2011-03-10

お部屋2179/差別用語とパンパン

まず以下をお読みください。

ATOKと「差別語」をめぐるあれこれ

片や、「差別語」が存在するという前提でジャストシステムの姿勢を擁護し、片や、「差別語」の存在そのものに疑義を抱く側が批判しているという構図です。

この議論を知った時にはすでに時間が経っていて、ツイッターで軽く触れたのみだったのですが、議論はその後も続いてます。

「ある人々がある言葉を差別語であると認定することは可能か」「その言葉を使用できなくすることが差別の解消につながるのか」というテーマについては、かつての「オカマ論争」で結論は出ているというのが私の認識。

こんなん、知らない人たちも多いわけですから、遅ればせながら、私は「オカマ論争」についてのダイジェストをツイート。

これが、3羽の雀さんにトゥギャられて、そこに「松沢呉一の黒子の部屋」 http://www.pot.co.jp/magazine/matsukuro/でさらに論じられるかとも思うなんてことを書かれてしまいました。東村山の矢野穂積、朝木直子両市議の問題をお任せいっぱなしの3羽の雀さんにそう書かれたら、書かないわけにはいかないです。

ジャストシステムを擁護する側の意見で、論ずる価値がありそうなのは、以下の三点くらいでしょうか。

1.単語登録すればいい
2.一企業がリスクを負う必要はない
3.内部の人が決定すべきこと

この主張からするなら、印刷された辞書においても、言葉は消されていいってことになる。まったく同じ意味ではないにしても、ある辞書に該当の言葉が掲載されていなかった場合、「他の辞書を使う」「自分で辞書に書き込む」という方法があるわけです。ジャストシステムがリスクを負っているのであれば、印刷物の辞書を出している出版社もリスクを負っているでしょう。

雑誌や単行本では著者が関わってきますから、「企業の内部の人が決定すればいい」とは必ずしも言えませんが、1点目、2点目から、書き手にそれらの言葉を使わせないのも妥当ということになります。「その言葉を書ける雑誌で書けば?」「ネットに書けば?」って話ですし、出版社はそのリスクを負う必要はないってことらしいですから。

まして内部の人間ではない読者の立場から、「言葉狩り」を批判することはできないことにもなる。

過去に繰り返し議論されてきた「言葉狩り」を肯定する論理であり、ここまで「言葉狩り」を堂々と肯定する人たちが顕在化したのはネットの時代だからってことでもあるのですが、いかにこの問題を突き詰めて考えてこなかった人が多いのかってことかとも思います。

言葉を奪われないために、たった一語をめぐって、数時間、時には数日にわたって編集者との攻防を繰り広げたことが何度かある私からすると、どれだけお気楽な人たちかと呆れます。

その一例はこちらに書いてます

「パンパンは使わないで欲しい」
「なぜいけないのか」
「共同通信社の記者ハンドブックに出ているから」

簡単に言えばこういう話。これは共同通信とは何の関係もない出版社の話です。知らんよ、そんなもん。

「パンパン」という言葉はたしかに蔑称として使用されることがあります。しかし、彼女たちの実態が見えやすかった時代には、蔑称のニュアンスは薄く、価値判断を含めない用語として広く使用されています。

「街娼」という言葉も当時からありますが、調査報告書の類いで使用されているのみで、一般に使用されている例は見当たらず、「パンパン」か「闇の女」といった言い方が一般的です。

しかし、狩込みによってパンパンの多くが街から消えるとともに、この言葉は売春をする女たち全体に拡大され、それとともに蔑称のニュアンスを帯びていきます。

たとえば「あの女代議士は政界のパンパンだ」といった表現があった場合に、いったい誰が誰を蔑視しているのか。表面的には女代議士が蔑視されているわけですが、売春をする女たちを貶める側がこれを蔑称として使用し、使用された側も、そのような女たちと同様の存在であると見なされたことに屈辱を感じる。つまり、ここで蔑視されているのは、その女代議士とともに売春をする女たちであると見なすべきであり、蔑まれた女代議士は同時に売春をする女を蔑んでいます。

この構図のもとで、この言葉は差別的であるとして、この使用を封じようとするメディアがあるわけです。

これによってパンパンの実態は見えなくなります。今の時代の「立ちん坊」「街娼」とパンパンは違う。敗戦後の焼け跡に立ったのは、赤線の女たちとも違い、「強い女たち」「闘う女たち」という側面があったことが理解されなくなり(この見方は私独自のものでなく、当時の雑誌からも読み取れますし、アメリカの特派員も同様のことを書いています)、やがて「戦争の犠牲になった哀れな女たち」と見なされていきます。

その実態をとらえ直す作業をやってきた私にとって、当時の女たちを記述する際に、「パンパン」という呼称は外せない。これは彼女らの存在をなかったものにしたい人々への抵抗です。狩込みによって消えた女たちを意味する言葉が言葉狩りで消されることを看過するわけにはいかない。

このことを編集者や読者に理解しろとは言いません。しかし、ただ「ハンドブックに出ているから」という理由で消されることは受け入れがたい。

ハンドブックを基準に言葉を狩る行為は、ただ出版社だけが非難されて済む問題ではありません。書き手も同様に責任を負っている。

「この言葉はまずいです」
「はいはい」

と従っている書き手も多いはず。ここで抵抗する書き手は嫌がられますから。実際、私も言い換えたところでとくに意味が変わらない場合は「しゃあないな」と譲ることもあります。

このような「差別用語集」が、考える契機として作られているならいいとして、現実には編集者も書き手も考えないで済むための基準として機能してしまっている。

書き手が使用する必然性を感じ、差別的ではない文脈において使用する場合においてさえも、「ハンドブックに出ている」として削除するような真似はやめて欲しい。せめて該当の文章を読んで、そこに差別的な意味が表現されているのかどうかくらい判断して欲しい。

この時は2日か3日にわたる攻防の末、「抗議があればそちらは一切責任をとらなくていい。全部こちらに回してくれていい」と私は言い、特例として使用することを編集部は認めたはずです。ひとたびできた基準は強固に人を縛り、これを覆すには多大な労力が必要になります。

もちろん、実際には抗議なんてあるはずがない。ありもしないリスクのために言葉が狩られている。

でも、こんなことをやっているから、仕事が減るわけです。言葉を狩られ、仕事を狩られ。

このエントリへの反応

  1. 一般公募された雌パンダの名前の3位に「パンパン」が入っていたという今朝のニュースを当然踏まえたものかと思っていましたがwww 「パンパン」と聞いてあたふたするのはある程度の年齢以上の人で、おそらく若い人を中心になんの躊躇もなく応募したんだろうなーと思いました。

  2. 知らなかった。たぶん私の影響を受けた人々がこっそり投票したんでしょう。パンダと言えば上野、上野といったらノガミのパンパンですからね。

    でも、単にパンダだから、パンパンなのか。子どもにしても安易すぎましょう。