2012-08-13

第12回■セックスと嘘とドライブ

きっかけは「anan」のセックス特集

昭和から平成へ。
時代が変わり、何かが変わった、と、前回、書き記した。どんな変化が起こったのか。それを社会学的に分析するような立場に私はいないが、私のテレクラとの関わりの中でいえば、テレクラで、女性と会って、セックスができるようになったということだろう。

代替わりの瞬間から急に日本の女性の貞操観念が緩み出し、性に対して、寛容で解放的になったかはわからない。妙な符号といえば、かの「アンアン」が『セックスで、きれいになる』という特集を組んだのが1989年4月のこと。女性誌の特集だけで、この国のセックス状況が変わるわけはないが、特集の題名の持つインパクトは絶大だった。ひょっとしたら、私自身も都合良く、口説き文句で、そんな惹句を使ったかもしれない。

そんな分析や検証は、フィールドワークする社会学者や女性の性の変遷を書き留める女流作家に任せることにする。多分、魅力的な研究書は何冊も出ているはず。ところで、ここまで10数回、この連載を書き進めてきたが、濃厚な性描写が極めて少ないことに気付くはず。テレクラの武勇伝といえば、テレクラで何人の女性とセックスしたかを雄弁に語り、落とす手練手管を得意気に披露するものが一般的だ。そういう点でいえば、私の連載など、テレクラ・マニアには、いささか物足りないものかもしれないが、いま暫く、お待ちいただきたい。お楽しみはこれからだ!

実は、この連載、テレクラ体験を“黒革の手帳”のメモを元に、ある程度、時系列に書き進めている。ところが、テレクラで会った女性と、初めてセックスしたのがいつかという記述が見当たらず、記憶も曖昧のまま。多分、2年間もセックスなしでテレクラ修行をしているわけはないので、どこかで、済ませているはずだが、どうしても思い出せない。無意識に封印したくなるような辛い過去だったか、あまりにも浮世離れした夢心地の現実だったのか。

ただ、確実にセックスしたことを記憶し、メモにも記述しているのが1989年5月に池袋の居酒屋で会い、そのまま自宅まで雪崩れ込んだ30代の独身女性だ。多分、網にかかったのは新宿の「ジャッキー」だったと思う。同所では、久しぶりの当たりである。

アバター感覚の“嘘”

終電間際の時間のコールだった。池袋の近くに住む30代の独身女性で、金融関係の会社に勤めているという。明日は休日らしく、どう過ごそうか、また、休日を一緒に過ごす相手を探している風でもあった。折角の休日、一人ではなく、誰かどこかへ遊びにいきたいという。そんな時、私は都合のいい男になる。喜んで、休日を付き合うと、伝える。どこへ遊びに行くかとなった時に、どういうわけか、ドライブへ行こうということになる。私が運転して、どこかへ連れて行ってあげると言ってしまったのだ。

以前に“星空ドライブ”の看護師のところで書いたと思うが、その当時、私は免許を所得していなかった。勿論、車も持っていなかった。ところが、思わず、私はパジェロを持ち、運転が得意と、嘘をついてしまう。勢いとは恐ろしいもの(笑)。ちなみに、パジェロは三菱の四駆で、SUV。咄嗟に同車の名前が出たのは、一緒に温泉旅行やキャンプに行く仕事仲間の愛車がパエジェロだったからだ。当時は、車種や車名などもまったくというほど詳しくなかったが、何故かしらパジェロという名前だけは頭に入っていた。

いわゆる“嘘”(「いわゆる」も「“”」もつけるまでもない!)だが、口八丁手八丁ではないが、テレクラ遊びをしていると、麻痺してくるというか、適当な嘘をつくことを何とも思わなくなってくる。良心の呵責に耐えかねることもなく、誠実さとは対極にある言動や行動をしたりもする。後年、ネットの世界で、バーチャルとリアルではないが、平気で人物や人格を偽装、誰かになりきる。アバタ―感覚の自己演出や偽装工作が一般化するが、その萌芽がすでにあったように思う。

考えてみたら、私もいろいろな職業や年齢を詐称し、たくさんの嘘を騙った。仕事を聞かれ、コンピュータ関係(当時は、まだ、IT関係なんていう言葉はなかったはず)といい、会社も見栄を張って、「IBM」というところを「ICBM」といってしまったことがある。“コンピュータ会社”が“大陸間弾道ミサイル”では、意味も規模も大きく違い過ぎだ(笑)。

地縁も血縁もない、日常ではなく、非日常であることから、平気で嘘をつく、そんな人間をテレクラは大量増殖させたといっていい。私自身も嘘つき男になりながらも、多くの嘘つき女にも出会った。詐欺や偽装まがいの時間や空間を共有することになる。中条きよしの「うそ」のように“折れた煙草の 吸いがらであなたの嘘が わかるのよ”であれば、いいのだが、平気で騙されつつも、その嘘を楽しんだりもした。“本当のこと”を“綺麗な嘘”が凌駕することもあったのだ。

タクシーで彼女の家へ

その“30代の独身女性”とは、どういう経緯か、明日のドライブに備え、これから会い、朝まで一緒にいて、それから行こうということになった。終電ぎりぎりだったが、電車で新宿から池袋まで移動することにする。ドライブするのに電車で移動すること自体、話の辻褄がおかしく、嘘は破綻しているが、そこは適当な理由をつけ、一気に寄り切る。こういうところは、強引な私である(笑)。待ち合わせは池袋駅の北口を出たところで、そこにはデートクラブ嬢やキャバクラ嬢が客と待ち合わせに使うような胡散臭い喫茶店があった。その店の前で合流し、同所の近くにある大衆的な居酒屋へ行くことになった。

待ち合わせ場所に現れた彼女は、ふっくらした体型で、決して美形とはいえないが、愛嬌のある顔立ちで、性格の良さみたいなものが全身から漂う。その時は、まだ無かった言葉だと思うが、“癒し系”(1994年、飯島直子がコカコーラ『ジョージア』のCMに出演。このCMから、いわゆる「癒し系女優」として人気が上昇した、という記述もあるが、安らぎ系女優という表現が本当らしく、癒し系のブームとなったのは1999年以降のことらしい)という感じだ。

失礼なものいいだが、第一印象は金融関係に勤めているといっても銀行ではなく、信用金庫という感じ。ついでにいうと、時期は前後するかもしれないが、東京都下の信金勤務の女子職員が愛人に貢ぐため、預金者の口座から不正に金銭を引き出した事件があったが、その容疑者のような佇まいもあった。だからといって、その容疑者に顔が似ているとか、犯罪者顔というわけではない。何か、ちょっと、均衡を欠いたところがあるという雰囲気である。

とりあえず、居酒屋で当たり障りのない話をしていると、時間はあっという間に過ぎていく。朝まで起きて、ドライブという段取り(勿論、ドライブするにも免許も車もない!)だったが、なんとなく流れで(と、書くと不思議な感じを抱くかもしれないが、無理やり家へ行きたいとか、強引に言い張ったわけではなく、気づくと、という感じである)、その女性の家へ行くことになる。

幸いなことに彼女の家は、池袋からタクシーで10分もかからないところにあった。うろ覚えだが、赤羽か、板橋かだったと思う。とりあえず、お洒落な高級住宅街ではなく、気さくな雰囲気の庶民的な街だった。

小さなマンションだが、室内はきちんと整理整頓され、独居者特有の荒んだところがない。キッチンなども綺麗にしてあり、流しに食器なども散乱していない。どことなく、家庭的な雰囲気があり、初めてながら居心地がいい。

軽くその家でも飲み直す。冷蔵庫からビールを出してくれる。考えてみれば、数時間前に初めて会ったばかりなのに、いきなり、家に上り込んでしまう――離婚歴&子供ありの30代肉感女性の時もそうだったが、いまでは考えられないことかもしれない。だが、テレクラで、女性の家に雪崩れ込むという体験をしたという方も少なくないはず。事実、私自身、女性の家に初対面で、何度も上り込ませていただいている。当時は、まだ、牧歌的な時代だったのだろう。テレクラが犯罪や事件とは無縁で、テレクラ利用者に悪人はいないという性善説が信じられていたのだ。

初めての“成功”

リビングで飲んでいたが、二人とも少し酔って、身体もだるくなってきたので、なんとなく寝室に行くことになる。ベッドではなく、畳の上に布団が敷かれず、積んであった。その布団を背もたれにして、二人は寄りかかりながら飲む。

いい感じで酔いの回った彼女の顔は紅潮し、同時に色香が漂い出す。前述した通り、決して整った顔立ちの美形ではないものの、彼女から醸し出されるそこはかとないエロスと甘えたような媚態は男の本能を充分過ぎるほど、そそるものがある。

決めてやる、今夜! なんだか、いけそうな気がする〜。私は期待感で胸が膨れそうになるが、油断は禁物、まだ、股間は膨らんでいない(と、親父ギャグをいれておく!)。私は他人の家ながら、環境整備として、部屋の照明を少し落す。薄明りの中、なんとなく二人見つめ合うと、口づけを交わす。私が先か、彼女が先かは覚えていないが、それは啄むようなものから貪るような激しいものへと変わる。口の中で、舌同士が覇権争い(!?)をしている。

服をわざと荒々しく脱がすと、豊満な身体(白ムチである。色白で、ムチっとしていた)は、嫌らしい下着にくるまれていた。黒のレースのお揃いのパンティーとブラジャー。いまなら、勝負下着とでもいうのだろうか。彼女は、会う前から、すっかり、やる気だったようだ。

彼女の秘めたる部位、欲望の源は、既に濡れそぼっている。それは、パンティー上からもはっきりとわかる。これから起こることの期待感が彼女の官能中枢を刺激したらしい。下着を剥ぎ取り、胸を弄り、乳首を激しく吸うと、彼女の快感の曲線は一気に上昇していく。

彼女は欲望剥き出し、裸の女を曝け出す。そこに恋愛などという、面倒くさい駆け引きは一切、ない。ただ、快楽を貪ることを欲していた。

もしものために、予め用意していたスキンを鞄から取り出し、いきり勃つ分身に装着すると、彼女を一気に突き刺す……と、まるで、三流官能小説のような表現で、お恥ずかしい限り。それまで、いいところまで行きながらも、毎度、お馴染みのコメディやギャグの落ちのように、一線を超えることができなかったものが、あまりに呆気なく超えることができてしまったのだ。

昭和から平成へ。時代は少しずつだが、動きだす。その時代を生きる男と女の性愛観にも僅かながら変化が訪れようとしていた。ドライブという嘘(ひょっとしたら、それは嘘ではなく、理由というか、言い訳だったかもしれない。この辺は改めて語る機会もあるだろう)がセックスを呼び込む。確かに何かが変わり始めている。