池田清彦[生物学者]●他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。

最近、中島義道の『醜い日本の私』(新潮選書)と題する本を読んだ。中島は明大前や秋葉原の商店街が限りなく醜いと感じ、これに腹を立てない大半の日本人をなじっている。本のカバーには<この国には騒音が怖ろしいほど溢れかえり、都市や田舎の景観は限りなく醜悪なのだ! 「心地よさ」や「気配り」「他人を思いやる心」など、日本人の美徳に潜むグロテスクな感情を暴き、押し付けがましい「優しさ」と戦う反・日本文化論>とあるが、この本は実は差別論の本なのではないかと私は思う。

中島は明大前の商店街を醜いと感じ、私は別に何とも思っていない。中島はこの醜さを撤去したいと思い、私はどうでもよいと思い、別のある人はこの風景を心地良いと感じて守りたいと思っている。ここには感性と嗜好(指向)の違いがある。社会的な生物であるヒトは、マジョリティーの感性と嗜好を当然だと思い込み易い一般的性質を持っているのではないか、と私は思う。そこでマジョリティーがマイノリティーの感性と嗜好を抑圧すると、そこに差別が発生する。

だから、中島が頭に来ている問題と、伏見がもがいている問題は、構造的には同型である。違いがあるとすれば、性的な感性や嗜好は強く人々を縛っているのに対し、騒音や景観に対して中島のように過度にセンシティブな人は稀で、多くの人はどうでもよいと思っている所にある。たとえば、私は中島の感性や嗜好を理解できないし、理解するつもりもない。ただそういう人がいることは承認する。だから、中島の感性や嗜好を非難するつもりも全くない。勝手にやっておれと思うだけだ。私は、差別されていると感じるマイノリティーに対するマジョリティーの態度として、これ以上の方法を思いつかない。

この私の立場からすると、反・性差別運動というのはかなり迷走しているのではないかと思う。私自身はホモにもゲイにもレズにもフェミニズムにも何の興味もないし、勝手にやっておれと思うだけだ。様々な性的嗜好をもつ人が存在するのは事実であるし、それを否定する根拠は全くない。他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。と同時に、どんな人も自分の感性や嗜好を他人に押しつける権利や、他人に理解してもらう権利はない。

性的なマイノリティーに対する歴史的な差別が余りにもきつかったのが原因だと思うが、一部のフェミニストたちは、性差そのものを否定することを最終目的にしていたような時があったように思う(今もそういう人がいるかも知れないが)。しかし、生物学的な性は、社会的に構築されたわけではないので、この戦術が破綻するのは原理的に自明である。さらには、強く差別されていると感じているマイノリティーに比較的共通の感性として、自分の痛みも理解してくれとマジョリティーに要求する傾向があったようにも思う。これもまた、マジョリティーが自分たちの感性をマイノリティーに強制するのを反転しただけの話だから、原理的には間違っていると思う。

この二つの隘路に陥っている限り、性差別の問題はうまく解決しない。今回の伏見の本は、これを乗り越えようとする意欲的な試みだと思う。たとえば、<ぼくが今日、性という現場での「欲望問題」を考えるときに大切にしたいのは、自分の「痛み」に特化してビジョンを立てるのではなく、そこに同様に存在する他の「欲望」に対する配慮や尊重です>(124頁)との文章には、その意欲を強く感じる。しかし他方で、本の帯にもある<命がけで書いたから命がけで読んでほしい>という文書を見ると、やっぱりよく分かってないのかなあとも思ってしまう。人は他人が命がけで書いた本を鼻唄を歌いながら読む自由がある。

人間は自分の欲望を解放するために生きているのだと私も思う。どんな欲望であれ、他人の恣意性の権利に抵触しない限り許されるべきであろう。レイプをしたいという欲望を抱くことは自由であるが、実行することは許されない。前者は他人の恣意性の権利を侵害しないが後者は侵害するからだ。性的な欲望は、他人の恣意性の権利擁護とバッティングすることも多く、当人にとっては切実な問題であろうが、一般的な解はない。

最後に文句をひとつ。伏見は<チンパンジーと人間の遺伝子は数パーセントしか違わないそうですが、それにわざわざ切断線を入れて、自分たちをホモサピエンスに分類している時点で、ぼくらがすでに共同性の中に位置する存在であることを示しています。>(148頁)と述べているが、チンパンジーとヒトの形態や行動の差異には存在論的(生物学的)な根拠があって、共同性とは関係ない。ヒトのオスとメスの生物学的差異もまた存在論的根拠をもち、共同性や社会構築主義が出る幕はないのだ。もちろん、性の文化的側面は社会的に構築されたものであることは間違いないと思うが、この二つを混同するとロクなことはないことは確かである。性差を廃絶したいのであれば、女の人のみからクローン人間を作ればよいのであって、そうなれば、男などというやっかいな存在物はこの世界からなくなるわけで、その時点で性をめぐるやっかいな問題もすべて消失する。当然、性差別反対運動などというものもなくなるわけで、フェミニズムで商売している連中はおまんまの喰い上げになるけどね。

【プロフィール】
いけだきよひこ●1947年、東京都生まれ。生物学者、早稲田大学教授。

【著書】
科学とオカルト/講談社学術文庫/2007.1/¥760
科学はどこまでいくのか/ちくま文庫/2006.11/¥640
外来生物辞典(監修)/東京書籍/2006.9/¥2,800
脳死臓器移植は正しいか/角川ソフィア文庫/2006.6/¥552
遺伝子「不平等」社会(小川真理子、正高信男、立岩真也、計見一雄との共著)/岩波書店/2006.5/¥2,100
すこしの努力で「できる子」をつくる/講談社/2006.5/¥1,400
他人と深く関わらずに生きるには/新潮文庫/2006.5/¥362
科学の剣 哲学の魔法(西条剛央との共著)/2006.3/¥1,600
環境問題のウソ/ちくまプリマー新書/2006.2/¥760
遺伝子神話の崩壊(訳)/徳間書店/2005.10/¥2,200
底抜けブラックバス大騒動/つり人社/2005.5/¥1,200
やがて消えゆく我が身なら/角川書店/2005.2/¥1,300
生きる力、死ぬ能力/弘文堂/2005.1/¥1,600
新しい生物学の教科書/新潮文庫/2004.8/¥514
やぶにらみ科学論/ちくま新書/2003.11/¥700
初歩から学ぶ生物学/角川選書/2003.9/¥1,400
天皇の戦争責任・再考(小浜逸郎、井崎正敏、橋爪大三郎、小谷野敦、八木秀次、吉田司との共著)/洋泉社新書y/2003.7/¥720
他人と深く関わらず生きるには/新潮社/2002.11/¥1,300
生命の形式/哲学書房/2002.7/¥1,900
新しい生物学の教科書/新潮社/2001.10/¥1,400
正しく生きるとはどういうことか/新潮OH!文庫/2001.8/¥505
三人寄れば虫の知恵(養老孟司、奥本大三郎との共著)/新潮文庫/2001.7/¥514
アリはなぜ、ちゃんと働くのか(訳)/新潮OH!文庫/2001.5/¥600
遺伝子改造社会 あなたはどうする/洋泉社新書y/2001.4/¥680
自由に生きることは幸福か/文春ネスコ/2000.7/¥1,600
昆虫のパンセ/青土社/2000.6/¥1,800
臓器移植 我、せずされず/小学館文庫/2000.4/¥495
生命という物語/洋泉社/1999.12/¥1,600
楽しく生きるのに努力はいらない/サンマーク出版/1999.11/¥1,600
科学とオカルト/PHP新書/1999.1/¥660
オークの木の自然誌(訳)/メディアファクトリー/1998.9/¥2,400
生命(中村雄二郎との共著)/岩波書店/1998.9/¥1,500
構造主義科学論の冒険/講談社学術文庫/1998.6/¥960
正しく生きるとはどういうことか/新潮社/1998.5/¥1,300
さよならダーウィニズム/講談社選書メチエ/1997.12/¥1,600
虫の思想誌/講談社学術文庫/1997.6/¥660
生物学者 誰でもみんな昆虫少年だった/実業之日本社/1997.4/¥1,200
なぜオスとメスがあるのか/新潮社/1997.1/¥1,500
科学教の迷信/洋泉社/1996.5/¥1,845
科学は錯覚である/洋泉社/1996.1/¥1,942
科学はどこまでいくのか/ちくまプリマーブックス/1995.3/¥1,100
擬態生物の世界(訳)/新潮社/1994.11/¥4,660
「生きた化石」の世界(訳)/新潮社/1994.11/¥4,660
思考するクワガタ/宝島社/1994.10/¥1,748
科学は錯覚である/宝島社/1993.6/¥1,796
分類という思想/新潮選書/1992.11/¥1,100
差別という言葉(柴谷篤弘との共著)/1992.9/¥2,233
昆虫のパンセ/青土社/1992.2/¥1,748
構造主義科学論の冒険/毎日新聞社/1990.4/¥1,262
構造主義と進化論/海鳴社/1989.9/¥2,200
構造主義生物学とは何か/海鳴社/1988.3/¥2,500
教養の生物学(池田正子との共著)/パワー社/1987/¥1,000
ナースの生物学(池田正子との共著)/パワー社/1987/¥1,000