松本侑子[作家]●同じ時代を同じように摸索し、答えを探しながら生きてきたんだな

 本書を読んで、思わず涙が出ました。とくに、第2章「ジェンダー・フリーの不可解」には、心を揺り動かされました。

 伏見さんと私は同い年ですが、「同じ時代を、同じようなことに悩み、模索し、答えを探しながら、生きてきたんだな」とつくづくと実感したのです。

 伏見さんの御本は、デビュー作の『プライベート・ゲイライフ』以降、ほとんどを拝読していると思いますが、ゲイ/ヘテロの差がありながら、ここまで同じような変遷を経験していたのかと驚きながら、ますます共感をおぼえた次第です。

 第2章の主題は、「ジェンダー・フリーの不可解」という章題から連想されるように、昨今の「ジェンダー・フリー/ジェンダー・レス」の混乱と、それが目指すものへの疑問です。

 しかし私が注目したのは、この章で、「自分らしく生きること」と「性別二元論」の相克、それをどう克服し、今はどこへ着地したのか、その過程が告白されている点です。その記述に、私は惹きつけられたのです。

 本書によると、伏見さんは、1980年代のフェミニズムの時代に、「男らしさから自分らしさへ」というその時代の理念に従って、オネエ的な自己表現をしたところ、あまりモテなかった。

 ところが同性愛者に好かれるある種の記号としての「男」、つまりジェンダーの「欲望」に沿ったイメージを演出したところ、恋愛相手には困らないようになった。

 しかし、彼はまた別の困難に直面します。
「性愛は満たされるかもしれないが、もう一方で、自分が抱える<女制>蔑視から生じるゲイ差別の問題が取り残されてしまうことになりました。ぼくは同性愛ということでも思春期に抑圧感を抱かざるをえませんでしたが、女性的な男性という部分−−これはすべてのゲイに当てはまるとは言えませんが、少なからずのゲイに見られる傾向−−でひどく攻撃された経験がありました。それは、男女のジェンダーの格差に根ざした蔑視でしたから、ぼくは<女制>差別の当事者でもあったと言えます。」

 こうして伏見さんは、「性愛を生きようとすれば差別を再生産し、差別をなくすためには性愛を断念しなければならない」というディレンマにさらされた結果、「性愛は私的領域の中で交わされる『ゲーム』だと了解し合い、一つのパロディとして遂行していく」ようになったと書いています。「キャンピィ」な感覚もまた、「パロディ」の一つだったようです。

 それから歳月を経た今、第2章の結末では、「性別二元制」の中でも、ゲイ男性の欲望を引きうける理想的なイメージの一つに、「いかにもホモらしい人」が出てきて、いわゆる普通のヘテロ男性が考える「男らしい男」とはまた別に分化して、ゲイ独自の男制が発展していることが語られて、終わります。

 実は同じ遍歴を、私自身もたどってきたように思います。
 10代の1970年代にアメリカのフェミニズムの洗礼を受け、1980年代の20代は上野千鶴子さんや小倉千加子さんの片端から本を読みあさりました。

 私生活では「自分らしさ」を心がけていましたが、メディアで仕事をしていたことから、「女性性」の表出は、職場では、日常的に求められていました。また、意中の男性の前では、恋人になりたいために、ヘテロ男が求める「女制」の記号も表現しました。
 すると、恋愛が成就することもありましたが、相手が私に求める「女制」や「支配・被支配的な男女関係」に失望したり、疲れたりして、結局、長続きしない。恋愛の中で、性差別の再生産をする羽目になる。

 さらに私は、子どものころから女性的な服、キモノ、家庭的な手仕事が大好きだったのですが、そうした自分の好みは、因習的な刷り込みなのか、それとは無関係な個体的な好みなのか、うまく分析できない(今思えば、同じ親のもとで育ちながら、姉妹はそうした趣味を共有していないので、個体差だったのかもしれせません)。

 そうした迷いの結果、女らしいドレスアップをしてメイクをする時は、「女装」と語っていた時期もありました。過剰な女性性の演出それ自体を、ある種の性表現のパロディにして、自分と他者を納得させていたのかもしれません。また私自身、別人に変わるくらいの「女装」をとても楽しんでいました。演劇的な喜びもあります。

 その頃は、自分の公式サイトに女装専門コーナーも常設して、美しい女装者の皆さま方のお写真を多数、掲載していました。やがて、本物の女装者と、自分の「女装」との違いがわかるようになり、結局、今は、女装コーナーは廃止しています。

 そして現在、注目していることは、女が意識する<女制>のイメージが、必ずしも「男性にとって受けが良い外見、イメージ、性的記号」ではなくなっている明確な現実の変化です。

 女たちは、必ずしも異性の目だけではなく、むしろ自分や同性の意識や価値観を体現する外観とイメージを、理想として考えているように感じます。私自身も、同様です。

 たとえば、私自身の服装を、パートナーや男性が「???」と反応することもあれば、気に入ることもあるのですが、いずれにしても、さほど重きを置いていません。むしろ自分と同性の美意識のほうが比重が思い。

 倖田來未さんのエロカワという高い評価も、セクシーさという性的魅力が語られながら、男の目線ではなく、むしろ女の肯定的な目線が基準になっていることを思えば、性別二元制の中でも、男制、女制のイメージそれぞれが、ヘテロの硬直した欲望の視線から比較的、自由になりつつあることを感じています。

 最後に、「ジェンダーフリー」という言葉については、私も懐疑的です。
 学校では、「性差別撤廃」で良いのではないでしょうか。それは女性/男性という身体的性別だけでなく、同性愛/異性愛といった性的嗜好性も含めて、差別的な扱いに警戒してほしいという意味です。

 そして最後にもう一つ。伏見さんは、ゲイのカミングアウトは、場合によっては家族を傷つけかねない試みだったが、現在はお母様と良好な関係を築いていらっしゃることを書いておられます。
 同じようにフェミニズムもまた家族を傷つけかねない思想でした。
 親たちが当たり前のように信じてきた価値観、(男はかくあるべきだ、女はかくあるべきだ、女の幸せはこういうものだ)が、娘によって、むざむざと否定されていく。
 また娘である私自身もまた、自分が育ってきた環境の価値観や自分の過去の理想を否定しながら、あるべき自分や異性関係を探していく、という、時にはつらい問いかけ、作業を繰り返して文章を書いてきたように思います。
 しかし両親は、娘の試行錯誤から、きっと何かを感じとってくれたのではないかと思います。とくに以前は男権主義的だった父が大きく変わったことを、私は嬉しく感じています。

 伏見さんの『欲望問題』は、ご自身の思索と活動の過程、昨今のセクシュアリティをめぐる現状を、時に自己批判もまじえながら語った書物です。その率直で真摯な態度に心打たれました。
 ゲイの人だけでなく、ヘテロの女性も、男性も、自分の性愛と生き方を見つめ直す大きな機会をあたえてくれると思います。

 私はこれからも、憲ちゃんの本を真剣に読んでいきたいと、あらためて実感しています。

【プロフィール】
まつもとゆうこ●
作家・翻訳家。テレビ局に在職中に『巨食症の明けない夜明け」ですばる文学賞受賞して文筆業に。小説、海外紀行集の他、訳注つき全文訳『赤毛のアン』などの翻訳も手がける。

【著書】
海と川の恋文/角川書店/2005.12/¥1,700
ヨーロッパ物語紀行/幻冬舎/2005.11/¥1,500
アンの青春(訳)/集英社文庫/2005.9/¥762
憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言(井筒和幸、井上ひさし、黒柳徹子らとの共著)/岩波ブックレット/2005.8/¥476
愛と性の美学/幻冬舎文庫/2005.2/¥600
引き潮/幻冬舎/2004.9/¥1,300
性遍歴/幻冬舎文庫/2004.4/¥495
イギリス物語紀行/幻冬舎文庫/2004.2/¥571
物語のおやつ/WAVE出版/2003.9/¥1,400
光と祈りのメビウス/ちくま文庫/2003.1/¥680
どうして猫が好きかっていうとね(訳)/竹書房/2002.7/¥980
別れの美学/幻冬舎文庫/2001.12/¥495
赤毛のアンに隠されたシェイクスピア/集英社/2001.1/¥1,900
誰も知らない「赤毛のアン」/集英社/2000.6/¥1,700
赤毛のアン(訳)/集英社文庫/2000.5/¥800
花の寝床/集英社文庫/1999.8/¥362
グリム、アンデルセンの罪深い姫の物語/角川文庫/1999.5/¥552
偽りのマリリン・モンロー/集英社文庫/1993.1/¥457
植物性恋愛/集英社文庫/1991.10/¥381
巨食症の明けない夜明け/集英社文庫/1991.1/¥343