書評

藤井誠二【ノンフィクション作家】●ダメになった左翼に読ませたい!?

 伏見さんのお仕事は一貫して、自らが身を置くマイノリティの側から社会に向けて強い言葉を発信をしながら、すぐに自分の言葉を相対化し、自身が属するマイノリティ内部に向けて疑問を投げかけたりもする。自分たちマイノリティを「理解」しようとする第三者や、あまりに原理主義的になっている「味方」の人々に対しても辛辣な言葉をぶつける。そういう立ち位置を背負ってこられたという印象があります。だから当然、ときどき返り血を浴びるようなこともあるはずで、逆に言えばそれがそのマイノリティ全体が活性化し、思想的に成熟していく原動力になっているのだろうと思います。

 マイノリティが社会から受ける差別や無理解、さまざまなプレッシャーと鋭く対峙してときにはね返したり、変えていくためには、一定の「社会運動体」を牽引する必要があります。同性愛者の多岐にわたる社会運動が理論的な武装をし、成熟をとげ、広範な支持を得ることができていったのも、そうした伏見さんの自由な立ち位置が確保されてのことだと思います。

 私はノンフィクション作家としてマイノリティを取材することが多い。伏見さんのような当事者ではありませんが、私が取材する対象もマイノリティとしてなんらかの社会運動を起こしているものばかりでした。最近では「犯罪被害者」というマイノリティがどう政治的に権利を保障されるか、どう司法に参加をすることができるかという運動の第一の目標点に達しようとしています。ぼくはその渦中にノンフィクションの書き手として関わってきています。

 そういう日本のマイノリティの運動はたいがい左翼が担ってきました。ですが、左翼の最も悪いところは内部での論争や批判を許容できないところです。政党であれ、市民グループであれ、労組であれ、連合体でも同じ体質を持っています。だから世の中の現実の変化に対応することができず、いまや月刊誌に「グッとくる左翼」なんて特集を組まれて面白がられている(でも完売だとか)存在になりさがっています。

 マイノリティだった運動体や自浄能力を持てないまま肥大化し、利権集団と化したり、理念を唱えるだけで現実に起きている課題に対応できない化石のような所帯になったりしていきました。与党に批判が高まっても、左翼政党に票がいかないことについても、自己正当化と与党を攻撃するだけで冷静な自己分析ができないほどダメになっている。その答えが『欲望問題』には記されていると思いました。そしてこの本には、世の中の価値を変える、あるいはつくりかえるために、かつ傲慢にならないための知恵と経験が詰まっていると思います。

 吉田司さんの『ひめゆり忠臣蔵』ではありませんが、いかなるマイノリティのなかにいても、声を上げずにはいられない差異にこだわりぬく感性こそ、伏見さんの真骨頂だと思っています。日本の左翼はそういう感性や発言を基本的に嫌い、与党のようなぬるま湯状態を毛嫌いしてきました。でもそれが昨今の左翼の弱体を招いたのです。『欲望問題』をいまの私が読むとそういう思考ばかりが浮かんできてしまいます。逆に言えば、マイノリティの運動がどうすれば拡大や思想的成熟をしていくことができるのかというヒントもつまっているのだと思いました。

【プロフィール】
ふじいせいじ●1965年、愛知県生まれ。ノンフィクション作家。

【著書】
殺された側の論理/講談社/2007.2/¥1,600
少年犯罪被害者遺族/中公新書クラレ/2006.12/¥740
風光の済州島「漂流」(荒木経惟との共著)/アートン/2004.10/¥2,381
こころのブレーキがきかない(編著)/日本放送出版協会/2004.7/¥1,400
わが子を被害者にも加害者にもしない/徳間書店/2003.12/¥1,500
500万で家をつくろうと思った。/アートン/2003.11/¥1,500
この世からきれいに消えたい。(宮台真司との共著)/朝日文庫/2003.10/¥520
人を殺してみたかった/双葉文庫/2003.4/¥524
いつの日にかきっと 映画「夜を賭けて」に賭けた若者たち/アートン
/2002.12/¥1,200
暴力の学校 倒錯の街/朝日文庫/2002.11/¥740
学校が自由になる日(宮台真司、内藤朝雄との共著)/雲母書房/2002.9/¥1,800
17歳の殺人者/朝日文庫/¥2002.8/¥700
少年に奪われた人生/朝日新聞社/2002.8/¥1,300
開国マーチ(荒木経惟との共著)/実業之日本社/2002.7/¥1,900
コリアンサッカーブルース/アートン/2002.5/¥1,100
殺人を予告した少年の日記/ワニブックス/2001.9/¥1,700
「脱社会化」と少年犯罪(宮台真司との共著)/創出版/2001.7/¥800
少年の「罪と罰」論(宮崎哲弥との共著)/春秋社/2001.5/¥1,800
教師失格/筑摩書房/2001.4/¥1,800
リアル国家論(宮台真司、宮崎哲弥、網野善彦、姜尚中らとの共著)/教育史料
出版会/2000.8/¥1,800
学校の先生には視えないこと/ジャパンマシニスト社/1998.8/¥1,600
〈性の自己決定〉原論(速水由紀子、宮台真司らとの共著)/紀伊國屋書店
/1998.4/¥1,700
学校的日常を生きぬけ(宮台真司との共著)/教育史料出版会/1998.4/¥1,600
18歳未満「健全育成」計画/現代人文社/1997.12/¥2,100
など多数

小倉康嗣[社会学者]●参与する知へ━━大地に足を着けて、ただ純粋に生きていくために

 僕は『欲望問題』を、「知」と「生きること」のつながりを問い、そこに「参与する」ための回路を切り拓いていく試みとして読んだ。

 僕は学問の世界の人間の端くれであるが、昨今の一部のアカデミズムの雰囲気に、ある違和感を感じていた。当事者性をうたう言説やマイノリティ(弱者)に寄り添う言説、あるいは研究者の政治的立場性を問う言説が増産されているが、それはたんにそういう「ポーズ」が巧妙になっただけで、結局は、研究者コミュニティという小さなコップの中だけで通用する言葉を空回りさせているだけではないか。もしかしたらそれは、偽善の巧妙化という妙な事態を招いてしまっているのではないだろうか。そもそも学問は「いかに生きるか」という実践的な問いとともにあったはずだが、「ポーズ」が巧妙になったぶん、かえってその問いと正直に向き合う愚直さを忘れてしまっているのではないか。そんな違和感である。

 そんなとき、『欲望問題』が刊行された。この本は、そんな僕の違和感をシンプルな言葉でひとつひとつ読み解いてくれた。

 僕がこの本から受けとったメッセージを端的に言うならば、「いかに生きるか」という生き方の次元では、いろんなことが自分と地続きになり、誰もが当事者になる。その根っこの次元にまで降りていこう。そして、そこから立ち上がるコミュニケーション(相互了解やつながり)の可能性を見いだしていこう、というメッセージである。

 たとえば「ゲイ」というカテゴリーに属するかどうかという次元では当事者じゃなくても、生きづらさや苦しみ、あるいは快や喜びの経験のなかで自らの居場所を見いだしていかんとする「生き方」の次元では、誰もが当事者ではないだろうか。たとえ同じカテゴリーに属しているという意味での当事者性だとか、同一の理念を共有していなくても、存在可能に向かって懸命に生きんとする生き方の次元にまで降りていくと、そこに経験の重ね合わせの可能性が生まれ、「自分ごと」(=当事者)として了解されてくる。そこから新たなコミュニケーションの可能性がひらけてくるかもしれない。

 実際、伏見さんはこの本のなかで、小児愛者の経験と(小児愛者ではない)自らの経験とを重ね合わせ、そこに横たわる地続き性を感受していく。「小児愛者」というカテゴリーの次元では当事者じゃなくても、生き方の次元にまで降りていくと、小児愛者の経験が痛いほど「自分ごと」として感じとられてくる。「あそこにいたのは自分だったのではないか」(p.14)と。そんな了解を深めていくなかで「ぼくもまたこの社会に責任を負った」(p.61)という自覚を強めていくのである。

 伏見さんはこの本で、差別問題、ジェンダーフリーの問題、脱アイデンティティの問題といった個々具体的な問題をあつかっている。けれども、それらは訴えたいことの間口にすぎないのではないだろうか。むしろ、この本で強く訴えられていることは、それらの問題を「欲望問題」として仕切りなおすことで、「いかに生きるか」という生き方の次元にまで降りていき、自分と地続きな関係性の網の目に「参与すること」なのではないだろうか。そしてこの本は、そのための根本原理を探求した本なのではないか。

 90年代のゲイ・ムーブメントの初期に「ぼくの中ではまだ『社会は敵だ』という意識が強かった」(p.44)伏見さんが、「敵だと思っていたものに自分の『痛み』も可能性も与えられていた」(p.52)ことに気づき、「そのときになってやっと、ぼくはこの社会を他の人たちとシェアしている感覚を得られた」(p.55)という。これは決して保守的な物言いではない。むしろ、こういう感覚のなかから問題が提示されるとき、マジョリティが対岸の火事とみなしがちなマイノリティの問題も「自分ごと」として受けとめられてくる、そのラディカル(根源的)な地平を照射した物言いであろう。「欲望問題」として仕切りなおすとき、マイノリティにとっても、マジョリティにとっても、社会が自らの「生き方」に切実に関わってくるものとして(つまり、「参与しうるもの」として)、受けとめられてくるのだ。

 むしろ問題なのは、参与しないポジションからの批判や告発であろう。冒頭に述べた、僕が一部のアカデミズムの雰囲気に感じていた違和感も、そこに端を発しているのかもしれない。

 たとえば、僕が属している社会学界とのからみでいえば、「客観性」や「政治的正しさ」の御旗のもとに、学問主体である研究者自身が、自らの学問の足元に横たわっているはずの「いかに生きるか」という実践的問いと(つまり自分自身と)向き合わずにきたのではないか。「客観性」の御旗は、決められた手続きで「実証」さえすればいいという態度を再生産し、(流行理論を振りかざす研究にありがちな)「政治的正しさ」の御旗は、「懐疑」さえすればいいという態度を再生産しつづけてきた。それは、ポストモダン思想による「客観性」(あるいは「超越性」)批判を経たあともなお、当事者性をうたうポーズとは裏腹に、研究者コミュニティという小さなコップの中で超越的に措定された「他者」「倫理」「正義」といった理念を盾にすることによって、自らの学問の足元(=生き方の次元)を掘り下げることをしてこなかったのではないか。つまり、自分と地続きな関係性の網の目の当事者として参与してこなかったのではないか。

 「知」が生成される学問活動の土壌は、人びとの生活経験の土壌と地続きであり、研究という営みはその「地続きの土壌」において実践的=参与的に検討されていくべきものであろう。そして学問主体たる研究者も、研究者である以前に生活経験をもったひとりの生活者であることに変わりはない。その意味で、「知」の最終判定人は現実を生きている生活者である。

 そういった学問姿勢をつらぬこうとするとき、そこから引き出されてくる知見の確からしさも、妥当性も、この「地続きの土壌」における人間相互のかかわりあい(コミュニケーション、相互了解)としてしか成り立たない。翼をもち空高くから見えた(ような気になった)超越的な視界も、大地に生きる僕たちがよりよく生きるために生かされるものでなければ「絵に描いた餅」である。それを生かすためには、大地まで降りてその生かし方を検討し合うことが必要なのである(むしろ問題とすべきは、その検討し合う場で、皆が参与可能なコミュニケーションが行なわれているかどうかということであろう)。

 そのためには、研究者も、研究対象ばかりに語らせるのではなく、なぜその研究をし、どういう問題意識をもち、それが自身の欲望や経験や実存とどう関連しているのか、自らの研究の根っこにある自分自身を語らねばなるまい。そこからしか「地続きの土壌」でのコミュニケーションは始まらないからだ。『欲望問題』は、まさしく著者自身の欲望や経験や実存を切開しながら、そのことを問うている。だから「命がけで書いた」作品なのだ。そして「命がけで読んでほしい」という帯の言葉は、理念や理論という盾でごまかさずに、自分と正直に向き合い、純粋に自分を入れ込んで読んでほしい、つまり参与してほしいというメッセージなのではないだろうか。

 「知」も人間の経験的所産であることにかわりはない。理念や理論といった「知」の上澄みだけを一足飛びにとりだして消費するだけでは、それを本当に理解し生かすことはできないだろう。「知」が生成される現場である「地続きの土壌」にまで降りていくことが必要なのである。この本には、著者が自らの経験と向き合い、おのれと時代とを切り結びながら、現在の思想を形成するに至った経験のプロセスが正直に、ありありと開示されている。そこに、「知」が生成される土壌たる「経験の大地」がある。

 ポストモダン思想による批判以降、理論的にも方法論的にも従来の枠組みの問い直し(脱構築)の議論は盛んになされてきた。しかし大事なのは、そこからどこに向かうか(どう生きていくか)、である。あとは「経験の大地」にしっかり足を着けて、現実によって試されながら、「生成」と「創造」に向かってただ純粋に生きるのみである。

【プロフィール】
おぐらやすつぐ●1968年生まれ。社会学者。立教大学・東京情報大学・東京外国語大学・慶應義塾大学非常勤講師。エイジングやライフストーリーをめぐる社会学的研究を軸に、現代日本人の生き方の可能性を探りながら、<生き方としての学問>への方法論についても探究している。

【著書】
高齢化社会と日本人の生き方——岐路に立つ現代中年のライフストーリー/慶應義塾大学出版会/2006.12/¥5,880
社会調査入門——量的調査と質的調査の活用(K・F・パンチ著、共訳)/慶應義塾大学出版会/2005.2/¥7,350
同性愛入門[ゲイ編]——Welcome to the GAY Community(共著)/ポット出版/2003.3/¥1,760
定年のライフスタイル(共著)/コロナ社/2001.4/¥1,785
フィールド・リサーチ——現地調査の方法と調査者の戦略(L・シャッツマン=A・L・ストラウス著、共訳)/慶應義塾大学出版会/1999.6/¥2,730
近代日本社会学者小伝——書誌的考察(共著)/勁草書房/1998.12/¥15,750

加藤秀一[社会学者]●あらゆる〈だけ〉に抗する思想のために

 正義のタームで語られることの多い差別という問題を、相異なる欲望すなわち利害間の対立という視野に置き直すことを通じて、膠着している反差別運動をより広範な人々に「伝わる」ように更新すること——『欲望問題』の主張を乱暴に要約すれば、およそこのようになる。これは日本社会の現状を的確にふまえた〈正論〉である。幾千万回の糾弾によっても埒のあかない差別という現象の厄介さを真摯に認識し、伏見氏と問いを共有してきた読者であるならば、本書を書いた伏見氏の意図は痛いほどよく理解できる(少なくとも、そう言いたくなる)はずだ。いったい、本書の副題である「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」という命題を誰が否定しうるだろう。それはあまりにも〈正しい〉スローガンである。けれども、この至極もっともな命題に収斂する議論がただ一通りであるとは限らない、ということには注意すべきである。著者の提案する「大きなつかみ」で言うかぎり、僕は本書の主張におおむね賛成するが、しかし同時にその一文一文に鈍い違和感を覚え続けた——著者が明快な議論の本筋に添えているあらゆる周到な留保にもかかわらず。

 字数制限の都合上、ここでは本質的な論点についてだけ検討しよう。伏見氏が提言する〈差別問題から欲望問題へ〉ないし〈正義から利害調整へ〉の移行については、少なくとも二つの疑問が即座に浮かぶ。第一に、そのような移行は本当に可能であり望ましいものなのか。第二に、伏見氏は議論の過程でさりげなく「欲望」と「利害」とを互換的に用いているが、それでよいのか。実はこれらは同じ一つの問題の異なる側面にすぎないのだが、以下では第一の面に焦点を合わせ、きわめて粗雑な素描を試みる。

 異なる利害=欲望間の深刻な対立は、当事者間の直接的な議論や交渉によっては決して調停されえない。ある人にとって人生の意味そのものを与えるような素晴らしい価値が、別の人にとっては吐き気のするような嫌悪の対象にすぎないといったことはありふれているからだ。この対処策はいまのところ二つしか考えられない。一つは、利害=欲望のエコノミーが貫徹する場としての「市場」に問題を委ね、より多くの・より強い欲望が人口に膾炙するというかたちで決着をつけること。もう一つは、当事者たちの上位に超越的な審級を置き、そのレベルにおいて裁定を下すこと。僕の目下の関心事である生殖医療の領域から具体例を挙げるなら、利害=欲望対立の当事者たちが飽くまでもタフに自己を主張しあって譲らないアメリカ合州国において、生殖細胞の売買や出生前診断・着床前診断はほぼ無制約に市場化される一方で、和解不可能なイデオロギー的対立に貫かれた妊娠中絶は世論を二分し続け、司法判断によってかろうじて調停されているものの、それも時代とともにたえず揺れ動いている。

 言うまでもなく、利害対立の市場化はしばしば少数派や社会的弱者に対する暴力を帰結するから、それを望ましくないと考える理論家たちは一定の超越的基準を構築するために苦闘してきた。1970年代にJ・ロールズが利害対立の観点に立つ功利主義への批判から正義(ジャスティス)という普遍的基準の(再)構築への歩みを進めた背景には、そのような現実への生真面目な取り組みがあったのだ。この観点から見ると、本書で正義という概念を繰り返し批判する伏見氏は、あたかも同じルートを逆向きに歩んでいるように見える。もちろん、そこには正義や権利という概念そのものに対してシニカルに構える現代日本文化そのものへの鋭い洞察があり、それゆえ相当の説得力があるけれども、しかし上に指摘したように〈そもそも利害対立の調停など不可能である〉という端的な事実をどう処理するのか、それを解決するには結局は何らかの「超越的」基準というフィクションが必要なのではないか、そしてさしあたりそれが「正義」と呼ばれているものの意義なのではないかという、当然予想される質問への答えを本書に見出すことはできない。さらに、〈できるだけ多くの人ができるだけ幸福になるように〉とする功利主義につきまとう〈最も救済を必要としている人が最も苛酷に打ち棄てられる〉という裏腹の問題、すなわち最も苛酷な差別を受けている人々は永遠に無視されつづけるかもしれないというより根源的な問題点は、ほとんど無視されているように思われる(僕が読み取れていないのだろうか)。

 僕はこれらを本書の理論的弱点だと考える。けれども、そのような視点からの評価は、もしかしたら不当なのかもしれない、とも思う。どうやら伏見氏と僕とでは、そもそも「理論」についての考えが根本的に違うように思われるからだ。本書で伏見氏は「理論の外にいる人間」たちに、自らもその一員として語りかけている。そのような読者は、本書を現実を分析する理論書としてではなく、一種の生き方指南書のようなものとして読むのかもしれない。そこでは、理論と幸福が食い違うことは悪しきことであり、そのとき修正されるべきはつねに理論の方なのだ。そうだとすれば、おそらく伏見氏の直接の関心は、先ほど僕があげつらったような原理的問題にはないのだろう。本書の議論はあくまでも日本社会の現在という歴史的状況によって限定された、いわば〈すでにある程度は苛酷さが解消された〉種類の差別だけに向けられたものなのかもしれない。実際、日本における性差別や同性愛者差別がどれほど根づよいとは言っても、少なくとも被差別者が頻繁に殺されたり強制収容されているわけではないのは事実である。そのような種類の差別についてであれば、これまでの運動の成果を評価しつつ、さらに大衆化を図るために評判の悪い「正義」概念を引っ込めるという戦略には、足し引きでプラスの作用が大きいのかもしれない(僕にはまだそのことは確信できないが)。

 けれども、これはとても面白いことだと思うのだが、伏見氏がいかにいわゆる理論の抽象性に疑いの目を向けようとも、伏見氏自身がセクシュアリティについて最良の理論家の一人であり、本書もきわめて理論的な書物である。すでに触れたように、ここでの伏見氏の議論は周到で、論点は複雑に絡み合っており、生き方のハウツー本として機能するようにはとても思えない。言説と現実とに距離があるという伏見氏の「言説」に頷いたからといって、読者が現実と現実との距離をどうやれば埋められるのかという「現実」の問題を解決できるわけではないのだ。これは少しも皮肉ではなく、むしろ著者の誠実さが本物であるという証拠だと思う。むしろ僕がいくらかの皮肉を込めて反問したいのは、なぜ言説(理論)と現実(実践)に距離のあることがいけないのか、両者を一致させて「すっきり」するのは本当に良いことなのか、ということの方だ。少なくとも僕にとって、理論とは「一般の人々」の「日常感覚」に迎合して安心を提供するためのものではない。理論的思考とは、むしろ安寧な幸福をかき乱すかもしれない危険なものだ。だからこそ、実感の専制に抗い、いわば自分に逆らって考えること(サルトル)は重要なのである。なにも浅薄なアマノジャクで言っているわけではない。確かに、人間にとって「差別をなくす」ことはすべてではないかもしれないが、他方、伏見氏が高らかに謳う「幸福」もまたすべてではないのだ。人は差別をなくすためだけに生きるのではない、だが同時に、人は幸福になるためだけに生きるのでもないのである。

 それではこの二つの命題のあいだの振幅をいかに理論化すればよいのか。言い換えれば、僕たちは差別のある世界をいかに生きればよいのか。だが、これはもはや伏見氏に投げ返せば済むという種類の問いではないだろう。すでに依頼された字数も大幅に超過している。他の数多くの論点(その中には「性別の抹消」の意味という重大なものもある)へのコメントと共に、僕が本書から読み取ったポジティブな要素についても省略せねばならなかったが、ただ一言、予想される批判に対してあえて「身を差し出し」たという著者の気概にふさわしく、本書が差別をめぐる思考を活性化させるに足る開放性のパワーを存分に湛えていることを、僕は微塵も疑わない。最後にそのことだけを付言しておきたい。

【プロフィール】
かとうしゅういち●
1963年東京生まれ。社会学者。明治学院大学教授。社会学の視点から性に関した研究を行っている。

【著書】
ジェンダーと社会理論(江原由美子、上野千鶴子らとの共著)/有斐閣/2006.12/¥2,600
身体をめぐるレッスン2 資源としての身体(鷲田清一、三浦展らとの共著)/岩波書店/2006.12/¥2,700
知らないと恥ずかしいジェンダー入門/朝日新聞社/2006.11/¥1,300
「ジェンダー」の危機を超える!(若桑みどり、上野千鶴子らとの共著)/青弓社/2006.8/¥1,600
図解雑学 ジェンダー(石田仁、海老原暁子との共著)/ナツメ社/2005.3/¥1,300
〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか/ちくま新書/2004.8/¥720
構造主義とは何か(上野千鶴子、竹村和子らとの共著)/勁草書房/2001.2/¥2,800
性現象論/勁草書房/1998.9/¥3,400
シリーズ〈性を問う〉3 共同態/専修大学出版局/1997.10/¥2,800
フェミニズム・コレクション3 理論(編)/勁草書房/1993.12/¥3,200
フェミニズム・コレクション2 性・身体・母性(編)/1993.11/¥3,200
フェミニズム・コレクション1 制度と達成(編)/1993.8/¥3,200

イダヒロユキ[社会学者]●差別問題を否定せず、スピリチュアルなレベルの差別問題に発展させていこう

伏見さんの本について、詳しく検討・反論する文章「伏見憲明『欲望問題』の検討」(以下、拙稿 と記述)を書きました。
私のHPにアップしました。  http://www.geocities.jp/idadefiro/
伏見さんの本のプラス面もありますが、私は主にマイナス面を契機にして、私のジェンダー論を伝えるようなものにしました。ここでは、少しだけ述べます。

 私も、一部の人から原理主義的というか、狭量というか、単純というような批判を受けたことはあります。男性がフェミニズムを語るのは奇妙だとかダメだとか、男性が女性学会幹事会を乗っ取っているとか、〈スピリチュアル・シングル主義〉に対して何も読まずに精神主義だといったり…。まあ、少し長く生きていれば、批判ともいえないような誹謗中傷もあるわけです。それが「敵対勢力」だけでなく、運動側から出さされることもあります。
でも、私は、「政治・運動」というものが時には単純になされざるを得ないということがあると思っています。だから、社会状況全体の中で、そこら辺をよくわかってバランスよく記述しないと、単純に運動批判になってしまうと思っています。
ところが、そうしたバランスが、今回の伏見さんの本には少ないと感じました。『欲望問題』出版記念プロジェクトの書評コーナーをみていても、伏見さん賛成という声が強いみたいなので、そうじゃない意見もあったほうがいいと思い、批判的に検討しました。

伏見さんや一部学者といっしょになって、運動のダメさを批判する、みたいなのは、私がしたいことではありません。私なりのバランスある答えを出している問題に対し、伏見さんともあろう人が、「社会運動か個人の性愛的幸福か」というような単純問題設定にしてしまって、二者択一の罠に自らはまって、結果、バックラッシュと近い物言いになっているところがたくさんあります。だから、「どうしちゃったんだ、伏見さん?」という気持ちで書きました。

 伏見さんの提起を尊重して言うなら、私は、伏見さんが「差別問題から欲望問題へ」というのに対して、「差別問題を否定せず、スピリチュアルなレベルの差別問題に発展させていこう」と言い換えたいと思っています。

伏見さん自身、「あとがき」(p184)でちゃんとした批判なら歓迎するという旨のことを書いておられるので、そこに素直に応答したつもりです。

たとえば、2章の問題提起をジェンダーフリー概念と絡めていることが私には不満です。ジェンダーフリー概念の問題にしなくても、社会運動と個人の幸福の関係は考察できます。で、拙稿では次のように書きました。
★  ★  ★
つまりジェンダーフリーとは、皆を中性にすることではない。100人が100通りの好きなファッションをすればいいということだ。人をさまざまな要素で区分することはある。そのとき、過剰にいつも男女2分法を中心化すること(男女性別の特権化)、過剰に典型的なモテ服に合わせようとすることをやめるということだ。男女の分割線は「常に完全廃棄」なのではなく、残るし、残す、なくさない(なくすことなどできない)。だが、その比重を落とす。その他の面、その人らしさに焦点を当てる。そのような別の「分割線」をたくさん入れる。「女性」を1色・1タイプに収斂させようとせず、いろいろな「女性」のあり方ができるようにしていく。画一化、1つのセクシー、1つの性のあり方というものを、もっと幅のあるものにしていく。従来の性秩序を強化するようなことに注意深くなる人を増やす。結果、一人一人の個性に敏感になり、皆がオンリーワンになるからシングル単位感覚。男1と男2、その他の違いを尊重するようにしていく。その意味での多数派の解体。現実には、以上の原則で、その場その場で、応用的に対応する(野口氏のような仕分けの原理を考える人がいてもいいが、それが完成しない限り実践的には何もできないというのはまったく間違い。空想的未来SF小説を書きたいなら思考実験もありだが、現実は、適切に人を男女だけでなく多様に見ていこうとする実践は可能だし、すでに実践されている。クオータ制の検討もこれに関わるので、「ジェンダー重視時代の新しい政治」畑山敏夫・平井一臣編『新 実践の政治学』法律文化社 2007年4月を参照のこと)。〈性別二元制〉=ジェンダー規範は、多くの多様な人を2色2種類のファッションにするということだから反対している。その過程で、皆が模索しつつも、適度に実践できている。そこが大事で、「ジェンダーフリーとジェンダーレスの区分が判らない」から何もできなくて立ちすくんでいるわけではまったくない。

以上の説明では、例えば「男女の境界線を残す」といように、ある種“固定的”に書いたが、付け加えておきたいのは、私たちの行為・実践の中で、私はなんらかの私、例えば「シングル単位感覚の男性」「男らしさ追及しない、おしゃれ、明るい性格、性分業反対、異性愛、ボーイッシュ女性好き、セックスにあまり興味なし、非論理的で感情的な男性」などになっていくということだ。行為の前から生物的男性はすべて1種類の男性であるというのではなく、家事を少ししてみる、人の話を聞く、ファッションをカジュアルなものに変えてみる、政治について勉強して考え方が変わる、職業を変える、恋人が変わる、(ゲイであると)カミングアウトする等という行為を(意識的/無意識的に)選び取り、重ねていくうちに、自分というものが変化し続ける。その結果をある瞬間切り取って「男性」というかもしれないが、別の属性・切り口もある。あらかじめ、固定的に男性/女性という主体が行為の前にあり、行為後も不変というわけではない。
従来、家族単位的に生きてきていても、部分的に、2分法ジェンダーを乗り越えるジェンダーフリー的言動をとるということもある。男女2分法ジェンダー意識をもっていても、生活形式として独身、離婚、単親家庭、同棲など非標準になっていることで、意識が変化していくということがある。フェミに触れて影響を受けて、意識的にシングル単位的言動を増やしていくということもある。その結果のある局面のある人を複雑に全体で見れば、単純に、男性か女性かの2種類に分類できるかというと、できない(あえて分類しても意味がない)。男女で分けようとおもえば大方の人はあえて分けられるが、細かく見ればもっと細かい分類になるし、最終的には一人一人違うということ。つまり、男女2分法(男女境界線)は、存在し続けるであろうが、もっと各人の個性が際立つ。「従来の男ならこうしろ」というジェンダー規範からの逸脱も増える。そういう社会はまともだろう。そういうことをフェミは実践している(こういう理解があるから、男性はフェミニストになれない、男性が女のことに口を出すな、などと本質主義的なことをいうのは、私はとても古くて固定的なフェミだと批判する)。
ちなみに、過去、「男性か女性かの2種類」に入らない人には名前がなかった(存在を承認されていなかった)が、いまや、インターセクシャル、トランスジェンダー、FTXのTG、サードジェンダー、トランスヴェスタイトなどと名を持つようになってきている。多様な人が多様な差異を保持したまま承認される社会に近づいている。〈性別二元制〉は永久不変ではない。フェミはそのことを言ってきたし実践してきたのであって、伏見さんやバックラッシュがいうような「中性化」「性別否定」を求めているのではない。

こんな基本の基本に対し、フェミニズムの主張を豊富化する文脈ならわかるが、フェミニズムを見くびるような記述の中でジェンダーフリーを「中性化」「性別否定」だと、バックラッシュ的な言辞で言ってしまう感覚には、ちょっと引いてしまった。伏見さんはどうしたんだろうとやっぱり思う。

★  ★  ★
伏見さんの「差別のためだけに生きているのではない」ということの言わんとすることはわかるが、本の主張全体のバランスが悪すぎると私は思っています。過去の差別反対運動の教条主義、倫理主義を批判したいのはわかる。だが、そのためにこれまでの運動を一面的に悪く言いすぎだよ、マイノリティの立場性というものの積極性を否定しすぎだよ、というのが私の批判です。
伏見さんのこれまでの全体からは、彼が信頼するに足る、マイノリティ運動側の人だと思っています。だから、本書を「悪く読みすぎた」のかもしれない。だから、原稿を書くとき私には迷いがありました。どこまでが伏見さんの主張の本質的な間違いで、どこからは「まともな問題提起だが少し表現が悪い(下手な)だけ」の部分なのか。

 で、拙稿ではとりあえず、『欲望問題』の文言に限っての「批判」をしました。伏見さんが続編を書かれて、言わんとすることをより適切に示してくださる時、私はもっと賛成するように思います。
                              

                              

いだひろゆき●
1958年大阪生まれ。社会学者。主にジェンダーについて研究、執筆、講演活動を行う。立命館大学、大阪経済大学非常勤講師。
ブログ http://blog.zaq.ne.jp/spisin/
ホームページ http://www.geocities.jp/idadefiro/

【著作】
貧困と学力(岩川直樹・斎藤貴男らとの編著)/明石書店/2007.4
これからのライフスタイル/「仕事の絵本」シリーズ5/大月書店/2007.2/¥1,890
続・はじめて学ぶジェンダー論/大月書店/2006.3/¥1,995
Q&A男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング━━バックラッシュへの徹底反論(日本女性学会・ジェンダー研究会編)/明石書店/2006.6/¥1,680
はじめて学ぶジェンダー論/大月書店/2004.3/¥1,995
スピリチュアル・シングル宣言/明石書店/2003.4/¥2,520
シングル化する日本/洋泉社新書/2003.4/¥756
いろんな国、いろんな生き方━━ジェンダーフリー絵本第5巻(堀口悦子らとの共著)/大月書店/2001.4/¥1,890
シングル単位の恋愛・家族論−ジェンダー・フリーな関係へ/世界思想社/1998.4/¥2,415
シングル単位の社会論−ジェンダー・フリーな社会へ/世界思想社/1998.4/¥2,415
21世紀労働論——規制緩和へのジェンダ−的対抗/青木書店/1998.2/¥2,940
樹木の時間——もう鼻血もでねえ/啓文社/1997.12/¥1,050
セックス・性・世界観(編著)/法律文化社/1997.12/¥1,995
性差別と資本制−シングル単位社会の提唱/啓文社/1995.12/¥3,466

石井政之[ジャーナリスト、NPO法人ユニークフェイス代表]●当事者解放運動の成果として瞠目の書

●ゲイとユニークフェイス

 これまで『欲望問題』を何回も読み返しながら、どのように書くべきか、迷っていました。
 ゲイとユニークフェイス(http://www.uniqueface.org/)の立場を超えるような言葉を作り出すことができるのだろうか?と考えあぐねていました。
 ゲイとユニークフェイスでは当事者たちが置かれている状況は異なりますが、おなじマイノリティ運動を展開しています。その代表的な書き手である伏見さんの新刊『欲望問題』は、ユニークフェイス解放運動活動家の私にとって、複雑な感情を喚起する書物でした。伏見さんは単なる書き手ではありません。一つのテーマを執筆したら、次のテーマに移っていくというジャーナリストではない。社会の流行を追いかける批評家でもない。日本のゲイムーブメントを立ち上げた孤高の表現者、東郷健の後継者。ゲイムーブメントの先頭に立ち、言葉の力によって同じ境遇にあるゲイ当事者にエールを送り続けてきた。ほかに取り替えのきかない仕事をされてきた人です。

 私は、顔の右顔面に赤アザがあることをきっかけに執筆活動を始めた物書きです。私と同じように、顔にアザやキズのある人間を「ユニークフェイス」と定義し、その当事者の置かれている状況を社会に伝えるために1999年3月、ユニークフェイスという市民団体を立ち上げました。2002年にはNPO法人化。今年の春、設立から8年。立派な社会活動家のように見られます。
 それはそれとして、私がやってきた程度の活動で、こんなに誉められていいのだろうか、という気持ちもあります。たいしたことはできていないと思っているから。
 それはユニークフェイス当事者がゲイなどと比較すると、ほとんどカミングアウトをしない、ということが活動をするほどにわかってきたからでもあります。マイノリティのなかのマイノリティ。微々たる者達の反差別運動です。

 この8年間のユニークフェイス活動は、目立つ外見というスティグマをもったマイノリティがカミングアウトするとはどういうことなのだろうか? と考える時間でもありました。
『欲望問題』は、私にカミングアウトすることの意味を改めて問いかけてきました。何しろ、伏見さんが「命がけで書いた」という書物です。読者として、すこしだけでも命を賭けて読むことになりました。
 それにしても、命がけで書いた? 今時なんと青臭い言葉でしょうか? プロのライターが執筆にいちいち命を賭けていたら、いくら命があっても足りないでしょ。でも、ベテランライターの伏見さんは、命を賭けた。そのハートをしっかりと受け止めるためには、わたしも命がけで読まないといけなくなる。そのためでしょうか。すこし紙数が増えました。
 

●カミングアウトとは?

 伏見さんは『欲望問題』でこう書かれています。
「同性愛の反差別運動が他の社会運動に遅れて90年代になってやっと形になったのは、自分の現実を受け入れるという最初の敷居が高かったことが影響しているのではないでしょうか。まず、自分のことをそれでいいんだと思えるきっかけがなければ、そのカテゴリーの問題を社会的文脈で解決しようとは考えられないわけですから。どの反差別運動もその敷居をまたぐことから始まりますが、セクシャリティの問題は、そのきっかけがつかみづらかったことから、最後まで取り残されていたのでしょう」
(24ページ)

 周囲と同じでなければ生きにくい日本では、このカミングアウトの敷居が実に高い。外見的特徴がないゲイというマイノリティでもその敷居が高いのであれば、目立つ特徴のあるユニークフェイス当事者ではもっと敷居が高くなります。
 わたしの知る限り、ユニークフェイス当事者として、その生き方をカミングアウトしている現代日本人は、
太田哲也氏(熱傷の当事者)
http://www.keep-on-racing.com/
藤井輝明氏(海面状血管腫の当事者)
http://www.fujiiteruaki.jp/
そして私くらいです。女性はひとりもおりません。

 なぜそうなってしまうのか?
 ゲイには「ゲイカルチャー」と呼ばれるものがある。それは好みの同性を獲得しようという「欲望」に根ざした動きがあるからでしょう。
 部落差別をテーマに執筆活動をしている角岡伸彦さんにも、部落の文化的な価値への評価があります。
 目を転じれば、障害者にもその生活に根ざした文化があるという立場から「障害文化」を論じる人も現れるようになりました。女性にも、在日にも、障害者にも、ゲイにも、マイノリティにはそれぞれの属性にともなって、欲望があり、そこから文化が生まれています。
 このような歴史的な厚みのあるマイノリティ文化をみていると、ユニークフェイス当事者のひとりとして、うらやましい、と思ってしまいます。

 マイノリティには、「不幸比べ」をする傾向があります。
「自分の方がしんどい」と主張できる事実や根拠を並べ立てて、その困難さを主張して、「あんたたちは恵まれている!」とする態度です。
 これは、ワガママで、独りよがりな主張ではありますが、その背景には「欲望」の対象がなく、よって「文化」が生まれようもない、という疎外感が根っこにあるのではないでしょうか。
 そのような疎外のなかに立ちつくしているマイノリティ当事者たちは、カミングアウトはしない。もしカミングアウトをしてしまえば、自分よりも恵まれた人たちに対して、不幸をまた語らねばならないから。でも、語らないと伝わらない。語ると、惨めさが募る。こんな悪循環があり、そこから目をそらしていくことで、問題が先送りされ、その問題は社会に伝わる機会を喪失していく。
 ユニークフェイス当事者による反差別運動を展開していると、このようなカミングアウトできない多くの当事者と向き合うことになってしまいました。
 

●当事者による当事者嫌いをどうするか?

 当事者がカミングアウトを避ける、嫌悪する、という傾向は、ゲイのなかにもあると伏見さんは書かれています。

「当事者の中のホモフォビアを解除することの困難さのほうが、大変だった気がします」(40ページ)

 ゲイであることは医療によって治すことはできません。ある人間が異性に欲情するか、同性に欲情するか、それはコントロール不能なことです。
 顧みるに、ユニークフェイス当事者たちは、医療によって治る、という情報にさらされています。治療によって、ユニークフェイス当事者であることをオールクリアにして、まっさらな普通の人間になって、人生のやり直しに希望をもっています。
 それは高度な医療技術を誇る日本では、普通の欲望である、と奨励されている。
 医療技術という、顔の付け替え、顔の全面改修手術によって、スティグマを取り去りたいという欲望が強固であるため、ユニークフェイス当事者たちの解放運動は、常に引き裂かれた状態に陥ることになります。
 

●「治療派」と「開き直り派」の溝

伏見さんは『欲望問題』の後半で、映画『X-MEN』についての言及されてますね。

 私もこの映画が大好きです。完結編をまだ見ていなかったので、さっそくレンタルショップで借りて見てきました。

 そして、ミュータントであることを治療するクスリをめぐるミュータント同士の「内ゲバ」が、ユニークフェイス解放運動のなかにある、「治療派」と「開き直り派」との間に横たわる溝とだぶって見えました。

「その顔のアザは治療できる」

という医療産業からの誘い。

「治療して普通の顔になれるのならば、なんとしても治してあげたい」

という親心。

 この2つの勢力の誘いに応じて、治療を受ける当事者たち、それを励ます親たち。一部の当事者だけが「完治」し、多くのものは不治のまま放り出される現実があるのですが、当事者たちは治ることに賭けます。
 年長者のユニークフェイス当事者ならば、医療は常に不確実であり、完全にその顔が普通になることはありえない、ということはわかっています。しかし、このような事実を正面から受け止めようという、当事者はいません。まずは治療を受ける。その治療の過程で、現実を知り認めるようになっていきます。その現実を容認できない人は、名医を求め、完全なメイク技術を求めて漂流していく。
 このとき、欲望の方向は、ふたつのベクトルに分岐し、それぞれの当事者は、その分岐点で立ち往生してしまう。
 治療をあきらめないで続けるか、あきらめて開き直るか。
 医療への欲望が高い人ほど、ユニークフェイス解放運動には関心がない。医師との良好な関係をつくることに価値をもち、解放運動からは距離を起き、治らないユニークフェイス当事者とは関係がないという人生を選択していくのです。
 医学には限界があるという情報は、これから治療を受けるという当事者にとってはどうでもいい情報です。
がん患者に対して、がんを制圧する手段はまだ確立していない、という合理的説明はなんの力にもならないのと同じように。
 この環境下では「治療派」と「開き治り派」は別世界の住人として生きることを余儀なくされていく。
 同じような現象は、カモフラージュメイクについてもあります。
 カモフラージュメイクによってアザが隠せる「軽症」の当事者と、隠せないほどの巨大なアザのある「重症」の当事者との間にある感情の壁。
 まったく人間は小さな違いに気づき、それぞれを避けていきます。
 健常者のなかにあるユニークフェイスへのフォビアとも相まって、「治療派」と「開きおなり派」は、孤立したり、場当たり的につながったりして、烏合集散を繰り返しているようです。
 

●X-MENにみる「外見階級制」

『X-MEN』のなかで争う、ミュータント集団にも「外見の階級制」が存在していることがわかり、私はハリウッド映画の奥深さに慨嘆しました。
 人類を征服しようとする磁力を操る男(磁力は軍事力の象徴でしょうか)、そして人類との共存を目指すテレパシー能力を持ったリーダー(このテレパシーは善政という政治力の象徴なのでしょうか、あるいはボジティブシンキングという現代日本の感情労働の形態なのでしょうか)。この両者のリーダーの外見は普通なのです。
 大勢の人間を牽引しているリーダー的な資質には、普通の人間であることが求められます。普通の外見なのだが、内面には思想があり、その周辺には信奉者がおり、その関係性から権力が生まれる。
 しかし、その双方のリーダーの下で働く部下のフリーク的である、カメレオンのように皮膚細胞が変化する女性ミュータントは、治療薬でその特殊能力が消えたとき、ただの美人になってしまう。
 これもまた、ハリウッド的でした。大衆のもとめるビジュアルという欲望に忠実なのです。魔法が解けたあとの女性の容姿はブサイクでは興ざめなのです。
 健康で筋肉質(またはセクシー)な身体イメージを武器に世界の映画市場を征服しようとするハリウッドらしいといえばらしいのですが、ミュータント軍団のなかにある「外見の階級制」について、多くの人はみのがし続けていくでしょう。
 これはただのフィクションではありません。
 現実の私たちの世界を反映している。
 もし、カメレオンみたいな外見の不細工な男がミュータント軍団のリーダーだったとしたら?この映画はおおくの観客の支持を得ることはないでしょう。
 そこにこそ、観客の「欲望問題」がある。外見によって人を判断したいという欲望がある。欲望を喚起しない身体に、人は差別的な眼差しを注ぎ続ける。

 特殊能力のある人と、ない人との間にはどうしも争いが起きてしまうでしょう。
 ミュータントたちは普通の人間と妥協して生きる道を選ばなければならない。そのミュータント性は普通の人の畏怖と嫉妬を発動させるものです。しかし、ひとりひとりのミュータントにはミュータント・コミュニティを求める孤独という状況がある。マジョリティとミュータントの間をとりもつ者は、その両方の属性を少しずつ保有していないといけないし、その能力によって、相互のコミュニケーションを促進する触媒(メディア)でなければならない。
 『X-MEN』の2人のリーダーは、それぞれが目的のために嘘を言い、ときに人を切り捨てて邁進していく。一人は途中で生物的に死に、もうひとりは社会的に死んでいく。そして社会はその死をのり超えて動いていく。
 どの世界もリーダーは大変です。
 

●少しずつ分かり合えればよい

 1999年からユニークフェイス解放運動をしてきましたが、当事者のなかにある欲望のベクトルの違い、医療への向き合い方の違いを見てきました。
 この欲望の調整のめどは立っていませんし、ずっと解決はないのかな、とも思います。
 ユニークフェイス当事者たちにはゲイのようにコミュニティをつくる必然性はありませんが、互いの生き方の交流をする機会は必要です。
 完全に分かり合えることはないけれど、少しでも分かり合えればよい。
 ユニークフェイス解放運動をして9年目になって、そんなふうに考えられるようになりました。
 伏見さんもこう書かれていました。
「ここ数年、ぼくは、ゲイだからゲイ・コミュニティに属する、という見方ではなく、自分が豊かな人生を歩むのに、ゲイ・コミュニティというフィクションをいかに創造し、それを利用するのかというスタンスに移行しています」(154ページ)

 この一文は、解放運動の歴史がきわめて浅いユニークフェイス当事者である私を励ましてくれました。

『欲望問題』は、ユニークフェイスというフィクションをさらに大きく強く創造するためのよい刺激でした。
 それにしても難しい書物でした。情報量がぎっしり。思想もみっちり。考えさせるキーワードが満載でした。

【プロフィール】
いしい まさゆき
1965年、名古屋出身。ジャーナリスト、評論家。NPO法人ユニークフェイス代表、ユニークフェイス研究所代表。自称「顔にアザをもつジャーナリスト」として執筆活動を行う。

HP:ユニークフェイス研究所/石井政之 公式サイト
http://uniqueface.biz/

【著書】
「見た目」依存の時代(石田かおりとの共著)/原書房/2005.11/¥2,400
人はあなたの顔をどう見ているか/ちくまプリマー新書/2005.7/¥700
顔がたり/まどか出版/2004.10/¥1,400
顔面バカ一代/講談社文庫/2004.9/¥533
自分の顔が許せない!(中村うさぎとの共著)/2004.8/¥760
肉体不平等/平凡社新書/2003.5/¥700
知ってますか?ユニークフェイス一問一答(松本学、藤本輝明との共編著)/解放出版社/2001.12/¥1,000
見つめられる顔 ユニークフェイスの体験(松本学、藤本輝明との共編著)/高文研/2001.9/¥1,500
迷いの体/三輪書店/2001.2/¥1,500
顔面漂流記/かもがわ出版/1999.3/¥1,900

赤川学[社会学]●欲望問題から制度問題へ

 伏見さんと直接お会いしたことはない。しかし私にとっては永遠の先輩である。1991年、衝撃のデビュー作『プライベート・ゲイ・ライフ』が出版されたとき、私はセクシュアリティ研究を志したばかりの駆け出し院生だった。むさぼるように読んだ記憶がある。また1997年に刊行された『性のミステリー』は、私が大学教員としてはじめて講義したとき、真っ先にテキストとしてとりあげたものである。伏見さんの思想との対峙が、私の研究生活にとって重要な課題であり続けたことはまちがいない。

 今回の『欲望問題』は、90年代から現在にいたる、伏見さん自身の思考の歴史といえる。ゲイとしての「痛み」を「差別−被差別」という文脈に置いた90年代の初頭。ゲイ解放運動を含めた反差別運動についてまわる弱者至上主義に疑問をもちはじめた世紀末。そしてさまざまな「他者の欲望に対して、できるだけそれを可能にするように、そしてその結果が社会の成り立ちと維持に矛盾しないように、いっしょに考えていく」ことを選んだ現在。伏見さんが積み重ねてきた思考の展開が、わかりやすく書かれている。

 伏見さんが現在取り組んでいる課題は、ポルノやオナニーや少子化の問題を場当たり的に考えてきたにすぎない私にも、驚くほど胸に沁みいるものであった。私なりにいいかえると、それは、様々な欲望を抱える人びとが、「性への自由」と「性からの自由」を同時に両立可能な社会制度を、いかなる原理原則のもとに構想しうるか、という課題なのである。あえていえば21世紀のセクシュアリティ研究は、「欲望問題」の先にある「制度問題」へと歩を進めていかざるをえない(それは、かつての弱者至上主義的な反差別運動からも、保守派とジェンダー・フリー派の不毛な対立からも、さしあたり距離を置く形でしか成立しえないだろう)。伏見さんは、堂々とその先陣を歩もうとしている。

 ひとりでも多くの人が、わたしたちとともに、この課題を共有してくれることを願ってやまない。

【プロフィール】
●あかがわ まなぶ
1967年、石川県生まれ。社会学者、東京大学助教授。近代日本のセクシュアリティの歴史社会学、人口減少社会論を中心に研究を行っている。

【著書】
構造主義を再構築する/勁草書房/2006.11/¥2,800
〈社会〉への知/現代社会学の理論と方法 下 経験知の現在(野宮大志郎、坂元慶行らとの共著)/勁草書房/2005.8/¥3,500
東京スタディーズ(吉見俊哉、若林幹夫らとの共著)/紀伊國屋書店/2005.4/¥2,000
子どもが減って何が悪いか!/ちくま新書/2004.12/¥700
〈身体〉は何を語るのか(見田宗介、内田隆三らとの共著)/新世社/2003.3/¥2,100
構築主義とは何か(上野千鶴子、竹村和子らとの共著)/勁草書房/2001.2/¥2,800
日本の階層システム4 ジェンダー・市場・家族(盛山和夫、尾崎史章らとの共著)/東京大学出版会/2000.6/¥2,800
セクシュアリティの歴史社会学/勁草書房/1999.4/¥5,000
シリーズ〈性を問う〉2 性差(大庭健、青野由利、長谷川真理子、金井淑子、広瀬裕子との共著)/1997.6/¥2,800
現代の世相1 色と欲/小学館/1996.10/¥1,550
性への自由/性からの自由/青弓社/1996.8/¥2,200

エスムラルダ[ドラァグクイーン]●そんな、ごく「当たり前」のこと

 20歳の時に初めてゲイの友人を得、「ゲイはセクシュアル・マイノリティである」と教えられた私は、それからしばらく「マイノリティとしての誇り」を胸に生きていました。「マイノリティだからといって、誇りを失ってはならない」「マジョリティの生き方や考え方に迎合する必要はない」などと考えていたのです。私が「同性が好きな自分」を肯定するためには、こうした強烈な「マイノリティ・イズム」が、一時的に必要だったのでした。

 しかし「マイノリティ・イズム」は、いつしかうやむやになっていきました。日々の生活に追われ、「(マイノリティだのマジョリティだの言う前に)自分自身がどう生きるか」の方がはるかに重要な問題になってしまったためです。また大学や会社でのカミングアウトが意外とあっさり受け入れられ、「誇り」を振りかざす機会がなかったせいでもあり、「非婚・難婚・晩婚ノンケ」の増加や労働力の流動化によって、「マジョリティの生き方や考え方」という概念自体がよくわからなくなってしまったせいでもあります。

 そんな私が2002年から、何故か、東京で行われるセクシュアルマイノリティのパレードの運営に関わることになりました。「苦労自慢」になってしまうのは嫌なのですが、パレードの準備は結構大変です。おびただしい数の会議に出席しなければなりませんし、私の場合は猛暑の中、大量のグッズをショップに運んだこともあれば、風邪で熱を出しながら、広告費を回収しにスポンサーのもとへ行ったこともありました(あえて大変そうなエピソードを選んでみました)。

 そういった作業を完全ボランティアでやっているパレードの運営スタッフが、時に「セクシュアルマイノリティの中のマジョリティであるゲイが多数を占めている」「だから、他のセクシュアルマイノリティに対する配慮が足りない」といった「批判」を受けることがあります。

 かつては自分を「マイノリティ」だと思っていた私ですが、今度は「マジョリティ」に鞍替えです。そして、上記のような「批判」を目にし、耳にする度に、私は心の中で「ゲイ中心にならないよう、スタッフもできる限りのことをしているのに!」「マジョリティ認定されたら、マイノリティのどんな要求にも従わなきゃいけないわけ?」と反発したり、「そもそも全セクシュアルマイノリティの中で、パレード運営スタッフの人数なんて、ごくわずか。つまり『マイノリティ』なのだ! 運営スタッフにも人権を!」と主張してみたりするのでした。

 ……ごく私的な体験談が、ずいぶん長くなってしまいました。

 世の中というのは、本当にままならないものです。
 「マイノリティ」だったはずの自分が、ちょっと視点を変えただけで「マジョリティ」になる。「マジョリティ」からの価値観の押し付けに抵抗しているはずの「マイノリティ」が、逆に自分たちの価値観を、一方的に他人に押し付けていることもある。「性役割」や「枠付け」、「アイデンティティ」などは、時と場合によって必要にも不要にもなり、それらに縛られすぎたり、あるいは完全になくそうとしたりすると、さまざまな歪みが生じる。物事に線を引き「二項対立」の図式で捉えるのは、単純でわかりやすいけれど、そればかりに終始すると問題の本質を見失う。物事を論理的に考えることは大事だけれど、人の感情や現実のありようを無視して完璧な理論を組み立てても、それは「机上の空論」にすぎない——。

 要するに、世の中に絶対的なものなどなく、何事もいきすぎるとロクなことにならない。そして、「いきすぎ」を防ぐためには、常に「(他人を、ではなく)自分自身を疑う」必要がある。また、世の中のさまざまな問題を(より多くの人が納得できる形で)解決するためには、「あらゆる立場の人が、他人の欲望(事情、価値観、主張、と言い換えてもいいかもしれません)をきちんと理解し、話し合い、それぞれの欲望をすりあわせて『落とし所』を見出す」しかない。

 この本に書かれているのは、そんな、ごく「当たり前」のことです。
 しかし「当たり前」のことを言うのに、著者はわざわざ「欲望問題」という新たな概念を提示し、一冊の本を費やさねばならなかった。それだけ、従来の「差別問題」が(いや、実際には「世の中全体が」ですが)抱えている問題の根が深い、ということなのかもしれません。

 伏見憲明さんは、(何だかんだ言っても)非常にバランス感覚が良く、そして常に自分を客観視しようと心がけている方だと、私は思っています。だからこそ、15年以上も「(主に同性愛の)差別問題」に取り組んでいながら、「『差別問題』が抱えている問題を、自身の過去の言説を反省しつつ詳らかにする」ことができたのであり、「命がけで」この本を書かずにはいられなかったのでしょう。
 難しい問題に、あえてメスを入れられた伏見さんの勇気と覚悟、そして愛情に、心から敬意を表したいと思います。

【プロフィール】
1972年、大阪府生まれ。ライター兼ホラー系ドラァグクイーン(東京都ヘブンアーティスト)。携帯サイト「公募懸賞ガイド」、雑誌「CDジャーナル」「フォアミセス」等に、コラムや漫画原作を執筆中。
 
HP:
『エスムラネット』
http://www3.alpha-net.ne.jp/users/murapon/

藤本由香里[評論家]●「豊かな魑魅魍魎」のために

 小倉千加子はかつてこう言った。
「やせた清廉潔白よりも、豊かな魑魅魍魎」
 これを読んだとき私は快哉を叫び、それまである種のフェミニズムに感じていた微かなとまどいやひっかかりが、いっぺんに吹き飛んだ気がした。

 そして伏見憲明は、ホモセクシュアルの問題や、もっと広くクィアという存在を考えるにあたって(「クィア」という考え方自体がすでに「豊かな魑魅魍魎」だが)、それをやり続けてきた人だと思う。
 それは彼自身がこの『欲望問題』の中で、『プライベート・ゲイ・ライフ』や『キャンピィ感覚』を通じて自分がとってきた立場や戦略を明らかにしている通りであり、そして私は、個人的には一貫してそれに拍手を送りつづけてきた。

 同時に伏見は、非常に示唆的な理論構築をも並行してやり続けてきた人であり、この『欲望問題』は性差別問題(同性愛差別・女性差別含めて)についての彼の考え方の集大成といっていい。
 この中で彼は、「差別を解消したいという理想」も、「性差を楽しみたいという気持ち」も、「それぞれの性別役割に充実を感じる感性」も、「欲望」という意味では同じである、といい、それらすべてを同列に並べることを考えの基本におくことを提案する。
 絶対的な「正義」などというものはないのであり、大事なのは、ジェンダーという領域の中にあるさまざまな「欲望」が、お互いの間で利益調整を図っていくことなのだというのである。
 「差別を解消したいという理想」も欲望の一つに過ぎない、という位置づけ方は確かに新しいし、それ自体は私は正しいだろうと思う。また、そう位置づけることで、議論を新しいステージに進めることができる、という側面があるのもまた事実だろう。

 それを高く評価してこの一文を終えてもいいのであるが、私にただ一つ解せなかったのは、なぜ今、伏見憲明はこんな問題提起をしなければならなかったか、である。
 この「解せなさ」にはいくつかの感覚がからんでいるのだが、小倉千加子が「やせた清廉潔白よりも、豊かな魑魅魍魎」と言った時点で、そして伏見自身がそれをみごとに実践してきた時点で、もうその答えは出ていたのではないか、と私には思えることがその一つ。
 つまり、その先問題になるのは、つまるところ運動の実践論に過ぎないはずだからだ。
 現状ではまだ強く「差別解消」を訴えていった方がいいのか。
 それとももっとソフトに理解や共感や「お、そっちの方が面白そうじゃん」と思わせる戦略に訴えていった方がいいのか。
 あるいはその両方だとして、自分はどの立場からどういうパフォーマンスをするか、ある問題についてどういう立場をとるのか。

 誰が何を主張するにしろ、それは現状判断の違いにすぎない。けっして本質論ではない。
そこで問題になるのは実践の有効性の判断だから、もちろんそのときどきで、論理的には矛盾が出てきたっていっこうにかまわない、と私は考える。
 私たちがより生きやすくなるために求められているのは、論理的な一貫性などではないのだ。だから、内向きの「論理」の要求などに答える必要はない。いや、答えてもいいが、そうした運動内部の要請に対する答えを外に向かって言う必要は、必ずしもない。
 それまで、運動の内部を見つめるのでなしに、運動が変えようとする「外部」をこそ意識し、つねに外に向かって発信し続けてきた人ならなおさらである。

 たしかに運動の中では、「やせた清廉潔白」を求める人もいるだろう。
 だが、そもそも、そこにかかわる人間に、論理と実践の厳密な一致とか、論理と行動の一貫性とか、「正しい」ことを過剰に要求するようになった運動は、害悪の方がはるかに大きいし、長続きもしない。
それは、思春期に社会主義者の両親のもとで「家庭内文化大革命」を経験し(詳しくは拙著『少女まんが魂』の中の萩尾望都さんとの対談を参照)、「運動の理想」というものが人をいかに追い詰めるかを、オーバーではなく死と向き合って実感した私の強い確信である。だから人は、いくら運動の中にいるからといって、厳密な論理的一貫性を求めて自分を追い詰める必要などないのだ。

 
……と、ここまで書いてきて、もしかしたら私は、とても的外れなことを言っているのかもしれないと思う。
 ただ、なぜか『欲望問題』を読んでいて、かつて吉澤夏子の『女であることの希望』や『フェミニズムの困難』を読んで感じた、「運動の内部の論理に追い詰められてこれが出て来た」感と同じものを微かに感じてしまったのだ。

 その結果、吉澤夏子は「フェミニズムは個人の領域に立ち入るべきではない」と言った。片方に「個人的なことは政治的である」という非常に強いフェミニズムのテーゼがあるにもかかわらず。
 そのとき私は吉澤が、なんだか違った方向に力を使わされているように思った。よしんば誰かに「フェミニストのくせに矛盾してる」と言われようが、そんな<たらいの水ごと赤子を流す>ようなことをしなくとも、「そう? でも私はこれが好きなの」ですむことなのに。

 もちろん、伏見の『欲望問題』がそれと同じであるというつもりはない。これはとても誠実な本だし(吉澤の本もとても誠実な本だ)、結論にも基本的に同意する。
 だが、私にはもう一つ、伏見が今この本を書いた、それも命がけで書かなくてはならないと思った、その内的な動機がよくわからない気がするのである。
それが運動の内圧によるのだとすると、そのさなかから逃げない伏見にエールを送ると同時に、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないかと、一声かけたい気持ちになる。

 
 それともう一つ大事なこと。
 『欲望問題』では「ジェンダーフリー」をどう考えるか、というのも一つの大きな論点になっているように思えるが、これもまた、私は他ならぬ伏見によって「とっくに回答が出ている」問題だと思っている。

 なのになぜ伏見がこの中で、ジェンダーフリーとジェンダーレスはどう違うか、性差の解消抜き(ジェンダーレスにならない)で性差別解消(ジェンダーフリー)が可能か、という問題に論理的にこだわっているのかが少し不思議だ。もちろん、各論者の立場の違いが整理されていて、いい仕事だとはいえるのだが。
 「ジェンダーフリー」という言葉は私はあまり好きではないが、ジェンダー問題を解決する鍵は、「性別をなくす」ことではなくて、「人間の性別はいくつかの層に分かれていて、それぞれの層のつながりは一貫していなくてもいい」つまり、「性別をいくつかの要素に分け、それぞれを自由に組み合わせることによって、たくさんの性別のパターンを作ることができる」ということだと思う。私はこのことを伏見の著作の中で学んだ。

 たしかにそれまでは私の中にも、性差別解消を推し進めていくと、男女の性差のない、のっぺりした社会が出来上がるような不安があった。
 それが80年代末、秋里和国のマンガ『ルネッサンス』の中で「完全両性愛社会」のイメージに出会うことで、「そうか! 性差の要素を徹底的にクロスさせてしまえばいいんだ!」と思い当り、いっぺんに目が覚めたような気がした。

 そして伏見の『プライベート・ゲイ・ライフ』の中で、「性別はいくつかの層に分かれている」という考え方に出会うことで、この考え方のイメージがより構造的に説明できるようになったのである。
 『プライベート・ゲイ・ライフ』ではとりあえず、性別パターンを構成する層は「♂/♀」「男制/女制」「ホモ/ヘテロ」の三つにしか分かれていないので、<性別>のパターンは2×2×2で8通りだが、「男制/女制」はくっきりと二つに分けられるものではなく、その中で「女言葉/男言葉」だの「ダンディ/フェミニン」だの「男前/乙女」だの、いくつもの層にまた分けることができる。
 こうすることによって、それぞれの層の「男女」という性別二元法はそのままで、その層の組み合わせのあり方によって、身体的性別はその人が表現する性別の一部でしかない、まさに個人ごとに異なるn個の性の組み合わせが可能になるのである。これがジェンダーレスでなどありえないのは自明の理ではないだろうか。

 そして社会は現在、そちらの方に着々と進み始めているように思える。たとえば「乙女系男子」という言葉が、マスコミでも喧伝される時代だ。「乙女」要素はカセットのように身体的性別から切り離すことができ、それを女子が選択しても男子が選択してもいい。
 そういう意味では、私が『欲望問題』の中でいちばん「使える」と思ったのは、「イカホモ」(いかにもホモっぽいルックス)という言葉がゲイの間で肯定的に流通した、という事実である。<つまり、「真の男」と自分の間に隙間、遊びがあるという感性が、そのジェンダー表現にはある>と伏見は書く。

 社会はこれからどんどんその方向に進むだろう。そしてその中で差別も解消されていく、というのが私には一番望ましいあり方に思える。
 もっとも、伏見には、そんな答えはもうとっくにわかっているはずなのだが。

【プロフィール】
●ふじもと ゆかり
1959年、熊本県生まれ。編集者、評論家。とくにマンガ評論家として数多く連載を持つ。

【著書】
達人が選ぶ女性のためのまんが文庫100(村上知彦、夢枕獏との共著)/白泉社文庫/2004.9/¥648
愛情評論/文藝春秋/2004.2/¥1,600
少女まんが魂/白泉社/2000.12/¥1,500
快楽電流/河出書房新社/1999.3/¥1,600
私の居場所はどこにあるの?/1998.3/¥1,600

松沢呉一●macskaさんのブログへの反論[更新]

編集部から●本コーナーの2月3日にアップした松沢呉一さん書評原稿「欲望のためのジェンダーレス教育を!」に対して、macska dot org[http://macska.org/]のブログで批判がなされました。本コーナーでは、その批判に対する松沢呉一さんの反論を公開していきます。適宜、追加していきますので、どうぞお見逃しなく!


では、macskaさんの批判に対する反論なり弁明なりをやっていきます。

ネットの文章なので、その必要があると思えば、修正箇所をわかるよう、適宜原文に訂正、改訂、補足を加えていきます。

一度にすべてを論じると混乱しそうなんので、ひとつひとついきます。

まず言葉の定義です。

macskaさんの引用した定義。

————————————————————–

A.よくある誤解だけど、ジェンダーフリーは、性差を全部なくすこと(ジェンダーレス)とは違います。ジェンダーフリーは、社会におけるジェンダーによる偏見やバイアスを減らしていこうというもの(参照)。 ジェンダーを全部なくすのではなく、バイアスや偏見をなくすためだからこそ、男性の育児休暇への配慮や男性の労働時間の縮減、女性の生理休暇や産休なども含まれるわけで。

————————————————————–

公教育の範囲において、私は【ジェンダーを全部なくす】ことを主張してます。すでに書いたように、どこまで可能かという問題はあるにしても、それを目指すべきと考えてます。

社会におけるジェンダーによる偏見やバイアスを減らすものであることを個別に立証する必要はなく、検討する必要もなく、ただひたすら教育の場ではなくせばいいと言っている。

だから、私の主張は「ジェンダーレス教育」だとしているわけです。定義通りに解釈しているだけだと思いますが、いかがでしょうか。

 
 

[3月1日 追記 macskaさんのコメントへの返信]

体調を崩して寝込んでしまい、返事が遅くなりました。すいません。

ジェンダーフリー論争のざっくりとした流れは『欲望問題』で読んでましたが、おかげで正確な経緯が理解できました。ありがとうございました。

ところが、いよいよわからなくなったところがあって、「ジェンダーレスとジェンダーフリーの区別は可能なのか」「その区別に意味があるのか」という『欲望問題』で提示されているテーマに行き着かざるを得ず、一から出直して、まずは『バックラッシュ!』を読んでみます。

それから改めて書きます。

松本侑子[作家]●同じ時代を同じように摸索し、答えを探しながら生きてきたんだな

 本書を読んで、思わず涙が出ました。とくに、第2章「ジェンダー・フリーの不可解」には、心を揺り動かされました。

 伏見さんと私は同い年ですが、「同じ時代を、同じようなことに悩み、模索し、答えを探しながら、生きてきたんだな」とつくづくと実感したのです。

 伏見さんの御本は、デビュー作の『プライベート・ゲイライフ』以降、ほとんどを拝読していると思いますが、ゲイ/ヘテロの差がありながら、ここまで同じような変遷を経験していたのかと驚きながら、ますます共感をおぼえた次第です。

 第2章の主題は、「ジェンダー・フリーの不可解」という章題から連想されるように、昨今の「ジェンダー・フリー/ジェンダー・レス」の混乱と、それが目指すものへの疑問です。

 しかし私が注目したのは、この章で、「自分らしく生きること」と「性別二元論」の相克、それをどう克服し、今はどこへ着地したのか、その過程が告白されている点です。その記述に、私は惹きつけられたのです。

 本書によると、伏見さんは、1980年代のフェミニズムの時代に、「男らしさから自分らしさへ」というその時代の理念に従って、オネエ的な自己表現をしたところ、あまりモテなかった。

 ところが同性愛者に好かれるある種の記号としての「男」、つまりジェンダーの「欲望」に沿ったイメージを演出したところ、恋愛相手には困らないようになった。

 しかし、彼はまた別の困難に直面します。
「性愛は満たされるかもしれないが、もう一方で、自分が抱える<女制>蔑視から生じるゲイ差別の問題が取り残されてしまうことになりました。ぼくは同性愛ということでも思春期に抑圧感を抱かざるをえませんでしたが、女性的な男性という部分−−これはすべてのゲイに当てはまるとは言えませんが、少なからずのゲイに見られる傾向−−でひどく攻撃された経験がありました。それは、男女のジェンダーの格差に根ざした蔑視でしたから、ぼくは<女制>差別の当事者でもあったと言えます。」

 こうして伏見さんは、「性愛を生きようとすれば差別を再生産し、差別をなくすためには性愛を断念しなければならない」というディレンマにさらされた結果、「性愛は私的領域の中で交わされる『ゲーム』だと了解し合い、一つのパロディとして遂行していく」ようになったと書いています。「キャンピィ」な感覚もまた、「パロディ」の一つだったようです。

 それから歳月を経た今、第2章の結末では、「性別二元制」の中でも、ゲイ男性の欲望を引きうける理想的なイメージの一つに、「いかにもホモらしい人」が出てきて、いわゆる普通のヘテロ男性が考える「男らしい男」とはまた別に分化して、ゲイ独自の男制が発展していることが語られて、終わります。

 実は同じ遍歴を、私自身もたどってきたように思います。
 10代の1970年代にアメリカのフェミニズムの洗礼を受け、1980年代の20代は上野千鶴子さんや小倉千加子さんの片端から本を読みあさりました。

 私生活では「自分らしさ」を心がけていましたが、メディアで仕事をしていたことから、「女性性」の表出は、職場では、日常的に求められていました。また、意中の男性の前では、恋人になりたいために、ヘテロ男が求める「女制」の記号も表現しました。
 すると、恋愛が成就することもありましたが、相手が私に求める「女制」や「支配・被支配的な男女関係」に失望したり、疲れたりして、結局、長続きしない。恋愛の中で、性差別の再生産をする羽目になる。

 さらに私は、子どものころから女性的な服、キモノ、家庭的な手仕事が大好きだったのですが、そうした自分の好みは、因習的な刷り込みなのか、それとは無関係な個体的な好みなのか、うまく分析できない(今思えば、同じ親のもとで育ちながら、姉妹はそうした趣味を共有していないので、個体差だったのかもしれせません)。

 そうした迷いの結果、女らしいドレスアップをしてメイクをする時は、「女装」と語っていた時期もありました。過剰な女性性の演出それ自体を、ある種の性表現のパロディにして、自分と他者を納得させていたのかもしれません。また私自身、別人に変わるくらいの「女装」をとても楽しんでいました。演劇的な喜びもあります。

 その頃は、自分の公式サイトに女装専門コーナーも常設して、美しい女装者の皆さま方のお写真を多数、掲載していました。やがて、本物の女装者と、自分の「女装」との違いがわかるようになり、結局、今は、女装コーナーは廃止しています。

 そして現在、注目していることは、女が意識する<女制>のイメージが、必ずしも「男性にとって受けが良い外見、イメージ、性的記号」ではなくなっている明確な現実の変化です。

 女たちは、必ずしも異性の目だけではなく、むしろ自分や同性の意識や価値観を体現する外観とイメージを、理想として考えているように感じます。私自身も、同様です。

 たとえば、私自身の服装を、パートナーや男性が「???」と反応することもあれば、気に入ることもあるのですが、いずれにしても、さほど重きを置いていません。むしろ自分と同性の美意識のほうが比重が思い。

 倖田來未さんのエロカワという高い評価も、セクシーさという性的魅力が語られながら、男の目線ではなく、むしろ女の肯定的な目線が基準になっていることを思えば、性別二元制の中でも、男制、女制のイメージそれぞれが、ヘテロの硬直した欲望の視線から比較的、自由になりつつあることを感じています。

 最後に、「ジェンダーフリー」という言葉については、私も懐疑的です。
 学校では、「性差別撤廃」で良いのではないでしょうか。それは女性/男性という身体的性別だけでなく、同性愛/異性愛といった性的嗜好性も含めて、差別的な扱いに警戒してほしいという意味です。

 そして最後にもう一つ。伏見さんは、ゲイのカミングアウトは、場合によっては家族を傷つけかねない試みだったが、現在はお母様と良好な関係を築いていらっしゃることを書いておられます。
 同じようにフェミニズムもまた家族を傷つけかねない思想でした。
 親たちが当たり前のように信じてきた価値観、(男はかくあるべきだ、女はかくあるべきだ、女の幸せはこういうものだ)が、娘によって、むざむざと否定されていく。
 また娘である私自身もまた、自分が育ってきた環境の価値観や自分の過去の理想を否定しながら、あるべき自分や異性関係を探していく、という、時にはつらい問いかけ、作業を繰り返して文章を書いてきたように思います。
 しかし両親は、娘の試行錯誤から、きっと何かを感じとってくれたのではないかと思います。とくに以前は男権主義的だった父が大きく変わったことを、私は嬉しく感じています。

 伏見さんの『欲望問題』は、ご自身の思索と活動の過程、昨今のセクシュアリティをめぐる現状を、時に自己批判もまじえながら語った書物です。その率直で真摯な態度に心打たれました。
 ゲイの人だけでなく、ヘテロの女性も、男性も、自分の性愛と生き方を見つめ直す大きな機会をあたえてくれると思います。

 私はこれからも、憲ちゃんの本を真剣に読んでいきたいと、あらためて実感しています。

【プロフィール】
まつもとゆうこ●
作家・翻訳家。テレビ局に在職中に『巨食症の明けない夜明け」ですばる文学賞受賞して文筆業に。小説、海外紀行集の他、訳注つき全文訳『赤毛のアン』などの翻訳も手がける。

【著書】
海と川の恋文/角川書店/2005.12/¥1,700
ヨーロッパ物語紀行/幻冬舎/2005.11/¥1,500
アンの青春(訳)/集英社文庫/2005.9/¥762
憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言(井筒和幸、井上ひさし、黒柳徹子らとの共著)/岩波ブックレット/2005.8/¥476
愛と性の美学/幻冬舎文庫/2005.2/¥600
引き潮/幻冬舎/2004.9/¥1,300
性遍歴/幻冬舎文庫/2004.4/¥495
イギリス物語紀行/幻冬舎文庫/2004.2/¥571
物語のおやつ/WAVE出版/2003.9/¥1,400
光と祈りのメビウス/ちくま文庫/2003.1/¥680
どうして猫が好きかっていうとね(訳)/竹書房/2002.7/¥980
別れの美学/幻冬舎文庫/2001.12/¥495
赤毛のアンに隠されたシェイクスピア/集英社/2001.1/¥1,900
誰も知らない「赤毛のアン」/集英社/2000.6/¥1,700
赤毛のアン(訳)/集英社文庫/2000.5/¥800
花の寝床/集英社文庫/1999.8/¥362
グリム、アンデルセンの罪深い姫の物語/角川文庫/1999.5/¥552
偽りのマリリン・モンロー/集英社文庫/1993.1/¥457
植物性恋愛/集英社文庫/1991.10/¥381
巨食症の明けない夜明け/集英社文庫/1991.1/¥343

竹田青嗣[哲学者]●「差別」の問題を考えるとき、これがいまのところいちばん根本的である

『欲望問題』を一読し、ある感慨を覚えた。自分が在日コリアンなので、いろいろ思い当たることがあったからだ。伏見憲明氏のことは、それほどよく知っていたわけではないが、なんとなく勝手な「仲間」意識があった。差別の問題を、単に社会問題としてだけではなくて、いわば「不遇」の感度でちゃんと考えている人という程度の理解だったが。

 私もまた二十歳すぎから三十歳近くまで、民族問題(差別問題も込みで)でずいぶん悩んだ経験がある。いってみれば、これから自分の人生をというときに、変な怪物スフィンクスに出会って、この難問を解かないと先には進ませないと言われたようなものだった。「私とはいったい何者か」というのが第一の難問で、「どうやって差別をなくすか」というのが第二の難問。はじめがアイデンティティの問いで、つぎが「社会的正義」の難問だが、ところでこの二つの問いには、なぜかすでに「正解」が存在していた。第一の問いの「正解」が「朝鮮民族として主体的に生きよ」で、第二のそれは「一切の階級や差別のない理想社会を創り出すために生きよ」というものだ。私の感度からは、これは両方とも、いわば「超自我」の声のようでどうにもなじめなかったのだが、その威力は圧倒的に大きかった。当時、ずいぶん差別の本とか、あれこれ読んだが、どういう理由だか、私にはみんな同じこと(上の正解)ばかり言っているように思った。ハイデガーじゃないけれど、「本来性」を生きるか、それとも「頽落」(=ダラク)の道を生きるか、どっちかです、みたいな。驚くべきことに、当時、そういった「正義論的構図」のほかにはどんな「答え」のモデルもなかったのである。
 
 そういうことでずいぶん悩んだのが理由で、私はいま「哲学」などを仕事にするようになった。なのに、考えてみると、差別問題についての本格的な本は一つも書いていない。どういえばいいか、正直いって、うーむ、こういうの、書きたかったなあ、と、つい思ってしまったのである。

 自分が仕事をしていないのでこういうことを言える立場ではないが、あれから日本の社会で、部落差別や障害者や性同一性障害やその他もろもろ、たくさんの差別の問題が大いに沸き立ってきたわりには、差別の本の基本構図はほとんど変わっていない、と私は思う。在日の問題でも、やっぱり四十年前と変わらず、民族とか主体性とか愛国心とかが主張されているし、ジェンダー論では男社会排撃論がまだ一定勢いを保っている。しかし、差別論は、単なる社会正義論だけで語ると決してその本質をつかめないのである。
 
 この本は、そういう正義による差別の救済論ではない。差別の問題は、いかに現行の社会の不平等や不正義を正してゆけるかという問題とは別に、もう一つのまったく異なった課題を持っている。個々人が、差別を感じることからくる不遇感やルサンチマンやリアクションをどう自己了解して、自分の生を組み立て直すか、といういわば実存的な課題である。ここでは、社会制度の改変の条件を考えるのとは別の考え方が必要である。そして、この本では、まさしく差別の不遇性を生きることのそういう微妙な側面が、著者が経験した一つの思想体験としてはっきりと打ち出されている。

 差別(的)経験はいろんな局面をもっており、だから多様な問いがわき出てくるし、さまざまな選択の場面にぶつかる。正義論的な構図では、それらの多様性は一つの正しい「答え」に収斂されていくことになる。しかし著者の声は、正しい「本来性」の道でなければ「ダラク」の道しかないよという言説の威力にあらがって、そういう人間的選択の自由の感度を届かせるものだ。こういう「差別?」の本がきわめて稀だったことを考えると、もうそれだけで、挑戦的かつ開拓的な意味をもっている。

 「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」というキャッチが、またきわめて象徴的である。

 差別の不遇を生きる人は、自分の存在のマイナス性を打ち消そうと努めるところから出発するが、その最も典型的な類型として、不正義な社会に対する「反=社会」思想が現われる。まさしく、「差別をなくすために生きる」ことこそが、自分の不遇感を取り払う絶対的な道のように感じられるのだ。たとえば革命によって理想社会を創り出すというのが、まずやってくる考え方のモデルであり、それが無理なら、ねばり強い社会批判を続けていく、という方向がつぎの方向になる。しかし、革命は成功するかどうか分からないし、いったいいつ理想の社会がやってくるかも定かでない。著者もその機微にふれているが、この生き方は、人間の当為とエロス(「欲望」)を、カント的な二律背反(理性か感性か)、キルケゴール的な「あれか、これか」(美的か、倫理的か)に必ず引き裂くことになり、要するに、原理主義的にガンガン頑張れる人以外は、ちっとも楽しくないような道になってしまうのである。

 どんな差別運動も、それ以外には道がないというぎりぎりのプロセスを経緯しているから、こういう正義の感覚に根ざす原理主義的反差別運動が不必要だった、と言うつもりはぜんぜんない。これらの運動が、社会が抱え込む差別意識の悪質な反動性に対抗する上でどれほど大きな役割を果たしてきたかということは、ユダヤ人や黒人の歴史を見ればすぐに理解できることだ。しかし、どんな反差別運動(や思想)も、その本質から言って、絶対平等や絶対正義に向かう運動という理念のままではけっして生き続けることができない。反差別の運動は、公正で開かれた市民社会の成熟へ向かうときにだけ、さまざまな市民階層の中によく根を張り、感動的な慣習や秩序にたいする持続的な改変の運動として持続することができる。

 たとえば「在日」の中では、さすがに「民族的主体性」のテーゼは、一部の(もっと言えば、日本のサヨク的陣営が期待するような)在日=反日知識人だけの看板になっていて、ふつうの「ザイニチ」の若者の中では確実に死滅しつつあり、この状況はもはや決して後戻りしない。性の問題においても、いわゆる原理主義的フェミニズムの思想が一つの時代の役割を終えつつあることは明らかである。しかし、ニーチェが力説したように、じつはその「次の考え方」が難しいのである。「神は死んだ」。それはよいとして、次に何が現われるかというと、もしわれわれが生の積極的な価値を根拠づけられないかぎり、古い倫理に根拠を求める反動、無神論、相対主義、ニヒリズムといったさまざまな「反動形態」、といったものが世界にはびこることになるだろう。

 そう、「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」。そんな、正義のためだけに生きることなんてふつうの人にできやしないし、だいいち、「楽しく」ない。しかし、「差別をなくす」という社会的な希望をすっかり捨ててしまうと、われわれはどこかで生きることが「寂しく」なる。いま差別や不遇の感覚を生きている多くの人間が立っているのは、いわばそういう微妙でやっかいな地点だと思う。

 考え方を変えてみよう。必ずつぎの出口がある。たとえば全てを「欲望問題」として考えてみよう。そうすると、社会的な不正義の構造をいかに少しずつ変えてゆくという課題と、不遇の感覚を生きる自分といかに折れ合って自分の生のゲームを創っていけるか、という課題とのつなぎ目が見えてくるはずだ。伏見憲明はそう言っている。

 私はこの考えは正しい出発点だと思う。すべてを「欲望問題」として考えることは、いわば二十世紀における、支配と被支配の善悪、という構図をいったんチャラにして、代わりに、多様な欲望をもった人間がその多様性を承認しあいながら、どのように「市民社会」というゲームの中に積極的なエロスを創り出していくか、という前提に立つことだからである。私の立場から言っても、「差別」の問題を考えるとき、この立場がいまのところいちばん根本的である。「差別のない社会」というような前提で考えると、道はおそろしく遠いものになる。そうなるとじわじわ絶望だけがやってくる。さまざまな「欲望問題」が多様な仕方で承認しあうゲームを創り出すと考える。そのゲーム自体が一つの深いエロスになると、道の遠さは関係なくなる。この本は、われわれがそういうゲームをうまく設定してゆくための、一つの重要な布石になるにちがいない。
 

【プロフィール】
たけだせいじ●
1947年生まれ。哲学者、文芸評論家。早稲田大学国際教養学部教授。

【著書】
「自分」を生きるための思想入門/ちくま文庫/2005.12/¥740
人間的自由の条件 ヘーゲルとポストモダン思想/講談社/2004.12/¥2,700
愚か者の哲学/主婦の友社/2004.09/¥1,400
よみがえれ、哲学/日本放送出版協会/2004.06/¥1,120
近代哲学再考:「ほんとう」とは何か・自由論/径書房/2004.01/¥2,100
現象学は<思考の原理>である/ちくま新書/2004.01/¥780
哲学ってなんだ/岩波ジュニア新書/2002.11/¥740
言語的思考へ 脱構築と現象学/径書房/2001.12/¥2,200
天皇の戦争責任(加藤典洋、橋爪大三郎との共著)/径書房/2000.11/¥2,900
プラトン入門/ちくま新書/1999.03/¥860
哲学の味わい方(西研との共著)/現代書館/1999.03/¥2,000
陽水の快楽 井上陽水論/ちくま文庫/1999.03/¥680
二つの戦後から(加藤典洋との共著)/ちくま文庫/1998.08/¥700
はじめての哲学史(西研との共著)/有斐閣/1998.06/¥1,900)
現代批評の遠近法/講談社学術文庫/1998.03/¥820
現代社会と「超越」/海鳥社/1998.01/¥4,000
正義・戦争・国家論 ゴーマニズム思想講座(小林よしのり、橋爪大三郎との共著)/径書房/1997.07/¥1,600
エロスの世界像/講談社学術文庫/1997.03/¥820
世界の「壊れ」を見る/海鳥社/1997.03/¥3,800
恋愛というテクスト/海鳥社/1996.10/¥3,398
エロスの現象学/海鳥社/1996.06/¥3,107
世界という背理 小林秀雄と吉本隆明/講談社学術文庫/1996.04/¥800
ハイデガー入門/講談社選書メチエ/1995.11/¥1,800
「自分」を生きるための思想入門/芸文社/1995.11/¥1,300
<在日>という根拠/ちくま学芸文庫/1995.08/¥1,068
「私」の心はどこへ行くのか 「対論」現代日本人の精神構造(町沢静夫との共著)/ベストセラーズ/1995.06/¥1,760
自分を活かす思想・社会を生きる思想(橋爪大三郎との共著)/径書房/1994.10/¥1,800
ニーチェ入門/ちくま新書/1994.09/¥720
力への思想(小浜逸郎との共著)/学芸書林/1994.09/¥1,748)
自分を知るための哲学入門/ちくま学芸文庫/1993.12/¥740
エロスの世界像/三省堂/1993.11/¥1,553
意味とエロス/ちくま学芸文庫/1993.06/¥950
恋愛論/作品社/1993.06/¥1,800
はじめての現象学/海鳥社/1993.04/¥1,700
身体の深みへ 21世紀を生きはじめるために3(村瀬学、瀬尾育生、小浜逸郎、橋爪大三郎との共著)/JICC出版局/1993.02/¥1,796
現代日本人の恋愛と欲望をめぐって(岸田秀との共著)/ベストセラーズ/1992.10/¥1,553
世紀末のランニングパス:1991-92(加藤典洋との共著)/講談社/1992.07/¥1,845
現代思想の冒険/ちくま学芸文庫/1992.06/¥740
「自分」を生きるための思想入門/芸文社/1992.05/¥1,300
自分を知るための哲学入門/ちくまライブラリー/1990.10/¥1,300
陽水の快楽 井上陽水論/河出文庫/1990.04/¥466
批評の戦後と現在/平凡社/1990.01/¥2,136
現象学入門/NHKブックス/1989.06/¥920
夢の外部/河出書房新社/1989.05/¥1.942
ニューミュージックの美神たち/飛鳥新社/1989.01/¥1,300
ニーチェ(For beginnersシリーズ)/現代書館/1988.06/¥1,200
世界という背理 小林秀雄と吉本隆明/河出書房新社/¥1,600
現代思想の冒険/毎日新聞社/1987.04/¥1,300
<世界>の輪郭/国文社/1987.04/¥2,000
意味とエロス 欲望論の現象学/作品社/1986.06/¥1,600
陽水の快楽 井上陽水論/河出書房新社/1986.04/¥1,300
物語論批判(岸田秀との共著)/作品社/1985.09/¥1,200
記号学批判 <非在>の根拠(丸山圭三郎共著)/作品社/1985.06/¥1,200
<在日>という根拠 李恢成・金石範・金鶴泳/国文社/1983.01/¥2,000

ぼせ[研修医]●「正しさ」を疑い、「あちら側」を忘れない

本書は「欲望問題」の視点から、差別問題、ジェンダーフリー問題、アイデンティティへの懐疑(クィア理論というのかな?)に議論を投げかけているようです。しかし、僕が最初に本書を読み終えたときの感想は

「ふぅむ」

というもので、それほど大きな驚きもなく、かといって、すごくツマラナイというわけでもなく、伏見氏の主張も納得出来るモノだし…てな、無感動なものでした。それは、伏見氏が言っているように、利害が対立する場所としての社会で、それらを互いに尊重し合いながら妥当な線引きを見極めるという発想自体は「しごく当たり前のこと」だと感じてしまったからだと思います。

もちろん、伏見氏のように明瞭に言語化しながら暮らしている人はそう多くないとは思いますが、生活感覚として非常に納得のいく論理を「欲望問題」は提示してくれていると感じます。また、「自由の相互承認」や「リベラリズム」という考え方にも通じるのかなーと僕は感じました。うんうん、そうだよね。なるほどなるほど。伏見さんやっぱり分かりやすくて読みやすいなぁ。すごいなぁ。と。

しかし、せっかく感想文を頼まれたのにそんな内容じゃちょっと送れないなぁと思って、本書を何度か読み返してみました。そこで、僕はようやく分かったんですが、伏見氏は「正しさ」の根拠を疑うことをしているんですね。そのことに気が付いてから、自分の頭のなかでウマく連結されていなかった各章がすごく有機的な一貫性をもった構成になっているんだとだいぶ分かってきました。

反差別運動を支える「正しさ」、ジェンダーフリー運動を支える「正しさ」、アイデンティティ懐疑を支える「正しさ」。でも、それらの「正しさ」に普遍性を与えるような明瞭な根拠はなく、むしろ「正しさ」ですらなく、そこにはただ「欲望」があるだけなのだ。そう伏見氏は異論を唱え、そして、新しい枠組みを提出したということなんでしょう。社会はさまざまな欲望が共存した場所であり、事後的にしか「正しさ」を規定できないという主張に従えば、いまこの瞬間を生きている僕たちがリアルタイムに「正しさ」を受け取ることはできません。つまり、先見的に「正しさ」を設定した上での運動、行動、考え方…それらに根拠なんてなく、かつ、そのような先見的な正義を設定するやり方はいずれ実生活と乖離し、下手すれば生活を脅かす存在にもなりうるということです。

さらに、おそらく意識的にでしょうが、「過去の自分」をもきちんと批判対象として、人間の陥りやすい優しさや正しさといったものに、徹底的に決別しようとしています。かつての自分を奮い立たせてくれた根拠、存在や行動に理由を与えてくれた正義を、いま再び、自らの意志で問い直す。自分で自分の爪を剥ぐような強い苦痛を伴った作業なんじゃないかと思います。楽なほうへ流れていく僕みたいな人間には、もう尊敬の一言しかありません。

そして、これら伏見氏の主張・行動も1つの「欲望」と捉えてみると、実生活から乖離した言説や当事者の痛みに根拠を求める差別運動といった「欲望」よりもずっと懐が深くて、少なくとも僕には、世の中をよりよい方向へ動かしていくのに有用な議論だと感じます。

せっかくなので、最近僕が出くわした「カミングアウト原理主義問題」について欲望問題の枠組みで考えてみます。カミングアウト原理主義問題というのは、このごろのネット界隈でゲイの可視化を促進するにはどうするか?ということが話題になってきたことから始まります。リブ志向のゲイブロガーなど(僕もそちらに分類されると思います)は「ゲイの可視化はカミングアウトからしか始まらないんじゃないか」という立場を大なり小なり持っているわけですが、そのような主張がこの1年くらいでわずかばかりですが勢いを見せつつあります。僕自身も「個人の私的な動機によるカミングアウトが、結果的に社会を少しずつ変えていく」とブログで書いたこともあります。

するとそれらへの反論として「カミングアウトできない人たちも世間にはたくさんいる。カミングアウトできる人間はまるで自分たちがエリートかのような視点で、上からものを言っている」という主張が見られるようになりました。「カミングアウト原理主義」だとして、ゲイブロガーたちの主張に批判が入った格好です。

僕自身の私的な感想として「カミングアウトしてからのほうがラクだし楽しいし、周りの人たちは僕をきっかけにしてフォビックな状態から簡単に抜け出しているし、怖がらずにもっとカミングアウトすればいいのにー」という、すごくバカっぽい私的感覚を表明しているだけなのですが、それが「エリート気取りで、カミングアウトできない人を見下したような言い方だ。俺達の気持ちも考えろ」という反論をされることをどう考えればいいんだろうと思っていました。だって、カミングアウトしたくなければしなきゃいいだけじゃないですか。こちらとしては個人の意見としてオススメはするけれど、それを強制する気なんてさらさらないんです。(この対立って、「欲望問題」のジェンダーフリーとジェンダーレスの境界はどこか?という決着の付かない論争構造と似てますよね)

でも、「欲望問題」の枠組みを借りてしまえば、「カミングアウトできない→つまりカミングアウトできる人よりも社会的弱者→俺達の気持ちを考えないなんてサイテーだ!」となってるだけなんですよね。当事者の痛みを「正しさ」として、カミングアウトするかしないかを権力関係の図式に落とし込んでしまってるんですね。一方、僕自身も「好きでカミングアウトしてるし、それでいーじゃん。結果的に社会の役にも立ってるし」と当事者の快楽やある政治的立場を「正しさ」としてエクスキューズしている節がありました。そんな両者はきっと分かり合えないだろうなぁと思います。

そもそもカミングアウトをするかしないかを「正しさ」で測ることは不可能です。まさに、さまざまな環境におかれたさまざまな個人のカミングアウトに対する「欲望」があるだけで、その視点においてカミングアウトする人と、カミングアウトしない人は等価な存在になります。カミングアウトすることが偉いわけでも、カミングアウトしない痛みが優先されるわけでもない。不毛な議論を繰り返すのではなく、おのおのの欲望が最大公約数として実現されるような道を探っていければいいのだろうと思います。そしてそれは、カミングアウトを強要しないことであるとか、殊更にカミングアウトという行為を非難しない立場であるとか、そういう当たり前の結論になるわけです。

近年、とくに若年世代でカミングアウトをするゲイが増えていますが、これはきっと、「より多くの人たちがカミングアウトするという欲望を選択できる社会になりつつある」という意味で歓迎すべき変化かなと考えればいいんでしょうね。そして一方で、カミングアウトしていない人たちへの配慮、例え07.2.27ば「もう少し社会が優しくなったらカミングアウトしたい」とか「とにかく私はカミングアウトするつもりはない」とか、そういう様々な欲望を持った他者を考えることを忘れてはいけないのだろうと思います。

伏見氏が『魔女の息子』で書こうとしていた「あちら側とこちら側」。その意味が、本書を通じて少しだけ理解できたような気がします。

【プロフィール】
ぼせ●1980年生まれ。第15回バディ小説大賞受賞。研修医。

おかべよしひろ[東京レズビアン&ゲイパレード2005・2006実行委員長]●自分と重ね合わせてみて

 大阪生まれで大阪育ちの自分が、仕事の都合で東京に移り住んだのが1992年の春。あれからもう15年になりますが、その間に我々同性愛者をとりまく状況は大きく様変わりをしました。東京に来た頃は、まだゲイムーブメントとかゲイリブといった動きが身近ではなく、一般社会に向けてメッセージを発信する、などということは思いもよらなかったし、また、もしそういうことがあったとしても、自分がそれに参加するだなんてとてもじゃないけど考えられませんでした。
 
 二丁目の片隅で(よく通ったバーは厳密には三丁目でしたが)、週末にひっそりと(うそ。結構にぎやかに)お酒を飲む、普通の「ホモ」だったのです(ほんの15年前の当時、まだ「ゲイ」という呼称すら今ほど一般的ではなかったなんて、今の若い人たちには想像できるでしょうか?)。
 
 それがどうしたことか、そんなクロゼットな自分が、こともあろうに東京のど真ん中である渋谷の街を3000人もの「同志」が歩く、東京レズビアン&ゲイパレードの実行委員長を務めることに。しかも2回も。「一公務員の自分がこんなことしちゃって大丈夫なわけ?」「一体自分、どうなっちゃてるの?」「でももう後には引けないし・・・」、と半ば捨て鉢(笑)になってここ数年走ってきました。とはいえ、全方位的にカミングアウトしてオープンリーゲイとして活動しているわけでもなく、「これくらいまでなら大丈夫かな・・・」などと薄氷を踏む思い(大袈裟)で姑息にというか中途半端にというか(笑)、ともかく「今、自分のできること」をやってきた、という感じでしょうか。

 こういった自分のあり方の「変容」を振り返ったとき、たとえば、伏見さんが若いときに大きな悩みや苦しみを抱え、それを解消するためにまず問題を立て、それに立ち向かい続けてきた、というあり方と自分のそれとはずいぶん違うということを感じます。自分は、ゲイであるという自認を持った思春期のころから、ゲイであることで理不尽さや不自由を感じたりしてきたはずなのに、それが「問題だ!」などと思う回路を持っていなかったのです。「お、自分はフツーとは違うみたいだぞ! バレないようにしなきゃ・・・。」(実際は大阪弁)と思っただけで、「それをなんとかしたい!」などと建設的な方向に意識が向くことなどなかったのでした。
 
 しかし、ちょうど東京に来た頃から、徐々にゲイムーブメントが起こり始め、時代が動き出すことになりました。時代の声に接するなかで、自分のなかで潜在的にあった(と思われる)混沌として言葉にもならなかった思い(つまりゲイであることで受けざるを得ない理不尽さや不自由さなど)が徐々に整理されて、自分の言葉となり、そしてその言葉を表現する場が与えられたり、行動する場が与えられたりするようになってきたわけです。ようするに、時代の動きに導かれてというか、影響されてというか、揉み解されてというか、その時々に必要だった(もしくは、やりたかった、やりたくなった、やらされた(笑)、などの)小さなアクションを徐々に徐々に積み重ねていくうちに、いつのまにかこんなふう(どんなふう!?)になってしまったわけです。
 
 このように、自分のあり方の「変容」を振り返ったとき(『欲望問題』のなかで、伏見さんは私のこういった「変容」についても鋭く分析してくれています。ナルホド!)、常に私は「時代」に導かれてきたということができるのですが、一方伏見さんは、「時代がどうだから」などということに突き動かされてきたわけではなく、自分自身で問題意識を明確にし、問いを立て、それに立ち向かってきたわけです。つまり、伏見さんは私が導かれてきた「時代」というものを切り拓き、創ってきた張本人(もちろん彼一人の功績ではないのでしょうが、その中心的存在であったことは確かです)だといえます。

 この『欲望問題』は、その「時代のフロントランナー伏見憲明」の思想の軌跡を知るうえで恰好の書です。後代になって第三者がある人物の思想の変遷を整理する、ということはよくおこなわれるのですが、本人が、しかもまだ第一線で活躍しているさなかにこのような仕事をしたということに私は非常に興味を覚えました。ジェンダーやセクシュアリティの問題やそれらを取り巻く状況は、それほど短時間でいろんなことが変化していくのだ、といえばそれまででしょうが、それを自分自身の手で整理したというところに、伏見さんの研究に対する誠実さを感じます。そしてその視線はつねに未来へと向けられており、彼の問題意識に対する視座は、私にもいろんな示唆を与えてくれました。

 冒頭に書いたように、私が東京に来たのが1992年。そして、伏見さんが『プライベート・ゲイ・ライフ』でデビューしたのが1991年。彼がリードしてきた「時代」を、新宿二丁目という街で感じ続けることができたのは、とても幸運なことだったと思います。同世代(というか同い年)としても、今後の活躍に期待しています。

【プロフィール】
おかべよしひろ●1963年大阪市生まれ。高校教員。東京レズビアン&ゲイパレード2005・2006実行委員長。東京プライド理事。セクシュアルマイノリティ教職員ネットワーク事務局長。

川西由樹子[ライター]●絶妙なパラフレーズに、汁まみれの感謝を

《どうしよう……あたし、すっかり熱くなってる。このままなにもかも、溶けて流れていっちゃいそう……》

『欲望問題』のプルーフ版を握り締めたわたしの手は、絶頂を迎える直前のように強張り、震えきっておりました。全身の汗腺という汗腺から、あるいは鼻孔やら唇から、さらには下半身の敏感な箇所にいたるまで、熱くじっとりと、はしたないほど分泌物にまみれていくのを感じたんです。

《どうして……こんなに巧みに、あたしのいちばん敏感な部分を……》

 真っ赤に熱せられた鉄板の上のバターも同然に、肉体が、理性が溶解していくのを感じます。わたしは『欲望問題』を胸に抱いたまま、法悦の境地で大地へと溶け崩れていったのでした。

       *

 いきなり自分語りに入ってしまって恐縮ですが、わたしが本書から受けた衝撃を表現するためには、どうしても己の過去にさかのぼる必要があります。

 わたしの半生のいたるところで出会い、反面教師的な意味も含めて人生に強い影響をもたらしてくれたのは、ある種の「正義の味方」のかたたちでした。

 最初のそれは、わたしが幼稚園児のころにはじまった、宗教という名の「正義」でした。家族全員が某新興宗教の信徒となってしまったため、特殊な価値観を連日連夜、コレでもかとばかりに注入されたのです。そこでは、「正義」という表現の代わりに「真理」などの用語がつかわれてはいたものの、「絶対的に正しい概念」を信仰するよう全身全霊で求められたという意味では、まさに「正義」に四方八方を包囲された状況だった、と言えましょう。

 次にわたしが接した「正義の味方」たちは、反体制的なイデオロギーを信奉するかたがたでした。小学校の低学年から登校拒否をはじめる、という非常識な生き方をしてきたおかげさまで、わたしは思想的に左のベクトルをお持ちの種族に偏愛されるカラダになってしまったのです。

 とりわけ難儀な思いをしたのは、中学生(相当の年代)のころに出会った、児童精神科のお医者さまの対応でした。その先生は「登校拒否という生き方は、素晴らしい!」と、しつこいほど熱く激しく狂おしく、わたしに説いて聞かせたのです。彼の論拠は「現代の社会は間違っている。登校拒否とは、その病んだ社会が生み出した学校という機関に反旗を翻す行為だから、素晴らしいのだ」とのことでした。

 いいトシをされた斯界の権威に面と向かって礼賛された思春期のわたしは、正直言ってアタマをかかえてしまいました。ほかの登校拒否児の事情は知りませんが、おそらく学校に行かなくなった理由は千差万別でしょう。なかには、「イデオロギー的な正義を体現して」そのような人生を選択したキャラがいても不思議はないのかもしれませんけど、わたしに限って言えば、どう考えても「学校が悪いんじゃなくて、あたし個人の問題(内因性)」としか思えないのです(長じて以降、メンタル系に詳しい人物にわたしの経歴を話したところ「え、あなたの場合はADHDだから不登校になったんじゃないの? それ以外の理由はありえないと思ってた」と指摘されたことがありましたっけ。その分析の正誤はわかりませんが、「正義の具現として、登校拒否児に!」なんてトンデモ系にしか思えないロジックよりも、ADなんとやらのほうが、はるかに説得力があるような。少なくともその場合は、わたしの「内因性なんじゃん?」という実感と符合しますしね)。

 さらにわたしの場合、生まれついてのヘンタイ(性的少数者)という属性も、正義の民との接触の機会を、いやがうえにも激増してくれやがりました。十代も終盤のころには新宿二丁目などの性的少数者のコミュニティに出入りするようになったのですけど、当時はレズコミュニティといえばフェミニズムがもれなくセットで付いてくる、といった時代だったもので、それこそ無数の「正義の味方」とソデ摺りあうハメに陥ったのです。やがて90年代初期の、セクシュアルマイノリティ当事者がマスメディアに台頭する時代になっても、わが「同族」の主張する言説は、やはり「正義」に基づいたプロパガンダが大半でした。本当に、ごくごく一部の例外——このたび、ポット出版から新著を刊行された作家など——を除いて。

 宗教、反体制的なイデオロギー、そして性的少数者のコミュニティ。わたしがかつて身を置いてきた共同体は、クローンされた薄気味の悪い生き物ではないかと本気で疑いたくなるほど、似通いまくっていたものです。自分の信じる「正義」が絶対だと信じて疑わない体質をしている、という意味で。

 人生のいたるところで出会ってきた、「正義の味方」たち。そのたびにわたしは筆舌につくしがたい違和感を覚えて、彼らのプロパガンダを蹴散らし、あるいは全速力で逃亡しては、こんにちに至るのでした。

 まず、自分以外の家族全員がハマってしまった宗教については

「ハア? 『自分たちの祈りが世界を平和に保ってる♪』? ——あの〜、世界にはそれこそ命を懸けて反戦活動に邁進されるかたがたもいらっしゃるっていうのに、自分の好きな時間に好きなだけやる『祈り』でこの世を平和に保ってるだなんて……どこまで増長しまくりの選民意識に凝り固まったオナニー信者どもよ、アンタらってば!!」

 そんな具合に矛盾を覚え、距離を置くことに成功しました。

 一方、中学生時分に浴びせられ倒した反体制的プロパガンダには

「先生は『子供の自主性を重んじる』ことをモットーにしたお医者さまでしょ? あたしは本気で考えたすえに『自分の登校拒否はあくまでも内因性のもので、学校、ひいては社会の側に問題があるとは思えない』と実感してるんです!」

 といったフレーズを盾に、なんとか逃げ切りました。

 この精神科医とのやり取りは、もうひとつの大きな疑問、後年振り返ってみると「一生モノの財産」としか言いようのない概念をも、わたしにもたらしてくれました。それは

《登校拒否児だろうと年端もいかない中学生だろうと、この社会を構成する一分子だって事実に変わりはないじゃん。なのに、「みんな現在の社会システムが悪い!」で片付けちゃっていいわけ? ひとつひとつの分子には、なんの責任もナシなの?》

 という思いです。この疑問は「学校に行けないカワイソウなお子ちゃまのしたことだから」という理由で、被害者側に一生の傷を残しかねない犯罪の常習者を野放しにしたりしていた、精神科医をはじめとする「立派な大人」への不信感から生まれた気がします。

 その後もサヨクなかたたちと血みどろバトルを繰り広げたりといろいろあったものの、幼児期や思春期に出会ったひとびとの攻略は、さほどの難易度ではなかったのかもしれません。なぜなら、人間は一生思春期の多感な少女のままでいるわけではありませんし、ある程度の年代に達すれば、生まれ育った家庭から自力で離脱することも可能なのですから。

 問題は、「ヘンタイ」という要素です。「元登校拒否児」というアイデンティティはありえても、「ヘンタイ」は一生つきまといます。とりわけわたしの場合、かつては「べつに男が苦手ってわけじゃないし、いままで異性相手に恋愛したことがないだけで、あたしってばきっとバイセクシュアル♪」などと漠然と思っていたのが、二十歳ちょい過ぎくらいに骨のズイから信頼できる男性との結婚話が進んだ結果、さあ式の日取りを決めなきゃね、という段階に至ってはじめて

「あたし……やっぱ無理みたい。どんなに人間的に信頼できても、人生のパートナーと股間を濡らす相手は、女のヒトじゃないと……関係者のみなさま、ごめんなさい!!」

 と、ヘンタイとしてのアイデンティティを、このうえなく堅固に確立してしまったのですから。

 わたしが二十歳そこそこのころ、軽い気持ちで在籍したゲイとレズビアンのサークルやその周辺でも、「強制異性愛社会撲滅!」「アンチ・ヘテロセクシズム!!」みたいな「正義」のプロパガンダがさかんに飛びかっていました。

 ここでもまた、「正義の味方」が自分の理想を突きつけてくる——幼いころのパターンの繰り返しです。

 子供のころのわたしを苛烈にバインドした、宗教という名の「正義」。思春期のわたしに不信感を抱かせた、反体制的イデオロギーという「正義」。さらに、一生ついてまわるだろうセクシュアリティの関連コミュニティで出会った、この世界の大半を占める異性愛者(をスタンダードとする振る舞い)へのアンチテーゼとしての「正義」。それらの「正しい、とされること」にことごとく反発を覚えずにいられない自分は、どこか根本的に間違っているのではないか? 問題は、相手の主張ではなく、病的なまでにアマノジャクなわたし自身の側にあるのでは……? 

 プチサイズの脳をフル稼働させて、当時のわたしは考えに考え抜きました。そうした末に、ようやく違和感の正体の片鱗らしきものに、指先が届くのを感じたのです。

「正義」の主張の一部には、うなずける部分もなくはない(唯一、宗教に関しては、一片の正当性をも感じられませんでしたが)。けれど、この生身の「カラダ」が、どうしてもそれを受け入れられないのだ——これが自問自答した結果に得た回答でした。

 似たような現象を、そう遠くない時期に経験していることにも気づきました。なんのことはない、異性と性的関係を結んでいたころのわたしの生理的反応(人間的にはそれなりに信頼できるんだけど、実際にハダを合わせてみると、やっぱ無理みたい)は、「正義」に対して抱くそれの、みごとなアナロジーになっているではないですか。

「そっか。これって理屈がどうのこうの、じゃなくて、ほとんど生理的な問題なんじゃない?」この考えに行き着いたときにはじめてわたしは、長年覚えてきた「正義」への反感を、わかりやすい言葉で表現する方法に気づいたのです。

《ごたいそうな主張も、けっきょくのところは、それを唱える個人の「好き嫌いの問題」にすぎないんだ……》

 つまり、社会、あるいは世界全体に向かって声高に唱えられる正義も、しょせんは当人に都合のよいロジック、個人的な事情を投影した主張にすぎないのではないか?と。

 しかし、この「個人的な好き嫌いの問題」というフレーズは、なんともスワリが悪いといいますか、急所を貫く槍の鋭さに欠けています。なにかもっとましな言い回しは、見つからないものでしょうか。

 あたしのアタマじゃ、いくら考えても、理想的な表現なんてヒネリ出せないのかも……そんな具合に、ほとんど諦めの境地を漂っていたわたしの前に突如として差し出されたのが、伏見憲明著の『欲望問題』なのでした。

        *

 自分語りが長くなりすぎて、まことに失礼いたしました。とにかく、わたしが本書について言えることは

《あたしの長年のワダカマリを、よくもまあみごとに、簡潔かつ適切な表現に換言してくれたもんだわ……!》

 これにつきます。それこそアナタ、いちばん敏感な箇所を、絶妙なテクで刺激されちゃったんですアタシ、とでも言いますか。

 熱せられたバターの勢いで、心もカラダも長年の疑問も、心地よく溶解していくのを感じます。汗だか血だか涙だかヨダレだか鼻水だか、あるいはもっと不穏なワケのわからぬ汁で全身全霊をずぶ濡れにしたわたしは、『欲望問題』を前に、ただただ感服するばかりなのでした。

【プロフィール】
川西由樹子(かわにし・ゆきこ)●1967年、東京生まれ。最終学歴は小学校低学年中退という、類例をみない低学歴ライター。これまでに手がけた仕事は、スタンダードなライター業務のほかに、RPGゲームソフトのシナリオ、FM放送やネットの音声番組の構成台本、エロ小説や漫画の原作など、ムダに守備範囲が広い。エンタメ系小説書き志望で、かつて一度だけミステリー系文学賞の最終候補に残ったことがあるものの、その後の経過は笑うしかない、という。めげずに今後も、とりあえず応募の努力だけは続けるつもりらしい。

ブログ:『虹色坩堝(にじいろ・るつぼ)』
http://yukiko-k.jugem.jp/

【著書】
『Q式サバイバー』/七つ森書館/1999.10/¥1,575
【共著】
『女の子と女の子のためのエロチックブックCarmilla(カーミラ)』全10巻/ポット出版/2002.7〜2005.12/各¥1,890
『H大作戦! キスから羞恥プレイまで』/徳間文庫/2001.9/¥599
『カサブランカ帝国—百合小説の魅惑』/イースト・プレス/2000.7/¥1,365
『Hの革命』/太田出版/1998.2/¥1,365

田辺貴久[ライター]●強く生きる自分を応援する優しい本

 いつだったか、運動会の徒競走で、順位を付けるのをやめて、みんなで手を繋ぎ合って一斉にゴールする映像を見たことがありました。かけっこが苦手な児童への配慮ということなのですが、なんだかその光景が妙に気持ち悪く映ったことをよく覚えています。徒競走って、競争なんだから、順位つけなくちゃどうしようもないんじゃ…と。でも、足の遅い子への配慮という「優しさ」のようなものを盾にされると、違和感を覚える自分がまるで心ない人のようにも思えてしまい、いったいどう考えるべきなのか、はっきりと答えが出せずにいました。いま思えば、そういう違和感も、本書で語られる「差別問題」や「ジェンダーフリー議論」が内包している「弱者至上主義」というものと根を同じくするものでした。

 世にあふれる様々な問題を「欲望問題」として読み解き直したとき、どういう世界が待っているのか、きっといい方向にいくと信じたいけれど、もしそうでなかったらどうなるのだろう。この社会の「胆力」の真価が問われますね。「痛み」をかざせば顔パス状態だった世の中を、「痛み」も「楽しみ」と等価として天秤にかけるように組み替えるとき、社会のみならず僕たちが考えなければならないことは、「痛み」を訴えること、それから「痛み」を受け止めることに対して、もっと真剣になるということだと思います。

 いままでは、おもちゃ売り場でだだをこねるように「痛い痛い」と繰り返せば、聞いてくれる人がいたけれど、ただ「痛い」と言うだけでは、誰も聞いてくれなくなるわけで、多くの共感を得て、認められる「痛み」とするには、それだけの説得力が必要だし、そもそも自分の多くの共感を得るべき「痛み」かどうか、まずは自分の中で真剣に考えなければなりません。

 「痛み」を訴えられた方としても、やすやすとそれを受け入れていいものなのか慎重に考えなければなりません。本当にその「痛み」は聞くべきものなのか、それを受け入れることで自分たちが不当に損することはないのか。それを考えた上で耳を傾けるというセンスが必要です。さらには、たとえそれが耳を傾けるに値する悲痛な「痛み」であっても、それを却下せざるを得ない場合もあることを自覚しなければなりません。その判断によって「痛み」の主にはそれを飲み込んでもらわなければならない。そういう判断を、自分たちに委ねられているということを忘れてはならないのです。

 筆者は「線引きすることの暴力」という言葉を使っていますが、それを自覚した上で、「欲望問題」というものさしを取り入れ、より正当に多様性が認められる社会を目指そうとするのか、それともいまのまま、どんな「痛み」にも「優しい」自分でありつづけるのか、本書は僕らにどちらを求めるのかを問うているのだと思います。

 さあ、どうしよう。僕は、だれかに「痛み」を強いることになったとしても「欲望問題」に賛成したいです。真剣に向き合って考え抜いて出した答えなら、「痛み」を強いることになっても、自信をもってその判断を下せるはず。それならきっと納得できるはずです。社会の中で生きる以上、そうでなくてはならないと思います。

 自分の周りを見渡してみると、自分を煩わせているいろいろな問題が、実はいろんな「痛み」を内包したものだと気付きます。その中で、知らず知らずのうちに、より「痛い」ほうに視点を合わせて、そこに優しくすることで、自分にはね返ってくるだろう別の「痛み」から逃げていたように思います。もちろん、常に利己的である必要はないし、自分が損をしたって「痛み」を受け入れることだって大切です。それを受け入れないことがかえって自分の「痛み」になることもあるわけですから。

 でも、どんな「痛み」や「欲望」が自分に向かってきても、絶対に譲るわけにはいかない「痛み」や「欲望」については、常に意識していたい。僕はそのことに少し鈍感でした。そういうものをきちんと意識しておくことが、自分にとっても他人にとっても真剣に「痛み」それから「欲望」と向き合うことになると思うし、それはつまり真剣に「生きる」ことだとも思います。そう考えると、本書からは生きるための「勁さ」も貰ったのかも知れない、なんて思います。
 

たなべたかひさ●
1982年、千葉県生まれ。専門出版社勤務。『Queer Japan Returns』(ポット出版発行)では、0号から参加し、原稿を書いている。

ホーキング青山[芸人]●伏見さんが提示した本質を芸人として庶民の目線で伝えていく

この本を読ませていただき、まず最初に感じたのは「なんて重い本だ」ということ(笑)。
正直読み始めたときは「これは重いし堅苦しいし、読みづらい本だなあ」と思ったが、読み進むうちに「ここまで書かないと伏見さんの考えは伝わり切らないし、表現し切れないんだ」ということがよく分かった。
で、そこまで分かるとこの本は面白い(笑)。ただこういう問題ってもっとオープンにすべきだと思ってる。“史上初の身障者お笑い芸人”としてやってきたオレはとても強くそう思う。それにはこの本はちょっと取っつきづらすぎないかな?という気がした。むろん、前述したようにここまで書かないと伏見さんの考えは伝わり切らないし、表現し切れないから仕方ないというのは分かるんだけど。

これまで伏見さんとは三度ご一緒にお仕事をさせていただいた。いずれもすごくクレバーで、デリケートかつ複雑に絡んだ性をはじめとするあらゆる『差別』の問題を誰もが興味を持てる“オモシロさ”と“分かりやすさ”をもって語る「差別問題を一般化する力」を持つ方だと思ってる。
忘れられないのが、はじめてお会いしたときに舞台でオレが乙武をネタにして笑いを取ってたら、伏見さんから「青山さんはそうやって乙武さんを悪く言うけど、ボクなんかからすると乙武さんはオナペットであり、あんまり悪く言われると困っちゃう」と言われた。ひっくり返った。立場が変わるとここまで見える風景、景色が変わるものか?と大笑いしたっけ。
でちなみに「乙武はそんなに良くて、オレのことはどう思ってんの?」と聞くと「次元は違うけど同じ被差別者のマイノリティー」だって。要するに友だちにはなれても恋人にはなれない、ってことだろう。ゲイじゃないオレは、こう言われて本当はホッとするところだが、なぜか妙に悔しかったりして(笑)。
そんな伏見さんの本だから、つい“オモシロさ”や“分かりやすさ”を求めてしまう。それだけに最初のギャップは大きかった。

といろいろ書いてしまったが、オレのこの本の総合的な感想は「面白かった」の一語に尽きる。っていうかやっぱりご自身が差別運動に挺身しながらここまで差別という問題を客観的にとらえ、体系化してしまうという技はそう簡単に真似できるものではない。
おかげで差別問題というものの構造が改めてすごくよく分かったし、ホモということや少年愛ということをただの差別問題でなく欲望の問題と明示してくれたことで昨今の性犯罪の病理、本質がよく分かった。解決策がないという現実も……。
芸人である以上、こうした世の中で起きることから目を背けるわけにはいかない。伏見さんみたいな人がこうした問題の本質を提示し、それを芸人は庶民の目線で庶民に伝わるように表現し、皆に関心を持ってもらえるようにする。
その意味でもこの本で昨今の性犯罪の本質を理解できたことは本当にありがたい。

伏見さんに言われた言葉で忘れられない言葉がある。
「まあ私たちはゲイと身障者という立場は違うけど、でも同じように“いわれなき差別と戦ってきた”という意味では“同志”なんだから、お互い頑張りましょうね!」
このとき伏見さんの言われた言葉がこの本を読んではじめて分かった気がする。
そして、オレみたいな生まれながらにしての身障者はその現実も伏見さんよりはるかに受け入れやすかった。
ゲイの方が自分がゲイだという現実を受け入れ、そこから周囲の理解を得て、そして世の中の差別と戦っていくというプロセスには、同じ被差別者のマイノリティーとはいえ、オレら身障者とはまったく異なる苦悩があったことを、この本を読んではじめて気づいた。
そうなのだ。あのとき伏見さんがオレに「同志」といってくださった言葉は、実は伏見さんが謙遜しておっしゃった言葉だったのだ!この本を読むまでまったく分からなかった。伏見さんすみませんでした。自分の浅はかさが情けない……。

ともかく、この本は本当にあらゆる人が読んだ方がいい本だと思う。これ読んだら今の性犯罪の本質はじめ、差別の問題が分かり出すのだ。性犯罪に関しては絶対に容疑者をただ悪者にする感情論だけじゃ片づけられなくなる。そうなってはじめて差別の問題が他人事でなくなり始めるのだ。

【プロフィール】
ホーキングあおやま●1973年、東京都生まれ。“史上初の身体障害者のお笑い芸人”としてデビュー。
HP;ホーキング青山 オフィシャルホームページ
http://www.hawkingaoyama.com/
ブログページ
http://blog.hawkingaoyama.com

【著書】
お笑いバリアフリー・セックス/ちくま文庫/2005.9/¥680
日本の差法(ビートたけしとの共著)/新風舎文庫/2004.11/¥562
ホーキング青山の傍若無人/創出版/2004.8/¥1,400
Listen!〜あなたに聞いてほしい話(共著)/2004.5/¥1,500
日本の差法/新風舎/2002.10/¥1,300
身障者・お笑い芸人という生き方/エイ出版社/2002.7/¥1,400
UNIVERSAL SEX/海拓舎/2002.1/¥1,400
七転八転/幻冬舎アウトロー文庫/1999.12/¥457
笑え!五体不満足/フーコー/1999.11/¥1,600
言語道断!ホーキング青山自伝/情報センター出版局/¥1,165

竹下真一郎[大学生]●他者と繋がろうとする切実さ

私の不勉強と読書内容の偏向のためであるが、本書は、伏見氏の論考、特に2000年以降の雑誌『クィア・ジャパン』やゲイ雑誌『Badi』への連載記事などの内容から外れるものではないように感じられた。私は、過去の著作からは、「正確な分析だけど、みもふたも無いなあ」というのが、伏見氏の著作に対する印象であった。それはつまり、私が「読書を通じて安心したいタイプ」であり、もっと言えば、本の著者に対する「甘え」──「自分の価値観を権威によって肯定して欲しい」という欲求──があったというだけの話であり、恥ずかしい話である。

また、著作をちゃんと読んでいないからだと叱られそうだが、伏見氏の著作には、他人の生き方を茶化して痛烈に笑いのめす箇所と、一方で他人の痛みを深く理解しようとするような箇所があり、どうしても統一的な「伏見憲明」像が浮かんで来なかった。しかし、本書を通じ、雑誌等で見られる「怖いオカマ」スタイルと、あとがきで「命がけで書いた」と告白するような「真面目さ」とが、「伏見憲明」という1人の人格の中に同居しているということが、何故か腑に落ちた。腑に落ちてみると、単に、自分の「好き嫌い」や直観を誤魔化さずに発言する知識人が珍しいというだけのことだったのかもしれないという気がするし、「ゲイ・リベレーション(こう言われることを好まないかもしれないが)を引っ張るような知的な人=真面目で観念的で耳に心地いいことを言う」という勝手な決めつけが私の中にあったのだろう。またしても恥ずかしい話である。

本書からは、伏見氏の「人が他者と繋がろうとすること」に対する何か切実な想いが感じられた。本書の内容から外れることかもしれないが、私は、今までのところ孤独ではなかったし、恵まれた人生を送って来たのだなあと思う。そしてそれ相応にだらしなく育った。

『欲望問題』は、未成年の同性に性的欲望を抱く男性のエピソードから始まっている。かつて大学時代に、「アナタはゲイで、人生を謳歌してるでしょ?ゲイであることが今何か大変ことなの?」と遠まわしに言われたことがある。今でも私は、例えば「セックスに関して、何をどこまで許容できるのか」と詰め寄られれば、上手く答えることができない。成人の男性が好きな同性愛者である自分は、今の日本では、安全圏内に入っている上、幸せなことに、だらしなくても生きていられる。

そういう中で、私は、他人の痛みを感じ取れているのだろうか。映画を見れば過剰に感動したりするのに、果たして生身の他人とぶつかり合っているだろうか、ぶつかった上で相手を理解しようと努めているだろうか。最近そういう痛い「ぶつかり」を一つ経験したような気がする。

家の中のことで家族の1人と口論になった際、それまで積もっていた思いを一気にぶつけ、私は相手を言い負かしてしまった。そんなことは生まれて初めてだったし、いつかは一言ガツンと言ってやろうと思っていた。しかし、自分の言葉で、いつも強気な人間があんなに取り乱してしまうとは思ってもみなかった。

自分は何がやりたかったのだろう。決まっている。『欲望問題』の中の表現で言えば「痛み」を「正義」と錯覚して、更に、相手の気持ちをずたぼろにしたいという欲望にも基づいて動いていたのだろう。この場合、私の家の中における「欲望問題」は、「痛み」「楽しみ」の他に、「恨み」のファクターも介在しているのだろう。
相手は、私の欲望どおりにずたぼろになりながらも、私の言葉を受け止めてくれた。しかし私は相手の何を受け止めているだろうか。今も相手は私の言葉で苦しんでいるのかもしれない。

今まで家の中で等閑視されてきたことを暴き立てたいという私の「欲望」は、結果的に皆を幸せにしないのかもしれない。「私は家という小さな社会の一員として、家族1人1人と向き合いたい」。こう言えば学校の先生に褒めてもらえそうな気がするが、それはつまり「欲望問題」なのだ。伏見氏が「欲望問題」と言ってくれたおかげで、私も家のことを冷静に考えられる気がする。

一方、私は「日本」という大きな社会に対しては「憎しみ」も無いが「痛み」も無く、「楽しみ」の関係性しか持っていない。しかも、かなりだらしない種類の「楽しみ」の関係性だろう。
結局、『欲望問題』で伏見氏は、「読書で安心したい」という私の甘えをまたしてもぶち壊してくれたわけだが、今の自分には必要な読書体験だったと思う。ところで、こうして感想文を書くと、大体「いい子偽装の反省文」のようになるので、自分でもどれ位本音なのだろうかと疑問ではある。

【プロフィール】
たけしたしんいちろう●1978年、福岡県生まれ。大学生、政治学専攻。

大原まり子[小説家]●『欲望問題』を読んで感じた、3つのメモ

 この本を読んで、いろんなことを考えさせられました。
 メモのようなものですが、少し書かせていただきたいと思います。

(1)少年について 〜『鎮魂歌(レクイエム)』(グレアム・ジョイス)

 大人になる前の少年が好きだという性的嗜好をもつ、28歳の同性愛者の青年からのメールによって、伏見氏は深く考え込んでしまいます。個人の欲望と、社会は、どこまで歩み寄ることができるのか。あるいは、できないのか……と。

 ロリコンという言葉があります。ロリータ・コンプレックスの語源となったウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』のロリータは16才。ミドルティーンです。
 幼児・小児を対象とした性愛・性的嗜好をさすペドフィリアと区分した方がいいと思います。

 グレアム・ジョイスの『鎮魂歌(レクイエム)』(浅倉久志訳)という小説があります。本作で英国幻想文学賞、他にも世界幻想文学大賞を受賞している評価の高い作家です。
 妻を亡くしたまだ若い教師が、旅先の聖地エルサレムで、さまざまな不思議な事件に巻き込まれるうちに、教え子である女生徒の性的魅力に惑わされ、関係を持ってしまったのでは……という、後悔と懺悔とエロスに満ちた幻想にとらわれる物語です。
 性的な魅力のある10代の女性が、まだ生徒であり子供であるという社会の枠組みの中にあることよって、矛盾と禁忌が生じ、恐怖に彩られた幻想が生まれるのです。

 殺人が社会から容認される日は来ないでしょうが、ペドフィリアも同様でしょう。
 ですが、10代については、社会(文化)がはらむ矛盾が大きいと感じています。当の10代にある人たち自身が、宙ぶらりんの悩ましい状態にあるような気がします。

(2)ジェンダーフリー/ジェンダーレス 〜SF「自然の呼ぶ声」(小松左京)

 ジェンダーフリーと聞いて、特にジェンダーフリー批判・反動の流れの中で、その言葉を初めて聞いたので(不勉強ですみません)、まっさきに連想したのは、小松左京の傑作SF短編「自然の呼ぶ声」でした。

 遠い未来、地球から遙か隔たった星域で、連続殺人事件が起こります。この星では、遺伝子改造により、人類はM類とF類に分かれているのですが、殺人はすべて、M類がF類を襲うものでした。

 ストーリーの途中で、Mは元男性、Fは元女性であることが明かされますが、この社会において、M/Fの差異は、わずかに身体に残る器官の痕跡と情緒や思考パターンです。平衡のとれた知的生産に双方が必要なのだといいますが、まあ統計的には、ないよりはあった方が有意という程度。

 言葉づかいや習俗に差はなく、なんとなく見た目で、どちらなのかはわかるという感じでしょうか。M/Fは、職種(技術者を表すTや、理論家のThなど)による差と同様、記号上の区別にすぎないと思われていました。
 そして、孵育室で人工的に生まれてくる住人たちには、男性(メイル)と女性(フィメイル)が何なのかもわかりません。生殖と遺伝子を管理することで、地球が植民星を支配・搾取していたのです。

 社会的危機を解決するため、450年の冷凍睡眠から目覚めさせられた一人の(本物の)男によって、“現代人”たちは男と女の意味を知り、性ホルモンを抑制する食糧を食べないことで、やがて本来の姿へと変貌してゆくこと、そして新しいつき合い方が始まることを示唆しつつ、物語は終わります。

 この小説が書かれたのは、実に43年前の1964年。
 性の起源は約38億年前だそうですが、性欲の本質は他者への侵食であり、根底には暴力がひそんでおり、おかしな形で抑圧されると暴発してしまう。大事に至らないために、ジェントルマンとか、恋愛とか、さまざまな型・ルール・フィクションが作られてきたのではないでしょうか。

 ジェンダーフリー/ジェンダーレス論にもさまざまなものがあることを、本書で知りましたが、そういった思想を運動として進めてゆく時、個人の生活の中で、どうしても何か違和感を残すと伏見氏は感じるのです。
 ジェンダーフリー/ジェンダーレスは、SFではないか、という、私が最初に受けた印象は、当たっていると思いました。本来はSFのような表現形式、もしくは論考によって表されるべき思想だったと思います。

(3)運動/欲望、そして小説

 伏見氏自身の運動との関わりや、違和感を含めた実感が丁寧に書かれており、その中から、とりあえず1つの結論にたどりつきます。
 「正義」に陥りがちな運動ではなく、各自の「欲望」(不満や痛み、欲求や理想のことをまとめて本書では欲望とよんでいます)を表明して、互いにその利害をすりあわせてみてもよいのではないか、と。
 社会の基盤を整備・運営する仕事というのは、堅苦しくておよそ色気もなく、時に強権的にもならざるを得ない営みだと思います(私はみんなのために真面目に基盤整備・運営する人々を常々立派だと思っています)が、そこへ、リアルな生活の実感というか、とりあえず、各自の切実な「欲望」を言葉で表明してみてはどうか、というのです。
 ただ不快だとか、嫌いだとかいうのでなく、何故不快に感じるのか、何故痛みを感じるのかを考える過程も、議論を深めるきっかけになるでしょう。

 この国での女性、ゲイをめぐる状況は、ここ30年に限っても、ほんとうに良い方向に変わりました。
 私自身の長年に渡る大きな変化は、自分が女性であることをじょじょに受け入れ、女性である自分を好きになったことです。そして、私自身は授かりませんでしたが、子供たちを可愛いと感じるようになりました。
 ヘタなのですが料理も好きになりましたし、家を整える家事がどれほど大変で、人生の中でどれだけ大事なことか、その価値がわかるようになりました。
 カソリックの女子校に10年間通ったことも、良かったと感じています。

 ジェンダー、セクシュアリティのあり方自体が変化・多様性を見せ始めているという著者の実感も書かれています。「雄っぽいんだけど、雌っぽさがあるところ」という著者の友人のセクシュアリティに、私も大いに共感します。
 自分の中にある女性的なものを認め受容して、かつ強度を保っている男性は、まだ数少ないですが、このタイプは、かなりのもてゾーンに入ってくるのではないかと踏んでいます。

 私はファッションが大好きですが、その理由の大半は、さまざまな型を演出することができるからです。
 似合うに合わないはあるとはいうものの、服を着ている内に、それなりに似合ってくるから不思議です。なじんでくると、案外中身もそういう人になっています。
 型のようなものは、意外に簡単に変わってゆくのでしょうね……。

 あとがきに「この本はパンクロック」であり、「リアルであることこそが、ぼくのパンクです」とありますが、この表明は、伏見氏が小説を書き始めたことと無縁ではないように思います。
 小説は、私たちの生活同様に、思想だけでできあがっているわけではありません。それどころか、思想なしでも充分に成立するのであり、その本質は芸だとわたしは思っています。芸とは、艶っぽさです。
 最後に──伏見さんには、パンクで艶っぽい小説を期待しています。

【プロフィール】
おおはらまりこ●1959年、大阪生まれ。小説家。80年、「一人で歩いていった猫」が第6回ハヤカワSFコンテストに佳作入選し、デビューする。94年、『戦争を演じた神々たち』で第15回日本SF大賞受賞。99-01年、日本SF作家クラブ会長。02-03年、読売新聞読書委員会委員。

HP:アクアプラネット
http://park6.wakwak.com/~ohara.mariko/welcome.htm

【著書】
笑劇(岬兄悟、松本侑子、瀬名秀明らとの共著)/小学館文庫/2007.1/¥619
笑壺(岬兄悟、森奈津子、梶尾真治らとの共著)/小学館文庫/2006.7/¥600
SFバカ本 電撃ボンバー編(中村うさぎ、岩井志麻子、瀬名秀明らとの共著)/
メディアファクトリー/2002.3/¥1,200
銀河郵便は三度ベルを鳴らす/徳間デュアル文庫/2002.2/¥619
SFバカ本 天然パラダイス編(岬兄悟、田中啓文、松本侑子らとの共著)/メ
ディアファクトリー/2001.11/¥1,200
超・恋・愛/光文社文庫/2001.10/¥457
SFバカ本 人類復活編(北野勇作、岬兄悟、小室みつ子らとの共著)/メディア
ファクトリー/2001.8/¥1,000
イル&クラムジー物語/徳間デュアル文庫/2001.3/¥676
アルカイック・ステイツ/ハヤカワ文庫JA/2000.11/¥520
SFバカ本 チャーハン編(岬兄悟、谷甲州、森奈津子らとの共著)/メディア
ファクトリー/2000.11/¥1,400
SFバカ本 黄金スパム編(岬兄悟、安達遥、友成純一らとの共著)/メディア
ファクトリー/2000.11/¥1,400
銀河郵便は”愛”を運ぶ/徳間デュアル文庫/2000.10/¥648
血(小池真理子、手塚真、夢枕獏らとの共著)/ハヤカワ文庫JA/2000.6/¥580
日本SF論争史(巽孝之、小松左京、筒井康隆らとの共著)/勁草書房/2000.5/
¥5,000
リモコン変化 SFバカ本(小室みつ子、かんべむさし、波多野鷹らとの共著)/
広済堂文庫/2000.3/¥600
彗星パニック SFバカ本(岬兄悟、いとうせいこう、村田基らとの共著)/広済
堂文庫/2000.2/¥600
戦争を演じた神々たち/ハヤカワ文庫JA/2000.2/¥700
チューリップ革命(高瀬美恵、四谷シモーヌ、森奈津子らとの共著)/イース
ト・プレス/2000.1/¥1,300
SFバカ本 ペンギン編(岬兄悟、岡崎弘明、友成純一らとの共著)/広済堂文庫
/1999.8/¥552
みつめる女/広済堂文庫/1999.6/¥495
SFバカ本 たいやき編プラス(岬兄悟、伏見憲明、東野司らとの共著)/広済堂
文庫/1999.5/¥571
屍鬼の血族(江戸川乱歩、柴田錬三郎、半村良らとの共著)/桜桃書房
/1999.4/¥2,300
SFバカ本 だるま編(岬兄悟、山下定、松本侑子らとの共著)/広済堂文庫
/1999.3/¥552
SFバカ本 白菜編プラス(岬兄悟、とりみき、岡崎弘明らとの共著)/広済堂文
庫/1999.1/¥571
月の物語(安土萌、倉坂鬼一郎、若竹七海らとの共著)/広済堂文庫/1999.1/¥762
恋物語(古井由吉、増田みず子、連城三紀彦らとの共著)/朝日新聞社
/1998.12/¥1,500
ブランドの花道(藤臣柊子との共著)/アスペクト/1998.12/¥1,400
スバル星人/プラニングハウス/1998.12/¥840
SFバカ本 たわし編プラス(岬兄悟、梶尾真治、斎藤綾子らとの共著)/広済堂
文庫/1998.10/¥571
変身(倉坂鬼一郎、久美沙織、岬兄悟らとの共著)/広済堂文庫/1998.3/¥762
侵略!(かんべむさし、牧野修、小中千昭らとの共著)/広済堂文庫/1998.2/¥762
タイム・リーパー/ハヤカワ文庫JA/1998.2/¥720
SFバカ本 たいやき編(岬兄悟、伏見憲明、森奈津子らとの共著)/ジャストシ
ステム/1997.11/¥1,600
血(小池真理子、篠田節子、夢枕獏らとの共著)/早川書房/1997.9/¥1,600
戦争を演じた神々たち/アスキー/1997.7/¥850
戦争を演じた神々たち2/アスキー/1997.7/¥1,700
処女少女マンガ家の念力/ハヤカワ文庫JA/1997.5/¥560
SFバカ本 白菜編(岬兄悟、大場惑、谷甲州らとの共著)/ジャストシステム
/1997.2/¥1,845
アルカイック・ステイツ/早川書房/1997.2/¥1,359
吸血鬼エフェメラ/ハヤカワ文庫JA/1996.8/¥544
SFバカ本(岬兄悟、梶尾真治、村田基らとの共著)/ジャストシステム
/1996.7/¥1,845
仮想年代記(梶尾真治、かんべむさし、堀晃、山田正紀との共著)/アスペクト
/1995.12/¥2,136
オタクと三人の魔女/徳間書店/1995.11/¥1,456
恐怖のカタチ/ソノラマ文庫/1995.11/¥524
ネットワーカーへの道/ソフトバンク/1994.8/¥1,456
戦争を演じた神々たち/アスペクト/1994.7/¥1,845
エイリアン刑事2/ソノラマ文庫/1994.7/¥524
エイリアン刑事1-上/ソノラマ文庫/1994.6/¥485
エイリアン刑事1-下/ソノラマ文庫/1994.6/¥485
恐怖のカタチ/朝日ソノラマ/1993.10/¥971
ハイブリット・チャイルド/ハヤカワ文庫JA/1993.8/¥720
イル&クラムジー物語/徳間文庫/1993.7/¥505
吸血鬼エフェメラ/早川書房/1993.7/¥1,553
タイム・リーパー/早川書房/1993.5/¥1,456
エイリアン刑事2/ソノラマノベルズ/1992.12/¥728
石の刻シティ/徳間文庫/1992.5/¥466
エイリアン刑事 下/ソノラマノベルズ/1991.12/¥728
エイリアン刑事 上/ソノラマノベルズ/1991.11/¥728
メンタル・フィメール/ハヤカワ文庫/1991.11/¥447
未来の恋の物語/徳間書店/1991.8/¥1,262
電視される都市/双葉文庫/1990.10/¥466
ハイブリッド・チャイルド/早川書房/1990.6/¥1,748
やさしく殺して/徳間書店/1990.4/¥971
銀河郵便は”愛”を運ぶ/徳間文庫/1989.4/¥427
大都会の満タンねこ(いのまたむつみとの共著)/ビクター音楽産業/1989.5/
¥1,262
魔法の鍵/集英社文庫/1989.2/¥360
銀河郵便は三度ベルを鳴らす/徳間書店/1988.10/¥980
スバル星人/角川書店/1988.8/¥420
物体Mはわたしの夢を見るか?/ソノラマ文庫/1988.8/¥420
電視される都市/双葉社/1988.7/¥690
イル&クラムジー物語/徳間書店/1988.2/¥980
青海豹の魔法の日曜日/角川文庫/1987.8/¥380
処女少女マンガ家の念力/角川文庫/1987.3/¥380
石の刻シティ/徳間書店/1986.12/¥980
未来視たち/ハヤカワ文庫JA/1986.11/¥380
金色のミルクと白色の時計/角川文庫/1986.8/¥420
大原まり子・松浦理英子の部屋/旺文社/1986.1/¥1,300
処女少女マンガ家の念力/カドカワノベルズ/1985.6/¥640
ミーカはミーカ トラブルメーカー/集英社文庫/1985.1/¥300
銀河郵便は”愛”を運ぶ/徳間書店/1984.12/¥980
銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ/ハヤカワ文庫JA/1984.4/¥466
まるまる大原まり子/シャビオ/1984/¥880
S-Fマガジン・セレクション 1981(亀和田武、神林長平、岬兄悟らとの共著)
/ハヤカワ文庫JA/1983.4/¥560
機械神アスラ/早川書房/1983.3/¥850
地球物語/ハヤカワ文庫JA/1982.5/¥360
一人で歩いていった猫/ハヤカワ文庫JA/1982.1/¥320

片岡義博[記者]●伏見さんへの手紙

編集部から●これは、伏見氏宛に届いた私信メールです。本人の了解を得たうえでここに紹介します。


こんにちは、伏見さん。片岡です。
このたびは、新著「欲望問題」を送っていただき、ありがとうございました。さっそく読みました。そして、これはいい!と思いました。

どう「いい」のか、うまく言い表せないのですが、自分なりに表現していくと、まず痛みの解消を楽しみと等価な「欲望」として了解可能な次元に開くことで、差別を現実的に解消していく新たな理論的枠組みを提起したこと。

フェミニズムがはらむ性差解消志向を指摘し、性差解消による抑圧からの解放と性差に基づく快楽を等価に扱うことで、差別問題の特権性を相対化したこと。

ジェンダーフリーを唱えるフェミニストの言説に具体的な日常生活での実践性、現実性を明確に求めたこと。

自分が生の基盤を置く社会とかかわることの正当性と方法を示しながら、より生きやすい社会を実現していく道筋を示したこと。

そして、それらは自分の経験を基にこれまでの思想と行動を批判的に考察することによって生み出されたものであり、本書自体が筆者のこれからの生き方の宣言となっていること。

加えて、それらが実に明快な表現と論理で示されていること。

うーん、われながら生硬で不器用な説明。でも、よくぞ書かれたと思いました。そしてこの本で展開された思考が、伏見さん自ら社会に働きかけ、また社会から働きかけられるという、伏見さんと社会との往還運動の結果到達した地点であることを深く了解させられました。

以下、雑文です。
本の各所に傍線を引き、深くうなずきながら各所に「!」を記しましたが、1カ所「?」を付けたところがありました。65ページ「ぼくらはそれを一つひとつ解決するだけの知恵をもう持っているのではないでしょうか。それだけの知を作ってきたのではないでしょうか。ですから、ぼくはいまはただ、人間の持つ胆力に賭けたいと思います」。

話は飛ぶのですが、この本、特に第2章を読みながら、僕はヴェンダースの映画「ベルリン天使の詩」を思い出していました。

人間の女に恋した天使が永遠の命を捨てて人間に堕ちる物語。人間賛歌の映画とされていますが、当時(約20年前)、僕はちょっと違うことを感じていました。それは言葉にすればこういうことです。「人類って、世の平和と秩序を求めて不断の努力を続けているようだけど、天使の世界が体現する平和と秩序の世界って、案外つまらないものなのかもね」。映画では人間になった天使の頭にかつて着ていた鎧が落ちてきて、堕天使は自分の頭から流れる赤い血をうれしそうに眺める(だったと思う)。これが人間の「痛み」ってやつか、と。

なぜこの映画を思い出したのか。多分それは、性差の解消によって差別がなくなった社会が、痛みのない「平和と秩序」の天使世界と重なって見え、性差による痛みと同時に性の歓喜と悦楽も味わえる社会が、現代の人間世界のようにイメージされたからだと思います。

「ベルリン天使の詩」はさらにこうも誤読していけます。「人は生の喜びを得るため、同時に痛みを引き受けたのだ。いや、痛みさえ生の喜びの一部なのだ」と。

そんなふうに当時考えたのも、同じころ売れていたあるニューエイジ本の影響があったのだと思います。表現は違うと思いますが、その本にはこんなことが書いてあった。「人間が恐ろしいこと、愚かなことをやめないのは、それが結局、面白いゲームだからなんだよ。この世界はホラー映画みたいなもので、みんなホラー映画が大好きなんだ…」。

苛烈な苦痛や絶望のただ中にいる人々には何ともお気楽な発想です。でもあまりに邪悪なこと、残酷なこと、愚かなことがこの世からいっこうになくなる気配が見られない理由を考えるとき、そう考えざるを得ないなあ、と。つまり、それは人間がそれを選択してきたからなんだ、と。

さてそこで前述の「?」の箇所です。紀元前からずーっと同じようなことで苦しんできた人間は、苦しみから解放されようとし、それなりの知恵も蓄えてきたはずです。ただそれを有効に行使してこなかった。なぜか。バカだから。いやいや天使になりたくなかったからです。そして人間は永遠にジタバタする。ジタバタすることで人間は人間なのだから。そう言っちゃうと身も蓋もない?ニヒリスティック?それを今言っても仕方ないじゃないか。それはそうだ。

ところで話はまたすごく変わりますが、本の冒頭に少年愛者の相談メールが記されています。彼にこんな反社会的な返信を送ったらどうなるんだろうか、と考えてしまいました。どうなるんだろうか…。

「あなたは不運である。少年愛を法律的、倫理的に禁じる時代と場所に、あなたは不運にも少年愛の欲望をどうしようもなく抱える男性として生きている。時代と場所さえ違えば、あなたの切なる欲望は容易に満たされたかもしれない。あなたは自身の不運を嘆きながら、充たされない欲望に身もだえしながら、その一生を終わるかもしれない。生きる甲斐なく、生を閉じるかもしれない。しかし、あなたはそれ以外の可能性があることを知っている。あなたは自分の実存の根幹をなす自らの性欲を実現することなしに死ぬことはできないと考える。あなたは少年を誘うことができる。誘いに乗らなければ襲うことができる。そして何の罪もない少年に取り返しのつかない傷を与えたという倫理的な責め苦を自ら背負って生きる。あるいは法的な罪をあがなうべく刑に服す。傷つけられた少年が私の息子だった場合、あなたは私によって殺されるかもしれない。それでも、あなたはあなたの実存をかけて少年を襲う。
あなたは、より現実的な選択肢として、この国が保障する自由と経済力にものを言わせ、東南アジアで身を売る少年を人知れず買うことができる。誰にも言わなければ、誰にも責められずに自分の欲望を満たすことができる。あなたはあなたの実存にとって大きな意味を持つものを得るだろう。そして同時に大きな意味を持つ何かを失うだろう。それが何か、今は明確には分からない。そこに踏み出すかどうか。あなたは自ら選ぶことができる」

かつて「人を殺すことはなぜ悪いのか」という問いが一世を風靡(?)したことがありました。さまざまな回答の中で特異な回答が一つあったのを覚えています。誰の回答かは覚えていません。すなわち「人を殺すことが、あなたの実存にとって絶対的な要請ならば、あなたは人を殺すべきである」。

収拾がつかなくなってしまいました。伏見さんの本に刺激されて思いついたことを脈絡なく並べてしまいました。結論などなく、いや、伏見さんが命がけで書いたこの本を多くの人にぜひ読んでもらいたいというのが結論です。

長いメールになりました。添付すると、はじかれるかもしれないと思って張り付けて送ります。

北原みのり[LOVE PIECE CLUB代表]●読後、もやもやした気分が続いている。

 「欲望問題」、むちゃくちゃ「絶妙」なタイミングで手にした。というのも、私、ちょうど、「差別問題って、ものすごーくめんどーだー!」な事態に直面していたものだったから。

 ラブピースクラブ(私が運営しているマンコ持ちのバイブ屋)が出しているメルマガに、一通のクレームメールが来たのだ。「男との同居」を書いているスタッフの連載エッセーに対してで、内容を手短にするとこういう感じ。
「私はバイセクシュアルだが、あなたの男との話は、つまんない、うざい」
 スタッフはそれはそれは衝撃を受けた。やっぱり傷つくよね。うざい、だなんて・・・。悲しむスタッフには「めげないで続きを書くのよ!」 と励ましたのだけれど、私にとっての問題は、ここから、始まった。というのも、そのスタッフが、次のメルマガでの同居話の全面撤回&謝罪しちゃったのだ。
「この異性愛社会の中で、ヘテロの話はありふれてつまらんどころか、抑圧になるのかもしれません。申し訳なかったです」
 あれ? と思った。読者からのメールを読み返しても、「あんたの話は抑圧的じゃ、差別じゃ」とは書いていない。「つまんない、うざい」である。だったら「つまんなくてゴメンナサイ」だろ、とスタッフに聞いた。「なんで謝ったの?」 こういう答えが返ってきた。
「だって。前にも、レズビアンの友だちに言われたから。この異性愛社会でヘテロ話は抑圧的だって・・・」

 セクシュアルマイノリティの運動が間違っていた、単なる言葉狩りになってしまった、と言いたいのではない。この場合、完璧に受け手の問題だ。そしてこれは、そのスタッフ特有の問題ではないように思う。被差別者が一転、差別者として糾弾された時の反応の過剰さ。リベラルであるほど「マイノリティの痛みは正義」と思考停止してしまう鈍感さ。それは特にものめずらしいことではない。差別者になる自分は許せない、という自分への誠実な姿勢が、もっと複雑な「差別」を生み出すという差別スパイラルみたいに。
 そのスタッフは「差別問題」にセンシティブでありたいと生きてきたマンコ持ち、私の信頼するフェミ友、反差別運動に長く関わってきた市民派だ。なんでそんな風に謝っちゃったの? 私の中で、「差別問題、なんでコンナコトになる?」というような、ジリジリした気分が募った。

 そんな時に本書が届いた。だからなのか。おお! そうよそうよそうなのよぉとうなづき、リアルに理解できる箇所、たくさんあった。反差別運動が持つ硬直した感じが、伏見さんの体験からよく伝わった。もちろんそれはフェミとしての私自身の中にもある硬直感かもしれなく、ああ分かる分かる、と思う一方、あちゃ、と首をすくめる箇所もあった。そして、今回の「メルマガ事件」の意味づけから、差別問題への違和感・共感など、私の中で「整理」できたような爽快感があった。
 一方、フェミの「正しさ」への伏見さんの「嫌悪」(に感じた)に共鳴しながら呼んでいると、うっかりフェミを、フェミとしての自分も嫌いになりそうになった。伏見さんはフェミがお嫌なのね・・・と、80年代のフェミ本を取り出して読み返して、あの頃は良かったなぁ、と慰めたくもなった。オヤジは敵! と拳をあげる70年代リブの手記を探しだし溜飲を下げたくなった。そういう意味で、私にとっての「フェミ」、私の「痛み」は、私自身の「癒し」であり「欲望」であるというのは、伏見さん、確かにその通りです、とうなだれたくもなる。
 ・・・と、ごちゃごちゃと、いろんな感情を揺り動かしながら一気に読んだ。

 それでも。読後、もやもやとした気分が続いている。「欲望問題」 それでいきましょう! と、伏見さんの言う「パンクロック」のビートにあわせてイエェーイとは言えない(それを私に期待されているわけじゃないでしょうが)複雑な気分でいっぱいだ。どの箇所に? と言えば、それは「だからフェミはだめなんだ」というような調子のところではなく、「保守的に読める」かもしれない調子の点ではなく、伏見さんが繰り返し語る「社会」ってものに対する視線の「高さ」に、最後までついていけなかったからだと思う。
 
「(他者の欲望をできるだけ可能にする議論、そして)その結果が社会の成り立ちと維持に矛盾しないように、いっしょに考えていく、それが大切だと思います。そういう場として、ぼくはこの国を他の人々と共有していきたいと思います」
 政権放送のように、本書の伏見さんの言葉はキラキラと眩しい。「責任」を持つ大人、とはこういう感じなのだろうなぁ、と私は遠い目になる。私自身は「社会は敵だーころせー」とか、そんなすてきな言葉を吐きたいわけじゃないけれど、「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」という本書の副題を借りるならば、「人は社会を維持するためだけに生きているのではない」とやはり言いたくなる。
 「社会を維持する」とか「社会に責任を負う」とか「社会を営む」という伏見さんの言葉の数々の「主語」に、私はいるのか、いるんだろうなぁ、いるんだろうけどなぁ・・・・というモヤモヤが、読後、消えないで残っている。そのモヤモヤの正体を、私も伏見さんみたいに「誠実に考えよう」と思う。
 

●きたはらみのり
1970年、神奈川県生まれ。1996年、日本で初めて女性が経営するセックスグッズショップ
LOVE PIECE CLUB(http://www.lovepiececlub.com/)を立ちあげる。同代表。

【著書】
ブスの開き直り/新水社/2004.9/¥1,400
ガールズセックス(小田洋美、早乙女智子、宗像道子との共著)/共同通信社/2003.10/¥1,300
オンナ泣き/晶文社/2001.4/¥1,600
フェミの嫌われ方/新水社/2000.8/¥1,400
男はときどきいればいい/祥伝社文庫/1999.6/¥533
はちみつバイブレーション/河出書房新社/¥1,200