2009-09-10

お部屋1951/創価学会を嫌う理由 2

りゅうさんは慌てて謝罪していますが、あの回について撤回しようが、訂正しようが、創価学会への評価が変わるはずもなく、その評価を裏切ることのないことをりゅうさんは書いていただけのことです。撤回などせず、そのまま晒しておいていただきたい。

とは言え、謝罪したことについて深追いするのは私の流儀に合わないので、あの回についてはもう触れないとしましょう。しかし、私が創価学会に感じている特性は、りゅうさんがこれまで書いていたことにも見られますので、それを指摘しつつ、このまま話を続けます。

矢野穂積・朝木直子著『東村山の闇』を読んだ直後に、私はこんなことを書いています

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学会はなぜこんな本を放置しているのでしょう。

その辺の事情を探ってみました。どこに探りを入れたかは内緒です。ワハハ本舗じゃないですよ。

学会としては、かつてさんざんこの問題を批判し、法廷でも彼らの主張に根拠などないことを明らかにしてきました。事実、裁判では圧勝しており、反学会メディアたる「週刊新潮」でさえも、もはや「学会の陰謀だ」なんてことは書けない状態です。

なので、これ以上、矢野・朝木を相手にする必要がない。すでに結論が出ているのに、それから何年もしてから、懲りもせずに『東村山の闇』を出すことについては、「まだ言っているのか」と脱力しつつ、学会員には十分に情報が浸透していますから、放置でいいだろうと判断しているようです。

また、矢野・朝木がいかにデタラメな人たちであるのかをああも明らかにしたのに、なお当選してしまうところに学会側の諦観もあります。だったら、もう触れないでおこうという空気もあるようなのです。

「反学会層」は、学会の言うことに耳を貸さず、叩けば叩くほど頑なになる。それをいいことに、矢野・朝木はなおも『東村山の闇』のような本を出している。虚しくもなりますわね。

ヤツらの狙い通りとも言えますが、学会が言っても受け入れられないという判断は半ば正しくもあります。学会が出張ってくると話がこじれそうなので、今回も黙って遠くから見ていてもらいたいものです。

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誤解されるとまずいので、補足しておきますが、ワハハ本舗の中で創価学会員は、「看板的な存在の数名+α」であって、学会員じゃない方が多く、私がつきあっているワハハ所属の芸人や役者たちは全員学会員ではありません。自分で誤解されるようなことを書いておいて、「誤解されるとまずい」もないもんですが。

ワハハにはいないですが、私の知人には、複数の学会員がいます。人として信用できれば、学会員であろうと、つきあいます。この話はそのうちの一人から聞いたものです。

ここにあるような諦観があるにしても、結局、創価学会としては、学会員が動揺するような状態ではなくなった以上、放置してもいいと判断したのだと思われます。書き続けていたのは、柳原滋雄さんくらいじゃないでしょうか。そこは一目置けるところです。

創価学会がなぜ放置するに至ったのかは、りゅうさんが以下のように書いていたことからもわかります。

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「あれ? 東村山事件で学会員じゃない人たちが戦ってる。なんでだろ??」という驚きの感情を強く覚えました。

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いかに学会員として書いていようとも、一学会員の発言から、学会全体の体質を読み取るのは無理があるわけですが、私が知る創価学会の体質ときれいに合致してます。

理不尽な理由で辞職を求められている市議がいて、セクハラでもなんでもない行為をセクハラだとされている。万引きの被害者であるにもかかわらず、いやがらせを受け続けている洋品店がある。保育園やコミュニティFM局を私物化している市議たちがいる。ヤツらは一般市民さえもためらいなく訴える。

それに対して怒りを覚え、その思いを表明する。そんなん、不思議でもなんでもない。

しかし、多くの創価学会の人たちにとっては不思議なんでしょう。彼らの行動原理は利己ですから。

同じようなことは「草の根」も瀬戸弘幸も書いていたことがあります。「なんの利害もないはずがなく、自分らを批判するのは、創価学会員なのだ」と。利己でしか動けない人たちは、どいつもこいつも似たようなことを考えるんですな。

「草の根」の言い分を鵜呑みにした検証能力のないメディアが、創価学会が殺したかのようなデマを大々的に流していた時期は懸命に防戦する。公明党の候補者に対する中傷ビラがまかれれば訴訟を起こす。つまり、創価学会が直接に損害を与えられることに対しては行動するわけです。それだけ。

創価学会員ではない洋品店が襲撃されても知らんぷり。これらの騒ぎについて、東村山市の公明党市議がブログで一言たりとも書くわけではないこと見ても、広く創価学会の人たちに共通する特徴なのだと思います。

りゅうさんは、私らが最初から面識があって、面識のある薄井市議だから、支援の動きが起きたとばかり思っていたようです。

薄井さんのことは、知人から聞いてはいましたが、それまで会ったことはありません。この一件が起きてすぐに薄井さんを呼んで話を聞く会を新宿で開いたことがあって、その時が初対面です。仮に存在を一切知らなかったとしても、私は同じことをしていたでしょうし、あの時に署名した人のほとんどは薄井さんの存在さえ知らなかったはずです。

仲間うちのためにしか動かない創価学会員の方々にはこれも信じられないことなのでしょうね。

これは創価学会に限った特性ではなく、同様の宗教団体はいくらでもあります。あるいは、世間一般、そんな人の方がずっと多く、宗教団体にもそれが反映されているだけとも言えます。直接利害があるはずの東村山市民でさえも、ほとんどの人がこの問題に無関心だし、関心があっても、何もしないでいるわけで。

だからこそ、創価学会は人を集めたと言っていいかもしれない。自分の利益を堂々と追求していい。他人が困っていても知らぬふりをしていい。そういう生き方をよしとする人たちにとって居心地のいい教団なのでしょう。やっていることは利益追求のための互助団体みたいなもんです。

そういう教団があってもいいですが、嫌悪されること、バカにされることくらい覚悟しておいてもらわなきゃ困りますし、学会員以外のことなんてどうでもいいとしか思っていない人間たちには、こちらも同様に接するまでのことです(もちろん、すべての学会員がそうだとは思ってないですよ)。

乙骨正生や段勲の卑しさについては、私も創価学会の方々の非難に同意します。矢野絢也という人物の発言も疑わしいと私も感じます。しかし、どうしてこんな連中を創価学会は次々と輩出し続けているんでしょうね。

巨大教団なのだから、中にはおかしな人たちがいるのは当たりまえ、金に狂う人たち、犯罪に手を染める人たちが出てくるのも当たりまえとも言えますが、公明党や創価学会の幹部であった人たちの中からも同類の人間が出る。何十年間もそれらの人たちが内部にいて、彼らを指導することも、更正させることも、排除することもできなかった教団に果たして責任はないのか?

創価学会が、元信者たちを言葉を極めて罵倒するのを読むたび、「おいおい、その言葉はおまえら自身にも向けられるべきだろ」と思わないではいられません。「そういった人間を生み出す素地が創価学会にはある」「そういった人間と同じ特性を学会員たちは今も共有している」「創価学会が非難する元創価学会員たちは、創価学会の特性を悪い方向で具現化した存在でしかない」と推測することはそう無理がないでしょう。

その上、内部に甘く外部に厳しい体質、自省のない体質が、そういった人々を生み続けているのだとしか私には思えません。

続きます。