2010-02-05

談話室沢辺 ゲスト:小浜逸郎 第1回「そもそも、自殺はそんなに悪いことか」

●自殺を本質から捉えなおす

沢辺 日本の自殺率が高止まりしていますよね。
それはバブルが崩壊し、金融危機が起こり、格差が拡大して、リストラされたり、貧しくなってるからだ、と理由があげられています。
それを受けて社民党の政策などでは、雇用を確保しろとか、社会保障を充実させろという流れになっている。
自殺って、人間の死が前提になっているから、それには抗えない。「自殺を減らすために社会保障を充実させようよ」って言われたら、なかなか反対しきれないですよね。

小浜 そうですね。

沢辺 でも、例えば南アフリカは、ネルソン・マンデラが大統領になっても、皮肉なことにますます格差が拡大してしまい、酷いらしいじゃないですか。
自殺が単純に格差や貧しさの拡大で起こるのであれば、南アフリカは世界最高の自殺率、ということになるけど、実際、そうはなっていない。
それで、もう一度、自殺っていうのを大元のところから考えておいたほうがいいんじゃないかって。
前提となる数字を踏まえ、自殺というものの本質的な問題と、そこから考えうる対応を整理しておきたいと思って、今日のインタビューを考えました。

小浜 まず、世界的に一番権威ある自殺についての考察は、社会学者のエミール・デュルケーム(Emile Durkheim,1858-1917)の『自殺論』です。

彼は自殺を3種類に分類しています。
一つが「自己本位的自殺」。個人的にプライドを傷つけられたり、誇りを失ったりしたことで起きる自殺です。
いまのような経済的な困窮も関係あるでしょう。それで生きる望みを失って死ぬという、いわゆる普通の自殺です。
二つ目が「集団本位的自殺」。いわゆる自爆テロや、ハラキリとか、理念のために命を捨ててしまうというものです。
三つ目が「アノミー(anomie)的自殺」です。アノミー=無秩序ですね。「アノミー的自殺」の定義は、すこし解りにくいのですが、私はこれが日本の自殺率の高止まりに関わっているのではないかな、と思っています。
無秩序の感覚というのは、宮台真司さんも言っていますが、この社会はもう底が抜けてて、みんな何に寄りかかっていいのか解らない、という感覚です。

日本では、自殺は一般的に、心の問題としてとらえられています。だから心の悩み相談室のように、「自殺したくなったら電話して下さい」となる。
しかしデュルケームは社会学者だから、あくまで現象を鳥瞰的な位置、外から分析していくというやり方をとっています。
さすがはデュルケームで、こういうやり方って、日本では自殺対策を考える際、あんまりなされてないんですよ。
だから私は、「アノミー的自殺」が、もし今の日本の自殺率の高止まりに関係があるのであれば、日本での「アノミー」とは一体なんなのか、ということから考え始めなくてはならないと思うんです。

政治として、自殺が増えていることにどう対策をとるかというと、自殺は生命が失われることであるから、なにがなんでも数を減らさなければならない、という話になってしまうことは仕方がない。それには抗えないですよね。
でも、今回政権交代がありましたが、例えば子ども手当の支給や、高校の無償化など、福祉的な対策を手厚く講じるということによって自殺が減るとは、私にはあんまり思えないんです。

それはどうしてかというと、自殺は誰にとって悪いことなのか、ということをちゃんと問い詰めていないからです。とにかく命が失われることは悪いことだから、何とか政治的な対策をしましょう、予算を出しましょうということにすぎない。
なんで人は自殺するのか、ということに関わってくると思うのですが、挑発的な言い方をすれば、「そもそも、自殺はそんなに悪いことか」と私は言いたい。

もう一つの問題は、内閣府が発行している『自殺対策白書』では、自殺の原因を経済的理由、家庭の理由、などと分類をしていますが、でも本当は、自殺の理由は複合的ですよね。白書でも、理由は複合的だとことわってはいますが。

でも、私は、自殺の最終的な問題っていうのは「孤独」だと思うんです。金があっても自殺する人はいる。

食っていけなくなったから死ぬ、というのは、リクツとしてはわかりやすいかもしれないけど、この「食う」という概念をもう少し詳しく見ると、食っていけなくなる、ということは、同時に社会関係の一つ一つを失っていくということですよね。女の人にも甲斐性なしとして見放される(笑)。すると孤独になります。

中高年男性に圧倒的に自殺が多いことの理由に、孤独と、「自分の一生は一体なんだったんだろう」とか、「この先生き続けても大して面白いこともありそうにないな」という気分の問題がすごく大きいと思うんです。

何年か前、NHKスペシャルの『ひとり 団地の一室で』(2005年9月放送)という番組を見ました。
40代後半から60歳以下ぐらいの男性ばっかり1500人くらいが、松戸の老朽化した市営団地に住んでいたんです。
ホームレス寸前のような生活で、ゴミがすごいんですよ(笑)。
不謹慎な言い方になりますが、面白いのが、民生委員とか、地域の世話人みたいなおじさんたちが対策を考えて、見回り訪問をするんですよ。
大丈夫か、死んでないかって。その見回ってる人たちは70歳くらいの高齢者なんです(笑)。
それで、48歳とか55歳の人たちが「大丈夫ですか、○○さん」とか言われててね。

要するに、解雇されれば社会関係は一時的にしろ失うわけです。
男は仕事を失うと、プライドを激しく傷つけられます。がっくりと落ち込むんだけれども、その時にエロス的な関係性、つまり女性なり誰かがいて、支えてくれるということがあれば、たぶんそんなには自殺しないと思うんです。本当はそこが、この問題のキモじゃないかと私は思っています。

沢辺 僕は労働が蔑まれすぎちゃっているってことも、そこに絡むような気がします。
つまり、仕事は本筋ではなく、生活が本筋なので、仕事は生活のための道具だ、という扱いになってしまっているでしょう。
ところが実態は、実は仕事って面白くて、他者からの承認も十分得られるし、中途半端なボランティアよりも、よっぽど達成感や承認感っていうのは大きいじゃないですか。

小浜 報酬も得られることだし。報酬には精神的な承認という意味もこもってますからね。

沢辺 はい。人間ってやっぱり食わなくてはいけないから無理矢理働いてるんだ、というより、百姓が畑の作物を心配してしまうように、そのことそのものに引かれるってこともあると思うんです。

小浜 そうですね。百姓の場合は愛と言ってもいい。

沢辺 それが、「実は労働に意味はなくて、生活こそ大切なんだよ」とされたうえに、さらにそれをちょん切られてしまう。
じゃあ俺は一体この50までなにをやっていたんだ、と。そこには女房子供を食わせてきた自負とか、いろいろ付随してるけど、やっぱり人間には、まず労働をやってしまう、という性質がある気がするんです。

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●男と女の差

沢辺 もう一ついうと、そこには男女の差も感じます。

小浜 男女差はありますね。それは自殺の数字にもはっきりと表れています。おばさんとおばあちゃんの自殺率は、同世代の男性とは比べ物にならないくらい低い。
自殺者数が一番多かったのは2003年(平成15年)です。その年の45歳から59歳までの自殺を男女で比べてみると、何と男性は女性の4.2倍(男性8,680件/女性2,047件 参照:厚生労働省「人口動態統計」)です。つまりこの年代では男性の自殺が全体の8割以上を占めている。
経年変化を見ても、昔と今とで中高年女性の自殺率は全然動いていません。(平成20年版 自殺対策白書参照)下げ止まりというか、ずっとそうです。

沢辺 僕は奥さんとの間ですごく差を感じます。
奥さんは友達と買い物に行こうとか、飯を食いにいこうっていうことができるんです。でも、僕はその前に何かがないとできない。
たとえば「人間学アカデミー」の講座があって、その帰りにみんなと飲むっていう流れには参加できるけど、その前がなくてただ単に飲みにいこうっていうのはできない。なんていうか、言い訳がないとできないっていう感じがある。
離婚したとしてもね、奥さんは、きっと友達と「買い物行きましょう」で会える。

小浜 まったくその通りだと思います。その差はすごく大きい。
ウチのかみさんは、どっちかっていうと男性的なタイプで、細々したことはあんまりやらないで、酒飲んで寝てる方がいい、みたいなことを自分では言うんですね。そういう点で私と気が合うんですけども(笑)。
でも、実際には、日常の細かな気配りにとても長けていますし、かみさんの友達には、かつての同僚とか、写真をやっている仲間がいて、その人たちが、細々したもの、たとえばお料理とか、ビーズ細工だとか、刺繍だとかをやっているんですね。
仲間がいて、その仲間との間でごく自然に日常の時間を埋めていく。そうすると、かなりいいネットワークが自然とできている。
男はそういうことをやらないでしょう?
もちろん男も、囲碁・将棋や麻雀、釣りやゴルフや、と趣味は持っているんだけど、趣味から人間関係へ、という感じにはなかなかいかないところがある。
そういう面から見ると、男は孤独になりやすいというのは確かですよね。

「人間学アカデミー」第八期のシンポジウムのとき、私が「女性は強いですね」って言ったら、精神科医の斎藤環さんが「いや、強いんじゃないんだ。男は立場、女性は関係」と言っていました。それは上手いとらえ方だなって思ったんです。

沢辺 そうですよね。結果的に今の社会だと、女の人の「関係」のほうが有効なんですよね。
昔は、最後の拠り所として父親という立場がありましたが、今では父親という立場に意味がなくなってしまった。

小浜 だいたい、子どもが思春期過ぎてからの「父親」は、経済的には支えているわけだけれども、心情的にも支えているということは、あまりないですよね。

沢辺 そうすると、関係性に強い女性のほうが今の社会への適応力が高いと。
確かに、男の「立場」っていうものの今の社会への適応力は、恐ろしく弱いということが自殺率の8対2という数字に現れてますよね。

小浜 そうですね。
話を戻すと、要するに孤独感というのは男性に特有で、非常に強い。それは心の問題、精神的な問題のように思えるけれど、例の松戸団地の番組を見ていると、孤独を長く続けると、男というのは、身の回りもだんだんホームレス状態に近くなっていくということがひしひしとわかる。
つまり、本来はメンタルの問題であったものが、だんだんだんだんフィジカルなところに及んでくる。それが寿命だって縮めると思うんです。

『熟年性革命報告』(小林照幸/2003年/文春新書)という本に面白い話があります。
養護老人ホームで売春をやっている80の婆さんがいて、その婆さんをめぐって、70代の男二人が、決闘をやったんです。熊手と竹箒かな。一方が怪我をしちゃって、それが発覚したという(笑)。
やっぱり男って、ゲームでもスポーツでも、互いに闘う場が形成されれば、そこでは結構ハッスルする。
でも、今の日本はそれがなくなってしまった世の中ですから。

沢辺 国会議員が年寄りでもはつらつとしているのは、国会議員という、立場が確保できているからですよね。

小浜 闘ってるもんね。闘ってると生き生きしていますよね。政治家ってホント若い。

沢辺 大体土日もなにかやってるじゃないですか。俺は最近、日曜日も仕事って思うとがっくりしちゃいますが、この人たちはずっとやってるんだと思うと、すごいなあ、と。それは、やっぱ立場かな。

でも、僕は、これが男という性に本質的なものなのか、社会的なものなのかっていう議論には、あんまり意味がないかなって思います。
仮に社会的なものだとしても、それは社会的な状況の変化が100年くらいないと、変わらない感じがします。
だから今は、そういうんじゃダメなのっていうのを言ってみてもあんまり意味がないから、ちょっと横に置いておいていいかなと思うんです。

小浜 僕もいいと思いますよ。それはどっちがよりいいかっていうような倫理的な判断の問題じゃなくて、現実にそうだってことですから。

●行き過ぎた社会の不関与化

小浜 ところで、今、20代女性の自殺率が上昇しているんです。と言っても全体が少ないから、数は少ないのですが。
昔は、20代の自殺は、女性が4割から5割近くを占めていました。
1960年代から80年代にかけて、20代男女の自殺は減少して、1995年くらいまで20代の自殺は本当に少なかったんです。
でも、ここへ来て男性のほうも増えると同時に、20代女性の自殺が、ミクロな範囲だけど上昇しています。
やはり男性の労働現場でのキツさと同じもので、なおかつ若いから、という理由でもっとハードなものが20代の女性に来ているんじゃないか、という気がします。
さっき、中高年男性の自殺は「孤独」がキーポイントだと言いましたが、20代女性の自殺の増加には、そういう意味での味気なさっていうか、潤いのなさのような感覚、気分に支配されてるんじゃないかなっていう気がします。

沢辺 それは、「社会の不関与化」というふうには考えられませんか?
2年くらい前、京都精華大学で日本語リテラシーという授業をやっている野口勝三さんと、「ゲイをめぐる状況」について議論したことがあります。
そのときに面白いと思ったのが、社会全体が関与=関係することを、減らしているという考えです。たとえばベタベタな親子関係とか、地域関係とか。「小浜さんちの逸郎は相変わらずぶらぶらしてる。仕事も行かないで何やってんだ」とか(笑)。そういうのはイヤだったわけですよね。

小浜 そうですよ。我々はみんな煩わしかったわけです。だからそういう、他人の心に土足で踏み込むみたいな関係のあり方をできるだけ避けるようにしてきた。

沢辺 そこからどんどん逃れて核家族化したり、引っ越しをしたりして、社会はだんだんそれを克服し、今、そういう関係は基本的に減ってきている。

小浜 都市社会にみんなが集まり、だけど、みんな隣は何をする人ぞ、と。
個人主義で、経済的にはそこそこ裕福、という社会になりましたよね。

沢辺 彼はそれを「不関与」と言っています。しかし不関与の弊害がここにきて出てきているのではないかと。
たとえばゲイをめぐる視線も、昔だったら「小浜さんちの逸郎くんは結婚もしないで、怪しいよ。なんかちょっとコレっぽくない?」とか(笑)。そういう噂に、誰も意味を感じなくなり興味を持たなくなった。そもそも基盤にするコミュニティがないから、そんな噂をしても「え、小浜くんちの逸郎くんって誰のこと?」となってしまうから、なくなったわけです。
だけど、僕はそれはそれでいいことだと思います。野口さんも悪いことだと言ってるわけではありません。
それは、みんながゲイという存在を積極的に肯定したのではなく、他者に対する興味を失っただけ。でも、それはそれでゲイが生きやすくなったから、いいんだと。
ただここにきて問題が出てきているのは、たとえばゲイの中にも、関与がなくなって好き勝手なことができるけど、そうなると逆に関与を求めだしてきている。ゲイの間でパートナーということが話題になる率が高くなっている気がする、というんですね。
つまり、行き過ぎた不関与に対する反動が起こっているからで、やっぱり適度なコミュニティは必要なのではないか、ということです。特にゲイは、顕著に独身が多いから。

小浜 ただ、長くつき合ってるゲイカップルもいますよね。

沢辺 いるけれども、条件として男女関係より難しいですよね。浮気がどんどんできてしまうし。

小浜 普通の男女関係より乱脈だからね。

沢辺 はい。そうするとつがいであることがむずかしい、つがいが弊害になることもある。
だけど、年をとると、やっぱりつがいっていう安定性が欲しくなる。それは関与されることを積極的に求めることですよね。
これは伏見憲明さんも前から言っていますが、ゲイの状況はある種、例えば性関係が乱脈になるってことについていっても、人類の先行きを過激にやっている面がある。

小浜 一種の実験みたいな感じでね。

沢辺 だから不関与が行き過ぎて、今ゲイが、パートナーシップが欲しくなっているということは、今後ノンケの人たちもそういう方向になっていくだろうという見通しの材料になると思うんです。
今の話を聞くとやっぱり、社会全体が不関与になってきているように感じます。ただ、それを悪いことだと総括する必要は全くありませんが。

小浜 それの行き過ぎた状態っていうのが現われてるんじゃないか、ということですね。
それは言えるでしょう。宮台真司さんが『日本の難点』(2009年/幻冬舎新書)の中で「コミュニケーションの希薄化」という言葉で、同じようなことを言っていたと思います。
沢辺 そう。宮台さんも小浜さんも、竹田青嗣さんなんかも、視点はそれぞれ違いますが、不関与問題は、ちゃんと見ている人はちゃんと言っていますよね。
その反動的な場合が、「家族の復権」とかっていう意見。そこにはもう後戻りはできない、と僕は思うんですけど。

小浜 保守派はもうそういう感性で、理想型が固まっていますから。そこから全部発想している。「それがいいんだ」と。
これから違う形になっていくのに、みんな「これは壊れてるんだ」とか、「ヒビが入っているんだ」と見てしまう。

沢辺 でもそこにある感覚は、壊れているという認識までは同じですよね。それを元に戻ろうよっていうのは……。

小浜 戻ろうというのはたぶんダメでしょう。

沢辺 元に戻るのは無理だから、別の装置を考えるということしか進む道はないですね。ところで、さっき話した松戸の男たちのように、男は立場、女は関係、という社会の中で、立場をなくしてしまい、奥さんにも見放されてしまった男たちが、ある種アノミー的になる、ということなんでしょうか。

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●秩序の崩壊で広がるアノミーの気分

小浜 ミクロな圏内での、一種のアノミーなんじゃないかなと思います。
つまり、日本社会が全体としては、ある程度目標達成をしてしまい、なんとなくアノミーの気分が広がっていて、ミクロの圏内では現実的にアノミーが出現してきている。
最初に読んだときは概念が分からなかったんだけど、デュルケームが言ったアノミー的自殺が、今、日本で増加している自殺に当てはまるんじゃないかと思う。

沢辺 秩序の崩壊ということですよね。

小浜 そうです。ミクロな秩序の崩壊です。それは法律みたいにどこかに書かれているわけじゃないから、よく見えないんですね。
でも小さな範囲に絞り、倍率を大きくして眺めると、そこにアノミーが見えてくるということはあるんじゃないでしょうか。
で、そのアノミーに男が弱いんです。

沢辺 男がアノミーに弱いんでしょうか?
というのは、男が依って立ってきた秩序が崩れた。一方、女の人はその依って立ってきた秩序を、むしろ自分たちで崩してきたと思うんです。
自分たちが前向きに崩したことだったから、それは女性にとっては「無秩序」ではなく「変革」なんじゃないかと思うんです。

たとえば、僕の同じ年の友人に、若くして結婚し、専業主婦になり子どもを育て、子供も手を離れたからこの5年前ぐらいから働きに出ている女性がいます。単なるパートではなく正社員で、まあ、一人前の働きに出たわけです。
だけど、その旦那は相変わらず「俺がちゃんと働いているから」みたいな、専業主婦時代の気分をずっと引きずっている。

小浜 養っている、と。

沢辺 そこまでは言わないだろうけど、「俺は忙しい」と。
で、「私だって忙しいよ」と言うと、ここからは僕の想像ですが、「お前は自分で選んでわざわざ仕事しているだろ」と。
それは選んだ忙しさで、俺のは俺がやらなきゃしょうがない忙しさなんだ、と。
でも、お前の忙しさは選んだ忙しさだから偽物で、俺の忙しさは本物だ。これは、もう2009年の日本ではまったく通用しないでしょう。

小浜 そうですね。成り立たないよね。

沢辺 だけど、これはたぶん半世紀ぐらい前までは、当たり前に成立していた。夫という立場、親という立場っていう秩序ですよね。
でも、それが崩壊した。男が主人公だ、家長だ、という秩序は崩壊し、でも男はそれに気付いていない。というよりむしろ、まだ直面していない。
つまり、奥さんにとっては、いい意味での秩序の崩壊だから、アノミーにはならない。一方、夫にとっては困ってしまうことだから、気付かないようにしている。で、もっと大きく直面した時に、アノミーにいってしまうのかなって思う。
ミクロで見れば、そういうことがあちこちに起きているんですよね。これは政策として子ども手当を出したり、社会の制度を変えたとしても、なかなか解決できない問題ですよね。

ところで、男が立場を失ったときの対策、っていうのは当面取り得るんでしょうか。
よくあるじゃないですか。定年以降、NPOでパソコンを教えるとか、料理をやれるように男の料理教室に通うとか。
それを積極的に、たとえば松戸の団地に住んでる人の間ででも、やっていくような対策です。

小浜 でもそれは、そうとうきめ細かなケアになりますよね。
松戸の団地に関しては、女性はみんな逃げてしまったのだから、誰がそこまで面倒見てくれるのか、と思います。

沢辺 そうですよね。であれば、自分たちでやればいいのだけれど、そんな意欲が残ってるような人だったら……。

小浜 だから意欲を失って甲斐性もなくしているんですよね。

沢辺 松戸に居着かないですよね。いいとこ、独り所帯に辿り着かないでしょう。

小浜 そうなんですよ。

沢辺 じゃあ、ある意味小浜さんは幸福かもしれませんよね。「言語哲学研究会」や、「しょーと・ぴーすの会」(※ともに小浜氏が主宰・参加している勉強会)をやっていますから。

小浜 私は、ああいうのは意識的にやっています。自分にとっての自己ケアという意味合いもあるんです。そうしないと、外に出る機会がなくなってしまうから。
人と呑んで話すのは好きなので、そういう自分にとっての意味っていうのはありますね。
最初からそんなに意図してやっていたわけではないんだけど、巧まずしてそういう逃げ道を作っているんでしょう。でないと、余計鬱が募ってしまうというか。

沢辺 でも、小浜さんはそれを現実に自分の力で上手く、それもものすごく上手くやっていますよね。

小浜「シネクラブ黄昏」(小浜氏が主宰する映画鑑賞会)もね、ホントはそうなんですよ。できることならそこでの人間的出会いそのものを趣味として位置づけてやりたいんですね。一人でやってても寂しいから。みんなでひとつのテキストをめぐってわーわー言い合うのが、好きなんです。一種の鬱対策ですね。

次回へ続く

第2回「日本人と死」

プロフィール

小浜逸郎(こはま・いつお)
1947年、横浜市生まれ。批評家。
横浜国立大学工学部建築学科卒業。国士舘大学客員教授。
思想講座「人間学アカデミー」主宰者。

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目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。