欲望問題出版記念プロジェクト

◎筒井真樹子さんのホームページで書評掲載

2007-07-18 ポット出版

◎筒井真樹子さんのホームページで書評掲載
http://homepage2.nifty.com/mtforum/br007.htm

『欲望問題』『男はどこにいるのか』発刊記念トークセッション「オトコ談義」のご案内

2007-06-22 ポット出版

『欲望問題』『男はどこにいるのか』発刊記念トークセッション「オトコ談義」のご案内

藤井誠二【ノンフィクション作家】●ダメになった左翼に読ませたい!?

2007-06-13 ポット出版

 伏見さんのお仕事は一貫して、自らが身を置くマイノリティの側から社会に向けて強い言葉を発信をしながら、すぐに自分の言葉を相対化し、自身が属するマイノリティ内部に向けて疑問を投げかけたりもする。自分たちマイノリティを「理解」しようとする第三者や、あまりに原理主義的になっている「味方」の人々に対しても辛辣な言葉をぶつける。そういう立ち位置を背負ってこられたという印象があります。だから当然、ときどき返り血を浴びるようなこともあるはずで、逆に言えばそれがそのマイノリティ全体が活性化し、思想的に成熟していく原動力になっているのだろうと思います。

 マイノリティが社会から受ける差別や無理解、さまざまなプレッシャーと鋭く対峙してときにはね返したり、変えていくためには、一定の「社会運動体」を牽引する必要があります。同性愛者の多岐にわたる社会運動が理論的な武装をし、成熟をとげ、広範な支持を得ることができていったのも、そうした伏見さんの自由な立ち位置が確保されてのことだと思います。

 私はノンフィクション作家としてマイノリティを取材することが多い。伏見さんのような当事者ではありませんが、私が取材する対象もマイノリティとしてなんらかの社会運動を起こしているものばかりでした。最近では「犯罪被害者」というマイノリティがどう政治的に権利を保障されるか、どう司法に参加をすることができるかという運動の第一の目標点に達しようとしています。ぼくはその渦中にノンフィクションの書き手として関わってきています。

 そういう日本のマイノリティの運動はたいがい左翼が担ってきました。ですが、左翼の最も悪いところは内部での論争や批判を許容できないところです。政党であれ、市民グループであれ、労組であれ、連合体でも同じ体質を持っています。だから世の中の現実の変化に対応することができず、いまや月刊誌に「グッとくる左翼」なんて特集を組まれて面白がられている(でも完売だとか)存在になりさがっています。

 マイノリティだった運動体や自浄能力を持てないまま肥大化し、利権集団と化したり、理念を唱えるだけで現実に起きている課題に対応できない化石のような所帯になったりしていきました。与党に批判が高まっても、左翼政党に票がいかないことについても、自己正当化と与党を攻撃するだけで冷静な自己分析ができないほどダメになっている。その答えが『欲望問題』には記されていると思いました。そしてこの本には、世の中の価値を変える、あるいはつくりかえるために、かつ傲慢にならないための知恵と経験が詰まっていると思います。

 吉田司さんの『ひめゆり忠臣蔵』ではありませんが、いかなるマイノリティのなかにいても、声を上げずにはいられない差異にこだわりぬく感性こそ、伏見さんの真骨頂だと思っています。日本の左翼はそういう感性や発言を基本的に嫌い、与党のようなぬるま湯状態を毛嫌いしてきました。でもそれが昨今の左翼の弱体を招いたのです。『欲望問題』をいまの私が読むとそういう思考ばかりが浮かんできてしまいます。逆に言えば、マイノリティの運動がどうすれば拡大や思想的成熟をしていくことができるのかというヒントもつまっているのだと思いました。

【プロフィール】
ふじいせいじ●1965年、愛知県生まれ。ノンフィクション作家。

【著書】
殺された側の論理/講談社/2007.2/¥1,600
少年犯罪被害者遺族/中公新書クラレ/2006.12/¥740
風光の済州島「漂流」(荒木経惟との共著)/アートン/2004.10/¥2,381
こころのブレーキがきかない(編著)/日本放送出版協会/2004.7/¥1,400
わが子を被害者にも加害者にもしない/徳間書店/2003.12/¥1,500
500万で家をつくろうと思った。/アートン/2003.11/¥1,500
この世からきれいに消えたい。(宮台真司との共著)/朝日文庫/2003.10/¥520
人を殺してみたかった/双葉文庫/2003.4/¥524
いつの日にかきっと 映画「夜を賭けて」に賭けた若者たち/アートン
/2002.12/¥1,200
暴力の学校 倒錯の街/朝日文庫/2002.11/¥740
学校が自由になる日(宮台真司、内藤朝雄との共著)/雲母書房/2002.9/¥1,800
17歳の殺人者/朝日文庫/¥2002.8/¥700
少年に奪われた人生/朝日新聞社/2002.8/¥1,300
開国マーチ(荒木経惟との共著)/実業之日本社/2002.7/¥1,900
コリアンサッカーブルース/アートン/2002.5/¥1,100
殺人を予告した少年の日記/ワニブックス/2001.9/¥1,700
「脱社会化」と少年犯罪(宮台真司との共著)/創出版/2001.7/¥800
少年の「罪と罰」論(宮崎哲弥との共著)/春秋社/2001.5/¥1,800
教師失格/筑摩書房/2001.4/¥1,800
リアル国家論(宮台真司、宮崎哲弥、網野善彦、姜尚中らとの共著)/教育史料
出版会/2000.8/¥1,800
学校の先生には視えないこと/ジャパンマシニスト社/1998.8/¥1,600
〈性の自己決定〉原論(速水由紀子、宮台真司らとの共著)/紀伊國屋書店
/1998.4/¥1,700
学校的日常を生きぬけ(宮台真司との共著)/教育史料出版会/1998.4/¥1,600
18歳未満「健全育成」計画/現代人文社/1997.12/¥2,100
など多数

◎日本性教育協会の『現代性教育研究月報』2007年5月号に書評が掲載されました。

2007-05-17 ポット出版

◎日本性教育協会の『現代性教育研究月報』2007年5月号に書評が掲載されました。

長田真紀子さんの書評コラム(Love peace clubのサイト内)で取り上げられています。

2007-05-14 ポット出版

長田真紀子さんの20070404付の書評コラム「批評は読んでからにしろ」Love peace clubのサイト内)で取り上げられています。([2007/04/04] 反論するのは命がけ『欲望問題』伏見憲明の表示をクリックしてください)

◎北海道新聞で掲載された香山リカさんの書評が同新聞ホームページで公開されています。

2007-05-08 ポット出版

◎北海道新聞で掲載された香山リカさんの書評が同新聞ホームページで公開されています。
http://www5.hokkaido-np.co.jp/books/20070325/1.html

◎宮崎留美子さんのホームページで書評掲載「欲望問題を読んで共感したこと」

2007-04-25 ポット出版

◎宮崎留美子さんのホームページで書評掲載「欲望問題を読んで共感したこと」
http://miyazakirumiko.jp/Essey110.htm

小倉康嗣[社会学者]●参与する知へ━━大地に足を着けて、ただ純粋に生きていくために

2007-04-22 ポット出版

 僕は『欲望問題』を、「知」と「生きること」のつながりを問い、そこに「参与する」ための回路を切り拓いていく試みとして読んだ。

 僕は学問の世界の人間の端くれであるが、昨今の一部のアカデミズムの雰囲気に、ある違和感を感じていた。当事者性をうたう言説やマイノリティ(弱者)に寄り添う言説、あるいは研究者の政治的立場性を問う言説が増産されているが、それはたんにそういう「ポーズ」が巧妙になっただけで、結局は、研究者コミュニティという小さなコップの中だけで通用する言葉を空回りさせているだけではないか。もしかしたらそれは、偽善の巧妙化という妙な事態を招いてしまっているのではないだろうか。そもそも学問は「いかに生きるか」という実践的な問いとともにあったはずだが、「ポーズ」が巧妙になったぶん、かえってその問いと正直に向き合う愚直さを忘れてしまっているのではないか。そんな違和感である。

 そんなとき、『欲望問題』が刊行された。この本は、そんな僕の違和感をシンプルな言葉でひとつひとつ読み解いてくれた。

 僕がこの本から受けとったメッセージを端的に言うならば、「いかに生きるか」という生き方の次元では、いろんなことが自分と地続きになり、誰もが当事者になる。その根っこの次元にまで降りていこう。そして、そこから立ち上がるコミュニケーション(相互了解やつながり)の可能性を見いだしていこう、というメッセージである。

 たとえば「ゲイ」というカテゴリーに属するかどうかという次元では当事者じゃなくても、生きづらさや苦しみ、あるいは快や喜びの経験のなかで自らの居場所を見いだしていかんとする「生き方」の次元では、誰もが当事者ではないだろうか。たとえ同じカテゴリーに属しているという意味での当事者性だとか、同一の理念を共有していなくても、存在可能に向かって懸命に生きんとする生き方の次元にまで降りていくと、そこに経験の重ね合わせの可能性が生まれ、「自分ごと」(=当事者)として了解されてくる。そこから新たなコミュニケーションの可能性がひらけてくるかもしれない。

 実際、伏見さんはこの本のなかで、小児愛者の経験と(小児愛者ではない)自らの経験とを重ね合わせ、そこに横たわる地続き性を感受していく。「小児愛者」というカテゴリーの次元では当事者じゃなくても、生き方の次元にまで降りていくと、小児愛者の経験が痛いほど「自分ごと」として感じとられてくる。「あそこにいたのは自分だったのではないか」(p.14)と。そんな了解を深めていくなかで「ぼくもまたこの社会に責任を負った」(p.61)という自覚を強めていくのである。

 伏見さんはこの本で、差別問題、ジェンダーフリーの問題、脱アイデンティティの問題といった個々具体的な問題をあつかっている。けれども、それらは訴えたいことの間口にすぎないのではないだろうか。むしろ、この本で強く訴えられていることは、それらの問題を「欲望問題」として仕切りなおすことで、「いかに生きるか」という生き方の次元にまで降りていき、自分と地続きな関係性の網の目に「参与すること」なのではないだろうか。そしてこの本は、そのための根本原理を探求した本なのではないか。

 90年代のゲイ・ムーブメントの初期に「ぼくの中ではまだ『社会は敵だ』という意識が強かった」(p.44)伏見さんが、「敵だと思っていたものに自分の『痛み』も可能性も与えられていた」(p.52)ことに気づき、「そのときになってやっと、ぼくはこの社会を他の人たちとシェアしている感覚を得られた」(p.55)という。これは決して保守的な物言いではない。むしろ、こういう感覚のなかから問題が提示されるとき、マジョリティが対岸の火事とみなしがちなマイノリティの問題も「自分ごと」として受けとめられてくる、そのラディカル(根源的)な地平を照射した物言いであろう。「欲望問題」として仕切りなおすとき、マイノリティにとっても、マジョリティにとっても、社会が自らの「生き方」に切実に関わってくるものとして(つまり、「参与しうるもの」として)、受けとめられてくるのだ。

 むしろ問題なのは、参与しないポジションからの批判や告発であろう。冒頭に述べた、僕が一部のアカデミズムの雰囲気に感じていた違和感も、そこに端を発しているのかもしれない。

 たとえば、僕が属している社会学界とのからみでいえば、「客観性」や「政治的正しさ」の御旗のもとに、学問主体である研究者自身が、自らの学問の足元に横たわっているはずの「いかに生きるか」という実践的問いと(つまり自分自身と)向き合わずにきたのではないか。「客観性」の御旗は、決められた手続きで「実証」さえすればいいという態度を再生産し、(流行理論を振りかざす研究にありがちな)「政治的正しさ」の御旗は、「懐疑」さえすればいいという態度を再生産しつづけてきた。それは、ポストモダン思想による「客観性」(あるいは「超越性」)批判を経たあともなお、当事者性をうたうポーズとは裏腹に、研究者コミュニティという小さなコップの中で超越的に措定された「他者」「倫理」「正義」といった理念を盾にすることによって、自らの学問の足元(=生き方の次元)を掘り下げることをしてこなかったのではないか。つまり、自分と地続きな関係性の網の目の当事者として参与してこなかったのではないか。

 「知」が生成される学問活動の土壌は、人びとの生活経験の土壌と地続きであり、研究という営みはその「地続きの土壌」において実践的=参与的に検討されていくべきものであろう。そして学問主体たる研究者も、研究者である以前に生活経験をもったひとりの生活者であることに変わりはない。その意味で、「知」の最終判定人は現実を生きている生活者である。

 そういった学問姿勢をつらぬこうとするとき、そこから引き出されてくる知見の確からしさも、妥当性も、この「地続きの土壌」における人間相互のかかわりあい(コミュニケーション、相互了解)としてしか成り立たない。翼をもち空高くから見えた(ような気になった)超越的な視界も、大地に生きる僕たちがよりよく生きるために生かされるものでなければ「絵に描いた餅」である。それを生かすためには、大地まで降りてその生かし方を検討し合うことが必要なのである(むしろ問題とすべきは、その検討し合う場で、皆が参与可能なコミュニケーションが行なわれているかどうかということであろう)。

 そのためには、研究者も、研究対象ばかりに語らせるのではなく、なぜその研究をし、どういう問題意識をもち、それが自身の欲望や経験や実存とどう関連しているのか、自らの研究の根っこにある自分自身を語らねばなるまい。そこからしか「地続きの土壌」でのコミュニケーションは始まらないからだ。『欲望問題』は、まさしく著者自身の欲望や経験や実存を切開しながら、そのことを問うている。だから「命がけで書いた」作品なのだ。そして「命がけで読んでほしい」という帯の言葉は、理念や理論という盾でごまかさずに、自分と正直に向き合い、純粋に自分を入れ込んで読んでほしい、つまり参与してほしいというメッセージなのではないだろうか。

 「知」も人間の経験的所産であることにかわりはない。理念や理論といった「知」の上澄みだけを一足飛びにとりだして消費するだけでは、それを本当に理解し生かすことはできないだろう。「知」が生成される現場である「地続きの土壌」にまで降りていくことが必要なのである。この本には、著者が自らの経験と向き合い、おのれと時代とを切り結びながら、現在の思想を形成するに至った経験のプロセスが正直に、ありありと開示されている。そこに、「知」が生成される土壌たる「経験の大地」がある。

 ポストモダン思想による批判以降、理論的にも方法論的にも従来の枠組みの問い直し(脱構築)の議論は盛んになされてきた。しかし大事なのは、そこからどこに向かうか(どう生きていくか)、である。あとは「経験の大地」にしっかり足を着けて、現実によって試されながら、「生成」と「創造」に向かってただ純粋に生きるのみである。

【プロフィール】
おぐらやすつぐ●1968年生まれ。社会学者。立教大学・東京情報大学・東京外国語大学・慶應義塾大学非常勤講師。エイジングやライフストーリーをめぐる社会学的研究を軸に、現代日本人の生き方の可能性を探りながら、<生き方としての学問>への方法論についても探究している。

【著書】
高齢化社会と日本人の生き方——岐路に立つ現代中年のライフストーリー/慶應義塾大学出版会/2006.12/¥5,880
社会調査入門——量的調査と質的調査の活用(K・F・パンチ著、共訳)/慶應義塾大学出版会/2005.2/¥7,350
同性愛入門[ゲイ編]——Welcome to the GAY Community(共著)/ポット出版/2003.3/¥1,760
定年のライフスタイル(共著)/コロナ社/2001.4/¥1,785
フィールド・リサーチ——現地調査の方法と調査者の戦略(L・シャッツマン=A・L・ストラウス著、共訳)/慶應義塾大学出版会/1999.6/¥2,730
近代日本社会学者小伝——書誌的考察(共著)/勁草書房/1998.12/¥15,750

掛谷英紀◎「後ろめたさ」の倫理

2007-04-20 ポット出版

 この本を読んで、真っ先に思い浮かべたのは、3月18日の朝鮮日報で紹介されていたレイモン・アロンの次の言葉である。「正直で頭の良い人は左派にはなれない。」

 著者の誠実な人柄は、文章の端々から滲み出る思いやりや労わりの情から十分過ぎるほど伝わる。また、著者の頭の良さは、これ程難しい問題を易しい言葉で表現できることからも疑いようがない。難しいことを難しく語れる人は、大学には私も含め余るほどいるが、それは頭のよさが足りないことの証でもある。正直で頭の良い著者は、フェミニズムという左派思想といずれ決別する運命にあったというのは言い過ぎだろうか。

 「左派」を本書に即して定義すれば、「われわれマイノリティは常に正しい」というイデオローグである。しかし、他者を尊重する心を持つ者が「われわれ」の外とのコミュニケーションを続けていけば、そのイデオロギーが間違いであることに気づくのは時間の問題である。

 本書の指摘は、既に多くの論者によって指摘されてきたことの焼き直しに過ぎないとの批判はあるだろう。それでも、私がこの書に大きな価値を見出すのは、「頭の良くない」左派の人たちが、本書を読むことで「頭を良くする」ことが可能と思われるからである。実際、極端な左派と位置づけられるような人々からも、この書には好意的な書評が寄せられている。同じ問題を指摘してきた従前の書には、そのような力は全くなかった。

 では、この書で与えられた指針によって、マジョリティとマイノリティの和解は常に可能といえるだろうか。残念ながら、その答えは「ノー」だろう。なぜなら、世の中には「正直でなく頭の良い」左派も存在するからである。彼らは、「われわれマイノリティは常に正しい」というテーゼが間違いであることは十分理解している。しかし、そのテーゼを看板に、自分に都合の良い結果を引き出せる限り、彼らは嘘を言い続ける。そのようなソシオパス(良心をもたない人)たちとの和解はまず不可能だろう。

 それでも、絶望する必要はない。われわれは民主主義の世の中に生きている。不正直な人がごく少数であれば、正直者集団による和解の結果を、世の中のスタンダードとしていくことは可能である。マーサ・スタウトによれば、ソシオパスは25人に1人とのことである。であれば、正直者に十分勝算はある。

 もう一つ、この書が高く評価されるべき点は、著者が吐露し続ける一種の「後ろめたさ」の感情である。養老孟司氏は、著書『超バカの壁』で「後ろめたさとずっと暮らしていく、つき合っていくというのが大人」であると述べている。とすれば、著者は最も大人らしい大人の一人であろう。こういう大人が今の日本の論壇には少ない。

 最近、リベラリストが、選択の自由と基本的人権の尊重を二枚看板に掲げつつ、自由に溢れた理想郷を語るのをよく見かける。彼らは、「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい」と言う。しかし、その議論は「普遍性テスト」を経ていない。少数の人がその選択をした場合は迷惑をかけなくても、多数の人がその選択をすると社会が立ち行かなくなるものもある。実は、同性愛もフェミニズムも、ともにそういう側面を持つ。これは、それらのコミュニティに繁殖能力がない(あるいは低い)ことによる。多数の人が次世代の人間を産み育てる行為から降りてしまうと、高齢者福祉をはじめとする基本的人権の維持は不可能となり、リベラリズムは破綻する。

 もちろん、だからといって、選択の自由に制限をかけるのは不当である。ただ、その一方で、それらの選択をあくまでも一部の例外としておかなければ、社会全体にダメージを与える点も忘れてはならない。現在の世論が性的マイノリティには親和的で、フェミニズムに敵対的であるのは、性的マイノリティは自らの存在が例外であることを承認する一方、フェミニズムはそれを良しとせず、自らのイデオロギーを社会全体に押し付けているからだろう。現在のフェミニズムは、男女共同参画という形で政府に入り込み、市民の私的な選択にまで干渉し始めている。多様な生き方が共存する社会を目指していたはずのフェミニズムが、いつの間にか、特定の行き方を強要する全体主義の担い手へと変貌してしまったのである。これは、フェミニストたちに後ろめたさの情が欠如していることに起因していると言えよう。

 こういうと、私は性的マイノリティやフェミニストだけに後ろめたさを強要しているように聞こえるかもしれない。もちろん、そんなつもりはない。私自身も、自らの著書において、「学歴エリート」としての後ろめたさを背負って生きることを宣言している。
 学歴エリートの行動様式を全ての人に押し付けることで社会が不全に陥ることは、過去の啓蒙主義が失敗を繰り返してきたことからも明らかである。その意味で、学歴エリートも後ろめたさを持たねばならない集団である。しかしながら、被差別集団となる機会が少ないせいか、学歴エリートは後ろめたさを感じる能力に最も乏しいマイノリティとなっている。これが学歴エリートの暴走を生む。フェミニストに学歴エリートが多く、また学歴エリート集団の外でフェミニズムが共感を勝ち得ない理由もここにあると考えられる。

 次にわれわれが目指すべきことは、伏見憲明氏が「立派な人」ではなく「普通の大人」と称される社会を作ることではないだろうか。そのためには、後ろめたさの文化を社会全体に浸透させる必要がある。それに成功したとき、当たり前のことを「命がけ」で書かなければならないような時代は終焉を迎えるであろう。

【プロフィール】
かけやひでき●1970年生。筑波大学講師。メディア工学の研究の傍ら技術者倫理教育にも従事。著書に、日本の「リベラル」(新風舎)、学問とは何か(大学教育出版)、学者のウソ(ソフトバンク新書)がある。

神名龍子◎理よりも利

2007-04-13 ポット出版

『欲望問題』は、私がこの10年間に渡って考え続け、発信し続けてきたことが、私よりもずっとわかりやすく、そして私よりもずっと穏当に(笑)表現されている。

「差別問題」の「欲望問題」への置き換えと同じことを、私は「理よりも利」と表現してきた。ここでいう「理」とは、たとえば第2章で言及されているフェミニズムのようなイデオロギーと考えていい。「利」とは欲望追及やその実現に他ならない。社会運動の動機とは、人が世の矛盾や非合理にぶつかったとき、その解決を目指すことであるはずだ。

しかし従来の反差別運動には致命的な問題点がある。それは、何らかの絶対的な「正義」を掲げてしまうということ。これは必然的に「自分が正義をにぎっているのだから、自分と意見を異にするものは悪である」という考え方になる。

フランス革命直後の恐怖政治やスターリニズムも、基本構造はこれと同じことだ。ヘーゲルは『精神現象学』の中で、このようなあり方を「民意を問う手続きの欠如」と喝破した。

本書に寄せられた書評でいえば、加藤秀一氏の「そもそも利害対立の調停など不可能である」という意見は、まさにその典型かと思う。このような考えは加藤氏のいう通り、必然的に「正義」と呼ばれる「超越的」基準を要請することになるが、ではその「超越的」基準を誰が定めるのかという問題が生じてしまう。

「差別問題」では、その「誰か」とは「弱者」であり、つまりは「弱者」の特権化という話になってしまう。しかしそれならば、反差別の主張において「平等」を唱えることは、なんと欺瞞にみちた行為であろうか。

しかもこのような問いの立て方では、結局のところ、誰が「正義」をにぎるにふさわしい特権者(=弱者)になるのかという問題が生じる。これもまた「調停不可能な利害対立」と考えるならば、最終的には弱肉強食だけをルールとする、パワーゲームを演じるよりほかない。恐怖政治やスターリニズムに粛正がつきものなのはこのためだ。

しかし私の考えでは、利害対立が調停不可能なものに見えてしまうのは、「超越的」基準としての「正義」を要請することに原因がある。

たとえば中世ヨーロッパではキリスト教道徳は「超越的」基準としての「正義」だったが、このキリスト教道徳という「正義」が支配していたからこそ、ゲイは社会と和解することが不可能だったのではないか。キリスト教道徳のみならず、カントの形而上学的道徳論や、その現代版の焼き直しともいえるロールズでも同じことだが、いずれも「民意を問う手続きの欠如」という欠陥を持つ以上、「正義」とは抑圧を正当化するための大義名分に、容易に転化する。

私の場合には最初からフェミニズムにはコミットできなかったので、伏見氏のような「転向」の経験もない。その理由をとりあえず3つ挙げておく。

まず差別の問題を考える以前から「理よりも利」という考え方を持っていたということ。これは私は司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』から学んだ。具体的には薩長連合の話である。

第一次長州征伐の際には、薩摩藩は幕府側についており、西郷隆盛などは幕軍の参謀だったから、長州は当然薩摩を憎悪する(それ以前に薩摩が会津と手を結んで長州を京から追い落としたという経緯もある)。薩摩は薩摩で「長州は毛利幕府を作るつもりではないか」という疑念があり、両者は政治的には調停不可能な対立関係にあった。この当時、誰もが「理」(政治的イデオロギー)の側面の状況から、薩長の同盟は不可能だと判断していた。

ところが第2次長州征伐を目前にして、坂本竜馬が薩摩名義で長州に武器を買ってやり、長州からは薩摩に米を送らせる。「理」を棚上げして、鉄砲や軍艦、米などが行ったり来たりしているうちに両者の感情が和らぎ、互いに手を結ぶことの「利」を悟るようになる。

一握りの頑固なイデオロギストを除けば、人々が「理」にしたがって行動するのは、それが自分の「利」につながっていると確信できる限りの話なのだ。

私がフェミニズムにコミットできなかった、2つ目の理由は、ゲイと違ってトランスジェンダーや性同一性障害が、性を変える存在だからだ。この場合、多くのフェミニストに見られる「男女対抗図式」は非常に困る。この図式にしたがって考えると、トランスジェンダーは敵対するカテゴリーの一方からもう一方への「寝返り者」という話になってしまうからだ。

それでも私のようなMTFならばまだ救いがある。「男=悪(ショッカー)」を裏切り、「女=善」の側について積極的に「フェミニズム=正義」にコミットすれば、ちょっとした仮面ライダーの気分を味わえるかも知れない(笑)。しかし、これではFTMはまったく立場がなかろう。そもそも「男女対抗図式」が性別についての真理だとは、今も昔もまったく実感できないのだ。

3つ目には、フェミニストが唱える「性差否定」にまったく賛成できないということだ。これにはさらに2つの理由があって、まず「差別」についての考え方である。確かに差別は差異を利用して行なわれるが、差異が差別の本質であるわけではない。もちろん、性差が性差別の本質であるわけでもない。したがって性差別をなくすために性差を否定しなければならないという主張には、まったく妥当性を感じない。

もうひとつは、そもそもトランスジェンダーや性同一性障害が、性差を前提とした「欲望」の問題であるということだ。たとえば性同一性障害の当事者が「私は男ではなく女だ」というとき、この発言は「男と女は違うものだ」ということを自明の前提としている。

したがって性別(それがセックスであれジェンダーであれ)の否定ないし相対化が、トランスジェンダーや性同一性障害の当事者にとって何の救いももたらさないことは明らかだ。そもそも根本的に前提が異なるからだ。性差の否定が、実は性差別の解消にとって必須ではないということに気がつけば、フェミニズムという「正義」にはまったく用がない。

では具体的に、「利」の側面からどのように性同一性障害の当事者とマジョリティーとの利害調停が可能なのか。当たり前の話だが、両者に共通する利害を見つければよいのである。

これまで、セクシャルマイノリティーは自身を説明するに当たって、自分(たち)がマジョリティーとどう異なるのかという点に力点を置いてきたように思う。私は逆に、一見して異なる両者の間に、性というものをどの程度に掘り下げて考えれば共通点が見つかるのかということを考えてきた。共通点である以上、マジョリティーもそれを手がかりにいて、セクシャルマイノリティーに共感することが可能なはずである。

ここで私の考察はいちいち書かないが、代わりに本書で伏見氏が挙げている例から一つ取り上げてみれば、「フケ専だって、デブ専だって、ロリコンだって、萌え系だって、巨乳好きだって…」(P11)というのがそれに当たる。好みや性癖というものは、「こういう好みになろう」と思ってなるわけではない。それはセクシャルマイノリティも、いわゆるマジョリティとされている人達でも、同じことなのだ。「一見して特殊に見えるセクシャリティにもみなさんと同じ基本構造がありますよ」という指摘はきわめて重要なものだ。

これは前述の、「トランスジェンダーや性同一性障害が性差を前提としている」ということにもいえる。実は現在、保守派からのセクシャルマイノリティの差別はほとんどない(皆無とはいわないが)。しかし、それとは別に不幸な誤解が存在する。それは「セクシャルマイノリティはジェンダーフリーの賛同者だ」という誤解なのだ。保守派がセクシャルマイノリティを批判する場合、背景にはこの誤解がある。

なぜこんな誤解が生じたのかといえば、ジェンダーフリー教育で性の相対化をする際にセクシャルマイノリティを例に挙げることが多いということと、実際にジェンダーフリーにコミットするセクシャルマイノリティが存在するからだ。しかし、

・ゲイやトランスジェンダー等の多くのセクシャルマイノリティのカテゴリーが「性別二元制」を前提としていること

・ジェンダーフリーにコミットしているのがセクシャルマイノリティの中でもさらにラウドマイノリティーであること

などを冷静に説明すれば、この誤解はかなり解ける。現に私はこの説明で、保守系の有名オピニオン誌の編集者をはじめ、何人もの人々の説得に成功している。この場合は「性差否定」に反対することが互いの共通の利益になっているといってもよい。

他にこんな例もある。性同一性障害の当事者の、戸籍上の性別変更がまだ認められていなかったころ、その実現を目標としていた時の話だ。戸籍上の性別変更の実現は、「当事者にとっての利益の追及」という視点からのみ主張されることが多かった。これを、マジョリティとの共通利益の問題として立て直したのである。

戸籍上の性別変更が認められないと、身体は女性だが戸籍上は(したがって法的には)男性という人が増えつづける。そういう人が強姦の被害に遭っても、法的には強姦罪が成立しない(強制猥褻は成立するが)。では女性が強姦被害に遭ったとして、犯人が「女性ではなく性転換した男性だと思って襲ったのだ」と言い張ったらどうなるか。この供述では犯人には「強姦」の犯意はなかったことになるが、強姦罪には過失の処罰規定がない。したがってこの場合、強姦罪は成立せず、強制猥褻で立件するしかない。しかしこうしたことが度重なれば、やがて強姦罪は有名無実化してしまう。これは社会秩序の維持という点から、重大な問題ではなかろうか。

相手にもよるが、保守派であるほど社会秩序を重視するから、これは通用しやすい。「身体は女性だが戸籍上は男性」(あるいはその逆)という人間が増えると社会秩序や性の秩序が混乱するだろうから、身体と戸籍を合致させた方がよいのではありませんか、というのである。このようなプレゼンテーションによって、戸籍上の性別変更の実現は、単なる「当事者にとっての利益の追及」ではなく、「マジョリティとの共通利益の問題」になる。

これはおそらく「マイノリティとマジョリティの対立図式」を自明の前提としている人達には考えつかないだろう。

だが、マジョリティに向かって「私たちの考え方と、あなたたちの考え方は対立するものだ。我々の考えの方が正しく、あなたたちが間違っている」というのと、「これが私たちの希望でもあり、あなたたちの利益でもある」というのと、どちらが話が通りやすいか。

だから私は「理よりも利」というのである。社会運動それ自体が目的化しているような人たちは別にして、少なくとも問題の解決を目指すための活動なら、最終的に「利」が得られなければ何の意味もないからだ。

●フェミニズム批判について

保守派からのフェミニズム批判(ジェンダーフリー批判)が、「性差否定」や「過激な性教育」についての批判だというのは、本書で指摘されている通りではある。しかし、フェミニズム各派が華やかに(?)百家争鳴を演じていた80年代には、このような状況は存在しなかった。それはなぜか。

フェミニズムが何を考えようと、それが仲間内での妄想であったり、象牙の塔の中で現実から乖離した思想が叫んでいるぶんには、それはたいした問題ではない。後者は、大学の存在意義や「そもそも学問とは何か?」という観点からは問題なのだが、さしあたって人々の生活を直接に脅かすものではない。そうである限りは、これほど批判の声があがるわけがないのである。

問題は、男女共同参画社会基本法の成立以降、フェミニストが行政や教育などの分野に入り込んで、「性差否定」や「過激な性教育」を人々に押し付け始めたということにある。

もちろんフェミニズムの「中身」に賛同できないからこそ、保守派は批判の声をあげるのだ。それは間違いないのだが、本質的には、その賛同できない思想を「公権力によって人々に押し付ける行為」こそが、保守派によるフェミニズム批判の対象であるといってよい。

また、ジェンダーフリーが「性差否定」か否かということは本書でも取り上げられているが、私の記憶では、フェミニストが「性差否定を目指しているのではない」といい始めたのは、およそ2000年前後から以降のことではなかったかと記憶している。「性差が性差別の原因なのだから性差をなくさなくてはならない」という主張は、それ以前には当たり前に存在していなかっただろうか?

2000年前後というのは「フェミニズムは性差を否定する」という批判の声があがり始めた時期と一致している。そこでフェミニストが「性差否定を目指しているのではない」といいだしたのは、「性差否定」が世の男女の大半から支持されないということを自覚しているからだろう。

ところが「性差否定を目指しているのではない」というのは、あくまでも表向きの発表に過ぎない。伏見氏が本書で、

>よく誤解されるのは、ジェンダーフリーだから男女の便所は同じでいいのとか、風呂もいっしょでいいのかと攻撃する人がいるのですが、それはフリーではなく、ジェンダーレスというんですね。(P109)

と引用しているように、現在では「ジェンダーフリーとジェンダーレスは違う」という表現が好んで用いられる。

もっとも、この引用の直前には瀬地山角氏の名が挙がっているのだが、彼は伏見氏が引用したのとは別のところで、「トイレ一つとってもすごい装置、トイレを通じて私たちが男であるか女であるか確認させられる、問いつめられる装置なんだ、ということに思い至ってほしい。」という発言もしている(『人権尊重都市品川宣言10周年記念 男女平等推進フォーラム ハートフルしながわ2003《みんなちがってみんないい》』、2003年12月12日)。さて、トイレを暴力装置だというのはジェンダーフリーなのか。それとも瀬地山角氏はジェンダーレス論者だということでよいのだろうか?

それはさておき、実は「ジェンダーにとらわれない」ということは「ジェンダーレス」と同義なのである。

たとえば、男性でも女性でもよいが、誰かある人が自動車を買おうと思いついたとする。そのとき「オレは男だからトヨタを買う」とか「アタシは女だから日産を買うわ」という人は、まずいない。つまり、どの自動車メーカーを選ぶかということは、性別(それがセックスであれジェンダーであれ)とは無関係に選ぶ。こういう場合、メーカーの選択を「ジェンダー」とは呼ばないだろう。

これと同じように、「ジェンダーにとらわれない」とか「ジェンダーからの自由」ということを突き詰めれば、必然的にジェンダーはなくなる(ジェンダーレスになる)のである。なぜなら、ジェンダーはモノではなくコトだからだ。「ジェンダー」が人々から忘れられた状態でさびしくゴロンと転がっているということには、絶対にならない(笑)。

両者が同義である以上、「ジェンダーフリーとジェンダーレスの線引き」は無意味であろう。むしろ必要なことは、「ジェンダーフリー=ジェンダーレスが必要な領域」と、そうではない領域との線引きとを考えることだと思う。しかしそれには、まず「差別」について考える必要がある。

●「差別」について

「差別」とはさしあたり、「あるカテゴリーに不合理に劣位の価値付けをすることで、自分をそのカテゴリーに属する人よりも高位に置き、それによってアイデンティティ補償をすること」だといえる。つまり、確かに「差別」は差異を利用して行なわれるが、差異が「差別」の本質であるわけではない。

「差別」を考える上で重要なことは、「カテゴリーに対する合理・不合理の基準」と、「差別の動機」なのである。

ここで重要なのが、近代社会の基本原理である「法の下の対等」と「機会の平等」だ。たとえば同じ交通違反をしたのに、男性は反則切符を切られ、女性は見逃してもらったということがあれば、これは誰でも不公平だと思うだろう。また国立大学を受験するのに、男性はセンター試験で700点以上、女性は800点以上をとらなければならないという決まりができたら、フェミニストでなくても「それはおかしい」と思うのではないだろうか。

さらにいえば、このような社会原則が存在しなければ、「差別」という概念が存在しない。江戸時代に商人の家の子に生まれても、「士農工商」を当然の社会秩序だと思っていたら、そこに「差別」という判断は生じようがない。

つまり「カテゴリーに対する合理・不合理の基準」ということでいえば、これは「法の下の対等」と「機会の平等」がどれだけ現実的に解決可能かという問題になる。

昔の婦人参政権運動などはその典型だろう。タテマエでは近代社会であるはずなのに、その実現が充分とはいい難いから(女性に参政権がないから)、それをなんとかしろというのは、必然的に生じた運動だったと思う。

ところが社会の原理を、まったく別の原理に立脚する「家庭」という領域に持ち込むと、おかしなことになる。家事を男女が半分ずつ行なわなければならないという「原理」は、今の日本の社会では共有されていない。それは個々の夫婦が、それぞれ話し合って決めればよいことであり、妻が家事を担当しようが、逆に夫が家事を担当しようが、それぞれの夫婦の自由であるはずだ。あるいは、どちらも家事を担当するが、妻は毎日料理を作り、ゴミ出しは夫が担当するというのでもよい。何から何まで男女が同じでなければならないという「正義」には、正当な理由がない。つまりそれは、この社会の「正義」ではない。

もう一つの「差別の動機」だが、これは前述の通り「アイデンティティ補償」である。つまり差別をする者は、何らかのアイデンティティ不安を抱えている。そのこと自体は気の毒な話ではあるが、しかしその解決を、不当な価値付けを用いて、他者を一方的に利用して行なうことは不当である。この「不当」ということは、「法の下の対等」とつながっており、「法の下の対等」とは「誰もが社会の成員として対等」ということを意味しているからだ。誰かが他者を、相手の人格を無視して一方的に「手段」として利用することが許されないということが、「差別」を不当だといえる、この社会での「根拠」になっている。

もっとも、私はこれも単純に善悪の問題とは考えない。むしろ美醜の問題ではないかと思うことがある。差別をする者は、アイデンティティ不安を感じていながら(そしてそれはしばしば劣等感でありながら)、それを打ち消すために一方的に他者を利用して、偉そうに振舞う。そういう行為は「悪」でもあるが、それ以上に「醜い」。もう少しくだけたいいかたをすれば、「差別」は「悪いこと」であると同時に「ダサい」ことでもある。

アイデンティティ不安を抱える者は、「差別」が悪いことだと頭では知っていても、それを容易にやめようとしない。それは罪悪感よりも、差別によるアイデンティティ補償から得られる快(エロス)のほうが大きいからだ。

逆にいえば、もし差別をすることによってはエロスが得られないとすれば、人は差別をすることが馬鹿々々しくなるだろう。つまり「差別」の動機を失うことになる。だから私は「差別」に対しては、道学者然として振舞うよりも、「ダセェ!!」と切り捨てるほうが効果的なのではないかと思っている(笑)。

●互いの良好な関係のために

ところが困ったことに、これでもセクシャルマイノリティの生き難さは、たぶん解決しない。なぜかというと、セクシャルマイノリティの生き難さの理由は、このような「差別」がすべてではないからだ。

「差別」と「偏見」は従来の反差別運動では混同されて語られてきたが、「偏見」は単なる認識の問題であり、アイデンティティ不安がなくても生じる。しかも私の考えでは、「偏見」は必ずしも責められるべきことではない。責めるというのは、相手に責任があって初めて可能になる行為だが、「偏見」の責任は必ずしも「偏見」の持ち主にあるとは限らないからだ。

一般の男女の在り様というのは、誰でも大まかにはわかる。ところがその程度の経験や知識では、セクシャルマイノリティを前にした場合、相手(セクシャルマイノリティ)についてどう判断したらよいのか、わからなくなる。セクシャルマイノリティと接する特別な理由でもない限り、相手を遠ざけるか、自分から遠ざかるかするのが最も手っ取り早くて無難な対処法だ。私は、このような対処法に対して「悪」のレッテルを貼り付け断罪する気にはなれない。誰だって、自分に可能な精一杯の判断で、自分の平安を守ろうとするものだ。

このような人々にとって、セクシャルマイノリティは判断不可能な存在であり、判断不可能であるがゆえに「不安」の源泉である。少なくとも互いにとって好ましい関係を作ることを目指すなら、このような場合に必要なのは、断罪や糾弾ではなく、相手の不安を取り除いてやることだ。

そのためには、セクシャルマイノリティは自分を説明する言葉を、できるだけ相手の腑に落ちるように鍛え上げる必要がある。したがってその説明は独善的なものであってはならず、またセクシャルマイノリティの特殊性ばかり強調するのも上手くない。この点で私が本書に感心したのは、

>ゲイも個人個人は男性文化の中で育ちますから、むかしは見られる側の感覚はそれほど強くなかった、というより見る立場、目としてしか存在していなかったかもしれません。(P126)

という表現だった。これは一般の男女の「見る/見られる」というセクシャリティの非対称性を前提とした説明になっている。しかもそれによって、男性ゲイの性質(むかしの)の表現に成功し、さらに考えれば、同じ「同性愛者」であってもレズビアンのありようはまた違うのだろうなということも想像がつく。

ただし私は、こうした説明の言葉を鍛え上げることを、セクシャルマイノリティだけに課された義務だといいたいのではない。第一、それではあまりにも効率が悪い。

それよりも、マジョリティとの言葉のキャッチボールの中で工夫されてゆくものだと思う。セクシャルマイノリティは、マジョリティ側の反応を見ながら、「この部分は上手く伝わったようだな」とか「これについての説明はもう少し工夫が必要だな」と判断し、さらに工夫を重ねてゆけばよいのだ。つまりは、マジョリティとの共同作業である。この場合にも、マイノリティとマジョリティの対立図式を前提とすることには、どのような「利」も期待できない。

●再びフェミニズム批判について

こうしてみれば、加藤秀一氏の「そもそも利害対立の調停など不可能である」という決め付けがいかに不毛なものかということもわかるはずだ。また、このような主張は「調停不可能」を強弁するために、リアリティのない現状認識を示すことにもつながる。

たとえばイダヒロユキ氏は、「過剰に典型的なモテ服に合わせようとすることをやめるということだ」と述べているが、やめたければ勝手にやめればいい(笑)。それともイダ氏は実際に「モテ服」の着用を強制されているのだろうか。それは具体的に、どこの誰によって強制されているというつもりなのか。「モテ服」を着る・着ないということは、エロス獲得のゲームの中で用いられる「手段」の一つに過ぎず、現状でも、その「手段」を選択するかしないかは、本人が勝手に決めればよいことだ。それどころか、エロス獲得のゲームそのものからおりてしまっても構わない。

>また「男らしさ追及しない、おしゃれ、明るい性格、性分業反対、異性愛、ボーイッシュ女性好き、セックスにあまり興味なし、非論理的で感情的な男性」などになっていくということだ。

とはどういうことなのか。そんな男性は今でも当たり前に存在するだろう。どこを見まわしても、けっして「生物的男性はすべて1種類の男性」であったりはしない。私は東京在住なので念のため、立命館には「1種類の男性」しかいないのか? とインターネットを介して立命館在学生に尋ねてみたら、「学内には色々な種類の男がいます。同時に同じぐらい女性もバリエーションに富んでいます。ウチは偏ったフェミニストが多くて困っています。」という答えが返ってきた(笑)。やっぱりね、そうだろね…。

「適切に人を男女だけでなく多様に見ていこうとする実践」をしていないのは、イダ氏の方ではないだろうか。

また、「性別二元制は永久不変ではない」という主張にも、まったくリアリティーがない。イダ氏が挙げている「インターセクシャル、トランスジェンダー、FTXのTG、トランスヴェスタイト」は、性別二元制をベースとした派生型に過ぎない。「サードジェンダー」という語も挙がっているが、男性性とも女性性とも無縁な「第3の性」というものを、私は実例としてはまったく知らない。ただそういう言葉(理念)が存在するに過ぎない。

また、時代も文化も異なる様々な世界の中で、性別はひとつ(つまり性別はない)という文化は存在しない。また「性別三元制」や「性別四元制」を当然と考えている例もない。それはなぜなのか。

逆に、「男/女」という概念は、「上/下」「左/右」「前/後」と同じく、普遍的に存在する。そして性愛の在りようにも、あるていどの幅をもって普遍性がある。

たとえばギリシャ神話には、ゼウスが浮気をし、その妻であるヘラが嫉妬するという話がいくつも出てくる。ギリシャ神話は、現代の日本に住む私達から見れば時代も文化も異なる世界の物語であるにも関わらず、私たちがこの図式を理解するために、何か特別な説明を要するということはない。文化人類学などの助けを借りなくても、ギリシャ神話の中で語られる様々な性愛のありようは、小学生でも容易に了解することができることを、私たちは「知っている」のだ。

フェミニズムでは、誰でも「知っている」この事実を、つまり「性別二元制」や性愛の在りようが持つ普遍性を、まったく説明できない。

「性別二元制」や性愛がもつ普遍性の根拠は、小浜逸郎氏が説明している(P111)。ただ、伏見氏はそれを「生物学的な基盤」とか「生物学的な要因」と理解しているようだが、私の考えでは、そこが違う。小浜氏はいわゆる「本質主義」を唱えているわけではなく、基盤になっているのは「物質としての身体」「客観存在としての身体」ではなくて、「身体観」だと考えた方がよいと思う。

たとえば、健常者である私には腕が二本ある。「私には腕がない」あるいは「私には腕が三本ある」と思い込もうとしても、やはり私の腕は二本にしか見えない。視覚だけでなく触って確かめても、やはりそうとしか思えない。

これは簡単な例だが、「身体観」は一種の概念ではあっても、考え方しだいでどうにでも変えられるというものではない。「どうしてもこうとしか思えない」という種類の認識を含んでいる。

「性別二元制」や性愛がもつ普遍性の根拠は、このような「身体観」に基づく身体性が、時代や文化の違いを越えて人類に共有されているという点にある。

それゆえ、小浜氏の説明と、伏見氏の「しかし、厳密にいえば、性別は身体によって成立しているというよりは、社会の規範によって区分されている。つまりジェンダーだと言うことになる。」(P110)という見解とは、矛盾しない。ただ伏見氏がここでいう「社会の規範」が、「身体観」の共通性によって生じ支えられていると考えればよいのである。

もし仮に、人々がみな自分の身体について「どうしてもアメーバのようなものとしか思えない」という「身体観」を共有しているとすれば、「男/女」という概念はその普遍性どころか、概念そのものが生じなかったに違いない。「上/下」はともかく、「左/右」や「前/後」という概念を持つこともなかったかもしれない。

これはセクシャルマイノリティでも例外ではない。たとえばMTFの性同一性障害の当事者であれば、乳房や女性器を自らの身体の一部として、自分が見ても他者が見ても「どうしてもこうとしか思えない」という形で欲する。性転換手術を受けたいと願う欲望とは、つまりそういうことなのだ。ここにはフェミニストが耽溺するような「理念の戯れ」が入り込む余地はない。

【プロフィール】
じんなりゅうこ●1964年東京生まれ、トランスジェンダー当事者の立場から性の問題に取り組み、インターネット上で随時発表を続けている。

加藤秀一[社会学者]●あらゆる〈だけ〉に抗する思想のために

2007-04-03 ポット出版

 正義のタームで語られることの多い差別という問題を、相異なる欲望すなわち利害間の対立という視野に置き直すことを通じて、膠着している反差別運動をより広範な人々に「伝わる」ように更新すること——『欲望問題』の主張を乱暴に要約すれば、およそこのようになる。これは日本社会の現状を的確にふまえた〈正論〉である。幾千万回の糾弾によっても埒のあかない差別という現象の厄介さを真摯に認識し、伏見氏と問いを共有してきた読者であるならば、本書を書いた伏見氏の意図は痛いほどよく理解できる(少なくとも、そう言いたくなる)はずだ。いったい、本書の副題である「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」という命題を誰が否定しうるだろう。それはあまりにも〈正しい〉スローガンである。けれども、この至極もっともな命題に収斂する議論がただ一通りであるとは限らない、ということには注意すべきである。著者の提案する「大きなつかみ」で言うかぎり、僕は本書の主張におおむね賛成するが、しかし同時にその一文一文に鈍い違和感を覚え続けた——著者が明快な議論の本筋に添えているあらゆる周到な留保にもかかわらず。

 字数制限の都合上、ここでは本質的な論点についてだけ検討しよう。伏見氏が提言する〈差別問題から欲望問題へ〉ないし〈正義から利害調整へ〉の移行については、少なくとも二つの疑問が即座に浮かぶ。第一に、そのような移行は本当に可能であり望ましいものなのか。第二に、伏見氏は議論の過程でさりげなく「欲望」と「利害」とを互換的に用いているが、それでよいのか。実はこれらは同じ一つの問題の異なる側面にすぎないのだが、以下では第一の面に焦点を合わせ、きわめて粗雑な素描を試みる。

 異なる利害=欲望間の深刻な対立は、当事者間の直接的な議論や交渉によっては決して調停されえない。ある人にとって人生の意味そのものを与えるような素晴らしい価値が、別の人にとっては吐き気のするような嫌悪の対象にすぎないといったことはありふれているからだ。この対処策はいまのところ二つしか考えられない。一つは、利害=欲望のエコノミーが貫徹する場としての「市場」に問題を委ね、より多くの・より強い欲望が人口に膾炙するというかたちで決着をつけること。もう一つは、当事者たちの上位に超越的な審級を置き、そのレベルにおいて裁定を下すこと。僕の目下の関心事である生殖医療の領域から具体例を挙げるなら、利害=欲望対立の当事者たちが飽くまでもタフに自己を主張しあって譲らないアメリカ合州国において、生殖細胞の売買や出生前診断・着床前診断はほぼ無制約に市場化される一方で、和解不可能なイデオロギー的対立に貫かれた妊娠中絶は世論を二分し続け、司法判断によってかろうじて調停されているものの、それも時代とともにたえず揺れ動いている。

 言うまでもなく、利害対立の市場化はしばしば少数派や社会的弱者に対する暴力を帰結するから、それを望ましくないと考える理論家たちは一定の超越的基準を構築するために苦闘してきた。1970年代にJ・ロールズが利害対立の観点に立つ功利主義への批判から正義(ジャスティス)という普遍的基準の(再)構築への歩みを進めた背景には、そのような現実への生真面目な取り組みがあったのだ。この観点から見ると、本書で正義という概念を繰り返し批判する伏見氏は、あたかも同じルートを逆向きに歩んでいるように見える。もちろん、そこには正義や権利という概念そのものに対してシニカルに構える現代日本文化そのものへの鋭い洞察があり、それゆえ相当の説得力があるけれども、しかし上に指摘したように〈そもそも利害対立の調停など不可能である〉という端的な事実をどう処理するのか、それを解決するには結局は何らかの「超越的」基準というフィクションが必要なのではないか、そしてさしあたりそれが「正義」と呼ばれているものの意義なのではないかという、当然予想される質問への答えを本書に見出すことはできない。さらに、〈できるだけ多くの人ができるだけ幸福になるように〉とする功利主義につきまとう〈最も救済を必要としている人が最も苛酷に打ち棄てられる〉という裏腹の問題、すなわち最も苛酷な差別を受けている人々は永遠に無視されつづけるかもしれないというより根源的な問題点は、ほとんど無視されているように思われる(僕が読み取れていないのだろうか)。

 僕はこれらを本書の理論的弱点だと考える。けれども、そのような視点からの評価は、もしかしたら不当なのかもしれない、とも思う。どうやら伏見氏と僕とでは、そもそも「理論」についての考えが根本的に違うように思われるからだ。本書で伏見氏は「理論の外にいる人間」たちに、自らもその一員として語りかけている。そのような読者は、本書を現実を分析する理論書としてではなく、一種の生き方指南書のようなものとして読むのかもしれない。そこでは、理論と幸福が食い違うことは悪しきことであり、そのとき修正されるべきはつねに理論の方なのだ。そうだとすれば、おそらく伏見氏の直接の関心は、先ほど僕があげつらったような原理的問題にはないのだろう。本書の議論はあくまでも日本社会の現在という歴史的状況によって限定された、いわば〈すでにある程度は苛酷さが解消された〉種類の差別だけに向けられたものなのかもしれない。実際、日本における性差別や同性愛者差別がどれほど根づよいとは言っても、少なくとも被差別者が頻繁に殺されたり強制収容されているわけではないのは事実である。そのような種類の差別についてであれば、これまでの運動の成果を評価しつつ、さらに大衆化を図るために評判の悪い「正義」概念を引っ込めるという戦略には、足し引きでプラスの作用が大きいのかもしれない(僕にはまだそのことは確信できないが)。

 けれども、これはとても面白いことだと思うのだが、伏見氏がいかにいわゆる理論の抽象性に疑いの目を向けようとも、伏見氏自身がセクシュアリティについて最良の理論家の一人であり、本書もきわめて理論的な書物である。すでに触れたように、ここでの伏見氏の議論は周到で、論点は複雑に絡み合っており、生き方のハウツー本として機能するようにはとても思えない。言説と現実とに距離があるという伏見氏の「言説」に頷いたからといって、読者が現実と現実との距離をどうやれば埋められるのかという「現実」の問題を解決できるわけではないのだ。これは少しも皮肉ではなく、むしろ著者の誠実さが本物であるという証拠だと思う。むしろ僕がいくらかの皮肉を込めて反問したいのは、なぜ言説(理論)と現実(実践)に距離のあることがいけないのか、両者を一致させて「すっきり」するのは本当に良いことなのか、ということの方だ。少なくとも僕にとって、理論とは「一般の人々」の「日常感覚」に迎合して安心を提供するためのものではない。理論的思考とは、むしろ安寧な幸福をかき乱すかもしれない危険なものだ。だからこそ、実感の専制に抗い、いわば自分に逆らって考えること(サルトル)は重要なのである。なにも浅薄なアマノジャクで言っているわけではない。確かに、人間にとって「差別をなくす」ことはすべてではないかもしれないが、他方、伏見氏が高らかに謳う「幸福」もまたすべてではないのだ。人は差別をなくすためだけに生きるのではない、だが同時に、人は幸福になるためだけに生きるのでもないのである。

 それではこの二つの命題のあいだの振幅をいかに理論化すればよいのか。言い換えれば、僕たちは差別のある世界をいかに生きればよいのか。だが、これはもはや伏見氏に投げ返せば済むという種類の問いではないだろう。すでに依頼された字数も大幅に超過している。他の数多くの論点(その中には「性別の抹消」の意味という重大なものもある)へのコメントと共に、僕が本書から読み取ったポジティブな要素についても省略せねばならなかったが、ただ一言、予想される批判に対してあえて「身を差し出し」たという著者の気概にふさわしく、本書が差別をめぐる思考を活性化させるに足る開放性のパワーを存分に湛えていることを、僕は微塵も疑わない。最後にそのことだけを付言しておきたい。

【プロフィール】
かとうしゅういち●
1963年東京生まれ。社会学者。明治学院大学教授。社会学の視点から性に関した研究を行っている。

【著書】
ジェンダーと社会理論(江原由美子、上野千鶴子らとの共著)/有斐閣/2006.12/¥2,600
身体をめぐるレッスン2 資源としての身体(鷲田清一、三浦展らとの共著)/岩波書店/2006.12/¥2,700
知らないと恥ずかしいジェンダー入門/朝日新聞社/2006.11/¥1,300
「ジェンダー」の危機を超える!(若桑みどり、上野千鶴子らとの共著)/青弓社/2006.8/¥1,600
図解雑学 ジェンダー(石田仁、海老原暁子との共著)/ナツメ社/2005.3/¥1,300
〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか/ちくま新書/2004.8/¥720
構造主義とは何か(上野千鶴子、竹村和子らとの共著)/勁草書房/2001.2/¥2,800
性現象論/勁草書房/1998.9/¥3,400
シリーズ〈性を問う〉3 共同態/専修大学出版局/1997.10/¥2,800
フェミニズム・コレクション3 理論(編)/勁草書房/1993.12/¥3,200
フェミニズム・コレクション2 性・身体・母性(編)/1993.11/¥3,200
フェミニズム・コレクション1 制度と達成(編)/1993.8/¥3,200

『欲望問題』をめぐるスペシャル対談◎西研[哲学者]vs菅野仁[社会学者]

2007-03-27 ポット出版

人の欲望の声を聞き取る共感力をどう育てるか

西●『欲望問題』はとても面白かった。まず第1章で伏見さんは、簡単に言うと社会の問題を個々の欲望の調整の問題だと考えよう、と提案していますね。これを自分自身の経験から語っているので、非常にリアリティがある。最初伏見さんは、ゲイを認めようとしないマジョリティ社会は悪だ、マイノリティである我々に正義があるんだという感覚からスタートした。硬直化しないようなスタイルに工夫しようとしてはいたけれども、正直に言えばやっぱりそういった感覚があったと言ってますね。ところがある転機となる事件があった。それが、確か『週刊金曜日』の事件ですよね?

沢辺●『週刊金曜日』に掲載された東郷健さんのルポタージュのタイトル「伝説のオカマ」をめぐっての事件ですね。

西●そう。オカマという言葉を使うとは何ごとかと、あるゲイのグループが『週刊金曜日』の編集部に噛みついた。抗議を受けた『週刊金曜日』の編集部は、大変申し訳ないと謝ったわけです。でも東郷さん自身は「オカマ」という言葉をルポタージュの中で使うことを許していたし、むしろ「オカマ」という言葉をある種の自負も込めて使っていたようです。つまり、東郷さん本人は傷ついていないのに、他のゲイが「傷つけられた」と言った。

ここには、「傷ついた」と言う人がいたことをもってそのまま悪だと言えるか、という問題かあるわけです。傷つくのは嫌だということは私の欲望だけれども、また別の人間からすれば(その言葉を使いたいという)別の欲望があるかもしれない。まずはお互いの欲望のありかをよく見てとって、それがどうやって調整できるか、そうやって社会の問題を考えたほうがいいということですね。

同じようなことを実は僕も考えてきました。哲学者の竹田青嗣さんもまた、近代の市民社会の論理について「自由の相互承認」というキーワードを使って論じています。それぞれの人間が自由な存在であり、お互いの好みややりたいことを持っている。そのことを相互に認めあうことが市民的な関係における一番基本のルールである、と。つまり、自由の相互承認ということがこれから我々が育てていく社会の基底になっていくべきだというものです。この考えは実はルソーとかカントとか、そのあたりからずっと系譜があるんです。

沢辺●そのことでひとつ質問させてもらっていいですか? 西さんのおっしゃる通りで、伏見さんが言う欲望を調整する社会のありようというのは、アイデアとしては竹田さんがまとめている自由の相互承認という考えと同じだし、西さんや竹田さんが言われた通り、ルソーなど先人たちもよくよく読んでみればそういうふうに言っているらしい。なので、伏見さんが言う欲望を調整する社会のありようというのは、とりたてて新しい、画期的なことではないと思うんですよ。しかし、この『欲望問題』には、竹田さんが言っていたのとはまた違う、伏見さんが言ったからこそすごいぞという点がどこかにあるような気がするんです。それはなぜですか?

西●そこが僕がおもしろかったところでもありますね。自由な人格の相互承認という市民社会としてのモデルを提示し、これが我々の倫理の一番基底になっていくべきだ、という言い方ではなく──もちろん、竹田さんの言い方はそう単純ではないですが──ゲイの問題をくぐり抜けてきた人が、理念ではなく実体験のなかで「相互承認ということの必要性」をつかみ取ってきた、ここにこの本の第一のおもしろさがあると思います。

自分達が苦しめられ、世の中から疎外された存在だということを反転するために「我にこそ正義あり」を掲げる。これは多くの運動では自然な心象、当然の出発点だと思うんですよ。しかし、その正義は他の人に承認されたり、対等な人間同士がお互いの声を聞き合って出来上がったものではない。だから、その正義が逆に他の人をすごく抑圧したり、また正義を唱える人たちの内部でもしんどいことが起こりやすい。社会の他の人々はどうかというと、その種の正義を唱える人は恐いので寄って来ないし、当然相互理解も進まない。

「自分たちこそ正義」になってしまうのは最初は自然なことだが、そのままでは絶対先に進めない。そのことを伏見さんははっきりと自分の経験のなかでつかんだ。それが『欲望問題』の書きぶりにあらわれていると思う。

そして、伏見さんのこの書きぶりは、「いまを生きる私たちがどうやって社会の問題とつきあっていけばいいのか」という、現代の本質的な問題に対して大きな示唆を与えていると感じるのです。これがぼくが感じたこの本のおもしろさの二番目の点ですね。

自分が苦しいと、自分だけが穴ぼこに入った感じになって、世界はみんな敵に思えてくる。たとえば突然リストラされたら、「何で俺だけが、何で私だけがこうなのか」という感じに思えてくる。人を支えている共同体の厚みは、都会になればなるほど解体されてきているので、調子がいい時はそれなりに生きていけるんだけど、穴ぼこに突然入ると、社会全体が巨大な悪意として見えてくる。

私たちは、個々人それぞれの境遇のちがいによっても、またその人の境遇の変化によっても、かなり異なった社会感受をもって生きていると思います。そういう時代のなか、「よい仕方で」つまり、他者とキャッチボールできる仕方で社会を批判したり問題を指摘したりすることが難しい。まったく連帯できずに個人的に悪意をためるか、連帯できたとしても、社会全体(マジョリティ)=悪、抑圧される私たちマイノリティ=正義、という図式になりやすい。

しかし──自分のしんどさを受けとめてくれる他者に出会えることがまずは大切だと思うのですが──だんだん他者に対して気持ちが開けてくると、自分以外の人間もいろいろ事情を持ち、それぞれ欲望を持って生きているんだなあとわかってくる。

このように、市民社会のモデルを理念として提示するというのではなくて、一人ひとりが生きている場所に対する「共感力」のようなものの重要性を、伏見さんは提示していると思うのです。伏見さんじしん、そうした共感力を新鮮なかたちで持っている方だと読みながら感じました。自分も苦しいけれども他の人間もまた別の苦しさなり状況なりのなかで生きている、そうした感覚が基盤になって「欲望問題」、つまり「欲望を調整するものとしての社会」という像が出てきている。

この共感にもとづく対等性の感覚とでもいうべきものが、竹田さんのいう「自由の相互承認」の基礎になる。これをいかにしてぼくらは育てられるか。伏見さんの本を読みながら、あらためてそういう問題を考えました。欲望を調整しつつルールを作るためには、互いの異なった感覚を聞き取れる「耳」が必要ですし、また自分の感覚を他者たちに伝えられる「言葉」も必要です。そういった耳や言葉が育たないと、人々はバラバラになってしまって、異なった他者たちとともに生きている、という基礎感覚じたいが育たない。この基礎感覚こそが、欲望の調整を可能にする作業の大前提となるものだと思うのです。

伏見さんはセクシャルマイノリティの特権性を放棄した!

菅野●今の西さんのコメントを私なりにまとめると、欲望ゲームあるいは相互承認ゲームの基本前提は、対等な人格性、対等な条件です。対等な条件でどういうふうに調整するか、なんです。伏見さんがなぜ説得力があるかというと、この対等性を獲得しているからだと思うのです。

セクシュアルマイノリティとして、差別される側であった人間が反差別運動を展開していく。そういうなかで確かに存在そのものとしてはあくまでマイノリティなんだけれども、差別される側、マイノリティとしての特権性というのがやっぱり出てくる。「(ゲイでない)お前たちは知らない、お前たちにはわからない」といった形で「私たちはゲイなんだから」という強者になる場面が出てくる。しかし、セクシュアルマイノリティとしての特権性というのをいわば放棄しないと、ルールゲームには参加できないわけです。

伏見さんはこの『欲望問題』で、いままで持っていたプライオリティや優越性、特権性をいったん放り投げてフラットな現場に立つんだという覚悟をした。そこが非常に共感性を呼ぶんですよね。

西●確かにそれはパンクだよね!

菅野●セクシャルマイノリティの立場にとどまれば、それなりのことを言えたり、それなりにおいしいところを取ったりする可能性があるわけですよ。全く一方的に差別されて小さく縮こまっているわけではないですから、今のセクシュアルマイノリティは。そういう状況のなかで、伏見さんは対等性をあえて選択して、欲望ゲームあるいは相互承認的なところに立った。その説得力、言葉の重みがある。

西●もうひとつ、フェミニズムの人たちと仲良くしてきて、そこから刺激を受けながら、自分の思想を作ってきた人が、ある意味でフェミニズムを含めた過去の自己批判をしている。これはとても勇気のいることだったと思うんです。自分に関してはいいのでしょうが、これを出版するということはフェミニズムの人たちに三行半を突きつけられ、さらには「伏見バッシング」が起こるかもしれない。いままでフェミニズムの人たちと共同歩調をとり勢いももらったことへの感謝も忘れていないし、フェミニストに対して悪口をいう感じもまったくない。しかしこの考え方のままだと先に行けないよ、とハッキリ言った。これはすごく覚悟と勇気のいることだったと思う。

菅野●僕からもう一点、第1章に関して言うべきことがあるとすれば、僕は異性愛者だから、伏見さんが書いている男同士の恋愛などいろんな意味で本当はわかっていない可能性も高いのですが、しかしとてもよくわかったという感覚がある。この本はやはりゲイの人だけじゃなくて異性愛者だろうが、普遍的に帯びている欲望のあり方をとらえなおした欲望ゲーム論としての深い射程を持っているからだと思う。

セクシュアリティのことでいうと非常に大事な観点としては、セクシュアリティの多様性の問題を、逸脱の文脈じゃなくてライフスタイルの文脈でとらえ直すということが初期の同性愛の解放運動の目標であり、その転換がかなりの程度達成できたということは、やはり画期的なことだったのだなあと改めて考えさせられました。同性愛を「病気」だ、「あいつらヘンタイだ」っていう見方から、ライフスタイルの問題へと運動の成果として転換できたということですよね。それがあってからこそ欲望ゲームという問題の立て方に到達できたって思う。

『欲望問題』の11ページに、それぞれひとが性的に魅かれる具体例として「フケ専だって、デブ専だって、ロリコンだって、萌え系だって、巨乳好きだって……」という文章があり、これはもちろん異性愛者も対象に入ってるわけですが、要は生活実感のなかでは性的欲望って伏見さんの指摘のように「選択的なものじゃなくて自然にそうなってしまった、としかいいようがない。生物学的な作用であろうが、社会の刷り込みであろうが、本人にとっては偶然の産物であることは間違いない」ということなんですよね。これは私たちが自分たちの意志や理性による選択ではどうにもならないところで同性愛的傾向を持ったり年上好きになったりロリコンになったりする可能性(と危険性)を上手に言い当てていると思う。ここに普遍性を僕は感じます。セクシュアリティの本質を一言で表現すれば、「なぜかは自分でもわからないままそれに絡め取られてしまっている」ということなのではないかと僕はいつも思っているのですが、そういう感覚を持っている人間が読むと、この『欲望問題』では、ゲイの世界だけの話ではない、性的な欲望の基本形がきちんと取り出されているなと思えるのです。

ゲイの問題に関心がある人だろうがない人であろうが、なんで俺は年下が好きなんだろうか、モー娘くらいじゃないとなんでダメなんだろうか、逆になんで俺は年上の女性にひかれるんだろうといった問題と重なりが見えてくる。性的趣向というものは、本当に多様化し、現代社会ではどれがノーマルか、標準だということが見えなくなっている。しかしその中でも悩んでいる人はいる。男女の場合であれば、女の人が男よりひと回り年上となるとやっぱりまだいろいろあったりするわけですよね、差別的なまなざしが。こういう問題をも包含する射程の広さを『欲望問題』は獲得している。

先ほど西さんがまとめてくれた欲望論的なゲームの場というか、欲望の相互承認というような観点、つまり正義が一方的に自分にあるのではなくて、共通了解の中で何が正しいのか、自分にとって心地よいことをお互いに認めてぶつかりあわない限りには、それぞれの心地良さを尊重できる多元的な価値につながらない。そういった観点を、セクシュアルマイノリティの特権性を放棄した人間が示した(笑)。ここが伏見さんの存在的な強みであるし、そこを考え抜いている覚悟があるなと伝わってきます。

社会や人間に肯定感をもてるかもてないかが分岐点

沢辺●先ほど西さんが言われたんですが、フェミニズムに足場を置いてきてそれを批判するのはすごい、と思いますね。僕は、現在のフェミニストは思想的な退廃に陥っていると思う。逆に言うと、なぜ思想は更新できないんでしょう? 2007年になってみたら、これまでフェミニズムで言ってきたことが社会で通用していなくなった。それを伏見さんのように「ごめん、だめだった! あの辺が」というふうに、学問的な領域でできないのはなぜなのか?

また、運動的な領域でも、例えば部落解放同盟も全然できていないと思う。伏見さんが登場してないんですよ、部落解放運動の中には。87年に『同和はこわい考』(阿吽社)で藤田敬一さんは、「差別のジャッジをするのは被差別者だけが持つべきじゃない」と書きました。言っていることは伏見さんと同じです。でも、藤田さんは当事者ではなかったし、解放運動全体はこれを無視してしまったと思う。思想の更新が運動的にも学問的にもできないのはなぜなのか、ちょっとご意見があれば聞きたいんですが。

菅野●社会学関連で言えば、だいぶ前に吉澤夏子さんが『女であることの希望』(勁草書房、1997)を書いた時にこれまでのフェミニズムとは違う観点からの思想がでてきたと思ったのですが、思いのほかそれに対する周りの反応が冷たかった。上野さんなんかもちょっと批判的なコメントをしていたと思うし、吉澤さんがあそこで出した問題提起が、フェミニズムの内部ではうまくつながっていかないような状況があったように僕は思ってたんです。それはなぜなのかなあと考えると、一つはやっぱり今回のジェンダーフリーバッシングのような右派による巻き返しみたいな言論的状況が常にあるわけですね。それに対抗するために、対抗のロジックを保ち続けなければならない。正義は我にあり、つまり差別されている私たちこそが正義だというポジションを安易には手放せない、思想なんだけど運動論的政治的判断というのがどうしてもフェミニズムにはついてまわる。

吉澤さんがちょっと批判的に言われた時は、彼女の思想そのものへの原理的な批判というよりは、「そういうことを今あえて言う状況ではないのでは」「今ここでそういうことを言っちゃあ、せっかく盛り上がってきた運動に水を差すんじゃないか」といった状況論的な批判の傾向が強かったような気がします。

でも思想というのは、運動論的な状況作りとは別の次元で原理的なつかみ方を作っていかなきゃならないんですよね。そこに状況論的な政治性みたいなものをあまり露骨に持ちこんでしまうと、思想は必ず「濁る」。純粋さをなかなか保てないことになる。またこれは僕もわかるんだけど、アカデミズムの世界には独特のしがらみとか、「こういうところから物事を喋りましょう」といった暗黙の前提みたいなのがある。

いま西さんと僕がちくま新書ですすめている本でも、そういうものを崩したいと思ってはじめたんです。たとえば、社会学は社会を考えるのは当たり前だということころから出発する。人間が社会的存在だってことを当たり前というふうなところから制度とかシステムとか社会全体を客観的にとらえるということが暗黙の了解になっているような気がしていたので、そこから疑わなければだめなんじゃないの、と。そういう思いで仕事をしたのが『ジンメル・つながりの哲学』(NHKブックス、2003)なんですけど、そこに立つのはなかなか勇気がいるし大変だった。

西●わかります。いま、菅野さんと西とでつくっているのは『社会学にできること』というタイトルの社会学入門の本なのですが、菅野さんとぼくに共通するのは、一人ひとりが生きることにとって「社会」を考えることにどういう意義があるのか、という問いですね。客観的認識のまえに、まずは、自分と世界とを了解しなおし、自分と世界とをどのように関係づけるか、という課題──どんな人にとってもじつは切実な課題──がある。こうした、いちばん「底」の問題からスタートしたい、という感度が二人に共通のものだと思っています。そして、このぼくらのスタンスと『欲望問題』のスタンスとは深く通じていると感じています。

話をもとに戻しますが、フェミニズムの場合は、確かに運動とくっついているという難しさがある。さらに、社会に対する批判的なスタンスをどこかで持てないと、自分自身の存在の根拠を失ってしまうという人がフェミニストにはいる。とくに男性のフェミニストにはそういうタイプが多いように感じます。

あらためて言うと、80年代初頭のニューアカデミズムの時代にマルクス主義が最終的に信じられなくなって、その党派性や倫理性がハッキリと指摘された。そのとき、「では社会の問題にどういうスタンスをとればいいんだろう」「そもそも社会批判とはどのような仕方で可能なのか」という問題が起こってきた。ぼくもそのころこの問題にぶつかって、ずいぶん考えて、ホッブズやルソーやヘーゲルなんぞをあらためて読み直したりしたわけです。

フェニズムは、そうしたなか、この社会を根底的に誤っているとみなし、この誤った社会を批判し続けるというスタンスを保ち続けることができた。男性でも、ともかく社会を批判し続けたい人たちの幾分かが、フェミズムのほうに行った。でも現実社会を生きていく人たちの場合、「反社会」のスタンスを取って生きるのはかなり難しい。でも研究者はそこに安住できますね、食えるから。だから研究者というのは退廃しやすいわけ。

困難が多くの人々に伝わってそこから合意が生まれ、新たなルールがつくられる。そうなることで、社会を少しでもいい方向に進めることができたという「実感」が人々のなかに生き続ける。社会を批判し続けることでも、最終的な理想社会の実現でもなく、こうした、前に進めるという「実感」こそが重要だと僕は思っています。

社会やマジョリティに対するまったくの反感や敵意からは、こうした実感が育っていかない。そういう意味での、社会に対する「肯定性」は大切なんですね。そして、そこからはじめて「調整型」の社会像が育ってくる。

菅野さんとの対談で言っているんですけど、〈社会〉という概念は客観的な認識の問題である以前に、すごく薄められていても、「われわれ性」というものを含んでいる。たとえば僕は四国には一度も行ったことないんだけど、そこで社会制度のせいで故なく苦しんでいる人がいたとすれば、なんとかせねばいかんじゃないの?と思っちゃうかもしれない。それが「われわれ性」なわけです。「われわれ性」を潰さないで持ち続けることが重要で、それをなくすと、社会は砂漠のようになる。この「われわれ性」を生かしていくためには、苦しんでる人間に唯一正義があるんじゃなくて、互いに欲望を出し合いつつ調整していくという調整型の発想にならざるを得ない。そういう仕方で「少しでも前に進めていけるよね」という社会に対する感覚がもてることが重要なんです。それがなければ社会問題というのは誰も関心がなくなって、自分と自分の親しい人間の幸福しか望まなく(望めなく)なる。

菅野●この本のジェンダー論に結び付けると、社会あるいは人間関係、男女関係において希望とか可能性に向かうベクトルを持つか持たないかが、社会や人間に対する語り口の決定的な分岐点だと思います。伏見さんの言い方にはそういうものがあるし、西さんや僕もこうした方向性を志向している。

それを考えるとフェミニズムにおいて男女のあり方の「可能性を語ることができる」言説がほとんど蓄積されていない。男と女の関係は、権力関係であり非対称的な関係であるという告発型の言説がほとんどですね。先日も、私のところに卒論の相談に来た女子学生が言っていたのですが、「先生、素敵なジェンダー、幸せなジェンダーっていう考え方はどこにもないんですね」と。これは非常に大きな問題だなと思います。ゲイの問題でも男女間の問題でも、性的欲望の問題、つまり欲望の問題としてとらまえた時には、ある種の可能性をどう見出すかとか、どこに問題があってどこが良いのかという区分けの問題が大変重要であるという段階にもはや来ているのに、ここを上手に語れる社会理論や社会思想はなかなか無いのが現状なんです。

ほとんどが批判的言説のみで、男女関係のここに可能性の萌芽が見えているといった語り口がほとんど見当たらない。80年代からこの二十年、三十年間の間に男女のあり方は随分大きく変わったはずなのに、「こういうふうによくなった」という言い方はほとんど見当たらずに、「一見表面的には良くなったように見えるけれども本質は何も変わらない」、そういう言い方が依然として支配的なようですね。

沢辺●あるいは一定の女性たちが気持ちいいと思っていることも「あんたそれは気持ちいいと思っちゃだめなのよ、間違っているのよ」という、「悪く思いなさい」というベクトルに働くと。

菅野●それはちょっとしたことのような気がするけど、本質的な問題を決めているなと思うんです。僕と西さんがやっている対談でも、僕らの共通了解として、社会の本質は次の三つと言っているんです。一つは「超越的性格」。自分たちを超えたものとして社会というのはある(存在する)。何か広がっている、自分を超えたルールとか、見えない制度とか、我々が縛られたり制限されている超越性。
もう一つはさっき西さんが言った「われわれ的性格」。もう一つは「変容可能性」、変わりうるという感覚。同じような日々の繰り返しのように思え、一見すると社会は変わらないように見えるけれども、十年、二十年ぐらいすると変わっていることがはっきりわかる。

『三丁目の夕日』という昭和30年代を描いた映画が一時話題になりましたね。ビジュアルで見せられると、この四、五十年くらいでこんなに社会も風景も変わったんだな、とあらためて驚かされるんですよね。変わりうるという感覚──もちろん良く変わることもあるし悪く変わることもありうるのかもしれないけど、俺らがいくら何かしたって社会は永遠に変わらない硬直化したシステムであるというふうにとらえるのか、そうではなく、日々少しずつ変わりうる人間関係の網の目としてとらえるのかということの違いは決定的なことなんです。

また先ほど西さんから、「われわれ性」の話が出ていましたが、どんなに薄められた形でも「われわれ性」というものをそこに見ているか見てないかということではまた違う。一人ひとり生活する人間が漠然とでも社会イメージを持っているのだけれども、社会にはどんな可能性があるかということを、思想というものがわかりやすい言葉できちんと語り、そのイメージでもって人びとの日常の感覚にちょっと揺らぎを与えてみる。そこで考えるヒントをつかんでもらったり、情緒の変容なんかの経験も含めて、こんな感じで社会が新しくイメージできるんだということがわかると、少し自分の身の回り、あるいは自分の見聞きするメディアを通した世界情勢までを含めた社会イメージのつかみ方が変わるんじゃないか。そんな希望を持って、現在僕は仕事を進めているんです。

秘めたラディカリズムと大きな希望をもつ『欲望問題』

沢辺●最後にこれはちょっと言っておきたいことがあれば。

西●久しぶりに社会の問題を考える意欲が出ましたよね。大学の仕事が忙しかったんで(笑)、そうなると社会の問題が遠くなるのね。『欲望問題』は、問題を自分なりにつきつめて、こういうふうにしていけばちゃんと考えていけるじゃん、欲望の問題としてとらえていけば一緒にゲイの問題や、いろいろな問題を考えていけるよ、と言ってくれている。これは希望なんですよ、すごく大きい希望。これを読んで久しぶりに世の中の問題を一緒に考えている気持ちになったし、世の中の問題がまた自分に戻ってきましたよね。

菅野●印象に残ったところはいくつもあるんですけど、具体的なページを上げると122ページの「ジェンダー関係をより良くしていく方法としては、折衷案としてではなく個々の現場でより快のある関係を作っていくことや、自分の求める性のありようを表現していくしかないと考えます。そして必要ならば、新たに社会制度を作ることもあるかもしれない。そうした一つひとつの試みの積み重ねこそ、人々にとって望ましい変化を引き起こすのだと思います」という箇所がとりわけ印象に残っていますね。社会を語る時にこういう感度を持っている思想家がなかなか少ないんです。この感度があらためてきちんと言葉になって表現されているということに非常に大事なものを感じます。

そして数行あとに「倫理的な禁止をいくらいったところで、事態はそれほど変わらないはずです。それよりは「こっちの水は甘いよ」といった感じで、楽しさや気持ちよさが高まるような、何かのプレゼンテーションをしていくことが、もっとも有効だと考えます。それは実際に、ここ数十年の男女関係の変化が証明しているのではないのでしょうか」とある。この箇所からも、伏見さんの優れた感度がはっきり看て取れる、と僕は思っています。

ある種の肯定的な言い方をすると、すぐ保守的だとか、守りに走ったとかそういう言い方をする人たちが往々にして多いんですけど、伏見さんの場合は決してそういうもんじゃない。ものすごく秘めたラディカリズム──ラディカリズムを大上段に振りかざして「俺はラディカルだ」と言ってる人間ほどろくなもんじゃない、ということがこのところよくわかってきたのですが(笑)──「秘めたラディカリズム」を感じさせる本であるということで話を終わりにしたいと思います。

西研◎にし・けん
1957年、鹿児島生まれ。哲学者。京都精華大学人文学部教員を経て、2007年より和光大学現代人間学部教員。
【著作】
いまのこの国で大人になるということ(苅谷剛彦、菅野仁らとの共著)/紀伊國屋書店/2006.5/¥1,700
哲学的思考/ちくま学芸文庫/2005.10/¥1,200
考えあう技術(苅谷剛彦との共著)/ちくま新書/2005.3/¥780
よみがえれ、哲学(竹田青嗣との共著)/NHKブックス/2004.6/¥1,120
不美人論(藤野美奈子との共著)/径書房/2004.3/¥1,500
哲学は何の役に立つのか(佐藤幹夫との共著)/洋泉社新書y/2004.1/¥740
大人のための哲学授業/大和書房/2002.9/¥2,200
哲学的思考/筑摩書房/2001.6/¥2,500
哲学の味わい方(竹田青嗣との共著)/現代書館/1999.3/¥2,000
はじめての哲学史(竹田青嗣との共編著)/有斐閣/1998.6/¥1,900
哲学の練習問題/日本放送出版協会/1998.1/¥1,500
「考える」ための小論文(森下育彦との共著)/1997.5/¥720
哲学のモノサシ/日本放送出版協会/1996.5/¥1,456
実存からの冒険/ちくま学芸文庫/1995.12/¥840
ヘーゲル・大人のなりかた/NHKブックス/1995.1/¥970
実存からの冒険/毎日新聞社/1989.11/¥1,456

菅野仁◎かんの・ひとし
1960年、宮城県生まれ。社会学者。宮城教育大学教授。専門は社会学思想史・コミュニケーション論。
【著作】
いまのこの国で大人になるということ(苅谷剛彦、西研らとの共著)/紀伊國屋書店/2006.5/¥1,700
愛の本/PHPエディターズ・グループ/2004.12/¥1,500
ジンメル・つながりの哲学/NHKブックス/2003.4/¥970
はじめての哲学史(竹田青嗣、西研らとの共著)/有斐閣/1998.6/¥1,900
現代社会学とマルクス(細谷昂らとの共著)/アカデミア出版会/1997.6/¥15,750
「近代」と社会の理論(堀田泉らとの共著)/有信堂/1996.6/¥2,835
行為と時代認識の社会学(小林一穂らとの共著)/創風社/1995.9/¥1,575
社会学史の展開(山岸健、船津衛らとの共著)/北樹出版/1994.4/¥2,730

イダヒロユキ[社会学者]●差別問題を否定せず、スピリチュアルなレベルの差別問題に発展させていこう

2007-03-26 ポット出版

伏見さんの本について、詳しく検討・反論する文章「伏見憲明『欲望問題』の検討」(以下、拙稿 と記述)を書きました。
私のHPにアップしました。  http://www.geocities.jp/idadefiro/
伏見さんの本のプラス面もありますが、私は主にマイナス面を契機にして、私のジェンダー論を伝えるようなものにしました。ここでは、少しだけ述べます。

 私も、一部の人から原理主義的というか、狭量というか、単純というような批判を受けたことはあります。男性がフェミニズムを語るのは奇妙だとかダメだとか、男性が女性学会幹事会を乗っ取っているとか、〈スピリチュアル・シングル主義〉に対して何も読まずに精神主義だといったり…。まあ、少し長く生きていれば、批判ともいえないような誹謗中傷もあるわけです。それが「敵対勢力」だけでなく、運動側から出さされることもあります。
でも、私は、「政治・運動」というものが時には単純になされざるを得ないということがあると思っています。だから、社会状況全体の中で、そこら辺をよくわかってバランスよく記述しないと、単純に運動批判になってしまうと思っています。
ところが、そうしたバランスが、今回の伏見さんの本には少ないと感じました。『欲望問題』出版記念プロジェクトの書評コーナーをみていても、伏見さん賛成という声が強いみたいなので、そうじゃない意見もあったほうがいいと思い、批判的に検討しました。

伏見さんや一部学者といっしょになって、運動のダメさを批判する、みたいなのは、私がしたいことではありません。私なりのバランスある答えを出している問題に対し、伏見さんともあろう人が、「社会運動か個人の性愛的幸福か」というような単純問題設定にしてしまって、二者択一の罠に自らはまって、結果、バックラッシュと近い物言いになっているところがたくさんあります。だから、「どうしちゃったんだ、伏見さん?」という気持ちで書きました。

 伏見さんの提起を尊重して言うなら、私は、伏見さんが「差別問題から欲望問題へ」というのに対して、「差別問題を否定せず、スピリチュアルなレベルの差別問題に発展させていこう」と言い換えたいと思っています。

伏見さん自身、「あとがき」(p184)でちゃんとした批判なら歓迎するという旨のことを書いておられるので、そこに素直に応答したつもりです。

たとえば、2章の問題提起をジェンダーフリー概念と絡めていることが私には不満です。ジェンダーフリー概念の問題にしなくても、社会運動と個人の幸福の関係は考察できます。で、拙稿では次のように書きました。
★  ★  ★
つまりジェンダーフリーとは、皆を中性にすることではない。100人が100通りの好きなファッションをすればいいということだ。人をさまざまな要素で区分することはある。そのとき、過剰にいつも男女2分法を中心化すること(男女性別の特権化)、過剰に典型的なモテ服に合わせようとすることをやめるということだ。男女の分割線は「常に完全廃棄」なのではなく、残るし、残す、なくさない(なくすことなどできない)。だが、その比重を落とす。その他の面、その人らしさに焦点を当てる。そのような別の「分割線」をたくさん入れる。「女性」を1色・1タイプに収斂させようとせず、いろいろな「女性」のあり方ができるようにしていく。画一化、1つのセクシー、1つの性のあり方というものを、もっと幅のあるものにしていく。従来の性秩序を強化するようなことに注意深くなる人を増やす。結果、一人一人の個性に敏感になり、皆がオンリーワンになるからシングル単位感覚。男1と男2、その他の違いを尊重するようにしていく。その意味での多数派の解体。現実には、以上の原則で、その場その場で、応用的に対応する(野口氏のような仕分けの原理を考える人がいてもいいが、それが完成しない限り実践的には何もできないというのはまったく間違い。空想的未来SF小説を書きたいなら思考実験もありだが、現実は、適切に人を男女だけでなく多様に見ていこうとする実践は可能だし、すでに実践されている。クオータ制の検討もこれに関わるので、「ジェンダー重視時代の新しい政治」畑山敏夫・平井一臣編『新 実践の政治学』法律文化社 2007年4月を参照のこと)。〈性別二元制〉=ジェンダー規範は、多くの多様な人を2色2種類のファッションにするということだから反対している。その過程で、皆が模索しつつも、適度に実践できている。そこが大事で、「ジェンダーフリーとジェンダーレスの区分が判らない」から何もできなくて立ちすくんでいるわけではまったくない。

以上の説明では、例えば「男女の境界線を残す」といように、ある種“固定的”に書いたが、付け加えておきたいのは、私たちの行為・実践の中で、私はなんらかの私、例えば「シングル単位感覚の男性」「男らしさ追及しない、おしゃれ、明るい性格、性分業反対、異性愛、ボーイッシュ女性好き、セックスにあまり興味なし、非論理的で感情的な男性」などになっていくということだ。行為の前から生物的男性はすべて1種類の男性であるというのではなく、家事を少ししてみる、人の話を聞く、ファッションをカジュアルなものに変えてみる、政治について勉強して考え方が変わる、職業を変える、恋人が変わる、(ゲイであると)カミングアウトする等という行為を(意識的/無意識的に)選び取り、重ねていくうちに、自分というものが変化し続ける。その結果をある瞬間切り取って「男性」というかもしれないが、別の属性・切り口もある。あらかじめ、固定的に男性/女性という主体が行為の前にあり、行為後も不変というわけではない。
従来、家族単位的に生きてきていても、部分的に、2分法ジェンダーを乗り越えるジェンダーフリー的言動をとるということもある。男女2分法ジェンダー意識をもっていても、生活形式として独身、離婚、単親家庭、同棲など非標準になっていることで、意識が変化していくということがある。フェミに触れて影響を受けて、意識的にシングル単位的言動を増やしていくということもある。その結果のある局面のある人を複雑に全体で見れば、単純に、男性か女性かの2種類に分類できるかというと、できない(あえて分類しても意味がない)。男女で分けようとおもえば大方の人はあえて分けられるが、細かく見ればもっと細かい分類になるし、最終的には一人一人違うということ。つまり、男女2分法(男女境界線)は、存在し続けるであろうが、もっと各人の個性が際立つ。「従来の男ならこうしろ」というジェンダー規範からの逸脱も増える。そういう社会はまともだろう。そういうことをフェミは実践している(こういう理解があるから、男性はフェミニストになれない、男性が女のことに口を出すな、などと本質主義的なことをいうのは、私はとても古くて固定的なフェミだと批判する)。
ちなみに、過去、「男性か女性かの2種類」に入らない人には名前がなかった(存在を承認されていなかった)が、いまや、インターセクシャル、トランスジェンダー、FTXのTG、サードジェンダー、トランスヴェスタイトなどと名を持つようになってきている。多様な人が多様な差異を保持したまま承認される社会に近づいている。〈性別二元制〉は永久不変ではない。フェミはそのことを言ってきたし実践してきたのであって、伏見さんやバックラッシュがいうような「中性化」「性別否定」を求めているのではない。

こんな基本の基本に対し、フェミニズムの主張を豊富化する文脈ならわかるが、フェミニズムを見くびるような記述の中でジェンダーフリーを「中性化」「性別否定」だと、バックラッシュ的な言辞で言ってしまう感覚には、ちょっと引いてしまった。伏見さんはどうしたんだろうとやっぱり思う。

★  ★  ★
伏見さんの「差別のためだけに生きているのではない」ということの言わんとすることはわかるが、本の主張全体のバランスが悪すぎると私は思っています。過去の差別反対運動の教条主義、倫理主義を批判したいのはわかる。だが、そのためにこれまでの運動を一面的に悪く言いすぎだよ、マイノリティの立場性というものの積極性を否定しすぎだよ、というのが私の批判です。
伏見さんのこれまでの全体からは、彼が信頼するに足る、マイノリティ運動側の人だと思っています。だから、本書を「悪く読みすぎた」のかもしれない。だから、原稿を書くとき私には迷いがありました。どこまでが伏見さんの主張の本質的な間違いで、どこからは「まともな問題提起だが少し表現が悪い(下手な)だけ」の部分なのか。

 で、拙稿ではとりあえず、『欲望問題』の文言に限っての「批判」をしました。伏見さんが続編を書かれて、言わんとすることをより適切に示してくださる時、私はもっと賛成するように思います。
                              

                              

いだひろゆき●
1958年大阪生まれ。社会学者。主にジェンダーについて研究、執筆、講演活動を行う。立命館大学、大阪経済大学非常勤講師。
ブログ http://blog.zaq.ne.jp/spisin/
ホームページ http://www.geocities.jp/idadefiro/

【著作】
貧困と学力(岩川直樹・斎藤貴男らとの編著)/明石書店/2007.4
これからのライフスタイル/「仕事の絵本」シリーズ5/大月書店/2007.2/¥1,890
続・はじめて学ぶジェンダー論/大月書店/2006.3/¥1,995
Q&A男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング━━バックラッシュへの徹底反論(日本女性学会・ジェンダー研究会編)/明石書店/2006.6/¥1,680
はじめて学ぶジェンダー論/大月書店/2004.3/¥1,995
スピリチュアル・シングル宣言/明石書店/2003.4/¥2,520
シングル化する日本/洋泉社新書/2003.4/¥756
いろんな国、いろんな生き方━━ジェンダーフリー絵本第5巻(堀口悦子らとの共著)/大月書店/2001.4/¥1,890
シングル単位の恋愛・家族論−ジェンダー・フリーな関係へ/世界思想社/1998.4/¥2,415
シングル単位の社会論−ジェンダー・フリーな社会へ/世界思想社/1998.4/¥2,415
21世紀労働論——規制緩和へのジェンダ−的対抗/青木書店/1998.2/¥2,940
樹木の時間——もう鼻血もでねえ/啓文社/1997.12/¥1,050
セックス・性・世界観(編著)/法律文化社/1997.12/¥1,995
性差別と資本制−シングル単位社会の提唱/啓文社/1995.12/¥3,466

◎『ぴあ』(3月15日発売)「話題の本」でご紹介いただきました。

2007-03-16 ポット出版

◎『ぴあ』(3月15日発売)「話題の本」(P233)でご紹介いただきました。

◎『週刊金曜日』にて北原みのりさんが書評をお書きくださいました。

2007-03-16 ポット出版

◎『週刊金曜日』3月16日号(3月16日発売)の「読み方注意!」にて北原みのりさんが書評をお書きくださいました。

石井政之[ジャーナリスト、NPO法人ユニークフェイス代表]●当事者解放運動の成果として瞠目の書

2007-03-16 ポット出版

●ゲイとユニークフェイス

 これまで『欲望問題』を何回も読み返しながら、どのように書くべきか、迷っていました。
 ゲイとユニークフェイス(http://www.uniqueface.org/)の立場を超えるような言葉を作り出すことができるのだろうか?と考えあぐねていました。
 ゲイとユニークフェイスでは当事者たちが置かれている状況は異なりますが、おなじマイノリティ運動を展開しています。その代表的な書き手である伏見さんの新刊『欲望問題』は、ユニークフェイス解放運動活動家の私にとって、複雑な感情を喚起する書物でした。伏見さんは単なる書き手ではありません。一つのテーマを執筆したら、次のテーマに移っていくというジャーナリストではない。社会の流行を追いかける批評家でもない。日本のゲイムーブメントを立ち上げた孤高の表現者、東郷健の後継者。ゲイムーブメントの先頭に立ち、言葉の力によって同じ境遇にあるゲイ当事者にエールを送り続けてきた。ほかに取り替えのきかない仕事をされてきた人です。

 私は、顔の右顔面に赤アザがあることをきっかけに執筆活動を始めた物書きです。私と同じように、顔にアザやキズのある人間を「ユニークフェイス」と定義し、その当事者の置かれている状況を社会に伝えるために1999年3月、ユニークフェイスという市民団体を立ち上げました。2002年にはNPO法人化。今年の春、設立から8年。立派な社会活動家のように見られます。
 それはそれとして、私がやってきた程度の活動で、こんなに誉められていいのだろうか、という気持ちもあります。たいしたことはできていないと思っているから。
 それはユニークフェイス当事者がゲイなどと比較すると、ほとんどカミングアウトをしない、ということが活動をするほどにわかってきたからでもあります。マイノリティのなかのマイノリティ。微々たる者達の反差別運動です。

 この8年間のユニークフェイス活動は、目立つ外見というスティグマをもったマイノリティがカミングアウトするとはどういうことなのだろうか? と考える時間でもありました。
『欲望問題』は、私にカミングアウトすることの意味を改めて問いかけてきました。何しろ、伏見さんが「命がけで書いた」という書物です。読者として、すこしだけでも命を賭けて読むことになりました。
 それにしても、命がけで書いた? 今時なんと青臭い言葉でしょうか? プロのライターが執筆にいちいち命を賭けていたら、いくら命があっても足りないでしょ。でも、ベテランライターの伏見さんは、命を賭けた。そのハートをしっかりと受け止めるためには、わたしも命がけで読まないといけなくなる。そのためでしょうか。すこし紙数が増えました。
 

●カミングアウトとは?

 伏見さんは『欲望問題』でこう書かれています。
「同性愛の反差別運動が他の社会運動に遅れて90年代になってやっと形になったのは、自分の現実を受け入れるという最初の敷居が高かったことが影響しているのではないでしょうか。まず、自分のことをそれでいいんだと思えるきっかけがなければ、そのカテゴリーの問題を社会的文脈で解決しようとは考えられないわけですから。どの反差別運動もその敷居をまたぐことから始まりますが、セクシャリティの問題は、そのきっかけがつかみづらかったことから、最後まで取り残されていたのでしょう」
(24ページ)

 周囲と同じでなければ生きにくい日本では、このカミングアウトの敷居が実に高い。外見的特徴がないゲイというマイノリティでもその敷居が高いのであれば、目立つ特徴のあるユニークフェイス当事者ではもっと敷居が高くなります。
 わたしの知る限り、ユニークフェイス当事者として、その生き方をカミングアウトしている現代日本人は、
太田哲也氏(熱傷の当事者)
http://www.keep-on-racing.com/
藤井輝明氏(海面状血管腫の当事者)
http://www.fujiiteruaki.jp/
そして私くらいです。女性はひとりもおりません。

 なぜそうなってしまうのか?
 ゲイには「ゲイカルチャー」と呼ばれるものがある。それは好みの同性を獲得しようという「欲望」に根ざした動きがあるからでしょう。
 部落差別をテーマに執筆活動をしている角岡伸彦さんにも、部落の文化的な価値への評価があります。
 目を転じれば、障害者にもその生活に根ざした文化があるという立場から「障害文化」を論じる人も現れるようになりました。女性にも、在日にも、障害者にも、ゲイにも、マイノリティにはそれぞれの属性にともなって、欲望があり、そこから文化が生まれています。
 このような歴史的な厚みのあるマイノリティ文化をみていると、ユニークフェイス当事者のひとりとして、うらやましい、と思ってしまいます。

 マイノリティには、「不幸比べ」をする傾向があります。
「自分の方がしんどい」と主張できる事実や根拠を並べ立てて、その困難さを主張して、「あんたたちは恵まれている!」とする態度です。
 これは、ワガママで、独りよがりな主張ではありますが、その背景には「欲望」の対象がなく、よって「文化」が生まれようもない、という疎外感が根っこにあるのではないでしょうか。
 そのような疎外のなかに立ちつくしているマイノリティ当事者たちは、カミングアウトはしない。もしカミングアウトをしてしまえば、自分よりも恵まれた人たちに対して、不幸をまた語らねばならないから。でも、語らないと伝わらない。語ると、惨めさが募る。こんな悪循環があり、そこから目をそらしていくことで、問題が先送りされ、その問題は社会に伝わる機会を喪失していく。
 ユニークフェイス当事者による反差別運動を展開していると、このようなカミングアウトできない多くの当事者と向き合うことになってしまいました。
 

●当事者による当事者嫌いをどうするか?

 当事者がカミングアウトを避ける、嫌悪する、という傾向は、ゲイのなかにもあると伏見さんは書かれています。

「当事者の中のホモフォビアを解除することの困難さのほうが、大変だった気がします」(40ページ)

 ゲイであることは医療によって治すことはできません。ある人間が異性に欲情するか、同性に欲情するか、それはコントロール不能なことです。
 顧みるに、ユニークフェイス当事者たちは、医療によって治る、という情報にさらされています。治療によって、ユニークフェイス当事者であることをオールクリアにして、まっさらな普通の人間になって、人生のやり直しに希望をもっています。
 それは高度な医療技術を誇る日本では、普通の欲望である、と奨励されている。
 医療技術という、顔の付け替え、顔の全面改修手術によって、スティグマを取り去りたいという欲望が強固であるため、ユニークフェイス当事者たちの解放運動は、常に引き裂かれた状態に陥ることになります。
 

●「治療派」と「開き直り派」の溝

伏見さんは『欲望問題』の後半で、映画『X-MEN』についての言及されてますね。

 私もこの映画が大好きです。完結編をまだ見ていなかったので、さっそくレンタルショップで借りて見てきました。

 そして、ミュータントであることを治療するクスリをめぐるミュータント同士の「内ゲバ」が、ユニークフェイス解放運動のなかにある、「治療派」と「開き直り派」との間に横たわる溝とだぶって見えました。

「その顔のアザは治療できる」

という医療産業からの誘い。

「治療して普通の顔になれるのならば、なんとしても治してあげたい」

という親心。

 この2つの勢力の誘いに応じて、治療を受ける当事者たち、それを励ます親たち。一部の当事者だけが「完治」し、多くのものは不治のまま放り出される現実があるのですが、当事者たちは治ることに賭けます。
 年長者のユニークフェイス当事者ならば、医療は常に不確実であり、完全にその顔が普通になることはありえない、ということはわかっています。しかし、このような事実を正面から受け止めようという、当事者はいません。まずは治療を受ける。その治療の過程で、現実を知り認めるようになっていきます。その現実を容認できない人は、名医を求め、完全なメイク技術を求めて漂流していく。
 このとき、欲望の方向は、ふたつのベクトルに分岐し、それぞれの当事者は、その分岐点で立ち往生してしまう。
 治療をあきらめないで続けるか、あきらめて開き直るか。
 医療への欲望が高い人ほど、ユニークフェイス解放運動には関心がない。医師との良好な関係をつくることに価値をもち、解放運動からは距離を起き、治らないユニークフェイス当事者とは関係がないという人生を選択していくのです。
 医学には限界があるという情報は、これから治療を受けるという当事者にとってはどうでもいい情報です。
がん患者に対して、がんを制圧する手段はまだ確立していない、という合理的説明はなんの力にもならないのと同じように。
 この環境下では「治療派」と「開き治り派」は別世界の住人として生きることを余儀なくされていく。
 同じような現象は、カモフラージュメイクについてもあります。
 カモフラージュメイクによってアザが隠せる「軽症」の当事者と、隠せないほどの巨大なアザのある「重症」の当事者との間にある感情の壁。
 まったく人間は小さな違いに気づき、それぞれを避けていきます。
 健常者のなかにあるユニークフェイスへのフォビアとも相まって、「治療派」と「開きおなり派」は、孤立したり、場当たり的につながったりして、烏合集散を繰り返しているようです。
 

●X-MENにみる「外見階級制」

『X-MEN』のなかで争う、ミュータント集団にも「外見の階級制」が存在していることがわかり、私はハリウッド映画の奥深さに慨嘆しました。
 人類を征服しようとする磁力を操る男(磁力は軍事力の象徴でしょうか)、そして人類との共存を目指すテレパシー能力を持ったリーダー(このテレパシーは善政という政治力の象徴なのでしょうか、あるいはボジティブシンキングという現代日本の感情労働の形態なのでしょうか)。この両者のリーダーの外見は普通なのです。
 大勢の人間を牽引しているリーダー的な資質には、普通の人間であることが求められます。普通の外見なのだが、内面には思想があり、その周辺には信奉者がおり、その関係性から権力が生まれる。
 しかし、その双方のリーダーの下で働く部下のフリーク的である、カメレオンのように皮膚細胞が変化する女性ミュータントは、治療薬でその特殊能力が消えたとき、ただの美人になってしまう。
 これもまた、ハリウッド的でした。大衆のもとめるビジュアルという欲望に忠実なのです。魔法が解けたあとの女性の容姿はブサイクでは興ざめなのです。
 健康で筋肉質(またはセクシー)な身体イメージを武器に世界の映画市場を征服しようとするハリウッドらしいといえばらしいのですが、ミュータント軍団のなかにある「外見の階級制」について、多くの人はみのがし続けていくでしょう。
 これはただのフィクションではありません。
 現実の私たちの世界を反映している。
 もし、カメレオンみたいな外見の不細工な男がミュータント軍団のリーダーだったとしたら?この映画はおおくの観客の支持を得ることはないでしょう。
 そこにこそ、観客の「欲望問題」がある。外見によって人を判断したいという欲望がある。欲望を喚起しない身体に、人は差別的な眼差しを注ぎ続ける。

 特殊能力のある人と、ない人との間にはどうしも争いが起きてしまうでしょう。
 ミュータントたちは普通の人間と妥協して生きる道を選ばなければならない。そのミュータント性は普通の人の畏怖と嫉妬を発動させるものです。しかし、ひとりひとりのミュータントにはミュータント・コミュニティを求める孤独という状況がある。マジョリティとミュータントの間をとりもつ者は、その両方の属性を少しずつ保有していないといけないし、その能力によって、相互のコミュニケーションを促進する触媒(メディア)でなければならない。
 『X-MEN』の2人のリーダーは、それぞれが目的のために嘘を言い、ときに人を切り捨てて邁進していく。一人は途中で生物的に死に、もうひとりは社会的に死んでいく。そして社会はその死をのり超えて動いていく。
 どの世界もリーダーは大変です。
 

●少しずつ分かり合えればよい

 1999年からユニークフェイス解放運動をしてきましたが、当事者のなかにある欲望のベクトルの違い、医療への向き合い方の違いを見てきました。
 この欲望の調整のめどは立っていませんし、ずっと解決はないのかな、とも思います。
 ユニークフェイス当事者たちにはゲイのようにコミュニティをつくる必然性はありませんが、互いの生き方の交流をする機会は必要です。
 完全に分かり合えることはないけれど、少しでも分かり合えればよい。
 ユニークフェイス解放運動をして9年目になって、そんなふうに考えられるようになりました。
 伏見さんもこう書かれていました。
「ここ数年、ぼくは、ゲイだからゲイ・コミュニティに属する、という見方ではなく、自分が豊かな人生を歩むのに、ゲイ・コミュニティというフィクションをいかに創造し、それを利用するのかというスタンスに移行しています」(154ページ)

 この一文は、解放運動の歴史がきわめて浅いユニークフェイス当事者である私を励ましてくれました。

『欲望問題』は、ユニークフェイスというフィクションをさらに大きく強く創造するためのよい刺激でした。
 それにしても難しい書物でした。情報量がぎっしり。思想もみっちり。考えさせるキーワードが満載でした。

【プロフィール】
いしい まさゆき
1965年、名古屋出身。ジャーナリスト、評論家。NPO法人ユニークフェイス代表、ユニークフェイス研究所代表。自称「顔にアザをもつジャーナリスト」として執筆活動を行う。

HP:ユニークフェイス研究所/石井政之 公式サイト
http://uniqueface.biz/

【著書】
「見た目」依存の時代(石田かおりとの共著)/原書房/2005.11/¥2,400
人はあなたの顔をどう見ているか/ちくまプリマー新書/2005.7/¥700
顔がたり/まどか出版/2004.10/¥1,400
顔面バカ一代/講談社文庫/2004.9/¥533
自分の顔が許せない!(中村うさぎとの共著)/2004.8/¥760
肉体不平等/平凡社新書/2003.5/¥700
知ってますか?ユニークフェイス一問一答(松本学、藤本輝明との共編著)/解放出版社/2001.12/¥1,000
見つめられる顔 ユニークフェイスの体験(松本学、藤本輝明との共編著)/高文研/2001.9/¥1,500
迷いの体/三輪書店/2001.2/¥1,500
顔面漂流記/かもがわ出版/1999.3/¥1,900

◎共同通信配信で斎藤環さんが書評をお書きくださいました。

2007-03-14 ポット出版

◎共同通信配信で斎藤環さんが書評をお書きくださいました。
伏見憲明・公式サイト :共同配信で斎藤環氏が書評をご参照下さい。

赤川学[社会学]●欲望問題から制度問題へ

2007-03-13 ポット出版

 伏見さんと直接お会いしたことはない。しかし私にとっては永遠の先輩である。1991年、衝撃のデビュー作『プライベート・ゲイ・ライフ』が出版されたとき、私はセクシュアリティ研究を志したばかりの駆け出し院生だった。むさぼるように読んだ記憶がある。また1997年に刊行された『性のミステリー』は、私が大学教員としてはじめて講義したとき、真っ先にテキストとしてとりあげたものである。伏見さんの思想との対峙が、私の研究生活にとって重要な課題であり続けたことはまちがいない。

 今回の『欲望問題』は、90年代から現在にいたる、伏見さん自身の思考の歴史といえる。ゲイとしての「痛み」を「差別−被差別」という文脈に置いた90年代の初頭。ゲイ解放運動を含めた反差別運動についてまわる弱者至上主義に疑問をもちはじめた世紀末。そしてさまざまな「他者の欲望に対して、できるだけそれを可能にするように、そしてその結果が社会の成り立ちと維持に矛盾しないように、いっしょに考えていく」ことを選んだ現在。伏見さんが積み重ねてきた思考の展開が、わかりやすく書かれている。

 伏見さんが現在取り組んでいる課題は、ポルノやオナニーや少子化の問題を場当たり的に考えてきたにすぎない私にも、驚くほど胸に沁みいるものであった。私なりにいいかえると、それは、様々な欲望を抱える人びとが、「性への自由」と「性からの自由」を同時に両立可能な社会制度を、いかなる原理原則のもとに構想しうるか、という課題なのである。あえていえば21世紀のセクシュアリティ研究は、「欲望問題」の先にある「制度問題」へと歩を進めていかざるをえない(それは、かつての弱者至上主義的な反差別運動からも、保守派とジェンダー・フリー派の不毛な対立からも、さしあたり距離を置く形でしか成立しえないだろう)。伏見さんは、堂々とその先陣を歩もうとしている。

 ひとりでも多くの人が、わたしたちとともに、この課題を共有してくれることを願ってやまない。

【プロフィール】
●あかがわ まなぶ
1967年、石川県生まれ。社会学者、東京大学助教授。近代日本のセクシュアリティの歴史社会学、人口減少社会論を中心に研究を行っている。

【著書】
構造主義を再構築する/勁草書房/2006.11/¥2,800
〈社会〉への知/現代社会学の理論と方法 下 経験知の現在(野宮大志郎、坂元慶行らとの共著)/勁草書房/2005.8/¥3,500
東京スタディーズ(吉見俊哉、若林幹夫らとの共著)/紀伊國屋書店/2005.4/¥2,000
子どもが減って何が悪いか!/ちくま新書/2004.12/¥700
〈身体〉は何を語るのか(見田宗介、内田隆三らとの共著)/新世社/2003.3/¥2,100
構築主義とは何か(上野千鶴子、竹村和子らとの共著)/勁草書房/2001.2/¥2,800
日本の階層システム4 ジェンダー・市場・家族(盛山和夫、尾崎史章らとの共著)/東京大学出版会/2000.6/¥2,800
セクシュアリティの歴史社会学/勁草書房/1999.4/¥5,000
シリーズ〈性を問う〉2 性差(大庭健、青野由利、長谷川真理子、金井淑子、広瀬裕子との共著)/1997.6/¥2,800
現代の世相1 色と欲/小学館/1996.10/¥1,550
性への自由/性からの自由/青弓社/1996.8/¥2,200

円山てのる◎フロントランナーへの親近感と共に、正義の虚しい大旗を丸めて片付ける身軽さを覚えた

2007-03-08 ポット出版

 伏見憲明さんが書かれた本——『欲望問題』を読みました。

 良書です。お奨めできます。
 この本に興味を惹かれた最初は、サブタイトルとして書かれていた、「人は差別をなくすため”だけ”に生きるのではない」という一文に納得できたことです。
 また、面白いことに、このサブタイトルを見ただけで、伏見さんが言わんとされていることが薄々承知できたような気になりました。
 伏見さんは、僕とほぼ同い年のようです。あいにく面識はありませんし、彼の書物を全て読んだわけではありません。むしろ、読んでいないほうかも知れません。
 皆様ご存じのように、伏見さんはお若いときから、日本における、いわゆるゲイリブに携わってこられたフロントランナーのお一人です。
 であるにも関わらず、ゲイリブのゲの字にも関わってくることをせず、いまごろになってノコノコ・チマチマと、斯様にささやかなゲイ・ブログを書いている僕のような端くれゲイが、こと差別問題を巡って共感できるとは、本当に意外なことですし、新鮮な驚きでもあります。

 ゲイの差別という言葉を使いながら、僕もまた伏見さんのように差別という言葉に違和感を感じていたのです。言い換えると、差別という言葉しか無かったから、これを使っていたに過ぎなかったし、仕方ないから、それにいろいろと注釈を付けてきたのかも知れません。
 また、差別はいけないと言うとき、そこに、差別することは”正しくないから”という、どこか取って付けたような裏打ちを施さなくてはならなかったことに、「じゃ、俺は、そう言えるほど正しい人間なのか?」という”こそばゆさ”が伴っていたことも確かです。
 正義をバックボーンに据えてしまうとき、そこに、どこか空虚な倫理観を備えなくてはならなかったり、教条的ないい子ちゃん振りを装っていなくてはならかなった、僕自身の居心地の悪さが、正直言って嫌でした。
 しかし、それでも、ゲイを差別するな——と、言わなくてはなりませんでした。
 違和感、こそばゆさ、居心地の悪さ、——これらは、ゲイの差別について語るとき、実は不愉快に僕の自信を削ぐものでしたし、それがゆえ、必要以上に力を込め、本当に思っていること以外のことまで、強い言葉遣いで過激に書き放ってしまわなくてはならない、その空回り現象を引き起こしていたのです。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
P.49 実際に、「オカマ」という言葉一つをとっても、それで傷つく人、傷つかない人、積極的に用いたい人、用いるべきだとは思わない人……当事者の中でさえも、さまざまな感じ方、考え方があって、一概にそれが差別語だとは言えません。つまり、自分の「痛み」だけでは、そのカテゴリーを代弁していいことにはならないし、したがって、特定の個人の心の「痛み」そのものを「正義」とすることはできない。とすれば、マジョリティに対しても、自分の「痛み」だけを根拠にそれが差別だと言えるわけではなくて、当事者の中でも、あるいは社会においても、その「痛み」の訴えが妥当なものかどうかいろいろな角度から議論する余地がある、との結論です。
 ……………………
P.55 単純に一つの立場から、この世界を自分とそれ以外の人々の力関係に置き換えて見ようとするのは、どうしたって無理があるし、やはり傲慢だったと反省しました。
 ……………………
P.55 ……そうして考えてみると、自分が経験したことを「差別問題」とするのではなく、「欲望問題」として捉えるのが適切だと、いま、痛感するのです。一つの欲望の社会における可能性の問い、「欲望問題」として始まった同性愛の生存が、結果として同性愛者以外の人々との間に了解が得られ始めているのだ、というふうに見えてきたのです。それは最初から「正義」としてあったのではなく、自分の欲望を実現したいという声が発せられた結果として、正当な訴えとしての理解を生みつつある、とするのが客観的な見方なのではないでしょうか。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 差別という言葉を、欲望という概念に読み替えたとき、心にもなく振りかざさなくてはならなかった正義の虚しい大旗を、くるくると丸めて片付けてしまえる身軽さを覚えますし、ともすると差別を語るときの”痛み”が押し遣ってしまう、本来なら居残っていても良い”楽しみ”を、世の中に共存させておくことができるのです。
 伏見さんの本は、そうした新しい思想を提示してくれたのだと感じられ、そこに共感をもたらすのだと思います。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
P.123 ……やはり、人は楽しい方向でこそ、変化していくのです。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 同性愛者としての痛みから解き放たれることを求めるいっぽう、同性への欲望を貫こうとすることへの後ろめたさを感じるとき、そこに差別感と、それを粉砕するための正義を持ち込むのでなく、どちらも等価な欲望のヴェクトルだと認識することで、バランス良く折り合いを付けることができるのでしょう。

 こう簡単に纏めてしまうと、至極当たり前に読めてしまうものです。
 いつぞや僕のブログでも議論になった、セックスの乱れを乱れと見るか否かと、いわゆる乱交を含むセックス・スタイルの多様性を認めるかどうか——について、僕が乱れていると感じるセックス・スタイルだって、頭ごなしに否定して排除しようとは思わないし、またそのいっぽう、乱れているものを乱れていると直視する度量を持つことが、ひいては僕らゲイ自身を主張する上で、ゆくゆく有効になる、という、いっけん矛盾するような僕の見解をも、すんなりと説明できるように思います。
 つまり、正義をかざして倫理観を説くつもりがない上で、いっぽう、乱れているものを乱れていると率直に認識し得るのでしょう。
 すなわち、欲望問題の文脈で語れば、正義・倫理を旗印として差別を論じるのではないのですから、欲望を真っ直ぐに欲望として認めてしまうことで、乱交する人たちの欲望と、僕自身が抱く”乱れているという感想”と、折り合いを付けることができてしまえるし、両者を俯瞰して客観的に捉えることが可能になるのでしょう。
 ちょっと、ややこしい話になりましたが。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
P143. ぼくが注目したいのは、ミクシィ内のコミュニティという場です。
(……中略……)
参加資格がゲイオンリーのコミュニティもそこで数多く運営されています。
(……中略……)
こうしたコミュニティでは、性的パートナーを探すとか、ゲイとしての問題を共有する、という面ばかりでなく、ゲイという共同性の中でのコミュニケーションを楽しみたい、という意識が働いているように見えます。それぞれのコンセプトとセクシュアリティは関係ないにもかかわらず、ゲイにこだわったコミュニケーションを求めているわけです。つまり、そこにあるのは、ゲイとしてゲイに関わりたいという欲望です。ありていに言えば、ゲイ同士であることが楽しいのでしょう。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 ゲイのアイデンティティーに関しては、伏見さんの見解と僕のとでは、若干の相違があるようですが、然してあげつらうほどのことはありません。
 僕は、将来、ゲイであるかレズビアンであるか、あるいはストレートなのか、バイセクシュアルなのか、トランスジェンダーなのか、これらは血液型の違いほどの、さほど難しく拘る必要のない個人的項目の一つに収まってしまえば良かろうと考えています。
 そういう観点から、そも同性愛者と異性愛者とが、普段から、どちらも顕在化した状態で、ごく自然体で混じり合っている態が、望ましいのではないかと感じています。
 何でもかんでも、ことあるごとにゲイばかりの集合体が出来て、それが一団となって何かをしている、ゲイ以外の人々を排除する、意図的に異性愛者に距離を置き続ける、——という会員制的感覚は、ほどほどにしたいものと、僕は思います。
 でも、それは同性愛、異性愛というカテゴライズを消してしまえとか、ゲイとしてのアイデンティティーを捨ててしまえと言っているのではありません。
 同じ日本人の中に、東北出身の人々も、関西出身の人々もいて、同県人だとか同郷の人間同士であることが、特別な親しみを催させたり意気投合させたりするように、ゲイならゲイで、仮に同性愛者と異性愛者の垣根がなくなった世の中であろうと、ゲイ同士だからこその楽しみを謳い、同じ仲間同士ならではの共感に浸りたいために、ゲイばかりが集まるコミュニティーが維持されるのは、一向に構わないと思っています。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
P.146 だからといってぼくは、ゲイ・コミュニティという共同性を絶対化しようとか、ゲイ・アイデンティティを普遍的なものだと言いたいわけではありません。そうした共同性がなくなっていくのならそれはそれでいいし、ゲイたちがゲイというアイデンティティを必要としなくなれば、消えればいいものだと思います。それに固執しなければならない理由はありません。
(……中略……)
しかし人間というのは共同性からまったく独立した存在としてはありえないし、たぶんそれを足場にしていなければ幸福でもないでしょう。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 伏見さんとは見解が少し違うと書きましたが、ここまで読めば、実は僕と考える順番が逆だっただけで、言いたいことは少しも変わらないようにも思えてきます。いえ、きっと彼のほうが、もっと深いところから思索しているのでしょう。

 末尾では、映画『X-MEN』になぞらえて、性的マイノリティーと、それ以外のマジョリティーとの関係を炙り出した上で、ゲイの共同性の未来を展望しています。
 その中で、やはり先般、僕のブログでも話題にした”ゲイをノンケに変える薬”のようなものを想定した論述が、僕の興味を惹きました。同じようなテーマが言及されていたこともそうですが、この本の冒頭で、伏見さんが十代の頃、ご自身の同性愛を異性愛に変えようと努力したことが記され、それに対応するように、本の最後で、
 
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
P.170 ただ、もし、同性愛を異性愛にする薬ではなく、同性愛も異性も好きになる薬が開発されたらどうでしょう。貪欲なぼくはその薬を試すこともあるかもしれません。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 ——と書かれているところなど、まさしく、人間、誰しもバイセクシュアル的原型を有していただろうこと、またそれゆえに、バイセクシュアル的欲求を内含している可能性があることへの同意とも受け取れ、要は、かなりの部分で、伏見さんは僕と同じようなことを思われながら、同性愛問題に関わるお仕事をしてこられたのだなと、フロントランナーへの敬意を表しつつも、それとは別の新たな親近感を、自分勝手に抱いたような読後感でした。

【ブログ】
『低能流[ゲイ]文章計画』
http://tapten.at.webry.info/
 
該当記事
http://tapten.at.webry.info/200703/article_3.html

エスムラルダ[ドラァグクイーン]●そんな、ごく「当たり前」のこと

2007-03-08 ポット出版

 20歳の時に初めてゲイの友人を得、「ゲイはセクシュアル・マイノリティである」と教えられた私は、それからしばらく「マイノリティとしての誇り」を胸に生きていました。「マイノリティだからといって、誇りを失ってはならない」「マジョリティの生き方や考え方に迎合する必要はない」などと考えていたのです。私が「同性が好きな自分」を肯定するためには、こうした強烈な「マイノリティ・イズム」が、一時的に必要だったのでした。

 しかし「マイノリティ・イズム」は、いつしかうやむやになっていきました。日々の生活に追われ、「(マイノリティだのマジョリティだの言う前に)自分自身がどう生きるか」の方がはるかに重要な問題になってしまったためです。また大学や会社でのカミングアウトが意外とあっさり受け入れられ、「誇り」を振りかざす機会がなかったせいでもあり、「非婚・難婚・晩婚ノンケ」の増加や労働力の流動化によって、「マジョリティの生き方や考え方」という概念自体がよくわからなくなってしまったせいでもあります。

 そんな私が2002年から、何故か、東京で行われるセクシュアルマイノリティのパレードの運営に関わることになりました。「苦労自慢」になってしまうのは嫌なのですが、パレードの準備は結構大変です。おびただしい数の会議に出席しなければなりませんし、私の場合は猛暑の中、大量のグッズをショップに運んだこともあれば、風邪で熱を出しながら、広告費を回収しにスポンサーのもとへ行ったこともありました(あえて大変そうなエピソードを選んでみました)。

 そういった作業を完全ボランティアでやっているパレードの運営スタッフが、時に「セクシュアルマイノリティの中のマジョリティであるゲイが多数を占めている」「だから、他のセクシュアルマイノリティに対する配慮が足りない」といった「批判」を受けることがあります。

 かつては自分を「マイノリティ」だと思っていた私ですが、今度は「マジョリティ」に鞍替えです。そして、上記のような「批判」を目にし、耳にする度に、私は心の中で「ゲイ中心にならないよう、スタッフもできる限りのことをしているのに!」「マジョリティ認定されたら、マイノリティのどんな要求にも従わなきゃいけないわけ?」と反発したり、「そもそも全セクシュアルマイノリティの中で、パレード運営スタッフの人数なんて、ごくわずか。つまり『マイノリティ』なのだ! 運営スタッフにも人権を!」と主張してみたりするのでした。

 ……ごく私的な体験談が、ずいぶん長くなってしまいました。

 世の中というのは、本当にままならないものです。
 「マイノリティ」だったはずの自分が、ちょっと視点を変えただけで「マジョリティ」になる。「マジョリティ」からの価値観の押し付けに抵抗しているはずの「マイノリティ」が、逆に自分たちの価値観を、一方的に他人に押し付けていることもある。「性役割」や「枠付け」、「アイデンティティ」などは、時と場合によって必要にも不要にもなり、それらに縛られすぎたり、あるいは完全になくそうとしたりすると、さまざまな歪みが生じる。物事に線を引き「二項対立」の図式で捉えるのは、単純でわかりやすいけれど、そればかりに終始すると問題の本質を見失う。物事を論理的に考えることは大事だけれど、人の感情や現実のありようを無視して完璧な理論を組み立てても、それは「机上の空論」にすぎない——。

 要するに、世の中に絶対的なものなどなく、何事もいきすぎるとロクなことにならない。そして、「いきすぎ」を防ぐためには、常に「(他人を、ではなく)自分自身を疑う」必要がある。また、世の中のさまざまな問題を(より多くの人が納得できる形で)解決するためには、「あらゆる立場の人が、他人の欲望(事情、価値観、主張、と言い換えてもいいかもしれません)をきちんと理解し、話し合い、それぞれの欲望をすりあわせて『落とし所』を見出す」しかない。

 この本に書かれているのは、そんな、ごく「当たり前」のことです。
 しかし「当たり前」のことを言うのに、著者はわざわざ「欲望問題」という新たな概念を提示し、一冊の本を費やさねばならなかった。それだけ、従来の「差別問題」が(いや、実際には「世の中全体が」ですが)抱えている問題の根が深い、ということなのかもしれません。

 伏見憲明さんは、(何だかんだ言っても)非常にバランス感覚が良く、そして常に自分を客観視しようと心がけている方だと、私は思っています。だからこそ、15年以上も「(主に同性愛の)差別問題」に取り組んでいながら、「『差別問題』が抱えている問題を、自身の過去の言説を反省しつつ詳らかにする」ことができたのであり、「命がけで」この本を書かずにはいられなかったのでしょう。
 難しい問題に、あえてメスを入れられた伏見さんの勇気と覚悟、そして愛情に、心から敬意を表したいと思います。

【プロフィール】
1972年、大阪府生まれ。ライター兼ホラー系ドラァグクイーン(東京都ヘブンアーティスト)。携帯サイト「公募懸賞ガイド」、雑誌「CDジャーナル」「フォアミセス」等に、コラムや漫画原作を執筆中。
 
HP:
『エスムラネット』
http://www3.alpha-net.ne.jp/users/murapon/