20代までに出会った本、音楽、映画

2005-01-07 沢辺 均

伏見さんがQJrコーナーで、「20代までに出会った本、音楽、映画の中から1つだけ好みの作品を選んでほしい、と言われたら、どんなものをピックアップしますか?」っていう質問をしてます(すぐ消すっていってるからみなさんは読めないかも)
で、それに僕の意見を送ったんです。
迷ったけど、日誌にアップしてみますね。

「大好きだった』=つまり、今は好きってわけじゃないけど、ってことで書きます。

10代・本=「カタルニア讃歌」ジョージ・オーウェル/「世界を揺るがした10日間」ジョン・リード

高校2年の現代史の教師が夏休みの宿題で、ロシア革命・スペイン革命・中国革命について書かれたフィクション・ノンフィクションのタイトル50冊くらいをあげて、どれでもいいから読んで感想をかけ、というのをだしました。
そのリストのなかでたまま選んで、大感動したものです。

現代史の教師は、60年安保時のブント(共産党から飛び出した学生中心の党派です)で、都学連(全学連の東京支部みたいなもの)執行委員(という名前でいいのかちょっとわからん)で、その後革共同、中核派に合流したひと。僕が高校2年になった72年も同盟員だったはずで、川口君が革マル派に殺された一連の騒動で、早稲田大学での内ゲバで逮捕された人でした。

そのときの読んだ「カタルニア讃歌」は18歳くらいのときに、違う高校の友達に貸したんですけど、40歳くらいのときに返してくれたんで、今も当時の僕のいたずら書きのある本が、本棚にあります。

左翼少年だった僕は、でもマルクスもレーニンも、読んでもよくわからなくて、劣等感を持ってたんですけど、ノンフィクション仕立てであっというまに読めたんで、なんか、左翼に「なれた」感じがしてすごく好きになったんだと思うんです。

10代・音楽=15歳ころ、なんといっても岡林信康で、とくに「私たちの望むものは」とか「今日を越えて」なんかが好きでした。「私たちの望むものは、生きる苦しみではなく、私たちの望むものは生きる喜びなのだ」と一番では歌っているのに、最後は「喜びではなく、苦しみなのだ」と反対にしたとこが好きで。たぶん、ちょっと高級な感覚を持てた気分が、うれしかったのかな?

それともう一つは、ジャニス・ジョップリンで、アルバムでは「パール」。
それまで、英語の歌をきいても実はあんまり感動してもいなかったんだけど、はじめて「いいじゃん」って思えて、やっと英語を歌を理解できる「大人」になれたって感じかな。
周りの友人は、ジャズだのなんだのって、「あっち」の音楽をわかったように話してたので、これも劣等感。

ジャニスを初めて聞いたのは、高校のすぐ近所の「off」という喫茶店。
ジャックスってバンドの準メンバーみたいな存在で、作詞もしてた出来里望(いずき・りぼ)というひとが、お母さんとやってた喫茶店で、オープンリールで音楽をかけていたり、内装は白い漆喰壁に黒ずんだ柱が見えるってやつで、当時ではかなりおしゃれ。それも自分で設計したとかで、こった建物だった。
で、高校生でそこに「常連」ヅラするのは、あるグループのなかではカッコ良くて、出入りしてたんです。

10代・映画=高校生(71〜74年)のときに渋谷東急名画座にイージーライダーを見に行ったり、むりしてゴダールをみたり、一方、網走番外地なんかも見に行ったりして、とりあえず周りの友達と話ができるようにはしてたんだけど、実はどれもそれほどおもしろがれていなかった。

そんなときに、鶴田浩二の「総長賭博」のラスト間際のドスを投げ捨てるシーンにどきどきしました。

20代・本=北方謙三のハードボイルド。
無理してショーロホフ(ロシア文学)を読んでみたり、もちろん左翼でしたから、左翼の本は一生懸命に読んでたんです。
たぶん、その当時の僕にとっての読書は、インテリへのあこがれや、その仲間になるための「修行」のようなものだったんだと思います。

そんな時に「ただの」ハードボイルド、を素直におもしろがって読めた自分がうれしくて、、、。

20代・音楽、映画は、思いつくものがないです。

以上、伏見さんに送ったメールでした。

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今年の抱負

2005-01-06 佐藤 智砂

年始らしく今年の抱負を書きます。

毎日、化粧をして出勤すること、です。

4日、5日とちゃーんと化粧して出勤しました。でも、化粧してるってわかるのは午前中の1時間くらいで、午後からは口紅もとれ、ファンデーションは顔の油で落ち、はたから見ればノーメイク状態でしょう。
それでもいいんです。毎日化粧することで、メリハリのある生活を送ることが目的なのだから!

でも、今は午前3時20分。あと少し仕事してから帰宅して寝るでしょ。朝、化粧する気力が起こるだろうか? 三日坊主にもなれないかもしれない……と、すでに自信がありません……。

これで今日の日誌当番を終えようと思ったのだけど、あまりに情けない内容なので、違う話題を少しだけ。

ポットで今、検討していることがあります。それは、勤務中にヘッドフォンで音楽を聞くこと。それに至る経緯と詳細は省きますが(早く帰りたいので)、次の3つからスタッフ全員が投票して、多数決で当面のルールを決めることにしています。

前提=電話に出ることが出来る、呼ばれた場合に応えることが出来る音量であること。
A案●着用を(メール、口頭などで)表明すればいつでも可
B案●着用する場合も表明は不要
C案●定時の就業時間以降(午後8時すぎ)のみ表明なしで可(定時の間は原則禁止)

私はC案に投票しました。記名投票なのですが、今のところC案が多数です。C案は少数だと思っていたので、意外な展開です。

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明けましておめでとうございます

2005-01-04 齊藤 美紀

明けましておめでとうございます。2005年酉年でございます。

新年早々ナンですが、有名人のサインのある飲食店って、なんであんなに胡散臭く見えるのでしょう。
味で勝負してなさげだから、ってのは分かるんですが。味で勝負してなさげどころか、マズそうにすら感じるんだよな。なので、サインのある店には入らないので、実際、サインのある店が旨いのか不味いのか知らないんですけれども。

で、飲食店にずらり並んでいるあのサインは、果たして客寄せのために飾ってあるのでしょうか。
私の友人知人関係で、サインのある店に行きたがる人は、誰一人としていないんです。むしろ避けます。なので、私のこぜま〜い交際範囲内では、見事に集客効果ゼロです。
では、あのサインの展示が集客を目的としていないならば、意図はなんなのか。
店のオーナーの自慢?(俺の店にはこんな有名人来たんだぜ的な)いやー、今時そんな人。

多分、おそらく、最初の1枚目を飾っちゃってから、引っ込みがつかなくなってしまったのではなかろうか。と思うんです。
ある日、初めて有名人が店に来ました。店のオヤジ喜び、大して好きでもないその有名人に、勢い余ってサインをねだる→オヤジ、さらに勢い余って店の壁にサイン飾る(大してファンでもないのに)→サインを飾ったことすら忘れる(しかしサインは壁に飾られたまま)→そんなこともとうに忘れ去ったある日、また別の有名人が来店→オヤジ、壁にサインを飾ったことを思い出す→大してファンでもないから、サインなんか欲しくないが、壁にサインを貼ってあるのを見られてしまっているため、なんとなくサインをねだらないと悪いような気になり、義務感からサインをねだる→とりあえず壁に貼る
…という行程の繰り返しの結果なのではなかろうか。と、いうことは。このオヤジってばけっこう気ィ使いの憎めないオヤジなのでは。けっこう気ィ使いってことは、料理もそれなりに気ィ使ったモンを作れるのでは。接客もまぁほどほどに気ィ使ってくれるのでは。
…と、推理してみたものの、有名人のサインのある店で飯を食らう気には到底なれないのですが。
だれか、「有名人のサインのある店の味比べ」やってみてくれないかな。んー。

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