速水由紀子[ジャーナリスト]●性的アイデンティティは危うくて、形も公式もないもの

 本著を読んでいて、まだ90年代半ば、「AERA」で大学のゲイサークルの活動を取り上げたときのことをふと思い出した。
 インターカレッジで都内のゲイの大学生が集まり、コミュニティを作って積極的に活動している、という内容を「キャンパスに花咲くゲイルネッサンス」というタイトルで紹介したものだ。私としては欧米の動きや本著の著書、伏見氏の活動などにも触発されたこのポジティブな動きに、エールを送りたかった。が、記事に寄せられた手紙にはこんなものがあったのを鮮明に覚えている。
 「ゲイだということを家族や妻子、会社にも隠し続け、50半ばの今までどんなに辛い思いをしたか。それを決してわからないあなたに、そんなお気楽な記事を書いて欲しくない」。ざっとそんな内容で、社会環境に偽装結婚を強いられた世代の痛み、と私には感じられた。
 が、あれから10年以上経ってゲイへの理解は格段に浸透しているはずなのに、ごく最近も、周囲に隠し続けていて辛いというケースを取材した。しかもかなり若い男性である。つまり、これは世代の問題ではないのかもしれない。
 ゲイというテーマは、今の日本社会の中にあると、「自分は同性を愛する人間だ」という事実よりも、「自分はゲイだということをカミングアウトして生きて行く人間」か「ゲイだということを親や職場に隠して生きて行く人間か」という問題の方が大きくなっていく。すると誰を愛するか、というテーマそのものより、自分の社会的スタンス、親の理解の高さ低さ、環境の文化の成熟度などという、裾野の問題の方が主役の座を奪ってしまうのだ。
 伏見氏は本著でこうした構造的な問題を、自身の感慨をこめながら分かりやすい言葉で解き明かしてくれる。そして、ずいぶん前から、『欲望の問題』に関して私が考えている懐疑を、彼は「アイデンティティからの自由 アイデンティティへの自由」の結論ですぱっと言い切ってくれたのだ。
 Xメンのミュータントを普通の人間にする薬「キュア」を例に出して、伏見氏は言う。「・・・・もし同性愛も異性も好きになれる薬が開発されたらどうでしょう。貪欲なぼくはその薬を試すこともあるかもしれません。今ある自分にさらなる可能性が開けるとしたら、それは挑戦してみていいような気がするのです・・・・アイデンティティは変容するし、させてもいいのです」
 これには深く共感を覚えた。
 私はこれまで「異性愛」「同性愛」を、堅く閉じた輪のコミュニティとして語ることに大きな疑問を感じてきた。たとえば取材で数えきれないほどのストレートの男性が、「ぼくはゲイじゃないけど、この人になら抱かれてもいいと思う」と無数の男性の名前を挙げるのを聞いてきた。たとえばその相手はトニー・レオンやジョニー・ディップや玉木宏や、美形のモデルやミュージシャンだったりする。ではそれが彼女がいるのに、職場の色っぽい同性上司に胸をときめかせている男性だとしたらどうなのだろう? 彼はゲイなのかストレートなのか? 
 日本の職場には「ホモソーシャル」的な同性の交流がさかんだが、これを「男のつきあい」と見なすか「根っこはゲイ的なもの」と見なすかだって、曖昧模糊としている。「女と飲むのは面倒臭いから男同士でしか飲まない」というのだって、見方を変えれば「ブロークバック・マウンテン」的な愛情に見える。
 あるいは結婚していてダンナを大好きだけど、宝塚や「百合系」(腐女子界のソフトレズ系キャラ)のお姉さんに夢中だったりする女性はたくさんいる。その相手がたまたま、職場の同僚だったら? 彼女は同性愛者か異性愛者か? 
 そんな風に、性的アイデンティティは非常に危うい、形も公式もないもので、一生、鉄壁のように揺るぎないものであるはずがない。なぜなら生まれ持った本能以上にパーソナリティで勝負している人は、「男だから」「女だから」恋をするのではなく、人間の個性・特性に心を奪われるのだから。
 だから『欲望問題』を語るのに理想的な会話は、きっと「私はゲイです」「私はストレートです」ではなく、「私は今、7対3の割合で同性に欲情するけど、3の部分では異性の友達の精神性に憧れてる」とか、「ぼくは今、つきあってる彼さえいれば、他の奴はどうでもいい」とか、そういう「個」の感触であるはずだ。事実、若い世代の間では、そういう会話はもう何の抵抗もなく、気楽に交わされている。
 男女の境界が限りなく薄れつつある今、「同性愛」と「異性愛」に二分割する必要性は、どこから生じるのだろう? 私にはそもそも多くの人間がバイセクシュアル的,中性的な要素を持つ中で、たまたま針がどちらかに振り切れた状態、としか思えない。でも次の瞬間、針がどこを指すのか、自分自身にも予測はつかないはずだ。恐らく「結婚」と同じように、社会には恋愛をある種の制度的なシステムに嵌め込むメリットが暗黙に存在し、曖昧な性的アイデンティティはそれを損なう、と考えられているからだ。ここにはアメリカ的な恋愛制度のグローバリズム化を感じてしまう。
 目指すのはむしろヨーロッパの多様な価値の受け入れ方である。恋愛やセックスは法やモラルとは違い、個人の中でたえず揺らぎ変化していく。『オール アバウト マイマザー』や『バッド・エデュケーション』を撮ったペドロ・アルモドバル監督の作品には、その「揺らぎ」を透視する知性がある。誰かの揺らぎを否定することは、自分の中の揺らぎを排除することになるから受容しよう。それが歴史の生んだ知恵のはずだ、カミングアウトに過剰にこだわったり過剰に周囲に隠すのは、先に述べた「テーマの主客逆転」に飲み込まれており、ひいては「2分割のワナ」にハマっているように思えてならない。
 伏見氏はゲイの概念を正しく日本社会に伝え、ゲイの生き方を問うてきたリーダー的存在であり、作家活動で自身の深淵を掘り下げてもいる。
 であるならば、僭越ながら次なる伏見氏の「欲望問題」のテーマは「ゲイであことをカミングアウトして生きてきた人々も、隠し続けている人も、告知の有無の社会的影響から自由になり、ただの個に戻れること」かもしれない。それを受容する、社会の成熟が先決なのだが。
 

【プロフィール】
はやみゆきこ●
ジャーナリスト。新聞記者を経てフリーに。恋愛・家族・学校などの問題について、綿密な取材を基にしたルポや単行本を執筆。

【著書】
サイファ覚醒せよ!(宮台真司との共著)/ちくま文庫/2006.9/¥700
ワン婚 犬を飼うように、男と暮らしたい/メタローグ/2004.11/¥1,300
家族卒業/朝日文庫/2003.11/¥620
恋愛できない男たち/大和書房/2002.11/¥1,600
不純異性交遊マニュアル(宮台真司との共著)/筑摩書房/2002.11/¥1,500
働く私に究極の花道はあるのか?/小学館/2001.11/¥1,400
サイファ覚醒せよ!(宮台真司との共著)/筑摩書房/2000.10/¥1,600
家族卒業/紀伊國屋書店/1999.10/¥1,600
あなたはもう幻想の女しか抱けない/筑摩書房/1998.11/¥1,700
〈性の自己決定〉原論(宮台真司との共著)/紀伊國屋書店/1998.4/¥1,700