションで、広告部門があるところは少ないから、そういうのをやろうと思うんだけど、どうだろう」

パインは低い声でそう言った。そして、協力してくれないかと言われたが、僕はイエスともノーとも言えなかった。というのも広告代理店をひとりでやっていくということに限界を感じていたのだ。

でも、パインの事務所はおもしろかった。伊藤ちゃんたち若いライターなどがたくさんいたからだ。だから仕事というよりは、たまり場に遊びに行くという感覚だった。

そんなたまり場で、久しぶりに千葉くんと会った。イシノマキで顔見知りとなり、けっこう親しく話す仲となった。もともとパインの事務所にはイシノマキにかかわりのある人がけっこう多かった。

千葉くんはもともと埼玉新聞の記者だったが、すぐに退職。一時、白夜書房(後にコアマガジンになる)で編集の仕事をしたこともあると言っていた。年齢は僕と同じだが、彼は僕のことを「増田さん」と呼ぶ。

「増田さん、ちょっと話があるんですが…」

と言う。なんですか? 聞き返せば、ここではなんだかまずそうである。

「じゃ、ルノアールにでも行きましょうか」

僕たちは外に出て、すぐ近所のルノアールへ行った。

話はこうだった。千葉くんは、あるエロ本の仕事を請け負った。それは素人の女の子をナンパし、レポートするというもので、その仕事で取材する女の子のあてがないので、なんとかならないかというのだ。

「うーん、あてがないわけでもないけれど」

以前いたスワッピング雑誌の関係者にでも聞けばどうにかなると思っていた。

「じゃ、カメラマンやりませんか?」

藪から棒になにを言うかと思えば……。

「前、カメラ持ってたじゃないですか」
「あれはコンパクトカメラだからちょっと仕事には使えないんじゃないのかなぁ」
「じゃ、一眼レフカメラを貸しますよ。大丈夫ですよ」

なんとも強引な話である。さらに話は急な方向へ進む。

「その出版社はこの近所にあるんですよ。今から一緒に行きませんか?」

またまた強引である。

「若生出版というところなんですよ」

僕たちは新宿通りを半蔵門方向へ歩き始めた。

ほどなくビルのワンフロアに若生出版があった。

僕らは中に通されるわけではなく、オフィスの入り口のところに待たされている。出てきたのは僕らと同年代くらいの男であった。千葉くんが挨拶して、僕を紹介してくれた。男は、だるそうに自分名前を柳井と名乗り、名刺をくれた。忙しいから早く帰ってくれというような雰囲気だった。僕も少しムッとしながら、つい最近作った「オフィスたけちゃん」の名刺を渡す。すると柳井は、

「あれーっ、この名刺見たことあるよ」

と素っ頓狂な声を出して、奥へ引っ込んでいった。待つこと3分。ほどなくして、笑いながらやってきて、

「ほらほら、同じ」

と2枚の名刺をこちらにかざしている。えっ、なぜ、僕の名刺がここに……?

「東中野の本屋で女の子に名刺渡さなかった?」

そう言われ、あーっと気がついた。そうそう、本屋さんでエロ本を読んでた女の子に名刺をわたしたっけ。

「あれはさ、橋本杏子ってモデルの女の子で、気持ち悪いからってんで、オレにこの名刺を渡したんだよ」

と言いながら大笑いをしている。と、柳井は僕のことをおもしろがってくれて、応接室に僕たちを通し、さっそく仕事の話をしはじめた。これが僕のエロ本初仕事となるのである。

2009-11-02

合格電報屋で一稼ぎをもくろんだ [北尾トロ 第11回]

アートサプライの事務所は四谷と半蔵門の中間にあり、食事処には不自由しなかったが、決して安くはなかった。そこで、少しでも食費を安く上げたい駆け出しライターたちは、上智大学の学食によく足を運んだ。ここなら300円もあればまともな食事にありつける。食べるのはもっぱらカレーで、定食だと贅沢した気分。経済事情は学生以下だ。

だが、挨拶代わりに「金がない」と言い合っているのも飽きてきた。何かてっとり早い現金収入の手段はないだろうかと考え、受験生相手の合格電報屋を思いついた。

「上智なら地方から受験に来る学生も多いから、けっこう注文があるんじゃないの。仕事もラクだよ。受験日、試験が終わった頃に行って2時間勝負ってとこだな。あとは発表日に見に行って『サクラサク』とか『サクラチル』とやるわけよ」

増田君と伏木君に提案すると、ふたりとも乗り気だ。

「元手もかからないし、いいバイトになりそうじゃん。伊藤ちゃん冴えてるねえ。伏木君もやろうよ」
「もちろん一枚噛ませていただきます。どれくらい流行りますかね。受験生が1万人いるとして、その半分が地方からの受験組とすると、お客さん候補は5千人ってとこですか。この商売、ライバルはいるんでしょうか?」

昔からやってる商売だろうから、きっといるんじゃないか。

「じゃ、10組いるとして、1組あたりのお客さんは500人か。仮に10人にひとりが依頼してくれたとすると50人。ウハウハですなあ。増田さん、料金はいくらにしましょう」
「ま、いまどき電報って人は少なくて、大部分は電話でしょう。合格電話が500円、電報は打つのに金がかかるから1000円ってとこなんじゃない」

500円で計算すると、50人で2万5千円か。悪くないねえ。そこまで高望みはしないけど、深夜番組のサクラをやるよりはいいだろう。

「合格しても落ちていても、電話は素早く、すみやかに結果を伝えて切らないとな」
「そこですな。話し込んだりしたら、電話代がかかります。う~ん、どういう具合にかければいいんですかね。増田さん、ちょっと実演して下さいよ」
「よし。じゃあ伊藤ちゃん母親役やってよ。もしもし合格電話屋ですが」
「はい」
「今日、結果発表がありまして、息子さんは」
「どうでしたか?」
「息子さんは」
「じらさないで下さい」
「不合格でしたー! ガチャ」

試験当日、我々3人は四谷駅から大学正門に向かう路上で受験生を待ち受けた。午前中に下見して、警備員がいる学内でやるのは危険だと判断したのである。年齢的にはギリギリ大学生に見えなくもないはずだが、くたびれたジーンズと、これまた年期の入ったジャンパー姿なので、人相風体が怪しすぎるとの自主規制だ。

「キャンパス内に何組のライバルがいるかわかりませんが、とりあえずここは誰もいませんね。ただ、どうなんでしょう。このやり方で受験生たちの信頼を得ることができるでしょうか」

伏木君が不安がるのはもっともだった。目立たなければいけないと、首からでっかいガバンをつり下げたスタイルなのだ。ガバンには住所などを書く名簿が乗っているだけで、他には何もない。そこで急遽、『合格電報・電話承ります』とか『電報1000円、電話500円ポッキリ。発表後即連絡!』、『実績抜群!幸運を呼ぶ電報・電話屋』といった文字を書き付け、ガバンの下に貼ることにした。

「どうなんでしょう、うさん臭さが増したようにも思えますが」
「それは錯覚だ伏木君。必要な情報はすべてここにある」
「ですが……。すみませんが、持つ係は伊藤さんがやって下さい。ぼくと増田さんで学生たちに声をかけます。そろそろ受験生が出てきましたよ。増田さん、行きましょう」
「伊藤ちゃんまで声を張り上げたらかえって不審だから、キミは落ち着いた顔でここにいてくれ。あとは、人気のあるところを見せるためのサクラかな。名簿に我々の住所氏名を書いておく、と。よし、伏木君、レッツゴー!」

勢い良く飛び出すふたり。現金収入がかかっているとなると積極性が違うようだ。この勢いがどうしてライター活動に出せないかなあ。つくづく不思議だ。

しかし、意気込んで声をかけ始めたものの、反応はまったくない。無視どころか、受験生がふたりをよけるように歩いている。

その理由は見ればわかった。増田君は寒いのか、飛び跳ねたり左右にステップを踏んだりしてしょっちゅうカラダを動かしている。そして、これはという相手を見つけると近寄って行き、耳元で囁くように勧誘しているのだ。チョビ髭にサングラス風眼鏡のその姿はポンビキにしか見えない。

一方、丸眼鏡の伏木君は威圧感こそないものの、基本的なところを勘違いしている。

「なぜか合格率がアップする電話に電報、えー電話に電報はいかがっすか。信用と実績が幸せを呼びまーす。電話、あ、電報の御用向きはございませんか~」

これではチリ紙交換か駅弁売りだ。

誰一人として申込者のないまま20分が過ぎ、大学から吐き出される受験生が増えてきたところで、ライバルまで現れた。部活かサークルの資金稼ぎにするのか、正門の前で上智の学生らしき数名が合格電話屋をやり出したのである。しかも敵は女子大生までいて、可愛い声で勧誘しているではないか。くそ、負けるわけにはいかん。我々は心をひとつにし、声を絞り出した。

「合格電話、発表後すぐに連絡しますよ~」
「サクラサク、サクラサクの電報はいかがっすか!!」
「たった500円で合否情報が届きますー!」

するとどうだ、ポツポツと客がつくではないか。どうやら合格電話代500円は破格のようで、他は1000円で受けているらしい。動きがヘンでも半額ならば頼もうという学生がいたのである。

30分もすると門から出てくる学生が激減したので、我々は撤収することにした。依頼を受けたのは10人足らずで全員電話。目標の売り上げにはほど遠かったが、実労1時間でこれなら御の字である。すぐに山分けし、冷えきったカラダを温めようとラーメン屋に入った。塩辛いタンメンのスープは労働の味がした。

申込者はひとりを除いて不合格だったが、合格者に連絡すると、母親らしき人に何度も礼を言われたそうだ。

「電話代がかさんじゃったけど、悪い気分じゃなかったよ」

電話係だった増田君は、ちょっと嬉しそうにしていた。

でも、その後もバイトに励んだかというと、そうでもない。この頃から少しずつライター仕事が増え始めたからだ。好きも嫌いもなく始まったライター生活。でも、ぼくはそれで食べていけるのならそうしたいと考えるようになっていた。

2009-10-26

怪しいニューメキシコの水島 [下関マグロ 第11回]

去年の夏のことだ。千代田区立図書館で本を借りようとしているときに後から「まっさん」と声をかける男がいた。

僕のことを「まっさん」と呼ぶ人間は限られている。本名が増田だから、〝まっさん〟と呼ばれていたが、そういう呼び方をするのは、この世でほんの数人だろう。

振り返れば、そこには水島がいた。ニューメキシコの水島である。何年ぶりだろう。10年以上は会っていないはずだ。しかし、おもしろいもので、昔の知り合いというのは、時間を飛び越え、すぐに会話ができる。相変わらずおしゃれで、高そうなワイシャツを着ていたので、

「よぉ、なんだか、羽振りいいらしいじゃない。今、新宿?」

と僕は水島に言った。彼は一瞬、どうしていいかわからないという表情になり、照れ笑いを浮かべ、

「まあ、そんな時期もあったのぉ。いい夢を見させてもらったよ」

と言った。

「えっ、新宿で従業員が50人だとか、100人だとかの編集プロダクションやってたんじゃないの」
「まあ、いい時はほんの一瞬でなぁ、最後の2年間は毎日のように金策で大変だったよ」

と話す。さらに大きくなった自分の子供の話や奥さんの話が出て、別れ際に今は、小さな出版社で働いているのだとかで、名刺をくれた。

図書館を出て、僕は北尾トロに興奮ぎみに電話をしていた。

「いやぁ、びっくりしたよ。今、水島に会っちゃったよ」

と言ったが、なんだか、反応が鈍い。

「ほら、あのニューメキシコの水島だよ」

と説明するも、会社が倒産して云々というような話をされた。そして、後日、くわしく話を聞けば、水島は編集プロダクションを倒産させ、知り合いのライターやデザイナーなどの多くは、ギャラが未払いで、迷惑をかけたまま行方不明になったのだそうだ。

「そういうのに、まっさんは関係ないから水島も声をかけたんじゃないの」

そうかもしれない。

今から20数年前……。えーっと、水島とはどうやって知り合ったんだっけ。まったく思い出せない。

あの頃は、なにをやっているのかわからない胡散臭い人間でもとりあえずつきあっていたように思う。お互いに新しい人間関係に対してもとにかく貪欲だった。

そういえば、この時期、橘川幸夫に電話したことを思い出した。橘川幸夫というのは、渋谷陽一と『ロッキンオン』を創刊した人で、後に『ポンプ』という全面投稿雑誌を創刊した人だ。今でいえばさしずめ「2ちゃんねる」のようなもので、その印刷板だといえばいいだろうか。創刊されたのは僕が大学に入学した1978年で、大学時代はずっと『ポンプ』を愛読していた。

そして、いま話をしている1984年にもまだ『ポンプ』は出ていたが、次第にあまり読まなくなっていた。と、どこにどう載っていたのかわからないけれど、橘川幸夫がおもしろい人を求めるというような記事とともに事務所の電話番号を載せているのを見つけた。僕はその記事を見たとたん、反射的に電話したのを覚えている。貪欲に人間関係を広げたかったのだ。

「あの、『ポンプ』にも投稿していた増田といいますが」

と言ったが、なんせ投稿者はたくさんいるから、橘川さんもわからないだろう。やはり、こう聞かれた。

「キミはなにをやっているんですか?」

ハッとした。今、自分は無職だ。何者でもないのだ。何かをやりたいけれど、まだなにひとつもモノにはなっていない。でも、自分はおもしろい人間だと思う、そう答えると

「しかし、具体的に何かをやっているわけではければ、僕はあなたとどう絡めばいいかわかりませんよね」

と言われ、電話を切られた。その時は、ずいぶん冷たいなとも思ったが、後になって、僕自身が電話番号やメールのアドレスを公開し、多くの人からコンタクトをもらったときにそれはよくわかった。いくら自分がおもしろい人間だと言われても、具体的に何かをやっていなければ、こちらもどうからんでいいかがわからない。

大人の橘川さんは、まだ何者でもない僕をまったく相手にはしてくれなかったけれど、水島や伊藤秀樹(北尾トロ)は違った。何者でもない僕と楽しく接してくれたのだ。

当時の手帳を見ると、1984年の9月28日水曜日<ニューメキシコにtel 名刺>と書かれている。

ニューメキシコは、名刺を安く印刷できるというので、僕は名刺の営業をやっていたのだ。知り合いの会社に名刺を作らないかと聞いてまわり、ニューメキシコに発注するというものだ。利益は薄かったが、薄利多売でいこうかと思っていた。しかし、実際の結果は薄利少売に終わってしまった。

ちなみに伊藤秀樹(北尾トロ)の引っ越しが10月1日だった。その数日後に北尾トロの原稿にあるとおり、僕がニューメキシコに彼を連れて行ったこと、焼き鳥のことなどは僕も覚えている。

ニューメキシコには3人のメンバーがいた。当時はまだいなかったのだが、後に三池という男がここのメンバーになる。彼が、三才ブックスという出版社を僕らに紹介してくれるのだ。それがきっかけとなって僕と北尾トロの仕事はさらに広がりを見せることになるのだが、それはまだ先の話。

しかし、どうしても水島との出会いが思い出せない。だったら本人から直接話を聞けばいいじゃないか。僕は名刺入れから、去年の夏に水島からもらった名刺を探した出した。おお、これこれ、出版社の名刺だ。電話をしてみると、若い女性が電話に出た。

「あの、水島さんいますか?」

「もう、その人間は退職しています」

えっ、連絡先はわからないのかなぁ。とにかく僕は去年の夏に水島から名刺をもらったことを話し、怪しい人間ではないので、なんとか連絡先を教えてくれないかと頼んだ。

「去年の夏ですか……、その時期に水島はすでに会社をやめていましたが」

なんだか拍子抜けであった。が、まあ水島というのは、そういう人間なのかもしれない。やめた会社の名刺を僕に渡していたのだ。

「そうですか、じゃ、もういいです」

僕はそう言って電話を切った。水島と知り合ったときのことはわからずじまいである。

2009-10-19

ほろ苦い焼き鳥の味 [北尾トロ 第10回]

1985年になっても代わりばえのしない日々が続いていた。1月、ぼくは27歳になったが、それで気持ちが変化するわけでもない。唯一の趣味であり、かつては生活費稼ぎの手段でもあった競馬は、資金難のため当分封印。週に3日ほど四谷に行く他は、自宅でおとなしく過ごす。借金した100万円がきれいさっぱりなく なったので、前年にやった仕事のギャラが銀行に振り込まれるのをひたすら待つ毎日だった。もっとも、入金額が少ないので、家賃を払うといくらも残らなかったが。

だからといって暇を持て余すかというとそうでもない。時間があるし、周囲には似たような連中が多いから、ちょくちょく誘いがかかるのだ。用件が仕事じゃないだけなのである。

前年の秋頃はテレビ局の仕出しアルバイトなどで忙しそうにしていた増田君も、いまでは以前のようにヒマそうで、赤い3輪スクーターに乗っては遊びにやってきた。やっと花開いたかに思えたオフィスたけちゃんだったが、あっという間に開店休業状態に戻ったようだ。

「時間あるでしょ。これからニューメキシコって事務所に行くんだけど、すぐそこだから一緒に行かない?」

ある日、いつものように喫茶店でうだうだしていたら、増田君に誘われた。ニューメキシコは広告代理店のようなところだが、名刺を作ったりもしていて値段が安いので、新しいのを頼めばいいという。ぼくは引っ越してから名刺を作らず、住所をボールペンで書き換えた古いのを使っていたのだ。

ニューメキシコの事務所は吉祥寺駅からすぐ、映画館の並びにある大きなマンションにあった。1DKくらいで広くはないが、いかにもオフィス然としている。代表は水島という同い年のヒゲ男だった。

「ぼくは小さな出版社で編集やってて、独立したばかりなんです。一応広告代理業をやってます」

友人を誘って男3人でやっているという。水島君の机の上には、雑誌に入校する広告のゲラなどが積まれていた。なんかすごいな、ちゃんとしてるな。

「いやいや、まだ会社組織にしてないんですよ。いずれはそうしたいんだけど、旅行雑誌の枠を埋める広告取りをボチボチやってる状態で、地方の宿に電話営業しては出稿をお願いしてます。希望としては、編集タイアップ記事とか、ムックとか、そういう仕事をしたいんだけど。まあまあ、ごゆっくり。ぼく、ちょっと外に行ってきます」

まあそうか。でなきゃ名刺をデザイン込み100枚2千円で作る仕事なんかしないよなあ。ここにもまた、駆け出し仲間がいたというわけだ。

戻ってきた水島君は、なぜか焼き鳥を手にしていた。

「仕事中だからビールってわけにも行かないけど、これ、良かったらどうぞ」

あちゃー。こっちは手ぶらできたのに、なんだか悪い気がする。手を出さずにいると、増田君が「うまそうだね、ごちそうになります」と1本取った。

「水島君は気ぃ使いなんだよ。でも、せっかくだからキミも食べたら」

名刺100枚の利益が飛んでいったに違いない焼き鳥の味はほろ苦かった。吉祥寺とはいえ一等地にオフィスを持ったら、小さな仕事をこなすだけでは追いつかないはずだ。内情は結構大変だろう。ぼくもまっさんも水島君も、いまのところてんで冴えないな。

それでも、これが縁でぼくたちはときどき会う関係になっていき、やがて同じ雑誌で仕事をするようにもなるのだから世の中わからない。さらにその後、水島氏の同僚から紹介された仕事がきっかけのひとつとなって、増田剛己と伊藤秀樹だったぼくたちが、下関マグロや北尾トロとして活動していくことにもつながっていく。

ニューメキシコは、焼き鳥をごちそうになってしばらくしてから会社化し、水島君は社長になった。会社は順調に成長し、社員も増え、西新宿に広いオフィスを構えていた時期もある。ぼくの結婚式に水島君がきたり、彼の子供を見に自宅まで遊びに行ったり、つきあいは長く続いた。

いつの頃だったか、水島君の会社が危ないという噂が聞こえ、しばらく経ってから倒産したことを知らされた。連絡を取ろうとしたが、電話番号も変わっており、水島君がどこにいるかわからないまま現在に至っている。

名刺100枚の客のために自ら焼き鳥を買いに行ってしまう水島君は、おおらかで人の良い女好きだった。でも、少し見栄っ張りで、アバウトすぎたのかもしれない。焼き鳥を食べようと食べまいと、ぼくたちはすぐに打ち解けたはずだったから。