2010-05-31

ぼくが本当にフリーになった日 [北尾トロ 第25回]

クリスマス返上で仕事を終えると年内の予定はなくなる。妹の帰省に合わせ、1年ぶりに実家に顔を出すことにした。母は弟が経営する菓子舖を手伝っているので、ぼくも駆り出され、職人さんと一緒に鏡餅づくりをしたり配達に出たりでけっこう忙しい。正月には、実家が近い増田君が、ぼくの不在中にいきなりやってきて母と話し込んで帰るという、わけのわからない出来事があったりして、1週間ほどの日程はみるみる過ぎていった。

東京では会うことのなかった妹の交際相手にも、年明けに初めて会った。とりたてて面白みはないものの、まともな男のようである。兄としては、人間がまともであれば、妹の結婚について反対する理由はなかった。母も次第に態度を軟化させてきているので、うまく話がまとまれば年内には結婚ということになるのかもしれない。

東京に戻るとすぐに仕事が始まり、バタバタした日常が戻ってきた。とはいえ、スキー雑誌のスキー場取材は年明けからぼちぼちスタートし、ピークを迎えるのは気候の安定する3月から4月。それまでは原稿だけに集中していればいいと思っていたのだが、ある日、福岡さんに呼び止められ、海外取材を打診された。

「スイスで開催される世界選手権のプレスツアーに参加して、ついでにツェルマットを取材してきて欲しいんだ」

「え、田辺さんとかもいるのに、ぼくなんかでいいんですか?」

「遠慮はいらないよ。ボクはね、ライターは若いうちにどんどん外に出るべきだと思うんだよね。どう、行ってみたくない?」

願ってもない話だ。海外取材なんてしたこともないし、世界選手権がどのようなものかも知らないけれど、行けば何とかなるだろう。不安はいろいろあるけれど、英語力やスキーの腕を気にしていたらどこにも行けやしないのだ。

「じゃ、決まりね。日程が確定したらまた伝えるから」

「わかりました、がんばりまっす!」

家に帰り、まだ見ぬヨーロッパの風景に思いを馳せているうちに、「潮時かな」という坂やんの言葉が蘇ってきた。他人の恋愛事情に興味がないのでパインが誰とつき合おうと別れようとかまわないけれど、三角さんや増田君から聞いたやり口は、仕事にかこつけて女を口説く海千山千オヤジのようで不愉快だったのだ。それ以外にも、ぼくの知らなかった仕事や金にまつわることが多数ある。すべてがパインのせいとは思わないが、この先オールウェイと関わって得られるものと失うものを量りにかけたら、後者が多い予感がする。パインだって、本音では一緒に仕事をする気のないライターに机を使われるくらいなら、社員でも雇って編プロ活動を本格化させたいはずだ。

いずれにしても、そろそろ態度をハッキリさせるほうがいい。さり気なく距離を置き、徐々にうやむやな関係になるような方法は、ぼくには気持ちが悪いのだ。

数日後、事務所でパインとふたりきりになったところで話を切り出した。

「パインの仕事を手伝うことも減ったし、最近は学研にいる時間が長いでしょ。それに妹が結婚したら自宅を広く使えるので、ぼくの机は返上したいと思ってるんですよ」

気の弱いぼくは、なるべく波風が立たないように、辞めるという言葉を使わずに事務所からの脱退を告げたつもりだった。

「伊藤ちゃんに抜けられると、イザというとき頼りになる人間がいなくなる。はっきり言って、増田君や伏木君はアテにならないからね。坂やんもめったにこないし。ときどきでいいから顔を出してもらえないかな」

社員でも何でもないのにこんなことを言うのは、嫌になるといっさいの関係を絶つのがぼくのやり方だと、以前話したことがあるからだろう。

「しかし困ったな」

「パイン関係の仕事はしてないから困ることはないでしょう」

「そうじゃなくて、伊藤ちゃんには金を出してもらっているから」

ああ、そうか。事務所を借りるときに20万円出した、あの金か

「そうだよ。20万出資してもらっているから、伊藤ちゃんには当然の権利として専用の机を使ってもらってるんだしさ。ただ、我が社もキビシいから、急に言われて全額返すというのも……」

「そんなこと言ってないですよ」

「これまで使った分を少し差し引かせてもらえるとありがたいんだけど」

ああ、ため息が出そうだ。なんで金にこだわるかなあ。あの20万は自分の意志で出したもので、勝手に事務所を出て行くのだから、返してくれとゴネるつもりもないのである。

「いや、金は返さなくていいです。そういうつもりで出したわけじゃないんで。ぼくとオールウェイには貸し借りなしってことにしてください」

「え、本当にいいの?」

その瞬間、パインが見せたうれしそうな顔を見て、自分の判断は正しかったと確信した。フリーライターになったはいいが、右も左も分からないばかりか住むところさえなかったぼくを居候させてくれ、取材や原稿書きの基本を教えてもらった恩は忘れないが、それはそれ。裏表のある人間関係や腹の探り合いで気を使うことは、もううんざりなのだ。

エレベータに乗って1階に降り、ブルゾンのジッパーを首元まで上げてマフラーをぐるぐる巻く。

「さよなら、お世話になりました……」

ビルの出口で声にならない礼を述べ、ぼくは新宿駅のほうへ歩き始めた。これまでだって何とかなってきたように、この先もなるようになるだろう。向かい風が吹き付けてきたけれど、心の中は開放感でいっぱいだった。

この連載が単行本になりました

さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。

昭和が終わる頃、僕たちはライターになった


著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。


著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

このエントリへの反応

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