2010-08-30

ドント・トラスト・オーバー・サーティー [下関マグロ 第32回]

「どっかで晩飯にしようか」

ホンダシビックの運転席から伊藤ちゃんが同乗している僕とおかもっちゃんに言った。僕らはミスティという音楽スタジオで練習を終えたところだった。ライブハウスで演奏しようとするなら、やはりきちんとアンプを使って練習したほうがいいと気付いたので、以前バンド練習用に借りた江古田のアパートは既に引き払っていた。

桃井にあるミスティは他よりも料金が安かった。たいてい一回につき2時間くらい利用することが多く、この日も午後7時にスタジオに入り、出たのは9時だ。

「どっかって、いつものとこでいいでしょう」

おかもっちゃんはそう言う。

「いいね、いいね」

僕は賛成した。いつものところというのは、青梅街道沿いにある「びっくりドンキー」であった。伊藤ちゃんはちょっと顔をしかめたが、関町方向へ車を走らせてくれている。

「30歳になるってどんな気持ち? なにか変わるの?」

ハンバーグを食べながら一足先に30歳になった伊藤ちゃんにこう聞いてみた。僕らの世代には、「ドント・トラスト・オーバー・サーティー(30歳以上の人間を信じるな)」というような文句が流行った頃があった。その僕らがオーバー・サーティーになるのである。

気分はまだまだ子供だったが、自分達もおっさんの仲間入りをするのか?

「いや、何もかわんないよ」

たしかに、伊藤ちゃんの言うとおりだった。相変わらず僕らはその日暮らしのようなことをしている。当然のように独身で、結婚の予定どころか、ちゃんとした彼女さえいないのだ。食事を終えた僕らは再び伊藤ちゃんのシビックに乗り、荻窪の田辺ビルに戻ってバンドについてのミーティングをすることにした。僕ひとりの頃は散らかっていたのだが、3畳の部屋におかもっちゃんが住んでくれたおかげで、田辺ビルの部屋はきれいだった。

「会社をやめて、ライターになれば?」

いつものように無責任なことを僕が言うと、「いやいや」と言いながら首を振るのがお約束のおかもっちゃんだったが、そのときは、「うーん」と唸ったっきり黙りこくった。

この日のミーティングは妙に盛り上がらなかった。外に出ると、伊藤ちゃんは引っ越したばかりの阿佐ヶ谷のアパートへ車を走らせ、僕は買ったばかりのマウンテンバイクで下井草のワンルームマンションへ帰った。1988年初夏、妙に蒸し暑い日だった。

家に帰るとベッドに横になり、当時愛読していた『月ノ光』という雑誌を開いた。退廃的、倒錯趣味的な内容の雑誌で、出版社は東京デカド社、制作は南原企画だった。

僕はこの雑誌の読者投稿コーナーを読むのが好きだった。そのときはベルメールというペンネームの人の「伝言ダイヤルで連絡を取ろう」という投稿が目についた。ベルメールというのは、おそらく人形作家で画家のハンス・ベルメールからとった名前なんだろうと想像したりした。

伝言ダイヤルは、少し前から知られるようになったNTTのサービスで、新しいコミュニケーション・ツールとして若い人たちの間では流行していた。声の伝言をやり取りして交流するもので、掲示板の音声版とでもいえばいいだろうか。

ベルメールは、「1039(倒錯)ダイヤル」で交流することを提案していた。4桁の数字のゴロ合わせで「ボックス」というものを作り、それを仲間内で利用するサークルのようなものが、その時期流行っていたのだ。有名なのは8818(パパイヤ)トリプルである。トリプルというのは、連絡番号が88188818#でその暗証番号が8818#というように、同じ4桁の数字を3回使うものをそう呼んだ。

掲載されていた1039のトリプルにダイヤルし、伝言を聞いてみることにした。男性の声で「モリニエです」という伝言が入っている。これは倒錯的な作風で知られる人形作家のピエール・モリニエのことであろう。ベルメールといいモリニエといい、なんだかいかにもだったが、内容はちょっとした挨拶的な伝言だった。

次の伝言はけたたましいギターのリフとともに、やはり男性の声で「ファンータルホです。誰かいませんか?」と言っていた。おそらく、稲垣足穂のことか。なんだかますます怪しい世界だと思った。最後に一番古い伝言を聞いてみると、別の男の声で「みなさんこんばんわ、ベルメールです」と入っていた。

なんだかわからないが面白そうなので、僕もさっそくなにか声を入れてみようと思った。しかし、気の利いた名前が思い浮かばなかった。
「みなさん、こんばんわ。マグロといいます。ここおもしろそうですねぇ。もうすぐ30歳になるおっさんですが、僕も仲間に入れてください」

言い終わると9#を押した。すると僕が入れたメッセージが再生される。確認したら、8#を押して録音完了だ。この短い伝言で、僕には新たな世界が開くことになる。

2010-08-23

そろそろ中央線に戻ろうか [北尾トロ 第31回]

金がないときは食べない。これがぼくの学生時代からの節約方法だ。食事は日に一度。阿佐田哲也の麻雀小説の真似をして、表面が真っ赤になるほど七味唐辛子をかけて立ち食いそばを食べれば、しばらくは胃が何も受け付けなくなる。家では米を炊いて納豆だけで済ませるか、固くなったフランスパンをかじる。麺ならそうめんが安い。景気の悪いときは痩せて60キロを割り込み、良くなると頬の肉が元に戻って62キロになる。わかりやすいのだ。

脳天気商会のライブのために楽器を買ったときは、競馬で儲けて金があった。まっさんに金を貸したときも同じだ。そうでなくても、懐が温かいとすぐに使ってしまうクセがあり、遅ればせながらビデオデッキを購入したり、カメラのレンズを買ったりするので、すぐにサイフは軽くなる。貯金などいっさいしない、というかできない。こんな具合だから、馬券が当たらなくなると、練習のために借りている江古田のアパート代やスタジオ代の支払いさえつらくなる。

ぼくの年収はせいぜい400万円。いろいろと物入りになってきて、収入を増やす方法を考えなければならなくなった。ギャンブルはアテにならないから本業で何とかしなければならない。いつまでも学研頼みではなく、もっと実入りのいい雑誌でも書かなければ。

その点、まっさんは以前から仕事の幅を増やそうとしているようだった。データマンや学研の仕事以外にも収入源があるようだったし、「週刊就職情報」の仕事もまっさんが取ってきてくれたものだ。ただ、その先となるとどうしたらいいかわからない。

「いまの我々、伊藤と増田の実力では、売れている雑誌でバンバン書くなんてムズカシイと思うんだよね」

「それは認める。で、どうする?」

「どうしたもんかねえ。アルバイトでも探すかね」

「後ろ向きだなあ」

「よし、これからは脳天気商会を音楽以外でも売り出して行こうよ。『週刊就職情報』方式でさ、商会の連載を増やしていくのがいい。おもしろい企画を連発してさ。そうしたら世間は注目してくれるよ」

「そうかなあ」

「そう……なるといいねえ。コーヒーでもいれるから企画を考えようよ」

田辺ビルの6畳間で話すうちに、今日もまた日が暮れる。でも、帰ったってつまらない。いったん取材に入ると出張だらけになるが、そうでないときは時間がたっぷりあって、あーでもないこーでもないと、実行の伴わないプランばかり話し合っているのだった。

「やってみたいことはたくさんあるんだよな。まっさんは?」

「ぼくもある。だけど、ちまちましたのは個別に考えればいいんで、脳天気商会名義でやりたいことを練っていきたいね。まかしといてよ、営業は得意だから」

「へえ、どうやるの?」

「編集部に電話かな。脳天気ですけどいい企画ありまっせ! ほぅ、いいですねえ脳天気さん。ぜひウチでやって下さい。これよ、これ」

「そんなに簡単に会ってくれるのかな」

「無理だね。何かトリッキーな手を使わないと。部屋を間違えたフリをして編集長の席まで行くとかさ」

「あれ、ここは雑誌の編集部ですかい。まいったなあ、でもちょうどいい。ぼくはライターで、企画を考えていたところなんです」

「ほほう、それは興味深いね。さあ話してみてください!」

「……あり得ない。他のライターはどうやっているんだろう」

「わからんね。お、電話だ。仕事の依頼かも。もしもし、なーんだおかもっちゃんか。飯? そうだね、伊藤ちゃんもいるからクルマでどっか食べにいくかね」

帰りがけには、よく阿佐ヶ谷に寄った。最初は吉祥寺から引っ越したニューメキシコの水島に誘われて、若い連中が集まるバーに行ったのだが、この頃は知り合いも増えてきて、ひとりで行くようになってしまった。クルマなので1杯飲んで喋るだけなのだが、常連客に音楽やデザインをやってる連中が多く、連れ立ってライブハウスに流れることもある。店をやっているのはいくつか歳下の風変わりな女の子で、ぼくとは気が合った。

「伊藤さんは荻窪に仕事場があるんでしょ。なのにどうして経堂に住んでいるの。こっちのほうに引っ越せばいいのに。クルマだからお酒を勧めることもできないわよ」

「前から考えてはいるんだけど金がないしなあ。まとまった金が手に入ったら引っ越すよ」

「阿佐ヶ谷にしなよ」

「そうするかな。荻窪まで歩いていけるもんな」

「この店に、でしょ」

自分で部屋を借りた町田は、おぼつかない足取りながら仕事を続け、ライターが板についてきた。ヤツが独立したいま、経堂に住む意味はない。田辺ビルを訪れるたびにいつ通報されるかとビクビクしながら路上駐車するのもいい加減にやめたい。

引っ越しという当座の目標ができたのと歩調を合わせるように、『ボブ・スキー』からばたばたと仕事がきた。レギュラー仕事以外のゲレンデ取材や海外取材を全部引き受けることにする。目の前にある仕事をやっていく現実路線だ。それで日々の暮らしは安定する。でも、スキーシーズンが終わればすぐにまた不安定な状態に戻る。ぼくやまっさんに活路はあるのか、ないのか。まっさんは脳天気商会というユニットを育てるべきだというが、口調はいつも冗談半分。どこまで本気なのだろう……。

2010-08-16

新連載「プータローネットワーク」と事務所の居候 [下関マグロ 第31回]

新橋にあるリクルートの『とらばーゆ』編集部に打ち合わせに行き、帰ろうとしたときに声をかけられた。

「増田くんじゃない、元気?」

村上麻里子さんだった。村上さんはかつて『ポンプ』という雑誌の事務局にいた人である。この『ポンプ』という雑誌はちょうど僕が大学に入学した78年に創刊されている。中身は今でいえば、ネットの掲示板をそのまま雑誌にしたようなものである。当時としては画期的な試みで、僕は創刊号からずっと買っていた。

僕は読者でもあったが、投稿者でもあった。その『ポンプ』がまさにネットのオフ会のようなことをはじめ、読者同士が集まるというということが行われていた。村上さんはそこの事務局にいた女性で、オフ会のサポートをしていた女性で、美人だった。僕はその、オフ会のような集まりに何度か参加したことがあったが、ライターの仕事をするようになってからは足が遠のいていた。

「村上さんがなんでこんなところにいるんですか?」と僕が聞くと、村上さんは、リクルートに転職して『週刊就職情報』という雑誌の編集をやっているのだということを教えてくれた。

「ちょっと近所でお茶でもしようか」と誘われ、近所の喫茶店へ行った。

「増田くんが『とらばーゆ』の仕事をやってるの知ってるわよ。なにかウチの雑誌でもやってよ」

そう言われて、僕はカバンの中に入っていた『ボブ・スキー』を取り出し、「ほがらか歳時記」という見開きページを見せた。そこには脳天気商会提供とあり、伊藤ちゃんが北尾トロ、僕が高杉マグロのペンネームで記事を書いていた。内容は、スキーの裏ネタやこぼれネタを取り扱うものだった。文章はもちろん、写真も自分たちで撮り、本当にヘタだったが、イラストや四コマ漫画も自分たちで描いていた。

「村上さんがやってる『週刊就職情報』を読んでいる読者の人たちって職がない人たちでしょ、だからそういう人たちを取材して、僕らがちょっとしたコラムやイラストなんかも添えるってどうかな」

「おもしろそうねぇ」

村上さんが身を乗り出してきた。

「連載のタイトルは『プータローネットワーク』っていうの」

勝手に連載と決めつけてしまったり、僕の勢いがすごいので、村上さんは、まあまあと手で僕を制止するようなかんじで、

「その『ほがらか歳時記』コピーさせて」と言った。

これはなんとかなりそうだ。村上さんによれば、2ページは無理だけど、1ページならなんとかなりそうだと別れ際に言った。

僕は大急ぎで地下鉄に乗り、新橋から荻窪のマンションへ向かう。このことを一刻も早く伊藤ちゃんに伝えたいと思ったからだ。当時は、荻窪のマンションが僕と伊藤ちゃんのライター事務所だった。

夕方、事務所に帰ると、伊藤ちゃんではなく、おかもっちゃんがいた。

「あれ、きょうはどうしたの? 会社早く終わったんだね」

声をかけても、おかもっちゃんは浮かない顔をしている。そしてこう言った。

「きょう、ここに泊めてもらっていいかな?」

「もちろん、そりゃ構わないけど、どうしたの?」

おかもっちゃんは西荻窪で女性と同棲しているはずだった。

「いやぁ、それが、きょうは帰りたくないんよ」

それ以上はくわしく聞かなかったけれど、彼女となにかうまくいかないことがあったらしい、と僕は思った。

「当分泊まってもいいよ」と言いながら、あることを思いついた。

「なんだったら、住んでもいいよ。ほら、ここは6畳の部屋がひとつに3畳の部屋がひとつ。あとはキッチンにお風呂場。それで、伊藤ちゃん、僕、おかもっちゃんで3畳ずつお金を払うというのはどうよ」

実際、6畳の部屋には伊藤ちゃんと僕のデスクがあって、3畳のほうは使っていなかったのだ。

おかもっちゃんは、顔を輝かせた。

「きょうはとりあえず、布団借りて泊まるけど、住むことも考えさせて」

「ああ、どうぞ、どうぞ、好きなだけいていいよ」

と恩売ったところで、

「ところで、おかもっちゃん、金貸してくれないかなぁ」

「なんだぁ、いくら必要なの?」

「家賃がちょっと足らないんで5万円ほど……」

「じゃ、いっしょに飯でも行くかね、駅前のキャッシュディスペンサーでおろすよ」

「ありがたい、助かるよ。今度原稿料が入ったら、返すから。ほらここにね、こうして書いておくから」

僕のデスクの前の壁にはすでに「伊藤ちゃんに10万円借りる」と書かれている。その下に「おかもっちゃんに5万円借りる」と一行書き足した。

このころの僕はとにかく金がなかった。浪費が原因なのだが、それでも原稿料が入ってくるアテはある。そう考えて、伊藤ちゃんやおかもっちゃんにしょっちゅう金を借りていた。どうしようもない僕であった。

2010-08-09

初ライブと初小説 [北尾トロ 第30回]

アガっていたとしか言いようがない。ぼくの歌とまっさんのベースが先へ先へと暴走を始めたのだ。おかもっちゃんが引き戻そうとするが、どうにも修正できず。間奏時の動きも壊れたおもちゃ並である。しかも、叩いていたリズムパッドが曲の途中で倒れ、見かねた客に手伝ってもらって演奏を続ける始末。みじめだ。やっと冷静に場内を見渡せるようになったと思ったら、もう最後の曲だった。

「いやいやいやいや、まいったなもう」

楽屋に戻ると、おかもっちゃんが笑い出した。

「どうなってしまうのかって、お客さんも緊張して見てたよ」

表へ出ると、みんなから声をかけられた。曲は悪くないけど、見ていてヒヤヒヤしたと意見は一致している。ライブとしては最低だったってことだが、こっちは一仕事終えた高揚感に包まれているので、いいようにしか受け取らない。打ち上げの席でも、まっさんは強気一辺倒だ。

「曲がいいってことはさ、ライブをこなせばこなすほど聴きごたえが出てくるってことだよね。この調子でガンガン行こうよ。今日は知り合いばかりだったけど、だんだん普通の客も増やしていってさ。イカ天とかも応募してみようか」

意外なことに、音楽歴の長いおかもっちゃんも、このままでは終われないと言い出す。

「なんだかんだいってもライブは楽しいよ。やったもん勝ちだよ。実力はともかく、わしらみたいなバンドは少ないと思う。そういえば伊藤ちゃん、会場で女の子に話しかけられてたじゃん。あれは誰?」

「他のバンドを見に来たらしいけど、わしらがおもしろかったって。つぎはどこでやるのかって尋ねられた」

「追っかけ1号だ。大事にしないといかんねえ」

ということで、バンド活動は継続させることになり、次回ライブはクリスマスパーティーを兼ねて高円寺の「次郎吉」を貸し切ってやることが決まった。対バンなしでゆったりやりたいと思ったのである。曲目を増やさないと間に合わなくなるため、新曲作りに精を出さないといけない。

秋が深まり、『ボブ・スキー』の仕事が忙しくなってきていた。ある日、編集長の福岡さんに呼ばれて学研へ行くと、スキー小説をシーズン連載しないかという。

「ぼくは伊藤君、小説が書けると思うんだよね」

小説? そんなもの、書きたいと思ったこともない。ライター仲間には、いずれ小説家になりたいと言ってるヤツもいたが、ぼくにはそんな気、さらさらないのだ。そのことを話すと、まっさんは大喜びした。

「ひゃひゃひゃ、それはやるべきだよ」

「でも、スキー小説なんてな、ロクに滑れもしないのに。できるとしたら、スキー場で働くしがない男の話くらいのもんで」

「それでいいんだよ。その主人公は我々と同じく、業界の隅っこであくせくしてることにしようよ。書くべきだ、書きなさい。題名はそうだな、まだ水面にも顔を出せない男の話だから『アンダー・ゼロ』でどう?」

まるで福岡さんの回し者のように、熱心な説得を受け、ぼくは成り行きで小説を書くことになった。だが、小説を書いてみたいと思ってないのだから、どうしても熱が入らない。実際、毎回の締め切りは苦闘の連載で、しかも我ながらおもしろくない話が延々と続くことになった。長いライター生活の中でも五本の指に入る、思い出したくない仕事だ。

2010-08-02

ついにライブの日程が決まった! [下関マグロ 第30回]

また夏が近づいていた。およそ一年前、荻窪のマンションに引っ越したのは夏真っ盛りの頃

2DK風呂付きで家賃は6万5千円と格安だったが、なにしろクーラーがついていないのは辛かった。ぼくは暑さには弱いのだ。

それまで住んでいた木造のアパートは風通しがよかったし、仕事がそんなになかったんであまりに暑いときはパチンコ屋で涼んだり、近所の喫茶店に行ったりしていた。

ところが、今いるのは、鉄筋のマンションである。クーラーがないのはつらい。最初の夏はとにかく我慢して、扇風機だけでやり過ごしたものの、今度の夏はどうしようかと迷っていた。

奮発してクーラーを買って取り付けようか、それともクーラーのある部屋に引っ越しをしようか、という悩みだ。

「引っ越そうかと思ってるんだけど」

伊藤ちゃんに相談をした。伊藤ちゃんは少し困った顔をした。

「せっかく、ここでみんなが集まってバンドの練習をしてるんだしなぁ」

たしかにこのマンションは広さも充分だし、騒がしくしても文句を言われたことがなかったので、バンドの練習場所としては便利だった。仕事の打ち合わせで使う機会だって増えていた。

「じゃ、まっさんはクーラーのあるワンルームマンションかなんかに引っ越して、ここはみんなで金を出し合って維持するっていうのはどうよ」

と伊藤ちゃん。おっ、それはいいねぇ。というわけで、僕は下井草のクーラー付きのワンルームマンションに引っ越した。引っ越しといっても、仕事関係、音楽関係のものはほとんど荻窪のマンションに置きっぱなし。ワンルームのほうはベッドひとつ置いて寝るだけってかんじだった。

この引越しを機会に、ちょっとした決心をした。僕は少し前から太りはじめ、70キロ後半から80キロへと、デブ化が止まらない状態になっていた。そのため思い切って、便利だった三輪の原付バイクを手放し、自転車を購入してみた。そして、移動はすべて自転車ですることにしたのだ。これで、少しは痩せられるかもしれないという思いがあった。

引越し後も、年内にライブをやるためにバンドの練習はしていた。いつものように三人で練習をしていたら、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると知らない若い男が立っている。そしてこう言われた。

「勘弁してもらえませんか」

僕にはなんのことだかわからなかったが、聞けば、バンド練習の音がうるさいというのである。

マンションは青梅街道沿いにあるため車の騒音が激しく、まあ楽器の音くらいはいいかと思っていたのだが、同じマンションの人にはけっこう迷惑をかけていたようだ。

僕と伊藤ちゃんが落ち込んでいると、おかもっちゃんはこう言った。

「だったら、練習場所を借りようか。たとえば、国立とか江古田とか、音楽学校があるようなところには防音設備の整ったアパートがあるんだよ」

「じゃ、どうする、江古田とか行ってみようか」と伊藤ちゃんは反射的にそう言った。

この頃の僕たちは、思いついたらすぐに行動するようなところがあった。実際に翌日、僕たちは江古田の不動産屋さんに行き、その日のうちに部屋を決めた。風呂はなくていい、とにかくごく普通の木造のアパート。でも、しっかり防音はされているとかで、僕たちはそこに楽器や機材を運んだ。

というわけで、荻窪のマンションはファックスとワープロなどが置かれた編集プロダクション、江古田のアパートは音楽の練習や作詞作曲をする場所となった。

いろいろな曲を作り、演奏の練習をした。僕は自分の作曲用にオモチャの小さな電子ピアノを使っていた。これはけっこうスグレモノで、なにかを録音して鍵盤を押せば、その音が出る、サンプラーの機能もあったのだ。「アホ」と録音して鍵盤を押せば「アホ」と鳴る。ちょっと押せば「ア」まで。長く押せば「アホ」となる。リズムをつけて、「ア、ア、ア、アホ」というようなこともできる。またいくつかの鍵盤を抑えれば、アホの和音が出てくるというものだ。

このオモチャの鍵盤楽器や生ギターでどんどん曲を作った。当時「どんなバンドをやっているのか」と聞かれたときに僕が答えていたのは「社会派コミックソングです」だった。自分でもよくわからんのだが、まあ、ただのお笑いソングのことを、そうやって格好よく呼んだりしていた。各パートは、ドラムはマシーン、おかもっちゃんがギター、伊藤ちゃんがパーカッション、僕がベース、ヴォーカルは全員でというスタイルだった。

そしてある日、ついにおかもっちゃんの口から重大な発表がもたらされた。

「ライブ、12月にやることに決まったんだけど」

場所は神楽坂のエクスプロージョンというライブハウスだった。いよいよ、本当にライブをやるんだ! そう思うと、もう自分が緊張しているのがわかった。

どうしよう? ライブハウスのお客さんの前で演奏するってどんなかんじなんだろう? まったくわからないまま、とにかく僕らは練習に時間を費やしたのだ。

2010-07-26

おかもっちゃん引き込み計画  [北尾トロ 第29回]

町田の居候中、ぼくのところへはひんぱんに人が出入りし、なんだかんだと理由をつけては飲み会をやるようになった。ホームパーティーみたいなシャレたものじゃなく、ただ集まってがやがやと飲み食いする集まり。外でやるよりはるかに安上がりで時間制限もない、というのが開催理由だ。カレーを作るのでも焼き肉をやるのでも、何かがあればそれで良かった。

集まるのはライター、イラストレーター、デザイナー、カメラマンなどで、みんな20代。売れっ子なんて一人もいなくて、将来に漠然とした不安を抱えつつ、しかし今日が良ければそれでいいというお気楽な一面もある連中が多かった。そんなメンバーで仕事の話をしてもしょうがない。ひたすら飲み食いしてバカ話に興じるだけである。

意味のないどんちゃん騒ぎは楽しい。だから、こういう集まりはあちこちにあり、オールナイトのUNO大会とか、一晩騒いでから海水浴へ行ってヘロヘロになって帰ってくるとか、そんなことをよくやっていた。関わる人たちも新しい知人が中心で、オールウェイ時代からつき合っているのはわずか。さして時間も経っていないのに、四谷や新宿へ通っていた頃のことは、遠い昔の出来事のように思えた。

『ボブ・スキー』がオフシーズンに入ると、ぼくは同じフロアに編集部がある『T.TENNIS』というテニス雑誌の仕事をするようになった。すでに坂やんはスキーよりテニス雑誌に熱を入れるようになり、ニューメキシコの水島は『ボブ・スキー』別冊のゲレンデガイド制作を請け負うなど編集プロダクション化の方向に着々と進んでいる。伏木君は学研に見切りを付けたのか顔を見せなくなり、連絡も取れない状況。それぞれが、それぞれの思惑で動き始めるようになっていた。

まっさんは苦手なスキーよりは『T.TENNIS』のほうがやりやすいようで、ぼくたちはコンビを組んでつぎつぎに企画を通した。テニスが好きな女の子の部屋に上がり込んで話を聞くみたいな軽い記事で、ふたりで文章と写真を分担し、脳天気商会のクレジットを使うようにしていた。

脳天気商会としては、リクルートの『週刊就職情報』という求人募集雑誌でも『プータローネットワーク』なる連載を開始。いまでいうフリーターたちに会っては話を聞き、部屋へ押しかけて写真を撮る。基本的にはエロ雑誌で好き勝手なことをしていたのと同じノリなのだが、部屋でプライベートな話を聞いたりするのは、なんというかもっと生々しくてスリルがある。生活のためには『ボブ・スキー』でゲレンデ取材をするのも仕方がないが、やりたいのはこっちだよなあ。これまでは何も考えずに取材して原稿を書いてきたのだけれど、だんだんそれだけでは満足できなくなってきた自分がいる。ただ、ぼんやりした方向性は感じるのだが、ここからどう仕事を広げていいかがわからない。まっさんはどう考えているのだろうか?

「ぼくもわからないけど、スキーが好きでもないのに『ボブ・スキー』をメインの仕事にしてちゃダメなのははっきりしてるよね。伊藤ちゃんはまず、学研に依存するスタイルから抜け出すのが先決だと思うよ」

「まっさんもデータマンの仕事をいつまでもしてちゃイカンよね」

「そこなんだよ。データマン、ラクだし、あれがないと食っていけないからやめられないんだよね」

「じゃあオレと一緒じゃん」

「だから、バンドで売れようよ」

「そっちかよ」

「マルチの時代だからね。我々は脳天気商会というユニットとして動くのがいいと思うんだよ。原稿も書きます、曲も作ります。ね!」

「どっちも半端だなあ。オレたち、才気あふれるクリエイターとかじゃないしさ」

「あ、そうそう。脳天気商会のテーマソングを作ってみたんだよ。頭のなかはいつもからっぽ〜何をやっても中途半端〜ていうの。いいでしょこれ。ライブの頭で30秒くらいやって笑いを取る。まあ、かしまし娘みたいなもんだよ。どうもどうもどうもー脳天気商会でーすってさ」

くだらなくていいねえ。輪唱にしようか。最初まっさんが歌って、2度目はオレ、3度目におかもっちゃんが歌い始めたところで、「いーかげんにしなさい!」

「う〜ん、それはクドいね。ところで、おかもっちゃんは会社やめないかな。いまのままだと週末しか練習ができないでしょ」

「やめてどうするんだよ?」

「そうだねえ、脳天気商会を編集プロダクションにするとか。それも面倒か。わかった、おかもっちゃんにもライターになってもらえばいいよ」

でも、オレやまっさんの暮らしぶりを知ってれば、やりたいとは思わないだろう。町田のこともあるし、ライターに興味をもってるのは間違いないとしても慎重に考えたい。

「わかった。ボチボチ説得してみるよ。そうそう、おかもっちゃんって彼女と住んでるの知ってるよね。どうも最近、うまくいってないらしいんだよ。別れそうな気配なんだって」

「いいじゃん、嫌になったなら別れれば」

「そうなんだけど、彼女は別れたがってないのよ。おかもっちゃんは優しいところがあるから、女を捨てるような真似はしたくないみたいで、けっこう悩んでるみたいよ」

うーん、贅沢な悩みだが、ガマンしてつきあってたって結局いいことないような気がするけどなあ。

「でしょ。だから言ったんだよ。この事務所の3畳間、いまぼくが寝てるところにおかもっちゃんが住めばいいよって。で、ここは脳天気商会の事務所兼おかもっちゃんの家にして、ぼくは近所に引っ越す。もう物件もいくつか見てるんだよ」

へらへらと調子のいいことを言うだけじゃなくて、まっさんは脳天気商会を我々の活動の中心にすべく動き始めているようだった。おかもっちゃんは、まっさんの話術に弱く、いつも説得されているので、今回もきっとそうなるだろう。ぼくも少し、今後のことを真剣に考えないといけないようだ。3人でバンドとライターの事務所をやる。うまく行くかどうかはわからないけど楽しそうだ。ぼくは、おかもっちゃんのボケ上手なところが好きだし、この3人ならうまくやっていけそうな気がする。

経堂に戻り、大の字になって寝ている町田を叩き起こした。

「オレ、また中央沿線に引っ越すかも知れないから、おまえもそろそろ部屋探しを始めてくれないか」

2010-07-20

30歳までにライブをやるぜぃ! [下関マグロ 第29回]

僕らは、バンドを組んで、30歳になるまでライブをやるという目標ができた。とはいえ、時間はあまりなかった。なにせ伊藤ちゃんは半年後の1月23日で30歳になってしまう。急がなければ……。

そんなわけで、岡本くんを伊藤ちゃんが車でピックアップして、荻窪の僕の部屋に集まる日が増えた。バンドについての話し合いが目的だったが、いつまでもパートも決まらず困っていた。そんななか、最初に決まったのはドラムだ。人間ではなく機械に任せることにしたので、誰からも文句が出なかったのだ。

あるとき、2人がいろいろな機械とシールドやらを抱えて僕の部屋にやってきた。

機械のひとつはドラムマシーン。いろいろなドラムのリズムを刻んでくれるものだ。これはおもしろいのだが、使い方はいまひとつわからなかった。そしてもうひとつはマルチトラッカーという録音機だ。カセットテープにダビングする機械だった。

「とりあえずドラムはこのマシーンにまかせればいいよ。曲作りには、このマルチトラッカーが役立つと思うよ。二人とも楽譜は書けないんでしょ」

音楽の才能あふれる岡本くんは、大学時代のバンドではキーボードを担当していたが、ギターも巧みで、要するに何でもできる男だった。

「わし、ベースやったことないから、ベースでもいいかな」

と続ける岡本くんに、僕はすかさず反対した。

「ダメダメダメ! 僕ができるのはベースくらいしかないから!(それだって心もとないんだけど……)」

僕は高校時代にバンドをやっていて、担当はベースだった。ただ、ベースギターそのものは大学時代に質屋に入れ、金が返せず流してしまったため、手持ちの楽器はない。

「伊藤ちゃんはどうする?」

岡本くんが聞くも、伊藤ちゃんは「うーん」と沈黙したままだった。

「伊藤ちゃんは花があるしさ、やっぱりミック・ジャガーみたいにヴォーカルがいいんじゃないの?」

僕がそうアドバイスした。

「ははは、こうやってやるの?」と、伊藤ちゃんは苦笑いしながらミック・ジャガーの真似をしたが、「無理だよ」と降参し、僕と岡本くんも納得した。

「じゃ、ギターやれば?」

というわけで伊藤ちゃんは、後の「カブキロックス」のギタリストである青木くんとともに新宿の楽器屋へエレキギターを買いに行き、僕は荻窪の古道具屋で安物のベースを購入。

「じゃ、ちょっと練習してみようか」

僕たちが最初に作ったのは「ベースボール」という曲だった。基本的に詞は伊藤ちゃんが書き、曲は僕がつけた。

「ありがたいのは、ベースボール♪」

というサビの曲で、プロ野球ばかりを話題にする人を揶揄した歌だった。
伊藤ちゃんは僕よりはギターがうまかったが、それより岡本くんのほうがもっとうまかった。それで、岡本くんがギターということになり、買ったばかりの伊藤ちゃんのギターは岡本くんに預けられた。

「さて、じゃ伊藤ちゃんはどうする?」ということになる。

「パーカッションはどう? 今は電子パッドのようなものがあって、いろいろな音が出せるものがあるよ」

岡本くんがそう言うので、楽器屋にそれを見に行った。僕たちはこのころ、毎日のように楽器屋へ通い、ああでもない、こうでもないと言い合っていたが、とにかく伊藤ちゃんが電子パッドを購入し、夏前にパートは決まった。

曲を作り、練習をする日々が続いた。そんなとき、僕はよく岡本くんに、こんな無責任な発言をしていた。

「会社やめちゃえば?」

というのも、僕や伊藤ちゃんはフリーライターだから、平日の昼間だって、練習ができた。が、岡本くんはソフトウエアの会社に勤務するSEで、残業も多く、平日はほとんどダメ。練習できるのは、土日だけだった。

「脳天気商会っていうのは、バンドなんだけど、編集プロダクションでもあるっていうのはどう?」

そんなことを言いながら、僕は急須で2人にお茶を入れた。そして、僕も自分の湯飲へお茶を注いだ。あれ、なにか口の中に入ったぞ、なんだろう。口の中に入った物体を出してみると、なんとそれはゴキブリだった。

「ギャー」

という悲鳴がマンション中に響き渡った。その瞬間、僕は引っ越しを決意した。

2010-07-12

脳天気商会、テキトーに誕生 [北尾トロ 第28回]

思わぬ方向に話が膨らんできた。まっさんや岡本君と、バンドをやろうと盛り上がってしまったのだ

何気なく口にした言葉が引き金となり、新しいことが始まる。そんなことはしょっちゅうだけど、思いつきで動く悲しさ。一時の興奮が冷めるとなし崩し的にどうでもよくなり、結局うやむやになってしまうのがオチである。それでも計画性に乏しいぼくたちはその場のノリで動く以外の方法を知らず、数撃ちゃ当たるとばかりに動き回るしか能がない。10のアイデアのうち、1つか2つ実現すればめっけもんだ。

バンドの話が盛り上がったのにはいくつか理由があった。まず、言い出しっぺはぼくだったが、即座にまっさんと岡本君が同意したこと。誰かが強引に口説くのではなく、最初からテンションが揃っていた。また、ぼくやまっさんはバンド経験がないが、岡本君は経験豊富。本職のキーボードだけではなくギターやバイオリンも演奏でき、譜面まで読める。しかも、これは自慢にならないが、売れっ子ライターではないぼくとまっさんは練習のための時間が確保しやすい。勤め人である岡本君の都合に合わせればいいのだ。

ぼくとまっさんはギターをかき鳴らす程度しか楽器ができないが、岡本君はそんな不安を笑い飛ばしてくれた。

「楽器なんて練習次第で何とかなるよ。演奏力で勝負するわけじゃなし。メンバーも無理に探さなくていいんじゃない。ドラマーはリズムボックスを使えばいいんだから」

「じゃあ何で勝負する? ルックスってわけにもいかないぜ」

「そこやねぇ。歌って踊れるおねーちゃんでも募集しますか」

「いや、そういうのもありふれてるじゃん」

「そうだなあ。そうやって取り繕うとすればするほど普通のつまんないバンドになっちゃうかもね」

ぼくと岡本君のやり取りをじっと聞いていたまっさんが、ハイと手を挙げる。

「我々のバンドのウリがわかったよ!」

ほう、それは何ですかい。

「オリジナル曲だよ。わしら、コピー曲はやらず、オリジナルで勝負する」

「そ、それは単にコピーする技術がないだけなのでは」

「その通り!」

「叫ばんでもええがな」

「鋭いね、おかもっちゃんは。だけど、うまくコピーができたとしても、それを演奏して誰が喜ぶの。しょせん、元の歌を越えられないでしょ。その点、我々は違います。全曲オリジナル。ヒットすれば印税まで入ってきます」

なんじゃそれ。メジャーデビューでもするんかい。わしら、ただバンドを作ってステージに立ってみたいだけでしょうが。

「伊藤ちゃんはそう言うけど、これからバンドが流行ったらどうなるかわからんよ。あの曲を作ったのは誰ですか。え、北尾トロ? 素晴らしい曲です。ぜひうちからシングル出させてくれませんか。そうなったら、もうウハウハだよ」

先走りすぎだよ。まだバンド名も決まってないのに。

「はっはっは。すでにあるじゃん。ぼくと伊藤ちゃんが連載で使っている“脳天気商会”でいいと思うよ」

そうくるか。でも、脳天気商会ってお笑いバンドみたいな響きが。

「そこがいいんだよ。覚えやすいし、どうせ演奏力がないなら、開き直ってオリジナル曲とイロモノ力で勝負しようよ」

イロモノ志向かよ。岡本君はそれでいいんですかい。

「とりあえず、いいんじゃない」

「ほら、この方は経験者だけにわかっていらっしゃる。脳天気商会、大受けだよ。女の子のおっかけができるよ、ねぇおかもっちゃん」

「夢を見るのはいいけど……」

「夕暮れ迫る高野豆腐 とどのつまりが興奮状態! はい、伊藤ちゃんもご一緒に」

「夕暮れ迫る高野豆腐 とどのつまりが興奮状態!」

「いい加減にしなはれ!」

居候の町田は、昼前に起きてビデオを見たりビールを飲んだり、悠々自適の毎日を過ごしている。経済的余裕はあまりないはずなのだが、のんびり型の性格なのだ。

もっとも、これは教育係であるぼくから与えられる仕事が少ないせいでもある。『ボブ・スキー』がシーズンオフで一段落すると、町田に振れる仕事は極端に減り、PR誌の細かい取材くらいしかない。それにしたって、もともとはぼくが頼まれたもの。少ない仕事を町田と分け合っていては、一人分の収入でふたりが生活することになるだけだ。まっさんにも相談してみたが、彼も自分が食うので精一杯だという。

「わしらもそうだったように、町田君にも『Big Tomorrow』のデータマンを勧めてみたらどう?」

やはりそれしかないか。旧知の編集者に電話をかけると、会ってくれるという。

「町田、しっかりやれよ。がんばれば、『Big Tomorrow』のデータマンだけで当座はしのげるはずだから。あと、おまえ一眼レフカメラ持ってるだろ。学研の『シティ・ランナー』っていうジョギングの雑誌が写真も撮れるライターを探してるって言ってたから紹介するよ」

「どうも。でも、オレは特別に写真がうまいってわけでもないよ」

それは問題ない。大事なのは一眼レフを操作できることなのだ。ライターに要求される写真のレベルが高いはずはないのだ。バシャバシャ写せば使えるのもあるだろう。

町田はなんとかデータマンに採用され、ライターとしての第1歩を踏み出すことができた。『シティ・ランナー』でも、そのうち何かやらせてくれそうだ。秋から春にかけて『ボブ・スキー』をやれば、年収200万円台はいけるんじゃないか。

「200万とすると月収16万くらいか。カツカツだなあ」

「贅沢言うんじゃねーよ。おまえはSFだっけ、作家を目指してるんだろ。最低限の収入を確保したら、あとの時間で小説書けばいいじゃないか」

「そうだった、そうだった。とにかくライター仕事がんばるよ」

どうも頼りないが、あとは町田次第である。先輩としてぼくにできるのは、せいぜいこの程度。ま、受けた仕事をちゃんとやってれば死にゃしないよ。

「じゃ、そういうことで、缶ビールでも買ってきて乾杯しましょうか」

うれしそうに外へ出て行く町田を見送りながら、ぼくはところどころ弦が錆びているオンボロのギターをかき鳴らし始めた。

2010-07-05

バンドやろうぜ! [下関マグロ 第28回]

1987(昭和62)年、4月1日に国鉄が民営化され、JRグループとなった。<スキー田舎紀行>の取材をした3月はまだ国鉄だったが、原稿を書くときには「JR」と表記したのを覚えている。

ひとりで国鉄に乗って取材に行く<スキー田舎紀行>のスタイルは僕には合っていた。しかし、伊藤ちゃんたちとチームを組んで、スキー場へ取材に出かけることもあった。カメラマンや編集者といっしょに行動するのは、それはそれで楽しい。だが僕には大きな問題があった。それは夜のイビキである。いっしょに泊まる人たちには相当不評だった。朝起きたら、自分の周囲に堆(うずたか)く布団が積まれていたり、布団ごと廊下に出されていたりした。しかし、僕にはどうしようもできないのだ。とにかく集団で宿泊する仕事には向いていなかった。

この年の6月、僕は29歳になった。相変わらず伊藤ちゃんとはよく会っていた。学研でも会っていたし、僕が住む荻窪のオンボロマンションに伊藤ちゃんが来ることもあった。

仕事もない休みのある日、伊藤ちゃんはアコースティックギターを持ってウチにやってきた。歌本を開いたりして、昔のフォークだのロックだのそういうものを伊藤ちゃんがギターを弾いて僕が歌う。そのうち、「なにか曲を作ろうよ」という話になり、伊藤ちゃんはそこらの紙になにやら書きだした。

「夕暮れ迫る高野豆腐 とどのつまりが興奮状態!」

という詞だった。気がつけば、あたりは真っ暗だ。電気つけなきゃ。それにしても昼過ぎに伊藤ちゃんがやってきて、時間を忘れて、ギターをかき鳴らし、歌を歌っていたんだ。

「腹減ったね、飯食いに行こうよ」

「いいねいいね、どこ行く?」

「環八沿いに田中屋って洋食屋さんがあるんで、そこへ行こうよ」

僕はそう提案し、表に出た。

「さっきの詞にこんな曲つけたんだけど、どう?」

僕はラップ調で「夕暮れ迫る高野豆腐〜」と歌った。

「おっ、いいねぇ、いいねぇ」

伊藤ちゃんと僕は歩きながら歌った。青梅街道を四面道という交差点に向かい、そこから環八通りを行く。

「岡本くんも誘ってみようか」

岡本くんと僕は山口県で、中学、高校と同じであった。東京に来てからいろいろとお世話になっている。たしか、伊藤ちゃんとも何度か会って、知っているはずだ。まだ伊藤ちゃんが吉祥寺に住んでいるときのことだ。僕と岡本くんと伊藤ちゃんで井の頭公園でバドミントンをしたことがあった。

岡本くんのアパートは環八通り沿い、ちょうど田中屋の向かい側にあった。二階の一室をノックした。

「は〜い」

と岡本くんが顔を出した。

「飯いかない? 」

と彼を誘い出し、田中屋へ3人で行った。田中屋はカウンターだけの洋食屋で、幸い3つ並んで席が空いていた。僕たちはオムライスを注文。伊藤ちゃんがここに来るのは初めてだったが、僕と岡本くんはよくここでオムライスを食べていた。ふわふわの卵でくるまれたケチャップ味のご飯が実にうまかった。隣の大学生らしい男が定食のご飯の大盛りを注文していた。その量がハンパなく多くて、僕は岡本くんに、「昔は僕もあれくらいは食べてたけど、もう食べられないよ。なんせ、来年は30歳だからね」というような話をした。岡本くんは僕と同級生だが、早生まれだから、まだ28歳。30になるのは再来年だ。岡本くんは「30になるまでなにかやりたいことはある?」と僕らに訊いた。

伊藤ちゃんはオムライスを頬張りながら「30までにバンドつくってでライブやりたいね」と言った。僕も岡本くんも「いいねぇ、いいねぇ」と言った。しかし、この時、誰がどのパートをやるかなんてことは考えていなかった。僕たちはオムライスをかき込みながら、「ねぇ、ねぇ、どんなバンドにする?」「バンドの名前は?」とか、そういうことばかり話していたのだ。

2010-06-28

作家志望の後輩が居候にやってきた [北尾トロ 第27回]

母に粘り勝ちして結婚を認めさせた妹は、これで用済みとばかり実家に引き上げ、海外取材から戻ったぼくはガランとした2DKを持て余すようになってしまった。もともと妹と暮らすために借りた部屋だったから、こうなってみると独り身には広すぎるのだ。妹がいると思うから約10万円の家賃も惜しくなかったわけで、自分一人となると分不相応もはなはだしいと感じてしまう。

実際、金の余裕はまったくなく、毎月カツカツでまわっている状況だ。海外でクレジットカードがないと現金を持ち歩くことになって面倒なので、銀行に行ったついでに作ろうと思ったら、あっさり断られてしまった。ガッカリだ。依頼がなければ即座に無職。フリーライターなんていっても、社会的にはその日暮らしの根無し草にすぎないということである。でも、それはしょうがない。フリーライターなんて何の役にも立たない、あってもなくても誰も困らない職業だと思うし、その中でも自分はビギナー。取材でいろいろな人に会ったり出かけたりできるのだし、ぼくはこの仕事、性に合っていると思う。食べていけるだけでも御の字だと考えよう。

冬の間、学研へは週に3日くらいのペースで出かけた。午後3時頃に顔を出し、電話取材やデザイナーとの打ち合わせをこなし、夕方以降、机を借りて原稿を書くのだ。編集部は活気があって仕事への意欲は高まるのだが、同世代のライターや編集者がいるので、つい雑談に時間を取られ、ペースは上がらない。もっとも、皆そんなことは織り込み済みで、夜の8時くらいまではだらだらムード。気合いを入れるのは、他編集部の人が姿を消してからである。

ぼくはレギュラーを10Pほどと企画ページを1、2本担当したので、毎号20ページほど受け持ちがある。2Bの鉛筆で書いては消し、書いては消しているうちに、手は真っ黒、机は消しゴムかすでいっぱいになってくる。そうこうしているうちに集中力が増し、絶好調になるのが午後9時過ぎ。ここからの3時間が勝負どころで、実質的にはここでその日の仕事の大半をやっつけた。調子が悪い日や本当にテンパっているときは朝までコースになるのだが、フリーの連中がたくさん残っていたら編集者は帰りたくても帰れなくなる。そこで、今日は帰りたいという編集者は意思表示を兼ねて、日付が変わったあたりで片付けを始め、それを合図に切り上げるパターンが多い。このあたりはあ・うんの呼吸ってやつだ。

でも、寄り道してしまう。学研は不便な場所にあるのでバイクやクルマで通う人間が多く、めったに飲み会にはならないのだが、夜食を食べにファミレスに行ってしまうのだ。空腹を満たすだけならラーメン屋だっていいのだが、あえてファミレスへ向かうのは喋りたいからである。編集部でも喋っているのにまだ足りないのか。そう、足りないのである。編集部にいてはできない噂話、遊びの計画、過去の恋愛話など、ぼくたちは飽きることなく会話を交わし、ちょっとしたことで大笑いしていた……女子高生の集団かよ。まっすぐ家に帰っても待つ人もおらず、朝から急ぎの用件もない連中が最小限の金で2時間過ごす、その場しのぎの娯楽。これをヒマ人と呼ばずしてなんと呼ぼう。眠い目をこすりながら部屋にたどりつくと、つくづく「意味ないなあ」と思うのだが、学研へ行くとそんなことも忘れてまた繰り返してしまう。真っすぐ帰るのとファミレスで馬鹿話するのとではどちらがいいか。ぼくの基準はおもしろいかどうかだけだった。

大学時代の2年後輩である町田が、妹の住んでいた部屋に居候してきたのは春先のことだった。町田は名古屋で堅い仕事に就いていたのだが、「仕事がつまらなくてさ」という理由で辞め、つぎの働き口を探しているところだった。将来はできれば作家になりたいが、すぐには無理だろうから適当な会社に入って給料をもらいながら作品を書くつもりだという。そんな折りにぼくと数年ぶりで会い、フリーライターという仕事があることを知った町田は、どうせ作家を目指すなら出版界に入り込んでおくほうが得策と考え、ライター見習いとして居候してきたというわけだ。

「取材して、そのことを書くだけでしょ。伊藤さん、スキーやって遊んで暮らしているみたいだしな。ラクそうでいいや」

明らかに町田は何かを勘違いしている。雑誌に原稿を書くのと小説家には「書く」以外の共通項はなく、別の職種。ライターはうまくいけばラクかもしれないが、生活は超不安定。でもまあ、やってみたいなら止めはしない。というかむしろ歓迎だ。なぜなら、そのほうがおもしろいから。それに、ぼく同様ちゃらんぽらんな学生生活を過ごしてきた町田がネクタイ締めて働くなんて、“らしくない”だろう。なんといっても町田は退職金を100万円も持っているのだ。その金でどーんと遊ぼうじゃないか。まずはそうだな、焼き肉食い放題でも行くか。

「行くかって、オレの退職金じゃないですか。先輩なら奢ってくれるとか、そういうのはないんですか」

「ないね。世の中、金を持ってるやつが払うのが自然な流れだろう」

「そうかなあ」

「そうとも。居候代は月に光熱費として1万円でいいから、とっとと肉食わせろ!」

町田と相談して、持ち金の半分はいずれ部屋を借りる際の費用としてプール、足代わりのスクーターを買い、残りを当面の生活費に充ててライター見習いを開始することにした。ぼくよりはマシといっても、なるべく早めに収入を得られるようにならないと町田は干上がる。成り行きとはいえ、そそのかした立場のぼくとしては放っておくわけにはいかない。

もっとも、責任なんてこれっぽっちも感じない。再就職したって、町田は小説家になる夢を胸に抱いたままくすぶり、また辞めてしまうのがオチだ。いま、町田は楽しそうにしているし、ぼくも同居人ができて退屈知らず。それで十分。先のことをあれこれ真剣に考えたいのなら、町田だってぼくのところになどきやしないはずである。小説家志望なら文章もそれなりに書けるだろう。数年とはいえ組織で働いた町田には、ぼくなどより社会常識も備わっているに違いない。

「ま、なんとかなるんじゃないか。なんともならなかったら就職先を探せばいいじゃん」

「オレもそう思う。不器用な伊藤さんにできるなら……」

根拠はどこにもないが、笑顔で乾杯するボンクラな先輩と後輩なのである。

2010-06-21

スキー田舎紀行 [下関マグロ 第27回]

1986年の2月のことだった。

「ちょっといいかな?」

いつもの学研「ボブ・スキー」編集部で、ライターの細島くんに呼び止められた。

同年代の細島くんは、いつもスポーツタイプの自転車で編集部へやって来る、細マッチョで色黒な男だった。彼はライターでもあるが、「ボブ・スキー」では編集もやっていた。

編集部には社員の席以外にフリーのスタッフが座るデスクがいくつかあった。その日はフリーのデスクの一角に、細島くんだけが座っていた。僕が細島くんの前の席に座ると、彼はすかさずA4用紙を僕によこした。それは「スキー田舎紀行」と題された企画書であった。

「ボブ・スキー」はシーズン月刊誌で、年に7冊発行される。その頃は最初のシーズンが終わり、皆が次のシーズンに向けての企画をあれこれ考えていた時期だった。

「まっさんは、知らない人の家とか泊まるの好きでしょ」

「おお、そういうの好きだなぁ」

「なら、これやってよ」

僕の斜め読みによるとそれは、町営などの小規模でマイナーなスキー場へ行き、その周辺の民家にアポなしで泊めてもらうという2ページのシーズン連載だった。おもしろそうだったので、二つ返事で引き受けることにした。

細島くんは、もう一枚、企画書をよこした。そこには「滑雪人民月報」というタイトルがつけられていた。同じく2ページの企画で、こちらは今までやっていた読者ページのスタイルを変えた物だった。

こうして僕の次のシーズンのレギュラーページは決まった。どちらかというと、僕が楽しみなのは「スキー田舎紀行」のほうで、うきうきとその準備に取りかかった。

この企画のおもしろさは、ほかのスキー雑誌が取り上げないような小さなスキー場を紹介する点と、僕が見知らぬ人の家に泊まるという点にある。

今ならテレビでタレントがやってるような企画であるが、まだその当時は、ほかの雑誌でもそういうのをやっているのは見たことがなかった。

まずは新潟県から東北にかけ、各県ごとに小さなスキー場をピックアップし、その地元の観光協会などに電話をして取材を申し込んだ。

普通のスキー場取材は、カメラマン・ライター・編集者などのチームで、車に乗って出かける。しかしこの企画では、僕が一人でカメラを抱えて電車に乗って、各スキー場を巡ることになった。スキー場取材に電車やバスを乗り継いで行くというのは、珍しかったというか、あり得ないことだった。

泊めてくれるお宅への謝礼は図書券1万円分だった。学研から7万円分の図書券を貰い、バッグに詰めながら、これをなくしたら大変だぞと思った。そして大量のモノクロフィルムとカメラを抱えて取材旅行に出たのが3月の半ばのことである。

僕がまわったのは、新潟県松之山町の「松之山温泉スキー場」、新潟県笹神村「五頭高原スキー場」、山形県白鷹町「白鷹町営スキー場」、山形県戸沢村「国設最上川スキー場」、山形県八幡町「升田スキー場」、秋田県皆瀬村の「子安温泉スキー場」、岩手県湯田町「町営湯田スキー場」の全部で7箇所。これらはいずれも当時の名前で、現在では閉鎖されているスキー場もあれば、経営母体の村や町そのものがなくなっていたりもする。

ひとりきりの気ままな取材旅行は実に楽しかった。10日間で宿泊しながらスキー場を7箇所まわるというタイトなスケジュールだったので、一箇所の取材が終わるとすぐに、次のスキー場へ移動した。事前に得ていた情報はほとんどなく、すべて現地で歩きながらの取材だった。目につくものはどんどんカメラで撮って、あれこれメモをした。

泊めてもらう家探しには、意外と困らなかった。その土地の名士のような家に泊まれたこともあれば、観光協会の人が仕方なしに自分の家に泊めてくれたりもした。

ある村では、同年代の男性の家に泊まった。そこへ友人たちがやってきて、ギターを引きながら大声でフォークソングを歌った。こんな夜中に大丈夫なのかと聞けば、「なぁに隣の家は1キロ先だから大丈夫だぁ」なんて言われた。

またある村で泊まった家は古く大きな家で、小学生の男の子供が2人いた。たった一晩泊まっただけなのに、僕は子供たちとすっかり仲良しになった。翌日、朝ご飯を食べたあとも、近くのバス停まで見送ってくれた。バスが動き出すと、その子たちは、こちらが見えなくなるまで走って追いかけて手を振ってくれた。このときは、なんだか泣けて泣けてどうしようもなかった。

ちなみに僕はこの企画で「高杉マグロ」という名前を使っていた。そのペンネームのおかげで、ある家では、「こいつはマグロが好きなんだろう」と気を遣われ、わざわざ近所のスーパーで刺身のマグロを買って出してもらった。しかし、人口の少ない山間部の小さな店で売られているマグロである。鮮度も悪く、おいしくなかった。

しかし、心づくしのもてなしなのだ。食べられないと言うわけにもいかず、全部平らげた。その味が忘れられず、僕はそれから長いこと、マグロを口に出来なかった。

取材旅行の前半は、主に謝礼の図書券をなくさないようにと神経を使っていた。しかし後半になるにつれ、さまざまな出会いの思い出とともに、取材メモとフィルムのほうが重要になった。

すべての取材を終え、越後湯沢駅のホームの公衆電話から、「取材を終えたので、これから帰ります」と編集部に報告した。

一仕事が終わり、ホッとした気持ちで新幹線に乗り込んだ。 が、そのとき、自分が取材メモを持っていないことに気がついた。

さっきのホームの公衆電話に忘れてきたんだ。青くなり、すぐに次の駅で降りて、越後湯沢駅に戻った。

幸い公衆電話でメモを発見したが、その日の東京行きの新幹線はすでに終わっていたので越後湯沢で一泊した。

翌日やっと東京に戻ると、すぐに学研へ行き、撮影した大事なフィルムを編集部に渡した。部員のひとりが、「何本か電話がありましたよ」と笑いながら言う。

「お宅の会社から取材にきたという人物がうちにいるのですが、本物ですか?」というものだったらしい。無理もない話しだが、僕は苦笑いした。

記事を良いものにするため、編集と相談し、個人的に好きだったイラストレーターの町支哲義さんに、僕のキャラクターを描いてもらうことにした。

おかげでとても良いページになったと思う。この仕事で僕はまた少し、ライターとしてきちんと仕事をやっていけるという自信をもらったような気がする。

2010-06-14

スイスでの単独取材 [北尾トロ 第26回]

29歳の誕生日はスイスに向かう機内で迎えた。誕生日のことなど忘れていたら、航空会社からチョコの詰めあわせをプレゼントされたのだ。おかげでひとりきりの心細さがいくらかは和らぎ、注がれたシャンパンでぐっすり眠ることができた。

ジュネーブの町でカメラマンと待ち合わせ、世界選手権が開催されるインターラーケンに向かう。地理がまったくわからないので、旅慣れしたカメラマンについていくしかないが、世界選手権に関しては写真さえ押さえれば良く、大きな記事にする予定はないので気楽なものだ。日程後半のツェルマット取材に集中すればいい。

それなのになぜインターラーケンなんぞに行くかというと、今回の取材が旅行会社主催のプレスツアーだからである。スイスへの観光客を増やす目的で、メディア関係者のエア代を負担してツアーを組んでいるわけだ。「ボブ・スキー」はそれに乗っかり、ツアーのところではコラムのネタを集め、独自取材となる後半で特集記事を作る作戦。前半は遊んでいればいいわけだ。

そうもいかなかった。ツアー主宰者は、旅費を負担したからには見るものは見てもらおうとし、あちこち引っ張り回す。こちらもそれは断れず、大会の様子を見学したり、グリンデルワルトへ足を延ばしたり、観光客さながらのスケジュールをこなさなければならないのだ。合間にはスキーである。10名ほどのグループで滑りにいくのだ。

このスキーが問題だった。スイスのゲレンデは広い。高低差もかなりあるので、日本のようにちまちまターンを繰り返す滑りをしていたら、いつまでも降りてこれない。おのずとターンの少ない、スピード重視の滑りになるのだ。緩斜面はいいとしても中級コース以上になると滑っているうちに後傾になり、転倒を避けるためにスピードを緩める。そのため、ぼくは集団についていくのがやっと。後ろ向きで滑ることも苦にしないような連中のなかでダントツの下手っぴいである。中には「本当にスキー雑誌の記者なのか」と嫌みを言うヤツもいた。気持ちはわかる。レベルの低い人間が混じっているため自由に滑れなければストレスもたまる。

なんとかはぐれずにいられるのは、もうひとり素人スキーヤーがいたからだ。旅行雑誌のカメラマンで、ライターも同行せず、ツェルマットの写真を撮影してきてくれと送り出されてきたらしい。ぼくたちは弱いもの同士助け合う形で、コースアウトしないように声を掛け合って滑っていた。

最悪だったのはJバーである。日本のスキー場は設備が新しく、ゲレンデの上まで行く方法はリフトが多い。しかし、こっちではTバーといって、スキー板を雪面につけたままバーに腰掛けて登るタイプが主流である。しかも、コースが長いためバーに乗る時間も長く、油断すると轍から足がはみ出してバランスを崩す。Jバーは一人用のバーで、Tバー以上にバランスを崩しやすい。リラックスしていれば何でもないと上級者は言うのだが、どうしても緊張するので、しばしば轍に足を取られ、転倒してしまうのだ。たびたびそれをやるので、ぼくは周囲の失笑を買っていた。

日差しが傾き、リフトの営業終了が迫ったころ、Jバーで登って一気に下の町まで滑り降りることになった。1回目、20メートルも進まないうちに転倒。2回目、40メートルでやはり転倒。初心者仲間のカメラマンに「がんばれ」と声をかけられ、もう一度乗り口へ戻ると、係のオヤジに「これで最後だ」と叱咤された。ビビりながらJバーに腰掛け、上を見る。150メートルほどの距離が果てしなく長く思えた。降り口の脇ではグループの全員が集まってこっちを見ている。

とにかく余計な力を入れちゃダメだ。ぼくは歌を歌いながら、轍からはみ出さないことだけを意識しようとした。でも、次第に力が入ってくる。50メートルを超えたあたりで、ぐらつきを支え切れなくなり、あっけなく転倒。同時に、予告通りバーの運行は終了した。

みじめだ……。

板をハズし、担いで登るしかなかった。15分後、大汗とともに上へたどりついたぼくを、皆があきれ顔で見つめる。どうしてJバーごときで転ぶんだという目。わかってる、俺だって自分に失望してるんだよ……。カメラマンだけが「大変だったなあ」と慰めてくれた。

そんな具合に、華麗にアルプスを滑るなんてできやしなかったのだが、なんとかかんとか取材は進み、マッターホルン越えしてイタリアまで行ってみたりして、筋肉痛に泣かされた以外は元気に過ごした。

帰国し、すぐさま預かった写真を現像。レイアウトに回して10ページくらいの特集に仕立てる。これが、ぼくが単独取材で大きな記事を書く初体験になった。ツェルマットを滑ったスタッフは周囲にいなかったから、ある意味書きたい放題だ。出来映えはともかく、自分の体験や印象を自由に描くことが単純に嬉しかった。

共にお荷物となったカメラマンとは、苦労した分だけ親しくなり、帰国後も会うようになった。フリーになったばかりで張り切っているようなので、いつか一緒に仕事したいと言うと、日焼けした顔がほころぶ。

「滑らない仕事なら、ぜひ!」

2010-06-07

パインの事務所にお別れ [下関マグロ 第26回]

久しぶりにパインの事務所に顔を出すと、事務所のレイアウトがすっかり変わっていた。

右手の壁際中央にパインのデスクがあるのは変わらないが、以前は全てくっつけて置かれていた他のデスクが、それぞれ離れて部屋の隅に配置されていた。伊藤ちゃん、伏木くん、坂やん、三角さんといった人たちの姿もない。かわりに奥の席で長髪の男が原稿を書いていた。

「あ、紹介するよ。バンドやってる青木くんっていうんだけど、仕事を手伝って貰ってるんだ」とパインが言った。

立ち上がって挨拶をした青木くんという男は、座ってるときの印象とは違い、えらく背が高かった。

僕が名刺を渡すと、青木くんは申し訳なさそうな顔をした。

「すみません、名刺ないんですよ」

「キミ、ライターさん?」

「いえいえ、バンドやってても金にならないんで、最近、たまにここで原稿を書かせてもらってるんで、本業はミュージシャンですよ」

青木くんにバンドの名前を聞くと、「ヒステリックグラマー」だと言っていた。なんだか洋服屋みたいな名前だなぁ、なんていう雑談をしたあと、僕はパインのほうを向いた。

「実は……」と気まずく話を切り出そうとすると、「事務所を辞めたいって話かな」とパインに先回りされ、僕はただ頷くしかなかった。

「ああ、キミの場合、会社の役員だからね。わかった、増田くんの名前を役員のところから消しておくよ」

なんだか拍子抜けする感じだった。こうして僕は、一切引き止められることもなく事務所を辞めた。

しかし、そのとき僕が訪問した目的は、事務所を辞める話だけではなかった。もうひとつ、大事な用事があったのだ。

営業時代に知り合った、オリーブオイル販売の岩国さんという人がいた。その岩国さんが池袋駅前で新しく金券ショップを始めるので、開店するにあたり看板を取り付けたいという。僕は岩国さんから看板のキャラクターになる絵を発注され、結構な金額を提示されていた。

しかし僕にはイラストレーターの知り合いがいない。そこで、パインに何人かイラストレーターを紹介してもらおうと考えていたのだ。

パインは話に食いつき、何人かのイラストレーターの連絡先を教えてくれた。さらには「オレも参加していいかなぁ」と言うので、「もちろんですよ、パインさんもなにか描いてください」と軽い気持ちで言った。

それから数日、僕は何人かのイラストレーターに会い、イラストを発注しては受け取りに行っていた。そのため、オールウェイにもたびたび顔を出した。

パインが描いた絵は3点ほどあった。プロのイラストレーターが描くものとはさすがに違い、素人っぽくかすれた線で、帽子をかぶったおっさんが描かれていた。

僕は岩国さんに何点かの絵を見せたが、意外にもパインの描いた絵が気に入られ、看板に採用となった。

それをパインに告げに行くと、パインは実にうれしそうにしていた。奥の席にいる青木くんも立ち上がり、祝福の拍手を送っていた。

「あ、名刺できたんですよ」と、青木くんが思い出したように僕に名刺を渡しに来た。そこには「青木秀樹」と印刷してあった。

「あ、伊藤ちゃんと同じ名前だね。最初の秀樹が去って、新しい秀樹が事務所にきたんだ」

そんな冗談を言って別れて以来、パインの事務所を訪れた記憶はないから、たぶんそれが最後の訪問だったと思う。

後日談だが、平成のある日、テレビをつけたら「カブキロックス」というバンドが演奏をしていた。歌舞伎風の化粧と髪型、ハデな衣装を身につけていたが、ギターを弾いているのがあの青木くんだということは、すぐにわかった。

2010-05-31

ぼくが本当にフリーになった日 [北尾トロ 第25回]

クリスマス返上で仕事を終えると年内の予定はなくなる。妹の帰省に合わせ、1年ぶりに実家に顔を出すことにした。母は弟が経営する菓子舖を手伝っているので、ぼくも駆り出され、職人さんと一緒に鏡餅づくりをしたり配達に出たりでけっこう忙しい。正月には、実家が近い増田君が、ぼくの不在中にいきなりやってきて母と話し込んで帰るという、わけのわからない出来事があったりして、1週間ほどの日程はみるみる過ぎていった。

東京では会うことのなかった妹の交際相手にも、年明けに初めて会った。とりたてて面白みはないものの、まともな男のようである。兄としては、人間がまともであれば、妹の結婚について反対する理由はなかった。母も次第に態度を軟化させてきているので、うまく話がまとまれば年内には結婚ということになるのかもしれない。

東京に戻るとすぐに仕事が始まり、バタバタした日常が戻ってきた。とはいえ、スキー雑誌のスキー場取材は年明けからぼちぼちスタートし、ピークを迎えるのは気候の安定する3月から4月。それまでは原稿だけに集中していればいいと思っていたのだが、ある日、福岡さんに呼び止められ、海外取材を打診された。

「スイスで開催される世界選手権のプレスツアーに参加して、ついでにツェルマットを取材してきて欲しいんだ」

「え、田辺さんとかもいるのに、ぼくなんかでいいんですか?」

「遠慮はいらないよ。ボクはね、ライターは若いうちにどんどん外に出るべきだと思うんだよね。どう、行ってみたくない?」

願ってもない話だ。海外取材なんてしたこともないし、世界選手権がどのようなものかも知らないけれど、行けば何とかなるだろう。不安はいろいろあるけれど、英語力やスキーの腕を気にしていたらどこにも行けやしないのだ。

「じゃ、決まりね。日程が確定したらまた伝えるから」

「わかりました、がんばりまっす!」

家に帰り、まだ見ぬヨーロッパの風景に思いを馳せているうちに、「潮時かな」という坂やんの言葉が蘇ってきた。他人の恋愛事情に興味がないのでパインが誰とつき合おうと別れようとかまわないけれど、三角さんや増田君から聞いたやり口は、仕事にかこつけて女を口説く海千山千オヤジのようで不愉快だったのだ。それ以外にも、ぼくの知らなかった仕事や金にまつわることが多数ある。すべてがパインのせいとは思わないが、この先オールウェイと関わって得られるものと失うものを量りにかけたら、後者が多い予感がする。パインだって、本音では一緒に仕事をする気のないライターに机を使われるくらいなら、社員でも雇って編プロ活動を本格化させたいはずだ。

いずれにしても、そろそろ態度をハッキリさせるほうがいい。さり気なく距離を置き、徐々にうやむやな関係になるような方法は、ぼくには気持ちが悪いのだ。

数日後、事務所でパインとふたりきりになったところで話を切り出した。

「パインの仕事を手伝うことも減ったし、最近は学研にいる時間が長いでしょ。それに妹が結婚したら自宅を広く使えるので、ぼくの机は返上したいと思ってるんですよ」

気の弱いぼくは、なるべく波風が立たないように、辞めるという言葉を使わずに事務所からの脱退を告げたつもりだった。

「伊藤ちゃんに抜けられると、イザというとき頼りになる人間がいなくなる。はっきり言って、増田君や伏木君はアテにならないからね。坂やんもめったにこないし。ときどきでいいから顔を出してもらえないかな」

社員でも何でもないのにこんなことを言うのは、嫌になるといっさいの関係を絶つのがぼくのやり方だと、以前話したことがあるからだろう。

「しかし困ったな」

「パイン関係の仕事はしてないから困ることはないでしょう」

「そうじゃなくて、伊藤ちゃんには金を出してもらっているから」

ああ、そうか。事務所を借りるときに20万円出した、あの金か

「そうだよ。20万出資してもらっているから、伊藤ちゃんには当然の権利として専用の机を使ってもらってるんだしさ。ただ、我が社もキビシいから、急に言われて全額返すというのも……」

「そんなこと言ってないですよ」

「これまで使った分を少し差し引かせてもらえるとありがたいんだけど」

ああ、ため息が出そうだ。なんで金にこだわるかなあ。あの20万は自分の意志で出したもので、勝手に事務所を出て行くのだから、返してくれとゴネるつもりもないのである。

「いや、金は返さなくていいです。そういうつもりで出したわけじゃないんで。ぼくとオールウェイには貸し借りなしってことにしてください」

「え、本当にいいの?」

その瞬間、パインが見せたうれしそうな顔を見て、自分の判断は正しかったと確信した。フリーライターになったはいいが、右も左も分からないばかりか住むところさえなかったぼくを居候させてくれ、取材や原稿書きの基本を教えてもらった恩は忘れないが、それはそれ。裏表のある人間関係や腹の探り合いで気を使うことは、もううんざりなのだ。

エレベータに乗って1階に降り、ブルゾンのジッパーを首元まで上げてマフラーをぐるぐる巻く。

「さよなら、お世話になりました……」

ビルの出口で声にならない礼を述べ、ぼくは新宿駅のほうへ歩き始めた。これまでだって何とかなってきたように、この先もなるようになるだろう。向かい風が吹き付けてきたけれど、心の中は開放感でいっぱいだった。

2010-05-24

クリスマスイブの出来事 [下関マグロ 第25回]

荻窪の田辺ビルは、夏は暑く、冬は寒かった。夏の暑さは単に部屋にクーラーがなかっただけだが、冬はガスストーブやコタツがあっても底冷えがした。

だから冬は一日中コタツから出られなかった。仕事もコタツ、食事もコタツ、テレビを見るのもコタツだった。

ある夜、やはりコタツに入りながらテレビをつけたら、三冠王を3度も取った落合博満が、ロッテから中日へトレードされるというニュースをやっていた。落合ひとりに対し中日からは牛島和彦をはじめ4人の選手、つまり1対4のトレードであった。

へえ~、落合っていうのはすごい選手だなぁ、と思って見ていたら、電話のベルが鳴った。僕はテレビのボリュームを落として受話器を取った。

「まっさん? 伊藤だけど」

おなじみの声である。この頃、僕は周囲の人間から〝増田くん〟ではなく〝まっさん〟と呼ばれるようになっていた。

メールも携帯もなかった当時、僕も含め多くの人たちが、レジャーとして長電話を楽しんだ。一度電話がくると、なかなか切らずにダラダラと世間話をするので、時には「まっさんのとこに電話してもいつも話し中だよ!」と怒る人もいたが、それはキャッチホンを導入することで解決された。

「まっさん、明日空いてる?」

伊藤ちゃんも長電話がしたくてかけてきたのかなと思ったら、そうではないようだった。そして、「明日」というのはクリスマスイブであった。

僕にはつきあっている女性もおらず、クリスマスイブといっても予定はなかった。この年は多少仕事に困らなくなり始めていたが、出版業界では年末が近づくと、原稿書きの仕事もそんなになくなる。

「仕事なんだけど、やる?」

「もちろん、やるやる!」

即座にそう答えた。毎年のことだったが、山口県の実家へ帰省しようにも、先立つものが乏しく、暇を持て余していたのだ。

「三角ちゃんから仕事を手伝ってくれって電話があってさ、手が足りないらしいんだ」

仕事内容は、ムックで紹介する製品のキャプション書きらしい。当時の僕は、こういう仕事をわりとよく引き受けていた。

編集がメーカーから製品を借りてくる。それをカメラマンがどんどん撮影。僕たちはその写真を見ながら、メーカーのパンフレットを参考にキャプションを書いていく。誰でもできる簡単な仕事だ。しかし納期まで時間がないケースが多かった。だから手分けしてみんなでやる必要があるのだ。

オールウェイで経理のようなことをやっていた紅一点の三角さんは、次第にライターの仕事もやるようになっていた。それは、僕が広告営業の仕事からライターにシフトしてきたのに似ている。僕もそうだったが三角さんも、そのとき既に、オールウェイと関係のないところでもライター仕事をするようになっていた。

翌日、すなわちクリスマスイブの昼過ぎ、僕は伊藤ちゃんと私鉄沿線の駅で待ち合わせ、三角さんのマンションへ向かった。三角さんの家に行くのは初めてだった。そこはとても古いマンションというかアパートで、坂やんが先に来ていた。

まずトイレを借りたら、木の箱が頭上にあった。そこから出ている鎖を引っ張ると水が流れるレトロな水洗で、年代を感じた。しかし、部屋は結構広くてきれいだった。真ん中に大きなテーブルがあり、そこを囲んで4人が黙々とキャプションを書き始める。

僕はときどき集中力がきれて、みんなに無駄話をふった。

「そういえば、Y子ちゃんはどうしてるの?」

若くて美人の女の子ライターの名前を出した。

「最近、連絡を取ってないね。そういえばあの子は?」

他にも何人か、僕たちのまわりにいた女の子の名前があがった。

「そういえばさ、オールウェイとか俺たちのまわりってさ、メンバーが男ばかりで、女の子って、やって来ても居着かないね」

僕がそう言うと、坂やんも伊藤ちゃんもアキラメのため息をついた。

が、三角さんだけは、なにか言いたそうだった。僕はそれを見逃さず、三角さんに問いただしてみた。

「それはね、パインが原因なのよ……」

パインはオールウェイに美人がやってくると、ほぼ見境なく猛烈アタックし、つきあいはじめる。しかし、どの子とも長続きせず、別れてしまう。そうなると、女の子のほうは、もう事務所には顔を出しにくくなってしまう。

「私が知ってるだけでも3人いるかな。そのうち1人は私が紹介した人なんだけど」

それが、三角さんが僕らに明かしたオールウェイの裏事情だった。パインの女グセの悪さには、僕らも薄々気がついてはいたけれど……。

「そんなことじゃ、俺らだって、女の子を連れて来づらくなるよね」

伊藤ちゃんがそんなことを言い、次第にみんなの口からオールウェイやパインに対するグチが噴出した。

「そろそろ潮時かな……」

ふだん口数の少ない坂やんまでもが、そんなことを言った。

少し暗い雰囲気になったところで、三角さんが冷蔵庫からケーキを取り出してきた。

「ほら、きょうクリスマスイブでしょ、買っといたのよ」

三角さんの心遣いに、男性陣は顔がほころんだ。

クリスマスケーキはごく小さなものだったけれど、ろうそくがついていた。部屋の灯りを消して、ケーキに4本のろうそくを立てる。

「じゃ、願い事でもして、ろうそくの火をみんなで吹き消しますか」

僕がそう言うと、

「それは、誕生日でしょ」

と坂やんが冷静にツッコミを入れた。

ともあれ、僕は心の中で、来年はライターとして生計が立てられますように、と祈った。

三角さんが、「せーの」と言い、僕らは一斉にろうそくの火を消した。暗闇が訪れ、すぐに部屋の灯りがつけられた。

「さあ、仕事、仕事」

分け合ったケーキを食べて、僕らは徹夜で仕事をした。

2010-05-17

事務所がギクシャクし始めた [北尾トロ 第24回]

妹と暮らすようになって、生活が急に落ち着いてきた。朝は物音で起き、二度寝しても昼前にはベッドを抜け出す。作り置きの食事を済ませたら仕事にかかる。とはいえ集中などできないので、自宅で最低限のことをして、本格的に書くのはボブ・スキーの編集部に行ってから。帰りはたいてい深夜だ。家賃が高くなった代わりに掃除や洗濯はしてもらえるのでラクなのだ。

新宿にあるオールウェイの事務所に顔を出す頻度は激減した。ぼくの仕事のメインはボブ・スキーになっていたし、それ以外の仕事も知り合いを通じて得た取材ものが大半である。PR雑誌の店取材などでは増田君とコンビでやっていて、一方が執筆、一方が撮影と役割を分担した。クルマで出かけて1時間ほどで取材を終わらせるのだが、それでも半日はつぶれる。ギャラが全部で1万円といったものなので割に合わない仕事だけれど、気分は遊びなのでそれでも良かった。

一緒にいる時間、増田君とずっと喋っていたわけだが、話題はいくらでもあり、お互いの仕事に関してはあまり突っ込んだ会話にならない。だから、増田君が『BIG tomorrow』をレギュラー仕事にしていることは知っていたけど、どれほど時間を割き、どれだけギャラをもらっているかなんてわからなかった。一緒に遊べるってことは、毎月食べていけるだけの収入があるということなので、それで良かったのだ。

増田君はときどき「伊藤ちゃんに紹介してもらったおかげだよ」と言うのだが、ぼくにしてみれば、苦手な仕事を引き受けてもらって助かった気分だった。ぼくにとっては苦痛でしかない『BIG tomorrow』のデータマンを、増田君はラクにこなすことができるのだ。月に20万以上ももらっていたとは知らなかったが。でも、同じ仕事をビジネスマンの知り合いが少ないぼくがやったら10万円がいいところだろう。取材のアポイントを取るだけでも、電話嫌いなぼくにとってはやっとの思い。原稿書きは好きだがインタビューが不得手なぼくからすれば、見ず知らずの相手からさくさくコメントを取ってしまう増田君は特殊な能力の持ち主に感じられたものだ。

それでもたまには用があって事務所へ行く。すると、しょっちゅう出入りしていたときには気づかなかったことに敏感になる。毎日顔を合わせていると変化がわかりにくいが、ときどきだと太っただの痩せただのに気がつきやすくなるようなものだ。ひとことで言えば、オールウェイはだんだん雰囲気が悪くなってきていた。

もともと我の強い連中が集まった寄り合い所帯である。パインが駆け出し連中に仕事を供給しているうちは確固たるボスの立場でいられたが、各自が自分で仕事を取ってくるようになったものだから、誰が何をしているかもわからないし、頭を下げてパインの世話になる必要もなくなってくる。

金額の差はあったとしても、それぞれ収入に応じた分担金を出し、共同事務所としてスタートしていたら歪みも生じにくかったかもしれないが、メンバーを揃えるために家賃や経費はオレが出すと言ったものだから、他のメンバーは金銭負担がない代わりに事務所を活用しにくいのだ。仕事がないわけじゃない。パインの元へはこなしきれないほどの依頼がある。でも、この時期のパソコン雑誌やムックは、素人でもなんとか書ける低レベルのものから、急速に専門性を求められるように変化しつつあった。以前のように、手取り足取りぼくなどに教えても役に立たない。勢い、パインは事務所メンバー以外のテクニカルライターと呼ばれる専門知識を備えたプロに発注せざるを得ない。逆に、ぼくたち若手は自分のことで精一杯で、パインが喜ぶような仕事を振る余力はない。たまにあったとしても、パインは常に忙しいから片手間に参加するのがせいぜい。

そうなると、鈍い若手陣といえど、パインはこの調子でパソコンをメインにやっていくつもりなんだなとわかってくる。じゃあ、何のために自分はここに通ってるのか。原稿なら自宅でも書ける。ムックを丸受けするような仕事なんてしてないし、したいとも思わないから、都心に事務所があるメリットなどないに等しい。

パインはシステムを変更したがっていた。前述のような経緯があるのでガマンしているけれど、内心では「なんでオレがみんなの電話代まで払わなければならんのか」と思っている。他のメンバーも「なんでオレは必然性もないのにここにきて、パインにかかってくる電話を取り次いだりしなきゃならんのか」と思い始めたが、世話になってきた手前、口に出せない。たまにオールウェイに行くと、そんなギクシャクした空気を感じてしまうのだ。

ぼくはパインからその場にいない人間の悪口を聞かされるのがイヤだった。めったにこない伏木君のことはボロカスに言うし、増田君や坂やん、三角さんについてもチクチクと不満をもらす。ぼくはなるべく聞き流すようにし、長く続くようだと外に出た。プライベートな電話を事務所でかけると、あとからどう言われるかわからないから、公衆電話を使う。やれやれ、疲れる。

「パインは社員を雇って本格的に編プロを作ればいいんだよ。あの人はそうしたいはず。でもぼくたちは社員になる意志がないし、パインが望む能力も持ってないでしょ。それでイラついてるんだと思うよ」

最初から、パインとは距離を置いてつきあってきた増田君は、よくそんなことを言っていた。ぼくもそうだと思う。でも、居候までさせてもらっておきながら、こちらからパインを見捨てるように去ることをするのは裏切るようで気が進まなかった。円満にオールウェイを抜けるにはどうしたらいいだろう。

はっきりしないまま秋が深まり、年末が近づいてくる。そんなある日、増田君と食事に行ってパイン問題を話した。

「パインはいない人の悪口をよく言うんだよね。言いたいことがあるなら、本人に直接ぶつけて欲しいよ」

ぼくがこぼすと、増田君がうんうんと頷いた。

「伊藤ちゃんがいないときは、事務所の使い方が荒っぽいとか、大雑把で気が利かないとかしょっちゅう言ってるもんね」

え、ぼくにも不満があるのか。そんなこと、面と向かうといっさい言わないのに。いっぺんみんなで集まって、パインがどんなふうにそれぞれを評価しているか情報を寄せ合ったらおもしろいかもしれない。

その機会は間もなくきた。三角さんが、うちでクリスマス会をやろうと言い出したのだ。

2010-05-10

ライターの三種の神器がそろう![下関マグロ 第24回]

西暦で1986年、昭和でいえば61年、僕の仕事は前年より確実に忙しくなっていた。レギュラーの仕事が『とらばーゆ』『BIG tomorrow』に加え『ボブ・スキー』で三つになったからだ。いずれも伊藤ちゃんに紹介してもらったものだ。

『とらばーゆ』は小さなコラムだが週刊で、『BIG tomorrow』は月刊、『ボブ・スキー』は年に6ヶ月間刊行のシーズン月刊。年6ヶ月のシーズン月刊といっても、半年だけ働けばいいというのでなく、『ボブ・スキー』の場合は一年を通じてやることがいろいろあった。

また、レギュラー以外の仕事も増えていた。

この年の前半、僕はまだ東中野の三畳に住んでいて、原稿は手書きだった。とくに大量の原稿を書かなければならなかったのが『BIG tomorrow』だ。ここで僕はデータマン、取材記者をやっていた。誌面に出る原稿ではなく、アンカーマンが記事を書くためのデータ原稿なのだ。多いときにはペラで300枚もの原稿を書いた。

この仕事のために役だったのが録音できるソニーのウォークマンである。取材の様子を録音するためだ。しかし、当時はまだ取材に録音機を使うというのは珍しかったかもしれない。その証拠に取材の前に「録音していいですか?」と相手に聞くと、ダメだという人もけっこういたものだ。

そういえば、録音できるウォークマンは伊藤ちゃんに何度か貸したことがある。そのため、伊藤ちゃんの取材テープ、たとえば『週刊ポスト』で白井貴子を取材したときのものなどどういうわけか僕が持っていた。自分のを聞くのはイヤだけど、他人のを聞くのは楽しかった。ふだんあまり聞くことがない、他人の取材ぶりがわかるからだ。

ただし、録音できるウォークマンは、操作が面倒で、ちゃんと録音できていないこともあった。それで僕はこの頃、録音に特化した小型のテープレコーダーを買ったのだ。これはオリンパス製のマイクロカセットを使ったもので、ボタンをひとつ押すだけで、すぐに録音できた。

たいてい僕は、家のテレビをつけっぱなしにして、消音にして仕事をした。何度もテープを聴きながら取材の一言一句を原稿用紙に書き出していく。データマンはペラ一枚いくらという支払いだったから、たくさん書いたほうがいい。

2月にはフィリピンで、マルコス大統領の住むマラカニアン宮殿が民衆に包囲される事件が起きて、大統領が国外脱出した。ワイドショーでは、「大統領がいなくなった宮殿に押し入った民衆が見たものは、イメルダ夫人の3千足もの靴だった」というようなことを何度も放送していた。

岡田有希子がサンミュージックのビルから飛び降り自殺したのも、この年の4月だった。テレビのニュースを見て、ああ、あそこだ、とすぐにわかった。以前に通っていた四谷の編集プロダクションへの通り道にある、四谷四丁目の交差点に面したビルがその現場だった。

この年のヒット曲に「1986年のマリリン」というのがあった。本田美奈子が踊りながら、元気にへそを出して歌っていた。

8月に東中野から荻窪へと引っ越したあたりで、僕はやっと、「ライターの三種の神器」をそろえた。すなわち、留守番電話・ワープロ・ファックスである。

ライターの三種の神器は、時代とともに変化し、これに「テープレコーダー」(今ならICレコーダー)とか「名刺」を入れる人もいるだろうが、僕のなかで、この時期の三種の神器はこの3つだったように思う。これを手に入れたことで、僕はやっと一人前のライターになれた気がした。

今ではすっかり廃れてしまったが、昔は留守番電話器というものが非常に重宝された。今ある留守番電話器は電話機と一体になっているが、最初の頃は独立した機械で、それを電話機につないで使用するというものだった。僕は引っ越しを機に、電話と留守番電話器が一体型になった最先端のものを購入した。ソニー製で、メッセージをマイクロカセットで録音するようになっていた。

これさえあれば、どんな仕事依頼も逃さないぜ!!と僕は大いにはしゃいだ。嬉しさのあまり、留守番電話にメッセージが入っていないか、外出先から家にしょっちゅう電話をして確認した。また、そういう操作をしている僕がかっこよく感じた。初めて自分用の携帯電話を与えられた中学生みたいなもんだった。

ワープロは、今じゃPCで使うソフトウェアのことを指すようになったが、昔は文章作成専用の独立した機械だった。

僕が手に入れたのは、リコーのワープロであった。リコーのワープロを、毎月数千円でリースして使っていた。当時のワープロは、買うと結構な金額がする代物だったのだ。ファックスも同様にリースを利用した。

三種の神器を手に入れて、まずは『とらばーゆ』の原稿をワープロで打ち、ファックスで送信した。これまで編集部へわざわざ原稿を届けに出かけていたものが、家に居ながらにして済むようになったのだ。これは画期的なことで、僕はものすごく感動した。ワープロについてはこんなおかしな話もあった。
「あの、この前の原稿なんですが、ちょっと手直ししてほしいんです」

『とらばーゆ』の編集者から電話がかかってきたことがある。

「あれ、だってファックスで送ったときは、OKって言ってたじゃないですか」

僕が不満をあらわにそう言うと、こういう返事がかえってきた。
「あ、手書きの原稿じゃなくてああやって活字になっていると、ついつい、いいって思っちゃったんです」

そんなもんかと思った。そういう時代だったのだ。

のちにリクルートは自社専用のパソコン通信網を作ったので、原稿はファックスではなくパソコン通信で送るようになった。そのうちワープロもパソコンに、ファックスはパソコン通信に取って代わられ、ポケベルが登場したら留守番電話器は用無しとなり、携帯電話が出現したらポケベルは消えた。

まだ留守番電話機さえ持っていなかった伊藤ちゃんに、三種の神器を手に入れた当時の僕は、口を酸っぱくしてその必要性を力説した。もちろん良かれと思ってのことだが、考えてみれば大きなお世話である。

そういった新テクノロジーに、必ず僕は飛びついたし、確かに便利ではあった。しかし、絶対に必要だったのかと、いま自問自答しても、正直よくわからない。

当時の三種の神器で今残っているものはひとつもない。今は携帯電話とパソコンがあればいい。留守番電話に飛びつかなかった伊藤ちゃんだって、今は携帯電話とパソコンを使っている。でも、それも四半世紀後にはまた変化しているはず。変わらないものなんてないのだ。つくづくそう思う。

2010-04-26

彼女と別れ、妹と経堂に住む [北尾トロ 第23回]

ボブ・スキー編集部は大田区にあり、僕の住む吉祥寺からは井の頭線で渋谷へ出て、山手線で五反田まで行き、さらに池上線に乗り換えなければならない。最寄り駅からも徒歩で15分かかるので、到着まで1時間半近くかかる。夏以降、編集部に行く頻度が増すとともに、往復3時間は堪え難くなっていく。

とくに帰りがつらい。要領が悪いため、仕事ははかどらないのに時間ばかり過ぎ、たちまち午後11時をまわってしまうのだ。3輪バイクで通ってきている増田君は時間を気にしなくていいが、あきらめて帰るか、朝まで働くかの決断を迫られる。終電近い電車はいつも満員で、家に着いたってシャワーを浴びて寝るだけ。かといって編集部で夜を明かして電車で帰るのもしんどい。編集者に頼み込み、ときどきならクルマできて会社の駐車場を使ってもいいことになったが、リッター7キロくらいしか走らないのでガソリン代が馬鹿にならん。警備のオジサンに「どこの部署?」と尋ねられるのも面倒だ。

ぼくもバイクが欲しいけど高いからなあ、と思っていたら、知人がホンダの赤いスクーターを安く譲ってくれるという。それで、ぼくもめでたく、時間を気にせず深夜の環七を突っ走るライターの一員に加わることになった。

フリーの立場でかかわるスタッフの一人に過ぎないぼくが、連日のように深夜まで編集部で過ごしていたのは、そこにいることがおもしろかったからでもある。それまでの仕事では、打ち合わせ時や出来上がった原稿を届けにいくとき編集部を覗く程度で、何時間も滞在することなどなかったのだ。まして、編集部で原稿を書くなどしたことがなかった。

ボブ・スキー編集部は、編集者もライターもデザイナーも、ほとんど20代。キャリアは浅くてもイキのいいスタッフで創刊したいという、福岡さんの考えがストレートに反映されていて活気があった。しょっちゅう顔を合わせるものだから、だんだん親しくもなるし、企画も出しやすい。考えてみたら、ぼくはそれまで編集者やパインから「これやって」と頼まれた仕事をこなすばかりで、自分から企画を提案することがあまりなかったのだ。たとえ小さな記事でも、自分の企画が通って思い通りのことがやれるのは嬉しかった。頼まれ仕事よりこっちのほうが断然いいと思った。

そばには他の編集部も点在していた。電話で怒鳴っている人がいる。印刷会社の営業と冗談を叩き合う人がいる。赤ペン片手に原稿チェックに余念のない人がいる。黙々と作業をする人がいる。なるほど、雑誌というのはこうやって作られるのか。ぼくは小さなコラムのタイトルひとつつけるのに1時間も2時間も悩んでいるようなとき、ぼんやりとそういう人を観察するのも好きだった。

夏も盛りに近づいた頃、実家から電話があった。妹が上京したがっているので、兄であるぼくと同居するのを条件にOKを出したという。

「正直言うて不安だけど、もう子供じゃないからねえ。あんたがそばにいれば、私としても安心なんよ」

どうやら妹には東京在住の彼氏がいるらしく、真剣な交際だから一緒に住ませてくれと畳みこまれた。

「半年でいい。その間にお母さんを説得できなかったらあきらめるから。一生のお願いだから、いいと言ってよ」

選択肢はない。ぼくは「いいよ」と答え、すぐに不動産屋にあたり始めた。学生時代から中央沿線にばかり住んでいるので、これまで縁のなかった小田急沿線はどうだろう。急行が止まる経堂あたりなら、つき合っている彼女のところへも学研へも行きやすい。

数日後、手頃な物件が見つかった。広めの2DKで風呂付きだ。家賃は10万円もするが、妹が自炊するというし、半年くらいはどうにかなるだろう。

契約を済ませて一足先に吉祥寺を引き払い、おんぼろカリーナバンをフェリーに乗せて、彼女と北海道旅行に出かけた。妹がくれば生活も変わるだろうから、いまのうちに遊んでおこうと思ったのだ。

が、軽い気持ちで出かけたこの旅行で、ぼくたちはだんだん無口になり、帰りのフェリーでは別れ話さえするようになってしまった。原因ははっきりしない。積もり積もったお互いの不満が、ふとしたきっかけで抑えがたくなったのだ。はっきりしていたことは、彼女の不満が筋の通ったものであるのに対し、ぼくの不満は利己的で子供じみたものだったことだ。

家の前まで送っていったときには、もう部屋にこないでほしいとはっきり言われ、彼女は背を向けてすたすたと階段を上がっていってしまった。フリーになってから、いつも励ましてもらい、ときには仕事を手助けしてくれた人に、ぼくは振られてしまったのだ。RCサクセションじゃないけど、いいことばかりはありゃしないのである。

落ち込む兄を尻目に、上京した妹は張り切って荷物を整理し、あっという間にブティックでのアルバイトを見つけて働きだした。朝飯はいらないといっているのに、昼頃起きるとスープやオムレツができており、そばにメモがある。

「おはよう兄上。残さず食べるようにね。じゃ、バイト行ってくる。今晩も遅くなるなら電話してください」

もぞもぞ食べていると、編集部から電話だ。

「今日、きますよね。至急、相談したい企画があるんだけど」

はぁと答えて切ると、今度は増田君である。

「この前話した読者ページ企画、今日やってしまおうよ。3時に学研でどう?」

毎日が慌ただしく動いていた。そろそろ踏ん切りをつけるべきだ。ぼくはその晩、鍵を返すため、学研の帰りに彼女の部屋を訪ねた。彼女が不在だったことに幾分ホッとしながら、ポストに鍵を落とす。チャリン、と乾いた音がした。

2010-04-19

「北尾トロ」が誕生した瞬間!  [下関マグロ 第23回]

スキー雑誌の取材に出かける前日、神保町にあるスキーショップで、ウエアの上下とバッグを買った。全部で2万円弱だったろうか。プライベートでスキーに行くことは有り得なかったので、なるべくスキー以外でも使えるものを選んだ記憶がある。

現場への移動については、まったくお気楽だった。なぜなら伊藤ちゃんがすべてお膳立てをしてくれて、僕は彼が運転する車にただ乗っていれば良かったからだ。

取材は何泊にも及んだが、食事代などすべては学研が支払ってくれるので、それがお金のない僕には何よりうれしかった。

伊藤ちゃんは僕よりもスキーができるので、ゲレンデ取材もしていた。スキー雑誌にとってはメインの記事で、どのスキー場にどんなゲレンデがあるかという紹介のための取材だ。これは、滑るコースなどを写真付きで紹介するので、なかなか難しい。滑りながら写真を撮らなくてはいけないからだ。

「まっさんは、下を取材して」

僕は伊藤ちゃんから、そう指示された。下というのは、スキー場の周辺にあるレストランや、お土産物屋さんなどの店のことである。

考えてみれば当時の僕らには、スキー雑誌だろうがなんだろうが、取材をするためのスキルが意外と身についていた。たとえば、取材に写真撮影はつきものだ。僕らよりも上の世代はカメラマンと記者は分業化されていたけれど、僕らの頃からはライターも写真を撮ることが多かった。街頭や海水浴場で女の子の写真を撮り続けた『ムサシ』の仕事も無駄ではなかったのだ。この取材でも、伊藤ちゃんは高橋名人から買ったキャノンAE-1を首からぶら下げていた。僕はニコンのFAで、いずれも一眼レフカメラだ。

写真を撮影する道具も今と昔ではずいぶんと変わってきている。当時はまだデジタルカメラなんてない。すべてがフィルムのカメラである。だから、撮影しながら、「一枚も映ってなかったらどうしよう?」と不安に駆られることがしばしばあった。

そんな取材旅行から帰る頃には、取材メモや撮影済みフィルムがどっさりたまっている。フィルムはすぐに「ボブ・スキー」の編集部に渡し、僕らは取材メモだけ取っておいた。

そんなことを3月くらいまでやっていただろうか。そしてゴールデンウィークが過ぎて初夏を迎えると、僕らは毎日のように学研のボブ・スキー編集部へ足を運ぶ日々を過ごした。

この年の夏、僕は荻窪にある田辺ビルという古いビルに引っ越した。家賃は6万5千円で、古いが念願の風呂付きだった。

僕は荻窪から世田谷区上池台にあった学研の本社まで、けっこう遠かったけれど三輪バイクで通った。電車だと国鉄や私鉄の乗り換えが大変で、晴れている日はバイク、雨が降る日は仕方なく電車だった。

学研では、冬に行ったスキー場の写真を整理し、せっせと原稿を書くはずだった。が、いざ直面すると、何をどう原稿にすればいいかよくわからなかった。はかどらずにいたそんなとき、僕はなんとなく読者ページの仕事を振られた。おもしろいページにしたいので、伊藤ちゃんにも手伝って貰うことにした。

「増田くん、雑誌で何かを説明するときに〝狂言廻し〟がいると便利なんだよ」

パインがよくそう言っていたのを僕は思い出した。狂言廻しとは要するに、状況を説明するキャラクターみたいなものだ。僕らは自分自身をキャラクター化することにした。

しかし、僕は増田剛己、伊藤ちゃんは伊藤秀樹。名前がちょっと固い。そこで、この読者ページでは、なにかペンネームを使おう、そう伊藤ちゃんに提案した。

ボブ・スキー編集部にはフリーの記者席のようなものがあった。社員や編集者には当然だが決まったデスクがあり、僕や水島や伊藤ちゃんらフリー組は、同じフロアの中央にいくつか並べられたフリー記者席の適当な場所で、原稿書きなど作業をする。

この日は僕がけっこう早めにデスクについて作業をしていた。そこへ伊藤ちゃんがやって来て、いきなり僕に言った。

「決めたよぉ!」

なにを決めたのかと思えば、ペンネームだった。えっ、なになに、どんな名前!?

「それはねぇ、〝トロ〟だよ!」

「おっ、いいねぇ。いいよぉ。しかし、トロだけっていうのはちょっとわかりずらいから苗字を付けようよ!」

言いながら、僕はなぜか双羽黒のことを考えていた。

数日前、北尾が大関から横綱となり、「双羽黒」という名前に変わったばかりだった。僕は北尾が好きだったし、輪島のように横綱になっても本名で相撲を取り続けて欲しかったのだが、なんだか変な名前に変えられてしまい、僕はいい気持ちがしていなかった。

そこで即座に「北尾」という苗字はどうかと伊藤ちゃんに提案した。そして伊藤ちゃんからの異議はなかった。そんなわけで、北尾トロという名前が誕生した。同時に僕は「マグロ」にすることにした。トロとマグロっていいかんじではないか。

そのとき、ペンネームはあくまでも、読者ページで一時的に使うかりそめの名前だった。

その場のノリでつけた相撲取りや魚の名前を、20年以上も使い続けることになるとは、僕や伊藤ちゃんはその時、知る由もなかった。

2010-04-12

ラーメンとカレーを食べまくった初取材 [北尾トロ 第22回]

福岡さんが編集長を務める雑誌は「bob SKI」(ボブ・スキー)と誌名が決まった。まったく意味不明な名称である。福岡さんに尋ねても「なんとなく、ノリでね」という説明。兄弟誌のテニス雑誌が「T.Tennis」(ティー・テニス)なので似たような語感を狙ったようだ。

福岡さん以下、田辺さんを筆頭に2、3名の編集者。その下につく僕らフリーの連中を、福岡さんはスタッフライターという呼び方をした。編集部から与えられたボブ・スキーの名刺を持って取材に当たるスタッフ程度の意味合いだろうか。とはいえ、しょせんは寄せ集め集団なので編集会議などには参加せず、めいめい勝手に企画を立て担当編集者と内容を詰めていくだけである。

僕たち滑れない組はもうこの段階で落ちこぼれていて、通っても取材する自信がないためスキー雑誌らしい企画など出しようがない。やむなくコラムページとか読者ページとか、現場感の薄い企画を提案するしかないのだが、なぜかそれが福岡さんに受けるのだ。「一般誌の感覚はやはり違いますねえ」とか、「こういう切り口はこれまでのようなガチガチのスキー雑誌にはありませんよ」とか、どこまで本気かわからないがこちらが気を良くするリアクションをしてくれる。お調子者の僕はそれでますますやる気になってしまったし、「伊藤ちゃんにだまされて合宿に連れて行かれた」と慎重な構えを崩さなかった増田君や水島君も前向きな姿勢に。坂やんと伏木君も、スキー場の取材はしたくないがコラムとかならやぶさかでないと、それなりの意欲を示した。

こうして「ボブ・スキー」への参加が正式に決まったのだが、それからの進行は早かった。来シーズンからスタートするということは、今シーズン中に取材や撮影をしておかないと記事が作れないのである。最低限、全国各地のゲレンデ取材は必須。加えて毎号の企画もの記事も、いまから作っておく必要がある。田辺さんによれば、スキー雑誌の取材は気候が安定する2月中旬から4月初旬がピークで、雪が消えるGWには終わってしまうという。立ち上げの混乱もあって編集部にはとにかくゲレンデへ飛べという空気が強く、ぼくはモロに巻き込まれることになった。

「スタッフジャンパーを作ったので、これを着て増田さんと一緒に上越へ行ってください。滑れないのはわかってるから、ゲレンデはスキーの練習のつもりで適当に回ればいいです。その代わり、君たちにお願いしたいのはゲレ食ね。ゲレンデ内にあるレストランをめいっぱいまわって欲しいんだ。ゲレ食の特集って他誌ではあまりやらないけど、スキーヤーにとっては大事じゃない。とくにカップルで行くような場合は、どこで何を食べるか、何が美味しいかっていうのは必要な情報だからね」

メシなど自分でうまそうなものを探せよという気もするが、福岡さんが自信満々に言うからにはそうなのだろう。しかも、それに続く言葉がありがたい。

「もちろん経費は出ます。たらふく食べてきてください。興味があるスキー場グッズとか。気を惹かれたものはどんどん買っていいからね。それと、取材については日当があります」

取材したものが記事になるのは冬である。通常、ギャラの支払いは掲載誌が発売された翌々月くらいだから、ヘタすれば1年も先。それではスタッフライターが生活していけないと、福岡さんは会社と交渉して、取材日数に応じた拘束費を出すシステムを作ったという。額としては一日あたり5000円程度のものだが、原稿料とは別建てだし、出張中は基本的に自腹を切ることもないので丸々残る計算だ。たいした額じゃないけれど、家賃と光熱費にはなる。

行き先と宿の手配は田辺さんがやってくれ、4、5泊の予定で増田君と上越に向かった。我々の使命は上越エリアの主要なスキー場とその周辺にあるレストラン、食堂、喫茶店を集中的に攻めること。具体的な企画は何も決まっていない。まだ関越トンネルは開通していないため、月夜野インターで高速を降り、三国峠をカリーナで越える恐怖のドライブだ。車内ではずっとバカ話。ひとりでずっと運転するのは疲れるけど、友人とドライブ旅行をすると思えばラクな仕事ではないか。ひたすら飯を食べてりゃいいんだから。

「伊藤ちゃんはお気楽だねえ。飯を食うだけのリポーターならいいけど、あとから記事にしなくちゃならないんだよ。しっかりメモを取らないと完全に忘れちゃうだろう。写真もどこで撮ったかわかるように整理しないとダメか。面倒だなあ。外は寒そうだし、気が重くなってきたよ」

翌朝から、六日町ミナミスキー場を皮切りに、少しずつ東京方面に戻りながらゲレ食を求めて取材を進めた。満腹になっては味の評価ができないので、少しずつ食べる。ゲレンデの食堂はシーズン限定の営業が大半で、専門の料理人が作っているわけじゃない。だいたいは地元のおばちゃんたちが材料をケチって作るものばかりなので、唸るほどの味にはほど遠いものばかりだ。福岡さんが言うようなレジャー感覚あふれるファッショナブルなスキーヤーも見当たらず、ガンガン滑ってビールを流し込むようなスタイルでは優雅な昼食なんて必要がない。結局、人気メニューはカラダが温まるラーメンや、すぐに食べられるカレーであることがわかってきた。

「どうせ全メニューなんて食べられないんだから、カレーとラーメンに絞りますか。カラーページで同じ角度から撮影したカレーとラーメンをどっさり並べてみせるのはどうかね。とにかく二人で全部食べてみましたっていうの。うまそうかどうかは読者の判断に任せようよ」

増田君の提案でひとつ企画が決まり、いくらか気がラクになった。まずリフトで上まで行って店取材したらコースをボーゲンでゆっくり滑り、下にあるゲレ食を片っ端から取材する。新雑誌ということで怪しまれることもあったが、そこは学研の信用がモノをいい、トラブルはほとんどない。夕方には宿に入り、フィルムとメモを整理して明日の予定を立てる。毎晩、泥のような眠りに堕ちた。

取材期間中、学研への連絡は一度もしなかった。ふたりで撮った写真がまともに写っているのか、取材テーマはあれで良かったのか、多少の不安はあったもののいまさらどうしようもない。まあ、撮影の腕は期待されていないだろうし、写ってさえいればなんとかなるだろう。

久しぶりで帰宅し、ゆったりシャワーを浴びた。鏡に映る自分の顔が早くも皮が剥け始めているのを見て、スキー雑誌のライターに一歩近づいた気がし、僕はまんざらでもなかった。