菅沼勝彦[メルボルン大学大学院生]●コミュニティと学問言説構築の架け橋となる

 一読し終えてのぼくの感想は、エキサイティングなほどにリアルな、そして現場からの響きを直接感じ取れるほどのプラクティカルな声を発する書ということであった。90年代初頭より日本ゲイ文化(またはクィア文化)の言説形成の担い手の一人であり続けてきた伏見氏が、安着なアイデンティティ懐疑の遂行への危惧を示唆した近年のコメントに注目していたぼくにとって、『欲望問題』はそれらのコメントの背後にある彼の中での思考の変化や転換を丁寧に紐解いてくれるものでもあった。

 伏見氏によるゲイ・リベレーションは日本においてその黎明期に開始されたものだったが、その戦略や思想は一般にマイノリティ解放運動が頼りがちな本質主義的方法論とは一線を引いた、実にポストモダンな性格の濃い内容を持っていた。処女作である『プライベート・ゲイ・ライフ』(1991)において彼は、同性愛者と異性愛者のあいだには決定的なエロスの構造、あるいはそれの作用の仕方に違いがあるという固定観念にチャレンジしている。それは社会の中において、たとえゲイ、レズビアンまたはストレートであれ、それぞれが自らのエロスの発情装置を「ヘテロ・システム」というフォーミュラでお品書きされたジェンダー・イメージ(おもに男性性イメージと女性性イメージ)を駆使して製造しているという意味においては同じ穴の狢であるという主張でもあった。これについて伏見氏は『欲望問題』のなかで、90年代の自分の仕事は「自明であるとされた性を相対化することに力点」を置き、ジェンダー又はセクシュアリティ概念における「脱本質化」を図っていたと回想する(p78)。そしてアイデンティティやカテゴリーの相対化を意識的に繰り返すことによって、性的マイノリティにとって抑圧的なカテゴリー自体の解体が起こる状況を目標としていたとも(p117)。しかし彼は『欲望問題』で、果たして「ゲイ・アイデンティティ」や「おとこ」、「おんな」といったカテゴリーが解体されること自体が、またはそれに向かって一辺倒に突き進むゲイ・リベレーションのあり方が本当に性的マイノリティ(または彼らと社会に共生する人々)にとって生産的且つ幸福をもたらす結果を導くのだろうかと問いただすことになる。

 野口勝三氏との対談を通して多くを気付かされたと告白する伏見氏は、カテゴリーの構築性への気付きを繰り返すことや、アイデンティティの脱構築のみを続行していくことの先にいったいどんな意味があるのだろうと警笛を鳴らす。すべてのカテゴリーが構築されたものならば、それを眺めるわれわれにとって、何が本質的に「正義」だとか、「正しくはこうであるべき」という倫理を絶対化することが難しくなってくる。あるいは、たとえ「弱者至上主義」的な観点から、弱者が「正義」であるという概念を一般化していったとしても、それは新たな抑圧を逆転的に生むことに他ならない。そこで伏見氏は『欲望問題』での論題でもある、性的マイノリティや同性愛者の運動を「正義」の概念にのみ基づいて遂行していくのではなく、まさに「欲望実現のための営為」としても認識していくことが大切であると訴える。そしてその欲望のあり方をつかさどるジェンダーのイメージやアイデンティティの利用価値を批判的であれ認め、有効利用するべきであると。

 無論、カテゴリーの有用性を認めること、あるいは伏見氏の言葉で「アイデンティティへの自由」を訴えることにより、既存のジェンダー構造を手放しで肯定しているわけではないことを再確認しておかねばならないだろう。むしろ、彼は既存構造で不利益をこうむっている性的又はジェンダー・マイノリティがいかに生活しやすい空間を自ら形成していく過程において、注目すべきは己への差別を生産しているのは既存構造であると同時に、それを改善していくヒントもその既存構造のなかに含まれているということに気付くべきであると訴えているのである。まさに、敵対的な運動論ではなく、敵対的に見える既存構造を「包み込む」ヴィジョンを示唆しているのだ。

 クリティカルな視野の基、探求されるべき生産的「妥協」とでも称せる彼のあらたなテーゼは、『欲望問題』のなかで机上の空論にとどまることなく日本の現代社会を取り巻く多くの問題(小児愛問題、「ジェンダー・フリー・バッシング」論争など他)に絡めて展開されている。そのような端的な右派vs革新派というバイナリーに集約されがちなトピックにコメントを寄せることにより、『欲望問題』での彼の訴えが「伝統への帰り」或いは「保守的な実践論」と消化される可能性があることを本人も十二分に認識している(p182)。ただそこで敢えて、日本のゲイ文化(又はクィア文化)の変容を90年代初頭から鋭く観察してきた彼が既存構造との「歩み寄り」を提言しているのには、現代の性的マイノリティにとってリベレーションのパラダイムを「抑圧からの解放」というものから「欲望への自由」へと転換していく必要性を、複雑変化してゆく現代社会のなかで性的マイノリティが自由を模索していくために、彼がひしひしと感じているという現実があるのであろう。ゲイ・リベレーションにアカデミアとして一定の距離をすえて関わってきた者とは違い、雑誌などの編集・出版活動により常にコミュニティと学問言説構築の架け橋を築いてきた伏見氏の、まさに現場からの声(或いは素直なまでの欲望)を十二分に組み込んだ末のプラクティカルな訴えに聞き入る必要性を疑うことはできないだろう。

【プロフィール】
すがぬまかつひこ●
1979年、岡山県生まれ。メルボルン大学大学院カルチュアル・スタディーズ博士後期課程在学。

【著作】
論考
Enduring Voices: Fushimi Noriaki and Kakefuda Hiroko’s Continuing Relevance to Japanese Lesbian and Gay Studies and Activism/in 『Intersections』 no.14/2006
共編翻訳著書(with Mark McLelland and James Welker)
Queer Voices from Japan: First-Person Narratives from Japan’s Sexual Minorities/Lexington Books社/2007年出版予定