2009-11-27

談話室沢辺 ゲスト:須田正晴 第1回「太郎次郎社エディタス・須田正晴は如何にして版元ドットコムに入ったのか」

●太郎次郎社は、なぜ版元ドットコムに「入って来た」のか

沢辺 今回の談話室沢辺の最初のテーマは「版元ドットコム」でいきましょう。そういえば版元ドットコムのことって、組合員(幹事)とちゃんと話したことがなかったな、と思ってね。

須田 版元ドットコム大全』にまとめたりはしていますけど、生きた言葉ではあまりないですよね。今日、『大全』を読みながら来たんですけど、99年の呼びかけから数えたら今年で10年、サイトオープンからは来年で10年なんですよね。

沢辺 そうそう。組合員が何人かいる中で、なんで須田くんと話すのかというと、結成当初の役員メンバーの中で、ダントツに若かったから。

須田 そうですね。今だと会員社の中に若い人もたくさんいるけれど。99年からいる人は、沢辺さんと私以外では、青弓社の矢野恵二さんと、第三書館の北川明さんで。

沢辺 あと、幹事を辞めたの佐藤英之さん、凱風社の新田準さん。当時矢野さんたちが50代半ばくらいで、僕が40代前半。須田くんは20代だったでしょ?

須田 僕は25歳だったから、ちょうど20代の真中でしたね。

沢辺 それから、版元ドットコムと流対協(出版流通対策協議会)との関係はそんなに深いわけではないのだけど、そもそも版元ドットコムのアイデアが流対協の中の勉強会の過程で生まれた。版元ドットコム立ち上げ時のメンバーは、須田くんがいる太郎次郎社以外は流対協の会員社だったんだよね。
だから、まず「ところで、太郎次郎社は、なんで版元ドットコムに入って来たんだっけ?」というところから聞きたいな。
立ち上げの時から居たんだから、「入って来た」というと語弊があるのかもしれないけど、他はみんな流対協の勉強会をやってたから、やっぱり感覚的には「入って来た」という感じだった。

須田 経緯を説明すると、1999年の12月に、飯田橋の「東京しごとセンター(当時はシニアワーク東京)」でやった版元ドットコムの呼びかけ会に、私が行ったんですよ。
説明会があることは、12月1日の朝日新聞の記事で知りました。その記事は私が見つけたわけではなくて、社の先輩が「こういうのやるらしいけど、須田くん興味あるんじゃないの?」と言ってくれたので「じゃあ、見てきます」となったんですけど。

沢辺 枝葉の話なんだけど、そのときの新聞記事は、オレ的には、「ズレた報道のされ方をされているな」という意識があったよ。「書誌情報」より「産直」の話が重視されていて、「出版社が、インターネットを使って直接販売するらしい」みたいな感じで書かれていた。

須田 僕はその頃、「インターネットで今すぐたくさん本が売れる」とは思っていなかったです。でも、出版社のホームページがいくつかでき始めた頃で、太郎次郎社はまだサイトがなかったから、その辺のことは知っておかなければならないな、という意識がありました。
説明会に行ってみようと思った一番の理由は、書店側に本の情報が届いていない、という状況への問題意識です。その頃、大手はすでに出版VANで動いていたけれども、太郎次郎社は出版VAN(※参照「高島利行の出版営業の方法:第21回 新・出版ネットワークあるいは出版VANの今とこれから」)に接続していないため、まだ流通している本なのに、「書店で品切れって言われたんだけど」と、言われることがあったんです。つまり、アルバイトの書店員さんが検索機を叩いた時に出てこなくて、それを「こんな本はありゃしない」とか「こんな本は絶版です」と言われてしまっていた。
これは何とかしなくては、という意識を持ち始めた頃に、ちょうど版元ドットコムに出会ったんです。

沢辺 そういうことがあったね、あの頃。

須田 今でも、正題と副題を間違って叩いちゃったり、取次の書誌のほうがちがってたりして「ない」と言われることがありますよ。あと、取次によっては、すごく長い取り寄せ期日になるとか、「取り寄せできるか不明」というステータスが出ちゃうことがあって、それをお客さんに「品切れ」と伝えちゃう書店員さんもいます。もちろん、以前と比べたら減りましたけど。
これは多分、書店員さんというよりも、取次データベースのインターフェースの問題だと思うんです。ただ、当時我々出版社側が「その本はあります、この本はありません」と言っていなかったことも確かで、「言わないんだから、わかるわけがない」と言われればその通りでした。
でも、その「在庫の有無」をどうやって言えばいいのか、というのが自分にはわからなかった。だから、「版元ドットコムという団体は、そういうのをやるらしい」と知ったときに、「良いな」と思ったんですね。
それから、ネットで本が売れるとは思っていなかったけれど、「調べるのはネット」の時代になっているんだな、という感覚がありました。あの頃はまだGoogleもなかったから、検索ってすごくノウハウのいるものだったんですけど、気の利いた人は検索で調べていましたから。

沢辺 なるほど。確かに版元ドットコムは「書誌を自分たちで発信するんだ」と言っているけど、そこに至ったのは、須田くんが言ったような泥臭い理由なんだよね。要は、たとえばジュンク堂の大阪店で「そういう本はありません」「ポット出版は取引がありません」と言われちゃったりとか。取引があるのにだよ(笑)
もちろん、アルバイトの人がポット出版のポの字も知らなくても当たり前じゃん、という面もあるけどね。
在庫情報のことは、自分たちとしても当時強調したいポイントだった。

須田 そうですね。在庫の「ある/なし」の話は、今でも気になっているところです。最初の考えは、「あると言いたい」だったんですが、ずっと後になってから語研の高島利行さんに影響されて、「ないですよ、も大事なんだ」と思うようになったり。

沢辺 そうだね。在庫があるということを発信してないのに、「書店が探してくれない」とか不平を言っていても仕方がないから、まず自分たちで「ある/なし」をちゃんと発信しようよ、と。
それで、最初の説明会を聞いて、どうだったんですか?

須田 説明会を聞いてビックリしたのは、最初から出資社を募集していたことですね。入会はこうで、幹事社になるのはこうだ、というのを言ってたと思います。出資金20万円、入会金1万円、会費はこのくらいの見通しでできそうだ、という話でした。すごく面白い取り組みだと思ったし、在庫情報の発信は一社で四苦八苦しながらやっていても到底できないと思ったので、「これは乗る手だろう」と思ったんです。
会社に戻って、「これは入会ありですよ、会員になりましょう」という話をしたんです。そうしたら社長から、「こういうのはサービスに乗っかるだけじゃ駄目なんだよ。会議に行って『良い話聞いてきました』だけじゃつまらないだろう? 作る方に乗っからなくちゃ。幹事になれよ」と言われて、「やらせていただけるんだったら、やります」と。

沢辺 それはまず、社長がすごいね。

須田 振り返ってみると、「あのときは何だったんだろう」と思うんですけどね。社長はふだん、「本業よりも、そういう活動で世話を焼くのが好きなやつっているんだよな」と言っていて、自分も社員も会社の外の活動をするのがあまり好きではなかったので。太郎次郎社も他の団体に入っていた時期があったんですが、それも「毎月毎月会議ばかりしていて、何も実りが戻ってこない。あんなところ抜けちまえ」といって抜けたんですよね。その頃、私はバイトだったので、正確な経緯は知らないんですが。
とにかく、外向けの団体づきあいが好きではない人だったので、「幹事に入ってやれ」と言われたのは何でだったのかは、ちょっとわからないですね。推測で言うと、私が社内の内向きの仕事に向いちゃう体質なので、ちょっと外側に窓を開けた方がいいんじゃないか、という意識もあったのかもしれない。

沢辺 なるほど。「須田育成方針」として、外部のフレーバーを混ぜたほうが良い、という個別の判断だったのかも、と。でも、社長が言ったことはその通りで、版元ドットコムは、「結局、自分でやるほうが得なんだ」ということを大切にしてきたよね。

須田 そうですね。単なる参加者でいるよりは、作る側にいる方が得なんだ、ということですよね。

沢辺 そして、それはそれなりにうまくいってきたと思うんだよね。でも、投下労働量と成果を比べたら「はたして本当か?」ということはあるかもしれないけどね(笑)

須田 直接の営業業績という意味では難しいかもしれないですけど、明らかに視界が広がったとか、普段会わない人に会えたことは大きいですよね。その機会が業績に繋がっていないのは、どっちかというと私の問題で(笑)

●10年前に考えていたこと

沢辺 社長のひと言があって、いきなり幹事社として参加することになったわけだけど、発足前後の印象的な論争ってありますか?

須田 版元ドットコムの名称自体も結構揉めましたけど、印象的だったのは、「どうやって送料無料にするか」「送料無料で送るのは値引きの一種じゃないのか」という送料論争。
あと、定価表記について。「定価」と表記するのかどうか、表示は税込みなのか税抜きなのか、という話があった。消費税に関しては、99年の時点ではほぼ決着していたんですけど(消費税5%実施は97年4月1日から)、定価のほうは「2000円+税」のどこまでが定価なのかといった話もしていて、「ああ、いろんな経緯があるんだ」と思わされました。
僕は「定価」という表記について、皆がこうしているから、くらいに思っていたんですけど、出版社が定めているから「定価」なんですよね。それまでは値札を付けているのと同じような感覚でいて、「この価格で拘束している」という意識は全然なかった。
それから、どうやって組織を立ち上げるかとか、どうやって受注を各版元に回して発送から決裁までやるかという、実務上のフローの問題ですね。各版元が無理なく書誌情報を公開して、送料無料でお客さんにお送りする仕組みをどう作るのか、と。その頃ちょうど、TS共同流通組合が版元を回ってトラックで取りに行く仕組みを作っていましたけど、あれは出版社が受注のない日も毎日Webに見に行かなきゃいけないサービスだったので、「あんなの無理だよね」と話したり。
ほかには、会員の加盟資格をどうするか。結局、沢辺さんの「明文化できない」というのがすごくシックリきたんですけどね。あの頃だと「法の華」が入って来たらどうするんだとか、セクト系の会社がたくさん入って来たら、そういう風に見えるんじゃないかとか。「何を出版しようと自由じゃないか」という考えと、「最初から色がついて見られるのはよろしくない」という意識とがせめぎあっていて、その兼ね合いの付け方も面白かったです。
最後に、レジュメと議事録が毎回ちゃんと回っていること。社内の会議だと、決定事項は各自がメモをして、「これで進めますね」でおしまいで、その後の議事録は、あまり作ったことがなかったんです。だから、レジュメを作って会議をやって決定して、議事録がメールで回るのはすごく新鮮でしたね。メールを使って複数人数で動くプロジェクトに参加したのも初めてでしたし。

沢辺 正直言うと、あの頃はまだメールもあまり普及してないころで、メーリングリストを使った組織運営のノウハウがあったわけではなかったんだよ。
でも、今須田くんが指摘してくれたような、会議を開くときはレジュメ、終わったら議事録、それを役員だけでなく会員社にも全部回すことで、読まないかもしれないけど、しようと思った時にチェックができる公開性を確保する、というのは、実は一番大切なこと。色んな組織が立ち上がってはつぶれていく中で版元ドットコムが上手くいった最大の根拠は、そこのような気がするんだよね。

須田 メーリングリストで突っ込みが入るような、「口を挟んでいいところなんだな」という雰囲気があるのも大事だな、と思います。特に、会員の人は自社のことがあるから振り返って色々言えなかったりするんだけど、会友の人はすごく気軽に「こうなったらいいんじゃないの」と口を挟んでくれるので、運営サイドとしてもありがたいと思います。
例えば、最初は日程調整ひとつとっても、みんなでガタガタやってましたね。そうしたら、会友の川添歩さんが「日付を縦に書いて、その後一人ずつ自分の都合を○×で貼っていけばできるんです*」と教えてくれて、「すっげぇ、頭いい〜!」ってなったのを覚えてます。

*例
     川添 須田 沢辺
12/14月 ○  ◯  △
12/15火 ×  ◯  ×
12/16水 ○  ×  ◯
12/17木 ○  ◯  ◯
12/18金 △  ×  ×

沢辺 そういう会友のひと言は大事だよね。
当時全体として決まったけど、個人的には異論があった、ということはありました?

須田 うーん。異論はなかったと思います。ただ、立ち上げた後、書店向けの買い物かごがずっと実装されないことについては、「何でこれは優先順位が低いままなんだろう。客注が遅いのは問題なんだから、送ればいいじゃん」と思ってました。でも、今は150社だから少しは有用性があるかもしれないですけど、あの頃に「版元ドットコム30社は客注を直送します、と言ってもなあ」という感じですよね。
当時はそれがわからなかったから、「書店への直送もやると言っていたのに、なんでだ」という思いとともに「でも、有用なアピールの仕組みを自分でも思いつけないな」というのがありましたね。

●個人・須田正晴のライフヒストリー

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沢辺 なるほど。2番目はもっと遡って、そういう須田さんという人は、どのようにして太郎次郎社、それから版元ドットコムに至ったのか、を聞かせてもらえますか?
オレは、その人のキャラというのは、その人の活動と結びついているところもある思っていて、バックグラウンドとしての個人史が大切だと思うんですよ。

須田 私は1974年(昭和49年)生まれで、小学校のときは不登校児でした。小学校一年生の最初から「行きたくない」と泣きわめいていたそうで、なんだか知らないけど、学校になじみがよろしくなかったです。小学校6年間のうち、行ったのは実質3年か4年くらい。
それで「これは中学校に行ったらもっと酷くなるだろう。変わった学校を受けてみたらどうなんだ」という話があって、埼玉の飯能にある自由の森学園に、中学校受験をして入ったわけです。中学高校はそこで過ごしました。
私の実家が横浜のあざみ野なので、飯能まで電車で通学すると2時間半から3時間くらいかかるんです。だから寮に入って、中学校から親元は出て。高校1年生くらいになると寮にいるほうが面白くなって、土日も家に帰らないようになりました。
高校一年のときに、その頃はまだ珍しかったんですが、親がワープロを買ってくれたんです。
というのも、私は今でも字が下手ですけど、昔はもっと下手で人には読めないものだったので、中学の卒業制作はワープロで書いたんですね。そのときは寮の先輩に借りて。表示画面が3行しかないようなものだったんですが、手で書くよりは大分ましだったので、それで書いたんです。それを見た親が、「この子は文章を書くんだ」と思ったようで、パナソニックのU1s55Aiというワープロを買ってくれました。持ち歩きができるタイプで、フロッピーは2DDで入りました。
親がワープロを買ってくれた頃から、怪しげなビラを学校に貼ったり、同人誌を作ったりするようになりました。今思えば、その頃に出版のもとみたいなものがあったのかもしれません。4の倍数になるページ数でクリアファイルに面付けして入れて、リソグラフを回してガチャンガチャンと冊子にまとめたり。人から原稿を集めて作った冊子を、学園祭で無料で配ったりしてました。
ゆるい学校だったので、紙もインクも含めて、学校の印刷機をタダで使わせてもらえたから、コスト意識はなかったですね。自分たちで紙を折ってホチキス製本する気力の分だけ部数が作れたので。

沢辺 ちょっと話が戻るけど、自由の森の時は不登校にはならなかったの?

須田 中学1年のときは、土日に実家に帰って、そこから寮に戻れなかったことも、けっこうありました。中学1年生のときの寮は中学1年生と2年生しかいない寮で、毎日が修学旅行みたいな感じで、安心して寝られないところがあったんです。
中学2年生になったときに高校生と同じ寮に移ったんですが、中学2年生から見ると、高校生って大人じゃないですか。そうすると中学生が騒いでも高校生の仲裁が入るから、わりあい落ち着いた生活が手に入りました。馬の合う先輩とも繋がりができたし、それなりに友達もできたので、中学2年からはちゃんと通ってましたね。
その後、高校の時にいくつか本を読んで、「歴史の勉強がしたいから大学に行こう」と思ったんですが、自由の森というのは、いわゆる学力偏差値は付けてくれないところなので、自分で予備校に通って受験勉強をしなくちゃいけない。それで高校を卒業した後、一年浪人したんですが、勉強する習慣をもっていないので身が入らず、結局現役のときと浪人のときと二回落っこちました。
その浪人中は、時間があるので新聞なんかをすごくじっくり読むわけです。そのうち、世間での日本語の使われ方、主に漢字の文字使いがとても気になって、「交ぜ書きはすごく汚くて、ゆるせない!」という文章を浪人生のルサンチマンをたたきつけるように書いたんです。それを、後輩の卒業式で母校に行った日に、国語の伊東信夫先生、自由の森は国語じゃなくて日本語科といったんですけど、その先生に「こんなの書いたんですよ」と渡した。そうしたら、「君は、勉強もそんなに身が入っていないようだから、太郎次郎社というところに行って、日本語がどう使われているかを実地で学んできなさい。最初は使い走りかもしれないけど、何か分かるよ」と言われたんです。太郎次郎社は自由の森学園の設立にコミットしていて、伊東先生も太郎次郎社の著者の一人だったんですね。
ところが、「伊東先生の紹介で」と電話してから面接に行ったら、事前の紹介にちょっと行き違いがあって「なんだ、お前は」と、けんもほろろに追い返されまして。
その突き返され方が非常に腹立たしかったので、その足で都立日比谷図書館に行って、社長の浅川さんがどういう人なのかを紳士録であさったり、太郎次郎社がどんな会社か調べたりしたうえで、「字が汚いので宛名書きはできないけど、宛名出力のシステムを作ることはできますよ」とか、「面接でもらった雑誌のこことここが誤植ですよね。こういう『間違い探し』くらいならできますよ」というような手紙をワープロで書いて送ったんです。
自分でも「こんなこと言われて雇う人いないよな」と思ってたんですけど、最初に行って帰されたのが5月で、確か7月に太郎次郎社から「手紙を見て気になってたんだよ。来なさい」と連絡があって、8月から勤め始めたんです。最初は出庫係だといわれました。その頃の太郎次郎社はそこそこ人数がいたので、出庫をやったら次は雑誌の編集に行ったり、営業と編集が1年とか2年毎にローテートしていたんです。私も勤め始めて半年後からは、編集部のほうの使い走りになったり、また営業に戻ったりと、行ったり来たりするようになりました。版元ドットコムの話を聞いたのは、営業にいた頃です。1994年の8月に時給のアルバイトで入社して、版元ドットコムの呼びかけが1999年末だから、6年目でした。

沢辺 当時、既に本郷三丁目にある自社ビルだったの?

須田 そうです。ビルの地下に倉庫があって、そこで出庫をやっていました。

沢辺 ということは、取次が取りに来る、集品版元だったんだ?

須田 そうです。トーハンと日販は毎日あって、栗田、大阪屋、中央社、日教販は共同集品で月水金、太洋社は一社集品だけど月水金、あと鈴木書店と大曲にあったトーハンの専門書センターの納品は、赤帽さんに頼んでましたね。
まず、回収してきた短冊と、電話注文を書き起こした短冊を、社内コード順に並べるわけです。それを取次別に分けて、ピッキングリストを書いて、リストを元に本を棚から出して来て、短冊を挟んで、合計冊数が間違いなかったら納品伝票を打つ、という流れでした。セット組みなどもあるので、200点くらい出庫すると、3時間から4時間はつぶれます。それが終わったら、代引きや直販の出荷をやる。それは点数は少なくても1点あたりの時間がもっとかかるので、他に自社の中のスリップを刷ったり付き物の手配もして、だいたい4時間か5時間、午後一杯は出荷の仕事でしたね。

沢辺 その時はデータベースとか作らなかったの?

須田 作らなかったですね。

沢辺 怠けてたんじゃないの(笑)?

須田 はい、そのとおりです。ちょっと言い訳すると、出版社システム自体は、既に入っていたんです。それは日販コンピュータのシステムで、モニタは単色、OSはPC-DOSというものでした。素性は上等なものなんだけど、いじり方がまったくわからなかった。いっしょにカード型データベースも入っていたんですけど、訳の分からない言語で、アプリケーションも何も入れようがないし、ちょっと手が出せませんでしたね。その後にMS-DOSベースのものが入って、それはもうちょっと使い勝手のいいものだったし、移行時にCSVやSYLK形式経由での転換もやったので、書誌情報を整理しようという気は起きていたんですけど、怠けてやってませんでした。
ただ、怠けていたのにも理由があって、ISBN順のリストや紹介情報を作っても、出力先がないわけです。だから、作る理由も出てこない。紹介文は図書目録に載ってるから、これでいいじゃん、と。だから、95年から99年までの間に、DB的なトライアルというのは、ほとんどしていないですね。
ただ、雑誌の定期購読管理だけはDB的なことをやっていました。日販コンピュータのシステムには雑誌の定期購読管理システムが入っていたんですが、MS-DOSベースの安いシステムに変えたとき、定期購読管理がついてこなかったんです。
だから定期購読管理を作らなくてはいけなかったんですが、自分ではとても作れないので、高校のときの友達に頼むことにしたんです。「ヤツの力を借りたいんですけど、いいですか?」と社内にも聞いて。でも、彼もかわいそうだったな。5万円くらいで引き受けたばかりに7日か8日会社に泊まり込みで(笑)
その時に初めてAccessに出合いました。96年か97年くらいですね。友達にAccessでシステムを作ってもらって、「DBってこういうものか。便利なものだな」と思いました。彼はクエリ・マクロからVBAまで高度なことを駆使して作ってくれたけれども、私はその作り方がわからなくて、Excelよりも並べ方が便利なシステム、くらいの意識で使ってましたけど。

沢辺 なるほど。それが版元ドットコムに至るまでの、須田くんのライフヒストリーだね。

次回へ続く

第2回「いまだに、信頼できる書誌データがない」

プロフィール

須田正晴(すだ・まさはる)
太郎次郎社エディタス 営業部勤務
1995年太郎次郎社入社。2003年太郎次郎社エディタス設立にともない移籍。
版元ドットコムには設立時より幹事・組合員の一員として参加している。
Twitterのアカウントは@sudahato