書評

尾辻かな子[大阪府議会議員]●声も出せない人がいることを忘れてはいけないと思う

伏見さんは、私がまだ自分のレズビアンとしての自分に正面から向き合えていない頃から、ゲイとして社会的な発信を続けてこられた大先輩にあたります。この度はその伏見さんの書評を書く機会を頂けて、非常に光栄です。しかし、私が伏見さんの著書の書評を書くというのは正直とてもプレッシャーがきつく、何度も読み返しながらかなり苦労しました。以下の文章は、私の感想と思って読んで頂けると幸いです。

伏見さんは本書で言います。「差別—被差別」とする構図の中には、すでに被差別の側に「正義」を含んでいる、と。「正義」をふりかざすのではなく、「痛み」も「楽しみ」も等価な「欲望問題」だと捉えなおすことで、対話ができるようになる、と。痛みに声をあげることのすべてが正義をふりかざしていることになるのか。私にはよくわかりません。それは、私がまだ30代はじめという年齢であり、自分たちを一方的正義とみなしていた社会運動が下火になってからの世代だということもあると思います。また、正義の押し付けだと、声をあげるのが誰なのかによっても、状況は変わるでしょう。

今回、厚生労働大臣の柳沢さんの発言をめぐっても「差別発言」という意見と共に「言葉狩り」だという意見がでてきました。もし、マジョリティたちが自らの権力性に気づかずに、声をあげる人々に対して、正義を振りかざすなというとき、マイノリティが声をあげたこと自体をつぶすことにならないかが心配です。そういう意味では、マイノリティが声をあげにくい状況にあることに、より繊細にならなくてはならないと思います。現在の同性愛者の活動ですが、私の目から見ると、むしろ自分たちの内なるホモフォビアと闘い、自らのあり方を自己否定しながら、政治的に大きな声をあげることをためらってきたのではないかと思えます。

伏見さんは、いろいろな意見を調整する場としての政治の重要性を語っています。議員の仲間内で使う言い方に、「振り上げた拳の下ろし方を誰か考えたらな、いつまでたっても下ろされへんで」とか「どこで落としどころつける」などといった表現をします。さまざまな意見がある場で、お互いの意見を尊重しながら妥協点を見つける作業をするわけですが、そのスキルを当事者たちが身に付けることは、伏見さんもご指摘のように、これからとても重要なことだろうと思います。

次にジェンダーフリーに関する部分です。伏見さんは、性愛は男女の記号のゲームであり、ジェンダーは楽しみや喜びの中から改変していくことができうると書いています。確かにジェンダーをめぐる状況は、異性愛者も同性愛者も、10年前と比べたら随分変ってきていますし、そこには私も希望を持っています。しかし、私の職場である地方自治の現場は、まだまだこの部分に関しては遅れている場所です。男とは、女とは、家庭とは、と堂々と語る議員たちが圧倒的多数を占める中で、私としては、ジェンダーフリーそのものに懐疑を向けるより、バックラッシュの側と対峙する姿勢をとらざるを得ません。残念ながらこれがまだ、日本の政治の現実です。

私は同性愛者であることを名乗って、いわゆるアイデンティティ・ポリティクスをしている段階です。ただ、次の世代には「ゲイやレズビアンであることは、それは自分の個性の一部でしかない」といえる人たちがでてくるでしょう。このことがアイデンティティ・ポリティクスの成果であり、アイデンティティ・ポリティクスの寿命を迎える時なのだと思います。しかし、そのためにも今はまだ、日常を共に生きている人間としての同性愛者たちの可視化が必要だと思います。

また、ゲイとレズビアンの共通点と差異に目を配ることも重要です。レズビアンは、まだゲイほど可視化されていないように思えます。テレビの中にゲイを公言するタレントはいても、レズビアンを公言するタレントは登場していません。女性と男性の給与格差は、データで見れば厳然としてあります。これが、レズビアンの経済的貧困につながっています。

日本もモザイク状で、状況は複雑です。東京や大阪などの大都市で若いうちからオープンに生きている人が増えているのは事実だと思いますが、私のところに来ている相談メールを読んでいると、地域によっては、カミングアウトしたらそこでは生きていけなくなると思っている人も、まだたくさんいることが分かります。

「痛み」も「楽しみ」も等価な「欲望問題」だということで、伏見さんは社会との対話を喚起します。この目指すべきところは、私も同じです。ただ、議員として私が決して忘れてはいけないことは、最も抑圧されている人々の中には、声を出すことも、対話のテーブルにつくことも難しいことがあるということだと思います。

この本には、賛否両論さまざまあるでしょう。しかし、伏見さんの狙いは、きっとその賛否両論を引き起こすこと、読者一人ひとりがどう考えるのかを問うことなのではないかと思います。その決断に心からの敬意を表します。

【プロフィール】
おつじかなこ●1974年生まれ。2003年4月から大阪府議会議員。次は国政にチャレンジすることを表明している。2005年8月の東京レズビアン&ゲイパレードで同性愛者であることを公表し、同時に著書『カミングアウト〜自分らしさを見つける旅』(講談社)を出版。
公式サイト http://www.otsuji-k.com/

【著作】
パートナーシップ・生活と制度—結婚、事実婚、同性婚(共著・杉浦郁子、野宮亜紀、大江千束編)/緑風出版/2007.1/1,700
災害と女性〜防災・復興に女性の参画を〜(共著)/ウィメンズネット・こうべ編/2005.11/800(税込み)
カミングアウト—自分らしさを見つける旅/講談社/2005.8/1,500
みんなの憲法二四条(共著・福島みずほ編)/明石書店/2005.5/1,800
かく闘えり!!—2003年統一地方選挙議員をめざした女たち(共著・甘利てる代編)/新水社/2003.10/1,700

伊藤菜子[フリーライター]●細くなくったって若くなくったってパンクスなのだ

伏見憲明さんが自身をパンクスだと表明した本だと思いました。「中野サンプラザまでクラッシュのコンサートに行ったこともあるのよー」と、以前聞いたことがあったので、へえ、伏見さんはパンクロックも好きなのねえと、漠然と思ってはいたけれど、「リアルであることこそが、ぼくのパンクです」なんて、キッチリ言っちゃうなんてカッコいいっス!! 私もこの言葉、どこかで使わせていただきたい。勝手に拝借してもいいですか?
 
あと、どこかで伏見さんの姿を見て、「ちっともパンクスなんかじゃないじゃん」と言ってる人よ。パンクっぽいファッションで身を包んで、バンド活動するだけがパンクスじゃないんだからね。細くなくたって(ゴメン)、年が若くなくたって(さらにゴメン)、生き方や思想がパンクスだということです。

そして『欲望問題』という本自体、パンクミュージックのように、伏見さんの言葉がストレートに響いて、頭に入ってきました。語られていることは平易ではないのだけれど、ホントにわかりやすく、スルリと入ってくるのです。

最初の章に登場する、少年愛者である鈴木太郎さん(仮名)の悩みについては、「自分は犯罪に引っかかるような性的欲望を持ってるわけじゃないから関係ない」という人にとっても、自分の欲望問題と重ね合わせて、または延長線上として考えられるのではないでしょうか。私の欲望対象だって、たまたま犯罪には引っかからないだけであって、もしかしたら線引きされた向こう側にいたかもしれないわけですし。異常だと言うのは簡単だけど、異常と言う前に、自分の欲望問題と照らし合わす人が増えたら、世の中も少しは変わるかなあ。

伏見さんは「ぼくは、この社会は自分の理想に近づく可能性を残しているのではないか、と直感しています」と言っています。「理想の社会だなんて楽観的」だと「ノー」を言うのは簡単なこと。でも「あえてイエスと言いたい」と。「イエス、バットというのが立場です」に、私も1票入れたいです。バット以下はそれぞれが考えて、理想に近づけていこうよと、なんだか前向きな気持ちにさせてくれました。

伏見さんて、ご自身でも言っておられるけど腹グロだし、黒い血がドクドク流れているような人間です(私もそうなんだけど)。でも根底では愛のあふれる優しい人だっていうのが、私の実感。『欲望問題』を読んだ後も、なんとなく温かい気持ちになりました。なので多くの人に読んでもらえるといいなあと本気(マジ)で思います。「欲望問題」という言葉も、「恍惚の人」(古い?)とか「失楽園」「愛ルケ」のように流行語になって、大ベストセラーになってくれたら、とてもうれしいです。

いとうななこ●1969年、東京都生まれ。フリーのライター&編集。

池田清彦[生物学者]●他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。

最近、中島義道の『醜い日本の私』(新潮選書)と題する本を読んだ。中島は明大前や秋葉原の商店街が限りなく醜いと感じ、これに腹を立てない大半の日本人をなじっている。本のカバーには<この国には騒音が怖ろしいほど溢れかえり、都市や田舎の景観は限りなく醜悪なのだ! 「心地よさ」や「気配り」「他人を思いやる心」など、日本人の美徳に潜むグロテスクな感情を暴き、押し付けがましい「優しさ」と戦う反・日本文化論>とあるが、この本は実は差別論の本なのではないかと私は思う。

中島は明大前の商店街を醜いと感じ、私は別に何とも思っていない。中島はこの醜さを撤去したいと思い、私はどうでもよいと思い、別のある人はこの風景を心地良いと感じて守りたいと思っている。ここには感性と嗜好(指向)の違いがある。社会的な生物であるヒトは、マジョリティーの感性と嗜好を当然だと思い込み易い一般的性質を持っているのではないか、と私は思う。そこでマジョリティーがマイノリティーの感性と嗜好を抑圧すると、そこに差別が発生する。

だから、中島が頭に来ている問題と、伏見がもがいている問題は、構造的には同型である。違いがあるとすれば、性的な感性や嗜好は強く人々を縛っているのに対し、騒音や景観に対して中島のように過度にセンシティブな人は稀で、多くの人はどうでもよいと思っている所にある。たとえば、私は中島の感性や嗜好を理解できないし、理解するつもりもない。ただそういう人がいることは承認する。だから、中島の感性や嗜好を非難するつもりも全くない。勝手にやっておれと思うだけだ。私は、差別されていると感じるマイノリティーに対するマジョリティーの態度として、これ以上の方法を思いつかない。

この私の立場からすると、反・性差別運動というのはかなり迷走しているのではないかと思う。私自身はホモにもゲイにもレズにもフェミニズムにも何の興味もないし、勝手にやっておれと思うだけだ。様々な性的嗜好をもつ人が存在するのは事実であるし、それを否定する根拠は全くない。他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。と同時に、どんな人も自分の感性や嗜好を他人に押しつける権利や、他人に理解してもらう権利はない。

性的なマイノリティーに対する歴史的な差別が余りにもきつかったのが原因だと思うが、一部のフェミニストたちは、性差そのものを否定することを最終目的にしていたような時があったように思う(今もそういう人がいるかも知れないが)。しかし、生物学的な性は、社会的に構築されたわけではないので、この戦術が破綻するのは原理的に自明である。さらには、強く差別されていると感じているマイノリティーに比較的共通の感性として、自分の痛みも理解してくれとマジョリティーに要求する傾向があったようにも思う。これもまた、マジョリティーが自分たちの感性をマイノリティーに強制するのを反転しただけの話だから、原理的には間違っていると思う。

この二つの隘路に陥っている限り、性差別の問題はうまく解決しない。今回の伏見の本は、これを乗り越えようとする意欲的な試みだと思う。たとえば、<ぼくが今日、性という現場での「欲望問題」を考えるときに大切にしたいのは、自分の「痛み」に特化してビジョンを立てるのではなく、そこに同様に存在する他の「欲望」に対する配慮や尊重です>(124頁)との文章には、その意欲を強く感じる。しかし他方で、本の帯にもある<命がけで書いたから命がけで読んでほしい>という文書を見ると、やっぱりよく分かってないのかなあとも思ってしまう。人は他人が命がけで書いた本を鼻唄を歌いながら読む自由がある。

人間は自分の欲望を解放するために生きているのだと私も思う。どんな欲望であれ、他人の恣意性の権利に抵触しない限り許されるべきであろう。レイプをしたいという欲望を抱くことは自由であるが、実行することは許されない。前者は他人の恣意性の権利を侵害しないが後者は侵害するからだ。性的な欲望は、他人の恣意性の権利擁護とバッティングすることも多く、当人にとっては切実な問題であろうが、一般的な解はない。

最後に文句をひとつ。伏見は<チンパンジーと人間の遺伝子は数パーセントしか違わないそうですが、それにわざわざ切断線を入れて、自分たちをホモサピエンスに分類している時点で、ぼくらがすでに共同性の中に位置する存在であることを示しています。>(148頁)と述べているが、チンパンジーとヒトの形態や行動の差異には存在論的(生物学的)な根拠があって、共同性とは関係ない。ヒトのオスとメスの生物学的差異もまた存在論的根拠をもち、共同性や社会構築主義が出る幕はないのだ。もちろん、性の文化的側面は社会的に構築されたものであることは間違いないと思うが、この二つを混同するとロクなことはないことは確かである。性差を廃絶したいのであれば、女の人のみからクローン人間を作ればよいのであって、そうなれば、男などというやっかいな存在物はこの世界からなくなるわけで、その時点で性をめぐるやっかいな問題もすべて消失する。当然、性差別反対運動などというものもなくなるわけで、フェミニズムで商売している連中はおまんまの喰い上げになるけどね。

【プロフィール】
いけだきよひこ●1947年、東京都生まれ。生物学者、早稲田大学教授。

【著書】
科学とオカルト/講談社学術文庫/2007.1/¥760
科学はどこまでいくのか/ちくま文庫/2006.11/¥640
外来生物辞典(監修)/東京書籍/2006.9/¥2,800
脳死臓器移植は正しいか/角川ソフィア文庫/2006.6/¥552
遺伝子「不平等」社会(小川真理子、正高信男、立岩真也、計見一雄との共著)/岩波書店/2006.5/¥2,100
すこしの努力で「できる子」をつくる/講談社/2006.5/¥1,400
他人と深く関わらずに生きるには/新潮文庫/2006.5/¥362
科学の剣 哲学の魔法(西条剛央との共著)/2006.3/¥1,600
環境問題のウソ/ちくまプリマー新書/2006.2/¥760
遺伝子神話の崩壊(訳)/徳間書店/2005.10/¥2,200
底抜けブラックバス大騒動/つり人社/2005.5/¥1,200
やがて消えゆく我が身なら/角川書店/2005.2/¥1,300
生きる力、死ぬ能力/弘文堂/2005.1/¥1,600
新しい生物学の教科書/新潮文庫/2004.8/¥514
やぶにらみ科学論/ちくま新書/2003.11/¥700
初歩から学ぶ生物学/角川選書/2003.9/¥1,400
天皇の戦争責任・再考(小浜逸郎、井崎正敏、橋爪大三郎、小谷野敦、八木秀次、吉田司との共著)/洋泉社新書y/2003.7/¥720
他人と深く関わらず生きるには/新潮社/2002.11/¥1,300
生命の形式/哲学書房/2002.7/¥1,900
新しい生物学の教科書/新潮社/2001.10/¥1,400
正しく生きるとはどういうことか/新潮OH!文庫/2001.8/¥505
三人寄れば虫の知恵(養老孟司、奥本大三郎との共著)/新潮文庫/2001.7/¥514
アリはなぜ、ちゃんと働くのか(訳)/新潮OH!文庫/2001.5/¥600
遺伝子改造社会 あなたはどうする/洋泉社新書y/2001.4/¥680
自由に生きることは幸福か/文春ネスコ/2000.7/¥1,600
昆虫のパンセ/青土社/2000.6/¥1,800
臓器移植 我、せずされず/小学館文庫/2000.4/¥495
生命という物語/洋泉社/1999.12/¥1,600
楽しく生きるのに努力はいらない/サンマーク出版/1999.11/¥1,600
科学とオカルト/PHP新書/1999.1/¥660
オークの木の自然誌(訳)/メディアファクトリー/1998.9/¥2,400
生命(中村雄二郎との共著)/岩波書店/1998.9/¥1,500
構造主義科学論の冒険/講談社学術文庫/1998.6/¥960
正しく生きるとはどういうことか/新潮社/1998.5/¥1,300
さよならダーウィニズム/講談社選書メチエ/1997.12/¥1,600
虫の思想誌/講談社学術文庫/1997.6/¥660
生物学者 誰でもみんな昆虫少年だった/実業之日本社/1997.4/¥1,200
なぜオスとメスがあるのか/新潮社/1997.1/¥1,500
科学教の迷信/洋泉社/1996.5/¥1,845
科学は錯覚である/洋泉社/1996.1/¥1,942
科学はどこまでいくのか/ちくまプリマーブックス/1995.3/¥1,100
擬態生物の世界(訳)/新潮社/1994.11/¥4,660
「生きた化石」の世界(訳)/新潮社/1994.11/¥4,660
思考するクワガタ/宝島社/1994.10/¥1,748
科学は錯覚である/宝島社/1993.6/¥1,796
分類という思想/新潮選書/1992.11/¥1,100
差別という言葉(柴谷篤弘との共著)/1992.9/¥2,233
昆虫のパンセ/青土社/1992.2/¥1,748
構造主義科学論の冒険/毎日新聞社/1990.4/¥1,262
構造主義と進化論/海鳴社/1989.9/¥2,200
構造主義生物学とは何か/海鳴社/1988.3/¥2,500
教養の生物学(池田正子との共著)/パワー社/1987/¥1,000
ナースの生物学(池田正子との共著)/パワー社/1987/¥1,000

菅沼勝彦[メルボルン大学大学院生]●コミュニティと学問言説構築の架け橋となる

 一読し終えてのぼくの感想は、エキサイティングなほどにリアルな、そして現場からの響きを直接感じ取れるほどのプラクティカルな声を発する書ということであった。90年代初頭より日本ゲイ文化(またはクィア文化)の言説形成の担い手の一人であり続けてきた伏見氏が、安着なアイデンティティ懐疑の遂行への危惧を示唆した近年のコメントに注目していたぼくにとって、『欲望問題』はそれらのコメントの背後にある彼の中での思考の変化や転換を丁寧に紐解いてくれるものでもあった。

 伏見氏によるゲイ・リベレーションは日本においてその黎明期に開始されたものだったが、その戦略や思想は一般にマイノリティ解放運動が頼りがちな本質主義的方法論とは一線を引いた、実にポストモダンな性格の濃い内容を持っていた。処女作である『プライベート・ゲイ・ライフ』(1991)において彼は、同性愛者と異性愛者のあいだには決定的なエロスの構造、あるいはそれの作用の仕方に違いがあるという固定観念にチャレンジしている。それは社会の中において、たとえゲイ、レズビアンまたはストレートであれ、それぞれが自らのエロスの発情装置を「ヘテロ・システム」というフォーミュラでお品書きされたジェンダー・イメージ(おもに男性性イメージと女性性イメージ)を駆使して製造しているという意味においては同じ穴の狢であるという主張でもあった。これについて伏見氏は『欲望問題』のなかで、90年代の自分の仕事は「自明であるとされた性を相対化することに力点」を置き、ジェンダー又はセクシュアリティ概念における「脱本質化」を図っていたと回想する(p78)。そしてアイデンティティやカテゴリーの相対化を意識的に繰り返すことによって、性的マイノリティにとって抑圧的なカテゴリー自体の解体が起こる状況を目標としていたとも(p117)。しかし彼は『欲望問題』で、果たして「ゲイ・アイデンティティ」や「おとこ」、「おんな」といったカテゴリーが解体されること自体が、またはそれに向かって一辺倒に突き進むゲイ・リベレーションのあり方が本当に性的マイノリティ(または彼らと社会に共生する人々)にとって生産的且つ幸福をもたらす結果を導くのだろうかと問いただすことになる。

 野口勝三氏との対談を通して多くを気付かされたと告白する伏見氏は、カテゴリーの構築性への気付きを繰り返すことや、アイデンティティの脱構築のみを続行していくことの先にいったいどんな意味があるのだろうと警笛を鳴らす。すべてのカテゴリーが構築されたものならば、それを眺めるわれわれにとって、何が本質的に「正義」だとか、「正しくはこうであるべき」という倫理を絶対化することが難しくなってくる。あるいは、たとえ「弱者至上主義」的な観点から、弱者が「正義」であるという概念を一般化していったとしても、それは新たな抑圧を逆転的に生むことに他ならない。そこで伏見氏は『欲望問題』での論題でもある、性的マイノリティや同性愛者の運動を「正義」の概念にのみ基づいて遂行していくのではなく、まさに「欲望実現のための営為」としても認識していくことが大切であると訴える。そしてその欲望のあり方をつかさどるジェンダーのイメージやアイデンティティの利用価値を批判的であれ認め、有効利用するべきであると。

 無論、カテゴリーの有用性を認めること、あるいは伏見氏の言葉で「アイデンティティへの自由」を訴えることにより、既存のジェンダー構造を手放しで肯定しているわけではないことを再確認しておかねばならないだろう。むしろ、彼は既存構造で不利益をこうむっている性的又はジェンダー・マイノリティがいかに生活しやすい空間を自ら形成していく過程において、注目すべきは己への差別を生産しているのは既存構造であると同時に、それを改善していくヒントもその既存構造のなかに含まれているということに気付くべきであると訴えているのである。まさに、敵対的な運動論ではなく、敵対的に見える既存構造を「包み込む」ヴィジョンを示唆しているのだ。

 クリティカルな視野の基、探求されるべき生産的「妥協」とでも称せる彼のあらたなテーゼは、『欲望問題』のなかで机上の空論にとどまることなく日本の現代社会を取り巻く多くの問題(小児愛問題、「ジェンダー・フリー・バッシング」論争など他)に絡めて展開されている。そのような端的な右派vs革新派というバイナリーに集約されがちなトピックにコメントを寄せることにより、『欲望問題』での彼の訴えが「伝統への帰り」或いは「保守的な実践論」と消化される可能性があることを本人も十二分に認識している(p182)。ただそこで敢えて、日本のゲイ文化(又はクィア文化)の変容を90年代初頭から鋭く観察してきた彼が既存構造との「歩み寄り」を提言しているのには、現代の性的マイノリティにとってリベレーションのパラダイムを「抑圧からの解放」というものから「欲望への自由」へと転換していく必要性を、複雑変化してゆく現代社会のなかで性的マイノリティが自由を模索していくために、彼がひしひしと感じているという現実があるのであろう。ゲイ・リベレーションにアカデミアとして一定の距離をすえて関わってきた者とは違い、雑誌などの編集・出版活動により常にコミュニティと学問言説構築の架け橋を築いてきた伏見氏の、まさに現場からの声(或いは素直なまでの欲望)を十二分に組み込んだ末のプラクティカルな訴えに聞き入る必要性を疑うことはできないだろう。

【プロフィール】
すがぬまかつひこ●
1979年、岡山県生まれ。メルボルン大学大学院カルチュアル・スタディーズ博士後期課程在学。

【著作】
論考
Enduring Voices: Fushimi Noriaki and Kakefuda Hiroko’s Continuing Relevance to Japanese Lesbian and Gay Studies and Activism/in 『Intersections』 no.14/2006
共編翻訳著書(with Mark McLelland and James Welker)
Queer Voices from Japan: First-Person Narratives from Japan’s Sexual Minorities/Lexington Books社/2007年出版予定

山元大輔[生物学者]●欲望の価値

伏見憲明は、日本のゲイ・コミュニティーを代表する評論家・作家である。そして『欲望問題』。とくれば、ゲイ・レズビアン=被差別者・マイノリティーからの社会批判ないし告発、しかもどことなく爆笑問題を連想させるタイトルからは、伏見流のちょっと“おちゃらけ”の隠し味が効いた軟着陸路線の本だろうとの予断を呼ぶ。この予断が油断となり、軽い気持ちで一ページ目を開くと、にわかに緊張を強いられることになる。

その文章はいきなりシリアスなのである。しかも、小児愛者を許容できるか否かの論議で始まる冒頭部分。常識的には、小児性愛ほど忌まわしいものはない。それは無条件に排斥すべきものであり、小児愛者=異常者である。しかし、伏見憲明がこの問題を取り上げる時、私は不安に駆られた。おそらくその不安は、私の“常識的感覚”を伏見とは共有できないのではないか、という不安なのである。私が伏見を“あちら側の人間”として、どこか心の深層で感じていることをそれは意味する。

むき出しの表現を敢えてとるなら、伏見は同性愛者であり、世の中の多数を占める異性愛者=マジョリティーとは区別される集団の一員であるのに対して、私は“普通の集団”に属している、という私の中の潜在的差別感に根ざしていると言える。実は、これがまず伏見が摘出したかったポイントなのではないだろうか。伏見を基準としたとき、自分が「こちら側」の人間か、「あちら側」の人間かを読者自身に否応なく答えさせる、そういう展開になっている。

「こちら側」と感じるのか、「あちら側」と感じるのか。本書が問う問題の本質がある。そして意外にも(?)、伏見は小児性愛を忌むべきものとして彼岸に、つまり伏見自身の属さない「あちら側」へと追いやる。こうして「こちら側」へと“越境してきた”伏見に、私は安堵し、信頼感を持つことになるのだ。しかし伏見のこの越境は、“命がけ”だった。

小児愛者が子供に性的に欲情するのは(しかもおそらく彼らは性欲のはけ口としてのみ子供をみているのではなく、本気で恋したりもすると私は推察する)、伏見が自然に男性に恋し、私が自然に女性に恋をするのと同じであり、それ自体が犯罪的ではあり得ないだろう。にもかかわらず、同性愛者であることによって差別と抑圧を受けてきたものが、小児愛者を差別し抑圧する。

ここに、うっかりすると見逃してしまうポイントがある。それは、“自然に”恋する、という点である。初恋を思い返してみればよい。あなたの心に決して消えることのない鮮烈な思いを残したその相手は、女性だったか、男性だったか。そこに選択の余地はなかったはずだ。稲妻のごとく押し寄せるその情感には、思考の介在する余地など微塵もない。その“感覚”こそ、自然な恋愛である。それは本能であり、脳に組み込まれた無意識の神経装置が機能した結果なのである。それは、育つ環境や教育によってほとんど左右されることのない、脳のハードウェアの性質によるのである。小児性愛にも同様の堅固な土台があるに違いない。となると、それは矯正など容易に出来るものではないのだ。こう問うてみるとよい。矯正によって、自分の異性愛(同性愛)は揺らぐだろうかと。

恋愛に動機など必要ない。恋愛だけではない。ヒトの多くの行動には「動機=意識される理由」など存在しないのである。人を殺すこと−自殺を含めて−にすら、多くの場合、動機などない。しかし社会は理由を求める。脳の配線のわずかのたわみが、“想定の範囲外”のことを人にさせるものなのだ。

自動装置としての脳は、進化の所産である。それは、動物、そして人の、欲求行動を支えるマシンとして、何億年もの歳月を費やして築かれた。科学的発見による知的興奮も、経済的充足も、セックスの快感を生み出す神経回路そのものによって生み出される。神経回路にとって、高級も低級もなく、それは単に欲望として存在するに過ぎない。

そう考えるとき、一見、あやふやな「欲望」と言うくくりで「痛み」も「正義」も一緒に束ね、そのいわば駆け引きを通じて多様な価値に折り合いをつけるという伏見の主張に、実はきわめて合理的な基盤があることに気づかされる。

例えば、小児愛者の欲望は、社会を平和に健康に維持しようとするもう一つの欲望により、抑圧される。この場合、両者が折り合いをつけるための「線引き」は小児愛者の欲望の大半を切り取る場所に設けざるを得ない。その線とは、結局、「あちら側」と「こちら側」を隔てる欲望の境界線である。

マルクスは労働が商品となり、労働量(時間)があらゆる生産物の共通の通貨として機能することを示した。その中で等価交換の成立しない労働力搾取の構造を暴きだした。しかし、我々には、労働時間よりももっと身近な共通の通貨があったのである。それは、「欲望」である。

自らはさんざん女性としての生活を享受しながら、空想の世界以外にはありえない性差の抹消を主張する不誠実なフェミニストたちの残骸の上に、伏見は新しい価値の塞を築いた。そこには生々しく、生き生きと、欲望を抱え、そして差別をつねに内にはらんだ人間の本当の姿がある。

やまもとだいすけ●
1954年東京都生まれ。東京農工大学大学院農学研究科修士課程修了。早稲田大学教授などを経て、東北大学大学院生命科学研究科教授。行動遺伝学専攻。

【著書】
心と遺伝子/中公新書クラレ/2006.4/¥780
睡眠リズムと体内時計のはなし/日刊工業新聞社/2005.5/¥1,200
男と女はなぜ惹きあうのか/中公新書クラレ/2004.12/¥760
記憶力/ナツメ社/2003.6/¥1.300
超図説 目からウロコの遺伝・DNA学入門(訳)/講談社/2003.2/¥1,900
恋愛遺伝子/光文社/2001.10/¥1,500
3日でわかる脳(監修)/ダイヤモンド社/2001.9/¥1,400
遺伝子の神秘 男の脳・女の脳/講談社+α新書/2001.7/¥840
「神」に迫るサイエンス(瀬名秀明、沢口俊之らとの共著)/角川文庫/2000.12/¥619
行動の分子生物学/シュブリンガー・フェアラーク東京/2000.12/¥4,000
脳が変わる!? 環境と遺伝子をめぐる驚きの事実/羊土社/1999.1/¥1,500
行動を操る遺伝子たち/岩波科学ライブラリー/1997.5/¥1,200
脳と記憶の謎/講談社現代新書/1997.4/¥660
本能の分子遺伝学/羊土社/1994.6/¥2,621
ニューロバイオロジー(訳)/学会出版センター/1990.7/¥9.708
神経行動学(訳)/培風館/1982.5/¥4,900

玉野真路[科学技術批評家]●イデオロギーからゲームへ、そして免罪の拒絶へ……

わたしたちは、日々、ゲームをしている。ゲームというのは、いわゆる遊びとしてのゲームとは限らず、日々の生活の中で自分の利得を最大に、損失を最小にするにはどうすればよいかを考えて、戦略的な行動をしているということだ。

たとえば、同性愛者がある場面でカミングアウトをする戦略と、しない戦略のどちらを採用するか。カミングアウトをするという戦略を採用するには、カミングアウトの利得をコストとリスクの和と比較し、それぞれの場面の中で利得が勝ると考えればカミングアウトをするし、コストとリスクの和の方が大きいと判断すればカミングアウト戦略を採用しない。

つぎに、ある一人のゲイを見ると、その人はあるところではカミングアウトしていて、あるところではカミングアウトしていないことがほとんどだろう。その人は、カミングアウトをする戦略と、しない戦略の混合戦略を採用しているということになる。そうすることによって、自分の人生から得られるうま味を最大化しようとする。カミングアウトの利得を多めに勘定する傾向のある人はカミングアウトをする頻度は高く、コストとリスクを高く算定する傾向のある人はカミングアウトの頻度は下がる。

さらに社会の中でのゲイの集団を考えてみよう。学生などカミングアウトの敷居の低い(つまりコストのかからない)層ではカミングアウトが行われる傾向が強くなるだろう。旧態依然たる会社などリスクが大きい社会ではカミングアウトが起こる確率が減るだろう。そうしてカミングアウトが社会全体でどの程度の頻度で起こるかについて、一定の均衡状態を得るだろう。

この均衡は歴史的に変遷する。近年起こったように、社会の中でカミングアウトをする人が増えてくればカミングアウトの敷居は下がり、均衡はよりカミングアウトをする側に傾くだろう。一方で、保守化が進めばカミングアウトの均衡はカミングアウトしない側に傾くことが予想される。

ジェンダーの境界も、カテゴリーやコミュニティを維持するか放棄するかといった選択の戦略もほぼ同様に考えられるだろう。ジェンダーの差異を温存する利得と捨てる利得を天秤にかける。そこでうま味を多くの人が得られると判断するならば、一部のアカデミズムがジェンダーの差異をなくすことが「正しい」と唱えても、人びとは簡単には応じない。ゲイというカテゴリー、ゲイ・コミュニティについても、最終的にはそれがなくなることが「正しい」といっても、多くの人がそこからうま味を得ていると実感できれば人びとは手放さないだろう。逆に、多くの人びとにとってうま味を提供できなければ、コミュニティは役割を終えて次第に縮小していくだろう。

こうして、利得とコスト+リスクを天秤にかけ、どういう戦略を採用すると、人生のうま味が最大になるかを考えながら、私たちはさまざまな行動選択をしている。このときに理屈として「正しい」ことがいつでも採用されるわけではない。たとえば、「ゲイというカテゴリーがなければ、ゲイ差別もなくなる」というのも理屈としては正しいだろう。しかし、たとえば「ゲイというカテゴリーがあったほうが出会いの機会が増える」など、ゲイというカテゴリーから多くの人が利得を得ている場合には、ゲイというカテゴリーが捨てられることはないだろう。論理としての究極の形を提示すれば、そこに結論が行き着くわけではなく、人びとがお互いの欲望をせめぎ合わせながらフロントラインが決まっていく。

しかし、こんなに「言われてみれば当たり前」のことが、なぜ「命をかけて」書かれなければならないのか?

これまでジェンダーやセクシュアリティに関する反差別論の領域では、カミングアウトしない戦略、性差別に抗わない戦略、ゲイというカテゴリーをゲイであっても嫌悪し近寄らない戦略をとる人びとが圧倒的に多い中で、ごく少数の人間によって担われてきた。そうした人びとからすると、利得の幻想を信じ込む必要があった。そういうときには幻想としてのイデオロギーは有効だったし、これから新しいムーブメントにはある種のイデオロギーは必要とされ続けるにちがいない。

カミングアウトは絶対的に正しいという幻想、差別の解消のためにはゲイというカテゴリーやジェンダーの差異がなくなることが正しいという幻想……それらの幻想が「正義」だとする価値観。わたしを含めて、反差別論の分野で言説を弄してきた人間たちは、そういった幻想を見て、その価値を信奉しながら闘ってきた。多くのアクティビストたちはしばしば単純な損得には還元できない行動選択もしてきただろう。損得勘定を越えた言動が人に現れるところに“愛”を見るとすると、そこには確かに愛もあっただろう。

しかし、この幻想はいつしか絶対的ないし規範的な「正しさ」「正義」と考えられるようになり、原理主義的に突き詰められていく。たとえば「カミングアウトをすることは正義であり、その正義を行えない人間は差別に屈している」という風にして、カミングアウトをする人間が一段上に立ったりするようなことが起こる。そうなると運動の外部から見ると、その運動にリアリティがないと思われるようになってくる。つまりゲームの均衡点から、イデオロギー的な主張が大きく離れていくのだ。そうなると、多くの人から飽きられていくことになる。ときとしては攻撃されることにもなるだろう。

さて、こうした暴走を止める手段は何か?

伏見はまず冒頭で、少年愛者ではないという自己規定をしてマジョリティの側から、少年愛者というマイノリティを見て、彼らの自分との連続性を確認する。ところが、そこで「みんな欲望において少年愛者と地続きだから、少年愛者の気持ちも考えましょう」といった耳あたりのいいヒューマニスティックな結論に落ち着くことはない。社会を営む以上、線引きをせざるを得ない場合がある。自分たちの利害だけではなく、多くの人がゲームを行い、欲望がせめぎあう場として社会を構想するからだ。それでも、彼は言う。

「この社会を営んでいく過程で、善し悪しの線引きをしていくことの割り切れなさや、「痛み」は、それぞれが心の中で引き受けていくしかありません。この社会自体にノーを言い立てることでその責任を免れるわけではないし、そんなことは頭の中での罪悪感の打ち消し、自己慰撫でしかないでしょう」(p65)

線引きで向こう側に追いやった人びとに、われわれは痛みを与えているのであり、現行の社会の中での正しさを唱えることで免責されるわけではない。そこへの想像力を堅持しなければならない。与えた痛みを忘却する「免罪」は許されない。

さらに第3章では、『X-men』に出てくる、人間にはない能力を持った「ミュータント」というマイノリティの立場に立ってつぎのようにいう。

「人間社会には人間社会の、それまで積み重ねてきた合理性も意味もあるのだから、「ミュータント」の利益からしたらそれは自らを抑圧することに思えても、それを全否定する権利は一方的にはない。」(p161〜162)

マイノリティの側も、マイノリティであるというだけでどんな要求でも通るわけではない。マイノリティであるというだけで、無限に権利を要求し、マイノリティが反転した特権を持つという事態を避けるためにも、「免罪」によって痛みのない社会を構想するのではなく、これを拒絶する思想が必要だということだろう。

社会の中で対等な決定権をもつ人びとが、共同性を維持するためには、こうしたゲームをうまく機能させることが鍵となる。そのためには、マジョリティが線引きをして正しさに酔うことで免罪されることも、マイノリティがマイノリティの立場で免罪されて反転した強者になることも拒否することだ。

免罪を拒否して、合理的な思考へと進むこと。本書は、現代ジェンダー・セクシュアリティ論の「宗教改革」の書といえるだろう。

【プロフィール】
たまのしんじ●予備校講師、科学技術批評家。名城大学非常勤講師。セクシュアリティの科学などを専門とし、科学や医療の問題を、科学的データを踏まえたうえで社会的な視点でとらえていこうとしている。

【著書】
新しい高校生物の教科書(共著)/講談社ブルーバックス/2006.1/¥1,200
新しい科学の教科書/文一総合出版/2004.5/¥1,800
同性愛入門(伏見憲明らとの共著)/ポット出版/2003.3/¥1,760
クィア・サイエンス(訳、サイモン・ルベイ著)/勁草書房/¥4,500

広瀬桂子[編集者]●かくも長き時間、かくも劇的な変化。

<もし私が二十代の頃、モテていなかったら、セクシュアリティの問題に関心を持つようにはならなかったかもしれません>。第2章『ジェンダーフリーの不可解』の冒頭をパクらせていただけば、こうなります。

なぜモテていたのかといえば、話は簡単、私は<背が低くて、色が白くて、顔が丸い>という、(ひと昔前には)男ウケする外観をしていたのです。もっとも本人は、怪しいミニコミ誌づくりにかまけ、恋愛にまったく興味がなく、特定の彼氏も持たず、もちろん処女のまま、大学生活を終了。24歳になったばかりで<いちばん強引に結婚を迫ってきた>6歳年上の男と結婚します。「仕事はずっと続ける」と宣言していたにもかかわらず、結婚相手が求めていたのは「完璧な主婦」。破局はあっという間にやってきました。

もし私がモテていず、必死にモテる努力をし、真摯に相手を探していれば、何もこんなにズレた相手と結婚することはなかったのではないか。あまりにもイージーな環境が、冷静な判断を鈍らせる原因だったのか?

バツイチなどという言葉もない、80年代末期、それなりに厳しい世間の目の中、27歳にしてゼロ地点に放り出された私は、めちゃくちゃに悩み始めました。時は、バブルのまっただ中、均等法以降、社会に出た年下の女性たちは、「仕事か結婚か」などという選択とは無縁のように華やかです。私はどこで間違ったのか……。

そんなとき出会ったのが、伏見さんの「プライベート・ゲイ・ライフ」。ここに描かれた図式は、私のすべての疑問をぬぐい去ってくれました。失敗した結婚の相手は<ランボー>で、<三つ指女>を求めていたにもかかわらず、私は<オスカル>だったので、これは無理です。でも外見が<三つ指>だったので、彼は間違えた。こんなはずじゃなかった! と思って荒れたのも無理はない。目からウロコが落ちました。「私が悪いのではない、悪いのは組み合わせだ!」という免罪符は、実に心強いものでした。

その後、幸運にも伏見さんと邂逅し、『スーパーラヴ!』を編集した私は、その出版パーティで現在の結婚相手(伏見さんの大学の同級生)と出会います。会って数時間で、完全に意気投合してしまったのですが、それは<男制に疲れていた(けっこうオンナな)彼>と<女制に疲れていた(けっこうオトコな)私>の組み合わせで、今思えば実にわかりやすい。この絶妙な関係性は、結婚9年になる今もまったく崩れていません。そのせいなのかなんなのか、非常に快適な結婚生活。

でもこの関係、『プライベート・ゲイ・ライフ』の図式には、もはや当てはまらないのです。見た目でいうと<ランボー×三つ指>、男制女制でいうと<お公家さん×オスカル>(本書の中では、「どうわかちあったらいいのかわからない二人??」となっています)。そして、このような、よくわからない、説明のつかないカップルが、20代から50代まで、さまざまに複雑にからみあっているのが現代です。こういう人々がメジャーとまではいいませんが、少なくとも、違和感はないし、世間的に認知もされている。

『欲望問題』を読んで思ったのは、「かくも長き時間が経ち、こんなにも世の中は変わった」ということです。20年前に思いもかけなかったようなことが、今は当たり前になっている。どの時代にも、そういうことはあったのでしょうが、ことセクシュアリティ、ジェンダーの問題に関しては劇的な変化です。そして、どんどん変化し続けている。

私なりに、20代から40代を生きてきて、今もっとも関心があるのは、「生殖」についてです。『ジェンダーフリーの不可解』には出てこないですが、これこそが、セクシュアリティーやジェンダーの束縛から自由になった、今の30代から40代の女性たちが直面している問題なのではないかと思います。言い換えれば、それは新たな<欲望>の表出です。

既に約束された自由の中で、自分らしい生き方を見つけなければならない困難、それに掛け合わされてくる<生殖>に対する欲望、もしくは迷い。事態はどんどん複雑かつ細分化していきます。いったい私たちはどこに行こうとしているのだろう(行ってしまうのだろう)ということを、考えざるを得ない今日この頃です。

【プロフィール】
ひろせけいこ●
1962年、東京生まれ。マガジンハウス編集者。

永江朗[ライター]●簡単に語ることをためらわせる本である

 この本のプルーフを読み終えたあと、「まいったなあ。レビューを引き受けるんじゃなかったなあ」と一瞬だけ思った。内容がつまらなかったからではない。伏見憲明が投げかける問題があまりに重く大きくて、軽い気持ちで語ることをためらわせるからだ。とりわけストレート(異性愛者)である評者にとっては。

 伏見がこの本で扱っている問題は大きく3つにまとめられる。欲望、ジェンダー、アイデンティティである。どれも簡単に答えが出る問いではない。

 第1ページめからガツンとやられ、ノックアウトされてしまった。伏見に寄せられた少年愛者の悩みからこの本は始まる。相談者は男性同性愛者であり、なおかつ「大人になる前の少年が好きなのです」と打ち明ける。

 同性を愛することはかまわない。少年が好きなのも、まあいいだろう。だが、現実に少年と性行為をすることは許されない。たとえ相手と合意の上であっても、現実には難しい。同性愛者だからではない。相手が少年だからだ。

 異性愛で考えればよく分る。いくら少女が好きだからといって、少女と性行為をすることは許されない。それどころか、最近は児童ポルノ法によって、少年少女を性的対象として扱っている写真集やビデオ、DVDのたぐいは、所持しているだけで罰せられることになった。少女を好む異性愛者の男性は「ロリコン」と呼ばれて世間から排除される。児童ポルノ法の適用対象を漫画やアニメにまで広げようという動きもある。犯罪は個人や組織などの財産や生活権益が侵害されたり危険にさらされたときにのみ成立すべきものだと考えているので私は反対だが、しかし禁止領域の拡大が世論の一定の支持を得ているのは事実だ。いまや欲望すら禁じられる時代になったのである。

 だが、欲望において正常と異常の境界線を明確に引くことは可能だろうか。近代の同性愛の歴史は、この境界線をめぐる闘いの歴史だった。境界線をずらしたり曖昧にしたり、あるいは境界線そのものをなくすことで、同性愛者は存在領域を獲得してきた。同性愛に限らず、あらゆる差別との闘いは境界線をめぐる闘いだった。境界線は幻想にすぎない、常識や正常/異常なんてものはマジョリティの偏見のたまものにすぎない、という考え方は、いまや現代人の「常識」といってもいいだろう。

 一方で、近年の欧米で、幼児性愛など犯罪を起こした異常性愛者に「治療」をほどこすようになっている事実を伏見は紹介する。異常性愛は「病気」であり、「治療」の対象としてカテゴライズされているのだ。同性愛もかつては病気とされ、治療の対象と考えられた時代があった。同性愛の歴史は脱「病気」化の歴史でもあった。

 それでは、少年愛者と幼児性愛者の間に明確な線を引くことは可能だろうか。あるいは、少年愛者と(非少年愛の)同性愛者との間に線は引けるのだろうか。

 性的嗜好の切実度を客観的に測ることは難しい。私はこれまでポルノ誌などでの仕事を通じて、SM愛好者をはじめ「異常」な性的嗜好の持ち主の何人かに会ってきた。彼らのなかには、たんなる嗜好のレベルではなく「そうしないではいられないのだ」と切実な心情を打ち明ける人も少なくない。のちに逮捕されることになったロリコン男性にも会ったことがある(逮捕を伝えるニュース映像のなかで、顔を隠すことなく罪を認めている姿が印象的だった)。異性愛と同性愛の間に線を引けないのなら、同性愛と彼らの性的指向(嗜好)の間にも線は引けない。

 実際問題としては結局のところ、個人のふるまいは他者の権利を侵犯しない限りにおいて自由である、という原則に忠実であるしかない。少年との性行為は許されない。ならば他者の権利を侵犯せずにはいられない「異常者」は、どうすれば幸福に生きられるのか。「治療」か、それとも隔離か。「許されない」と言ったところで、問題が根本的に解決されるわけではない。

 第二章「ジェンダーフリーの不可解」も難しい問題だ。性差別をなくすことと、社会的性差をなくすことの間に境界線を引くことは可能なのかどうか。さらに、社会的性差が完全に消失した社会は楽しい社会なのかどうか。少なくとも、現在の私たちのエロス的快楽は、かなりの部分が社会的性差に由来するものなのだから、社会的性差からの解放はいまある快楽の放棄を意味するだろう。もちろん快楽を放棄した社会が平板でつまらないものとは限らないし、社会的性差なんてなければないで、新たな快楽を見つけだせばいいのだからという態度もありだけれども、欲望は(たとえそれが常に他人の欲望であったとしても)そう簡単には変えられない。

 伏見憲明の『欲望問題』を読み終えて、私は途方に暮れるしかない。唯一確かなのは、欲望もジェンダーもアイデンティティも、同性愛者(だけ)の問題ではなく、異性愛者も含めて私たちすべてにあてはまる問題であるということだ。しかも、「私たち全員の問題だ」などと言って分ったような気になるのが最も悪質な態度である類いの問題なのである。どうする? オレ。
 

【プロフィール】
ながえあきら●
1958年、北海道生まれ。ライター。風俗業界から出版業界まで、取材するテーマは幅広い。とくに元洋書店員というキャリアから、「出版」にまつわる著作が多い。

【著作】
ブックショップはワンダーランド/六耀社/2006.6/¥1,600
あたらしい教科書2・本(監修)/プチグラパブリッシング/2006.3/¥1,500
話を聞く技術!/新潮社/2005.10/¥1,300
メディア異人列伝/晶文社/2005.3/¥2,200
恥ずかしい読書/ポプラ社/2004.12/¥1,300
作家になるには/ぺりかん社/2004.12/¥1,170
いまどきの新書/原書房/2004.12/¥1,200
狭くて小さいたのしい家(アトリエ・ワンとの共著)/原書房/2004.9/¥1,800
批評の事情/ちくま文庫/2004.9/¥820
〈不良〉のための文章術/日本放送出版協会/2004.6/¥1,160
平らな時代/原書房/2003.10/¥1,900
ぢょしえっち(岡山らくだとの共著)/ワイレア出版/2003.7/¥1,300
ベストセラーだけが本である/筑摩書房/2003.3/¥1,600
インタビュー術!/講談社現代新書/2002.10/¥740
批評の事情/原書房/2001.9/¥1,600
アダルト系/ちくま文庫/2001.9/¥740
消える本、残る本/編書房/2001.2/¥1,600
出版クラッシュ!?(安藤哲也、小田光雄との共著)/編書房/2000.8/¥1,500
不良のための読書術/ちくま書房/2000.5/¥620
ブンガクだJ!/イーハトーヴ/1999.12/¥1,500
「出版」に未来はあるのか?(井家上隆幸、安原顕との共著)/編書房/1999.6/¥1,500
アダルト系/アスキー/1998.4/¥1,500
不良のための読書術/筑摩書房/1997.5/¥1,600
菊地君の本屋 ヴィレッジバンガード物語/アルメディア/1994.1/¥2,200

速水由紀子[ジャーナリスト]●性的アイデンティティは危うくて、形も公式もないもの

 本著を読んでいて、まだ90年代半ば、「AERA」で大学のゲイサークルの活動を取り上げたときのことをふと思い出した。
 インターカレッジで都内のゲイの大学生が集まり、コミュニティを作って積極的に活動している、という内容を「キャンパスに花咲くゲイルネッサンス」というタイトルで紹介したものだ。私としては欧米の動きや本著の著書、伏見氏の活動などにも触発されたこのポジティブな動きに、エールを送りたかった。が、記事に寄せられた手紙にはこんなものがあったのを鮮明に覚えている。
 「ゲイだということを家族や妻子、会社にも隠し続け、50半ばの今までどんなに辛い思いをしたか。それを決してわからないあなたに、そんなお気楽な記事を書いて欲しくない」。ざっとそんな内容で、社会環境に偽装結婚を強いられた世代の痛み、と私には感じられた。
 が、あれから10年以上経ってゲイへの理解は格段に浸透しているはずなのに、ごく最近も、周囲に隠し続けていて辛いというケースを取材した。しかもかなり若い男性である。つまり、これは世代の問題ではないのかもしれない。
 ゲイというテーマは、今の日本社会の中にあると、「自分は同性を愛する人間だ」という事実よりも、「自分はゲイだということをカミングアウトして生きて行く人間」か「ゲイだということを親や職場に隠して生きて行く人間か」という問題の方が大きくなっていく。すると誰を愛するか、というテーマそのものより、自分の社会的スタンス、親の理解の高さ低さ、環境の文化の成熟度などという、裾野の問題の方が主役の座を奪ってしまうのだ。
 伏見氏は本著でこうした構造的な問題を、自身の感慨をこめながら分かりやすい言葉で解き明かしてくれる。そして、ずいぶん前から、『欲望の問題』に関して私が考えている懐疑を、彼は「アイデンティティからの自由 アイデンティティへの自由」の結論ですぱっと言い切ってくれたのだ。
 Xメンのミュータントを普通の人間にする薬「キュア」を例に出して、伏見氏は言う。「・・・・もし同性愛も異性も好きになれる薬が開発されたらどうでしょう。貪欲なぼくはその薬を試すこともあるかもしれません。今ある自分にさらなる可能性が開けるとしたら、それは挑戦してみていいような気がするのです・・・・アイデンティティは変容するし、させてもいいのです」
 これには深く共感を覚えた。
 私はこれまで「異性愛」「同性愛」を、堅く閉じた輪のコミュニティとして語ることに大きな疑問を感じてきた。たとえば取材で数えきれないほどのストレートの男性が、「ぼくはゲイじゃないけど、この人になら抱かれてもいいと思う」と無数の男性の名前を挙げるのを聞いてきた。たとえばその相手はトニー・レオンやジョニー・ディップや玉木宏や、美形のモデルやミュージシャンだったりする。ではそれが彼女がいるのに、職場の色っぽい同性上司に胸をときめかせている男性だとしたらどうなのだろう? 彼はゲイなのかストレートなのか? 
 日本の職場には「ホモソーシャル」的な同性の交流がさかんだが、これを「男のつきあい」と見なすか「根っこはゲイ的なもの」と見なすかだって、曖昧模糊としている。「女と飲むのは面倒臭いから男同士でしか飲まない」というのだって、見方を変えれば「ブロークバック・マウンテン」的な愛情に見える。
 あるいは結婚していてダンナを大好きだけど、宝塚や「百合系」(腐女子界のソフトレズ系キャラ)のお姉さんに夢中だったりする女性はたくさんいる。その相手がたまたま、職場の同僚だったら? 彼女は同性愛者か異性愛者か? 
 そんな風に、性的アイデンティティは非常に危うい、形も公式もないもので、一生、鉄壁のように揺るぎないものであるはずがない。なぜなら生まれ持った本能以上にパーソナリティで勝負している人は、「男だから」「女だから」恋をするのではなく、人間の個性・特性に心を奪われるのだから。
 だから『欲望問題』を語るのに理想的な会話は、きっと「私はゲイです」「私はストレートです」ではなく、「私は今、7対3の割合で同性に欲情するけど、3の部分では異性の友達の精神性に憧れてる」とか、「ぼくは今、つきあってる彼さえいれば、他の奴はどうでもいい」とか、そういう「個」の感触であるはずだ。事実、若い世代の間では、そういう会話はもう何の抵抗もなく、気楽に交わされている。
 男女の境界が限りなく薄れつつある今、「同性愛」と「異性愛」に二分割する必要性は、どこから生じるのだろう? 私にはそもそも多くの人間がバイセクシュアル的,中性的な要素を持つ中で、たまたま針がどちらかに振り切れた状態、としか思えない。でも次の瞬間、針がどこを指すのか、自分自身にも予測はつかないはずだ。恐らく「結婚」と同じように、社会には恋愛をある種の制度的なシステムに嵌め込むメリットが暗黙に存在し、曖昧な性的アイデンティティはそれを損なう、と考えられているからだ。ここにはアメリカ的な恋愛制度のグローバリズム化を感じてしまう。
 目指すのはむしろヨーロッパの多様な価値の受け入れ方である。恋愛やセックスは法やモラルとは違い、個人の中でたえず揺らぎ変化していく。『オール アバウト マイマザー』や『バッド・エデュケーション』を撮ったペドロ・アルモドバル監督の作品には、その「揺らぎ」を透視する知性がある。誰かの揺らぎを否定することは、自分の中の揺らぎを排除することになるから受容しよう。それが歴史の生んだ知恵のはずだ、カミングアウトに過剰にこだわったり過剰に周囲に隠すのは、先に述べた「テーマの主客逆転」に飲み込まれており、ひいては「2分割のワナ」にハマっているように思えてならない。
 伏見氏はゲイの概念を正しく日本社会に伝え、ゲイの生き方を問うてきたリーダー的存在であり、作家活動で自身の深淵を掘り下げてもいる。
 であるならば、僭越ながら次なる伏見氏の「欲望問題」のテーマは「ゲイであことをカミングアウトして生きてきた人々も、隠し続けている人も、告知の有無の社会的影響から自由になり、ただの個に戻れること」かもしれない。それを受容する、社会の成熟が先決なのだが。
 

【プロフィール】
はやみゆきこ●
ジャーナリスト。新聞記者を経てフリーに。恋愛・家族・学校などの問題について、綿密な取材を基にしたルポや単行本を執筆。

【著書】
サイファ覚醒せよ!(宮台真司との共著)/ちくま文庫/2006.9/¥700
ワン婚 犬を飼うように、男と暮らしたい/メタローグ/2004.11/¥1,300
家族卒業/朝日文庫/2003.11/¥620
恋愛できない男たち/大和書房/2002.11/¥1,600
不純異性交遊マニュアル(宮台真司との共著)/筑摩書房/2002.11/¥1,500
働く私に究極の花道はあるのか?/小学館/2001.11/¥1,400
サイファ覚醒せよ!(宮台真司との共著)/筑摩書房/2000.10/¥1,600
家族卒業/紀伊國屋書店/1999.10/¥1,600
あなたはもう幻想の女しか抱けない/筑摩書房/1998.11/¥1,700
〈性の自己決定〉原論(宮台真司との共著)/紀伊國屋書店/1998.4/¥1,700

斎藤綾子[作家]●股間にズドンと衝撃が。

 何でも誰かに責任転嫁し、全てをいい加減に済ませて、自己対峙せずに生きてきた私は、差別問題なら「難しいことってわかんな〜い」と済ますこともできた。だが、伏見憲明が命がけで書いたのは、『欲望問題』なのだ。欲の向くまま気の向くまま、好き勝手に生きてきた私が、「わかんな〜い」というわけにはいかない。今までの人生で、これほど真剣になったことはないと断言できるほど、真剣に評を書かねばと思う。
 まず一章の、少年愛の「痛み」、について。
 その前に私事を一つ。私は年下には全く興味がなかった。同い年にも興味がもてず、ゲイ語録で言えば「老け専」と呼ばれてもおかしくないほど、年上の男性と付き合うことに情熱を傾けてきた。ところが、である。四十も半ばを過ぎ、自分自身が老けに突入した途端、信じられないことが起きたのだ。何と、二十三歳も年下の男性に、身も世もなく惚れてしまったんである。生物として卵子が元気な時に妊娠し出産していれば、今頃、その彼ぐらいの年齢の息子(娘)がいたはずだ。今やっと、自分が年上の男性が好きなのではなく、年齢差に欲情するのだと自覚した。
 欲望とは恐ろしい。欲望の対象や量が、予測可能と思っていたら大間違いなのだった。私の場合、もうすぐ五十歳という時に、二十三歳年下に嗜好が急変したから、まだ犯罪にはならないが、三十代で二十三歳年下に欲情したら、それはもうとんでもないことになる。
 この章は、そんな衝撃を、股間にズドンと打ち込まれるところから始まる。
 二章では、私が胸を張って「わかんな〜い」と言える言葉が登場する。ジェンダーフリーとジェンダーレスだ。
 性別というのは、男と女、そのふたつだけだと小学生の時から思わされてきた。しかし私は自分の股間を弄り、大陰唇の中に硬いタマが隠されていないか、触っていたものだった。親が持っていた何かの本に、「フタナリ」という人間がいるというのを見つけたからだ。いくら待っても股間に「チンコ」は生えてこないし、小学四年生になった途端に「初潮」はきちゃうし、胸はどんどんデカくなるし。自分は「男に違いない」と思っていたので、第二次性徴には愕然とした。そんな時に知ったフタナリの存在。マンコのどこかにタマさえ発見できれば救われる。私は必死にタマ探しを続けた。それがいつの間にか恍惚を生み、気づけばオナニーに耽る日々。
 見かけは女でも中身は男。フェミニズムの方たちからもそう非難されたし、私自身、そう思っていた。フリルやレースの付いた服は苦手で、スカートは男を引っ掛ける時だけに穿くものだった。とっても孤独だったけれど、セックスに不自由したことはなく、大好きな女のコたちとは一緒にお風呂に入り、同じベッドで眠ることが出来た。彼女たちにオーラルセックスしたい衝動さえ我慢できれば、そして男たちと長いこと付き合わなければ、女というジェンダーに感じる違和感をどうにかやり過ごすこともできた。
 自分がバイセクシュアルだと自覚した頃、私は『欲望問題』の著者、伏見憲明と出会う。当時、好きになる相手が、みんな異性愛の女のコということに私は頭を抱えていた。たまに体を開いてくれるヘテロ女性はいたが、彼女にとってそれは「遊び」でしかなく、「本気」で相手はしてくれない。そんな寂しくてシオシオの私に、伏見はヘテロやゲイだけじゃなく様々なセクシュアリティの存在を、活字や実物で具体的に紹介してくれた。
 私は、論理や観念だけの性差別に対する議論には全く興味がもてない。眼に見える、現実的で具体的な話しか記憶に残らない。フェミニズムが縁遠く感じたのも、男から受けた酷い行為だけが執拗に語られ、それに対する明るい対処法にリアリティを全く感じられなかったからだ。
 その点、伏見から受けた情報は、特に性的欲望の多様性は、現実的で具体的だった。それを知ることで、かなり孤独感を拭うことができた。そして、今のままの私でいいじゃん、と思えるようになったのだ。
 三章まで読み進むと、その想いは一層募る。差別問題を掲げて、何が正しくて何が間違っているのかを裁き合い、敵対することよりも、己の欲望を自覚し、欲望の異なるもの同士が共感できるものを探し合って、己の変化も受け入れつつ、共有できる社会をつくる方が絶対に面白い、と。そのためにも『欲望問題』を考えることが大事なのだ、と。
 私は今、年齢差に欲情する私の欲望を、年下の彼に受け入れて欲しいと思う。だが、それがダメなら、彼の欲望に少しでも関われる何かをしたい。
 自分の欲望に添わないからと蔑視したり、無闇に自己嫌悪するのはもうやめよう。『欲望問題』は、愛情いっぱいにそれを伝えてくれている。活動や運動に全く縁のない私にも、それぐらいはちゃんとわかる一冊なんだ。

【プロフィール】
さいとうあやこ●
1958年、東京生まれ。小説家、エッセイスト。雑誌『宝島」連載「性体験時代」(単行本『愛より速く」’81年刊)で作家デビュー。

【著書】
ハッスル、ハッスル、大フィーバー!!/幻冬舎/2006.1/¥1,400
欠陥住宅物語/幻冬舎文庫/2005.2/¥571
良いセックス悪いセックス/幻冬舎文庫/2003.8/¥571
欠陥住宅物語/幻冬舎/2003.3/¥1,400
知らない何かにあえる島/幻冬舎文庫/2002.6/¥533
フォーチュンクッキー/幻冬舎文庫/2001.8/¥495
男と女のためのPの話(監修)/新潮OH!文庫/2001.7/¥752
男を抱くということ(南智子、亀山早苗との共著)/飛鳥新社/2001.5/¥1,400
良いセックス悪いセックス/幻冬舎/2001.1/¥1,400
知らない何かにあえる島/愛育社/2000.7/¥1,300
ヴァージン・ビューティ/新潮文庫/1999.11/¥400
スタミナ!/幻冬舎文庫/1999.8/¥457
愛より速く/新潮文庫/1998.10/¥438
フォーチュンクッキー/幻冬舎/1998.2/¥1,400
Hの革命(松沢呉一、南智子、山口みずからとの共著)/太田出版/1998.2/¥1,300
快楽の技術/河出文庫/1997.11/¥600
結核病棟物語/新潮文庫/1997.6/¥400
ルビーフルーツ/新潮文庫/1996.11/¥400
ヴァージン・ビューティ/新潮社/1996.10/¥1,300
スタミナ!/毎日新聞社/1995.6/¥971
快楽の技術/学陽書房/1993.7/¥1,456
ルビーフルーツ/双葉社/1992.7/¥1,262
愛より速く/思想の科学社/1990.9/¥1,600
結核病棟物語/思想の科学社/1989.11/¥1,553
愛より速く/JICC出版局(宝島ブックス)/1984.8/¥780
愛より速く/JICC出版局/1981/¥780

松江哲明[映画監督]●「欲望肯定」

 「この本はパンクロック」と伏見さんは書いてるけど、僕も読んでいる間はそんなジャンル分けというかカテゴリーが気になって、思想書というのが一番しっくり来るのだとは思うが、こんなに「(笑い)」が多い(いや、実はそんなに多くはないのだが気になる)のもそうないんじゃないか、と思う。まぁ、この言葉というか記号は自分自身で笑う、もしくはノリツッコミのようなものとして使われる場合が一般だが、この場合はどうも違う。僕は見知らぬ誰かのブログやmixiで使われるとほぼ「面白くもないのに笑うな」と冷たい反応をしてしまうのだが、『欲望問題』に関してはその「(笑い)」さえ巧妙な、それを書いた伏見さんがどこからか僕らを俯瞰してるような、妙な居心地の悪さを感じた。それは「もうここまで書いちゃったんだから笑うしかないでしょ」といった切実さが感じられ、または「ま、それでも私は笑っちゃうんだけど」といった余裕も感じられる。つまり伏見さんは僕らが想像する以上の何かを察した上でこの言葉を使っている。そんな巧妙な罠が仕掛けられた「欲望問題」だが、これだけ作者の主観が剥き出しな本も珍しく、確かに笑わなきゃ書けないわ、とも痛感させれる。初期衝動とはいえ伏見さんはこれまで何冊も本を書いていて(個人的に『性という[饗宴]』は特に好き)、それ故に「初期」とは矛盾をしてるのだが、『欲望問題』を読む限り、これは「初期に還った衝動」ではないかと思う。初期に戻らざるを得ない、というか「一回リセット」みたいな。いや、リセットだと全部なしにしちゃうから、これまでの経験を生かした上でのリセット。つまりは「大人になって始めるパンク」。
 何せテーマが「欲望」だ。この本に書かれてるそれは、もの凄く我がままで傲慢なものだ。それは「あんなこといいな、できたらいいな」程度の欲ではなく、セックスであり、互いのリスクであり、または一方的で合意のないレイプであり、マズイと分かってても止められない少年愛であり、つまりは結局「人間はチンポであり、まんこなんです(バクシーシ山下著『セックス障害者たち』)」のことである。そんな生々しい「欲望」の一例として「一章」の冒頭で書かれる鈴木さん(仮名)からの手紙は最も切実だ。僕はこの本を読んだ時期でもある年始、親族を殺すといった事件がいくつか報道されたせいか、ギリギリな人間関係がプツッと切れる何かを知ってしまったからか、そんなような前兆を勝手に感じてしまったからか、28歳の同性愛者の持つ痛みが切々とに伝わって来てしまった。良かったと思えるのは彼がそのことの危険性を自覚してることぐらい。けれど伏見さんが書くように、少年に手を出してしまう寸前である彼と僕との差なんてこれっぽっちもない。なぜなら人間の持つ欲望に制限はないし、誰にも決められないのだから。そんな彼に対して伏見さんは「我慢してください」としか答えられないが、多分、僕もそうとしか言えない。伏見さんはそんな自分を自覚してるからこそ「(笑い)」しちゃうんだと思う。それってとても正直なことだと思う。
 僕は日本で生まれで日本国籍を持つ、けれども両親共に韓国の血を引く在日韓国人(三世)だが、自分がどのような存在なのか、またどのようにこの日本で生きて行くべきか悩んだことがある。そのことに関しては2本のドキュメンタリー映画を通して考えたが、やはり結論は出なかった。けれど両作共、道筋というか撮影の仕方を意識的に変えている。一本はストレートに自分自身の家族を主題にし、もう一本はAVの職に就く異なる世代の女優、男優を通して、と。その男優が映画のラストで僕のインタビューに対してこう、答えている。「止められないよ、人間の欲望は」。彼は北朝鮮籍で生まれ、朝鮮学校に通い、北の政策を受け入れつつも、挫折。20代後半になって自身のアイデンティティに悩み、韓国籍に変えて現在はAV男優をしている。ハッキリ言って彼のセックスは強く、僕の知る限り最も楽しそうに(気持ち良さそうに)AVでセックスをする男優だ(ちなみに伏見さんは上映時に行ったトークショーで彼のことを非常に気にしていた)。彼は自分の欲望を曝け出し、時にはアイデンティティに悩みつつも、赤裸々に生きている。
 僕はそんな彼が必要とされる社会があることが嬉しい。自身の欲望を表現する場が。「欲望問題」を抱えた全ての人がどれだけそれを解消出来ているのかは分からないが、それを自覚した上で共に生きる、という選択肢を学校や社会では教えてくれない。それは自分自身で見つけるしかないのだ。しかしこの本にはそれを気付かせてくれるヒントがたくさんある。「これって鈴木さんの手紙に対するある種の答えになっているのでは」と思う箇所には涙腺を刺激されたし、何か心をギュッと絞められるような(けど、どこかやさしい)言葉をたくさん見つけた。伏見さんが横でニコニコしながら「欲望」を抱えた僕らを肯定してくれる、ような。
 少年愛に悩む鈴木さん、妹を殺した兄、夫をバラバラにした妻、彼等の窮屈さを思うといたたまれなくなる。プレッシャーを克服するのは自分自身でしかない。僕は22歳の頃、そんな重みに耐えきれず家を出た。あのまま家に居たら、現在は妹とも両親とも会話も出来なかっただろうと思う。僕は映像という手段で自分の欲望を表現している。現実を素材にするドキュメンタリーという手段ゆえに相手を傷つけることもあるが、それぞれの関係性の上で作品を作る。
 それが僕の欲望だ。
 僕は映画や漫画といったサブカルチャー、それと何人かの女性によって欲望をコントロールすることが出来た。あの思い出したくもない22歳の時期に『欲望問題』と出会ったいたらどんな思いで読めたのだろうか。今となってはそれは不可能なのだが、とりあえず25歳の童貞の知人には薦めようと思う。

【プロフィール】
まつえてつあき●1977年、東京都生まれ。ドキュメンタリー監督。日本映画学校の卒業制作にて制作した『あんにょんキムチ』(1999年)で山形国際ドキュメンタリー映画祭アジア千波万波特別賞&NETPAC特別賞受賞。『スタジオ・ボイス』誌にてエッセイ「トーキョー ドリフター」を連載中。
公式BLOG:http://d.hatena.ne.jp/matsue/
★3/15(木)下北沢LA CAMERAにて行われる「第二回ガンダーラ映画祭」にて新作「童貞。をプロデュース ビューティフル・ドリーマー」を上映。
詳細はガンダーラ映画祭公式ブログにてhttp://blog.livedoor.jp/gandhara_eigasai/

【著書】
あんにょんキムチ/汐文社/2000.7/¥1,300
【映画作品】
『セキ☆ララ』(ドイツ・シネアジア映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭上映/2006)
『童貞。をプロデュース』(2006)
『カレーライスの女たち』(ハワイ国際映画祭上映/2003)
『2002年の夏休み ドキュメント沙羅双樹(一般劇場公開)』(2003)
「ほんとにあった! 呪いのビデオ」シリーズ(01〜02)
舞台「ハルモニの夢」では脚本を担当。
『あんにょんキムチ』(1999)
【役者作品】
『花井さちこの華麗な生涯』(2005・女池充監督)
『ばかのハコ船』(2002・山下敦弘監督)
『手錠』(2002・サトウトシキ監督)

岩井志麻子[作家]●ぼっけえ驚いたわ

封筒開けて本を取り出して、添えられた依頼書を見て。ぼっけえ驚いたわ。

驚き、その1。……とにかく、つまらん! いやー、クソおもしろうない。
こんなつまらん本、久しぶりに読まされたわ。わしがいったい、どんな悪いことをしたというんじゃ。と、泣きたくなるほどにな。
そもそも何を書いてあるか、何がいいたいんか、まるでわからんし。その前に、いっこも興味ない話ばっかしじゃし。
なんで、私なんかにこんなものの書評を書かそうなんて考えたのか。あんたらほんま、私にナニを期待しとるんじゃ。
最初から最後まであまりにもコムツカシイ理屈まみれで、とにかくどうやっても内容が頭に入ってこない。
一応は最後まで読んだけど、内容はいっこも覚えとらんわ。オドレのドタマが悪いんじゃといわれれば、その通りなんだけどよ。
なんかよおわからんが、このひとがコムツカシイことを考えられる、コムツカシイ理屈を文章にでける人だ、というんだけはわかった。

驚き、その2。原稿料が激安! 
最初、1枚が1万円と思った。常識で考えてたら、そうじゃろ。ところがどうも、2千字(つまり原稿用紙5枚)で1万円らしい。
腰が抜けたで。物書きになって結構な年月が過ぎたけどな。1枚2千円なんて提示をされたんは、ほんま初めてじゃ。別に私は、有名出版社のメジャー誌でばかり書いとる訳じゃないよ。そいでもこんな安い、人をバカにした原稿料は見た覚えがない。
なんぼ貧乏マイナー出版社じゃいうても、あんたら人としての常識も思いやりも気配りも、何もないんかい。

驚き、その3。あとがきの傲慢さ。
命がけで書いたから、命がけで読んでほしい。……あんたいったい、何様のつもり。
これは本当に、あごが外れかけたわ。いったいどんな育ち方をしたら、ここまで俺様になれるの。ていうか、これは不幸の手紙か!? 勝手に送りつけてきて、命がけで読めだとぉ!? その言い草はなんなんだ。なんぼ温厚なわしでも、怒るで。
私も職業が物書きじゃ。しかしな。ただの一度も、こんなん考えたことがないで。オドレの書くものがつまらんからじゃろ、いうんは無しじゃで。
ようまあ恥ずかしげもなく、命がけなんて言葉を使えるよな。社会の差別について考える前に、人としての恥じらいについてちょびっと考えてみんか。
わしも一生懸命書きました、くらいは言うけどな。そんなん、職業なんだから当たり前じゃないか? 頑張りでもなんでもないワ。
だいたい銭をもらう以上、それは商品。買うてもろうたからには、読者様のもの。
こっちが命がけで書こうが暇つぶしに書こうが、読者様には関係なかろうが。おもしろかった、つまらんかった、読んでよかった、読まなきゃよかった、それらはもう、書き手にはどうしようもない読者様の自由だ。
あんたひょっとして、差別された差別された騒ぐんは、この本に書かれてある内容によるものではなく、あんたのその傲慢さ故ではないんかい?
そいで、命がけでとか偉そうコく割りには、(笑い)←を散りばめとるよな。
なんなんよ、これは。それこそ、笑うかどうかは読者様が決めることじゃ。
あんたが、「おい愚鈍な大衆どもよ、ここが笑うところだぞ。親切に俺様が指示してやってんだからよ」というとる訳か。
差別について闘う前に、あんたのその傲慢さをどうにかしようや。話はそれからじゃ。

いやはやほんま、内容のつまらなさと原稿料の安さと書き手の傲慢さで、最初から最後までむかむかしっぱなし。
こんだけ不快な目に遭わされたら、せめて文句の一つも書かせてもらわにゃ気が済まんわ、というんで書かせてもらいました。
いいですか、著者さんと出版社さんよ。これは書評でも感想でもなく、クレームだからな。本来なら、1万円じゃ済まさんで。

【プロフィール】
いわいしまこ●
1964年、岡山県生まれ。小説家。『ぼっけえ、きょうてえ』で日本ホラー小説大賞、山本周五郎賞受賞。東京MXTV「5時に夢中」毎週木曜日レギュラーなどテレビ出演も数多くこなす。現在『新潮45』にて「どスケベ三都物語」連載中。

【著書】
タルドンネ 月の町/講談社/2006.11/¥1,600
オトコ・ウォーズ/マガジンハウス/2006.10/¥1,200
永遠の朝の暗闇/中公文庫/2006.10/¥648
猥談(野坂昭如、花村萬月、久世光彦との共著)/朝日文庫/2006.8/¥400
痴情小説/新潮文庫/2006.6/¥400
黒い朝、白い夜/講談社/2006.5/¥1,500
無傷の愛/双葉社/2006.5/¥1,600
べっぴんぢごく/新潮社/2006.3/¥1,500
悦びの流刑地/集英社文庫/2006.3/¥429
女学校/中公文庫/2006.2/¥495
薄暗い花園/2006.1/¥533
死後結婚/徳間書店/2005.12/¥1,600
瞽女の啼く家/集英社/2005.10/¥1,400
合意心中/角川ホラー文庫/2005.9/¥438
黒焦げ美人/文春文庫/2005.8/¥400
チャイ・コイ/中公文庫/2005.3/¥476
嫌な女を語る素敵な言葉/祥伝社/2005.3/¥1,700
楽園に酷似した男/朝日新聞社/2005.1/¥1,500
東京のオカヤマ人/講談社文庫/2004.12/¥448
女神の欲望(中村うさぎ、乙葉との共著)/メディアファクトリー/2004.12/¥1,200
自由恋愛/中公文庫/2004.11/¥495
出口のない楽園/メディアファクトリー/2004.11/¥1,400
魔羅節/新潮文庫/2004.8/¥400
邪悪な花鳥風月/集英社文庫/2004.8/¥419
花月夜綺譚/ホーム社/2004.8/¥1,700
永遠の朝の暗闇/中央公論新社/2004.8/¥1,600
夜啼きの森/角川ホラー文庫/2004.5/¥514
淫らな罰/光文社/2004.5/¥1,500
恋愛詐欺師/文藝春秋/2004.3/¥1,333
偽偽満州/集英社/2004.2/¥1,300
私小説/講談社/2004.1/¥1,500
最後のY談(中村うさぎ、森奈津子との共著)/二見書房/2003.12/¥1,500
ぼっけい恋愛道 志麻子の男ころがし/太田出版/2003.11/¥762
痴情小説/新潮社/2003.10/¥1,400
薄暗い花園/双葉社/2003.9/¥1,300
岡山女/角川ホラー文庫/2003.7/¥476
志麻子のしびれフグ日記/光文社/2003.4/¥1,200
悦びの流刑地/集英社/2003.3/¥1,200
女学校/マガジンハウス/2003.2/¥1,400
楽園/角川ホラー文庫/2003.1/¥419
猥談/朝日新聞社/2002.12/¥1,200
黒焦げ美人/文藝春秋/2002.9/¥1,143
ぼっけえ、きょうてえ/角川ホラー文庫/2002.7/¥457
チャイ・コイ/中央公論新社/2002.5/¥1,000
合意情死/角川書店/2002.4/¥1,300
自由戀愛/中央公論新社/2002.3/¥1,400
魔羅節/新潮社/2002.1/¥1,400
東京のオカヤマ人/講談社/2001.10/¥1,400
邪悪な花鳥風月/集英社/2001.8/¥1,800
夜啼きの森/角川書店/2001.6/¥1,500
岡山女/角川書店/2000.11/¥1,300
ぼっけえ、きょうてえ/角川書店/1999.10/¥1,400

吉澤夏子[社会学者]●「欲望問題」と「心の自由な空間」

 この本には、マイノリティとして在ることの痛み、生き難さを、「差別問題」ではなく「欲望問題」として主題化するまでの、生きられた理路そのものが、シンプルで力強い、しかし繊細で周到な議論によって示されている。伏見の強みは、自分の頭で考えたことだけを、借り物ではない自分の言葉だけで語っているということ、しかもその論理のひとつひとつが生きられた経験に裏打ちされているということにある。だからこそ「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」という言葉が、レトリックではなく真に迫って響くのだ。
 「自身の「痛み」をできるだけ特権化しないで表現するのが、伏見憲明のゲイリブでした」(18)という。「自分の「痛み」を根拠にした「正義」」をふりかざし、何の疑いもなく弱者の位置を正当化する、ということにどうしても違和感があったということだろう。伏見は、この違和感から出発し、社会と自分の関係、社会における自らの位置を正確に把捉する、「欲望も、それを生かすヒントも社会の中からでてきたものだった。敵だと思っていたものに自分の「痛み」も可能性も与えられていた」(52)と。伏見は、差別に関わる思想や運動が、容易に陥ってしまう罠、つまり弱者至上主義やマイノリティ対社会という二項対立にけっして絡めとられることがなかった。
自分が社会に内在しているという事実に立脚した視点を獲得することがいかに重要で、しかもそれがいかに困難か、はあまり理解されていない。このことをリアルな感覚として生きて、理解している、という点で伏見は稀有な存在かもしれない。私は、この本を読んで、こうした視点を可能にしているのは、最終的に、人間や社会に対する深い信頼ではないか、と感じた。「欲望問題」では、人がそれぞれに心に抱く「痛み」や不満、欲求や理想、快楽や喜び・・・そのすべてを等価な「欲望」と捉え、さまざまに人々が思い描くそうした「欲望」を、できるだけ実現できる場として、つまり相互に対立し競合する欲望を調整する機能として、社会というものを立てているからだ。
 そのことは、この本の冒頭に置かれている少年愛者の「痛み」についての叙述から、とりわけ感じることができる。読者から、少年への欲望を抑えきれなくなるかもしれない、と不安を訴えるメールがきた。この社会では、もし彼の欲望が現実にある少年へと向けられたなら、それは犯罪となる。成人同士の同性愛の欲望なら社会と何とか折り合いをつけていくことができる。しかし少年愛の場合、そうした性的欲望をもつこと自体は許されても、それを現実のものとすることは反社会的だとみなされざるをえない。ここに線引きがされる。伏見はしかし、このように慎重に論を進めつつ、少年愛(の犯罪)者と自分は地続きで繋がっているという感覚、彼と自分を隔てる線が引けたとしても、それは恣意的なもの、偶然の結果にすぎないという認識を、一貫して持ち続ける。どのような欲望をもつ人間とも、人間として繋がっているという感覚をけっして手放すことがなかった、誰のどのような欲望も他者のものとして切り捨てることがなかった、そのことが伏見を「欲望問題」へと向かわせたのだと思う。
 「欲望問題」には、人間と人間が対するとき何がもっとも大切なことか、が示されている。それは一言でいえば、他者の「心の自由な空間」を尊重するということである。他者が心にどのような「欲望」を抱こうが、それはそのままにしておく、ということである。「差別問題」は、時に絶望に囚われて、人と人を遠ざけ、硬直した色のない世界を導く。しかし「欲望問題」は、99%の絶望より1%の希望に光をみいだし、人と人を繋げ、思いがけずポップな色彩に満ちた世界を現出させることもある。たとえば、もし自分のある「欲望」が社会から拒絶されたとしたら、その「痛み」はそれぞれが心の中で「個人的なもの」として引き受けていくしかない。しかしそうやってそれぞれが「痛み」を抱えて生きていくことを「切ない」こととして受け止めてくれる人がいる限り、それはけっして「絶望」ではない。私は、「欲望問題」がそのうちに胚胎しているこのポジティヴな生への志向性に深く共感する。それを私も「個人的なものの領域」という概念によって何とか掬いとろうとしてきたからだ。
 最後に、この本には社会学的にも示唆に富む内容が多く含まれているが──性別二元論へといたるコペルニクス的転回、ジェンダーフリー・バッシングに内在するフェミニズムの陥穽、共同性とアイデンティティをめぐる考察など──、「イカホモ」という言葉や記号ゲームとしての恋愛についての叙述は、現代社会の中核的な特徴と呼応しているようで、とりわけ興味深かった。そこに、ジェンダーの編成をジェンダーに内在しつつ達成するという困難な課題を解く鍵があるのかもしれない。それにしても、現実と格闘する実践の試行錯誤の中から、ジェンダー論最先端の議論で武装された「攪乱」や「ずらし」といった戦略に行き着いていたということも、いろいろな意味で驚嘆に値する。

【プロフィール】
よしざわなつこ●
1955年、東京生まれ。社会学者(理論社会学、現代社会論)、日本女子大学教授。主にフェミニズム論・ジェンダー論の視点から、現代社会の「現代性」の在り処を探る。

【著書】
ジェンダーと社会理論(加藤秀一、江原由美子、上野千鶴子らとの共著)/有斐閣/2006.12/¥2,600
いまこの国で大人になるということ(玄田有史、茂木健一郎、小谷野敦らとの共著)/紀伊國屋書店/2006.5/¥1,700
差異のエチカ(熊野純彦、荒谷大輔らとの共著)/ナカニシヤ出版/2004.11/¥2,600
世界の儚さの社会学/勁草書房/2002.5/¥2,600
女であることの希望/勁草書房/1997.3/¥2,200
フェミニズムの困難/1993.9/¥2,500

浜野佐知[映画監督]●伏見さん少し優しすぎるなあ

 おこがましい話だが、私もまた伏見憲明さんと同じような軌跡を辿ってきたといえるのではないだろうか。先日、東京・下北沢のミニシアターで新作『こほろぎ嬢』(尾崎翠原作)のロードショーを終えたばかりだが、もともとピンク映画という、日本映画の底辺とも言うべき差別されたジャンルの女監督として、20代から延々と作品を撮ってきた。公的に日本の映画監督として認められることは一切なく、私は存在しているのに、存在しないように扱われてきた。
 50代を前に、その現実をあからさまに突きつけられた私は『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』(1998)を自主製作し、強引に認知を求めた。意外なことに、声を上げてみると、私のピンク映画にも興味を持ったり、支持したりしてくれる女性たちがいた。私は彼女たちの声を頼りに『百合祭』(2001)、『こほろぎ嬢』(2006)と3本の作品を自主制作し、借金は増えるばかり。一方で、生業としてのピンク映画もホソボソと続けているが、映画業界の認知という点では、一応認知されたようにも思われる。
 私の貧乏くさい体験などとは比較にならないゲイ差別と戦ってきた伏見さんが「マイノリティ対社会と二項対立的に捉えていた世界観がガラガラとくずれて、社会と自分が対立的に存在しているのではなくて、自分が社会の中に少なくとも片足は置いて、そこを存在の根拠としている」と、本書で書いている。反差別の旗を高々と掲げていた方がカッコ良いはずで、これは地味だが、勇気の要る言葉だと思った。ピンク映画監督の私が、地方自治体のイベントや講演会に招かれることがあるぐらい、社会が変わりつつあることは確かなのだ。
 しかし、それに続けて「ぼくはこの社会を他の人たちとシェアしている感覚を得られたように」と書くのは、伏見さん、少し優し過ぎるのではないか。一応「この社会」に何とか認知されたように見える私でも、立ちはだかる壁は依然として大きく、中でも目には見えない男たちのギルド(オヤジどもの欲望同盟?)とは「利害の調整」ですむような問題では、まったくない。私はキッカケさえあれば、ブチ殺してやりたいと思うぐらいで、こういった連中と「この社会をシェア」したいとは死んでも思わない。しかし、これがかつて感じたような「差別」の問題から、私の「欲望」の問題となっていることは、伏見さんの鋭い指摘の通りだ。「差別」に反対して映画が撮れるほど、甘い世界ではない。
 本書でもっとも力点が置かれているのが「ジェンダーフリー」への疑義だが、ここで伏見さんは、かつては同志と思われたフェミニズムの学者たちを痛烈に批判している。「この社会」に優しくなったぶん、フェミニズムにキビシクなったように見えるが、これはご自身も書かれている通り、ある時期の自分に対する理論的な総括でもあるのだろう。
 ジェンダーや性差の解体は、人の生活実感から幸せや快楽を失わせると主張されているが、実際ピンク映画はジェンダー、それも相当古臭いヤツによって成立している。私はそれをブチ壊すことに執念を燃やしてきたが、ジェンダーがなくなったらピンク映画も無くなり、私は生業を失うことになる。つまり、私は伏見さんが批判する学者の先生方と同じように、批判する対象によって飯を食ってきたと言えるのだ。反省しきり。
 しかし、セクシュアリティについては、伏見さんとは異なって、ジェンダーによらない可能性も強く感じる。それは人間についてだけでなく、自分が飼っている猫たちや亀、鯉などとの間に、セクシュアルな交感を夢想するのだ。これをレトリックと思われては困る。私はマジなのだ。
 たまたまアーシュラ・K・ル=グウィンの『世界の果てでダンス』(白水社)を読んでいたら、自作の「闇の左手」について書いたエッセイがあった。有名な作品らしいが、SFに無知な私は、今回初めて知った。60年代に発表されたこの小説の舞台は、ゲセンという惑星。住人たちは、普段はノンセクシュアルで、発情期になると両性具有となり、パートナーとの関係で女の体になったり男の体になったりする。数人の子供の母親が、別の子供たちの父親でもあることが珍しくない。
 作者は「思考実験」と呼んでいるが、このエッセイでは、ゲセン人を異性愛者に限定してしまったことを後悔し「愚かで独断的なセックス観」だったと自己批判している。そこまで視野に入れれば、私の夢想するセクシュアリティは、目下のところ、ゲセン人がもっとも理想に近いだろう。伏見さんは「電信柱を見ても欲情する人はいるわけですからジェンダー・カテゴリーがなくてもセクシュアリティはあって不思議ではない」と笑っている。私はまさにその電柱タイプかもしれないが「それをもって既存の性愛を全否定」する気は、もちろんない。しかし、こうした揺れ幅は、多くの女の人たちにも共有されているのではないだろうか。
 なお、キャッチの「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」には、若干の疑問が残る。今回の果敢な発言に対する、さまざまなリアクションを想定してのことだろうが、何か踏み絵のように働かないだろうか。私は命がけで撮った映画を、笑って観てほしい方だが、むしろ伏見さんには、本書をもって参議院選挙に立候補してもらいたい。ここには、マッチョな政府や社会をもくろむアベやイシハラより、この社会を柔軟な視点から評価し、少しでも良くしていきたいと願うスピリットがみなぎっている。伏見さん、その時には、お金はないけど、全力で応援しますよ。

【プロフィール】
はまのさち●1948年生まれ。映画監督。1971年監督デビュー。1984年、映画製作会社・旦々舎を設立。同社代表取締役。性を女性側からの視点で描くことをテーマに300本を越える作品を発表。
旦々舎HP◎http://www.h3.dion.ne.jp/~tantan-s/

【著書】
女が映画を作るとき/平凡社新書/2005.1/¥740
【主な監督作品】
『こほろぎ嬢』(尾崎翠原作/2006)
『百合祭』(桃谷方子原作/2001)
『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』(尾崎翠原作/1998)

小浜逸郎[批評家]●私の「痛み」から出発し、社会思想的な地平に至るまで

2007/1/21

 自分は欲望のあり方についてこの世の「標準」と違ったところがある。その違ったところが自分をとても生きにくくさせている。しかもその違ったところはどう考えても変わりそうもない━━こういう感知は、生涯のある時期になると多かれ少なかれだれにもやってくる。そしてこの感知はうまく言葉にならない苦痛を抱えることと同じである。そういう苦痛を抱えたとき、どんな解決や克服の道があり得るだろうか。
 だれでも苦痛を抱えたまま暗い気分で生き続けるのはいやだから、考えないことにして日々をやり過ごすとか、その問題については諦めて別の道でいっしょうけんめい努力するとかいうのも一つの方法だろう。しかし、生きるということは欲望をもち、その欲望を社会とかかわらせながら行動することだから、もしその社会が自分の「違ったところ」を一つのネガティヴな記号として絶えずカテゴライズしてきたら、どうすればいいだろう。単純に考えないことにするとか諦めるとかいうわけにはいかない。
 自分が一個の自分であることのなかには、すでに社会的なまなざしが深く住み込んでいる。あからさまな差別待遇をこうむるより以前に、「標準からずれた自分」という自意識は、自分の欲望指向の拭いがたさと、その欲望がそのままでは社会に公認されないという感知との分裂を早くから抱え込んでしまっている。これは、言葉の正しい意味での「コンプレックス」(観念複合)に金縛りになることと同じである。
 この本は、「ゲイ」という社会的な記号を背負った伏見さんが、こうした実存問題をいかに普遍的な問題として提起できるかについて、渾身の力を注いで考え抜いた本である。
 全体は三章構成をなしている。一章では、ゲイ差別と政治的に闘うという「正義」や「倫理主義」の方向に回路を見いだしていたかつての自分を内省し、それだけではマジョリティとの間に幸福な通路を見出せないと考えるに至った思考変容の過程が誠実につづられている。伏見さんは、ゲイ(やその他のマイノリティ)に対する時代の許容度が漸進的に広がってきたことに対する認知を正確に繰り入れながら、「同性愛の運動を『正義』の行為として立てるのではなく、『欲望実現のための営為』だという認識にシフトさせ」る。同時に、この社会を単に自分を抑圧する敵と見なすのではなく、できるだけお互いの欲望を実現するための調整機能の場としてとらえ直す。一種のすぐれた転向論であるとともに、思想の内なる成熟を語るオートバイオグラフィでもある。
 二章では、自分が理論的なよりどころとしてきたフェミニズムを相対化する。批判的に取り上げられているのは、主として「ジェンダーフリー」思想であるが、伏見さんは、この思想にただ保守的な見地からの「ジェンダー固定」の立場を対置するのではなく、生活の現場でこの思想を推進しようとすると、現在のジェンダーがはらんでいる抑圧的な面とそうでない面との仕分けが明確にできないという困難に突き当たると指摘する。ジェンダーを抑圧的と感じる人もいれば、幸福の契機と感じる人もいる。かつて自分が立てた「性別二元制」という構図は、「そこでの性愛に充実を感じている人たちの目で見たときに、必ずしも支配と被支配の構図ではありえ」ない。だからいま必要なのは、「どういう場合には性の非対称性を解消させ、どんな場で何を是正することが公正なのか、をもう少し冷静に議論してみること」であるという。現在のフェミニズム思想が陥っている硬直を解きほぐす、まことにしなやかでフェアーな主張である。
 三章では、映画『X-MEN』を巧みな比喩として用いながら、個にとって共同性は悪かという根源的な問題を扱っている。伏見さんの答を簡単に言うと、共同性は少数者を排除したり、その内部で抑圧的な構造を作る危険をはらんでいるものの、ある共同性から生きる意味やエロスを汲み上げる人々がいるとしたら、それを悪と決めつける根拠はないというものである。そこで私たちは、共同性「からの」自由を志向するのではなく、むしろ多様な共同性を選べる自由を確保しつつ、そこに生じる利害の対立を克服すべくお互いの共存をはかっていくことが望ましい。
 このように論点を抽出してしまうと、一見平凡な結論のようにも見えるが、ここには、さまざまに異なる条件を背負いながらこの世の「関係」を生きていかなくてはならない人間存在一般に対する確かな目が息づいている。また、単一の共同体的な規範のなかにまどろんでいたかつての時代とは異なり、よくも悪しくも「個の自由」を尊重せざるを得なくなった「現代」という時代の複雑さがよく踏まえられている。そして何よりも、こうした結論に達するのに抽象的な理論をもってするのではなく、「私」が抱え込んだ「痛み」という体験的な地点から出発して社会思想的な地平に至るまでのプロセスが、手に取るように描かれているところがこの本の特色である。ゲイの人によりも、むしろゲイではない「ふつうの人」にお勧めしたい。自分の問題が書かれている、と感じること必定である。

【プロフィール】
こはまいつお●
1947年、横浜市生まれ。批評家。家族論、学校論、思想、哲学など幅広い評論活動を展開。2001年より思想講座「人間学アカデミー」(http://www.ittsy.net/academy/)を主宰する。

【著書】
人はなぜ死ななければならないのか/洋泉社新書y/2007.2/\780
死にたくないが、生きたくもない。/幻冬舎新書/2006.11/\720
方法としての子ども/ポット出版/2006.02/\2,500
「責任」はだれにあるのか/PHP新書/2005.10/\720
人生のちょっとした難問/洋泉社新書y/2005.07/\780
善悪ってなに?働くってどんなこと?/草思社/2005.03/\1,200
正しい大人化計画/ちくま新書/2004.09/\680
エロス身体論/平凡社新書/2004.05/\860
なぜ私はここに「いる」のか/PHP新書/2003.10/\700
やっぱりバカが増えている/洋泉社新書y/2003.10/\720
天皇の戦争責任・再考(池田清彦、井崎正敏、橋爪大三郎、小谷野敦、八木秀次、吉田司との共著)/洋泉社新書y/2003.07/\720
可能性としての家族/ポット出版/2003.07/\2,500
「恋する身体」の人間学/ちくま新書/2003.06/\700
頭はよくならない/洋泉社新書y/2003.03/\740
死の哲学/世織書房/2002.08/\2,000
人はなぜ働かなくてはならないのか/洋泉社新書y/2002.06/\740
癒しとしての死の哲学(新版)/王国社/2002.03/\1,900
人生を深く味わう読書/春秋社/2001.11/\1,700
「弱者」という呪縛(桜田淳との共著)/PHP研究所/2001.06/\1,400
「男」という不安/PHP新書/2001.04/\660
この思想家のどこを読むのか(佐伯啓思、山折哲雄、大月隆寛、松本健一、高沢秀次、西部邁、加地伸行との共著)/洋泉社新書y/2001.02/\790
なぜ人を殺してはいけないのか/洋泉社新書y/2000.07/\680
正しく悩むための哲学/PHP文庫/2000.05/\514
中年男に恋はできるか(佐藤幹夫との共著)/洋泉社新書y/2000.03/\660
「弱者」とはだれか/PHP新書/1999.08/\657
これからの幸福論/時事通信社/1999.07/\1,700
間違えるな日本人!(林道義との共著)/徳間書店/1999.06/\1,500
吉本隆明 思想の普遍性とは何か/筑摩書房/1999.03/\2,200
いまどきの思想、ここが問題。/PHP研究所/1998.09/\1,429
無意識はどこにあるのか/洋泉社/1998.07/\2,200
この国はなぜ寂しいのか/PHP研究所/1998.02/\1,400
現代思想の困った人たち/王国社/1998.02/\1,600
幸福になれない理由(山田太一との共著)/PHP研究所/1998.01/\1,238
14歳日本の子どもの謎/イースト・プレス/1997.11/\1,400
子どもは親が教育しろ!/草思社/1997.07/¥1,500
大人への条件/ちくま新書/1997.07/\720
ゴーマニスト大パーティー ゴー宣レター集3(小林よしのりとの共著)/ポット出版/1997.6/\1,400
癒しとしての死の哲学/王国社/1996.11/\1,748
方法としての子ども/ちくま学芸文庫/1996.10/\1,117
人生と向き合うための思想・入門/洋泉社/1996.09/\1,748
男はどこにいるのか/ちくま文庫/1995.12/\670
オウムと全共闘/草思社/1995.12/\1,553
間違いだらけのいじめ論議(諏訪哲二との共著)/宝島社/1995.04/\1,165
正しく悩むための哲学/PHP研究所/1995.04/\1,359
学校の現象学のために(新装版)/大和書房/1995.04/\1,800
先生の現象学/世織書房/1995.03/\2,200
中年男性論/筑摩書房/1994.10/\1,650
ニッポン思想の首領たち/宝島社/1994.09/\1,942
力への思想(竹田青嗣との共著)/学芸書林/1994.09/\1,748
家族を考える30日/JICC出版局/1993.01/\1,359
人はなぜ結婚するのか/草思社/1992.11/\1,262
照らし合う意識(竹田青嗣、村瀬学、瀬尾育生、橋爪大三郎との共著)/JICC出版局/1992.04/\1,699
症状としての学校言説/JICC出版局/1991.04/\1,650
試されることば/1991.08/\1,699
時の黙示/学芸書林/1991.02/\2,602
家族はどこまでゆけるか/JICC出版局/1990.11/\1,748
男はどこにいるのか/草思社/1990.11/\1,553
男がさばくアグネス論争/大和書房/1989.06/\1,505
可能性としての家族/大和書房/1988.10/\1,800
方法としての子ども/大和書房/1987.07/\1,600
学校の現象学のために/大和書房/1985.12/\1,500
家族の時代(小阪修平との共著)/五月社/1985.05/\1,400
太宰治の場所/弓立社/1981.12/\1,400

遙洋子[作家、タレント]●「現代のジェンダーにまつわる問題解説本」だ

 ジェンダーは私にとっては最近禁句になっている。その言葉を口にするなり、会場だったりスタジオだったりの空気がこう着するのを感じるからだ。なによりお客さんの、その言葉の意味の認知度が天と地ほどかけ離れている。ジェンダーにしろ、フェミニズムにしろ、私の職場の芸能界という環境下においては、「ジェ・・・?」であり、「フェ・・・?」なのはここ10年変わらない。一般の方を前にする講演会のほうが意識の高い方がいる。しかしそれも一部であり、中途半端に片寄った理解をしている方は、途端に表情を曇らせる。
それが、「ジェンダー」だ。
 “ジェンダー問題”とは、“意味が分からない問題”と、差し替えてもいいくらいだとも思っている。そんなややこしい言葉なら、あんまり便利じゃないや、と私が使わないでいられるのも理由がある。
 私の周りでは働く女性が増え、彼女たちはまさしくジェンダーバイヤス(ああ、最近使っていない懐かしい響きであることよ!)に苦悶する。セクハラにしろ、女役割期待にしろ、自分たちにとっての快適な職場環境を阻害する背後にあるのが、ジェンダーである、という認識がなくっても、彼女たちは気づいている。
「なんかとてつもなく強靭な意識が権力を生み周りに迷惑をかけている」と。そのことに苦しみつつ自分のワーキングスタイル(誰と仕事し、どんな仕事を拒絶するか)を確立していっている。その姿を見ていると、「それをジェンダーというのよ」とあえて言う必要性をあまり感じない。言ったところで「ジェ・・・?」になるのだから。

 伏見氏は好青年だ。自分なりの世界観を持ち、おだやかに発言する姿に私は大変いい印象を持った記憶がある。その背後に、これほどの広く緻密な“性別”への丁寧な解きほぐしがあったうえでの事なのだと、改めて痛感したのが『欲望問題』だ。
 今の時代、これほど真正面からジェンダーをとらえるには勇気がいる。フェミニズム界での微妙なジェンダー認識の温度差まで明確にしている。そして、いかにどうその言葉が世間で誤解され、歪曲されているかも知ることができる。この本はまさしく「現代のジェンダーにまつわる問題解説本」と私は見た。
 もちろん、その前後には何を“差別”と見るか、という、深刻な問いかけもある。
「痛みだけを根拠にそれが差別だと言えるわけではなく」という氏の表現がある。
 ほんとうにそうだと思う。誰かの痛みが、それが妥当な痛みであると世間に判断されない時に、より強い叫びは、世間の強い苛立ちになって跳ね返ってくる。
 痛みを叫ぶ側としても、聞く側としても、深く考えさせられる。

 私なんかは面倒くさがり屋なので、「ジェンダーでゴチャゴチャ言われるならもういいやっ」と放り投げがちだが、ここまで真っ向から取り組み目を逸らさない本を読むと、ただただ頭が下がる。そして、その分析軸を氏は過去、これほどまでに必要としたのだと思うと、そこにあっただろう痛みもよぎる。そこから出発した視点に勝るものはないと私は思う。

【プロフィール】
はるかようこ●
大阪市出身。作家、タレント。関西地方を中心にテレビ、ラジオにてタレントして活躍するかたわら、1997年から3年間、東京大学大学院の上野千鶴子ゼミにてフェミニズムを学ぶ。以降本格的に著作業に取り組む。
『遙洋子ネットワーク』◎http://www.haruka-youko.net/

【著書】
介護と恋愛/ちくま文庫/2006.9/¥620
働く女は腕次第/朝日新聞社/2006.9/¥1,300
いいとこどりの女/講談社文庫/2006.6/¥495
結婚しません。/講談社文庫/2005.1/¥467
美女の不幸/筑摩書房/2004.12/¥1,300
東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ/ちくま文庫/2004.11/¥620
働く女は敵ばかり/朝日文庫/2004.3/¥540
ハイブリッド・ウーマン/講談社/2003.1/¥1,500
介護と恋愛/筑摩書房/2002.3/¥1,300
野球は阪 私は独身/青春出版社/2002.2/¥1,300
働く女は敵ばかり/朝日新聞社/2001.5/¥1,400
結婚しません。/講談社/2000.9/¥1,400
東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ/筑摩書房/2000.1/¥1,400

松沢呉一[ライター]●欲望のためのジェンダーレス教育を!

『欲望問題』を読んで、やっとジェンダーフリー教育に対する私の立場が明確になりました。もともとそう考えてはいたのですが、整理し切れていなかったのです。伏見氏が意図するように、この本は議論の契機を作り出す力がありそうです。

では、その私の立場を表明することで、本書への賛同あるいは批判とさせいたただきます。

この間のジェンダーフリーをめぐる議論は、もっぱら教育の場でジェンダーをどう教えるか、どうとらえるかについてのものです。ここで私が書いていることもその範囲のことです。

「ジェンダーフリーはジェンダーレスではない」という人々に対して、私は「そんな中途半端なことは言いなさんな」と思わないではいられない。『欲望問題』で指摘されているように、この両者を区分する基準は明示されておらず、明示されていてもさしたる意味がなく、にもかかわらず、「ジェンダーレスではない」とするのは、自分たちの立場を曖昧にし、さらなる批判を招くだけです。

ジェンダーフリー派の不徹底さを批判した点において、私は伏見氏に同意しますが、それ以降において、伏見氏とは大きく立場が違うのかもしれません。゜

私はジェンダーレス教育を支持します。ジェンダーレスで何がいけないのか。

私には、名簿に男女の別がないことの何が問題なのかわかりません。その他のすべての面において、女子と男子がまったく同じ扱いになったところで何が問題なのかわかりません。女子でも、旋盤を触りたいのがいるでしょう。柔道をやりたいのがいるでしょう。男子でも、料理を作りたいのがいるでしょう。新体操をやりたいのがいるでしょう。だったら、やらせればよく、その選択ができるに越したことはない。

「組体操で、女子が下の段になっていいのか」なんてバカバカしいジェンダーフリー批判をテレビでやっていたのを観たことがあります。いいに決まっているじゃないですか。体重100キロの女子を40キロの男子が上に乗せなければならないことの方がずっと理不尽。男女問わず、体重や体力、あるいは本人の希望で下になる生徒を決定すればいいだけのことです。

「現にプロスポーツでも、国体でも、オリンピックでも、男女は別だ」という意見もありましょうが、男女別は学外の活動でやればいいこと、あるいは選択ができる部活でやればいいことであって、等しく参加を強いられる授業でやるべきことではない。

「体育の時間の着替えが一緒でいいのか」との批判も必ず出てきますが、まったくもってその通り、同性だからと言って着替えが一緒である現状がそもそもおかしいのです。同性にだって着替えを見せたくないし、着替えを見たくないのだっているのだから、男女問わず、個人の更衣室を学校が用意すればよい。

同性愛者やGIDのことだけを言っているのではなくて、水泳の着替えで裸になる際、チンコが小さくて(大きくて)恥ずかしい、乳房が小さくて(大きくて)恥ずかしい、陰毛が濃くて(薄くて)恥ずかしい、家が貧乏で汚いパンツで恥ずかしいという男や女の事情を考慮していない実情は解消すべきです。

生徒が減っているのですから、個人の更衣室を作るくらいのスペースはほとんどすべての学校にあることでしょう。そうすることに、学校が維持できなくなるほどの予算や手間がかかるとはどうしても思えません。

個人の更衣室など作れないというのであれば、性別を問わず、すべて一緒でいいでしょう。そんなことになったら興奮しかねない、羞恥心で自殺しかねないというのなら、同性に裸を見せたくないのに晒させ、裸を見たくないのに見せている現状をどうして放置しているのか。

病院でも、他の患者に裸を見せるわけではないのだから、身体検査も一人一人やればよく、同性だから、裸を見ても見られてもいい、同性だから、体重や身長、視力を他者に知られてもいいと考えることが間違っています。小学校であれば、しばしば身体検査には教師も立ち合うわけですが、生徒の裸を見て興奮している教師もいるに違いなく、どうしてそれを放置しているのでしょう。

トイレも同様にすべて個室にして、男女どちらでも使用できるようにすればいい。食い物屋でも家庭でもしばしばそうなっていますが、それで困ることなどありましょうか。「生理用品を男子に見られたくない」というのなら、鍵のかかるゴミ箱を設置すればよい。

予算的、物理的にできないことについては、妥協することも当然あっていいでしょうが、解消できることについては解消すればいいだけです。「完璧にはできない」といくら言おうとも、何もしないことの理由にはならないのです。

なぜこういった差を解消した方がいいのかと言えば、男らしさ、女らしさを個人が選択できるようにするためです。男らしくありたい女、女らしくありたい男の選択をも許す社会であるためには、公教育の場では、「男が男らしく」「女が女らしく」というジェンダーの押しつけは極力ない方がいい。

その環境にもかかわらず、大多数の男が男らしさを求め、大多数の女が女らしさを求めるのなら、個々人の選択の結果として、それもまたよし。いいかどうか知らないですが、個人の領域における少数派の選択が許されていることが保証されている限りにおいて、それも現実ってことで受け入れればよい。

昨秋、街行く女たちのスカート率を調べたのですが、制服を除く、若い世代の服装で言えば、スカートは2割程度です。必ずしもパンツ姿が女らしさを排除しているわけではないのですが、女の象徴とでも言うべきスカートは2割しかいない。冬ともなれば、その率は1割程度に下がっているでしょう。

その結果、女子中高生の制服がやたらと目立ちます。工業高校など一部の高校ではパンツとスカートと二種の制服を選択できるようになってますし、授業中でもジャージ着用が許されている学校もありますが、制服のある高校ではほとんどがスカートです。このことは、女たち自身の選択以上に、スカートを強いられていることを示唆します。

制服廃止運動が盛んだった時代に青春期を送ったためかもしれませんが、スカートでなければ女らしさを実践できないとする現実、あるいは学校教育の中で女らしさを教えなければならないとする現実には今も違和感があって、そんなもんは学校で教えるべきことではありません。

伏見氏はジャージ姿の女は魅力がないかのように描写してますが、これは彼が想像するヘテロイメージにすぎず、クラブにでも行けばジャージ姿の女の子たちがいて、私は欲情しっぱなしです。

体育の時間に着たジャージとは違うわけですが、「体育の時間に着たジャージではないジャージで男を惹きつける」という選択もまた可能ってことであり、その選択を最大限認め、「ジャージよりもフリルのついたスカートがいい」という男を惹きつける選択も最大限認めるためには、制服なんてやめてしまえばいいでしょう。それでもなお9割がスカートになるのだとしても、それは選択の結果であり、教師が「女らしい格好をすべきではない」なんて言う必要はない。

あるいは学校は性的な魅力をアピールする場ではないのですから、男女ともに同じ制服にしてもいい。それこそジャージでいいのではなかろうか。

どうもジェンダーについてはこういう考えがスムーズには受け入れられないようですが、他のジャンルでは当たり前のように実践されています。公立の学校で、池田大作の本を読むことを強いれば多くの人が反発することでしょう。学会員だって、そこまでは要求しまい。するのもいるかもしれないけど、決して受け入れられまい。

名簿を宗派別にすること、教室の前に神棚があること、給食でブタ肉を禁止すること、生物の時間に「人類は神が作り給うた」と教えることも反発されるでしょう。当然です。

これは無宗教を強いるためではなくて、あらゆる宗教を信じることの自由を保証するためです。ですから、家でその生徒が大川隆法の本を読んでいようと、日曜日に教会に通っていようと、家族間で手かざしをしてようと、学校や他の親たちがとやかく言うことではありません。もちろん教師の信仰も同様に保証されなければなりません。

思想においても同じく学校で偏向した教育をするのは好ましくない。しかし、生徒がどんな思想をもつのも勝手、あるいは親が子どもにマルクスの「資本論」を読ませるのも、ヒトラーの「わが闘争」を読ませるも勝手。

なぜこれがジェンダーにおいて受け入れられないのかが私にはわからない。ここで宗教や思想を例にしたのは、宗教や思想とジェンダーとが同じだと言っているのではなく、考え方を見せやすくするためです。ジェンダーには生物としての性が関係しているため、どうやっても意識しないではいられないものだろうとは思います。

しかし、宗教においても、文化、習俗、習慣に根付いている部分があるため、それらを完全に排除することは難しいでしょう。そこをことさらに取りあげて、「だったら、教師が初詣や墓参りに行ったことを生徒の前で表明することもできないのか」「修学旅行で神社仏閣に行くこともできないのか」「学校でクリスマスを祝ってはいけないのか」と、公教育に特定の宗教を持ち込まないことを全否定する人はいないでしょう。

「宗教と文化、習俗、習慣」「公教育と私的領域」の間の一線をどこに引くのかを決定するのはたしかに難しい。難しいながらも、また、曖昧な部分を残しながらも、この国では、一応は、公教育に特定の宗教を持ち込まないというルールが支持されています。

にもかかわらず、ジェンダーにおいては、細部で全否定したがる人がいかに多いことか。組体操しかり、トイレしかり、着替えしかり。

「男は男らしくあらねばならない」というのなら、自分が実践すればよいことです。「男らしくない男を受け入れられない」というのであれば、同様の男たちだけと交流すればよい。そういう男にのみ性的魅力を感じるのであれば、そういう男と自分がつきあえばいい。そのことがどうして教育という場で実践されないと、自分が男らしくいられないのか、自分が男らしい男とつきあえないのかがわからないし、どうして「男らしさ」「女らしさ」を学校が担わなければならないのかがわからない。

「男らしさ」「女らしさ」は学校教育の範疇ではなく、男らしい子ども、女らしい子どもにする教育が望ましいというのなら、親が家庭で実践すればいいだけです。

『欲望問題』において、「ジェンダーレスの社会が可能か不可能か」が、この問題の判定基準になっているかのように見えるところがあるのですが、その意味も私にはわかりません。「宗教がなくなる社会が可能か否か」と「公教育の場で特定の宗教が教えられることの是非」とは無関係であり、可能か否かの議論をする必要さえありません。「宗教はなくならない。だから、公教育の場に持ち込んではいけない」という論理が可能だからです。

有効であるとするのなら、「公教育の場で特定の宗教を教えないことは不可能あるいは有害」「公教育の場でジェンダーレス教育は不可能あるいは有害」という批判であらねばならないはずです。

もはや言うまでもないことですが、私はジェンダーのない社会を目指しているわけではありません。一律のジェンダーで統一されるどんな社会も目指していない。個々人がそれを選択した結果として一色に染まることや、ジェンダーが消失することはいいとしても、それを強いることにも反発している。「ジェンダーをすべて解消する社会にすべし」とするジェンダーレス教育にも私は反対なわけです。

この議論は、売買春の議論と通底しています。私が「売防法撤廃」を主張しているのは、誰もが売買春をする社会を求めているのではなく、売買春をするもしないも個人の自由である社会を実現するためです。その自由を妨害する制度に反対をしています。

売買春をしたくない人、してはならないと考える人はしなければいいだけであって、その個人の思想や信念、体質、趣味、嗜好と、国家の制度が合致していないと納得できない人たちを一貫して私は批判しています。

「売春するような女は不潔だ、買春するような男は野蛮だ」という感覚をもっている人たであっても、娘に「おまえが売春したら勘当だ」と日々言っている人であっても、そのことを国家に支えてもらう必要はないのですから、矛盾なく売防法反対を言っていい。

風俗ライターを廃業して以降、私は風俗店にまったく行かなくなってますが、それでも売防法反対の立場は変わらない。矛盾があろうはずがないのです。

「不倫はいけないことだから楽しい」と考える人たちは、個人として「不倫はいけない」という価値観を頑なに守り、同様の価値観を持つパートナーを探し、その上で不倫をすればいい。これを姦通罪という法で維持してもらう必要はないのだし、教育の現場で、「不倫はいけない」とことさらに生徒に教えなければ自分の信念を支えられなくなるはずもない。

そんな法がなくとも、そんな教育がなくとも、多くの人たちは個人の信念として、あるいは個人と個人の約束として、「不倫はいけない」という価値観を維持してます。その上で不倫を楽しんでいる人もいます。

『欲望問題』で提示されている個々人の欲望による選択というのは、まさにこういうことであり、一般に「不倫がいけない」という価値観が広く浸透しているのは、姦通罪や「貞淑であるべき」という教育によって国家が強制していたためではなく(これもあるにせよ)、個々人の内面から出てきた欲望に基づいたルールであることが想像できます。それさえも社会によって作られたものであるという言い方も可能ですが、だとしても、それに委ねればいいだけで、法や社会制度に依存しなくていい。

一方には、そのルールを共有しない人たちもいて、それはそれで個人が実践すればいいことであり、事実、実践しているカップルもいます。互いに互いの行動には干渉しないとか、互いに互いの行動を報告し合うことで興奮して性生活に潤いを持たせるとか、一緒にスワッピング・パーティに参加するとか。それを国が罰する必要などありはしないでしょう。

これらの多様な人々が共存できるためには、姦通罪などいらないってことであり、同じく売防法もいらない。そして、教育の場でのジェンダーの押しつけもいらない。

つまり、この問題は、道徳規範や個人の価値観が決定すればいいことを教育の場に委ねること、国家に委ねることの是非についての議論にほかなりません。換言するなら、「自分の子どもをどう育てるのか」についての親の権利を譲り渡していいのかどうかの議論です。

「自分が不倫をどう感じるか」「自分が売買春をどう感じるか」の個人の感覚を国家が支えてくれないと納得できない人たちの気持ち悪さは、「自分の男らしさ、女らしさの感覚は、教育の場で他者に強いないと実現できない」と考える人たちの気持ち悪さと一緒です。

さらに言えば、この気持ち悪さ、バカバカしさは『欲望問題』の中に出てくる、子どもに「男らしく」と躾ることを躊躇う親にも通じます。それがいいと思えばそう育てればいいでしょう。そのことと、教育の場でのジェンダーレスは矛盾するものではない。

家では夫が妻を縛りあげて逆さ吊りにして、ムチで叩いたり、ロウソクを垂らすSM趣味の夫婦が、あるいはその逆の趣味の夫婦が、学校に対してはジェンダーレスを求めることになんの問題がありましょう。

個々人が自らの欲望に忠実であるために、ジェンダーレス教育が実現されるべきという私の立場から見た時に、たしかにジェンダーフリー教育を支持する人々は、「社会制度がどうあるべきか」「個人の嗜好がどうあるべきか」の関係がクリアではないように見えるところがあります。方向が違うだけで、「男は男らしくあるべき」という個人の価値観を国が共有しないと納得しない人たちと同じ原理で動いているのではないか。

もし私が「女らしい女がいい。オレがわがままを言っても文句を言わず、浮気をしても気づかないふりをして、素直に従う女が一番」と個人の嗜好を語ったとしても、彼らは怒り出しそうです。現実にはそうは思ってなくて、「つきあうならヤリマンか売春婦」と私はよく言ってまして、たぶんこれも受け入れない人たちがいるのでしょう。個人として受け入れないことはいいとして、こういう人たちはそれが社会の当然のルールであるかのように排除してきます。こういう人たちからは排除されっぱなしですよ、私。

しかし、そういう私の選択を認めることを前提としない限り、公教育の場での男女格差をなくすことは、価値観の強要にしかならならず、多くのジェンダーフリー論者と私が相容れないところです。

私と同じ立場のジェンダーフリー論者もちょっとはいるのだろうと想像していたのですが、『欲望問題』を見る限りはいないみたい。

私が言うところのジェンダーレス教育は、個人の選択が最大限認められることと対ですから、売防法のような法律はいらず、表現の自由も当然最大限認めるべきで、ポルノ規制を主張するようなジェンダーフリー派は私の敵であります。

宗教のない世界を目指すために宗教教育を排除するのは、無宗教の強要でしかなく、公教育の場に宗教を持ち込ませない憲法の考え方とは似て非なるもので、真っ向から対立します。

選択肢を許さないジェンダーフリー教育ではなく、最大限の選択肢を認めるためのジェンダーレス教育を!

以上が私の考えですが、その私から見た時にも、伏見氏が危惧するように、『欲望問題』は「伏見は保守に転向した」との非難をされる余地を与えてしまっているようにも思います。

『欲望問題』においては、批判の先にあるヴィジョンが明確には示されていないために、ともすればジェンダーフリー派を批判した単なる現状肯定のものととらえられかねない。「解消すべきところがまだあるにしても、男らしさ、女らしさがあった方が楽しいのだから、おおむね今のままでいいではないか。あとは個人の欲望が決定すればいいのだ」と読めてしまいます。あるいは、事実、伏見氏はそう考えているようでもあります。

学校は欲情させること、欲情することを目的とする場ではないのですから、そこで求められるのは、異性の、あるいは同性の欲望を喚起する格好、仕草、言葉遣いではなくて、どの欲望も選択できる将来を保証することです。伏見氏の主張の延長上には、そのような考え方が存在するはずなのに、本書からはそれが見えない。

ジェンダーフリー論争を概括し、そこにある問題点を抽出して整理した点において優れているだけに、その先が見えてこない点に私は不満を感じた次第です。

【プロフィール】
まつざわくれいち●1958年生まれ。ライター。90年代後半から風俗ライターとして活躍するも、近年廃業宣言。しかしその執筆熱は衰えず、月に1000枚を越える分量をほこる、有料メールマガジン「マッツ・ザ・ワールド」配信中。
HP:『黒子の部屋』
http://www.pot.co.jp/matsukuro/
『教えてクレイチ!』
http://www.ping-net.com/digi/kureichi/kureichi.html

【著書】
熟女の旅/ちくま文庫/2005.2/\780
60分ロマンス 風俗ゼミナール体験編/ポット出版/2004.7/\1,700
風俗見聞録/ポット出版/2003.12/\1,800
ぐろぐろ/ちくま文庫/2003.12/\740
風俗ゼミナール 上級お客編/ポット出版/2003.5/\1,500
エロ街道を行く/ちくま文庫/2003.2/\780
風俗ゼミナール 上級女の子編/ポット出版/2002.6/\1,700
亀吉が行く!(長田要との共著)/ポット出版/2001.7/\1,600
風俗ゼミナール 女の子編/ポット出版/2001.4/\1,700
風俗ゼミナール お客編/ポット出版/2001.4/\1,700
魔羅の肖像/新潮OH!文庫/2000.12/\771
風俗就職読本/徳間文庫/2000.2/\629
熟女の旅/ポット出版/1999.8/\1,800
ポップ・カルチャー/毎日新聞社/1999.4/\1,400
糞尿タン/青林堂/1999.4/\1,300
恐怖の大玉/ポット出版/1999.1/\1,600
えろえろ/ポット出版/1998.10/\1,600
大エロ捜査網/青弓社/1998.10/\1,600
風俗バンザイ/創出版/1998.8/\1,600
エロ街道五十三次/青弓社/1998.6/\1,600
ぐろぐろ/ロフトブックス/1998.5/\1,333
魔羅の肖像/翔泳社/1996.5/\1,942
鬼と蝿叩き/翔泳社/1995.8/\1,553
新宗教の素敵な神々/マガジンハウス/1995.4/\728
エロ街道を行く/同文書院/1994.12/\1,262

黒川創[作家]●答えられなかったことを通して、その問いについてさらに考える

 ことの善し悪しは、法律に照らせば、確かめられるか。
 そのことが、まず、本書の冒頭に置かれる問いである。
 著者・伏見憲明のもとに、およそこんな内容の悩み相談のメールが届く。28歳の男性、同性愛者からのものである。
 ──自分は、大人になる前の少年が好きなのです。けれど、それがいけないことだというのはわかっていますから、実際には少年との性行為を行なったことはありません。しかし、もうそれも限界に達しているのです。最近では、街で好みの少年のあとをつけていたり、もう少しで声をかけそうになっている自分にハッとします。それと同時にぞっとします。いったい私はどうしたらよいでしょうか……。
 これに対して、結局、伏見は次のように答えているだけだ。
 「つらいお気持ちはわかりましたが、ぼくには何も言うことができません。ただ、我慢してください、としかアドバイスのしようがないのです」
 なぜか。
 それはいけないことだ、そんなことをやったら犯罪者だ、と答えることはできよう。けれど、それでは、男性からの問いに対して、答えられていないことは明らかだ。
 というのは、この男性は、少年を相手に「淫行」すれば法によって罰せられることなど、すでに最初から知っている。だからこそ、彼はこのメールを著者のもとへ送ってきた。だが、同時に、彼がそうした行為を「いけないこと」だと認識しているのは、法がそれを禁じているから、というだけのことではないのである。
 年端もいかない少年と性関係を結ぶためには、おそらく自分はそこに相手と対等ならざる権力関係を持ち込むことになるだろう、と、この男性は感じている。だとすれば、それは、相手の少年の人格などを、将来にわたって損なうおそれがあるのではないか。
 この男性が、少年との性交渉を「いけないこと」だと感じているのは、そうであってこそのことだ。つまり、ここで彼は現行の法に対して承服している。だが、これを「いけないこと」だとする彼自身の倫理的な根拠は、むしろ、その法の存在のいかんを超えたところにある。つまり、仮りに現行の法がなくても、おそらく自分(男性)はそれを「いけないこと」だと見なしていたのではないのか。そして、この認識こそが、いまの彼自身の心と肉体を、性欲の自然な発露とのあいだで苦しめているのである。
 したがって、いま、ここに置かれている問いは、たとえば、──自分は未成年者なのですが、お酒がたいへん好きなのです、どうしたらよいでしょうか──とか、──自分はマリファナが好きなのですが、日本の法では禁じられています、どうしたらよいでしょうか──という問いのありようとは、違う。ここでの問いは、「淫行」の相手というかたちで、“他者”の存在を前提としているからである。酒やマリファナを楽しみたければ、触法のリスクを自分自身の身に負う覚悟で、それを取るという選択もありえよう。だが、少年を相手に性関係をもつという行ないは、たとえ法的な処罰は自分が負ったところで、その行為がもたらす禍根は相手の少年に及ぶ可能性を避けられない。
 ところで、この相談相手に対して、伏見憲明が「つらいお気持ちはわかりましたが……ただ我慢してください」と答えることに、われわれ読者は落ち着かない気分を味わう。というのは、性愛をめぐる相手のタイプの「好み」というものは、もともと、せいぜい五十歩百歩で、他人に自慢できるようなものでないことは、誰もがひそかに感じているからである。
 博愛とか、平等の原則とかは、そこにない。デブより痩せ型が「好み」といったようなことは、自分自身のなかで、打ち消しようがないのである。フケ専も、萌え系も、何でもあり。こうした嗜好は、それぞれ、自分に宿りついてしまった「偶然の産物」とでも受け取っておくほかはない。そのなかにあって、ことさら少年愛者だけを「異常者」と呼んで断罪する資格が、はたして自分にあるかという自問が脳裏をかすめていくのである。
 伏見憲明は、このようにして、取り組むべき“問い”の形を、自力でつかみだしてくる書き手である。そこから手掘りで、考えを進めていく。自分自身の納得を求めて、深く掘り進む。それこそが、不遇な場所に閉じこめ置かれた自身の欲動を、解き放てる道筋でもあったからだ。少なくとも、20代後半での最初の著作『プライベート・ゲイ・ライフ』では、そうだった。彼はまず、そうやって自分の行き道を照らすことで、ほかの読者たちの場所をも照らしたのである。
 いま、40代にさしかかり、日本社会での同性愛者への認知は大きく進んできたと、彼は言う。だからこそ、次にはここで、そうした多様な嗜好を互いに認めあう、より対等で自由な〈社会関係〉の構築を模索していきたいと、彼は考える。そうやって書かれた本書『欲望問題』でも、最初の著作からの持続力、そして、同じ井戸から問題を汲みだしながら更新していく力に、脱帽する。
 ことの善悪の根拠が法律にあると考えるなら、国家が命じる戦争のもとでは、兵士とされる一人ひとりが戦場での殺人(もしくは戦死)を拒める理由はないということになろう。だが、それだけではないはずだ。人は、自分の良心のとがめによって、また、信仰の名によって、あるいは、ただ恐怖心からだけでも、戦場から離脱することがありうる。それらも、また、ことの善悪を、個人のなかで分けている根拠である。冒頭にあげた28歳の男性が、自身の性的苦痛のなかでも、なお少年との性交渉を「いけないこと」だと感じる理由も、このことにいくばくか重なるところがあるだろう。国家は、国家批判の権利(あるいは義務)をそれとして法文に明記することはないのだから、私たちはそれを自分の心のなかに留めておくほかはない。
 右に揺れ、また左に揺れる、このぶらぶらとした穂先の遊びの部分の輝き。体の重心をそこに預けようとする姿勢が、著者の伏見の態度のなかにある。
 国家だけではなく、あらゆる権力が、絶対的に腐敗する。社会的な運動においても、そこから自由なわけではない。昨今の行政機関などからの「ジェンダーフリー」への攻撃ぶりについて、それをバックラッシュ(反動)と片づけず、「ジェンダーフリー」派の論旨の揺れも押さえて議論を深めようとする伏見の姿勢に、運動者としての成熟が見える。社会行動には「政治」が伴う。ならば、自身が行なっている日々の「政治」を意識にとどめることで、その「政治」にも批判的検証の目を向けつづける以外に道はない。
 性愛というものが、(その相手が同性か異性かにかかわらず)つねに自分とは異なる“他者”を求めるものである以上、性をめぐるさまざまな区別だて、また、そこでの愉しみは、どこまでも残っていくようには思うのだが。
 ともあれ、本書に対して、私からのちいさな批判を最後にひとつだけ。
 この『欲望問題』のあとがきにあたる一節は、《命がけで書いたから、命がけで読んでほしい》と題されている。著者によって、本書が、そのような強い気組みで書かれていることを私は疑わない。にもかかわらず、そうした著作も「命がけで」読まれたりはしないものだ。
 それでも、その一冊の本が書かれ、たとえちゃらんぽらんにでも一人の読者に読まれることは、書き手にも、読者の人生にも、意味がありうる。私はそう思いたい。そして、おそらく、そのように考えるほうが、著者である伏見さんのこれまでの態度にも適っているのではあるまいか。
 アンドレ・ジイドは、50代なかばで、同性愛者としての自覚のもとに、しかも、語り手の小説家のなかにある少年愛の傾向を最後の一行まで手放さず、『贋金つくり』という実験的な長編小説の名作を書き通した。まだ、ここから先にも、道がある。50代以後の性愛は、おそらく生老病死、あるいは、さまざまな他者の人生へのふくらみをさらに合わせ持ち、著者・伏見憲明による相互扶助論へと道を開いていくのであろうと、私自身はこの本を受け取った。

【プロフィール】
くろかわそう●1961年、京都市生まれ。作家。『思想の科学」元・編集委員。近年は小説を主に執筆。『もどろき」が第124回、『イカロスの森」が第127回芥川賞候補になる。

【著書】
日米交換船(鶴見俊輔、加藤典洋との共著)/新潮社/2006.3/¥2,400
明るい夜/文藝春秋/2005.10/¥1,800
イカロスの森/2002.9/¥1,700
もどろき/新潮社/2001.2/¥1,600
硫黄島/朝日新聞社/2000.2/¥2,300
若冲の目/講談社/1999.3/¥2,800
国境/メタローグ/1998.2/¥2,800
リアリティ・カーブ/岩波書店/1994.8/¥2,330
水の温度/講談社/1991.7/¥1,456
先端・論/筑摩書房/1989.7/¥1,699
〈竜童組〉創世記/ちくま文庫/1988.12/¥520
電話で75000秒(宇崎竜童との共著)/晶文社/1988.11/¥1,505
熱い夢・冷たい夢 黒川創インタビュー集/思想の科学社/1988.4/¥1,800
〈竜童組〉創世記/亜紀書房/1985.12/¥1,800

橋爪大三郎[社会学者]●他者に通じる言葉で研ぎ出された欲望の相互承認への提案

 よく考え抜かれた本である。
 読んでいて感心するのは、著者・伏見さんが、自分はゲイであると周囲に宣言した当時のぎりぎり余裕のない状況から、さまざまな紆余曲折をへて、いまの考えに至るまでの道筋を、冷静に見つめ、正確な自分の言葉で語っている点である。人間はそれこそ千差万別で個性的な存在だが、このような手続きを踏むことで、誰でも何かしら思い当たるところのある、他者に通じる言葉が研ぎ出されるのだ。
 さて、本書の核心は、ゲイを、差別の問題ではなく欲望の問題としてとらえ直したことである。
 市民社会を生きる倫理の根底に、欲望(エロス)を置く、たとえば竹田青嗣さんの議論がある。さかのぼればホッブズも、個々人の譲ることのできない欲望を起点に、近代国家の枠組みを構想したのだった。けれども、一般に、個々人が自由に欲望を追求すれば、結果として不平等をうむ。不平等のなかに放置された側は、正義の名のもと、いわれなき差別と闘い、人びとの好き勝手な欲望追求に待ったをかけなければならないという思想を抱くことになる。
 では、差別と闘い、差別を解消するとは、どのようなことか。
 これは、簡単でない。フェミニズムを例にあげるなら、男女共同参画。女性であることが理由で、男性とのあいだに実質的な不平等があるのなら、それは差別だ。それを解消する政策は、正当化される。いっぽう、ジェンダーフリーはどうか。原理主義的なジェンダーフリー論者は、性別そのものを敵視する。そもそも男女の性別があるおかげで、女性差別が生まれている。性別をなくしてしまえば、女性差別もなくなるはずだ、とする。ここまで極端な考えは主流でないとしても、フェミニズムは実際、性別をどう考え、差別と闘う戦略をどう樹てるかをめぐって、さまざまな考えに分かれている。
伏見さんがゲイ宣言をすると、フェミニズムから共闘の申し入れがあった。女性もゲイも差別されている、差別されているもの同士で連帯しましょう、というわけだ。
 ところがだんだん、喰い違いが明らかになる。フェミニズムは、「個人的なものは政治的である」とする。個人的なものである性の領域に、正義を要求する。「男らしい男」は否定すべき存在ということになる。でもゲイは、男性を好きな男性のこと。「男らしさ」はそこでは、欲望の対象であり、魅力なのだ。これを否定すれば、ゲイの存在も否定されてしまう。
 伏見さんは、差別に反対しようとすると、必ずしも自分の欲望に忠実であることができないことに、次第に気づき始める。差別に反対する運動自身が、抑圧をつくり出してしまう構造があるのではないか。そこで、自分の欲望をまず根拠にすえながら、その延長で差別の解消をめざす考え方の筋道を模索し始める。
 男女の性別は、構築されたものだという。それは確かだ。だが、構築主義がいうようにすべてが構築されたものなら、「構築されたものだから否定し解体すべき」とは言えないのではないか。そんなことをすれば、すべてが無に帰してしまう。──伏見さんの言うとおりであろう。
 性別がなくなれば、女性差別はなくなる。それは確かだ。だが、性別は、われわれの伝統的・文化的な生き方である。人びとの欲望もそれによってかたどられている。性別をなくせば、人びとが欲望をみたす可能性も破壊されてしまう。差別をなくすために、人びとはどこまでも欲望を断念すべきだとは言えないのではないか。──これも、伏見さんの言うとおりであろう。
 差別されたからといって、差別された側に、無条件で正義を要求する特権が与えられるわけではない。誰もが認めなければならない唯一の正義の代わりに、誰もが分かち持つめいめいの、ささやかで切ない欲望から始めよう、と伏見さんは言う。その欲望が相互に承認されるならば、差別は実質的に解消する。それをめざして、少しずつ、ねばり強く、語りかけることをこれからのスタイルにしよう、という提案が本書である。自由や平等を考えるうえでも、正義や差別を考えるうえでも、大切な論点だ。
 最後のところに、「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」とある。命がけで書いたから、命がけで読まれると決まっていないのが、この世界の実際である。とはいえ、じゃあ真剣に読もうかという気にさせる、真面目さとなかみがある。
 このように明確なメッセージをもった本書の登場を喜びたい。

【プロフィール】
橋爪大三郎◎はしづめだいさぶろう
1948年生まれ、神奈川県生まれ。社会学者(理論社会学、宗教社会学、現代アジア研究、現代社会論)、東京工業大学教授。http://www.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/text/index.html

【著書】
世界がわかる宗教学入門/ちくま文庫/2006.5/\780
あたらしい教科書3 ことば(加賀野井秀一、竹内敏晴、酒井邦嘉との共著、監修)/プチグラパブリッシング/2006.4/\1,500
隣のチャイナ/夏目書房/2005.12/\1,800
書評のおしごと/海鳥社/2005.9/\2,500
アメリカの行動原理/PHP新書/2005.7/\700
刑法三九条は削除せよ! 是か非か(呉智英、佐藤幹夫との共著)/2004.10/\760
言語/性/権力/春秋社/2004.5/\2,500
永遠の吉本隆明/洋泉社新書y/2003.11/\720
人間にとって法とは何か/PHP新書/2003.10/\700
天皇の戦争責任・再考/洋泉社新書y/2003.7/\720
「心」はあるのか/ちくま新書/2003.3/\680
日本人は宗教と戦争をどう考えるか(島田裕巳との共著)/朝日新聞社/2002.10/\1,300
その先の日本国へ/勁草書房/2002.5/\2,200
強いサラリーマン、へたばる企業(金井壽宏との共著)/広済堂出版/2001.12/\1,600
政治の教室/PHP新書/2001.10/\660
世界がわかる宗教社会学入門/筑摩書房/2001.6/\1,800
ヴォーゲル、日本とアジアを語る/平凡社新書/2001.4/\740
幸福のつくりかた/ポット出版/2000.12/\1,900
天皇の戦争責任(池田清彦、小浜逸郎、吉田司との共著)/径書房/2000.11/\2,900
言語派社会学の原理/洋泉社/2000.9/\2,900
こんなに困った北朝鮮/メタローグ/2000.8/\1,500
ひきこもりNo.1 知る語る考える(共著)/ポット出版/2000.3/\1,500
選択・責任・連帯の教育改革 完全版(堤清との共編)/勁草書房/\1,800
選択・責任・連帯の教育改革(堤清との共著)/岩波ブックレット/1999.1/\440
橋爪大三郎の社会学講義/夏目書房/1997.12/\1,748
研究開国 日本の研究組織のオープン化と課題(共著)/富士通経営研究所/1997.9./\2,500
橋爪大三郎の社会学講義2 新しい社会のために/夏目書房/1997.4/\2,000
オウムと近代国家(呉智英、大月隆寛、三島浩司との共著)/南風社/1996.5/\1,456
新生日本 求められる国家の改造(長谷川慶太郎との共著)/学研/1995.11/\1,165
橋爪大三郎の社会学講義/夏目書房/1995.10/\1,748
科学技術は地球を救えるか(小沢徳太郎、武本行正、西垣泰幸との共著)/1995.10/\2,136
大問題!Q&Aでわかる世紀末ニッポン/幻冬舎/1995.8/\1,359
性愛論/岩波書店/1995.2/\2,300
自分を活かす思想・社会を生きる思想/径書房/1994.10/\1,800
崔健 激動の中国のスーパースター/岩波ブックレット/1994.10/\388
中国官僚天国(訳)/岩波書店/1994.3/\1,553
橋爪大三郎コレクション3 制度論/勁草書房/1993.12/\3,000
橋爪大三郎コレクション2 性空間論/勁草書房/1993.11/\3,000
橋爪大三郎コレクション1 身体論/勁草書房/1993.10/\3,000
僕の憲法草案(鈴木邦男、呉智英、景山民夫との共著)/ポット出版/1993.3/\1,900
社会がわかる本/講談社/1993.3/\1,262
身体の深みへ(竹田青嗣、瀬尾育生、村瀬学との共著)/JICC出版局/1993.2/\1,796
現代の預言者・小室直樹の学問と思想(副島隆彦との共著)/弓立社/1992.7/\2,400
民主主義は最高政治制度である/現代書館/1992.6/\2,000
照らし合う意識(村瀬学、小浜逸郎、竹田青嗣との共著)/JICC出版局/1992.4/\1,699
試されることば/JICC出版局/1991.8/\1,699
現代思想はいま何を考えればよいか/勁草書房/1991.1/\1.900
冒険としての社会科学/毎日新聞社/1989.7/\1.359
はじめての構造主義/講談社現代新書/1988.5/\720
仏教の言説戦略/勁草書房/1986.12/\2,900
言語ゲームと社会理論/勁草書房/1985.8/\2,300

中村うさぎ[作家]●小倉千加子さんは鳥で、私は犬だったのね!

 伏見氏の『欲望問題』は、今まで私の中ですごくモヤモヤしていた疑問を、一気に解明してくれた。「ああ、そうか」と、何か、胃の中に溜まっていたものがツルリと消化できた感じだ。こういうのを「腑に落ちる」というんですかね。
 ちなみに、私の抱えていた「疑問」とは、以下のようなことである。
 昨年、私は小倉千加子さんとの対談本を出した。私はそれまでに小倉さんの著書を何冊か読んでいて、とても感銘を受けたし、個人的にも小倉さんが大好きだったので、対談をとても楽しみにしていたのだった。
 なのに、いざ対談が始まると、私たちの言葉は何度も何度も、すれ違った。小倉さんの言ってることは、いちいち正しい。だけど、その言葉に頷きながらも、私の身体は「確かにそうなんだけどさ、でも……でも、なんか違ーう!」と叫び続けているのだ。
 たとえば小倉さんは「女性らしさを強調するボディコンシャスな服は、身体を締め付けて着心地よくはないでしょう」と言う。確かに、そのとおり。身体が苦しいと感じる以上、そのような服を着ることは「快感」とは言えまい。が、しかし、そこには「着心地」とは別の快感が、厳然と存在するのだ。女っぽくセクシーに着飾った自分が好き、というナルシシズムの快感。たとえそれが「ジェンダーの刷り込み」とかいう一種の洗脳であろうと、そこに快感を覚えてしまう私の心身は今さら初期化できるものでもなく、どんなに理論的に説得されようと頑迷に「でもでも、たとえ苦しくたって、ドルガバのセクシーな服を着る陶酔感は、着心地なんかブッ飛ぶほど気持ちいいんだもーん!」と叫んでしまう。要するに、私は理屈よりも快感を優先してしまう人間なのだ。それを愚かだとか間違ってるとか言われても(もちろん小倉さんはそんなことを言う人ではないが)、着飾ることの快感を、私は手放す気など毛頭ないの。
 そもそも私には、自分の身体を通して生まれた言葉しか信じない傾向がある。体験にこだわり、己の「身体を通して生まれた言葉」だけを書き続けようと心がけているのは、是非や正誤はともかくとして、それこそが自分の「魂の言葉」だと思っているからだ。だから、私の身体が「なんか違ーう!」と言ってるのなら、脳ミソがいくら「然り」と言っても、ダメなの、納得できないの。で、そんな自分の感覚を説明しようと頑張ったんだけど、何となく小倉さんには通じてない気がして、私はひどく落ち込んだのだった。ああ、私って、やっぱバカで頑固で俗悪なんだなぁ……と。
 で、このような私の自己嫌悪やじれったさが行間に溢れていたのだろうか、この対談本を読んだ私の父は、以下のような感想を述べたのである。
 「小倉さんって人は、きっと頭のいい人なんだろうな。だけど、おまえだって、あの対談を読む限り、そんなにバカってワケでもないよ(←これは親バカ)。ただな、おまえと小倉さんは、視点があまりにも違い過ぎるんだよ。小倉さんは鳥のように上空から、『女』という問題を俯瞰して眺めている。ところがおまえは、あくまで地上に住む動物の視点で、『女』を語っている。どっちの視点が間違ってるとか、そういう問題じゃない。ただ、鳥と犬とじゃ、同じ対象を見ていても、見えてる世界がそもそも違うだろ? あの本を読んで俺が感じたのは、これは鳥と犬の対談なんだなってコトだよ」
 なるほど、そのとおりだ、と、私は思った。私は犬のように地上に繋がれ、決して上空から物を見ることができない。その代わり、地上に住む生き物として、同族たちの悩みや苦しみや喜びをリアルに語ることができる。この「リアル」こそ、私が「身体から生まれた言葉」と呼ぶものなのである。一方、小倉さんは、鳥のように超越して、地上の生き物たちを眺めている。その視野は広く、全体的な構造もくまなく見渡せて、論旨も素晴らしく明確だ。ただ、小倉さんの言葉に、時折、私は「リアル」を感じられない。それで、私の身体が「なんか違ーう!」と、じれったそうに声を上げるのである。だけど、私の言葉は小倉さんに通じない。小倉さんに話しているうちに、自分がどんどんバカに思えてきて、惨めな気持ちになるだけなのだ。
 でもさぁ、これって、いったい何故なのかなぁ? 確かに鳥と犬とじゃ言葉が通じないのかもしれないけど、小倉さんだって普段は地上で生活してるワケじゃん? 現に私、プライベートで会ってる時の小倉さんが大好きなんだよ。一緒に飲んで語り合ったりしてると、すっごく楽しいの。なのに何故、対談の場では、私たちはこんなにすれ違っちゃうの? 小倉さんは仕事だからって急にお高くとまったりする人じゃないのに、「女の問題」について語り始めると、急に背中に翼が生えて、私の手の届かない上空へと飛び去っていってしまう……そんな気がしてならないのよ。この違和感は、何?
 と、まぁ、これが、私の抱えていた「疑問」だったワケである。そして、伏見氏の本は、その疑問に、じつに明確な解答を示してくれたのだ。ええ、そりゃもう、気持ちいいほどスッキリと明快に。
 「なるほど、そうか!」と、伏見氏の著書を読んだ私は、思わず膝を叩きましたね。小倉さんは「差別問題」を語り、私は「欲望問題」を語っていたのか! 鳥は上空から「社会という枠組みの中の女」を見渡し、犬は地上で「肉体という器の中の女」を見つめていたのだった。私は小倉さんから「鳥の視点」を教わったが、小倉さんに「犬の快感」を共有してもらうことはできなかった。何故なら、私は、どこまでいっても「欲望の犬」だから。
 本来なら、ここでまた落ち込むところだが、伏見氏の本は「それでもいいんだよ」と言ってくれてるような気がした。「鳥もまた、犬の視点を思い出さなきゃな」と。伏見氏のような頭のいい人にそう言っていただくと、これほど心強いことはない。そっか、私は無理して鳥にならなくてもいいんだね。たまには鳥の真似をして高い絶壁から世界を俯瞰してみようと努力はするけど(世界観が広がるしね)、基本的には犬のまま、犬の言葉を語っていくわ、私。だって、これが私の「リアル」なんだもの。それでも、犬が世界に向かって言葉を発し続けることに、きっと意味はあるわよね、伏見さん?

【プロフィール】
●中村うさぎ
1958年、福岡県生まれ。小説家、エッセイスト。1991年ライトノベル作家としてデビュー。近年では自らの浪費ぶり(ブランド物の購入、ホストクラブ通い、美容整形・豊胸手術)をつづったエッセイを中心に執筆。

【著書】
彼らの地獄 我らの砂漠(浅倉喬司との共著)/メディアックス/2006.12/\1,600
マッド高梨の美容整形講座(高梨真教との共著)/マガジンハウス/2006.11/\1,300
花も実もない人生だけど/角川文庫/2006.9/\476
芸のためなら亭主も泣かす/文藝春秋/2006.6/\1,333
愛と資本主義/角川文庫/2006.5/\590
最後の聖戦!?/文春文庫/2006.4/\476
幸福論(小倉千加子との共著)/岩波書店/2006.3/\1,500
私という病/新潮社/2006.3/\1,200
さびしいまる、くるしいまる。/角川文庫/2006.2/\514
美人とは何か?/文芸社/2005.12/\1,200
愚者の道/角川書店/2005.12/\1,300
オヤジどもよ!/文春文庫/2005.11/\448
うさたまのオバ化注意報(倉田真由美との共著)/2005.11/\952
うさたまの霊長類オンナ科図鑑(倉田真由美との共著)/2005.10/\1,000
うさぎ・邦正の人生バラ色相談所(山崎邦正との共著)/大和書房/2005.9/\1,300
女という病/新潮社/2005.8/\1,300
さすらいの女王/文藝春秋/2005.6/\1,286
うさたまのホストクラブなび(倉田真由美との共著)/2005.3/\514
結婚はオートクチュール(編著)/2005.2/\1,200
愛か、美貌か/文春文庫/2004.12/\448
女神の欲望(岩井志麻子、乙葉との共著)/メディアファクトリー/2004.12/\1,200
変?/角川文庫/2004.9/\476
地獄めぐりのバスは往く/フィールドワイ/2004.8/\1,238
自分の顔が許せない!(石井政之との共著)/平凡社新書/2004.8/\760
屁タレどもよ!/文春文庫/2004.7/\438
中村うさぎの四字熟誤(松田洋子との共著)/講談社文庫/2004.6/\400
うさたま見聞録(倉田真由美との共著)/角川書店/2004.5/\1,200
最後の聖戦!?/文藝春秋/2004.4/\1,238
うさたまの暗夜行路対談(倉田真由美との共著)/2004.4/\1,500
花も実もない人生だけど/角川書店/2004.4/\1,000
欲望の仕掛け人/日経BP社/2004.3/\1,600
月9/朝日新聞社/2004.3/\1,200
中村家の食卓/フィールドワイ/2004.3/\1,380
うさたま恋のER(倉田真由美との共著)/宝島社/2004.2/\1,250
イノセント/新潮社/2004.2/\1,300
生きる/マガジンハウス/2004.1/\1,200
最後のY談(岩井志麻子、森奈津子との共著)/二見書房/2003.12/\1,500
崖っぷちだよ、人生は!/文春文庫/2003.12/\457
穴があったら、落っこちたい!/角川文庫/2003.11/\438
壊れたおねえさんは、好きですか?/フィールドワイ/2003.8/\1,300
九頭竜神社殺人事件/講談社ノベルズ/2003.5/\740
美人になりたい/小学館/2003.4/\1,400
私、Hがヘタなんです!/河出書房新社/2003.2/\1,400
ダメな女と呼んでくれ/角川文庫/2003.2/\438
浪費バカ一代/文春文庫/2003.1/\476
犬女/文藝春秋/2003.1/\1,333
愛か、美貌か/文藝春秋/2002.12/\1,238
愛と資本主義/新潮社/2002.11/\1,500
うさぎの行きあたりばったり人生/角川文庫/2002.11/\648
さびしいまる、くるしいまる。/角川書店/2002.11/\1,500
うさぎとくらたまのホストクラブなび(倉田真由美との共著)/角川書店/2002.10/\1,500
オヤジどもよ!/フィールドワイ/2002.8/\1,200
人生張ってます/小学館/2002.8/\1,100
こんな私でよかったら…/角川文庫/2002.8/\476
変?/扶桑社/2002.8/\1,143
だって、買っちゃったんだもん!/角川文庫/2002.2/\438
崖っぷちだよ、人生は!/文藝春秋/2001.12/\1,238
さまよえるエロス[中編]/富士見ファンタジア文庫/2001.12/\420
ダメな女と呼んでくれ/角川書店/2001.12/\1,000
だって一度の人生だもん(かなつ久美との共著)/秋田書店/2001.10/\857
屁タレどもよ!/フィールドワイ/2001.10/\1,238
ショッピングの女王/文春文庫/2001.9/\438
人生張ってます/小学館文庫/2001.9/\552
税金払う人使う人(加藤寛との共著)/日経BP社/2001.7/\1,400
地獄に堕ちた亡者ども[上]/電撃文庫/2001.6/\490
パリのトイレでシルブプレー!/角川文庫/2001.2/\400
浪費バカ一代/文藝春秋/2000.12/\1,381
こんな私でよかったら…/角川書店/2000,10/\1,200
うさぎの行きあたりばったり人生/マガジンハウス/2000.7/\1,300
さまよえるエロス[前編]/富士見ファンタジア文庫/2000.4/\420
パルミットの笛吹き/電撃文庫/2000.1/\530
だって、買っちゃったんだもん!/角川書店/2000.1/\1.300
ショッピングの女王/文藝春秋/1999.9/\1,238
パリのトイレでシルブプレー!/メディアワークス/1999.9/\1,600
家族狂/角川文庫/1999.9/\400
だって欲しいんだもん!/角川文庫/1999.1/\438
女殺借金地獄/角川書店/1997.4/\1,200
家族狂/角川書店/1997.2/\1,000