浜野佐知[映画監督]●伏見さん少し優しすぎるなあ

 おこがましい話だが、私もまた伏見憲明さんと同じような軌跡を辿ってきたといえるのではないだろうか。先日、東京・下北沢のミニシアターで新作『こほろぎ嬢』(尾崎翠原作)のロードショーを終えたばかりだが、もともとピンク映画という、日本映画の底辺とも言うべき差別されたジャンルの女監督として、20代から延々と作品を撮ってきた。公的に日本の映画監督として認められることは一切なく、私は存在しているのに、存在しないように扱われてきた。
 50代を前に、その現実をあからさまに突きつけられた私は『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』(1998)を自主製作し、強引に認知を求めた。意外なことに、声を上げてみると、私のピンク映画にも興味を持ったり、支持したりしてくれる女性たちがいた。私は彼女たちの声を頼りに『百合祭』(2001)、『こほろぎ嬢』(2006)と3本の作品を自主制作し、借金は増えるばかり。一方で、生業としてのピンク映画もホソボソと続けているが、映画業界の認知という点では、一応認知されたようにも思われる。
 私の貧乏くさい体験などとは比較にならないゲイ差別と戦ってきた伏見さんが「マイノリティ対社会と二項対立的に捉えていた世界観がガラガラとくずれて、社会と自分が対立的に存在しているのではなくて、自分が社会の中に少なくとも片足は置いて、そこを存在の根拠としている」と、本書で書いている。反差別の旗を高々と掲げていた方がカッコ良いはずで、これは地味だが、勇気の要る言葉だと思った。ピンク映画監督の私が、地方自治体のイベントや講演会に招かれることがあるぐらい、社会が変わりつつあることは確かなのだ。
 しかし、それに続けて「ぼくはこの社会を他の人たちとシェアしている感覚を得られたように」と書くのは、伏見さん、少し優し過ぎるのではないか。一応「この社会」に何とか認知されたように見える私でも、立ちはだかる壁は依然として大きく、中でも目には見えない男たちのギルド(オヤジどもの欲望同盟?)とは「利害の調整」ですむような問題では、まったくない。私はキッカケさえあれば、ブチ殺してやりたいと思うぐらいで、こういった連中と「この社会をシェア」したいとは死んでも思わない。しかし、これがかつて感じたような「差別」の問題から、私の「欲望」の問題となっていることは、伏見さんの鋭い指摘の通りだ。「差別」に反対して映画が撮れるほど、甘い世界ではない。
 本書でもっとも力点が置かれているのが「ジェンダーフリー」への疑義だが、ここで伏見さんは、かつては同志と思われたフェミニズムの学者たちを痛烈に批判している。「この社会」に優しくなったぶん、フェミニズムにキビシクなったように見えるが、これはご自身も書かれている通り、ある時期の自分に対する理論的な総括でもあるのだろう。
 ジェンダーや性差の解体は、人の生活実感から幸せや快楽を失わせると主張されているが、実際ピンク映画はジェンダー、それも相当古臭いヤツによって成立している。私はそれをブチ壊すことに執念を燃やしてきたが、ジェンダーがなくなったらピンク映画も無くなり、私は生業を失うことになる。つまり、私は伏見さんが批判する学者の先生方と同じように、批判する対象によって飯を食ってきたと言えるのだ。反省しきり。
 しかし、セクシュアリティについては、伏見さんとは異なって、ジェンダーによらない可能性も強く感じる。それは人間についてだけでなく、自分が飼っている猫たちや亀、鯉などとの間に、セクシュアルな交感を夢想するのだ。これをレトリックと思われては困る。私はマジなのだ。
 たまたまアーシュラ・K・ル=グウィンの『世界の果てでダンス』(白水社)を読んでいたら、自作の「闇の左手」について書いたエッセイがあった。有名な作品らしいが、SFに無知な私は、今回初めて知った。60年代に発表されたこの小説の舞台は、ゲセンという惑星。住人たちは、普段はノンセクシュアルで、発情期になると両性具有となり、パートナーとの関係で女の体になったり男の体になったりする。数人の子供の母親が、別の子供たちの父親でもあることが珍しくない。
 作者は「思考実験」と呼んでいるが、このエッセイでは、ゲセン人を異性愛者に限定してしまったことを後悔し「愚かで独断的なセックス観」だったと自己批判している。そこまで視野に入れれば、私の夢想するセクシュアリティは、目下のところ、ゲセン人がもっとも理想に近いだろう。伏見さんは「電信柱を見ても欲情する人はいるわけですからジェンダー・カテゴリーがなくてもセクシュアリティはあって不思議ではない」と笑っている。私はまさにその電柱タイプかもしれないが「それをもって既存の性愛を全否定」する気は、もちろんない。しかし、こうした揺れ幅は、多くの女の人たちにも共有されているのではないだろうか。
 なお、キャッチの「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」には、若干の疑問が残る。今回の果敢な発言に対する、さまざまなリアクションを想定してのことだろうが、何か踏み絵のように働かないだろうか。私は命がけで撮った映画を、笑って観てほしい方だが、むしろ伏見さんには、本書をもって参議院選挙に立候補してもらいたい。ここには、マッチョな政府や社会をもくろむアベやイシハラより、この社会を柔軟な視点から評価し、少しでも良くしていきたいと願うスピリットがみなぎっている。伏見さん、その時には、お金はないけど、全力で応援しますよ。

【プロフィール】
はまのさち●1948年生まれ。映画監督。1971年監督デビュー。1984年、映画製作会社・旦々舎を設立。同社代表取締役。性を女性側からの視点で描くことをテーマに300本を越える作品を発表。
旦々舎HP◎http://www.h3.dion.ne.jp/~tantan-s/

【著書】
女が映画を作るとき/平凡社新書/2005.1/¥740
【主な監督作品】
『こほろぎ嬢』(尾崎翠原作/2006)
『百合祭』(桃谷方子原作/2001)
『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』(尾崎翠原作/1998)