2010-10-07

談話室沢辺 ゲスト:サミー前田「かっこいい日本のロックと歌謡曲」

キノコヘアーの女の子四人組ロックバンド「キノコホテル」。
彼女たちが醸す昭和40年代の雰囲気に、ひとりの男が関わっています。
その名はサミー前田。
今回の「談話室沢辺」では音楽プロデューサー/インディーズ・レーベル「ボルテイジレコード」代表/DJ/音楽ライターと様々なジャンルで活躍するサミー前田さんをお招きして、自身と音楽、そしてキノコホテルとの関わりを語っていただきました。
キノコホテルの大ファンで、元ジャックスのツアー・合宿運転手、『戦場のメリークリスマス』(監督:大島渚)でデヴィッド・ボウイと共演した役者でもある飯島洋一(ポット出版会長)も参加。
(このインタビューは2010年9月17日に収録しました)
USTREAMで中継された映像はこちらで視聴できます。

プロフィール

サミー前田
1964年2月生まれ。80年代は音楽雑誌編集者、92年より大手レコードメーカーに入社、2002年よりフリーのプロデューサーとして活動。
関わったアーティストは、フラワーカンパニーズ、遠藤賢司、フールズ、クレイジーケンバンド、近田春夫、渚ようこなど多数。
現在はインディーズレーベル「ボルテイジレコード」主宰、キノコホテルのプロデュース、遠藤賢司のボックスシリーズ『実況録音大全』などといった旧音源の復刻作業、DJや執筆etc…幅広く活躍中。

●俳優・飯島洋一、ミュージシャンとの共演歴を語る

沢辺 今回の「談話室沢辺」は音楽プロデューサーのサミー前田さんにお話を伺います。
なんでも近々ツアーがあるそうで。
前田 いまキノコホテルというグループのプロデュースをしているのですが、このグループの単独公演ツアーが10月3日(日)大阪心斎橋クアトロ、10月9日(土)新宿ロフト、10月17日(日)名古屋クラブクアトロという日程であります。(最新情報は、キノコホテル公式ブログに掲載中!)
沢辺 いまサミーさんが一番力を入れているのはこのキノコホテルのプロデュースですか。
前田 そうですね。音楽シーン的にも注目されているので頑張っています。
沢辺 そもそも何でサミーさんがキノコホテルにのめり込んだのか、その辺りはおいおい聞いていくとして、まずはお生まれから教えていただいていいですか?
前田 1964年(昭和39年)生まれです。東京の郊外、立川で生まれて隣の東大和という街で育ちました。
沢辺 それから今日はもう一人、ポット出版の会長であり国際俳優の飯島洋一さんにゲストとして来てもらいました。
飯島さんのお生まれは?
飯島 生まれは東京世田谷で1949年、昭和でいくと24年。まだ日本が占領下だったので「本籍はアメリカだ」って言ってるんですけどね。
社長とは高校の先輩後輩の関係で、俺が6年先輩ですよ。
俺が大学に入って最初にやったアルバイトがたまたま「休みの国」の高橋照幸さんのバンドボーイのようなもんでね。「河口湖でレコーディング前の練習だ」っていうと運転手として駆り出されたりして。
その関係で谷野ひとしさんとか、早川義夫さんとかと知り合ったんだよ。
前田 それはジャックスですね。
飯島 そう。でも実は俺、全然音楽に興味がないんですよ。小林旭があれば、もう何の問題もないっていうぐらい。
でも、なぜか映画に出るとミュージシャンとの絡みが多いですね。ジュリーと共演とか、『戦場のメリークリスマス』(1983年)でデヴィッド・ボウイと共演とか。ちょい役で、一瞬同じ画面に入ったりだけどね。
これ以上言うと俺の独演会になるのでヤメとこう(笑)。
前田 当時「休みの国」の運転手をされていたということは、69年の3月に東京と大阪でやった「あんぐら音楽祭」のツアーでも運転手だったんですか?
飯島 そうそう。大阪では千日前の商人宿みたいなところで、同宿が高田渡さんだけだったですね。ジャックスの4人と俺と休みの国、高橋さん、高田渡。高田渡は酒ばかり飲んで誰とも仕事もしなかった(笑)。それが69年3月。俺がそのツアーで一番覚えているのは大阪厚生年金でスモークマシンが壊れちゃったときのことだね。俺はそのとき舞台の上手から
沢辺 たばこ吸った?
飯島 違う、違う。ドライアイスを誰かが買ってきて、今みたいに機械がないから、ラグビーで使うようなでっかいやかんにお湯をがんがん沸かしてぶっかけたのよ。それを一曲目の「ロール・オーヴァー・ゆらの助」か何かのときに、でっかいうちわでバサバサ扇いだのが一番印象に残ってるよ。
前田 69年3月だったら、つのだ☆ひろさんがドラムのころだから、ジャックスの末期ですよね。69年8月の第1回全日本フォークジャンボリーで解散したんですよね。
沢辺 飯島さんはその後「騒動社」という独立プロを設立して、僕とはそこで一緒になるわけですね。騒動社では『実録たまご運搬人 警視庁殴りこみ』(1975年)という映画を作ったけど、その時の音楽は「休みの国」の高橋照幸さんにお願いしたんですよ。
前田 なるほど。
沢辺 以降飯島さんは大島渚さんや若松孝二さんの映画に出演したり、自分で『戦争の犬たち』(1980年)という映画を作ったり。
飯島 そのきっかけは優秀な沢辺助監督だったんですよ。映画をつくる時、監督っていうのはいろいろと無理難題を吹っ掛けるものだから、「この場面に野坂昭如が欲しい」とか、「若松孝二が欲しい」とか言うわけです。でも、こっちも分別のある年だから、なかなか話を持って行きにくいわけですよ。そこを若干17歳の沢辺助監督がガリ版刷りの脚本を持って交渉に行ってくれたわけ。その時にいろいろ行った中で引き受けてくれて好意的にしてくれたのが若松孝二さんなんですよ。そこから俺はいろんな映画人と付き合いができて、その流れで大島渚にも行けたわけだから、俺は一生沢辺に頭が上がらないですよ。
沢辺 今日のメインゲストのサミーさん、もうちょっとだけ我慢してくださいね(笑)。
飯島さんが直接出会ったミュージシャンの中で一番売れてらっしゃるのは誰なんですか?
飯島 知名度でいえば、デヴィッド・ボウイじゃないですかね。
沢辺 デヴィッドさんとはどんな接触だったんですか。
飯島 大島渚の『戦場のメリークリスマス』という映画がありまして。
俺はいわゆる「その他大勢」なんだけど、たまたま留置所からデヴィッド・ボウイを連れ出す役だったんですね。丸眼鏡を掛けて、せりふはたった一言「立て」って言うだけ。
そうしたら、デヴィッドはしゃれた人でね。映画の現場では、今だったらデジタルカメラだけど、昔はポラロイドカメラをメイクの人がみんな持っていて、日を変えて撮影が続くようなときは、画面のつながりを確認するために役者の写真を撮るんですよ。
デヴィッドはそのときに俺と撮ったポラロイドを、ぽんとくれたわけ。現場ではカメラは持ち込み禁止だったから、もうみんな羨望のまなざしで俺を見るんだね。それをいまだに女の子を引っ掛ける道具に使ってるんだけど、女の子はみんなデヴィッドのほうに行っちゃって、誰も振り向いてくれなくて1回も成功しない(笑)。
それから、デヴィッドと俺の共演シーンは、ミュージシャンの出演が多いんですよ。俺がデヴィッドを連れて行く途中、悪い憲兵役で三上寛が待ってるんです。
デヴィッドのことをぶん殴ったりしてね。さらに先に連れて行くと死刑執行の場所があって、そこの司令官が何と内田裕也だという。
沢辺 『戦場のメリークリスマス』は結構いろんなミュージシャンが出てましたよね。当然坂本龍一さんは出てたし、ジョニー大倉さんも出てたし。
飯島 ジョニー大倉を縛ってるのも、後ろ姿だけど実は俺なんだよ。あとは三上博史も出ていたり。三上博史はまだ俺と同じ扱いで、その他の日本兵扱いですよ。
沢辺 その後飯島さんは制作費3,000万円、「史上最大の自主映画」と呼ばれる『戦争の犬たち』を作ったんですよね。泉谷しげるさんに曲を書いてもらったりして。
飯島 泉谷さんとは、日活の澤田幸弘監督を通じて知り合ったのかな。当時石井聰互の『高校大パニック』(1978年)という映画が日活でリメイクされるところで、俺はその手伝いに行ってたんですよ。その出演者の中に泉谷さんがいて、話をしてたら彼が映画を撮ると聞いたもんでね。『拳銃殺陣師』(1979年)という映画で、お手伝いして出演もして。
そんなことがあったので、『戦争の犬たち』の音楽もお願いしたんですよ。それが彼のレコードでいうと1979年の「都会のランナー」の頃で、中のLPのジャケットは映画の中の場面で撮った写真を使っているし、ノベライズみたいな感じで漫画を書いてくれたりしてますね。
沢辺 それから、杉作J太郎監督の『任侠秘録 人間狩り』(2005年)では主演を。
飯島 この映画でも掟ポルシェ、ロマン優光、ライムスターの宇多丸らと共演していて、やっぱりミュージシャンと縁があるんですね。
沢辺 井筒和幸監督の『ヒーローショー』(2010年)はどうでしたか?
飯島 『ヒーローショー』は初めてお笑いの人との共演でね。
一番うれしいのはライムスターの宇多丸がラジオ番組で、俺のことを「完ぺきな演技」って言ってくれたことかな(笑)。(TBS RADIO ザ・シネマハスラー「ヒーローショー」 (ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル))Twitterでは花くまゆうさくとロマン優光に絶賛されて、他の誰からも褒められないけど、ミュージシャンには褒められたというね。

●GSは「ジャンル」ではなく「現象」である

沢辺 そういう国際的俳優飯島さんに、今日はサミーさんへのインタビューにツッコミとして加わってもらいます。
ここでようやくサミーさんに戻りまして、今、サミーさんが一番のめり込んでいるキノコホテルについてお聞きします。まずはサミーさんとキノコホテルの出会いを教えてください。
前田 出会いはまだ最近で、2008年の初頭です。知り合いに用事があってあるライブハウスに行った時、偶然彼女たちのライブを見たんです。そこのライブハウスは普通にカバーをやるようなバンドも出るようなハコだったんですけど、キノコホテルはほとんどオリジナル曲で、女性だけで演奏していて、そのオリジナル曲のレベルがものすごく高かったんです。「これは何なんだろう」と思って、会場で売っていた自主制作のCD-Rを買ってうちに帰って聴いて、ますます「これはすごいな」と思いました。
自分はインディーのレーベルをやっているので、そこでアルバムを出せないかと思って、さっそくコンタクトを取ったんですが、ちょうど僕が見たライブのあと、メンバーチェンジの話があって、「すぐレコーディングしましょう」とはならなくて。今のメンバーに落ち着くまでちょっと時間が掛かりました。
でも今のメンバーになった瞬間、バンドのオーラというか、雰囲気も格段に上がったような感じがしたので、「これは自分がちまちまやるよりも、きちんとメジャーのレコード会社と組んで世に出したほうが面白いことになるのかな」と考えて、今年の2月に徳間ジャパンからアルバムを出してデビューというかたちになりました。
デビュー前は本当にマニアックなお客さんばかりだったんですが、今年になって、ロックフェスからも声を掛けてもらったり、女子学生とか一般の若者も彼女たちに注目している状況ができて、自分としては「やっとここまでこれた……」という感じがしています。
もちろん、この先まだまだいかなきゃいけないんですけどね。
沢辺 サミーさんは、ボルテイジレコードというレーベルを経営しているんですよね? これはいわゆる「インディーズ」というやつですか。
前田 そうですね。
沢辺 でも、ボルテイジレコードではなくて、メジャーの徳間ジャパンのほうがいいだろう、と?
前田 そうです。インディーズとメジャーカンパニーではプロモーション力が全く違います。書籍でいえば、いわゆる自費出版とメジャーの出版社では流通が違うじゃないですか。
沢辺 そうですね。
言葉で言うのは難しいかもしれないけれど、音楽的にはどういう印象だったんですか?
前田 キノコホテルは衣装や髪型を見て「女の子のGS」だと言う人が多いんですけど、じゃあそもそもGSって何だったのか、という話なんですよ。GSというのは音楽性じゃなくて、1967-9年ぐらいで流行した若者の風俗がGSですよね。
例えば、アメリカにはビートルズやストーンズに触発され男の子たちのバンドが何千、何万といて、それを「ガレージパンク」と呼んだり、イギリスだったら「フリークビート」と呼んだりしていたんです。そのような現象を日本ではGSと呼んでいたんです。だから、GSは現象であって、音楽性を指すものではないんですよ。だからGSと呼ばれても「ザ・ハプニングス・フォー」のようにギターのいないオルガンを中心としたラテン系の
グループもあれば、「ザ・ゴールデン・カップス」のようにギターもベースもハードでサイケなバンドもいたりするわけです。もちろん日本っぽいムードコーラスの様なGSもいましたよね。
だからキノコホテルが「GSっぽいよね」と言われるのは、ギターにファズがかかっていたり、ボーカルがイマドキでない個性をもっているけれど、多分この衣装にだまされている(笑)。
逆にGSを知らない世代の子や海外の人には、衣装がものすごく新しかったり、神々しく見えるらしいですよ。
よくジャンルを聞かれるんですけど、音楽の構造を考えるとロックンロ−ルが基本だし、いわゆるイマドキのJ-POP的ではなくて、基本的にメンバー4人だけのサウンドでやっているバンドです。
ドラム、ベース、ギター、オルガン、歌の最少人数の編成による日本語のロックといえると思います。
でも、パッと見で良くも悪くもだまされてしまうというか、レコード会社が考えた企画モノで「ああ、女の子たちがコンセプトでやっているんだ」と思われてしまうことがあるかもしれません。
ポップに取っ付き易くもなっている一方「こういうのはちょっと」と思う人もいるのは仕方ないことです。
もちろん本質というかちゃんと音楽性をわかっていただけるお客さんもたくさんいますけど。
飯島 俺も本当のこというと、最初は「チラシのデザインはいいんだけど、この格好はちょっとつらいかな」と思ったんですよ。
前田 もしかしたら「誰かにやらされているのかな」と思うということですね。
飯島 そう、そう。
前田 でも、僕が最初に見たときから、このスタイルは完成されていたんですよ。他の誰かが「こういう衣装を着たらいいんじゃないか」と言ったんじゃないし、「こういう髪型にしたらいいんじゃないか」と言ったわけでもない。当初からセルフプロデュース能力が強かったですよ。
飯島 俺、譜面も読めないし音痴だし、音楽はずっと駄目だったけど、まがいなりにもプロのミュージシャンと生で接してきたから、音楽の上手い下手はわかるんだよ。で、俺に褒められたってあれだろうけど、去年の5月に初めて見たとき、本当にうまいと思ったの。こう言っちゃ何だけど、衣装だけ見たら色物っぽいじゃない。でも、音楽だけは音が悪かったら、どんなにツラがよくてものめり込めないじゃない。
沢辺 彼女たちは何歳ぐらいなんですか?
前田 僕も年齢は知らないんですよね。本当に。
飯島 あと、メンバーの名前にはだまされたよ。小湊とか鴨川ってヤツ(エマニュエル小湊/イザベル=ケメ鴨川)がいるから、小湊の鯛せんべい、と鴨川の何とかまんじゅうを買っていったけど、全然ウケなかった(笑)。
俺はてっきり出身地なり何か意味があるのかと思ったら、ないんですね。
前田 ないんでしょうね。
そういうコンセプチュアルなところも、支配人(リーダー)のマリアンヌ東雲という人が全部考えています。そのへんのブレのない感じ、謎めいているし、非常に面白いですよね。作詞作曲もすべて彼女だし。
飯島 本当、謎めいてます。俺なんか口をきいたこと1回しかないんだもん。
沢辺 じゃあ、自分たちで結構完成されていたんですね。それは音楽界では当たり前のことなんですか? それとも珍しいことなんですか?
前田 例えば結成して間もない頃のバンド、お客さんがいるのかわからないような時期、4バンド、5バンドで対バンするような小さいライブハウスでやっている中で、世界が完成されている人たちはそんなにいないですよ。
沢辺 キノコホテルはオリジナル曲もそれなりに持っていた?
前田 そうですね。
飯島 俺もそれは感動しましたよ。唱歌とか大好きだから、それだけで盛り上がっちゃう感じ。「この人が出てきたら、絶対これで締めてくれる」という曲があるのは、すごく大きいですよ。
沢辺 唱歌って何なの?
前田 『キノコホテル唱歌』というタイトルの曲があるんです。ファーストアルバムの最後に入っています。
飯島 社長、俺からCD買っておいて、ろくに聞いてないでしょう。
沢辺 俺、曲を聴くときに曲名を見ることがないんですよ。だから、ほとんど曲名って知らないんだよ。最近でこそパソコンで聴くから、iTunesには出てくるんだけど、CDプレイヤーでかけちゃったらさ。
飯島 俺は音楽とジャケットが一体だから、音楽配信なんて考えられない世界ですよ。ジャケットがあって、誰がつくって、というのが俺の中では音楽だから。
前田 やっぱりパッケージがないと、「音楽を購入する」という感じはしないですよね。ちゃんとジャケットがついてないとおもしろさは半減でしょう。
配信で音だけ買うのが当たり前になりましたが「ダウンロードって何が楽しい?」って思います。
飯島 不思議。だから、よくiTunesに何万曲入れるとか聞くけど、一生掛かっても聴けないんじゃないかと思うよね。守旧派ですから、俺は。
前田 いまは自宅にコンピュータがあれば、ある程度は音楽がつくれるじゃないですか。だからライブで、実際に楽器を持って4人なり、5人なりで音を出して目の前でやるという、
その生々しさが非常に重要だと思うんですよね。
逆にCDを制作する時は、その生々しさを出せるかが重要なんです。CDをつくるときは、ライブと全然違って仰々しすぎるものにはしたくなくて、聴いたときに「ああ、ライブに行きたいな」と思わせるものにしたいですね。

●メジャーとインディーズの違い

沢辺 ここでちょっとキノコホテルから離れて、サミーさんと音楽との関わりを聞かせてください。まず、現状からいきましょう。
前田 以前ほどじゃないですけど、DJは相変わらずやっています。あとはライターですね。
音楽ライターといってもいわゆるJ-POPのものは書けなくて、昔の日本のロックについての原稿やライナーノーツ執筆の依頼をよくいただきます。60年代、70年代の日本のロックが多いです。
あとは、いくつかのアーティストの活動、自分が実際に制作したり、協力したりしています。
沢辺 それがボルテイジレコード。
前田 まあそうです。
沢辺 バンドのプロデュースはキノコホテルが初めてですか?
前田 いや、たくさん仕事をしてきましたよ。
会社員だった時代は別として、21世紀以降はフリーランスや契約プロデューサーのような仕事をしてきました。
そうすると自分が発掘してきたアーティストではなくて、メーカーさんから「このアーティストのアルバムを1枚つくってくれませんか」というお仕事もいただくことがあるわけです。
そういった中には、それなりにいいものをつくったつもりでも、解散したり、全く売れなくてどこかに行っちゃったりという人たちもいました。
会社員の時代はサラリーマンとして、いろんなアーティストとかかわりましたが、がっつり組んでやれたのが「フラワーカンパニーズ」というバンドです。フラワーカンパニーズは今も人気のあるグループです。
沢辺 レコード会社は、何で辞めたんですか?
前田 やっぱり大きな会社だと、全員が音楽が好きだからレコード会社にいるわけじゃないじゃないですか。
沢辺 そうなんですか?
飯島 そら、どこの会社だってそうだよ。
沢辺 外から見ていたら、みんな音楽好きなのかな、と思うけど。
前田 悪口を言うつもりはないですけど、いろんな問題が出てくるわけですよ。
自分はアーティストの本質を理解して、例えば「こういう段階でこうしていけば、最終的にはある程度売れるんじゃないか」とプランを考えても、それを全く理解できない上司がいて喧嘩したりとか(笑)。
沢辺 そういう不満があったから、自分でやりたい音楽をがっつりやりたくて独立したんですか?
前田 会社を辞めてからボルテイジを立ち上げるまではフリーでやっていて、大メジャーじゃないけど、ちょっとマニアックな某レコード会社で何枚かつくっていた時期がありました。
でも、自分が企画して、ジャケットから中身まで一から十までつくったものを、会社の担当者のオッサンが、そいつが全部やった仕事みたいなことになっていたりとか。
そういうのが続いて、ちょっとつらくなってきて。
自分がつくったものは責任を持って自分のレーベルから出したほうが早いだろうと思って立ち上げました。
ボルテイジレコードの第1弾は「ザ・サイクロンズ」という京都のバンドで、知っている人は少ないと思うんですけど、飯島さんつながりでいくと、映画『パッチギ!』のオープニングでオックスが演奏しているシーンにオックス役で出ている人たちがサイクロンズです。
沢辺 あれがそうなんだ。
前田 だから、サイクロンズのファーストアルバムを出すときには井筒監督から「サザンをぶっ飛ばせ」という的外れなキャッチコピーをいただきました。あれは面白かったですね。
沢辺 それがボルテイジレコードの第1弾?
前田 そうです。
飯島 じゃあ、『パッチギ!』は大ヒットしたんだから、スクリーンやDVDで多くの人がサイクロンズの演奏を目に耳にしてるわけだよね。
前田 ボルテイジレコードで出したCDの曲は全部オリジナルで、映画ではオックスの曲を演奏しているから、サイクロンズの曲が聴かれたわけではないですけどね。
沢辺 ここでボルテイジレコードの話をもうちょっと聞かせてください。うちも小さいですが、一応ポット出版という出版社をやっています。
出版の世界は音楽のレコードほどメジャーとインディーズが強烈に分かれているわけじゃなくて、グラデーションのように、いろんな出版社が並んでいます。小学館、講談社とポット出版が同列で並ぶと笑っちゃうかもしれないけど、ポット出版ぐらいの規模の出版社はいっぱいあって、大手出版社と同じ流通ルートを使っているわけです。
音楽業界の場合、CDをプレスするだけなら、それほど難しいことじゃないと思うんです。問題は売ることですよね。
本もそうなんですよ。今、組版も製本も安くなっているから、誰でも小銭を出せば本はつくれるんです。問題はどうやって流通させて、どうやって買ってもらうか。CDは、どうやって売るんですか?
前田 本と似ていると思うんですけど、いわゆる流通をしてくれるディストリビューター、配給会社と契約を結ぶんです。
我々は配給会社にCDを卸して全国に流通してもらいます。
今はレコード店も減ってきていますから、CDを置くスペースも限られています。
その状況でメジャーのレコード会社からもインディーズからも月に何百枚とCDが出ると、お店の側も全部並べるわけにはいかないですよね。そうすると、必然的にメジャーなレコード会社から出たものを中心に取り扱われ、インディーズはある程度、有名な、話題性のあるもの以外は取らないというのが、普通のレコード店の考え方なのかもしれません。
沢辺 本の世界では、小学館も講談社もポット出版もみんな「取次」という問屋さんを通して流通させています。取次がマージン8%ぐらいをとって全国の本屋さんに送ってくれて、お金も集金してくれます。配給会社というのは、取次と同じようなものですか?
前田 そういうことです。インディーズのCDの場合は取次をする会社がいくつもあります。
本の流通と違うのは、メジャーなレコード会社はグループの中にディストリビューションする機能を持っているのがほとんどだというところです。
沢辺 出版でいうと小学館、講談社クラスになれば、全国の本屋さんと直接取引をするようになるといった意味ですか?
前田 そうですね。ソニーグループだったらソニーの中にソフトを配給する会社があるんです。
例えば昔、YMOのレコードはアルファレコードが出していましたが、よく見ると、「発売アルファレコード、販売ビクター」と書いてあったりするんです。つまりアルファレコードはYMOのレコードを出すけれど、配給はビクターに委託していた。
契約年数ごとに配給を変えていく会社もありますね。
沢辺 ボルテイジレコードの場合はどうなんですか?
前田 僕がつくったものは基本的に配給の会社を通しています。
沢辺 枝葉の話になって恐縮なんだけど、その場合返品はどうなるんですか?
前田 もちろんあります。
沢辺 出版業界は、よく「返品が山ほどあって、こんな不効率な商売をやっている業界はない」という言われ方をされるんだけど。
前田 例えば、「次のシングルはゴールデンタイムのドラマの主題歌なので、絶対売れますよ」とものすごくプロモーションをして、テレビスポットもがんがん出すとします。各レコード店はそれにものすごい数字を付けて結果的に10万枚出荷しましたと。だけど、気が付いたら売れなくて何ヶ月かたって合計で7万枚返ってきた、という話は、昔はよくありましたが、最近はそれほど聞かないですけど。
インディーズの場合は、どう頑張っても、そんなにたくさんは取ってくれないから、返品も少ないんです。
沢辺 CDは返品がなくて買い取りだと聞いた気がするけど、返品もあるんですね。
前田 インディーズは昔は買い取りでした。でも、それだとレコード店が損をするので、今は買取でやっているところはほとんどないんじゃないかな。
20年くらい前、X(JAPAN)のインディー盤が品切れを起こして大変だとか、そういう時代があって、その頃はインディーズを買い取ることもあったんです。
でも、誰も彼もがCDを出せるようになって、よくわからないものを買い取るわけにもいかなくなったんじゃないですか。
レコード店に行くと、CDが平積みにして展開してあったりしますよね。あれもお金が掛かる場合があります。
沢辺 レコード屋さんにお金を払ってるの?
前田 そうです。レコード店にお金を払って「このスペース確保」と場所を買う事もあります。
もちろんレコード店のほうも選ぶ権利があるので、金さえ払えば何でもやるというわけじゃないですが。すべてが有料ではないだろうし、金額もまちまちだったりするともいわれていますけど。
沢辺 出版の世界でも、ワゴンに看板を掛けて「大好評」とか書いて、同じ本を何十冊も並べることがあるけれど、あれにお金が動いているという話は、あまり聞かないな〜。
逆に自費出版のほうはあるんですよ。本屋さんに並べてもらわないと著者に格好がつかないじゃないですか。書き手から1冊あたり200万円とか300万円とかもらったお金の中から、本屋さんの棚何センチを月額いくらで買って書店に並べる。お金を出した著者へのサービスが、自費出版の場合はあります。
でもそうじゃない場合は、基本的に店頭でのプロモーションは、書店が無料でやってくれたり、出版社から「こういう販促物を準備するからやってくれない?」って打診したりですね。
基本的にはお金が動いていないと思う。
前田 そういう意味では、書店のほうが優しい気がしますね。
沢辺 ちなみに、もしよければでいいんですけど、ボルテイジレコードのCDは何枚ぐらい刷ることが多いですか?
前田 CDは基本的に1,000枚つくらないと、ロットが高いんですよ。
沢辺 印刷物と同じですね。
前田 そうです。500枚つくるのと1,000枚つくるのとでは、ほとんどコストは変わりません。だから、基本的には最低でも1,000枚はつくります。
沢辺 そうすると、1枚2,000円として、レコード店で全部売れたと仮定すると200万円ですよね。そのうちの何割かがレコード店の取り分になって、配給会社も取り分があるんですか?
本の世界だと出版社の取り分は67%で、音楽業界でも大きな違いはないと考えると、全部のCDが売れて、せいぜい100万、百何十万の世界じゃないですか。それはかなりしんどいですよね。
前田 しんどいです。そこから著作権印税を払ったり、いろんな経費を直接アーティストに払ったりします。配給会社によっては厳しい率で卸さなきゃいけない場合もあるので、どれだけ製作費を抑えるかが大きいですよね。
沢辺 でも、それこそ今は、コンピューターの発達によって製作費が掛からないやり方ができるわけじゃないですか。それでも制作費は掛かりますか?
前田 10年くらい前なら、2けた(万円)でつくれたら、製作費は安かったと言えたんです。今は極端な話、バンドによってはレコーディングスタジオじゃなくて1時間2,000円くらいの練習スタジオに、レコーダーを持ち込んで録るわけですよ。
そういうデモテープ的なものをCDにする人も多いです。もっとコストを抑えるんだったら、CDをプレスしないでCD-Rで出すこともできる。練習スタジオで録ってCD-Rにして自分で作ったジャケットをカラーコピーして売ってるところも、インディーズレーベルではあります。
沢辺 サミーさんが、そこまでやらないのはどういった理由があるんですか?
前田 それは昔、アマチュアの人がカセットでデモテープを売っていたのと同じだと思うからです。だったら別にこちらのレーベルでやらなくても、そのバンドがCD-Rをライブ会場で売ればいいんじゃないかな、という気がします。
やっぱりレーベルを名乗るならCDをプレスしないと、と思います。
昔、ミニコミってあったじゃないですか。カラーコピーじゃない、普通のコピーをホッチキスで綴じていたような時代。さすがにあれを流通させるわけにはいかないでしょう、という話と同じかな。
沢辺 俺も嫌なんですよ。本である以上、一定の格好がついてないと売れないよな、という感じがあります。
そんなボルテイジレコードはどうですか。儲かっていますか?
前田 いや、全く儲かってないんですけど、古いカタログをちょこちょこ出荷しているので。
沢辺 ごめん、カタログってなんですか?
前田 要するに、昔出したものです。例えば5年前に出して、いまだに年間200枚売れているCDもあるわけですよ。
沢辺 すごいね。
前田 ええ。そういう作品があるのは、ありがたいですよね。

●誰も知らないけど、聴いたらかっこいい曲を

沢辺 DJ活動はいつからやっていたんですか?
前田 DJといっても、ただ曲をかけているだけなんですけど、90年代中ごろぐらいからやっています。「幻の名盤解放同盟」はご存知ですか?
沢辺 根本敬さんの。
前田 そうです。根本さんたちが昔の濃厚な歌謡曲をCDにしたりイベントをやっていたりしていたのですが、僕も一緒にイベントを仕込んだり、活動していることが多かったんです。ノイズバンドを湯浅学さんとやったり。
その時にDJのまね事で、変な曲をかけていました。
さっき話に出たフラワーカンパニーズのベースでリーダーのマエカワ君という人とDJチームを組んで、2人で定期的にDJイベントをやっていた時期もあります。
その後、90年代後半ぐらいに、結成したてのころのクレイジーケンバンドと知り合いました。今CDになっているクレイジーケンバンドの「青山246の夜」というライブCDがあるんですが、その収録日、僕はDJをやらせてもらったんですよ。他にも地方でクレイジーケンバンドのイベントがあると、DJとして一緒に連れていってもらったことも何度かありました。なぜか渚ようこさんのコマ劇場ライブでDJをやらせてもらったり。コマ劇場でDJっていうのも変な話ですけどね。一応新宿っぽい選曲で。
沢辺 飯島さんにとってDJってどういう印象ですか?
飯島 DJっていうと、ラジオのディスクジョッキーだよ。
前田 そうですよね。今の若い人たちのDJの感覚は、ヒップホップが出てきてからですよ。要するにレコードをスクラッチするDJでしょう。でも、そのうちにロックDJ、ソウル系のレアグループDJとかも注目されて、レコードをかけてお客を踊らせるDJですよね。
70年代にディスコに行くと「次は何とかかんとか〜」って言いながら曲かけてたじゃないですか。
それと一緒で、自分は「お皿をかけるDJ」という感じじゃないですかね。
沢辺 じゃあ、サミーさんのDJのスタイルは特に何かおしゃべりしたりとかは。
前田 いや、そんなのないです。主に60年代、70年代の日本の音楽をずっとかけてます。
飯島 何かの時、ずっと浅川マキをかけてたよね。
前田 それは浅川マキが死んだ直後だったからですね。
沢辺 1年ぐらい前、渋谷のクアトロに面影ラッキーホールというバンドのライブに行ったんですよ。俺、いま日本のバンドで珍しく好きなんですよ。面影ラッキーホールが。
前田 面影ラッキーホールのメンバーも、キノコホテルが大好きだって言ってましたけどね。
沢辺 それはすごい!
そのライブの時にDJがいて、その時のDJがかけていたのは、やっぱり古い歌謡曲とかでしたよ。
飯島 昔は考えられないでしょう。歌謡ショーで小林旭が歌うのに、その合間にほかの曲を流すようなものだから。小林旭の宣伝のために彼の歌を売ることはあってもさ。
渚ようこさんのライブのときだって、歌を歌うの人のライブなのに、その合間、合間にDJが違う人の曲をかけてたんだから不思議だよ。トークのイベントとかパーティーを盛り上げるためにDJをやってくれるのはわかるんだけど、音楽イベントなんだから。
前田 僕も自分で呼ばれてやるくせに、こんなことを言うのは変なんですけど。
例えば、バンドが3つ出るイベントに「DJをやってください」と呼ばれるわけですよ。そうしたら、6時半にお店が開いて、お客さんがぽつぽつ入ってくるじゃないですか。そこからDJをやるわけですよね。最初のうち、お客さんが1人、2人でもやってなきゃいけないんです。
7時になって最初のバンドが出てきて、バンドが終わって10分、15分の休憩になったら、またDJをやる。15分で5曲もかけられないんですけど、とにかくDJとして曲を流す。でもそれならば、BGMに最適なCDをかけたりしておけばいいじゃん(笑)。
バンドのセッティングの合間にために、わざわざDJ呼ばなくてもいいんじゃないですか。
でも、それが今の若い人たちのイベントの普通のスタイルみたいですよ。
飯島 小林旭の東京フォーラムの大ホールでオーケストラつきのコンサートはすごかったですよ。コンサートのしょっぱな、彼の名場面みたいな映像を流すんですよ。でもそこには「ギターを持った渡り鳥」とか、彼が歌っているところは一切流さないの。そうするとお客さん1万人ぐらいが飢餓状態になって、まだかまだか、という感じになってくるわけですよ。そこに小林旭がドーン!と出てきて2時間歌いっぱなし。もうすごかったですよ。
沢辺 サミーさんがDJを頼まれるということは、頼む人はきっと「サミーさんに頼むとこんな感じだよね」というイメージをしてるんですよね。
他の出演者によっても当然違ってくるんだろうけど、サミーさんが声を掛けられるときに求められていると感じる曲とか、アーティストは、どういうところなんですか?
前田 基本的には60年代、70年代の日本の音楽なんですけど、例えば、テレビやラジオでやる「懐かしのヒットパレード」みたいなのところでは絶対に流れない、あまり有名じゃない曲で、リズムがグルーヴしているとか、ものすごく変なギターが入っているとか、歌が狂っているとか、ちょっと「?」みたいな曲をかけると、「これ何ですか」とジャケットを見にくるマニアックな人がいたりするので、そういうところが求められているのかな、と思います。
沢辺 固有名詞でいうと、どういうところですか?
前田 ものすごく幅広いんですよ。
沢辺 端っこと真ん中と反対の端っこくらいでも……。
前田 例えば、誰も名前を知らないですけど、ジョニー誠の『ボウリングで行こう』という曲があるんですよ。
これはタモリ倶楽部に出していただいた時に紹介してもらったんですけど、ジョニー誠という人が60年代のボウリングブームの時に自主制作でつくったレコードで。リズムがものすごく格好いいんですけど、歌は調子っ外れで、それを今聞くと面白いんですね。ボウリングのボールが転がってピンが飛ぶ音が全部SEで入っていたり、あまりにも曲が変なんです。でも、リズムは踊れるぐらい格好いい。
ほかには……内田裕也さんの「マンジョキ・ロックンロール」という曲がありまして、これは昔日本テレビで放送していた「まんがジョッキー」という番組の主題歌で、いわゆるチャック・べリー・スタイルのロックンロールを内田裕也が歌っているんです。それをちょっとバージョンアップしたのが、安岡力也が80年代に歌った「ホタテのロックンロール」なんですけど、「マンジョキ・ロックンロール」のほうが格好いいので、そっちをよくDJでかけてます。本当に、口で説明してもわからない世界なんですけど。
沢辺 でも、説明しても誰もわからないような世界を、サミーさんは持っていたわけだよね。
前田 そうですね。さっきの「幻の名盤解放同盟」は僕にしたら先生みたいな立場なんですけど、そういう方々たちも含めて、似たような趣味の仲間が世の中に何人かいるわけですね。
沢辺 じゃあ、古くて今の若い人は知らないんだけど、当時の人はよく知っている、というのはあまりかけないんですか。
前田 それはないですね。例えば、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」とかすごく格好いいじゃないですか。リズムが跳ねていて、アレンジもさすが筒美京平先生。
最高のソウルナンバーですけど、有名過ぎて「別に家に帰っても聴けるじゃん」と。
尾崎紀世彦をかけるんだったらアルバムに入っている「おす犬」ですよね。
だから、ちょっとマニアックな、「誰も知らないけど聴いたら格好いい」みたいな曲をかけるのがDJとしての役割なのかな、と思っています。
ひねくれて「有名な曲はかけないぞ」というのではないんですけど。
飯島 おっしゃるとおり、家で当たり前に聴けるようなものを聴いたってしょうがないもんね。
前田 だから、ヒットしなかった曲を集めたコンピレーションを各レコード会社さんとつくったりしているんですよ。それはたいした数は売れないんですけど。
でも、たまに若い人に話しかけられて、「サミーさんのつくったコンピを聴いてこの世界に目覚めました」なんて言われたりするとうれしいですよね。
沢辺 物書きとしての話も聞かせてもらってもいいですか?
前田 昔の日本のロック専門ですね。
沢辺 誰も書けないもんね。
前田 GSに関しては黒沢進さんという、GS研究の第一人者の方がいたのですが、3年前にお亡くなりになってしまいました。
書ける人は、どんどん少なくなってますよね。
沢辺 さらにジョニー誠レベルのものになってくると、書ける人はもっと少ないわけですよね。
前田 そうです。ジョニー誠の解説になると、僕もよくわからないんですけどね(笑)。
でも、そのくらいになると、レコードを持っている人が日本に何人いるか、つまり世界に何人いるか、という話ですよ。

●小学生の頃に聴いた米軍放送

沢辺 月並みの質問で恐縮ですけど、そもそもサミーさんが音楽に出会ったきっかけはどういうものですか?
前田 父親も母親も米軍基地の中で働いていたんです。
そうすると、父親が米軍のレコードプレイヤーを持ってきたりするんですね。
分厚いスーツケースみたいなでっかいプレイヤーで、パカッと開けると真ん中に棒があってレコードを何枚も重ねられて、裏面にはならないですけど、自動的に落ちてくるやつです。
沢辺 トランクはカーキ色をしているの?
前田 そうそう。すごく分厚くてかなりでかいんです。
沢辺 ということは、『グッドモーニング,ベトナム』(1987年)に出てくるような、ベトナムの基地で、米兵の娯楽のために米軍がつくったようなやつかな。
前田 そうかもしれないですよね。開くとスピーカーも付いているから、そのプレイヤーだけで鳴るわけですね。日本だと当時はてんとう虫の形の小さいプレイヤーがあったんですけど、それとは大きさが全然違って音もそこそこ良かった記憶があります。
そういうプレイヤーが家にあることは特別なことだと思っていなかったんですが、小学校1年の時にお楽しみ会みたいなやつで、父親がうちからそのプレイヤーを運んで、先生が持ってきた童謡のレコードを聴く会があったんです。
そうすると、クラスのみんなは何枚も重ねたレコードが自動的に落ちてきて、針も自動的に動くプレイヤーを見るのは初めてだから、全員いちいち驚くんですよ。針が動いただけで「わー!」って。
それで初めて「これは特別なものなんだ」と思って、すごく嬉しかったですね。
家ではそれでレコードをよく聴いていていました。
家にあったのレコ−ドは子供物以外にはハワイアンとかクラシックだったような記憶があります。
そのうちにラジオが好きになりました。これもやっぱり父親が米軍仕様のトランジスタラジオをもらってきて、家に2つくらいあったんです。ずっとそのラジオを聴いていました。
僕は、今もそうなんですけど、夜型なんです。親せきのおばさんからは、いまだに「あんたは子供の時から、親が寝ていてもずっと1人でラジオを聴いたり漫画を読んだりしてた」と言われるくらいでした。
そうやって聴いていたラジオから、無意識にいろんな音楽を聴いていたんだと思います。深夜放送は大好きで、糸居五郎さんのオールナイトニッポンとかも記憶にあります。
車に乗る時は父親が必ずFEN(Far East Network/極東放送。現在の米軍放送)をかけていたので、洋楽も聴いていたと思います。
沢辺 小学生のころから洋楽を聴いていたんですか?
前田 ええ。意識的に聴くようになったのは小学校4年ぐらいからで、ヒットチャートの洋楽を聴いていましたね。
歌謡曲も好きでしたけど、テレビを見たりラジオを聴いたりするだけで、レコードを買ったりはしなかったです。
大人になってから面白いと思ったのは、当時テレビの歌謡番組って生演奏でやってたんですけど、あとから実際にレコードを聴くと、「あれ、こんなに遅かったんだ」と思ったり、アレンジやテンポがけっこう違うんです。
沢辺 そんなこと全然気付かなかったけどな。
前田 小学校の高学年になってくると、ポール・マッカートニーとかヒット曲のシングル盤をけっこう買うようになって。
沢辺 そのころは洋楽?
前田 洋楽です。でも、井上陽水のフォーライフ第一弾「青空、ひとりきり」というシングルも買った記憶があります。
中1になってからは、大人びようとしていたのか、「俺はもっと洋楽を聴くんだ」と決意して、なぜかビートルズにはまっちゃったんですよ。
沢辺 サミーさんは64年生まれだから、75〜76年の話ですよね。そうすると、ビートルズは解散してましたよね。
前田 76年に中学1年生ですね。ビートルズが解散してベイ・シティ・ローラーズ、KISS、エアロスミス、チープトリックなんかが流行ってました。
もちろんリアルタイムでヒットしたものはラジオでエアチェックしたりしてましたけど、ビートルズは特別で頑張ってLPで集めてました。さらにそこからストーンズにも行って。
レコードは高いですから、学年に洋楽が好きなやつがいたら、クラスが違って面識がなくても友達になってレコードの貸し借りをしていましたね。
沢辺 自分で楽器を買ってバンドをやったりしたんですか?
前田 楽器は買ってもらえませんでしたね。当時は子供が多くて、自分の中学校は40人以上で8クラスありましたけど、その学年で楽器を持っているやつを全員集めても、多分、2バンドできるか、くらいだったと思います。
それでも中3くらいになると楽器をやるやつも増えてくるんですけど、ドラムセットを持っている人はすごく少なくて。
沢辺 ドラムは絶望的かもしれないね。
前田 でも、中2の時にドラムを持ってる友達がいて、ギターも2、3人いて、ベースを買ったやつもいて、仲良かった連中がバンドをやることになりました。僕は彼等とレコードを貸したりしてるような仲間で。
そのメンバーはエアロスミスとか、ディープ・パープルとか、ハードロックっぽい志向でしたね。僕はストーンズとかビートルズもやってほしいなと思ってましたけど、みんなは興味がないんですね。
沢辺 ちょっと古いもんね。
前田 渋すぎたんですね。そのバンドでは、最初はディープ・パープルから始めたんですけど。楽器を持ってないのが俺だけだったので、結局ボーカルをやらされて。近所の公民館借りて練習しましたけど、もう無茶苦茶ひどくて(笑)。
ただ、楽器を持ってるやつらも、ろくにチューニングもできてない。当時チューニングメーターがなくて音叉でやってましたけど、合っているのかどうかわからない。
そんなこんなで、音楽をやるのは本当に難しいと思いましたね。
そんな時に「パンクっていうのがあるらしいぞ。イギリスのセックス・ピストルズっていうのがすごいらしいぞ」という話が伝わってきたんです。
それでセックス・ピストルズのレコードを発売日に買ったやつがいたんで、すぐに借りて、そこからはどっぷりパンクに行っちゃいました。そして、パンクに被れた状態で中学を卒業しました。

●JAGATARAのライブに行ったら、山本政志の映画に出ることに

前田 パンクが好きになっても、相変わらずヒットチャートの洋楽も聴いたり見に行ったりしてましたが、高校に入った年、79年の夏、ビーチ・ボーイズの来日ライブを見に行ったんですよ。
江ノ島でサザンオールスターズと一緒にやったライブです。
そのとき近くの食堂に行ったら、すごく太っている外人がいたんですよ。短パン履いて、寝間着みたいな格好をして。よくわからないけど、周りにいた日本人がその人のサインをもらっているんですよ。だから「あれは多分ビーチ・ボーイズのメンバーに違いない」と思って、レポート用紙をさし出してサインをもらったら「ブライアン」って書いてたんですよ。それがブライアン・ウィルソンだったんです。来ただけでステージではほとんど何もやってなかったって言われてますけど(笑)。
そのサインは今でもビーチ・ボーイズのLPの中に挟んであります。
高校は中野区だったので、新宿とか、渋谷が近くなったんです。だからこのころから、授業が終わったあとにライブハウスに行き始めました。
当時、日本にも「東京ロッカーズ」と呼ばれるパンクやニューウェーブのバンドが出てきたころで、バンドでいうと、フリクションとか、リザードとか、ミラーズとか、そういったバンドを見に行っていまし。JAGATARAはその少し後ですね。
高校時代はライブハウスに行くために高校に行っているような感じでした。
沢辺 じゃあ、毎日行ってたんですか。
前田 ええ。お金がないので、外で聴くとか、勝手に裏から入るとか、いろんな手段で聴いてましたね。
当時都内でロック系のライブハウスは5、6件しかなかったんですよ。新宿ロフト、屋根裏、クロコダイルとか。
JAGATARAはライブのできる場所を積極的につくりだして、いろんなバンドに提供してくれたりもしてましたよね。新宿のモダンアート(ストリップ劇場)とか、2丁目のトラッシュというつぶれたディスコでライブとか。
代々木公園で無理やりゲリラライブをやったこともありました。いろいろあって、出入り禁止の場所が増えたということもあるかもし
れないですけど(笑)。自分たちでスタジオ作ったり。
いまJAGATARAについての文章を読むと、堅苦しい語り方をする人が多いじゃないですか。でもそれは、後からCDを聴いただけの印象では仕方がないかもしれないですけど、アングラの雰囲気がまだあった猥雑な新宿とかの、めちゃくちゃなバカな感じのJAGATARA。僕はあれを体験できてよかったと思いますね。
沢辺 随分早熟な体験だったんんじゃないですか?
前田 確かに、周りは大人ばかりでしたもんね。
当時いっぱいあった自販機本の編集者の人たちもいましたね。遠藤ミチロウさんも出ていたり、結構バンドマンは、バイトとして自販機本のモデルをやっていたんですよね。俺も高校1年の時、「エロ本に出ませんか」って声を掛けられたことがありましたよ。「高校生なんで、すみません」って断りましたけど(笑)。
高校の時の面白い話をすると、高校2年の時、フールズのライブを渋谷の屋根裏に見に行った時に、当時、JAGATARAのマネージャーをやっていた溝口というすごくうさんくさい人に、急に「君、映画出ない!?」って言われたんですよ。
一体何の話か全然わからなくて。とりあえず言われた日時に新宿のトップスに行ったんですけど、2時間くらい待っても誰も来ないんです。いいかげん帰ろうと思ったところに、レイバンのサングラスをかけた溝口とは違う人がいきなり現れたんです。それが山本政志という映画監督だったんです。
トップスに現れた山本政志には「こういう映画をつくろうと思っている」という脚本を見せられました。新宿2丁目にいる若い男娼の役だったんですけど、そんなにえぐくなくて、格好いい感じだ思ったので出ることにしたんです。「僕、演技とかしたことないですけど、いいんですか?」「全然いいから。その場で教えるから」というノリでした。
当時高校生なので当然学校に通っていたので、学校が終わってから撮影をしていたんですけど、そのまま朝の9時までかかって学校に行けなかったこともありました(笑)。
いま思えば、あれは作戦だったと思うんですけど、現場に行くと台本と全然違って、結構ひどいことになっちゃうわけです。
沢辺 脱がされました?
前田 もちろん。「ハイ、パンツ脱いでみようか〜!」って感じですよ。
沢辺 (笑)。パンツも脱いだ?
前田 ……脱ぎましたね。映ってないですけど。相当渋ったんですけど、助監督が土下座して「頼むからやってくれ」って言うんです。
俺も「いや、もう学校の映画マニアの友達がみんなに言い触らしちゃって、先生とかも知っているから、パンツは脱ぎません」って頑張ったり(笑)。
だから、その映画は完成した時にラッシュ上映でちょっと見ましたけど、それ以来ずっと、いまだにフルで見ていないです。
沢辺 もしもサミーさんのファンがいらしたら、山本政志のフィルモグラフィを見て、2丁目の美少年が出ているものを探してTSUTAYAに走ってください。
前田 いやいや(笑)。

●「シティロード」でメディア作りの面白さを実感

沢辺 高校を卒業したあと、音楽の仕事についたんですか?
前田 仕事というかわからないですけど、60年代にザ・ダイナマイツ、70年代は村八分、裸のラリーズで活動していた山口冨士夫さんという伝説のギタリストがいるんですが、その人が83年に音楽活動を再開したんですね。当時僕は取り巻きとしてフールズのメンバーにかわいがってもらっていたんですが、村八分でベースだった青木さんという方が、フールズでギターしていたんです。
その青木さんから、「冨士夫がまたバンドをやるから、お前ちょっと手伝ってくれ」と言われまして。要するにアンプを運んだりチラシをつくって撒いたりする若い奴を探していたんですね。
そういう経緯で山口冨士夫さんのローディーのようなことを83年から87〜88年ぐらいまでやっていました。それが仕事といえば仕事でしたね。その流れで、「シティロード」という情報誌の編集の市川さんという方に、バイトを募集していると声をかけていただいたのが、84年か85年頃だったと思います。
「シティロード」はもともと「コンサート・ガイド」といって映画や演劇、学園祭なんかの情報を載せていた月刊誌です、創刊は「ぴあ」よりも早かったんですよ。
「シティロード」は「ぴあ」と比べて、マニアックな雑誌だったので、山口冨士夫とかJAGATARAとかフールズを応援していたんですね。
そこにバイトで入って、雑誌の編集を生まれて初めて経験しました。それまで買って読んでいた雑誌だから楽しくて。
「シティロード」ではライブハウス担当で、当時ファックスもほとんどなかったので電話をして「何月何日には何のライブがあり」って聞き書きをしたり、ライブハウスによっては月間スケジュールを手紙でくれるので、それを原稿用紙に写し写植屋に出して、返ってきたのを校正して、という仕事をやっていましたね。
そこで編集のやり方を覚えました。
今だから言えますけど、あの時人気投票の企画があって、「1位、2,500票」とか書いてあるんですが、そんなの全部ウソで0を2つぐらい多くしてましたね(笑)。「1位、2位はこれぐらいにしておいて」なんて言われれて。
それ以外にも、自分の友達のバンドはなんとなく上位に入れたり、インチキもしてました。
そういうこともあって、媒体を持つのは楽しいなと思いましたね。
他にも、いろんなレコード会社、映画会社の人が資料を持って「よろしくお願いします」って来るじゃないですか。
僕らの時代、LPが2,800円くらいで、いまの感覚でいえば1万円ぐらいのものだったから、音楽を聴くといったらラジオでエアチェックするか友達から借りるかでしたよね。でも編集部に行けば、サンプルでいくらでも音楽を聴けるわけですよ。それが楽しかったですね。いま思えば迷惑な話ですけど。
飯島 タコシェの中山亜弓ちゃんも「シティロード」で演劇コーナーをやってたんじゃなかったかな。
沢辺 電子書籍と出版』にも座談会を収録させてもらった仲俣暁生さんも「シティロード」ですよね。
前田 仲俣さんは、僕がいた最後の頃の音楽担当だったかもしれないですね。
沢辺 松沢呉一さんも書いてたかな。
前田 そうですね。フリーで参加している人も入れたらすごい豪華メンバーでしたよ。「シティロード」には88年までいました。

●URC音源のCD復刻にたずさわる

前田 87年頃ですかね、中学の頃一緒にバンドやったりしてた僕の幼なじみがザ・ファントムギフトというバンドでデビューしたんですよ。
そのファントムギフトのマネジメントをしていたSFC音楽出版の高護さんが白夜書房と組んで音楽雑誌をつくるというので、いわゆる引き抜きで移りました。
沢辺 何というタイトルの雑誌でした?
前田 「オンステージ」という雑誌で、白夜書房の末井昭さんが「音楽雑誌つくったらいいと思うんだよね。ロックの雑誌つくろうよ」と言って発行人になって始めたんですけど、末井さんはそのすぐ後にパチンコがひらめいちゃって、パチンコにどっぷり行っちゃった(笑)。
最初は末井さん自身でラフィンノーズのインタビューをしたりもしていたんですけどね。
「オンステージ」をはじめとする編集プロダクションと、インディーレーベル、アーティストマネジメントといろんな部門があったんですが、人数的にも僕は全部の仕事にかかわらなくちゃいけませんでした。
例えば、東芝EMIのプロモーターが「オンステージ」にバンドの新譜の資料を持ってくるわけです。それを「なるほど」とか言って受け取った1時間後には、自分の会社がつくったインディーズ盤の資料を持ってソニーマガジンに行って「すみません。これ、レビューに載っけてください」とお願いしたりしてました(笑)。近田春夫さんのビブラストーンのマネジメントもしてましたね。
それから、復刻をやるようになったんですよ。
沢辺 音楽の?
前田 ええ。そこの社長の高さんは『定本ジャックス』という本を出したり、「JACKS CD BOX」をつくったりしたジャックスマニアの人だったんですが、「これからはCD復刻の時代がくる」と言って、各レコード会社が持っている音源の復刻を呼びかけたんです。
実はレコード会社というのは、自分たちのカタログに何があるか、あまりわかっていないんですよ。「60年代にGSのこういうシングルを、お宅の会社は出しましたよ」と言っても誰も知らなかったりする。
だから、SFC音楽出版の社長の高護さんが中心となって、黒沢進さんとか詳しい方々を集めて、各レコード会社の60年代、70年代の音源をCD化していったんです。俺はそこにアシスタントのようなかたちでかかわって、いろんなものを聴かせてもらったり、ライナーを書かかせてもらったりしていました。
その時にURCレコードの復刻もやりましたね。URCレコードは、会社自体はあったんですけど、リリースもなくて活動が止まっていて、URCの社長の秦さんがSFC音楽出版に会社ごと売ったんです。
今はURCの権利もシンコーミュージックとフジパシフィック音楽出版に移ってしまいましたが、当時はURCの音源はSFC音楽出版にあって、それを全部キティ・レコードからCDにしよう、と。
そうやって短期間に一気に行われた、各メーカーの60年代、70年代の音楽の復刻を目の当たりにして、いろんな音源を聴いたり作業にかかわったりしていくなかで、CD復刻のノウハウが確立されたかんじですね。
沢辺 キティ・レコードから出たURCの復刻は、すごく印象深いですよ。高校生のときに聴いていたURCの曲が次から次に出て、ディランⅡとか、ここまで出るのか、というところまで出た。
あれにサミーさんがかかわっていたんですね。ありがとうございます。
前田 いえいえ。僕もそのころは駈け出しで、URCをリアルタイムで知る高さんや黒沢進さんのアシスタントをさせていただいていたようなものですから。
友川かずきさんとゴールデン街を梯子したり、高田渡さん、遠藤賢司さんといった方たちと交流を持つようになったのは、その頃からでしたね。
沢辺 そのころに60年代、70年代の伝説的な人たちと関わったことが、後に出てくる「ネタを掘り起こしたい」という欲望とつながったところはありますか?
前田 どうですかね。素晴らしい作品は時代を超越してきちんと評価されなければ、という使命感には燃えてましたね。

●90年代韓国、伝説のアイドル

前田 そんなときに、ソニーミュージックの丸山茂雄さんという方に誘いをいただいて入社したんです。
丸山さんは丸山ワクチンを発明した丸山博士の息子さんで、ソニーの中でEPICソニーをつくったり、新しいことを始めて成功していた方なんですね。
ちょうど会社も辞めた時期だったし、面白いなと思って「どういうことをやるんですか」と伺ったら、「うちに小室が来るから、君には小室の担当をしてほしいんだ」と言われて。「小室って誰ですか」って聞いたら、「ソニーで小室といったら、小室哲哉だろう」と言われて。小室哲哉さんがTM NETWORKから、プロデューサー業を始めるときの話で、小室さんのレコード会社の窓口を半年ぐらいやりましたね。それは、それまで自分がやってきた世界と全く相容れないような極端な世界でした。これは果たして会社員として続けていけるのか、という気持ちが強くなり、そのことを丸山さんに相談をしたら、準備中だった新しいレコード会社に異動させてくれたんです。
ところが、やっとレコード会社の仕事ができると思ったら、そのレコード会社が準備中でなかなか動かないんです。
やっと丸山さんがアーティストを連れてきたんですが、それが韓国のグループだったんですね。今でこそ韓流ブームもありますけど、当時は韓国のアーティストが日本でリリースするのは、特にメジャーカンパニーでは珍しいことでした。韓国では日本の音楽が禁止されていた時代です。
飯島 その時代だね。
前田 丸山さんが連れてきたグループは「ソ・テジ&ボーイズ」という3人組、ハングルでいうと「ソテジワアイドゥル」という名前で、ソ・テジというクリエイターが一人で曲をつくっているグループでした。彼らは半ズボン姿で歌って踊る、という今でこそ当たり前でも韓国でははじめてテレビでそれをやった。
それまではトロットという演歌が中心だった韓国の音楽シーンに、ヒップホップやダンスも取り入れていた革命的なグループだと言われています。
洋楽のCDの日本版を出すのと同じスタイルで、ソ・テジの日本盤を出すぞと言われたわけですが、今とは全然状況が違いますから、社員の人たちは「えっ? 韓国語で歌ってるの?」という感じですよね。
ただ僕は幻の名盤解放同盟の湯浅学さんたちと交流があって、韓国のマニアックな音楽に詳しい人たちが身近にいたんですよ。他に韓国のことをよく知っている人はいないから、僕がソ・テジの担当になってしまいました。
ソ・テジはプロモーション来日してもらって「SPA!」のような一般誌から「セブンティーン」のようなファッション雑誌まで記事にして、日本でも300か400人ぐらいファンクラブができたり、結構盛り上がりましたね。
覚えているのは、いま朝日新聞にいる、当時「AERA」の編集だった近藤康太郎さんという方に「なんとか載せてください。載せないと会社に首になっちゃうかも」と頼んで、裸のラリーズのライブテープをお土産であげたことでしょうか。それで「AERA」にカラー1ページで載りましたね(笑)。
そんなこともあって盛り上がったんですけど、当時はまだ韓国と日本の関係が微妙だったし、いまのように演歌以外で韓国のアーティストが日本に来るルートが確立されてなかった。
だからというわけでもないんですが、ソ・テジのマネジメントも、朝鮮人参を韓国から輸入して日本で卸しているようなオジサンがやっていたんですよ。
これはもう言っちゃっていいと思うんですけど、最終的にそのオジサンがファンクラブのお金とか、レコード会社から出したお金も、全部持って逃げちゃったんですよ。
ただ、ソ・テジ君はそれとは関係なく、そのちょっと後に解散宣言を出して、1人でLAに行ってしまいました。最初はアイドルっぽいダンスものでしたが、サードアルバムは南北統一をテーマにメタルとヒップホップを融合させり、ノイジーな音楽にも取り組んでいて、本当に、日本より早い音楽をやっていましたね。
いっぽうでアイドル人気もあって、韓国の日本武道館のような会場が5日間満員みたいな状況だったんですよ。解散宣言を出したら、悲観したファンの女の子の中で「自殺隊」という人たちが出てきて、何人か本当に自殺してしまったくらいの熱狂的なスーパースターだったから、日本のマネジメントに逃げられたくらいでは痛くもかゆくもなかったと思います。
そういうアーティストの担当をやれていたのは、自分としてもすごく面白い経歴の1つだと思います。
ソニーにいるときに関わったアーティストには、さっき話したフラワーカンパニーズというバンドもいます。
初対面の時、見た目は冴えない若いロックバンドで、どうせありがちな感じだろうなと思いながら、「どういう音楽が好きなの」っていう話をしたんです。そうしたらいきなり「僕ら、URCとか好きなんですよ」と言うわけです。もちろん、僕のことなんて知らずにですよ(笑)。
「あの時代のアーティストがすごく好きで、復刻がいっぱい出てるから、みんなで聞いてるんですよ」「それ、僕もちょっとかかわっていたんだよ」「えー、本当ですか」みたいな話から始まって。
レコード会社的にはルックスがいいわけではないし、わかりやすい音楽をやっているわけでもないから、社内では最初誰も乗っている人はいなくて。ソテジの時と同じように、誰もやりたがらないから俺がやる、みたいな感じでした。
フラワーカンパニーズも結構いいところまでいったんですけど、途中で替わった上司と方向性のことで揉めまして、ソニーの中の違う部署に飛ばされたんです。ああいう大きな企業なので、すぐ体制が変わるじゃないですか。これはいよいよ自分の居場所はないなと思って、ソニーは辞めましたね。
辞めた時には、もう既にクレイジーケンバンドとか、渚ようこさんと知り合っていて、DJイベントで剣さんと共演したり、渚ようこさんと剣さんのイベントをしかけたり、ソニーとは全く別でやっていました。
ソニーの社員なのにP-VINEという会社の仕事、「乱魔堂」とか「外道」とかの復刻を20〜30枚ぐらいやったりもしました。そのライナーをソニーのデスクで書いたりして(笑)。
そういった自分が普段やっていることがマニアック過ぎたからか、ソニーでは何も結果をうめないことがわかってたということもありますね。

●キノコホテル単独ツアー、いよいよスタート!

沢辺 そしてキノコホテルですよ。俺は今の音楽の世界はよくわからないんですけど、キノコホテルはどう理解したらいいですか。
前田 今の世代は、昔と違って音楽をやる人口が桁違いに増えたじゃないですか。ライブハウスも、いま東京だけで700あると言われてます。
だから若い人がバンドを組めるのは、もう当たり前。
大学行かない代わりに音楽の専門学校に行って、専門学校でパンクを習っています、みたいな人がいるわけですよね。
沢辺 あれおかしいよね。
前田 でも今、そういう現実なんです。メジャーデビューしている人の中にも、音楽学校で結成したバンドはいくらでもありますね。そういうバンドが何千、何万といる中で、彼女たちは埋もれない強い個性を持っていると思うんです。
誰も注目をしていなくても、自分で「すごくいいな」と思ったバンドがあったら、埋もれさせずにすくい上げることが、僕の仕事だと思っていますね。
沢辺 そういう「何かあるな」というバンドはいっぱいいるんですか_
前田 いや、「これは」と思うバンドは数年に1回です。特に若いバンドでは本当に久しぶりですよね。
僕が非常に好きで協力もしている京都の騒音寺というバンドがいるんですが、30代ぐらいの連中です。彼らは最初から若いバンドという感じが一切しなくて、ローリングストーンズのスタイルを日本人がやる究極の世界を感じます。オリジナリティがあってものすごく格好良いんです。
騒音寺についてはマネジメントやレーベルは京都にあるんですけど、「俺がやらなきゃ誰がやる」と思って関わっていますね。
沢辺 最後にキノコホテルのロフト公演のお話を。新宿ロフトはどのぐらいのキャパシティなんですか?
前田 600くらいですね。
沢辺 前座とか出るんですか。
前田 出ないです。最初から最後まで、完全単独ライブで、1時間半以上はやると思います。
沢辺 チケットが前売り2,500円、当日3,000円ですね。
スタンディングですよね。立ち見?
前田 スタンディングですけど、ロフトは場所によって座るところがあるので両サイドには椅子がありますし、ものすごく疲れた方はバーフロアのほうに行っていただければモニターで見ることもできます。
飯島 ただ、メインフロアは禁煙なんですよ。
沢辺 ロフトですら禁煙なんですか。ロフトといったら、終わったらあとの床にたばこの吸殻がたくさん落ちていて、という印象がありますけどね。
前田 やっぱりお客さまの低年齢化を考えると、禁煙にせざるを得ないんでしょうね。そうしないとお客さんが来ない、と。
沢辺 なるほど。今日はどうもありがとうございました。
飯島 ありがとうございました。
前田 はい、どうもありがとうございました。

ツアー情報

※最新の情報は、キノコホテル公式ブログをご確認ください。

<サロン・ド・キノコ〜秋の人間狩り・新宿編>

10月9日(土)18:00開場・19:00開演
@新宿ロフト

前売り2500/当日3000
*前売りは、チケットぴあ(P112-327)、ローソンチケット(L74594)、イープラス、新宿ロフトにて発売中。

実演会場の物販、ディスクユニオン下記店舗のレジでも購入出来ます。
【ディスクユニオン・チケット取り扱い店舗】
・お茶の水駅前店
・新宿本館BF日本のロック・インディーズ館
・下北沢店
・吉祥寺店
・国立駅前店
・渋谷中古センター
・ディスクユニオン通販サイト

*整理番号について。
チケットぴあ、ローソンチケット、イープラス、新宿ロフト、
実演会場物販、それぞれ1番から販売します。
同じ番号が5種類存在するので、当日は5人ずつの入場となりますので、
予めご了承下さい。
詳しいご質問は直接、新宿ロフトへお願いします。

問い合わせ:新宿ロフト03-5272-0382

<サロン・ド・キノコ〜秋の人間狩り・名古屋編>

10月17日(日)18:00開場・19:00開演
@名古屋クラブクアトロ

前売り2500/当日3000
*前売りは、チケットぴあ(P112-640)、ローソンチケット(L45473)、イープラスにて発売中。

問い合わせ:JAIL HOUSE 052-936-6041