2015-05-21

第37回 卒業写真

ようやく収まりつつあるが、一か月ほど前はぐじゅぐじゅだった。「行く春や 鳥啼き、魚の目は泪」ではないが、忌まわしい花粉の猛威にやられる。そんな私の春だが、やはり春と言えば、卒業、入学など、新たな世界に一歩踏み出す時節である。

そんな季節の中で、卒業絡みの艶っぽい経験を思い出す。卒業制作ではないが、我ながらよく出来た作品だったと思う。

どんな作品かは後程、明かさせていただくが、テレクラのボックスにいる時、私はいくつもの顔を持つ。千変万化、自由自在、いろんなものに変身する。

もっとも変身するといっても限度がある。モデルや俳優など、あまり現実味のないものはすぐにばれてしまう。仕事で多少なりとも関わりがある職業が嘘にもリアリティーが増すというもの。知り合いをイメージするというところだろうか。当時は服装もラフなこともあり、会社員や公務員ではなく、コピーライターやデザイナー、カメラマンなどと偽っていた。

その中で、比較的、引きが強かったのがカメラマンである。グラビアなどだとすぐばれるので、カタログなどの商品撮影をしていると言っていた。知り合いも多く、彼らから聞いていた話をすれば、そこそこの現実味を帯びさせることも可能だ。

いつだっただろうか、1994年3月のこと。20年以上前だが、丁度、桜が咲く前、出会いと別れの季節だったと思う。

平日の昼間、仕事をさぼり(笑)、池袋のテレクラで網を張っていた。その日は最初から当たりを引く。果たせるかな、今まさにファッション系の専門学校を卒業したばかり、卒業後は服飾系の会社への就職が決まっているらしいが、これから遊びに行きたいという20歳の女性と繋がった。彼女は私がカメラマンであることに興味を示し、話の流れで卒業記念の写真を撮ってあげようといったら、前乗りになり、アポを取ることが出来たのだ。

池袋からJRで渋谷駅へ。待ち合わせは五島プラネタリウムがあった東急文化会館。いまは、ヒカリエとなっているところだ。渋谷のハチ公は人が多く、待ち合わせには不向き。敢えて逆側にした。同時に宮益坂周辺にもラブホテルが点在し、道玄坂より坂を少し上るだけで目的の場所に辿り着ける。動線は確保しておくにこしたことはない(笑)。

待ち合わせ場所に現れたのは長身でモデル体型、ショートカットのボーイッシュな女性だった。黒のジーンズに黒のカットソーながら、どこかモード系。服飾系だけのことはある。

カメラマンといいつつもいかにもというカメラバッグも持たない私を訝しがることなく、すんなりと了解をもらい、宮益坂をホテルへ急ぐ。世間話くらいだが、先ほど卒業式を終え、学友とはつるまず、いきなりテレクラへ電話。入社までは暇だからいろいろ遊べる相手を探していたようだ。

いまは渋谷の宮益坂周辺も様変わりをしたが、宮益坂を上り、青山通りに出る前、246号線の手前の脇を入ると、ラブホテルが点在していた。どこに入ったかは覚えていないが、昼利用のサービスタイムだったと思う。9時までは存分に楽しめるというもの。

実は、カメラマンといったものの、カメラさえ持って来ていなかった。持っていても一眼レフのちゃんとしたものではなく、コンパクトカメラでしかない。ポラロイドカメラもない。携帯(カメラ機能がつくのは98年から、写メールなんていう言葉も流行る)やスマートフォンの時代ではなく、勿論、デジタルカメラも一般化していなかった。

そんなわけで、一番お手軽な使い捨ての、一時は差別用語で呼称されたコンパクトカメラ(レンズ付きフィルム)をコンビニエンスストアで買い求めておいたのだ。

ホテルに入り、流石、カメラマンといった手前、コンパクトカメラを出すのは躊躇われたが、たまたま、仕事が休みでカメラを持って来てなかったから、慌てて、コンパクトカメラを買ったと、苦しい言い訳をする。ところが、彼女は意に介することなく、どんな感じで撮ろうかと、話し出す。

私もカメラマン気取りで、まずはバスルームに入ってもらい、お湯を出し、そのスチームを利用して、ソフトフォーカスな、ぼんやりとしたものにしたい、といかにもなスタイルを提案。
彼女も乗ったらしく、なんの戸惑いもなく、服を脱ぎ、下着を取る。裸になると、贅肉のない、しまった身体をしている。アスリート(当時らしい言葉でいえば、体育会系か)のようだ。

私は服を脱がず、そのままバスルームに入り、お湯を出し、水蒸気を充満させる。彼女にはバスルームに入って扉のところで、ポージングしてもらい(多分、腕を上げ、頭の後ろに組み、腰を捻り、立ち姿のバリエーション)、私はリビングからドア枠の中にいる、ぼんやりとした、紗にかかったようなフレーミングにした。気分はノーマン・シーフやデビッド・ハミルトンである。

そんな注文をつけながら数枚を撮る。フィルムの枚数は限られている(24枚撮りくらいか)から、連写はできない。ポーズをつけながら、いいよ、とか、セクシーだよ、みたいな、いかにもカメラマンが言いそうな言葉を投げかける。

不思議なもので、撮る度に、顔が紅潮し、恍惚としてくる。いままでの凛としたものから、アンニュイなものに変わる。当然の如く、その場ではイヤらしいことは何もしていない。

そして、ベッドに移動し、続けてポーズをつける。官能的な肢体を撮る。イメージはマリリン・モンローのシーツに包まるヌード写真だ。

当時からハメ撮りという言葉は存在し、投稿雑誌などでもテレクラやストリートでナンパした女性を撮影し、投稿することもなんとなく一般化していた。写メやデジカメが普及する以前だが、素人が簡単に裸や性行為を撮る、撮らせる素地がその頃からできていたのかもしれない。

その時、私がハメ撮りをしたかは記憶が定かではない。恋人とセックスしているようなシーンは撮影した。だが、局部の接写などはしていない。デジタルな時代ではない。ポラロイド以外はすぐに見れないし、現像なども当然、簡単にはできない。ヌード写真を現像できるプライベートラボがマニアの間で利用されていることを知っていたが、そこまでは頭が回っていなかった。それ以前に、写真を撮りたいわけではない、撮影は会うための“口実”に過ぎないのだ。

その時はまだ、カメラマン気取りを引きずっていたのか、あくまでも芸術的なヌード写真を撮ろうとしていたのだろう。私は仕事には徹する男である(笑)。

だからといって何もしなかったかというと、そんなことはない。カメラマンとモデルという関係を超え、二人は結ばれたのである。というと劇的なようだが、なんのことはない、我慢できなくなっただけのこと。

もっとも我慢できなくなったのは彼女の方だ。カメラに撮られるという行為に欲情したらしく、押さえがきかなくなったようだ。投稿雑誌などで“ニャンニャン”するカップルが前戯として、カメラ撮影をしていることがあったが、レンズには不思議な力がある。レンズを男根に例える有名カメラマンもいたくらい。

セックスそのものも彼女の卒業を祝い、新たな門出に相応しい、新たな体験もしていただく。普段はあまり逝くことがないというが、この日に限れば、快感の無限連鎖、何度も深く逝ったようだ。これまでとは違う、初めての体験だった。と、軽く自慢してみる。過去の栄光か(笑)。

彼女には現像したら写真を送るということで、住所も聞いたはずだ。後日、現像した写真は見事に芸術の香りするヌード写真で、卒業を祝う、我ながらの傑作と自画自賛する仕上がり。実際に彼女に送ったか送ってないかは忘れたが、当然、ネガは私が持ったまま、焼き増しはいくらでもできる。投稿雑誌に送れば、小銭も稼げたが、流石にそんなことをするほど、私は悪人ではない。それにしてもゆるい時代ではある。むしろ、おおらかな時代といっていいだろう。まだ、事件や事故とは無縁の“テレクラ性善説”みたいなものもあった。当然、リベンジポルノなどという言葉はなかったのだ。

それから数年後、カメラ付き携帯電話の普及が盗撮を含め、素人ポルノ写真を激増させるが、そんな技術以前に、既に女性の股が開かれていたのだろう。テレクラは時代に先駆け、その時代の風俗を確実に映し出す。

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