松沢呉一[ライター]●欲望のためのジェンダーレス教育を!

『欲望問題』を読んで、やっとジェンダーフリー教育に対する私の立場が明確になりました。もともとそう考えてはいたのですが、整理し切れていなかったのです。伏見氏が意図するように、この本は議論の契機を作り出す力がありそうです。

では、その私の立場を表明することで、本書への賛同あるいは批判とさせいたただきます。

この間のジェンダーフリーをめぐる議論は、もっぱら教育の場でジェンダーをどう教えるか、どうとらえるかについてのものです。ここで私が書いていることもその範囲のことです。

「ジェンダーフリーはジェンダーレスではない」という人々に対して、私は「そんな中途半端なことは言いなさんな」と思わないではいられない。『欲望問題』で指摘されているように、この両者を区分する基準は明示されておらず、明示されていてもさしたる意味がなく、にもかかわらず、「ジェンダーレスではない」とするのは、自分たちの立場を曖昧にし、さらなる批判を招くだけです。

ジェンダーフリー派の不徹底さを批判した点において、私は伏見氏に同意しますが、それ以降において、伏見氏とは大きく立場が違うのかもしれません。゜

私はジェンダーレス教育を支持します。ジェンダーレスで何がいけないのか。

私には、名簿に男女の別がないことの何が問題なのかわかりません。その他のすべての面において、女子と男子がまったく同じ扱いになったところで何が問題なのかわかりません。女子でも、旋盤を触りたいのがいるでしょう。柔道をやりたいのがいるでしょう。男子でも、料理を作りたいのがいるでしょう。新体操をやりたいのがいるでしょう。だったら、やらせればよく、その選択ができるに越したことはない。

「組体操で、女子が下の段になっていいのか」なんてバカバカしいジェンダーフリー批判をテレビでやっていたのを観たことがあります。いいに決まっているじゃないですか。体重100キロの女子を40キロの男子が上に乗せなければならないことの方がずっと理不尽。男女問わず、体重や体力、あるいは本人の希望で下になる生徒を決定すればいいだけのことです。

「現にプロスポーツでも、国体でも、オリンピックでも、男女は別だ」という意見もありましょうが、男女別は学外の活動でやればいいこと、あるいは選択ができる部活でやればいいことであって、等しく参加を強いられる授業でやるべきことではない。

「体育の時間の着替えが一緒でいいのか」との批判も必ず出てきますが、まったくもってその通り、同性だからと言って着替えが一緒である現状がそもそもおかしいのです。同性にだって着替えを見せたくないし、着替えを見たくないのだっているのだから、男女問わず、個人の更衣室を学校が用意すればよい。

同性愛者やGIDのことだけを言っているのではなくて、水泳の着替えで裸になる際、チンコが小さくて(大きくて)恥ずかしい、乳房が小さくて(大きくて)恥ずかしい、陰毛が濃くて(薄くて)恥ずかしい、家が貧乏で汚いパンツで恥ずかしいという男や女の事情を考慮していない実情は解消すべきです。

生徒が減っているのですから、個人の更衣室を作るくらいのスペースはほとんどすべての学校にあることでしょう。そうすることに、学校が維持できなくなるほどの予算や手間がかかるとはどうしても思えません。

個人の更衣室など作れないというのであれば、性別を問わず、すべて一緒でいいでしょう。そんなことになったら興奮しかねない、羞恥心で自殺しかねないというのなら、同性に裸を見せたくないのに晒させ、裸を見たくないのに見せている現状をどうして放置しているのか。

病院でも、他の患者に裸を見せるわけではないのだから、身体検査も一人一人やればよく、同性だから、裸を見ても見られてもいい、同性だから、体重や身長、視力を他者に知られてもいいと考えることが間違っています。小学校であれば、しばしば身体検査には教師も立ち合うわけですが、生徒の裸を見て興奮している教師もいるに違いなく、どうしてそれを放置しているのでしょう。

トイレも同様にすべて個室にして、男女どちらでも使用できるようにすればいい。食い物屋でも家庭でもしばしばそうなっていますが、それで困ることなどありましょうか。「生理用品を男子に見られたくない」というのなら、鍵のかかるゴミ箱を設置すればよい。

予算的、物理的にできないことについては、妥協することも当然あっていいでしょうが、解消できることについては解消すればいいだけです。「完璧にはできない」といくら言おうとも、何もしないことの理由にはならないのです。

なぜこういった差を解消した方がいいのかと言えば、男らしさ、女らしさを個人が選択できるようにするためです。男らしくありたい女、女らしくありたい男の選択をも許す社会であるためには、公教育の場では、「男が男らしく」「女が女らしく」というジェンダーの押しつけは極力ない方がいい。

その環境にもかかわらず、大多数の男が男らしさを求め、大多数の女が女らしさを求めるのなら、個々人の選択の結果として、それもまたよし。いいかどうか知らないですが、個人の領域における少数派の選択が許されていることが保証されている限りにおいて、それも現実ってことで受け入れればよい。

昨秋、街行く女たちのスカート率を調べたのですが、制服を除く、若い世代の服装で言えば、スカートは2割程度です。必ずしもパンツ姿が女らしさを排除しているわけではないのですが、女の象徴とでも言うべきスカートは2割しかいない。冬ともなれば、その率は1割程度に下がっているでしょう。

その結果、女子中高生の制服がやたらと目立ちます。工業高校など一部の高校ではパンツとスカートと二種の制服を選択できるようになってますし、授業中でもジャージ着用が許されている学校もありますが、制服のある高校ではほとんどがスカートです。このことは、女たち自身の選択以上に、スカートを強いられていることを示唆します。

制服廃止運動が盛んだった時代に青春期を送ったためかもしれませんが、スカートでなければ女らしさを実践できないとする現実、あるいは学校教育の中で女らしさを教えなければならないとする現実には今も違和感があって、そんなもんは学校で教えるべきことではありません。

伏見氏はジャージ姿の女は魅力がないかのように描写してますが、これは彼が想像するヘテロイメージにすぎず、クラブにでも行けばジャージ姿の女の子たちがいて、私は欲情しっぱなしです。

体育の時間に着たジャージとは違うわけですが、「体育の時間に着たジャージではないジャージで男を惹きつける」という選択もまた可能ってことであり、その選択を最大限認め、「ジャージよりもフリルのついたスカートがいい」という男を惹きつける選択も最大限認めるためには、制服なんてやめてしまえばいいでしょう。それでもなお9割がスカートになるのだとしても、それは選択の結果であり、教師が「女らしい格好をすべきではない」なんて言う必要はない。

あるいは学校は性的な魅力をアピールする場ではないのですから、男女ともに同じ制服にしてもいい。それこそジャージでいいのではなかろうか。

どうもジェンダーについてはこういう考えがスムーズには受け入れられないようですが、他のジャンルでは当たり前のように実践されています。公立の学校で、池田大作の本を読むことを強いれば多くの人が反発することでしょう。学会員だって、そこまでは要求しまい。するのもいるかもしれないけど、決して受け入れられまい。

名簿を宗派別にすること、教室の前に神棚があること、給食でブタ肉を禁止すること、生物の時間に「人類は神が作り給うた」と教えることも反発されるでしょう。当然です。

これは無宗教を強いるためではなくて、あらゆる宗教を信じることの自由を保証するためです。ですから、家でその生徒が大川隆法の本を読んでいようと、日曜日に教会に通っていようと、家族間で手かざしをしてようと、学校や他の親たちがとやかく言うことではありません。もちろん教師の信仰も同様に保証されなければなりません。

思想においても同じく学校で偏向した教育をするのは好ましくない。しかし、生徒がどんな思想をもつのも勝手、あるいは親が子どもにマルクスの「資本論」を読ませるのも、ヒトラーの「わが闘争」を読ませるも勝手。

なぜこれがジェンダーにおいて受け入れられないのかが私にはわからない。ここで宗教や思想を例にしたのは、宗教や思想とジェンダーとが同じだと言っているのではなく、考え方を見せやすくするためです。ジェンダーには生物としての性が関係しているため、どうやっても意識しないではいられないものだろうとは思います。

しかし、宗教においても、文化、習俗、習慣に根付いている部分があるため、それらを完全に排除することは難しいでしょう。そこをことさらに取りあげて、「だったら、教師が初詣や墓参りに行ったことを生徒の前で表明することもできないのか」「修学旅行で神社仏閣に行くこともできないのか」「学校でクリスマスを祝ってはいけないのか」と、公教育に特定の宗教を持ち込まないことを全否定する人はいないでしょう。

「宗教と文化、習俗、習慣」「公教育と私的領域」の間の一線をどこに引くのかを決定するのはたしかに難しい。難しいながらも、また、曖昧な部分を残しながらも、この国では、一応は、公教育に特定の宗教を持ち込まないというルールが支持されています。

にもかかわらず、ジェンダーにおいては、細部で全否定したがる人がいかに多いことか。組体操しかり、トイレしかり、着替えしかり。

「男は男らしくあらねばならない」というのなら、自分が実践すればよいことです。「男らしくない男を受け入れられない」というのであれば、同様の男たちだけと交流すればよい。そういう男にのみ性的魅力を感じるのであれば、そういう男と自分がつきあえばいい。そのことがどうして教育という場で実践されないと、自分が男らしくいられないのか、自分が男らしい男とつきあえないのかがわからないし、どうして「男らしさ」「女らしさ」を学校が担わなければならないのかがわからない。

「男らしさ」「女らしさ」は学校教育の範疇ではなく、男らしい子ども、女らしい子どもにする教育が望ましいというのなら、親が家庭で実践すればいいだけです。

『欲望問題』において、「ジェンダーレスの社会が可能か不可能か」が、この問題の判定基準になっているかのように見えるところがあるのですが、その意味も私にはわかりません。「宗教がなくなる社会が可能か否か」と「公教育の場で特定の宗教が教えられることの是非」とは無関係であり、可能か否かの議論をする必要さえありません。「宗教はなくならない。だから、公教育の場に持ち込んではいけない」という論理が可能だからです。

有効であるとするのなら、「公教育の場で特定の宗教を教えないことは不可能あるいは有害」「公教育の場でジェンダーレス教育は不可能あるいは有害」という批判であらねばならないはずです。

もはや言うまでもないことですが、私はジェンダーのない社会を目指しているわけではありません。一律のジェンダーで統一されるどんな社会も目指していない。個々人がそれを選択した結果として一色に染まることや、ジェンダーが消失することはいいとしても、それを強いることにも反発している。「ジェンダーをすべて解消する社会にすべし」とするジェンダーレス教育にも私は反対なわけです。

この議論は、売買春の議論と通底しています。私が「売防法撤廃」を主張しているのは、誰もが売買春をする社会を求めているのではなく、売買春をするもしないも個人の自由である社会を実現するためです。その自由を妨害する制度に反対をしています。

売買春をしたくない人、してはならないと考える人はしなければいいだけであって、その個人の思想や信念、体質、趣味、嗜好と、国家の制度が合致していないと納得できない人たちを一貫して私は批判しています。

「売春するような女は不潔だ、買春するような男は野蛮だ」という感覚をもっている人たであっても、娘に「おまえが売春したら勘当だ」と日々言っている人であっても、そのことを国家に支えてもらう必要はないのですから、矛盾なく売防法反対を言っていい。

風俗ライターを廃業して以降、私は風俗店にまったく行かなくなってますが、それでも売防法反対の立場は変わらない。矛盾があろうはずがないのです。

「不倫はいけないことだから楽しい」と考える人たちは、個人として「不倫はいけない」という価値観を頑なに守り、同様の価値観を持つパートナーを探し、その上で不倫をすればいい。これを姦通罪という法で維持してもらう必要はないのだし、教育の現場で、「不倫はいけない」とことさらに生徒に教えなければ自分の信念を支えられなくなるはずもない。

そんな法がなくとも、そんな教育がなくとも、多くの人たちは個人の信念として、あるいは個人と個人の約束として、「不倫はいけない」という価値観を維持してます。その上で不倫を楽しんでいる人もいます。

『欲望問題』で提示されている個々人の欲望による選択というのは、まさにこういうことであり、一般に「不倫がいけない」という価値観が広く浸透しているのは、姦通罪や「貞淑であるべき」という教育によって国家が強制していたためではなく(これもあるにせよ)、個々人の内面から出てきた欲望に基づいたルールであることが想像できます。それさえも社会によって作られたものであるという言い方も可能ですが、だとしても、それに委ねればいいだけで、法や社会制度に依存しなくていい。

一方には、そのルールを共有しない人たちもいて、それはそれで個人が実践すればいいことであり、事実、実践しているカップルもいます。互いに互いの行動には干渉しないとか、互いに互いの行動を報告し合うことで興奮して性生活に潤いを持たせるとか、一緒にスワッピング・パーティに参加するとか。それを国が罰する必要などありはしないでしょう。

これらの多様な人々が共存できるためには、姦通罪などいらないってことであり、同じく売防法もいらない。そして、教育の場でのジェンダーの押しつけもいらない。

つまり、この問題は、道徳規範や個人の価値観が決定すればいいことを教育の場に委ねること、国家に委ねることの是非についての議論にほかなりません。換言するなら、「自分の子どもをどう育てるのか」についての親の権利を譲り渡していいのかどうかの議論です。

「自分が不倫をどう感じるか」「自分が売買春をどう感じるか」の個人の感覚を国家が支えてくれないと納得できない人たちの気持ち悪さは、「自分の男らしさ、女らしさの感覚は、教育の場で他者に強いないと実現できない」と考える人たちの気持ち悪さと一緒です。

さらに言えば、この気持ち悪さ、バカバカしさは『欲望問題』の中に出てくる、子どもに「男らしく」と躾ることを躊躇う親にも通じます。それがいいと思えばそう育てればいいでしょう。そのことと、教育の場でのジェンダーレスは矛盾するものではない。

家では夫が妻を縛りあげて逆さ吊りにして、ムチで叩いたり、ロウソクを垂らすSM趣味の夫婦が、あるいはその逆の趣味の夫婦が、学校に対してはジェンダーレスを求めることになんの問題がありましょう。

個々人が自らの欲望に忠実であるために、ジェンダーレス教育が実現されるべきという私の立場から見た時に、たしかにジェンダーフリー教育を支持する人々は、「社会制度がどうあるべきか」「個人の嗜好がどうあるべきか」の関係がクリアではないように見えるところがあります。方向が違うだけで、「男は男らしくあるべき」という個人の価値観を国が共有しないと納得しない人たちと同じ原理で動いているのではないか。

もし私が「女らしい女がいい。オレがわがままを言っても文句を言わず、浮気をしても気づかないふりをして、素直に従う女が一番」と個人の嗜好を語ったとしても、彼らは怒り出しそうです。現実にはそうは思ってなくて、「つきあうならヤリマンか売春婦」と私はよく言ってまして、たぶんこれも受け入れない人たちがいるのでしょう。個人として受け入れないことはいいとして、こういう人たちはそれが社会の当然のルールであるかのように排除してきます。こういう人たちからは排除されっぱなしですよ、私。

しかし、そういう私の選択を認めることを前提としない限り、公教育の場での男女格差をなくすことは、価値観の強要にしかならならず、多くのジェンダーフリー論者と私が相容れないところです。

私と同じ立場のジェンダーフリー論者もちょっとはいるのだろうと想像していたのですが、『欲望問題』を見る限りはいないみたい。

私が言うところのジェンダーレス教育は、個人の選択が最大限認められることと対ですから、売防法のような法律はいらず、表現の自由も当然最大限認めるべきで、ポルノ規制を主張するようなジェンダーフリー派は私の敵であります。

宗教のない世界を目指すために宗教教育を排除するのは、無宗教の強要でしかなく、公教育の場に宗教を持ち込ませない憲法の考え方とは似て非なるもので、真っ向から対立します。

選択肢を許さないジェンダーフリー教育ではなく、最大限の選択肢を認めるためのジェンダーレス教育を!

以上が私の考えですが、その私から見た時にも、伏見氏が危惧するように、『欲望問題』は「伏見は保守に転向した」との非難をされる余地を与えてしまっているようにも思います。

『欲望問題』においては、批判の先にあるヴィジョンが明確には示されていないために、ともすればジェンダーフリー派を批判した単なる現状肯定のものととらえられかねない。「解消すべきところがまだあるにしても、男らしさ、女らしさがあった方が楽しいのだから、おおむね今のままでいいではないか。あとは個人の欲望が決定すればいいのだ」と読めてしまいます。あるいは、事実、伏見氏はそう考えているようでもあります。

学校は欲情させること、欲情することを目的とする場ではないのですから、そこで求められるのは、異性の、あるいは同性の欲望を喚起する格好、仕草、言葉遣いではなくて、どの欲望も選択できる将来を保証することです。伏見氏の主張の延長上には、そのような考え方が存在するはずなのに、本書からはそれが見えない。

ジェンダーフリー論争を概括し、そこにある問題点を抽出して整理した点において優れているだけに、その先が見えてこない点に私は不満を感じた次第です。

【プロフィール】
まつざわくれいち●1958年生まれ。ライター。90年代後半から風俗ライターとして活躍するも、近年廃業宣言。しかしその執筆熱は衰えず、月に1000枚を越える分量をほこる、有料メールマガジン「マッツ・ザ・ワールド」配信中。
HP:『黒子の部屋』
http://www.pot.co.jp/matsukuro/
『教えてクレイチ!』
http://www.ping-net.com/digi/kureichi/kureichi.html

【著書】
熟女の旅/ちくま文庫/2005.2/\780
60分ロマンス 風俗ゼミナール体験編/ポット出版/2004.7/\1,700
風俗見聞録/ポット出版/2003.12/\1,800
ぐろぐろ/ちくま文庫/2003.12/\740
風俗ゼミナール 上級お客編/ポット出版/2003.5/\1,500
エロ街道を行く/ちくま文庫/2003.2/\780
風俗ゼミナール 上級女の子編/ポット出版/2002.6/\1,700
亀吉が行く!(長田要との共著)/ポット出版/2001.7/\1,600
風俗ゼミナール 女の子編/ポット出版/2001.4/\1,700
風俗ゼミナール お客編/ポット出版/2001.4/\1,700
魔羅の肖像/新潮OH!文庫/2000.12/\771
風俗就職読本/徳間文庫/2000.2/\629
熟女の旅/ポット出版/1999.8/\1,800
ポップ・カルチャー/毎日新聞社/1999.4/\1,400
糞尿タン/青林堂/1999.4/\1,300
恐怖の大玉/ポット出版/1999.1/\1,600
えろえろ/ポット出版/1998.10/\1,600
大エロ捜査網/青弓社/1998.10/\1,600
風俗バンザイ/創出版/1998.8/\1,600
エロ街道五十三次/青弓社/1998.6/\1,600
ぐろぐろ/ロフトブックス/1998.5/\1,333
魔羅の肖像/翔泳社/1996.5/\1,942
鬼と蝿叩き/翔泳社/1995.8/\1,553
新宗教の素敵な神々/マガジンハウス/1995.4/\728
エロ街道を行く/同文書院/1994.12/\1,262

このエントリへの反応

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