ゲスト:小浜逸郎

談話室沢辺 ゲスト:小浜逸郎 第2回「日本人と死」

●西洋における死、日本人における死

沢辺 改めてもう一回、小浜さんが自殺も含めて死というものについて、どう考えているか聞かせてくれませんか。
もう一回そこをちゃんと押さえておいたほうがいいと思うんです。
「人間学アカデミー」第7期での、山折哲雄さんの講義が、僕にはすごくインパクトが大きかった。それは、あまりにも死が悪いことになった社会、死を悪いことにし過ぎちゃっているな、という問題意識がでした。
この前忌野清志郎も死んで、芸能人で有名な人も死んでいるんだけど、いいじゃん、って。

小浜 死というものに対しては、いろんな側面からいえると思いますが、日本人の国民性という側面からすれば、日本人は生きるということに対して、そんなに貪欲じゃないですよね。

日本には「武士道」や「葉隠(はがくれ)」のような、死に直面したときの態度を絶えず準備しておく考え方がありますよね。また西行の有名な歌に「願わくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」なんてのがあって、この歌は時代を超えてすごく愛唱されてきたわけですが、ここに、日本人の、死に対する淡々とした覚悟のようなものがよく表わされていると思います。
命というものに対して、西洋人ほど、どうしても生き延びたいというものでもなく、比較的、生と死の境目を絶対的には考えない伝統がまだ残ってるんじゃないかという感じがするんです。

敗戦のように、とんでもないことに直面すると、なんにせよ生き残って、もう一回社会を立て直さなきゃいかん、という気分が盛り上がるのは全世界共通だと思うんですが、今の日本は、格差だ、ニートだ、フリーターだ、非正社員だなんだといろいろ言われてはいても、絶えず外部との緊張のなかで生き延びていかなければならない、という緊張感があるわけではなく、むしろなんとなくうっすらとしたニヒリズムみたいなものに支配されてると思うんですよ。

そういう空気が、仮にあるとすると、日本人は小さなことでも、ちょっと指で突いただけで、生と死の境を越えちゃう、そういうふうになりやすい民族なんじゃないかなっていう感じがあります。

それはたとえば日本に仏教がなじんで、キリスト教がなじまないっていうことでもわかります。
キリスト教、プラトニズムは、魂の不死とか、永遠の生命とかね、そういうことを臆面もなく言うじゃないですか。
でも仏教はそうじゃない。輪廻転生の教えというか、観念がありますけど、あれは誤解している人が多い。
実は、輪廻転生というのは、仏教の理想にとってはよくない状態なんです。魂が身体から離れても、いつまでたっても成仏しないでいろんなところに漂っていて、別の肉体にとり憑いてしまうわけだから。

魂魄(こんぱく)っていいますよね。魄が身体です。魄が滅ぶと同時に魂も滅びて終わり、というのが涅槃の境地で、つまり煩悩を全部なくしてしまう、解脱してしまうというのが仏教の理想なわけだから、他の肉体に宿ったらまたその動物に特有の煩悩が出て来てしまうわけです(笑)。

それが日本の国民性になじんだ。元々は自然から生まれ、自然にはみんなアニマ(anima/霊魂)が宿っている、という考え。一種の多神教ですね。そしてやがて自分は死んで、自然の懐に抱かれて帰っていく、と。自然崇拝です。「人間到る所、青山あり」なんてことわざがあるのも,日本独特ですよね。
西洋人みたいに、自然と対立して、いろいろな暴威を力でねじ伏せて克服し、人間のためのものに変えてしまうなんてことは、日本人は得意でない。

よく言われることですが、日本の自然は四季がはっきりしていて、台風がきて、人智を越えた自然の力でねじ伏せられたかと思うと、今度はパッと変わって、海の幸山の幸の恵を与えてくれる。そういう自然に対する親しみを持っていて、今でもそれはそんなに失われていないと思うんです。

だから、日本人は、西洋人ほど「生きたいんだ!」とは考えていなくて、ずっと理想として静かに死の世界にソフトランディングしていくみたいなイメージを、持ってるところがあると思うんです。
事実、人間は、いきなり死ぬのではなく、だんだん死んでいきますよね。

沢辺 だんだん死んでいくというのは?

小浜 医学的には、ここに境目があって、こっち側は生きていて、こっち側は死んでいると決めていますよね。
でも、それだって、ちょっと不安定で動きます。脳死の問題が出てくると、どこからが死か、という議論が出て来る。
だけど、脳死で臓器移植するのが許されるのかという議論は、アングロサクソンや欧米では起こらない。もう死んだのだから、当然だと考えます。
脳死の議論がこんなに騒がれるのは日本ぐらいです。つまり、脳死を死として認めてよいのか、という議論は、日本特有じゃないかと思います。
日本では、その生から死に移っていくグラデーションを、家族や身近な人たちがすごく大事にします。本人はもう解んなくなっちゃってるかもしれないけれども。
たとえば沢辺さんが死ぬとき、脳死状態でも人工呼吸器が動いている間はあったかいじゃないですか。そしたら奥さんは、「まだ父ちゃん死んでないわよ」って言いますよね。「これは脳死状態なんです」と医者が言っても、すごく抵抗感があると思うんですよ。だから災害や戦争で死んじゃった人たちの遺体をものすごく大事にする。
キリスト教はそうではありません。たとえば、ローマの骸骨寺に行ったことはありますか?

沢辺 いえ、ありません。どういうところなんですか?

小浜 それは要するに、ローマ・カトリックの納骨堂なんですけど、一人一人のお墓ではないんです。
死んだ人の人骨を全部バラバラに解きほぐして、それで細工を作って、イコン(icon/聖像)を作る。キリストが真ん中にいて十字架があり、周りに髑髏が並んでいたりする。
今、西洋では再生医療が盛んですが、これは、身体のパーツは利用できるもんならどんどん利用したらいいじゃないかという思想が根底にある。つまり、魂と身体とはまったく別物で、永遠の魂さえ保証されるなら、身体はどうでもいいという、キリスト教的な考え方、そこにも繋がっていると思います。だからあんなに臓器移植の技術が発達するのでしょう。
ドナーカードなんて、オーストラリアでは結構強制的に登録させられるでしょう。提供するかしないか、運転免許証に書かれるらしいんですね。でも、日本にはそういうのはない。

だんだん死んでいくっていうのは実感として、ありませんか? 僕なんかは、だんだん死んでいってるって感覚があります。
身も心も、死んでいくな、衰えてる、老いていくなっていう。

沢辺 死に近づいてるなっていうか、今までだったら成長っていう気分があったんだけど、プラスがもう終わって、どんどんマイナスになってくいく感覚はあります。

小浜 なってきますよね。なんかこう、無意識のうちに自分の今の傾斜してるあり方みたいなものをどこかで繰り込んでいるでしょう。それで生きている。

沢辺 でも、反論になりきれないんですけど、敢えて反論すると、このまえWOWOWで、「ヤングアットハート」っていうドキュメンタリー映画を見まして、それがけっこう面白かったんです。
どういう映画かというと、アメリカに爺ちゃん婆ちゃんのロックコーラスグループがあるんですけど、もうメンバーはヨボヨボで平均年齢は80歳くらいなんです。
それが「あの娘は俺に惚れてるぜ」とか、「なんで行っちゃうんだ」とか、「振られたよ」とか、そんなロックを合唱してやるもんだから、その落差が面白くて。アメリカでも人気あるらしいんです。
で、そのグループが海外公演をやるまでを、追っていましてね。その過程で二人ぐらい死んでしまうんです。
エンドロールに、公演の時に結構いいパートをやっていたお婆ちゃんが、そして三ヶ月後に死んだ、誰々は死んだ、と出てくる。

その映画では、当然死の受け入れ方についての話しが出てくるわけですよ。お婆ちゃんが、「もうすぐあたしは逝っちゃうから」とか。
それで、「公演中に死んだらどうしますか?」という質問に、「それは幸せじゃん」というくだりがあって、死をことさら忌避するというよりも、死を上手く受け入れていて、「ああ、やっぱそういうことだよな」って思いました。

だからある種、山折さんが言っていたように、今はもう死を受け入れない社会になっていっちゃってるけど、やっぱり人間って死とセットなんじゃないか、って。アメリカにも、ある種のそういうものっていうのはありそうだなって思うんです。
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●死は「悪」なのか

小浜 もちろん、西洋でもそれはあるでしょう。違いをちょっと強調しすぎたかもしれません。
ただ思想・哲学から見てみると、たとえばソクラテスは、感覚で捉えられる世界は欲望を満たすだけの世界だから、死んで、それよりももっと高級な世界に行く、という理屈を付けています。
それは逆に、生きたいという貪欲さの表れで、日本人にはあんまりそういう貪欲さはないんじゃないか、と思います。

私は、山折さんが言ったように、生と死というものを、ひとつながりのものとして捉えて、死を悪いものというふうには見ないほうがいいと思う。

沢辺 逆に言うと、死ねるから。だから価値ってありますよね。

小浜 そう、死ねる、と思うんですね。若々しくて精力旺盛に生きているときだって、どこかで人間というのは、いつかは死ぬことを射程に入れていますよね。
それがないと、人と約束することもできないし、企画を立てることも出来ないし、自分の夢を叶えようとすることも出来ない。

もう一つ思うのは、僕は今62歳ですけど、もう子どもも自立して、孫も別のところに住んでいます。
今はかみさんと二人で住んでいますが、一人である可能性もあるわけです。
今はもうとにかく、後期高齢者という言葉はけしからんとなっていて、お年寄りを、ちょっとバカにしたような言い方は、タブーになっていますね。
でも、ほとんどなにもわからない認知症になっていたり、身体が動かなくなったりしている人たちを、ヘルパーさんたちが一生懸命お風呂入れて洗ってくれたり、幼稚園児扱いみたいな言葉遣いをされたりするのをテレビで見ると、私はああいうふうにはしてほしくないな、と思う。
たとえば80歳くらいになっても生きていて、まだ完全にぼけてはいない状態で、しかも人間関係ももう希薄になり、仕事の関係も、それから血縁も親族関係もなくなり、子どもももう向こうで立派にやってるし、つまり要するに自分がもう必要とされなくなった、という状態になったら、一番楽な、苦痛のない死に方で、お酒呑んで、雪の中に入って死ぬとかしたいです。

沢辺 したいですよね。僕の親父は、88歳で、今認知症で入院しているんですけど、見舞いに行って話すと、否定的なことばかり言うんです。
直接聞いたことはないんだけど、お袋に聞いたら、「早くお迎え来ないかな」って言ってみたり、それから僕にも、「ダメだったな、俺は」っていうふうなことを言ったりするんです。

親父は小学校の教師をやっていて、卒業した昔の生徒たちが、クラス会をずっと続けてやっているんですね。
この間、彼らが還暦を迎えた記念のクラス会っていうのをやってたそうです(笑)。親父はそこに毎年呼ばれていたんですけど、さすがに入院しちゃったから、今年は断ったら、その人たちがわざわざ入院先まで、5人くらいきてくれたんです。これってものすごく、幸せなことでしょう?

小浜 それは幸せですよ。

沢辺 最高に幸せな面があるわけじゃないですか。自分が生きてきた中で、これだけの成果があったら、これはもう無条件に肯定していいのにな、と僕は思うんですけど、「いや、ダメだよ」って。半分ボケてるんだけど、そう言うんです。
そういう成果とか成功があったにもかかわらず、それをもう丸ごと「いやもう、俺の人生はろくなもんじゃなかった」と、どんどん総括が悪くなるんだったら、その手前に死んだほうがいいんじゃないのって思うくらいです。かといって自分は死ねるかどうかはわからないんですが。
あと、小浜さんが言ったように、88歳までになると、もう周りに誰もいないんですよね。

小浜 友達も死んじゃってたりね。だから、誰にも必要とされていないんですよ。
それなのに老人ホームなんかに入っていると、一生懸命介護してくれるでしょ。あれって何の意味があるのかなって思うけど、それはタブーになっていて言えない。でも、そういうことをタブーにしてる社会って、なんか変だなって思うんです。

沢辺 現実に、民主党が雇用対策で、介護職の雇用促進をやっていますが、僕は、あれは若い人のやる仕事ではないと思うんです。

小浜 そうなんだよね。

沢辺 給料が安いから若者が辞めていますよ、ということだけではなく、仕事の内容が、看護婦さんとは違って大変なんだと思うんです。
看護婦さんはまだ一生懸命介護をして手伝ったら、その人が元気になって、「ありがとう」という関係のゴールがあるけど、あれはゴールが死ぬことですからね。

小浜 一種のターミナルケアですよね。気がしっかりしてれば、ターミナルケアは仕事として意味があるかもしれないけど、もう認知症で、わからなくなっちゃっている人の身体をどうこうしたってねえ。はっきり言うと、死体処理と、そんなに変わらないじゃないですか。

沢辺 「ああ、この人たちは死んでいく人たちだな。だけどじゃあ、その中で自分になにができるか」ぐらいまで思えるには、かなり年を経ないとムリなんじゃないかなって思う。
僕の友達にも介護施設をやっている奴がいますが、若い人が次から次に辞めていく。お金の問題はもちろんあるし、もちろん、辞めてくれ、ということも多いらしいですが。
そうすると残るのは、たとえばドメスティック・バイオレンスで、旦那から子ども連れて逃げて来て、でも稼いで生きてかなきゃいけない、ともかく、この仕事しかないからっていうふうなタイプとかになるらしい。
むしろそういったある種の切迫感がないと持たないって言ってます。特にインテリで、社会のため、というふうに言ってる人たちが。

小浜 何となく空々しいですよね。でも、マーケットとしてはあるんだよね。だって、これからはしばらくは団塊の世代が要介護になっていくわけだから。
マーケットとしてはあるけれども、マーケットがあるからって言ってもなあ……。
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●死を積極的に受け入れる社会

沢辺 でも、単に死は悪いことだから長生きしてねってことでなく、死を積極的に受け入れることだってあっていいじゃないかっていうのは、思想のレベルではあるかもしれないけど、政策や、具体的になにするんですかっていうレベルにまで落とし込む、っていうのはとってもむずかしいものがありますよね。

小浜 でも、オランダでは安楽死が認められてからもう20年ぐらい経つんじゃないかな。本人と家族の了解を得て、医者が注射を打つ。どれぐらいの数が行なわれているかは知りませんが。

沢辺 民主党でも自民党でもいいけど、人は死にゆく存在なのだから、それをちゃんと上手くいい形で収束に向けていくための政策を実行しましょう、というマニフェストがあってほしいと思うんですよね。

小浜 でも、今の政権では、そんな政策をたてるなんて絶対しないと思う。本当はそういうことがあってもいいと思ってる人は、すごくたくさんいるのに、世論としては出て来ないんだと思います。「そんなのとんでもない」という話になって出てくるんじゃないかな、と思う。
『死にたくないが、生きたくもない。』(幻冬舎新書・二〇〇六年)という本に書いたんですが、昔読んだSFで、国民がみんな背番号を持っていて、ある年齢以上になると、特定の背番号に国家からお知らせが来る。そして、そのお知らせを受けた人は、それを受け入れて、粛々と殺されていくんですね。こういうイメージって、思想としてはあっていいんじゃないか。でも、実際には政策として打ち出す人は誰もいないでしょうね。

●ものごとの前提を問いなおすべき

沢辺 それは埋めがたいんですかね。話ずれちゃうかもしれないけど、今日の社会で限界にぶち当たっているのは、一番大切なことを語れないで、その手前の綺麗ごとに止まってしまう、ということだと思います。教育についても、そうじゃないですか。

小浜 まったくその通りだと思います。

沢辺 子どもたち全員に、人間として自由に生きるための読み書きそろばんっていう武器を手渡したいんだよ、っていうのはもちろんなんだけど、それを裏返して言えば、読み書きそろばんっていうレベルの延長線上にある、知的な活動の能力は、悲しいけど全員が平等ではない。手先は器用だけど、知的能力がそれほど優れているわけではない、という子どももいますよね。
そういう現実に、もちろん不平等なかたちではなく、だけどそれは何を手渡していくのか、っていうことをもう一回ちゃんと精査しようよっていうことが、教育の場に求められてると思います。
たとえば犯罪捜査の可視化と言われていて、可視化ももちろんあったほうがいいとは思いますが、じゃあ現実の犯罪捜査のレベルで、どうやってやるんですかっていうこともそうです。
刑事が脅したりっていうことも含めて成立してきた治安維持、犯罪抑止効果っていうのもあると思うんですよ。

小浜 そう。それは僕もすごく思います。
あれは冤罪はとんでもないという視点から入ったから、取り調べで、精神的な拷問を二十何時間やるなんてとんでもない、だから可視化して、そういう過酷なやり方をさせないようにしようってことでしょう。
ところが本当は、冤罪は割合から言ったら少なくて、本当はやっている奴がほとんどですよね。やってる奴をはかせるために長年培われてきた暗黙のテクニックって、きっとあると思うんです。
で、取調室を可視化することによって、それを使えなくしてしまうと、今度は本当にやってる奴を、果たして捕らえることができるのかな、と思います。

沢辺 そのときにも、一番大元のところでどうするんだ、という議論の妨げはあるわけですよね。
それは死も含めて、高齢者問題も全部そう。長生きするのがいいことだってことしか前提にできない。

●闘争のない世界は実現できるか

小浜 それはやっぱり思考停止していますよね。
オバマ大統領が核廃絶の演説をチェコでやり、鳩山首相が、被爆国の責任といった内容のことを演説で言ってはしゃいでいる。オバマさんは本気で言ってるようには思えないんですけど、鳩山さんはボンボンで、本気になって言っているような感じがします。

私は核は廃絶してはいけないと思っています。でも、そういうことを言う人は、ほとんどいないでしょう。
演説では、綺麗ごとが言える。でも、人類が科学技術を飛躍的に革新させた結果できてしまったものを、なくせるはずがないんです。核のない社会なんてできるわけがないでしょう。持ってる人が、せーの、で宇宙空間に放り出すんですか。

沢辺 それはスパンの問題じゃないかと僕は思いますが。

小浜 私は核はむしろなくしてはいけないと思っています。拡散しないように地球連合政府のようなところに全部集め、そこが地球の他の地域の紛争などを処理していくための最終的な決め玉として持っていなくてはいけない。そうでないと平和は絶対保てないと思います。
今、核の保有量はロシアが一番多い。それを、率先して捨てたら、どんどん拡散してしまう。新興国や後発国が、どんどん陰で作るに決まっていますから。それこそどうしようもない自然状態です。

沢辺 今持ってる国が減らす以前に、まず拡散させないことが重要なんですね。でも、今は具体的に誰もアイデアを持っていないけど、その先に持っている国が少しずつ減らそうよってことがあっていいと思います。
小浜さんが言っているのは、ホッブズじゃないけど、人間はほうっておいたら死に至る闘争をしてしまうので、強力な権力をどこかに置くしかないということですよね。

小浜 僕はホッブズの考えって性悪説に基づいていて、だからこそ非常にシビアな、いい見方だと思います。その見方は捨ててはいけない。核廃絶をしたら、みんなの人間性、ヒューマンネイチャーが変わり、世界中が平和で仲良くなりますか。そんなバカなことあるわけないじゃないですか。
捨ててはダメなんです。集中させて、絶対的な権力を作り、それによって地球全体を管理する。私はそんなイメージを持っています。

沢辺 過渡的にはそうですね。ものすごく長いスパンで言えば、その先にさらに核を減らすことはあり得るかもしれないけど、そこまで誰も展望できていないとは思いますけど。

小浜 でも本当は、その過渡期のことをキチッと言う、評論家なり思想家がいないといけないんですよね。誰もいないっていうのはおかしい。
ただ核廃絶という、起こりそうにないことだけを言っている。

沢辺 そうですよね。ただ、僕はそこに至るには、やっぱり経済の問題が大きいと思う。

小浜 それはもちろんです。
でも、それでみんなが裕福になって、経済的な格差がなくなり、争いがなくなる……そうなるかなあ。私は、そうはならないと思います。

沢辺 そうですか? たとえば世界中が今の日本ぐらいの経済水準に到達すれば、強盗やるよりも、まあ稼いだほうがいいか、ということになると僕は思うんです。

小浜 でも、そもそも人間の闘争とか紛争は、他者と関わって、取引したりするってところから生まれてきているわけでしょう。
そういう交流は今後も行なわれていくわけで、そこでのトラブルが皆無になるってことはあり得ないでしょう。

沢辺 そのへんに、僕は若干のズレを感じます(笑)。性悪説って言ったけど、僕は性悪説があるのと同時に、性善説もあるかなって思っているんです。
たとえば近江商人の「三方よし」みたいな考え方。本当の意味で競争するときには、単に死に至る闘争で競争するっていう段階を経て、本質的に三方みんなが得をする、みたいな視点を持っていないと、競争そのものにも勝てないということがあり得ると思います。
世界を眺めれば、ベトナムだってあんな酷いことになった中でも、徐々に社会秩序はいいほうに向かっているじゃないですか。

小浜 でも近江商人の「三方よし」っていうのも、純粋な倫理として言われているんじゃなくて、要するに本当に競争に勝つには、みんなが満足する形に持っていくのが結局はいいんだという、一種の功利主義道徳ですよね。競争否定ではないと思うんです。日本にはそういう考え方がけっこう定着していますよね。利潤追求が本懐の商家の世界から、正直や誠実の徳が生まれてくるというのには、それなりの必然性がある。私は道徳っていうのはしょせんそういう功利主義的な発生源を持っているものだと思います。
それから、ベトナムの秩序がいいほうに向かっているっていうのはその通りなんだけど、その秩序は何によって支えられて、守られているのかっていうことに対する厳しい視点を失ってはいけないと思う。短期的な世界状況としては、覇権国家がなかったら、たぶんダメでしょう。

沢辺 僕も、アメリカはただちに覇権を手放せ、とは思わないし、ベトナムでも、きっと警察力の強化のおかげで社会秩序が保たれている面があると思います。
でも、警察権力を強化すると、過渡的には行き過ぎた賄賂の横行とかが起こることは、もちろんあると思います。しかし、日本で賄賂が見えないくらいなくなっているのは、単に日本の民族性というよりも、やっぱ賄賂やるより、普通にやったほうがいいんだ、とみんなが思っているということがあるんだと思うんです。

小浜 それは性悪/性善とはまた違ったニュアンスで、人間が賢くならなくてはいけないわけですよね。神様に近づかないといけないんだけど、
それは難しいと思います。ならないと思うんだよな(笑)。

●日本の思想家の役割

沢辺 で、まさにそういう人類最高の問題に直面したのが今の日本なのかな、と僕は思うんです。

小浜 世界中の人がある程度経済的に豊かになり、賢くなり、このほうが得だって戦争なんかしなくなったとしても、その先にまた、究極の問題として、いま、日本で起きているような精神的なアノミーの状況が生まれてしまう。それは多分、ニーチェが言うニヒリズムっていうのと同じだと思います。
だから逆説的かもしれないけど、日本は上手くいってるからこそ、アノミー的な自殺者が多いんじゃないですか。そういう論理も成り立つかもしれません。

沢辺 だからこそ、日本の思想家は、綺麗ごとに留まらないで、この問題をちゃんと考えなくてはいけないと思うんです。
今の日本の問題を、単に貧しいからだとか、格差が生まれたからだ、という単純なレッテルを貼るだけで終わらせてはいけない。

小浜 政治の課題として取り上げられることだけで、物事を見てはいけない、と。
もうちょっと、死んでいく人、自殺する人や、爺さん婆さんの、その人の息づかいがわかるところまで入り込んで物事を見る。その見方を上手く確立することが、思想としては大事ですよね。

沢辺 それから新たなコミュニティや関与の関係の、新たな可能性も、不関与になりきった今の日本人こそが、探れるんじゃないかと思います。

小浜 つまり、自由主義国家として築き上げてきた、自由と豊かさは維持しつつ、新たな可能性を探っていく。それを維持するのは、絶対の条件ですからね。

沢辺 その中にきっと、小浜さんが言ったように、人間に求められる素養、力っていうのが、高すぎるんじゃないのか、という視点も折り込みながら考えていくことが今思想に求められている。

小浜 現実の我々の生きている、まあこれがいいよねって共有できる倫理感覚からあんまり乖離しない形で、もうちょっとその先までいくって言うんですかね。それは必要だと思います。

沢辺 それは政治ではなく、思想の役割ですよね。小浜さんや竹田さん、それからもっと若い世代も含めて、そういう人たちが今一番大変なところにいると同時に、世界的には極めて重要なポジションにいるような気がしてならないんです。今日はどうもありがとうございました。(了)

これまでの回

第1回「そもそも、自殺はそんなに悪いことか」

プロフィール

小浜逸郎(こはま・いつお)
1947年、横浜市生まれ。批評家。
横浜国立大学工学部建築学科卒業。国士舘大学客員教授。
思想講座「人間学アカデミー」主宰者。

小浜逸郎の新刊『子供問題』、『大人問題』発売中

『子供問題』─学校、家族、メディアに見る子供をめぐる矛盾
著●小浜逸郎
定価1900+税
ISBN978-4-7808-0136-1 C0036
四六判 / 192ページ / 上製
[2009年12月 刊行]
目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。

『大人問題』─目標喪失した社会を正しく生きるために
著●小浜逸郎
定価1900+税
ISBN978-4-7808-0141-5 C0036
四六判 / 200ページ / 上製
[2010年02月 刊行]
目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。

談話室沢辺 ゲスト:小浜逸郎 第1回「そもそも、自殺はそんなに悪いことか」

●自殺を本質から捉えなおす

沢辺 日本の自殺率が高止まりしていますよね。
それはバブルが崩壊し、金融危機が起こり、格差が拡大して、リストラされたり、貧しくなってるからだ、と理由があげられています。
それを受けて社民党の政策などでは、雇用を確保しろとか、社会保障を充実させろという流れになっている。
自殺って、人間の死が前提になっているから、それには抗えない。「自殺を減らすために社会保障を充実させようよ」って言われたら、なかなか反対しきれないですよね。

小浜 そうですね。

沢辺 でも、例えば南アフリカは、ネルソン・マンデラが大統領になっても、皮肉なことにますます格差が拡大してしまい、酷いらしいじゃないですか。
自殺が単純に格差や貧しさの拡大で起こるのであれば、南アフリカは世界最高の自殺率、ということになるけど、実際、そうはなっていない。
それで、もう一度、自殺っていうのを大元のところから考えておいたほうがいいんじゃないかって。
前提となる数字を踏まえ、自殺というものの本質的な問題と、そこから考えうる対応を整理しておきたいと思って、今日のインタビューを考えました。

小浜 まず、世界的に一番権威ある自殺についての考察は、社会学者のエミール・デュルケーム(Emile Durkheim,1858-1917)の『自殺論』です。

彼は自殺を3種類に分類しています。
一つが「自己本位的自殺」。個人的にプライドを傷つけられたり、誇りを失ったりしたことで起きる自殺です。
いまのような経済的な困窮も関係あるでしょう。それで生きる望みを失って死ぬという、いわゆる普通の自殺です。
二つ目が「集団本位的自殺」。いわゆる自爆テロや、ハラキリとか、理念のために命を捨ててしまうというものです。
三つ目が「アノミー(anomie)的自殺」です。アノミー=無秩序ですね。「アノミー的自殺」の定義は、すこし解りにくいのですが、私はこれが日本の自殺率の高止まりに関わっているのではないかな、と思っています。
無秩序の感覚というのは、宮台真司さんも言っていますが、この社会はもう底が抜けてて、みんな何に寄りかかっていいのか解らない、という感覚です。

日本では、自殺は一般的に、心の問題としてとらえられています。だから心の悩み相談室のように、「自殺したくなったら電話して下さい」となる。
しかしデュルケームは社会学者だから、あくまで現象を鳥瞰的な位置、外から分析していくというやり方をとっています。
さすがはデュルケームで、こういうやり方って、日本では自殺対策を考える際、あんまりなされてないんですよ。
だから私は、「アノミー的自殺」が、もし今の日本の自殺率の高止まりに関係があるのであれば、日本での「アノミー」とは一体なんなのか、ということから考え始めなくてはならないと思うんです。

政治として、自殺が増えていることにどう対策をとるかというと、自殺は生命が失われることであるから、なにがなんでも数を減らさなければならない、という話になってしまうことは仕方がない。それには抗えないですよね。
でも、今回政権交代がありましたが、例えば子ども手当の支給や、高校の無償化など、福祉的な対策を手厚く講じるということによって自殺が減るとは、私にはあんまり思えないんです。

それはどうしてかというと、自殺は誰にとって悪いことなのか、ということをちゃんと問い詰めていないからです。とにかく命が失われることは悪いことだから、何とか政治的な対策をしましょう、予算を出しましょうということにすぎない。
なんで人は自殺するのか、ということに関わってくると思うのですが、挑発的な言い方をすれば、「そもそも、自殺はそんなに悪いことか」と私は言いたい。

もう一つの問題は、内閣府が発行している『自殺対策白書』では、自殺の原因を経済的理由、家庭の理由、などと分類をしていますが、でも本当は、自殺の理由は複合的ですよね。白書でも、理由は複合的だとことわってはいますが。

でも、私は、自殺の最終的な問題っていうのは「孤独」だと思うんです。金があっても自殺する人はいる。

食っていけなくなったから死ぬ、というのは、リクツとしてはわかりやすいかもしれないけど、この「食う」という概念をもう少し詳しく見ると、食っていけなくなる、ということは、同時に社会関係の一つ一つを失っていくということですよね。女の人にも甲斐性なしとして見放される(笑)。すると孤独になります。

中高年男性に圧倒的に自殺が多いことの理由に、孤独と、「自分の一生は一体なんだったんだろう」とか、「この先生き続けても大して面白いこともありそうにないな」という気分の問題がすごく大きいと思うんです。

何年か前、NHKスペシャルの『ひとり 団地の一室で』(2005年9月放送)という番組を見ました。
40代後半から60歳以下ぐらいの男性ばっかり1500人くらいが、松戸の老朽化した市営団地に住んでいたんです。
ホームレス寸前のような生活で、ゴミがすごいんですよ(笑)。
不謹慎な言い方になりますが、面白いのが、民生委員とか、地域の世話人みたいなおじさんたちが対策を考えて、見回り訪問をするんですよ。
大丈夫か、死んでないかって。その見回ってる人たちは70歳くらいの高齢者なんです(笑)。
それで、48歳とか55歳の人たちが「大丈夫ですか、○○さん」とか言われててね。

要するに、解雇されれば社会関係は一時的にしろ失うわけです。
男は仕事を失うと、プライドを激しく傷つけられます。がっくりと落ち込むんだけれども、その時にエロス的な関係性、つまり女性なり誰かがいて、支えてくれるということがあれば、たぶんそんなには自殺しないと思うんです。本当はそこが、この問題のキモじゃないかと私は思っています。

沢辺 僕は労働が蔑まれすぎちゃっているってことも、そこに絡むような気がします。
つまり、仕事は本筋ではなく、生活が本筋なので、仕事は生活のための道具だ、という扱いになってしまっているでしょう。
ところが実態は、実は仕事って面白くて、他者からの承認も十分得られるし、中途半端なボランティアよりも、よっぽど達成感や承認感っていうのは大きいじゃないですか。

小浜 報酬も得られることだし。報酬には精神的な承認という意味もこもってますからね。

沢辺 はい。人間ってやっぱり食わなくてはいけないから無理矢理働いてるんだ、というより、百姓が畑の作物を心配してしまうように、そのことそのものに引かれるってこともあると思うんです。

小浜 そうですね。百姓の場合は愛と言ってもいい。

沢辺 それが、「実は労働に意味はなくて、生活こそ大切なんだよ」とされたうえに、さらにそれをちょん切られてしまう。
じゃあ俺は一体この50までなにをやっていたんだ、と。そこには女房子供を食わせてきた自負とか、いろいろ付随してるけど、やっぱり人間には、まず労働をやってしまう、という性質がある気がするんです。

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●男と女の差

沢辺 もう一ついうと、そこには男女の差も感じます。

小浜 男女差はありますね。それは自殺の数字にもはっきりと表れています。おばさんとおばあちゃんの自殺率は、同世代の男性とは比べ物にならないくらい低い。
自殺者数が一番多かったのは2003年(平成15年)です。その年の45歳から59歳までの自殺を男女で比べてみると、何と男性は女性の4.2倍(男性8,680件/女性2,047件 参照:厚生労働省「人口動態統計」)です。つまりこの年代では男性の自殺が全体の8割以上を占めている。
経年変化を見ても、昔と今とで中高年女性の自殺率は全然動いていません。(平成20年版 自殺対策白書参照)下げ止まりというか、ずっとそうです。

沢辺 僕は奥さんとの間ですごく差を感じます。
奥さんは友達と買い物に行こうとか、飯を食いにいこうっていうことができるんです。でも、僕はその前に何かがないとできない。
たとえば「人間学アカデミー」の講座があって、その帰りにみんなと飲むっていう流れには参加できるけど、その前がなくてただ単に飲みにいこうっていうのはできない。なんていうか、言い訳がないとできないっていう感じがある。
離婚したとしてもね、奥さんは、きっと友達と「買い物行きましょう」で会える。

小浜 まったくその通りだと思います。その差はすごく大きい。
ウチのかみさんは、どっちかっていうと男性的なタイプで、細々したことはあんまりやらないで、酒飲んで寝てる方がいい、みたいなことを自分では言うんですね。そういう点で私と気が合うんですけども(笑)。
でも、実際には、日常の細かな気配りにとても長けていますし、かみさんの友達には、かつての同僚とか、写真をやっている仲間がいて、その人たちが、細々したもの、たとえばお料理とか、ビーズ細工だとか、刺繍だとかをやっているんですね。
仲間がいて、その仲間との間でごく自然に日常の時間を埋めていく。そうすると、かなりいいネットワークが自然とできている。
男はそういうことをやらないでしょう?
もちろん男も、囲碁・将棋や麻雀、釣りやゴルフや、と趣味は持っているんだけど、趣味から人間関係へ、という感じにはなかなかいかないところがある。
そういう面から見ると、男は孤独になりやすいというのは確かですよね。

「人間学アカデミー」第八期のシンポジウムのとき、私が「女性は強いですね」って言ったら、精神科医の斎藤環さんが「いや、強いんじゃないんだ。男は立場、女性は関係」と言っていました。それは上手いとらえ方だなって思ったんです。

沢辺 そうですよね。結果的に今の社会だと、女の人の「関係」のほうが有効なんですよね。
昔は、最後の拠り所として父親という立場がありましたが、今では父親という立場に意味がなくなってしまった。

小浜 だいたい、子どもが思春期過ぎてからの「父親」は、経済的には支えているわけだけれども、心情的にも支えているということは、あまりないですよね。

沢辺 そうすると、関係性に強い女性のほうが今の社会への適応力が高いと。
確かに、男の「立場」っていうものの今の社会への適応力は、恐ろしく弱いということが自殺率の8対2という数字に現れてますよね。

小浜 そうですね。
話を戻すと、要するに孤独感というのは男性に特有で、非常に強い。それは心の問題、精神的な問題のように思えるけれど、例の松戸団地の番組を見ていると、孤独を長く続けると、男というのは、身の回りもだんだんホームレス状態に近くなっていくということがひしひしとわかる。
つまり、本来はメンタルの問題であったものが、だんだんだんだんフィジカルなところに及んでくる。それが寿命だって縮めると思うんです。

『熟年性革命報告』(小林照幸/2003年/文春新書)という本に面白い話があります。
養護老人ホームで売春をやっている80の婆さんがいて、その婆さんをめぐって、70代の男二人が、決闘をやったんです。熊手と竹箒かな。一方が怪我をしちゃって、それが発覚したという(笑)。
やっぱり男って、ゲームでもスポーツでも、互いに闘う場が形成されれば、そこでは結構ハッスルする。
でも、今の日本はそれがなくなってしまった世の中ですから。

沢辺 国会議員が年寄りでもはつらつとしているのは、国会議員という、立場が確保できているからですよね。

小浜 闘ってるもんね。闘ってると生き生きしていますよね。政治家ってホント若い。

沢辺 大体土日もなにかやってるじゃないですか。俺は最近、日曜日も仕事って思うとがっくりしちゃいますが、この人たちはずっとやってるんだと思うと、すごいなあ、と。それは、やっぱ立場かな。

でも、僕は、これが男という性に本質的なものなのか、社会的なものなのかっていう議論には、あんまり意味がないかなって思います。
仮に社会的なものだとしても、それは社会的な状況の変化が100年くらいないと、変わらない感じがします。
だから今は、そういうんじゃダメなのっていうのを言ってみてもあんまり意味がないから、ちょっと横に置いておいていいかなと思うんです。

小浜 僕もいいと思いますよ。それはどっちがよりいいかっていうような倫理的な判断の問題じゃなくて、現実にそうだってことですから。

●行き過ぎた社会の不関与化

小浜 ところで、今、20代女性の自殺率が上昇しているんです。と言っても全体が少ないから、数は少ないのですが。
昔は、20代の自殺は、女性が4割から5割近くを占めていました。
1960年代から80年代にかけて、20代男女の自殺は減少して、1995年くらいまで20代の自殺は本当に少なかったんです。
でも、ここへ来て男性のほうも増えると同時に、20代女性の自殺が、ミクロな範囲だけど上昇しています。
やはり男性の労働現場でのキツさと同じもので、なおかつ若いから、という理由でもっとハードなものが20代の女性に来ているんじゃないか、という気がします。
さっき、中高年男性の自殺は「孤独」がキーポイントだと言いましたが、20代女性の自殺の増加には、そういう意味での味気なさっていうか、潤いのなさのような感覚、気分に支配されてるんじゃないかなっていう気がします。

沢辺 それは、「社会の不関与化」というふうには考えられませんか?
2年くらい前、京都精華大学で日本語リテラシーという授業をやっている野口勝三さんと、「ゲイをめぐる状況」について議論したことがあります。
そのときに面白いと思ったのが、社会全体が関与=関係することを、減らしているという考えです。たとえばベタベタな親子関係とか、地域関係とか。「小浜さんちの逸郎は相変わらずぶらぶらしてる。仕事も行かないで何やってんだ」とか(笑)。そういうのはイヤだったわけですよね。

小浜 そうですよ。我々はみんな煩わしかったわけです。だからそういう、他人の心に土足で踏み込むみたいな関係のあり方をできるだけ避けるようにしてきた。

沢辺 そこからどんどん逃れて核家族化したり、引っ越しをしたりして、社会はだんだんそれを克服し、今、そういう関係は基本的に減ってきている。

小浜 都市社会にみんなが集まり、だけど、みんな隣は何をする人ぞ、と。
個人主義で、経済的にはそこそこ裕福、という社会になりましたよね。

沢辺 彼はそれを「不関与」と言っています。しかし不関与の弊害がここにきて出てきているのではないかと。
たとえばゲイをめぐる視線も、昔だったら「小浜さんちの逸郎くんは結婚もしないで、怪しいよ。なんかちょっとコレっぽくない?」とか(笑)。そういう噂に、誰も意味を感じなくなり興味を持たなくなった。そもそも基盤にするコミュニティがないから、そんな噂をしても「え、小浜くんちの逸郎くんって誰のこと?」となってしまうから、なくなったわけです。
だけど、僕はそれはそれでいいことだと思います。野口さんも悪いことだと言ってるわけではありません。
それは、みんながゲイという存在を積極的に肯定したのではなく、他者に対する興味を失っただけ。でも、それはそれでゲイが生きやすくなったから、いいんだと。
ただここにきて問題が出てきているのは、たとえばゲイの中にも、関与がなくなって好き勝手なことができるけど、そうなると逆に関与を求めだしてきている。ゲイの間でパートナーということが話題になる率が高くなっている気がする、というんですね。
つまり、行き過ぎた不関与に対する反動が起こっているからで、やっぱり適度なコミュニティは必要なのではないか、ということです。特にゲイは、顕著に独身が多いから。

小浜 ただ、長くつき合ってるゲイカップルもいますよね。

沢辺 いるけれども、条件として男女関係より難しいですよね。浮気がどんどんできてしまうし。

小浜 普通の男女関係より乱脈だからね。

沢辺 はい。そうするとつがいであることがむずかしい、つがいが弊害になることもある。
だけど、年をとると、やっぱりつがいっていう安定性が欲しくなる。それは関与されることを積極的に求めることですよね。
これは伏見憲明さんも前から言っていますが、ゲイの状況はある種、例えば性関係が乱脈になるってことについていっても、人類の先行きを過激にやっている面がある。

小浜 一種の実験みたいな感じでね。

沢辺 だから不関与が行き過ぎて、今ゲイが、パートナーシップが欲しくなっているということは、今後ノンケの人たちもそういう方向になっていくだろうという見通しの材料になると思うんです。
今の話を聞くとやっぱり、社会全体が不関与になってきているように感じます。ただ、それを悪いことだと総括する必要は全くありませんが。

小浜 それの行き過ぎた状態っていうのが現われてるんじゃないか、ということですね。
それは言えるでしょう。宮台真司さんが『日本の難点』(2009年/幻冬舎新書)の中で「コミュニケーションの希薄化」という言葉で、同じようなことを言っていたと思います。
沢辺 そう。宮台さんも小浜さんも、竹田青嗣さんなんかも、視点はそれぞれ違いますが、不関与問題は、ちゃんと見ている人はちゃんと言っていますよね。
その反動的な場合が、「家族の復権」とかっていう意見。そこにはもう後戻りはできない、と僕は思うんですけど。

小浜 保守派はもうそういう感性で、理想型が固まっていますから。そこから全部発想している。「それがいいんだ」と。
これから違う形になっていくのに、みんな「これは壊れてるんだ」とか、「ヒビが入っているんだ」と見てしまう。

沢辺 でもそこにある感覚は、壊れているという認識までは同じですよね。それを元に戻ろうよっていうのは……。

小浜 戻ろうというのはたぶんダメでしょう。

沢辺 元に戻るのは無理だから、別の装置を考えるということしか進む道はないですね。ところで、さっき話した松戸の男たちのように、男は立場、女は関係、という社会の中で、立場をなくしてしまい、奥さんにも見放されてしまった男たちが、ある種アノミー的になる、ということなんでしょうか。

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●秩序の崩壊で広がるアノミーの気分

小浜 ミクロな圏内での、一種のアノミーなんじゃないかなと思います。
つまり、日本社会が全体としては、ある程度目標達成をしてしまい、なんとなくアノミーの気分が広がっていて、ミクロの圏内では現実的にアノミーが出現してきている。
最初に読んだときは概念が分からなかったんだけど、デュルケームが言ったアノミー的自殺が、今、日本で増加している自殺に当てはまるんじゃないかと思う。

沢辺 秩序の崩壊ということですよね。

小浜 そうです。ミクロな秩序の崩壊です。それは法律みたいにどこかに書かれているわけじゃないから、よく見えないんですね。
でも小さな範囲に絞り、倍率を大きくして眺めると、そこにアノミーが見えてくるということはあるんじゃないでしょうか。
で、そのアノミーに男が弱いんです。

沢辺 男がアノミーに弱いんでしょうか?
というのは、男が依って立ってきた秩序が崩れた。一方、女の人はその依って立ってきた秩序を、むしろ自分たちで崩してきたと思うんです。
自分たちが前向きに崩したことだったから、それは女性にとっては「無秩序」ではなく「変革」なんじゃないかと思うんです。

たとえば、僕の同じ年の友人に、若くして結婚し、専業主婦になり子どもを育て、子供も手を離れたからこの5年前ぐらいから働きに出ている女性がいます。単なるパートではなく正社員で、まあ、一人前の働きに出たわけです。
だけど、その旦那は相変わらず「俺がちゃんと働いているから」みたいな、専業主婦時代の気分をずっと引きずっている。

小浜 養っている、と。

沢辺 そこまでは言わないだろうけど、「俺は忙しい」と。
で、「私だって忙しいよ」と言うと、ここからは僕の想像ですが、「お前は自分で選んでわざわざ仕事しているだろ」と。
それは選んだ忙しさで、俺のは俺がやらなきゃしょうがない忙しさなんだ、と。
でも、お前の忙しさは選んだ忙しさだから偽物で、俺の忙しさは本物だ。これは、もう2009年の日本ではまったく通用しないでしょう。

小浜 そうですね。成り立たないよね。

沢辺 だけど、これはたぶん半世紀ぐらい前までは、当たり前に成立していた。夫という立場、親という立場っていう秩序ですよね。
でも、それが崩壊した。男が主人公だ、家長だ、という秩序は崩壊し、でも男はそれに気付いていない。というよりむしろ、まだ直面していない。
つまり、奥さんにとっては、いい意味での秩序の崩壊だから、アノミーにはならない。一方、夫にとっては困ってしまうことだから、気付かないようにしている。で、もっと大きく直面した時に、アノミーにいってしまうのかなって思う。
ミクロで見れば、そういうことがあちこちに起きているんですよね。これは政策として子ども手当を出したり、社会の制度を変えたとしても、なかなか解決できない問題ですよね。

ところで、男が立場を失ったときの対策、っていうのは当面取り得るんでしょうか。
よくあるじゃないですか。定年以降、NPOでパソコンを教えるとか、料理をやれるように男の料理教室に通うとか。
それを積極的に、たとえば松戸の団地に住んでる人の間ででも、やっていくような対策です。

小浜 でもそれは、そうとうきめ細かなケアになりますよね。
松戸の団地に関しては、女性はみんな逃げてしまったのだから、誰がそこまで面倒見てくれるのか、と思います。

沢辺 そうですよね。であれば、自分たちでやればいいのだけれど、そんな意欲が残ってるような人だったら……。

小浜 だから意欲を失って甲斐性もなくしているんですよね。

沢辺 松戸に居着かないですよね。いいとこ、独り所帯に辿り着かないでしょう。

小浜 そうなんですよ。

沢辺 じゃあ、ある意味小浜さんは幸福かもしれませんよね。「言語哲学研究会」や、「しょーと・ぴーすの会」(※ともに小浜氏が主宰・参加している勉強会)をやっていますから。

小浜 私は、ああいうのは意識的にやっています。自分にとっての自己ケアという意味合いもあるんです。そうしないと、外に出る機会がなくなってしまうから。
人と呑んで話すのは好きなので、そういう自分にとっての意味っていうのはありますね。
最初からそんなに意図してやっていたわけではないんだけど、巧まずしてそういう逃げ道を作っているんでしょう。でないと、余計鬱が募ってしまうというか。

沢辺 でも、小浜さんはそれを現実に自分の力で上手く、それもものすごく上手くやっていますよね。

小浜「シネクラブ黄昏」(小浜氏が主宰する映画鑑賞会)もね、ホントはそうなんですよ。できることならそこでの人間的出会いそのものを趣味として位置づけてやりたいんですね。一人でやってても寂しいから。みんなでひとつのテキストをめぐってわーわー言い合うのが、好きなんです。一種の鬱対策ですね。

次回へ続く

第2回「日本人と死」

プロフィール

小浜逸郎(こはま・いつお)
1947年、横浜市生まれ。批評家。
横浜国立大学工学部建築学科卒業。国士舘大学客員教授。
思想講座「人間学アカデミー」主宰者。

小浜逸郎の新刊『子供問題』、『大人問題』発売中

『子供問題』─学校、家族、メディアに見る子供をめぐる矛盾
著●小浜逸郎
定価1900+税
ISBN978-4-7808-0136-1 C0036
四六判 / 192ページ / 上製
[2009年12月 刊行]
目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。

『大人問題』─目標喪失した社会を正しく生きるために
著●小浜逸郎
定価1900+税
ISBN978-4-7808-0141-5 C0036
四六判 / 200ページ / 上製
[2010年02月 刊行]
目次や著者プロフィールなど、詳細はこちらをご覧ください。