2010-08-30

ドント・トラスト・オーバー・サーティー [下関マグロ 第32回]

「どっかで晩飯にしようか」

ホンダシビックの運転席から伊藤ちゃんが同乗している僕とおかもっちゃんに言った。僕らはミスティという音楽スタジオで練習を終えたところだった。ライブハウスで演奏しようとするなら、やはりきちんとアンプを使って練習したほうがいいと気付いたので、以前バンド練習用に借りた江古田のアパートは既に引き払っていた。

桃井にあるミスティは他よりも料金が安かった。たいてい一回につき2時間くらい利用することが多く、この日も午後7時にスタジオに入り、出たのは9時だ。

「どっかって、いつものとこでいいでしょう」

おかもっちゃんはそう言う。

「いいね、いいね」

僕は賛成した。いつものところというのは、青梅街道沿いにある「びっくりドンキー」であった。伊藤ちゃんはちょっと顔をしかめたが、関町方向へ車を走らせてくれている。

「30歳になるってどんな気持ち? なにか変わるの?」

ハンバーグを食べながら一足先に30歳になった伊藤ちゃんにこう聞いてみた。僕らの世代には、「ドント・トラスト・オーバー・サーティー(30歳以上の人間を信じるな)」というような文句が流行った頃があった。その僕らがオーバー・サーティーになるのである。

気分はまだまだ子供だったが、自分達もおっさんの仲間入りをするのか?

「いや、何もかわんないよ」

たしかに、伊藤ちゃんの言うとおりだった。相変わらず僕らはその日暮らしのようなことをしている。当然のように独身で、結婚の予定どころか、ちゃんとした彼女さえいないのだ。食事を終えた僕らは再び伊藤ちゃんのシビックに乗り、荻窪の田辺ビルに戻ってバンドについてのミーティングをすることにした。僕ひとりの頃は散らかっていたのだが、3畳の部屋におかもっちゃんが住んでくれたおかげで、田辺ビルの部屋はきれいだった。

「会社をやめて、ライターになれば?」

いつものように無責任なことを僕が言うと、「いやいや」と言いながら首を振るのがお約束のおかもっちゃんだったが、そのときは、「うーん」と唸ったっきり黙りこくった。

この日のミーティングは妙に盛り上がらなかった。外に出ると、伊藤ちゃんは引っ越したばかりの阿佐ヶ谷のアパートへ車を走らせ、僕は買ったばかりのマウンテンバイクで下井草のワンルームマンションへ帰った。1988年初夏、妙に蒸し暑い日だった。

家に帰るとベッドに横になり、当時愛読していた『月ノ光』という雑誌を開いた。退廃的、倒錯趣味的な内容の雑誌で、出版社は東京デカド社、制作は南原企画だった。

僕はこの雑誌の読者投稿コーナーを読むのが好きだった。そのときはベルメールというペンネームの人の「伝言ダイヤルで連絡を取ろう」という投稿が目についた。ベルメールというのは、おそらく人形作家で画家のハンス・ベルメールからとった名前なんだろうと想像したりした。

伝言ダイヤルは、少し前から知られるようになったNTTのサービスで、新しいコミュニケーション・ツールとして若い人たちの間では流行していた。声の伝言をやり取りして交流するもので、掲示板の音声版とでもいえばいいだろうか。

ベルメールは、「1039(倒錯)ダイヤル」で交流することを提案していた。4桁の数字のゴロ合わせで「ボックス」というものを作り、それを仲間内で利用するサークルのようなものが、その時期流行っていたのだ。有名なのは8818(パパイヤ)トリプルである。トリプルというのは、連絡番号が88188818#でその暗証番号が8818#というように、同じ4桁の数字を3回使うものをそう呼んだ。

掲載されていた1039のトリプルにダイヤルし、伝言を聞いてみることにした。男性の声で「モリニエです」という伝言が入っている。これは倒錯的な作風で知られる人形作家のピエール・モリニエのことであろう。ベルメールといいモリニエといい、なんだかいかにもだったが、内容はちょっとした挨拶的な伝言だった。

次の伝言はけたたましいギターのリフとともに、やはり男性の声で「ファンキー・タルホです。誰かいませんか?」と言っていた。おそらく、稲垣足穂のことか。なんだかますます怪しい世界だと思った。最後に一番古い伝言を聞いてみると、別の男の声で「みなさんこんばんわ、ベルメールです」と入っていた。

なんだかわからないが面白そうなので、僕もさっそくなにか声を入れてみようと思った。しかし、気の利いた名前が思い浮かばなかった。
「みなさん、こんばんわ。マグロといいます。ここおもしろそうですねぇ。もうすぐ30歳になるおっさんですが、僕も仲間に入れてください」

言い終わると9#を押した。すると僕が入れたメッセージが再生される。確認したら、8#を押して録音完了だ。この短い伝言で、僕には新たな世界が開くことになる。

この連載が単行本になりました

さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。

昭和が終わる頃、僕たちはライターになった


著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。


著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

このエントリへの反応

  1. [...] 思えばこの時期、やたらと浪費していた。それは、伝言ダイヤルにはまっていたのが大きな原因だった。家にいるあいだ、僕は伝言ダイヤルをやるのが一番の楽しみであった。 [...]

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