田辺貴久[ライター]●強く生きる自分を応援する優しい本

 いつだったか、運動会の徒競走で、順位を付けるのをやめて、みんなで手を繋ぎ合って一斉にゴールする映像を見たことがありました。かけっこが苦手な児童への配慮ということなのですが、なんだかその光景が妙に気持ち悪く映ったことをよく覚えています。徒競走って、競争なんだから、順位つけなくちゃどうしようもないんじゃ…と。でも、足の遅い子への配慮という「優しさ」のようなものを盾にされると、違和感を覚える自分がまるで心ない人のようにも思えてしまい、いったいどう考えるべきなのか、はっきりと答えが出せずにいました。いま思えば、そういう違和感も、本書で語られる「差別問題」や「ジェンダーフリー議論」が内包している「弱者至上主義」というものと根を同じくするものでした。

 世にあふれる様々な問題を「欲望問題」として読み解き直したとき、どういう世界が待っているのか、きっといい方向にいくと信じたいけれど、もしそうでなかったらどうなるのだろう。この社会の「胆力」の真価が問われますね。「痛み」をかざせば顔パス状態だった世の中を、「痛み」も「楽しみ」と等価として天秤にかけるように組み替えるとき、社会のみならず僕たちが考えなければならないことは、「痛み」を訴えること、それから「痛み」を受け止めることに対して、もっと真剣になるということだと思います。

 いままでは、おもちゃ売り場でだだをこねるように「痛い痛い」と繰り返せば、聞いてくれる人がいたけれど、ただ「痛い」と言うだけでは、誰も聞いてくれなくなるわけで、多くの共感を得て、認められる「痛み」とするには、それだけの説得力が必要だし、そもそも自分の多くの共感を得るべき「痛み」かどうか、まずは自分の中で真剣に考えなければなりません。

 「痛み」を訴えられた方としても、やすやすとそれを受け入れていいものなのか慎重に考えなければなりません。本当にその「痛み」は聞くべきものなのか、それを受け入れることで自分たちが不当に損することはないのか。それを考えた上で耳を傾けるというセンスが必要です。さらには、たとえそれが耳を傾けるに値する悲痛な「痛み」であっても、それを却下せざるを得ない場合もあることを自覚しなければなりません。その判断によって「痛み」の主にはそれを飲み込んでもらわなければならない。そういう判断を、自分たちに委ねられているということを忘れてはならないのです。

 筆者は「線引きすることの暴力」という言葉を使っていますが、それを自覚した上で、「欲望問題」というものさしを取り入れ、より正当に多様性が認められる社会を目指そうとするのか、それともいまのまま、どんな「痛み」にも「優しい」自分でありつづけるのか、本書は僕らにどちらを求めるのかを問うているのだと思います。

 さあ、どうしよう。僕は、だれかに「痛み」を強いることになったとしても「欲望問題」に賛成したいです。真剣に向き合って考え抜いて出した答えなら、「痛み」を強いることになっても、自信をもってその判断を下せるはず。それならきっと納得できるはずです。社会の中で生きる以上、そうでなくてはならないと思います。

 自分の周りを見渡してみると、自分を煩わせているいろいろな問題が、実はいろんな「痛み」を内包したものだと気付きます。その中で、知らず知らずのうちに、より「痛い」ほうに視点を合わせて、そこに優しくすることで、自分にはね返ってくるだろう別の「痛み」から逃げていたように思います。もちろん、常に利己的である必要はないし、自分が損をしたって「痛み」を受け入れることだって大切です。それを受け入れないことがかえって自分の「痛み」になることもあるわけですから。

 でも、どんな「痛み」や「欲望」が自分に向かってきても、絶対に譲るわけにはいかない「痛み」や「欲望」については、常に意識していたい。僕はそのことに少し鈍感でした。そういうものをきちんと意識しておくことが、自分にとっても他人にとっても真剣に「痛み」それから「欲望」と向き合うことになると思うし、それはつまり真剣に「生きる」ことだとも思います。そう考えると、本書からは生きるための「勁さ」も貰ったのかも知れない、なんて思います。
 

たなべたかひさ●
1982年、千葉県生まれ。専門出版社勤務。『Queer Japan Returns』(ポット出版発行)では、0号から参加し、原稿を書いている。