2009-10-14

対談:岩松了×若手写真家 第2回●高橋宗正/嘘のつきかた

『溜息に似た言葉』とは?

『溜息に似た言葉』は、劇作家・岩松了が文学作品の中に書かれたセリフを抜き出し、セリフに込められた世界を読み解くエッセイ集です。
ただし、抜き出された言葉は、意味を重ねた数々の言葉よりも多くのことを伝える、ひとつの溜息に似た言葉──。

連載を単行本化するにあたって、岩松了が読み解いた40のセリフを、5人の写真家が各々8作品ずつ表現した写真も収録しました。
撮影後に岩松了と写真家が行なった対談は、対談の中で写真家が発した1つの言葉から描く人物エッセイ「写真家の言葉」として単行本に収録しましたが、ここでは劇作家・岩松了と若手写真家の生の言葉を掲載します。

第2回目、高橋宗正との対談は、「嘘のつきかた」について。シェイクスピアは登場人物に「私は嘘をついている」と言わせるが、チェーホフは「人が話す言葉は必ずしも本当のことではない」という前提の元にセリフを言わせる。2人の劇作家の対比とともに見えてくる、人が嘘の言葉を吐く事情。

溜息に似た言葉
すべての収録作品など、詳しくはこちら


写真家●高橋宗正

プロフィール

1980年 東京都生まれ。
2002年 写真新世紀優秀賞(SABA)
2004年 「hinterland」art & river bank(個展)
「チャウス展1〜導かれし者たち〜」CASO(グループ展)
2007年 フリーランスになる
2008年 littlemoreBCCKS第一回写真集公募展リトルモア賞
Web:http://www.munemas.com/

撮影した作品

「だんだん、いゝお友達が減ってくぢゃないの……」
─『屋上庭園』岸田國士/絶版
思い出せばあなたも、追いつめられて真実の言葉を吐いて素敵かも

「大金持ちってときには孤独になるものだから!」
─『欲望という名の電車』テネシー・ウィリアムズ/小田島雄志訳/新潮文庫
必死に嘘をつくとき、この世に絶対などないという普遍に近づいている貴方

「顔に血がついてるぞ」
─『マクベス』シェイクスピア/松岡和子訳/ちくま文庫
大きいことの始まりはいつも小さなこと。いいことも悪いことも

「さめが……」
─『老人と海』ヘミングウェイ/福田恆存訳/新潮文庫
人と人との隔たりに絶望するなかれ。もしやその隔たりにまた救いもあるものだ

「同じ話がだんだんへたになる」
─『勝負の終わり』(『勝負の終わり クラップの最後のテープ ベスト・オブ・ベケット2』より)サミュエル・ベケット/安堂信也、高橋康也訳/白水社/新装版あり
同じ話を繰り返しするとき次第に白けゆくのは人の常、と言いながら……

「御縁でもってまたいっしょになろう」
─『雪国』川端康成/新潮文庫
無関係であることは、残酷なことでもあり、また救いでもある。と肝に銘じよう

「どこって、おれは全体をみていたよ」
─『逢びき』(『鳴るは風鈴・木山捷平ユーモア小説選』より)木山捷平/講談社文芸文庫
同じものを目にしても人は見てるものが違うから

「これからだんだん寒くもなりますし……」
─『蓼喰う虫』谷崎潤一郎/新潮文庫
この本を読めば、あなたも男の優柔不断を許容できるかもしれない


対談●嘘のつきかた

岩松 高橋さんの写真は、結構直球ですよね。『老人と海』なんて、「さめが……」というセリフに、サメの写真で。

高橋 もう、これしかねえやって(笑) 『雪国』も、雪しかねえなって感じだし、なるべくシンプルにしたいと思って。「そのままじゃないかよ」くらいシンプルにしないと、見てる人がわからないというか。

岩松 「顔に血がついてるぞ」の血は本物ですか?

高橋 本物です。これも、血を出さないといけないのかな、と思ってまして。「ちょっと切るかー」とか思ってたんですけど、あるロケに行った時に、結構ハードなロケだったせいか、ホテルで朝起きたら鼻血が出て。「ああ、拭かなきゃ、間に合わない、間に合わない」ってなって、結局、鼻血がたれちゃって。「……血だ!」って(笑)

岩松 『屋上庭園』は、やっぱりデパートの屋上ですか?

高橋 そうです。渋谷駅の上の、東急の屋上です。この人形の顔が物悲しくて。『屋上庭園』では、「人のすることってあまり変わらないな」と思いました。友達に「金貸してくれよ」と言いたいけど、言えないとか。

岩松 俺、この戯曲を最初に読んだとき、おかしくて笑っちゃってさ。「だって、あなたは、だんだん、いいお友達が減ってくぢゃないの……」なんて最高の喜劇だよ。「けだし真実!」じゃないですか。お金がなくなると、本当に友達が減っていく。

高橋 僕は同じ会社で働いていた先輩と、同じ時期にフリーランスになったんですよ。一緒に失業保険を貰いにいったりして。ただ、僕の方がちょっと早く活動をしていたので、少し生活が安定していた時期があったんです。その頃に、先輩が「お金がない」と言うから「5万円貸してあげようか」と言ったら、一瞬悩んで「いや、いい、いい」ってなったんですけど、「金がないというのは人間関係もえらい狭めてるな」と思って。

岩松 真実なんだけど、喜劇的でしょ? 「あなたも、何時までもぶらぶらしてないで、早く仕事をして頂戴ね」「だって、だって、あなたは、だんだんいいお友達が減ってくぢゃないの」の後に「急に夫の胸に顔を埋めて泣く」とありますからね(笑)

高橋 暗くなりすぎないところが良いですよね。

岩松 俺、自分がデビューしたときに「岸田國士に似てる」と言われたんですよ。でも岸田國士を読んだことがなかったから、「岩波から全集が出てるので、買ったらどうですか?」と言われて、買ったんですよ。1回配本5千円くらいのやつを、ばーっと。家にある一番作家らしい持ち物って、それなんだけどね。でも、それを読んで岸田國士には詳しくなった。結構おかしいセリフもあるしね。
谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』は、この本のために撮ったんでしょ?

高橋 そうです。女の手の上で踊らされる男です。「踊らされるだけじゃなくって、最終的には抑圧もされるよな」と思って、上下から挟まれる形にしました。まあ、手法としては昔からあるものですけど。男性の動きは、サザエさんのオープニングテーマの最後にタマが果物を割って出てきて踊るのを完全コピーしようと思って、現場にiPodを持って行って研究しました。

岩松 女性2人は、モデルさんですか? その辺にいた人じゃないでしょ?

高橋 これは、前の日に友達同士で飲んでいて、そのまま「暇でしょ? 行こうよ?」と言って、雨の中頑張ってもらいました。この右側の子の顔が、冷たいこと冷たいこと……(笑) 「抑圧ってこのことか」という顔です。

岩松 『欲望という名の電車』のお金は、また単刀直入だったね(笑) これ、全部本物?

高橋 本物です。ちょうど100万円ですね。これも本当にいろいろ悩んだんですけど、「お金だろう」と思って。僕みたいにフリーで仕事をしていると、親はすごく心配をするんですね。リーマンショックとかあったし。このお金は、親が「困ったときに使いなさい」と言って封筒に入れてくれたお金です。

一回断ったんですよ。「いらない」と言って。でも僕も大人になったので、「ありがとう」と受けとるのが安心するのかな、と思って貰って、とりあえず写真撮っておこっかなって(笑) 撮って、ずっと放っておいた写真ですね。今回、「ああ、いい機会だ」と思って。

岩松 せっかくだから、本物だってわかるように、下のも2、3枚見せたかったね(笑)
『勝負の終わり』の写真は、すごいなと思いましたよ。

高橋 『勝負の終わり』は悩みましたね。文字だけ読む限りでは、絵のあるような内容ではないなと思っていて。多分これは何かが終っちゃった世界に違いないけど、それってどういうことだろう、と考えて、その分、夕日とかがもの凄く綺麗なんじゃないかと……。

岩松 なるほど。これはベケットの世界にかなり近いと思いますよ。

高橋 かなり不条理な物語ですよね。きっとノーマルじゃないことが起こっているに違いない、なんだろな、とずっと思っていて。何でも起こりうる、ということは、流れが反転して繋がっていくこともある、というところから1枚の写真を反転させてつなげているんですけど、やってみたら顔に見えてきた。怪獣にも見えるし。

岩松 見えるね。それに、コウモリ系のやつが飛んでいる風にも見えるね。

高橋 今回の8本で僕が一番好きだったのも『勝負の終わり』でした。こういうところに取り残されて、窓からしか外が見えない世界。

岩松 『勝負の終わり』は、車椅子に乗った男が、両親をドラム缶に詰めているという、とんでもないシチュエーションですよね。

高橋 かなり奇抜ですね。でも、僕らの世代って、ジュラシックパークだったり、ディズニーのアニメだったり、ジブリだったり、色んな物語や映像を浴びるように見てるので、そのくらいの方がいいのかもしれません。例えば、今僕が『マクベス』を読んで、「これって本当に悲劇なのかな?」と思ったりするんですけど、『勝負の終わり』くらい本当に見たことも聞いたこともないような世界だと、刺激がありますね。

岩松 『勝負の終わり』は、撮りたい作品の希望を聞いた時、誰も手を挙げなかったんじゃないかな? 高橋さんは希望してなかったでしょ?

高橋 確かに、「希望者がいなくて僕になりました」というメールをもらいました。

岩松 ベケットは人気がなかったんですよ。誰も○をつけてない。演劇をやってる人でも、ほとんど読まない本ですけどね。「ベケットってどういう人だろう?」と思って、やっと読むくらいだから。読んでも「よくわかんない」という反応がほとんどだし。
高橋さんは、『勝負の終わり』と『マクベス』と、あと『屋上庭園』で、戯曲が3本あったんですね。写真をやってる人って、そんなに活字を読んでなさそうですけど、どうですか?

高橋 僕は写真より小説の方が好きかもしれないですね。小説って、フィクションじゃないですか。フィクションの方が、共通することを掘り当てる感じがします。現実だと、その現実が何かの答えみたいなものになっちゃうけど、小説だと、受けとった側に答えが出来るというか。

岩松 そうだね。芝居もそうだし、演劇もそうだし、小説もそうだし、もしかしたら写真もそうかもしれないんだけど、自分の中で嘘を作るわけだからね。
だから例えばドキュメンタリー風の芝居を作ろうとしたとき、史実をずっと連ねていくだけでは、どうしても自分と関係ないものになってしまうから、そこに一個だけ嘘を入れようとする。それは自分の中から出てきたものだから、嘘なんだけど、自分にとっては本当なんだ、という風に、嘘と本当は結構逆転するんですよね。

だから、「作品は嘘だ」とは言いながら、「自分の中の何かが生んだもの」と考えると、逆に「作品が本当で、史実は嘘だ」という逆転したものになる。

だいたい、劇場の中でやる限り、外のシーンはまるで嘘ですからね。「家の外」に立ったところで、舞台の上に立っている限りは外じゃないわけだし。映画の場合は外に出て立つシーンは実際にそうすれば成立するんだけど、舞台の場合は、すごい極端なことを言うと、「家の中ではなく外に立つとはどういうことか」と考えないと成立しないところがあるんですよね。「お前ただ立ってるだけじゃねえか!」みたいな芝居もある(笑)

映画はそれでいいんですよ。「ただ立ってて。変なことすると、変になるから」みたいな。ところが演劇の場合は逆に、例えば「外に立ったときの感情になる」のが映画だとすると、「外に立ったときの感情」は舞台にはないから、外に立った時に人間の身体が受けるものを自分の中で再構成しなきゃいない。そんなことすごい緻密にやるわけじゃないんだけど、理屈で言うとそういうことになってる気がするんですね。

そういう風に、すごく本質的なところまで遡っていくのが演劇だから、実際問題、映画の役者は現場に来てその日に撮影出来るけど、舞台の役者はひと月くらい稽古をしないと成立しないものだし、稽古してないものを観ると客として腹が立つね。「どけ、お前!」って(笑)

高橋 例えば小説を映画化する場合、文字で読んでいる限りは現実感を感じる表現でも、映像化したら、ものすごく陳腐でおかしいものになることがありますよね。文字としてはすごく美しくて、雰囲気があって、物語としては入ってくるけど、いざ映像化しちゃうと、「お寒い」というか。それは小説としての表現コードみたいなものがあるからだと思っているのですが、舞台にも近いものがありますか?

岩松 『勝負の終わり』が面白いと言っていましたけど、やっぱり、わからないものに向かっていくという、基本的なアプローチがないと面白くないですよね。わかったものを説明していく作業をやられた日には、さっきの役者じゃないけど、「ちょっと退いててくれる?」ってことになると思うんですよ。完結して答えが出ちゃってるものに対しては、まったく興味を持たないし、緊張感もない。「どういうことなんだろう? わからない?」というものがないと。

でも、ただわからないのが面白いかというと、そういうわけでもないから、そこに謎と、その先を見てみたいとそそのかされる何かがあると思うんですよね。例えば、「ベケットの本を解読せよ」と言われても本当に難しいけど、ある印象とか、例えば今回のような写真の1枚を考えた時には、逆に広がりがある。

高橋 今日はひとつ、岩松さんに聞きたいことがあって来たんです。僕はシェイクスピアは今回の『マクベス』しか読んでないんですけど、岩松さんはシェイクスピアの舞台をやってみたいと思ったことはありますか?

岩松 あんまりないんですよ。『シェイクスピア・ソナタ』という本は書きましたけどね。あれは松本幸四郎さんから話をいただいたもので、松本さんはシェイクスピアの四大悲劇を実際自分で演じていて、「ついては岩松さん、シェイクスピアの四大悲劇をやった役者の話を書いてくれませんか」と言われて。最初、「僕、シェイクスピア、よく知らないんで」と言ったんですけど、「この際勉強するか」と思って書いたんです。

シェイクスピアや演劇についてもう少し話すと、16世紀から17世紀に活動したシェイクスピアに対して、19世紀末から20世紀にかけて作品を発表したチェーホフという人がいて、この人も、個人的な見解ですけど、偉い人なんですよ。

シェイクスピアの劇は、権力闘争があって、事件が次から次に起こって、というような万人にわかる話じゃないですか。ところが、チェーホフは事件がほとんど起こらない話を書いたんですね。自分が書く戯曲は限りなくチェーホフに近いと思っているんだけど、そうすると人からは「シェイクスピアはどうなの?」とよく言われます。

例えばシェイクスピアが「何かしないと始まらない」という演劇で、「世間の荒波に対して、人はどうやって動いていったか」を描いて大衆性を得ていったのだとすれば、チェーホフは「何もすることがない」という時間を演劇に変えた人だと思うんですよね。

簡単に言うと、今の時間に四畳半でぼーっとしてる学生もいれば、人殺しをした人も、同時にいる。そこでシェイクスピアはおおむね人殺しの方選んだんだけど、チェーホフは「明日良いことないかな」って言ってる人間の方を書いたんですよ。まあこれは、全部僕の解釈ですけど(笑)

つまり、「人というのは生きている限りにおいて、人を殺そうが、『つまんないな』と言おうが、一緒なんだ」とチェーホフはまず考えた。ところが「演劇は見世物だから、わかりやすく定義した方が良い」という演劇の流れが、チェーホフが出てくるまではあって。それに対して、「ちょっと待ってください」と。舞台の上だけが演劇じゃなくて、観てる観客も芝居じゃないんですか、という考え方をしたのがチェーホフのような気がするんですよね。

チェーホフの後は、今度はベケットという人が出てきて、「いやいや、どこを見たって一緒、死ぬも生きるも一緒」という演劇をやった。これはベケットの個人的な資質もあるかもしれないんだけど。シェイクスピアの劇は、言葉にすれば「人は死んでも生き返る」みたいな発想があるわけですよ。ところがチェーホフで、「人が一人死ぬことは大変なことだ」になって、ベケットになると「いや、死んでも生きても一緒」になった(笑) 自分は、そういう演劇の流れがあると思うんですよね。その中で自分に一番近いと思うのがチェーホフなんです。

例えば「演じる」ということに関していえば、「あの人は凄い演技が上手い」と言われる役者がいるじゃないですか。チェーホフの芝居は、「もしかしたら、芝居が出来ない人がやってもいいんじゃないか」と思わせることもあるんだけど、そこにはちょっとからくりがあって、「何もしないということは、逆に芝居が上手くないと出来ない」という理屈もあるわけですよ。シェイクスピアの劇なら素人がワーッとやっても通じるけど、例えば、黙って食事をしていて、何も起こらないで、「……ちょっと、そこの醤油とって」と言うセリフの面白さを出すには、役者が上手くないと駄目でしょ、やっぱり。色んな含みを持たせる力がないと。

高橋 普通に見えて、でも離れててもわかるような普通、ということですか。

岩松 「余計なことをするとマイナスなんだ」という理屈がこの人の中にないとね。シェイクスピアなら、余計なことをしても大丈夫なんだけど。だけど、シェイクスピアを無下に切り捨てることも出来なくて、セリフがあまりもカッコいいんですよね。「顔に血がついてるぞ」もそうだけど、『十二夜』の「そこにいるのは俺か?」というセリフもカッコいい。
『十二夜』は男と女の兄妹がいて、船が難波して、別れ別れになるんですよ。その後女の方は、ある王様みたいなのに、男の格好をして仕えてるんです。そして生き別れになった兄と、ある時ばったり遭遇するんですね。その時、兄のほうが、男装している妹に、「そこにいるのは俺か?」と言うわけよ。普通言わないじゃない(笑) チェーホフだったら、「……え?」ぐらいしか言わない。だけどそれをちゃんと言葉に代えて、ちゃんと意味を込めて、「そこにいるのは俺か?」というわかりやすさと、「わかりやすさ」と無下に切り捨てられないカッコよさね。『オセロー』の「剣を納めろ、夜露で錆びる」も、なかなか言えない。そういうカッコよさと、普遍的に人間が陥るストーリーラインがちゃんとあること。単純なんだけど非常に真実を得てるでしょ?

『マクベス』の「顔に血がついてるぞ」は、シェイクスピアのセリフの中ではスケールの小さな話なんですよ。それも、小声のセリフですよ。宴会場で、人殺しを頼んだ奴がもてなしをしていて、そこに仕事を終えて来た刺客に「おい、顔に血が付いてるぞ」と言うセリフだから、言ってみれば小振りなセリフですよね。そこに面白さを感じたんです。

一方で、チェーホフの芝居なんて、「この2人なんなの?」みたいな感じで始まるから、逆に難しいんじゃないかな。

高橋 チェーホフはどういう人だったんですか?

岩松 1904年に、ロシア革命の直前に亡くなった。最後、肺の療養に行ったドイツのホテルで死んだんですけど、死ぬ間際に「私は死ぬ」、ドイツ語で”Ich sterbe”と言ったそうです。本当かどうか知らないけど(笑)

その「私は死ぬ」も有名なんだけど、その前に、見舞いに来た奥さんに、「そういえばシャンパンをずいぶん飲んでいないな」と言ったらしいんですよ。作家のレイモンド・カーヴァーという人は、そのエピソードから、ホテルのボーイが夜中にシャンパンを買いに走らされる、『使い走り』という小説を書いてるんですよ。それを僕は、柴田元幸さんに教えてもらった。

そのエピソードは『夏ホテル』という、チェーホフが死んだホテルを舞台にした芝居を書いたときに使わせてもらいました。「夏ホテル」は南ドイツのバーデンワイラーという町にある、「ホテル・ゾンマー」というホテルで、そのホテルではチェーホフのシャンパンを買いに走ったボーイの子孫が訪ねてくる度に行なわれるお出迎えの式典があって、たまたまその日に居合わせた、日本から来たマジシャン一行がいて……、という話なんですけどね。重鎮が来るからと、マジシャン一行は泊まっていた部屋を空けなきゃいけなくなっちゃったり。

高橋 そういうのって、繋がっていくものだなって思いますね。チェーホフから刺激を受けたレイモンド・カーヴァーが小説を書いて、そこから岩松さんが戯曲を書いて、という風に。それって、すごく正しいことのような気がするんですよね。著作権がどうこうというのとは別に。

舞台って、再演はあまりしないんですか? 僕は今『夏ホテル』を観てみたいなと思っても戯曲を読むことしか出来ないんですけど、舞台と戯曲の違いは、どういうところがあるのでしょうか?

岩松 それは例えば、嫌いな役者が出てたら本の方がいいだろうしね(笑) 「役者が余計な芝居をするから、余計わかんないじゃないか。本を読んだ方がよっぽどわかるよ」ということが結構あるんですよ。本を読むと面白いんだけど、舞台がつまらないってことがね(笑)

逆ももちろんあって、本を読んでもわからなかったけど、舞台を観たらすごく面白かった、ということもある。でも、書く人間は上演を前提に書くので、書いたら上演、という段階を踏むんですけど、高橋さんみたいに外部者として接する時には、どっちがいいかは一概には言えない感じがしますね。

例えば『欲望という名の電車』の舞台は、僕は観てないんですよ。そうすると、自分なりの想像をしているわけです。だから実際に観たら、「俺の想像の方が面白いぞ」ということは、多分にあり得る。

高橋 例えば小説の映画化の話とか、よく出るじゃないですか。原作の方が良かったよね、みたいな。でも小説を先に見ちゃった時点で、初めて見る楽しみは味わえないので、両方をちゃんと並べては見れないですよね。

岩松 さっきの「嘘」の話じゃないけど、原作に対して自分なりにコンセプトを作ってやると「原作を壊している」と言われたりね。だから難しいですよね。そういう意味で本当に成功しているのは、例えば『浮雲』で、原作どおりに作っているのに、映画も面白い。

高橋 舞台をやったときに、「原作の方が良かった」というようなことを言われたこともあるんですか?

岩松 前にチェーホフの『かもめ』を、自分で翻訳してやったんですよ。その舞台のアンケートをチラッと見せてもらったら、その舞台は衣装も現代風にしてたんだけど、「19世紀ロシアの雰囲気を味わおうと思って来たのに……」と書かれたりした。そういう人にとっては「今、変に19世紀っぽくやっても仕方がないじゃない」という考えは、ほとんど敵対するじゃないですか。

高橋 そういうときは、どう思うんですか? 「てめー、このやろー」とか?

岩松 いやいや。そのときは「そういう人もいるんだ」と思うしかないですね。チェーホフの芝居は、「読んでもわからない」と言われることも多いけど、すごいクオリティが高いと思う。シェイクスピアは全部表で事柄がわかるように進むんだけど、チェーホフは水面下に隠れている問題が多いから。

チェーホフの芝居には、「人が話す言葉は、必ずしも本当のことではない」という前提があるんですよ。シェイクスピアは、「俺は嘘をついている」と言うから、「あ、この人、嘘ついてるんだ」と、ちゃんと記号としてわかる(笑)

だけどチェーホフの芝居は、「人は本当のことを喋らないよね」という前提があるような気がするんですよ。人は事情によって言葉を吐くんだ、というような。

例えば、結婚を申し込もうとする男が、「うちは生活が貧乏で、米代もかかるしどうのこうの……」と言うとするじゃないですか。でもそれは、「女の気を引くために自分の生活の窮状を訴えているだけかもしれない」という読み方も出来るわけで。だから、「弱気な男は自分の惨めさを見せて女の気を引こうとするんだ」という読み方をしないと面白くならない場合がある気がするんですね。

『かもめ』の出だしはまさにそういう場面で、「あなたはどうして黒い服なんですか?」「我が人生の喪服なの。私、不幸せな女だから」「いや〜、わかりませんね。だってあなた、生活に困らないし……」というような話から始まるんですよ。「我が人生の喪服なの」というのも、ある意味洒落たセリフなんだけど、男を見くびらないとなかなか言わないセリフじゃない? 「本当に好きな男には言わないだろ」という印象になっている。

だから、人間関係を想像しながら読まないと面白味が伝わっていかないような気がするんです。人間の取り巻かれている状況を想像する、というか。

もしかしたらチェーホフは、まったくまっさらで読むより、「こういう話だよ」とわかって読む方が面白いかもしれないですね。シェイクスピアは、そんなこと知らなくてもわかっていくけど。

●対談を終えて

文:高橋宗正

この仕事は、まず自分が興味を持ったことのない本を短期間に
グワっと読んだってことが楽しかったです。
シェイクスピアっていうのはこんなくだらない男の話を書いていたのか!
と身近に感じることができました。
その上で1冊に1枚、自分のイメージをつけるっていうのは
なんだか学生のころの課題を思い出して懐かしかったかったです。
テーマに対して一番しっくりくる写真を考えていくという、
やっていること自体は同じなのに、それが本になってお金も
もらえるんだから自分もなかなか成長したもんだと思いました。

岩松さんとはとてもダンディで会話もとても面白かったです。
あれ以来テレビで岩松さんをみる度、ぼくは画面に釘付けであります。


溜息に似た言葉─セリフで読み解く名作

溜息に似た言葉
著者●岩松了
写真●中村紋子、高橋宗正、インベカヲリ★、土屋文護、石井麻木
定価●2,200円+税
ISBN978-4-7808-0133-0 C0095
四六変型判 / 192ページ / 上製

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