2012-08-01

第10回■一杯のカレーライス

“悲劇”のヒロイン、30代の看護師は、渋谷のパルコの前で待っていた。服装や髪型、持ち物など、目印を聞いていたので、すぐにわかった。

原色に近く、身体のラインが強調された派手なワンピース(当時の表現いえば、ボディコンだろう)に、前髪パッツンのワンレン(ヘアースタイルのこと)、彫りが深く、大きな目と口というエキゾティックな顔を艶やかなメイクが縁取る。名前は忘れたが、当時、“淫乱”や“変態”などのキャッチフレーズで、あまりに過激なシーンが話題になっていたAV女優の顔がすぐに浮かんだ。

偏見(という言葉を敢えて使う)かもしれないが、かのマザコン男(彼女の婚約者)の保守的で、頭の固そうな“お母様”には、とても好かれるような容貌ではない。そういった人種が好む清楚で、お淑やかな嬢様タイプからは、ほど遠いのだ。男性の気を引くために理想の女性を演じるというよりは、メイクやファッションなどは華美を極め、自ら女性であることを誇示し、自分のための装いをしている。おそらく、彼女が“退(ひ)かれた”のは、仕事や性格だけが理由ではなく、その容姿や佇まいであることも想像に難くない。

本来であれば、彼女は渋谷の街を颯爽と闊歩する“イケイケギャル”という雰囲気だが、傷心で寝ることが出来ず、食事も取れてないという状況が、彼女から生気や精気を奪っていた。実際の年齢よりは、随分、老けて見えた。顔を覆うメイクも浮いてしまっている。

挨拶もそこそこに、パルコのレストランフロア内にあるカフェバーへ入る。睡眠不足、絶食状態ゆえ、アルコールというわけにはいかず、コーヒーを頼むことにする。

昨夜から今朝にかけ、充分過ぎるほど話し込み、心の奥に詰まったものを吐き出したからか、興奮や激高は収まったらしく、話しぶりはいくらか落ち着いていた。

いまであれば、電子なつぶやきや電波な日記を綴り、思いを吐露することができる。“いいね”なんていう共感や承認を貰うことで、精神の均衡を保つということもある。当時でも「命の電話」などの悩み相談をするところはあったかもしれないが、それは決して、気軽なところではない。信頼できる親や先生、友人などに相談するにしても、内容によっては、その信頼すべきことが裏目となり、話すことを避けてしまう。昨今のいじめではないが、簡単にいえたら苦労はしない。甚だ怪しく、性的な記号を持ちつつもテレクラがあることで、そんな憂さを晴らし、悩みを解消したという人もいたはずだ。

ある意味、行くあてもなく漂白する魂が辿りつき、行き場を無くしたこの街のストレンジ?達が集いしところなのかもしれない??なんて、“ポエムだな〜、メルヘンだな〜”(昭和のギャグです)してみる。

“テレクラ相談員”の心得

さて、テレクラ相談員(!?)としての役目を果たす上でのコツを話しておこう。
繰り返し話されることを、嫌な顔をせず、ひたすら聞くことだ。当然のごとく、この手の話は、くどいくらいに、同じことが表現を変えて延々と繰り替えされるもの。ある種の忍耐力が要求される。相談員慣れしているから、我慢はお手の物。

不思議なもので、電話であれだけ話しても、相手を目の前にして話すのとは違うようだ。私は彼女に危害を与える人間ではないことは伝わっている。勿論、仕事や家庭環境などはまったく違い、話すことで立場を危うくするような利害関係にもない。それゆえ、彼女も安心したのだろう。話も滑らかになる。それを優しそうな眼差し(と、相手には見えるらしい)で、聞き入る。おかしなもので、ここまで話し込んでくると、私も邪心(というか、すけべ心)も霧散し、人畜無害の“いい人オーラ”も漂ってくる。東京人の“ええ恰好しい”かもしれないが、相手に良く思われたいという気持ちがそうもさせるのだろう。

彼女の話を一言も聞き漏らさず、懸命に聞く。もとより、学生時代の企画会社の仕事で、インタビュー千本ノック(!?)を経験。話を聞くことは朝飯前だし、相槌や話の回しは得意とするところ。ちゃんと、相手の話を聞きながら、その相手が何を求めているか、何を待っているかを先回りし、適切に言葉を落としていく。もっとも助言や提言などという、大層なものではない。具体的で建設的なもの言いなどはできないが、少なくとも混沌に沈み、湖底で自暴自棄になっている人間にとって、関わろうという人がいるだけで、充分な支えになるというもの。彼女へ言葉を振っても、それは先導ではなく、伴走のようなものだ。

話した内容は、例によってあまり覚えていないが、前述した通り、説教したり、諭したりではなく、ただ、彼女の言葉を肯定し、受け止めるとともに、マザコン男と子離れできない母親への反発を口にしただけだと思う。私自身、当時は実家住まいで、親に散々、迷惑をかけているので、子供の結婚を心配する親のことをとやかくいう資格はないし、結婚という制度そのものも必ずしも当人同士だけの問題ではないことはわかっている。勿論、そんなことはおくびにも出さず、憤りの感情を抱き、許せない思いであることを伝えた。既に電話で聞いていた話だが、本人を目の前にして、実際、怒りや悲しみは、少しは収まりつつあるものの、彼女の哀れを乞うような表情を見ると、“悲劇”のリアルさを感じないわけにはいかない。彼女のやるせなさ、切なさみたいなものが増幅される。

泣きながらカレーライスを食べる

ある程度、話してきたところで、彼女自身もリラックスしてきたらしく、少し空腹を感じるという。一昨日からまったく、食事をとっていない。あわてて、食べ物をと思い、とりあえず、カレーライスを注文する。いわゆるカフェバーだから、イタリアンやフレンチなど、こじゃれたものもあったが、とりあえず、精をつけてもらう。香辛料も意識を覚醒させるものだ。心が落ち着いて、漸く身体の機能が正常化したのだろう。空腹を覚え、食物を求めるのは、いい兆候だ。

当時のカフェバーのこと、見てくれは良くてもとても美味しそうに思えないものだが、それでも彼女はカレーを口に運ぶ。久しぶりに食する固形物の存在感と舌と鼻を刺激する香辛料の香りが、生きていることを実感させているかのようだ。カレーを食べながら、彼女は涙ぐんでくる。涙を拭うことなく、嬉しそうに頬張った。

カレーライスを頬張る彼女を見ると、何かいいことをしたという気持ちになる。いいことをする、善行など、まるでテレクラには似つかわしくない。だが、単なる欲望や性欲だけでなく、人と人の繋がりを信じ、絆みたいなものを大事にする(というと、昨年以降、やたらと、使い古された言葉であるが)、そんな遊び人も少なくなかったと思う。いいことをしたなど、自己満足でしかないが、まだ、そんな“良心”のようなものがテレクラにあった時代でもある。

前回、“一杯のかけそば”ならぬ、“一杯のカレーライス”という“ドラマ”が待っていたと書いた。実は、この「一杯のカレーライス」は、テレクラ版「一杯のかけそば」でもある。当時の遊び仲間には、テレクラ武勇伝ならぬ、テレクラ深いい話として、自慢げに話したこともあった。

時はバブルの時代。飽食や贅沢が良しとされていた(かはわからないが、少なくともそれが当たり前と化していた)。貧困や貧乏など、過去のことと、思われていた。ところが、そんな時代の反動、補完作用として、清貧や質素という言葉が世の中に浮上してくる。

『一杯のかけそば』は、栗良平の短編小説で、1988年から1989年にかけ、「涙なしでは聞けない」話として、一時は日本中で話題となり、社会現象にまでなった。

あらすじを某ウィキペディアから適当に引用する。“大晦日の晩、札幌にある「北海亭」という蕎麦屋に子供を2人連れた貧相な女性が現れる。閉店間際だと店主が母子に告げるが、どうしても蕎麦が食べたいと母親が言い、店主は仕方なく母子を店内に入れる。店内に入ると母親が「かけそばを1杯頂きたい(3人で1杯食べる)」と言ったが、主人は母子を思い、内緒で1.5人前の蕎麦を茹でた。そして母子は出された1杯(1杯半)のかけそばをおいしそうに分け合って食べた。この母子は事故で父親を亡くし、大晦日の日に父親の好きだった「北海亭」のかけそばを食べに来ることが年に一回だけの贅沢だったのだ。翌年の大晦日も1杯、翌々年の大晦日は2杯、母子はかけそばを頼みにきた。「北海亭」の主人夫婦はいつしか、毎年大晦日にかけそばを注文する母子が来るのが楽しみになった。しかし、ある年から母子は来なくなってしまった。それでも主人夫婦は母子を待ち続け、そして十数年後のある日、母とすっかり大きくなった息子2人が再び「北海亭」に現れる。子供達は就職してすっかり立派な大人となり、母子3人でかけそばを3杯頼んだ”??と、引用が長くなったが、いかにも貧乏くさい話で、とても泣けるよう代物ではない。それなら、まだ、かの『北の国から』の“子供がまだ食ってる途中でしょうが”みたいな話の方が泣けるかもしれない(いずれにしろ、私的には泣けない!)。

ただ、泡沫の時代の潮流に抗うかのように、社会的な注目を浴びたのは、単なる偶然ではなく、必然だったと感じている。

「一杯のかけそば」そのものは、実話か、創作かで議論になり、また、作者の詐欺師まがいの私生活がスキャンダルになって、あっという間に駆逐されてしまった。いまでも胡散臭い話だと思うが、当時であれば、余計、胡散臭く感じられたものだ。さて、「一杯のカレーライス」、かの「一杯のかけそば」の蕎麦屋の店主ではないが、彼女がカレーライスを嬉しそうに食べる姿を見て、私自身も嬉しかったのも確かである。ぎりぎりに追い詰められ、彼女の背中にのしかかっていた重荷のようなものを少しでも軽くすることができたと思っている。私の中では、テレクラにまつわる、ちょっといい話として、未だに記憶の中(というか、底!)に鮮明に残っているのだ。

結局、その女性とは、店には悪いが、一杯のカレーライスで、随分と長いこと、居座ることになる。閉店ぎりぎりまで話していたと思う。流石、パルコ内の店だったから、深夜営業というわけにはいかない。本来であれば、 “何気に終電をやり過ごし、泊まるしかない状況を作る”作戦を取るところだが、流石に、ほとんど寝てないということもあって、そのまま帰ってもらうことにした。そこに、深謀遠慮などはない。邪まな下心はなく、完全にいい人気取りである。言葉は悪いが、弱っている人間の間隙をつき、落としてしまうというのも口説きの常套手段かもしれない。しかし、そういうことは当時もいまも潔しとしない私がいた。どうしてもあからさまに弱みにつけこむことができないのだ(もっとも、あからさまでないところでは、つけこんでいたのかもしれない!?)。とりあえず、電話番号は交換したが、特に次の約束などはしなかった。“それっきり、それっきり、もうそれっきりですか”(“それっきり”ではなく、“これっきり”なら、山口百恵の「横須賀ストーリー」である。ちなみに、彼女は横須賀出身だった、とすると出来過ぎた話だが、当然、そんなことはない)でもいいと思っていた。それでも時々、思い出したように近況を伝える連絡は貰っていた。電話口の彼女の声はすっかりふっきれたらしく、軽やかになっていた。

再会

“もうそれっきり”だけで、二度と会うこともないと思っていた“悲劇”のヒロイン、“カレーライスの泣きむし女王”こと、30代の看護師と、意外なところで、再会することになる。もっとも再会といっても、どこかで会ったというわけではない。思いもかけないところで見かけたといっていいだろう。1年後くらいかもしれない。あるニュース映像の中に、彼女はいたのだ。

別に事件や事故のヒロインになったわけではない。それは、看護師の職場や仕事などの待遇改善を求める、大きなデモンストレーションがあったことを報じるニュース映像だった。彼女は、そのデモを牽引するものとして、マイクを持ち、自分達の職場での地位向上と、仕事環境の改善を主張していた。白衣姿(考えてみたら、私服は見たことはあるが、白衣姿は見たことはなかった)が眩しく、その声には精気が漲る。戦う女などといったら語弊があるかもしれないが、凛とした佇まいである。結局、彼女がその後、誰かと結婚をしたか、それとも結婚しなかったのか、わからない。仮にしていてもその相手などもわかる由もないが、しかし、仕事はやめていなかったことは事実のようだ。

泣きながら、嬉しそうにカレーを食べていた彼女の顔と、ニュース映像に写る戦う彼女の顔が私の中で二重写しになる。その時、彼女は光の中で、輝いていた。