2007-06-23

お部屋1270/今日のマツワル32

第三弾です。いつ出るのかさっぱりわからないのですが、『ディフェンディング・ポルノグラフィ』が出たら、「マツワル」でセクハラの範囲拡大の問題についてさらに論じるとして、ひとまずこのシリーズはここまで。

経過については、以下参照。
http://www.ganbareusui.com/

矢野・朝木コンビがどういう人たちかについては、以下が参考になります。
http://ranhou.hp.infoseek.co.jp/

< <<<<<<<<<マッツ・ザ・ワールド 第1515号>>>>>>>>>>

< 東村山セクハラ捏造事件3>

1999年4月1日に「男女雇用機会均等法」が施行されるのに先立ち、3月30日付けで「文部省におけるセクシュアル・ハラスメントの防止等に関する規程の制定について」
という文書が出されています。

ここではこう定義されてます。

————————————————————–

職員が他の職員、学生等及び関係者を不快にさせる性的な言動並びに学生等及び関係者が職員を不快にさせる性的な言動をいう。

————————————————————–

どうもこの辺りから要件が曖昧になってしまって、この文書を受けて右ならえで制定された各大学のガイドラインは「被害者がそう感じたらセクハラである」といった杜撰極まりないものに変質していき、これに乗じて、「私が不快なのだから、セクハラだ」と言い出す輩も出てきます。

その延長で、「風俗産業はセクハラだ」と言いだした大学の教員がいて笑わせていただきました。男が権力をもっているこの社会において、ことごとくの男の客はことごとくの女のセックスワーカーに望まない性的行為を強いているという論理らしいのですが、だとするなら、金銭授受のあるなしを問わず、この社会におけるあらゆる男女の性的行為はセクハラになります。格差を解消する金銭の授受がない方が悪質という言い方もできる。

一部のフェミニストのように、「すべてのセックスはレイプである」と言い切れる人のみ、このようなことを言う資格があるかもしれませんが、それにしたって、当事者ではない第三者が「風俗産業はセクハラだ」と糾弾し得るはずがない。それこそ、当事者の意思を踏みにじるものです。

しばしばこういう人たちは、「本人は気づいていないが、セックスワーカーは強いられているのだ」などと言いたがります。「てめえらはバカだからわかっていないだけ。そのことを賢い私はわかっている」と言いたいらしい。思い上がるのもたいがいにした方がいい。

さすがに相手にされず、自分自身、セックスができなくなってしまうので、「風俗産業はセクハラだ」などと主張するような人はほとんどいないにしても、各大学あるいは各企業においては、このあいまいなガイドラインによって、教員や社員が処分されるようになってしまってます。ガイドライン自体が恣意的に運用できるものである上に、その判断をするのはしばしば内部の委員会であり、その決定過程も内容さえも非公開。私法によるリンチであり、秘密裁判です。

これによって、学校側の教員管理、締めつけにセクハラは利用されていることはすでに「マツワル」で具体例を挙げて述べてきた通り。当時の文部省が、大学に対して要件を緩めたガイドラインを制定させたことにはなんらかの意図があったのではないかとも疑えるのですが、これ以上は私にはわからないです。

その意図はともあれ、このような野放図なセクハラの範囲拡大によって一体何が起きるのか。ここからはナディーン・ストロッセン著『ディフェンディング・ポルノグラフィ』の領域です。

簡単に言えば、要件の緩んだセクハラ解釈は、この社会の多数派が不快と感じる性行動や性表現を潰していきます。もっとも顕著なのはLGBTの行動であり、表現です。メープルソープによる男のヌード写真は美術の時間に使用できません。ホモによる男の裸なんぞはけがらわしいですから。

そして女たちの性行動であり、性表現です。女たちがセルフポートレートを撮ること、女たちがセックスを語ること、セックスを楽しむことははしたないですから。事実、アメリカやカナダではフェミニストたちの表現が規制されています。

だからこそすでに多くのゲイ、レズビアン団体やフェミニストたちが、マック・ドウォーキン主義に反対を表明しています(マックはキャサリン・マッキノン、ドウォーキンはアンドレア・ドウォーキンで、キリスト教ファンダメンタリストとも手を組んで、性行動、性表現の規制に邁進する「フェミニスト」たちのこと。『ディフェンディング・ポルノグラフィ』はマック・ドウォーキン主義を徹底して批判した本でもあります)。

しかし、アメリカにおいても、また、日本においても、裁判所は、恣意的に解釈できるルールは採用せず、厳密に要件を満たしていることを求め、時には、セクハラではないものをセクハラと騒ぎ立てたことによって名誉毀損が成立して、賠償金の支払い命令も出されています(「神奈川県立外語短期大学事件」を参照のこと)。他者の行動を無闇に「セクハラだ」などと吹聴しない方が身のためです。

では、今回の事件において、東村山市の市議や「東村山市民新聞」が言うようなセクハラが成立する余地があるでしょうか。

まず「東村山市民新聞」が挙げる「東村山市男女共同参画条例」での定義。

————————————————————–

性的な言動により当該言動を受けた相手方の生活環境を害すること又は性的な言動を受けた相手方の対応によりその者に不利益を与えることをいう。

————————————————————–

こりゃまたおっそろしくアバウトな定義です。その上意味がわからない。こんな杜撰なセクハラ定義が条例で制定されているとは驚きました。

では、他の条例ではどうなっているでしょうか。

以下は、「東村山市職員のセクシュアル・ハラスメント防止等に関する規則条例」で定められたセクハラの定義。

————————————————————–

(1) セクシュアル・ハラスメント 職員が他の職員を不快にさせる職場における性的な言動及び他の者を不快にさせる(職員がその職務に従事する際に接する職員以外の者を不快にさせること及び職員以外の者が職員を不快にさせることをいう。)職場における性的な言動をいう。

————————————————————–

議員に関する特別の規定はないようで、おそらく市議もこれに準ずることになるのでしょう。

これでも十分アバウトで、世田谷の資源ゴミ持ち去り事件のように、いざ裁判になっても、この条例は意味をなさないと思われます。なんでもっと厳密に法律を作らないのかな。

ここでは【職場における】とされております。これが絶対的な要件であり、「職場にあるパソコンで見えるサイトの性表現」は含まれません。当たり前です。見なければ済む他者の言動がどうしてセクハラになりましょうか。

この世の中に、自分が気に入らない人物が仕事で出ていたサイトを好き好んでわざわざ探し出して、そこに性的な言葉があったからと言ってセクハラだと認定するセクハラ条例などひとつとしてないでしょう。あっては困ります。

こんなバカげたセクハラが成立するのであれば、過去になされた性的な発言さえ見つけ出せば気に入らない人を放逐できてしまいます。こんなことが許されるのなら、石原慎太郎を辞職に追い込むことは簡単です。簡単ですが、そんなことはあってはならない。

我々にできるのは、過去に書いていたことと今の政策との間の整合性を問うことであって、セクハラとはなんの関係もない。

また、東村山市のアバウトな条例をそのままアバウトに受け取って、ネット上の発言をセクハラだとしていいのであれば、それを転載するサイトもセクハラでしょう。そうはならない規定などどこにもありませんので。

「被害者がセクハラだと思えばセクハラなのだ」という杜撰なセクハラの定義が広がる中、「他者を貶めるためにはなんでも利用する」というバカげた人々がこれに飛びつくのは当然です。批判を無視して、セクハラの拡大解釈を進めてきた人たちにもこの責任はありましょう。猛省を促したい(続く)。

< <<<<<<<<<マッツ・ザ・ワールド 第1515号>>>>>>>>>>

注:以上、補足を加えて、6月25日に改訂しました。