2010-03-01

間借りを脱し、新宿に共同事務所を開くことに [北尾トロ 第19回]

いつまでも間借りのままでは落ち着かない。仕事を充実させるためにも自前の事務所を持ちたい。パインは前々からそう言っていたから、年内に引っ越しする計画を聞いても驚きはしなかった。

事務所を構えるのはあくまでパインの会社・オールウェイなのだから、自分に密接なことだというリアリティがほとんどないのだ。ぼくや増田君は、パインの事務所に出入りするフリーのスタッフ。4つある机のうち専用の席があるのはパインのみで、用がある人間がそのつど適当に座っていたから、埋まっていれば喫茶店で原稿を書いたりする。それが不満なのではなく、フリーならそれが当然だし気楽でいいと思っていた。だから、意気込むパインとの会話もいまひとつ噛み合わない。

「今度は我々だけの事務所だから、外で書くなんてこともなくなるよ。専用電話だし、ファクスもそのうち入れるつもりだ」

「そうですか」

「コピー機もいるな。机も1つか2つ増やそう。打合せスペースも欲しくない?」

「あるといいですねえ」

「伊藤ちゃんも間借りのままじゃやりにくいだろう」

事務所を借りるとなると家賃もかかる。そのあたりをパインはどう考えているのか。割り勘なんてことになったら、ぼくは払う自信がない。ぼくだけじゃなくて増田君とか坂やんとかもそうだろう。みんな、家の家賃を払うだけでやっとこさの貧乏ライターなのだ。

「わかってるって。とりあえず家賃はいらないから」

ということは今まで通りか。だったら反対する人間はいないだろう。反対も何も、パインがいなければいまの場所は使えないのだ。パインが動けばみんなそこに行くことになる。

「そういうことじゃなくて、俺としてはみんなに協力してもらってオールウェイを大きくしていきたいと思うんだよ」

「ふーん」

「ようするにさ……」

どこまで理解できたか定かじゃないが、パインは自分自身ではなく、オールウェイという会社をうまく軌道に乗せたいと思っているらしい。もちろん自分が先頭に立つけれど、編集プロダクションの経営者としてもやっていく腹づもりなのだ。

そうか、そうだったのか。そういえば、パインの家に居候していたときこんなことを言われたことがある。ライターの“アガリ”は、専門分野の書き手になるか、作家になるか、編プロ経営者になるかだ、と。ライターデビューすらしていない時期だったから聞き流していたけれど、あの頃からパインは、自分は編プロ経営者で行こうと考えていたのだろうか。尋ねると、まあなと頷いた。

「俺ももう30歳超えてるし、出版社で編集者やってたわけでもなく成り行きでこの世界に入ってきたわけさ。ハングリーだったからさ、食うためにがむしゃらに働いたよ。で、たまたまパソコンっていうものを知り、これからはコレだと思って大金はたいて買い、勉強してそこそこ書けるようにもなった。でもさ、もともとマイコンやってた人間とかと比べたら、俺の知識なんてたかが知れてる。何より情熱というのか、パソコン触ってるだけで楽しいってほどじゃないんだよな」

「へぇ、そうなんだ。てっきり新しいモノが好きなんだと思ってた」

「嫌いじゃないけど、好きでやってるヤツとは全然違う。あくまで食うためだよ。そうなるとさ、俺は有名になりたいとは思ってないだろ、残るのは編プロのオヤジってことになる。みんなとワイワイやるの好きだから向いている気がするんだよ。スタッフさえいたらパソコンに関する仕事をいくらでも取れると思う。だから伊藤ちゃんも一緒にやろうよ」

パソコンに興味があれば、あるいはパインとともに編プロを切り盛りするつもりなら、いい話なのかもしれない。が、あいにくぼくにはどちらもない。ライターの仕事に面白みを感じ始めたところなのだ。しばらくはこのまま続けたいし、編プロはイシノマキで懲りてもいる。編集者にはもう戻りたくない。

「ま、そういうことは先の話でいいよ。会社は俺が個人でやって、三角さんに経理を手伝ってもらうつもりだから」

ライターとして出入りしていた、元編集者の女性の名が具体的に挙がったところをみると、パインは着々と会社経営の足場を固めていると考えていいだろう。

「心配しなくていいよ。伊藤ちゃんとか増田君にパソコンの仕事をやらせたら困るのは俺だもん。ゆくゆくはオールウェイをパソコンだけじゃなくて総合誌でも書籍でもこなせるプロダクションにしたいから、そういう仕事でも引き受けられるようにしておきたいんだよ。出会ったみんなに一人前になってもらいたいのと、そういう意味もあって、共同事務所の形式にして自由に使って欲しいと思ってるわけさ」

将来はともかく、いまのところぼくはパインの構想の勘定には入っていない。つまり、ポジションはいままでと同じ。パインの示す条件は駆け出しライターにとってラッキーの一言だ。なんていい人なんだろう。ぼくは感激し、つい余計なことを言ってしまった。

「だけど事務所を借りるの、金かかるよね」

「まあね。みんなに少し出してもらえたら助かるけど、そうもいかないからな」

ああ、まずい。でも勝手に口が動く。

「単行本のギャラから20万円なら出せるよ」

「え、いいのか」

「どうせ馬券で溶かしかねないからいいよ」

……見栄っ張りなオレのバカバカバカ。こうして苦労して得た『サラブレッドファン倶楽部』の50万円は、5万円が源泉され、20万円がパインに、20万円が親への借金返済に飛んでいった。そして案の定、残った5万円は失地挽回をもくろんだ有馬記念できれいになくなってしまうのである。

この連載が単行本になりました

さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。

昭和が終わる頃、僕たちはライターになった


著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。


著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった