投稿書評

掛谷英紀◎「後ろめたさ」の倫理

 この本を読んで、真っ先に思い浮かべたのは、3月18日の朝鮮日報で紹介されていたレイモン・アロンの次の言葉である。「正直で頭の良い人は左派にはなれない。」

 著者の誠実な人柄は、文章の端々から滲み出る思いやりや労わりの情から十分過ぎるほど伝わる。また、著者の頭の良さは、これ程難しい問題を易しい言葉で表現できることからも疑いようがない。難しいことを難しく語れる人は、大学には私も含め余るほどいるが、それは頭のよさが足りないことの証でもある。正直で頭の良い著者は、フェミニズムという左派思想といずれ決別する運命にあったというのは言い過ぎだろうか。

 「左派」を本書に即して定義すれば、「われわれマイノリティは常に正しい」というイデオローグである。しかし、他者を尊重する心を持つ者が「われわれ」の外とのコミュニケーションを続けていけば、そのイデオロギーが間違いであることに気づくのは時間の問題である。

 本書の指摘は、既に多くの論者によって指摘されてきたことの焼き直しに過ぎないとの批判はあるだろう。それでも、私がこの書に大きな価値を見出すのは、「頭の良くない」左派の人たちが、本書を読むことで「頭を良くする」ことが可能と思われるからである。実際、極端な左派と位置づけられるような人々からも、この書には好意的な書評が寄せられている。同じ問題を指摘してきた従前の書には、そのような力は全くなかった。

 では、この書で与えられた指針によって、マジョリティとマイノリティの和解は常に可能といえるだろうか。残念ながら、その答えは「ノー」だろう。なぜなら、世の中には「正直でなく頭の良い」左派も存在するからである。彼らは、「われわれマイノリティは常に正しい」というテーゼが間違いであることは十分理解している。しかし、そのテーゼを看板に、自分に都合の良い結果を引き出せる限り、彼らは嘘を言い続ける。そのようなソシオパス(良心をもたない人)たちとの和解はまず不可能だろう。

 それでも、絶望する必要はない。われわれは民主主義の世の中に生きている。不正直な人がごく少数であれば、正直者集団による和解の結果を、世の中のスタンダードとしていくことは可能である。マーサ・スタウトによれば、ソシオパスは25人に1人とのことである。であれば、正直者に十分勝算はある。

 もう一つ、この書が高く評価されるべき点は、著者が吐露し続ける一種の「後ろめたさ」の感情である。養老孟司氏は、著書『超バカの壁』で「後ろめたさとずっと暮らしていく、つき合っていくというのが大人」であると述べている。とすれば、著者は最も大人らしい大人の一人であろう。こういう大人が今の日本の論壇には少ない。

 最近、リベラリストが、選択の自由と基本的人権の尊重を二枚看板に掲げつつ、自由に溢れた理想郷を語るのをよく見かける。彼らは、「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい」と言う。しかし、その議論は「普遍性テスト」を経ていない。少数の人がその選択をした場合は迷惑をかけなくても、多数の人がその選択をすると社会が立ち行かなくなるものもある。実は、同性愛もフェミニズムも、ともにそういう側面を持つ。これは、それらのコミュニティに繁殖能力がない(あるいは低い)ことによる。多数の人が次世代の人間を産み育てる行為から降りてしまうと、高齢者福祉をはじめとする基本的人権の維持は不可能となり、リベラリズムは破綻する。

 もちろん、だからといって、選択の自由に制限をかけるのは不当である。ただ、その一方で、それらの選択をあくまでも一部の例外としておかなければ、社会全体にダメージを与える点も忘れてはならない。現在の世論が性的マイノリティには親和的で、フェミニズムに敵対的であるのは、性的マイノリティは自らの存在が例外であることを承認する一方、フェミニズムはそれを良しとせず、自らのイデオロギーを社会全体に押し付けているからだろう。現在のフェミニズムは、男女共同参画という形で政府に入り込み、市民の私的な選択にまで干渉し始めている。多様な生き方が共存する社会を目指していたはずのフェミニズムが、いつの間にか、特定の行き方を強要する全体主義の担い手へと変貌してしまったのである。これは、フェミニストたちに後ろめたさの情が欠如していることに起因していると言えよう。

 こういうと、私は性的マイノリティやフェミニストだけに後ろめたさを強要しているように聞こえるかもしれない。もちろん、そんなつもりはない。私自身も、自らの著書において、「学歴エリート」としての後ろめたさを背負って生きることを宣言している。
 学歴エリートの行動様式を全ての人に押し付けることで社会が不全に陥ることは、過去の啓蒙主義が失敗を繰り返してきたことからも明らかである。その意味で、学歴エリートも後ろめたさを持たねばならない集団である。しかしながら、被差別集団となる機会が少ないせいか、学歴エリートは後ろめたさを感じる能力に最も乏しいマイノリティとなっている。これが学歴エリートの暴走を生む。フェミニストに学歴エリートが多く、また学歴エリート集団の外でフェミニズムが共感を勝ち得ない理由もここにあると考えられる。

 次にわれわれが目指すべきことは、伏見憲明氏が「立派な人」ではなく「普通の大人」と称される社会を作ることではないだろうか。そのためには、後ろめたさの文化を社会全体に浸透させる必要がある。それに成功したとき、当たり前のことを「命がけ」で書かなければならないような時代は終焉を迎えるであろう。

【プロフィール】
かけやひでき●1970年生。筑波大学講師。メディア工学の研究の傍ら技術者倫理教育にも従事。著書に、日本の「リベラル」(新風舎)、学問とは何か(大学教育出版)、学者のウソ(ソフトバンク新書)がある。

神名龍子◎理よりも利

『欲望問題』は、私がこの10年間に渡って考え続け、発信し続けてきたことが、私よりもずっとわかりやすく、そして私よりもずっと穏当に(笑)表現されている。

「差別問題」の「欲望問題」への置き換えと同じことを、私は「理よりも利」と表現してきた。ここでいう「理」とは、たとえば第2章で言及されているフェミニズムのようなイデオロギーと考えていい。「利」とは欲望追及やその実現に他ならない。社会運動の動機とは、人が世の矛盾や非合理にぶつかったとき、その解決を目指すことであるはずだ。

しかし従来の反差別運動には致命的な問題点がある。それは、何らかの絶対的な「正義」を掲げてしまうということ。これは必然的に「自分が正義をにぎっているのだから、自分と意見を異にするものは悪である」という考え方になる。

フランス革命直後の恐怖政治やスターリニズムも、基本構造はこれと同じことだ。ヘーゲルは『精神現象学』の中で、このようなあり方を「民意を問う手続きの欠如」と喝破した。

本書に寄せられた書評でいえば、加藤秀一氏の「そもそも利害対立の調停など不可能である」という意見は、まさにその典型かと思う。このような考えは加藤氏のいう通り、必然的に「正義」と呼ばれる「超越的」基準を要請することになるが、ではその「超越的」基準を誰が定めるのかという問題が生じてしまう。

「差別問題」では、その「誰か」とは「弱者」であり、つまりは「弱者」の特権化という話になってしまう。しかしそれならば、反差別の主張において「平等」を唱えることは、なんと欺瞞にみちた行為であろうか。

しかもこのような問いの立て方では、結局のところ、誰が「正義」をにぎるにふさわしい特権者(=弱者)になるのかという問題が生じる。これもまた「調停不可能な利害対立」と考えるならば、最終的には弱肉強食だけをルールとする、パワーゲームを演じるよりほかない。恐怖政治やスターリニズムに粛正がつきものなのはこのためだ。

しかし私の考えでは、利害対立が調停不可能なものに見えてしまうのは、「超越的」基準としての「正義」を要請することに原因がある。

たとえば中世ヨーロッパではキリスト教道徳は「超越的」基準としての「正義」だったが、このキリスト教道徳という「正義」が支配していたからこそ、ゲイは社会と和解することが不可能だったのではないか。キリスト教道徳のみならず、カントの形而上学的道徳論や、その現代版の焼き直しともいえるロールズでも同じことだが、いずれも「民意を問う手続きの欠如」という欠陥を持つ以上、「正義」とは抑圧を正当化するための大義名分に、容易に転化する。

私の場合には最初からフェミニズムにはコミットできなかったので、伏見氏のような「転向」の経験もない。その理由をとりあえず3つ挙げておく。

まず差別の問題を考える以前から「理よりも利」という考え方を持っていたということ。これは私は司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』から学んだ。具体的には薩長連合の話である。

第一次長州征伐の際には、薩摩藩は幕府側についており、西郷隆盛などは幕軍の参謀だったから、長州は当然薩摩を憎悪する(それ以前に薩摩が会津と手を結んで長州を京から追い落としたという経緯もある)。薩摩は薩摩で「長州は毛利幕府を作るつもりではないか」という疑念があり、両者は政治的には調停不可能な対立関係にあった。この当時、誰もが「理」(政治的イデオロギー)の側面の状況から、薩長の同盟は不可能だと判断していた。

ところが第2次長州征伐を目前にして、坂本竜馬が薩摩名義で長州に武器を買ってやり、長州からは薩摩に米を送らせる。「理」を棚上げして、鉄砲や軍艦、米などが行ったり来たりしているうちに両者の感情が和らぎ、互いに手を結ぶことの「利」を悟るようになる。

一握りの頑固なイデオロギストを除けば、人々が「理」にしたがって行動するのは、それが自分の「利」につながっていると確信できる限りの話なのだ。

私がフェミニズムにコミットできなかった、2つ目の理由は、ゲイと違ってトランスジェンダーや性同一性障害が、性を変える存在だからだ。この場合、多くのフェミニストに見られる「男女対抗図式」は非常に困る。この図式にしたがって考えると、トランスジェンダーは敵対するカテゴリーの一方からもう一方への「寝返り者」という話になってしまうからだ。

それでも私のようなMTFならばまだ救いがある。「男=悪(ショッカー)」を裏切り、「女=善」の側について積極的に「フェミニズム=正義」にコミットすれば、ちょっとした仮面ライダーの気分を味わえるかも知れない(笑)。しかし、これではFTMはまったく立場がなかろう。そもそも「男女対抗図式」が性別についての真理だとは、今も昔もまったく実感できないのだ。

3つ目には、フェミニストが唱える「性差否定」にまったく賛成できないということだ。これにはさらに2つの理由があって、まず「差別」についての考え方である。確かに差別は差異を利用して行なわれるが、差異が差別の本質であるわけではない。もちろん、性差が性差別の本質であるわけでもない。したがって性差別をなくすために性差を否定しなければならないという主張には、まったく妥当性を感じない。

もうひとつは、そもそもトランスジェンダーや性同一性障害が、性差を前提とした「欲望」の問題であるということだ。たとえば性同一性障害の当事者が「私は男ではなく女だ」というとき、この発言は「男と女は違うものだ」ということを自明の前提としている。

したがって性別(それがセックスであれジェンダーであれ)の否定ないし相対化が、トランスジェンダーや性同一性障害の当事者にとって何の救いももたらさないことは明らかだ。そもそも根本的に前提が異なるからだ。性差の否定が、実は性差別の解消にとって必須ではないということに気がつけば、フェミニズムという「正義」にはまったく用がない。

では具体的に、「利」の側面からどのように性同一性障害の当事者とマジョリティーとの利害調停が可能なのか。当たり前の話だが、両者に共通する利害を見つければよいのである。

これまで、セクシャルマイノリティーは自身を説明するに当たって、自分(たち)がマジョリティーとどう異なるのかという点に力点を置いてきたように思う。私は逆に、一見して異なる両者の間に、性というものをどの程度に掘り下げて考えれば共通点が見つかるのかということを考えてきた。共通点である以上、マジョリティーもそれを手がかりにいて、セクシャルマイノリティーに共感することが可能なはずである。

ここで私の考察はいちいち書かないが、代わりに本書で伏見氏が挙げている例から一つ取り上げてみれば、「フケ専だって、デブ専だって、ロリコンだって、萌え系だって、巨乳好きだって…」(P11)というのがそれに当たる。好みや性癖というものは、「こういう好みになろう」と思ってなるわけではない。それはセクシャルマイノリティも、いわゆるマジョリティとされている人達でも、同じことなのだ。「一見して特殊に見えるセクシャリティにもみなさんと同じ基本構造がありますよ」という指摘はきわめて重要なものだ。

これは前述の、「トランスジェンダーや性同一性障害が性差を前提としている」ということにもいえる。実は現在、保守派からのセクシャルマイノリティの差別はほとんどない(皆無とはいわないが)。しかし、それとは別に不幸な誤解が存在する。それは「セクシャルマイノリティはジェンダーフリーの賛同者だ」という誤解なのだ。保守派がセクシャルマイノリティを批判する場合、背景にはこの誤解がある。

なぜこんな誤解が生じたのかといえば、ジェンダーフリー教育で性の相対化をする際にセクシャルマイノリティを例に挙げることが多いということと、実際にジェンダーフリーにコミットするセクシャルマイノリティが存在するからだ。しかし、

・ゲイやトランスジェンダー等の多くのセクシャルマイノリティのカテゴリーが「性別二元制」を前提としていること

・ジェンダーフリーにコミットしているのがセクシャルマイノリティの中でもさらにラウドマイノリティーであること

などを冷静に説明すれば、この誤解はかなり解ける。現に私はこの説明で、保守系の有名オピニオン誌の編集者をはじめ、何人もの人々の説得に成功している。この場合は「性差否定」に反対することが互いの共通の利益になっているといってもよい。

他にこんな例もある。性同一性障害の当事者の、戸籍上の性別変更がまだ認められていなかったころ、その実現を目標としていた時の話だ。戸籍上の性別変更の実現は、「当事者にとっての利益の追及」という視点からのみ主張されることが多かった。これを、マジョリティとの共通利益の問題として立て直したのである。

戸籍上の性別変更が認められないと、身体は女性だが戸籍上は(したがって法的には)男性という人が増えつづける。そういう人が強姦の被害に遭っても、法的には強姦罪が成立しない(強制猥褻は成立するが)。では女性が強姦被害に遭ったとして、犯人が「女性ではなく性転換した男性だと思って襲ったのだ」と言い張ったらどうなるか。この供述では犯人には「強姦」の犯意はなかったことになるが、強姦罪には過失の処罰規定がない。したがってこの場合、強姦罪は成立せず、強制猥褻で立件するしかない。しかしこうしたことが度重なれば、やがて強姦罪は有名無実化してしまう。これは社会秩序の維持という点から、重大な問題ではなかろうか。

相手にもよるが、保守派であるほど社会秩序を重視するから、これは通用しやすい。「身体は女性だが戸籍上は男性」(あるいはその逆)という人間が増えると社会秩序や性の秩序が混乱するだろうから、身体と戸籍を合致させた方がよいのではありませんか、というのである。このようなプレゼンテーションによって、戸籍上の性別変更の実現は、単なる「当事者にとっての利益の追及」ではなく、「マジョリティとの共通利益の問題」になる。

これはおそらく「マイノリティとマジョリティの対立図式」を自明の前提としている人達には考えつかないだろう。

だが、マジョリティに向かって「私たちの考え方と、あなたたちの考え方は対立するものだ。我々の考えの方が正しく、あなたたちが間違っている」というのと、「これが私たちの希望でもあり、あなたたちの利益でもある」というのと、どちらが話が通りやすいか。

だから私は「理よりも利」というのである。社会運動それ自体が目的化しているような人たちは別にして、少なくとも問題の解決を目指すための活動なら、最終的に「利」が得られなければ何の意味もないからだ。

●フェミニズム批判について

保守派からのフェミニズム批判(ジェンダーフリー批判)が、「性差否定」や「過激な性教育」についての批判だというのは、本書で指摘されている通りではある。しかし、フェミニズム各派が華やかに(?)百家争鳴を演じていた80年代には、このような状況は存在しなかった。それはなぜか。

フェミニズムが何を考えようと、それが仲間内での妄想であったり、象牙の塔の中で現実から乖離した思想が叫んでいるぶんには、それはたいした問題ではない。後者は、大学の存在意義や「そもそも学問とは何か?」という観点からは問題なのだが、さしあたって人々の生活を直接に脅かすものではない。そうである限りは、これほど批判の声があがるわけがないのである。

問題は、男女共同参画社会基本法の成立以降、フェミニストが行政や教育などの分野に入り込んで、「性差否定」や「過激な性教育」を人々に押し付け始めたということにある。

もちろんフェミニズムの「中身」に賛同できないからこそ、保守派は批判の声をあげるのだ。それは間違いないのだが、本質的には、その賛同できない思想を「公権力によって人々に押し付ける行為」こそが、保守派によるフェミニズム批判の対象であるといってよい。

また、ジェンダーフリーが「性差否定」か否かということは本書でも取り上げられているが、私の記憶では、フェミニストが「性差否定を目指しているのではない」といい始めたのは、およそ2000年前後から以降のことではなかったかと記憶している。「性差が性差別の原因なのだから性差をなくさなくてはならない」という主張は、それ以前には当たり前に存在していなかっただろうか?

2000年前後というのは「フェミニズムは性差を否定する」という批判の声があがり始めた時期と一致している。そこでフェミニストが「性差否定を目指しているのではない」といいだしたのは、「性差否定」が世の男女の大半から支持されないということを自覚しているからだろう。

ところが「性差否定を目指しているのではない」というのは、あくまでも表向きの発表に過ぎない。伏見氏が本書で、

>よく誤解されるのは、ジェンダーフリーだから男女の便所は同じでいいのとか、風呂もいっしょでいいのかと攻撃する人がいるのですが、それはフリーではなく、ジェンダーレスというんですね。(P109)

と引用しているように、現在では「ジェンダーフリーとジェンダーレスは違う」という表現が好んで用いられる。

もっとも、この引用の直前には瀬地山角氏の名が挙がっているのだが、彼は伏見氏が引用したのとは別のところで、「トイレ一つとってもすごい装置、トイレを通じて私たちが男であるか女であるか確認させられる、問いつめられる装置なんだ、ということに思い至ってほしい。」という発言もしている(『人権尊重都市品川宣言10周年記念 男女平等推進フォーラム ハートフルしながわ2003《みんなちがってみんないい》』、2003年12月12日)。さて、トイレを暴力装置だというのはジェンダーフリーなのか。それとも瀬地山角氏はジェンダーレス論者だということでよいのだろうか?

それはさておき、実は「ジェンダーにとらわれない」ということは「ジェンダーレス」と同義なのである。

たとえば、男性でも女性でもよいが、誰かある人が自動車を買おうと思いついたとする。そのとき「オレは男だからトヨタを買う」とか「アタシは女だから日産を買うわ」という人は、まずいない。つまり、どの自動車メーカーを選ぶかということは、性別(それがセックスであれジェンダーであれ)とは無関係に選ぶ。こういう場合、メーカーの選択を「ジェンダー」とは呼ばないだろう。

これと同じように、「ジェンダーにとらわれない」とか「ジェンダーからの自由」ということを突き詰めれば、必然的にジェンダーはなくなる(ジェンダーレスになる)のである。なぜなら、ジェンダーはモノではなくコトだからだ。「ジェンダー」が人々から忘れられた状態でさびしくゴロンと転がっているということには、絶対にならない(笑)。

両者が同義である以上、「ジェンダーフリーとジェンダーレスの線引き」は無意味であろう。むしろ必要なことは、「ジェンダーフリー=ジェンダーレスが必要な領域」と、そうではない領域との線引きとを考えることだと思う。しかしそれには、まず「差別」について考える必要がある。

●「差別」について

「差別」とはさしあたり、「あるカテゴリーに不合理に劣位の価値付けをすることで、自分をそのカテゴリーに属する人よりも高位に置き、それによってアイデンティティ補償をすること」だといえる。つまり、確かに「差別」は差異を利用して行なわれるが、差異が「差別」の本質であるわけではない。

「差別」を考える上で重要なことは、「カテゴリーに対する合理・不合理の基準」と、「差別の動機」なのである。

ここで重要なのが、近代社会の基本原理である「法の下の対等」と「機会の平等」だ。たとえば同じ交通違反をしたのに、男性は反則切符を切られ、女性は見逃してもらったということがあれば、これは誰でも不公平だと思うだろう。また国立大学を受験するのに、男性はセンター試験で700点以上、女性は800点以上をとらなければならないという決まりができたら、フェミニストでなくても「それはおかしい」と思うのではないだろうか。

さらにいえば、このような社会原則が存在しなければ、「差別」という概念が存在しない。江戸時代に商人の家の子に生まれても、「士農工商」を当然の社会秩序だと思っていたら、そこに「差別」という判断は生じようがない。

つまり「カテゴリーに対する合理・不合理の基準」ということでいえば、これは「法の下の対等」と「機会の平等」がどれだけ現実的に解決可能かという問題になる。

昔の婦人参政権運動などはその典型だろう。タテマエでは近代社会であるはずなのに、その実現が充分とはいい難いから(女性に参政権がないから)、それをなんとかしろというのは、必然的に生じた運動だったと思う。

ところが社会の原理を、まったく別の原理に立脚する「家庭」という領域に持ち込むと、おかしなことになる。家事を男女が半分ずつ行なわなければならないという「原理」は、今の日本の社会では共有されていない。それは個々の夫婦が、それぞれ話し合って決めればよいことであり、妻が家事を担当しようが、逆に夫が家事を担当しようが、それぞれの夫婦の自由であるはずだ。あるいは、どちらも家事を担当するが、妻は毎日料理を作り、ゴミ出しは夫が担当するというのでもよい。何から何まで男女が同じでなければならないという「正義」には、正当な理由がない。つまりそれは、この社会の「正義」ではない。

もう一つの「差別の動機」だが、これは前述の通り「アイデンティティ補償」である。つまり差別をする者は、何らかのアイデンティティ不安を抱えている。そのこと自体は気の毒な話ではあるが、しかしその解決を、不当な価値付けを用いて、他者を一方的に利用して行なうことは不当である。この「不当」ということは、「法の下の対等」とつながっており、「法の下の対等」とは「誰もが社会の成員として対等」ということを意味しているからだ。誰かが他者を、相手の人格を無視して一方的に「手段」として利用することが許されないということが、「差別」を不当だといえる、この社会での「根拠」になっている。

もっとも、私はこれも単純に善悪の問題とは考えない。むしろ美醜の問題ではないかと思うことがある。差別をする者は、アイデンティティ不安を感じていながら(そしてそれはしばしば劣等感でありながら)、それを打ち消すために一方的に他者を利用して、偉そうに振舞う。そういう行為は「悪」でもあるが、それ以上に「醜い」。もう少しくだけたいいかたをすれば、「差別」は「悪いこと」であると同時に「ダサい」ことでもある。

アイデンティティ不安を抱える者は、「差別」が悪いことだと頭では知っていても、それを容易にやめようとしない。それは罪悪感よりも、差別によるアイデンティティ補償から得られる快(エロス)のほうが大きいからだ。

逆にいえば、もし差別をすることによってはエロスが得られないとすれば、人は差別をすることが馬鹿々々しくなるだろう。つまり「差別」の動機を失うことになる。だから私は「差別」に対しては、道学者然として振舞うよりも、「ダセェ!!」と切り捨てるほうが効果的なのではないかと思っている(笑)。

●互いの良好な関係のために

ところが困ったことに、これでもセクシャルマイノリティの生き難さは、たぶん解決しない。なぜかというと、セクシャルマイノリティの生き難さの理由は、このような「差別」がすべてではないからだ。

「差別」と「偏見」は従来の反差別運動では混同されて語られてきたが、「偏見」は単なる認識の問題であり、アイデンティティ不安がなくても生じる。しかも私の考えでは、「偏見」は必ずしも責められるべきことではない。責めるというのは、相手に責任があって初めて可能になる行為だが、「偏見」の責任は必ずしも「偏見」の持ち主にあるとは限らないからだ。

一般の男女の在り様というのは、誰でも大まかにはわかる。ところがその程度の経験や知識では、セクシャルマイノリティを前にした場合、相手(セクシャルマイノリティ)についてどう判断したらよいのか、わからなくなる。セクシャルマイノリティと接する特別な理由でもない限り、相手を遠ざけるか、自分から遠ざかるかするのが最も手っ取り早くて無難な対処法だ。私は、このような対処法に対して「悪」のレッテルを貼り付け断罪する気にはなれない。誰だって、自分に可能な精一杯の判断で、自分の平安を守ろうとするものだ。

このような人々にとって、セクシャルマイノリティは判断不可能な存在であり、判断不可能であるがゆえに「不安」の源泉である。少なくとも互いにとって好ましい関係を作ることを目指すなら、このような場合に必要なのは、断罪や糾弾ではなく、相手の不安を取り除いてやることだ。

そのためには、セクシャルマイノリティは自分を説明する言葉を、できるだけ相手の腑に落ちるように鍛え上げる必要がある。したがってその説明は独善的なものであってはならず、またセクシャルマイノリティの特殊性ばかり強調するのも上手くない。この点で私が本書に感心したのは、

>ゲイも個人個人は男性文化の中で育ちますから、むかしは見られる側の感覚はそれほど強くなかった、というより見る立場、目としてしか存在していなかったかもしれません。(P126)

という表現だった。これは一般の男女の「見る/見られる」というセクシャリティの非対称性を前提とした説明になっている。しかもそれによって、男性ゲイの性質(むかしの)の表現に成功し、さらに考えれば、同じ「同性愛者」であってもレズビアンのありようはまた違うのだろうなということも想像がつく。

ただし私は、こうした説明の言葉を鍛え上げることを、セクシャルマイノリティだけに課された義務だといいたいのではない。第一、それではあまりにも効率が悪い。

それよりも、マジョリティとの言葉のキャッチボールの中で工夫されてゆくものだと思う。セクシャルマイノリティは、マジョリティ側の反応を見ながら、「この部分は上手く伝わったようだな」とか「これについての説明はもう少し工夫が必要だな」と判断し、さらに工夫を重ねてゆけばよいのだ。つまりは、マジョリティとの共同作業である。この場合にも、マイノリティとマジョリティの対立図式を前提とすることには、どのような「利」も期待できない。

●再びフェミニズム批判について

こうしてみれば、加藤秀一氏の「そもそも利害対立の調停など不可能である」という決め付けがいかに不毛なものかということもわかるはずだ。また、このような主張は「調停不可能」を強弁するために、リアリティのない現状認識を示すことにもつながる。

たとえばイダヒロユキ氏は、「過剰に典型的なモテ服に合わせようとすることをやめるということだ」と述べているが、やめたければ勝手にやめればいい(笑)。それともイダ氏は実際に「モテ服」の着用を強制されているのだろうか。それは具体的に、どこの誰によって強制されているというつもりなのか。「モテ服」を着る・着ないということは、エロス獲得のゲームの中で用いられる「手段」の一つに過ぎず、現状でも、その「手段」を選択するかしないかは、本人が勝手に決めればよいことだ。それどころか、エロス獲得のゲームそのものからおりてしまっても構わない。

>また「男らしさ追及しない、おしゃれ、明るい性格、性分業反対、異性愛、ボーイッシュ女性好き、セックスにあまり興味なし、非論理的で感情的な男性」などになっていくということだ。

とはどういうことなのか。そんな男性は今でも当たり前に存在するだろう。どこを見まわしても、けっして「生物的男性はすべて1種類の男性」であったりはしない。私は東京在住なので念のため、立命館には「1種類の男性」しかいないのか? とインターネットを介して立命館在学生に尋ねてみたら、「学内には色々な種類の男がいます。同時に同じぐらい女性もバリエーションに富んでいます。ウチは偏ったフェミニストが多くて困っています。」という答えが返ってきた(笑)。やっぱりね、そうだろね…。

「適切に人を男女だけでなく多様に見ていこうとする実践」をしていないのは、イダ氏の方ではないだろうか。

また、「性別二元制は永久不変ではない」という主張にも、まったくリアリティーがない。イダ氏が挙げている「インターセクシャル、トランスジェンダー、FTXのTG、トランスヴェスタイト」は、性別二元制をベースとした派生型に過ぎない。「サードジェンダー」という語も挙がっているが、男性性とも女性性とも無縁な「第3の性」というものを、私は実例としてはまったく知らない。ただそういう言葉(理念)が存在するに過ぎない。

また、時代も文化も異なる様々な世界の中で、性別はひとつ(つまり性別はない)という文化は存在しない。また「性別三元制」や「性別四元制」を当然と考えている例もない。それはなぜなのか。

逆に、「男/女」という概念は、「上/下」「左/右」「前/後」と同じく、普遍的に存在する。そして性愛の在りようにも、あるていどの幅をもって普遍性がある。

たとえばギリシャ神話には、ゼウスが浮気をし、その妻であるヘラが嫉妬するという話がいくつも出てくる。ギリシャ神話は、現代の日本に住む私達から見れば時代も文化も異なる世界の物語であるにも関わらず、私たちがこの図式を理解するために、何か特別な説明を要するということはない。文化人類学などの助けを借りなくても、ギリシャ神話の中で語られる様々な性愛のありようは、小学生でも容易に了解することができることを、私たちは「知っている」のだ。

フェミニズムでは、誰でも「知っている」この事実を、つまり「性別二元制」や性愛の在りようが持つ普遍性を、まったく説明できない。

「性別二元制」や性愛がもつ普遍性の根拠は、小浜逸郎氏が説明している(P111)。ただ、伏見氏はそれを「生物学的な基盤」とか「生物学的な要因」と理解しているようだが、私の考えでは、そこが違う。小浜氏はいわゆる「本質主義」を唱えているわけではなく、基盤になっているのは「物質としての身体」「客観存在としての身体」ではなくて、「身体観」だと考えた方がよいと思う。

たとえば、健常者である私には腕が二本ある。「私には腕がない」あるいは「私には腕が三本ある」と思い込もうとしても、やはり私の腕は二本にしか見えない。視覚だけでなく触って確かめても、やはりそうとしか思えない。

これは簡単な例だが、「身体観」は一種の概念ではあっても、考え方しだいでどうにでも変えられるというものではない。「どうしてもこうとしか思えない」という種類の認識を含んでいる。

「性別二元制」や性愛がもつ普遍性の根拠は、このような「身体観」に基づく身体性が、時代や文化の違いを越えて人類に共有されているという点にある。

それゆえ、小浜氏の説明と、伏見氏の「しかし、厳密にいえば、性別は身体によって成立しているというよりは、社会の規範によって区分されている。つまりジェンダーだと言うことになる。」(P110)という見解とは、矛盾しない。ただ伏見氏がここでいう「社会の規範」が、「身体観」の共通性によって生じ支えられていると考えればよいのである。

もし仮に、人々がみな自分の身体について「どうしてもアメーバのようなものとしか思えない」という「身体観」を共有しているとすれば、「男/女」という概念はその普遍性どころか、概念そのものが生じなかったに違いない。「上/下」はともかく、「左/右」や「前/後」という概念を持つこともなかったかもしれない。

これはセクシャルマイノリティでも例外ではない。たとえばMTFの性同一性障害の当事者であれば、乳房や女性器を自らの身体の一部として、自分が見ても他者が見ても「どうしてもこうとしか思えない」という形で欲する。性転換手術を受けたいと願う欲望とは、つまりそういうことなのだ。ここにはフェミニストが耽溺するような「理念の戯れ」が入り込む余地はない。

【プロフィール】
じんなりゅうこ●1964年東京生まれ、トランスジェンダー当事者の立場から性の問題に取り組み、インターネット上で随時発表を続けている。

円山てのる◎フロントランナーへの親近感と共に、正義の虚しい大旗を丸めて片付ける身軽さを覚えた

 伏見憲明さんが書かれた本——『欲望問題』を読みました。

 良書です。お奨めできます。
 この本に興味を惹かれた最初は、サブタイトルとして書かれていた、「人は差別をなくすため”だけ”に生きるのではない」という一文に納得できたことです。
 また、面白いことに、このサブタイトルを見ただけで、伏見さんが言わんとされていることが薄々承知できたような気になりました。
 伏見さんは、僕とほぼ同い年のようです。あいにく面識はありませんし、彼の書物を全て読んだわけではありません。むしろ、読んでいないほうかも知れません。
 皆様ご存じのように、伏見さんはお若いときから、日本における、いわゆるゲイリブに携わってこられたフロントランナーのお一人です。
 であるにも関わらず、ゲイリブのゲの字にも関わってくることをせず、いまごろになってノコノコ・チマチマと、斯様にささやかなゲイ・ブログを書いている僕のような端くれゲイが、こと差別問題を巡って共感できるとは、本当に意外なことですし、新鮮な驚きでもあります。

 ゲイの差別という言葉を使いながら、僕もまた伏見さんのように差別という言葉に違和感を感じていたのです。言い換えると、差別という言葉しか無かったから、これを使っていたに過ぎなかったし、仕方ないから、それにいろいろと注釈を付けてきたのかも知れません。
 また、差別はいけないと言うとき、そこに、差別することは”正しくないから”という、どこか取って付けたような裏打ちを施さなくてはならなかったことに、「じゃ、俺は、そう言えるほど正しい人間なのか?」という”こそばゆさ”が伴っていたことも確かです。
 正義をバックボーンに据えてしまうとき、そこに、どこか空虚な倫理観を備えなくてはならなかったり、教条的ないい子ちゃん振りを装っていなくてはならかなった、僕自身の居心地の悪さが、正直言って嫌でした。
 しかし、それでも、ゲイを差別するな——と、言わなくてはなりませんでした。
 違和感、こそばゆさ、居心地の悪さ、——これらは、ゲイの差別について語るとき、実は不愉快に僕の自信を削ぐものでしたし、それがゆえ、必要以上に力を込め、本当に思っていること以外のことまで、強い言葉遣いで過激に書き放ってしまわなくてはならない、その空回り現象を引き起こしていたのです。

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P.49 実際に、「オカマ」という言葉一つをとっても、それで傷つく人、傷つかない人、積極的に用いたい人、用いるべきだとは思わない人……当事者の中でさえも、さまざまな感じ方、考え方があって、一概にそれが差別語だとは言えません。つまり、自分の「痛み」だけでは、そのカテゴリーを代弁していいことにはならないし、したがって、特定の個人の心の「痛み」そのものを「正義」とすることはできない。とすれば、マジョリティに対しても、自分の「痛み」だけを根拠にそれが差別だと言えるわけではなくて、当事者の中でも、あるいは社会においても、その「痛み」の訴えが妥当なものかどうかいろいろな角度から議論する余地がある、との結論です。
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P.55 単純に一つの立場から、この世界を自分とそれ以外の人々の力関係に置き換えて見ようとするのは、どうしたって無理があるし、やはり傲慢だったと反省しました。
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P.55 ……そうして考えてみると、自分が経験したことを「差別問題」とするのではなく、「欲望問題」として捉えるのが適切だと、いま、痛感するのです。一つの欲望の社会における可能性の問い、「欲望問題」として始まった同性愛の生存が、結果として同性愛者以外の人々との間に了解が得られ始めているのだ、というふうに見えてきたのです。それは最初から「正義」としてあったのではなく、自分の欲望を実現したいという声が発せられた結果として、正当な訴えとしての理解を生みつつある、とするのが客観的な見方なのではないでしょうか。
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 差別という言葉を、欲望という概念に読み替えたとき、心にもなく振りかざさなくてはならなかった正義の虚しい大旗を、くるくると丸めて片付けてしまえる身軽さを覚えますし、ともすると差別を語るときの”痛み”が押し遣ってしまう、本来なら居残っていても良い”楽しみ”を、世の中に共存させておくことができるのです。
 伏見さんの本は、そうした新しい思想を提示してくれたのだと感じられ、そこに共感をもたらすのだと思います。

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P.123 ……やはり、人は楽しい方向でこそ、変化していくのです。
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 同性愛者としての痛みから解き放たれることを求めるいっぽう、同性への欲望を貫こうとすることへの後ろめたさを感じるとき、そこに差別感と、それを粉砕するための正義を持ち込むのでなく、どちらも等価な欲望のヴェクトルだと認識することで、バランス良く折り合いを付けることができるのでしょう。

 こう簡単に纏めてしまうと、至極当たり前に読めてしまうものです。
 いつぞや僕のブログでも議論になった、セックスの乱れを乱れと見るか否かと、いわゆる乱交を含むセックス・スタイルの多様性を認めるかどうか——について、僕が乱れていると感じるセックス・スタイルだって、頭ごなしに否定して排除しようとは思わないし、またそのいっぽう、乱れているものを乱れていると直視する度量を持つことが、ひいては僕らゲイ自身を主張する上で、ゆくゆく有効になる、という、いっけん矛盾するような僕の見解をも、すんなりと説明できるように思います。
 つまり、正義をかざして倫理観を説くつもりがない上で、いっぽう、乱れているものを乱れていると率直に認識し得るのでしょう。
 すなわち、欲望問題の文脈で語れば、正義・倫理を旗印として差別を論じるのではないのですから、欲望を真っ直ぐに欲望として認めてしまうことで、乱交する人たちの欲望と、僕自身が抱く”乱れているという感想”と、折り合いを付けることができてしまえるし、両者を俯瞰して客観的に捉えることが可能になるのでしょう。
 ちょっと、ややこしい話になりましたが。

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P143. ぼくが注目したいのは、ミクシィ内のコミュニティという場です。
(……中略……)
参加資格がゲイオンリーのコミュニティもそこで数多く運営されています。
(……中略……)
こうしたコミュニティでは、性的パートナーを探すとか、ゲイとしての問題を共有する、という面ばかりでなく、ゲイという共同性の中でのコミュニケーションを楽しみたい、という意識が働いているように見えます。それぞれのコンセプトとセクシュアリティは関係ないにもかかわらず、ゲイにこだわったコミュニケーションを求めているわけです。つまり、そこにあるのは、ゲイとしてゲイに関わりたいという欲望です。ありていに言えば、ゲイ同士であることが楽しいのでしょう。
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 ゲイのアイデンティティーに関しては、伏見さんの見解と僕のとでは、若干の相違があるようですが、然してあげつらうほどのことはありません。
 僕は、将来、ゲイであるかレズビアンであるか、あるいはストレートなのか、バイセクシュアルなのか、トランスジェンダーなのか、これらは血液型の違いほどの、さほど難しく拘る必要のない個人的項目の一つに収まってしまえば良かろうと考えています。
 そういう観点から、そも同性愛者と異性愛者とが、普段から、どちらも顕在化した状態で、ごく自然体で混じり合っている態が、望ましいのではないかと感じています。
 何でもかんでも、ことあるごとにゲイばかりの集合体が出来て、それが一団となって何かをしている、ゲイ以外の人々を排除する、意図的に異性愛者に距離を置き続ける、——という会員制的感覚は、ほどほどにしたいものと、僕は思います。
 でも、それは同性愛、異性愛というカテゴライズを消してしまえとか、ゲイとしてのアイデンティティーを捨ててしまえと言っているのではありません。
 同じ日本人の中に、東北出身の人々も、関西出身の人々もいて、同県人だとか同郷の人間同士であることが、特別な親しみを催させたり意気投合させたりするように、ゲイならゲイで、仮に同性愛者と異性愛者の垣根がなくなった世の中であろうと、ゲイ同士だからこその楽しみを謳い、同じ仲間同士ならではの共感に浸りたいために、ゲイばかりが集まるコミュニティーが維持されるのは、一向に構わないと思っています。

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P.146 だからといってぼくは、ゲイ・コミュニティという共同性を絶対化しようとか、ゲイ・アイデンティティを普遍的なものだと言いたいわけではありません。そうした共同性がなくなっていくのならそれはそれでいいし、ゲイたちがゲイというアイデンティティを必要としなくなれば、消えればいいものだと思います。それに固執しなければならない理由はありません。
(……中略……)
しかし人間というのは共同性からまったく独立した存在としてはありえないし、たぶんそれを足場にしていなければ幸福でもないでしょう。
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 伏見さんとは見解が少し違うと書きましたが、ここまで読めば、実は僕と考える順番が逆だっただけで、言いたいことは少しも変わらないようにも思えてきます。いえ、きっと彼のほうが、もっと深いところから思索しているのでしょう。

 末尾では、映画『X-MEN』になぞらえて、性的マイノリティーと、それ以外のマジョリティーとの関係を炙り出した上で、ゲイの共同性の未来を展望しています。
 その中で、やはり先般、僕のブログでも話題にした”ゲイをノンケに変える薬”のようなものを想定した論述が、僕の興味を惹きました。同じようなテーマが言及されていたこともそうですが、この本の冒頭で、伏見さんが十代の頃、ご自身の同性愛を異性愛に変えようと努力したことが記され、それに対応するように、本の最後で、
 
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P.170 ただ、もし、同性愛を異性愛にする薬ではなく、同性愛も異性も好きになる薬が開発されたらどうでしょう。貪欲なぼくはその薬を試すこともあるかもしれません。
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 ——と書かれているところなど、まさしく、人間、誰しもバイセクシュアル的原型を有していただろうこと、またそれゆえに、バイセクシュアル的欲求を内含している可能性があることへの同意とも受け取れ、要は、かなりの部分で、伏見さんは僕と同じようなことを思われながら、同性愛問題に関わるお仕事をしてこられたのだなと、フロントランナーへの敬意を表しつつも、それとは別の新たな親近感を、自分勝手に抱いたような読後感でした。

【ブログ】
『低能流[ゲイ]文章計画』
http://tapten.at.webry.info/
 
該当記事
http://tapten.at.webry.info/200703/article_3.html

加藤 司◎柔らかい文体の中に仕掛けられた毒針が二十一歳の僕の胸をじくりと刺す

 二十一の私は、同性愛者による社会運動が活発だった九十年代を知らない。
 ゲイであると自覚した頃には、周囲の抑圧から苦しんでいる姿をそう見ることはなかった。例え過去の文献に触れ、当時を生きてきた人から話を聞いても、どこか遠い国のお伽噺としか思えずにいた。

 己の性的指向のために大した実害を被った訳ではないので、時々胸に小さな疼きを覚えるようなことがあっても、そ知らぬ顔をしてやり過ごしてきた。社会人として働き、週に何度かジムで汗を流し、数少ない友人と他愛の無い話で花を咲かせ、時々誰かとセックスをして生きている。コミュニティへ属すことはせず、せいぜいインターネットを使って華やかなイベントを楽しむ彼らを傍観するだけだ。社会へは関心を持たずに、こちらから背を向けていた。
 
 「同性愛者が生きやすい世の中になった」と言われてもう何年経過したのだろうか。世間での印象はそこそこ良くなり、露骨に迫害されることは少なくなった。だが、レズビアン&ゲイパレードやHIV感染、同姓婚制度を巡っての議論等に対しての課題が残っているのに、どこか宙に浮いたままである。

 幾ら活動家やボランティアの人々が頑張っても、何故かその声が遠くから発せられているようで、ただ聞き流していた。同じゲイとは言え、彼らの活動への興味はあっても参加しようとは全く考えていなかった。時間を犠牲にしてまで協力するための理由が存在しない。面倒だと思ったことさえある。それに、どこか敷居が高くて、内輪だけで固まっていそうだというイメージが付きまとっていた。今思えばこれだって一つの偏見である。私は別のコミュニティを直接的ではないにせよ、差別していたと非難されても当然だ。

 全ての問題を他人にたらい回しして、自分だけ楽をするのも一つの選択肢であり、とても魅力的だ。ただ、そうやって何か出来るかもしれないのに、見てみぬ振りをするのにはもう飽きた。そう言っている割には、社会を傍観しているだけで何の行動も起こそうとしない。そんなジレンマを抱えて、時々息苦しく思いながら生きている。

 伏見氏はそんな鬱屈を丁寧に、かつ論理的な文章で導いてくれた。
 お互いの欲望を満たすためにはどうすればいいか模索するためにまずは話し合おう、ということだけである。相手を知らないから、「何となく」という感情で判断し、場合によってはそれが悪い方向へ捻じ曲がってしまう。全てを読み終えた頃にはそんな間違ったイメージという概念が取り払われ、憑き物が落ちたように身体が軽くなっていた。
 
 この著作は、冒頭で少数派の人間だって他者を差別するというという“現実”を突きつけた上で、この社会を“理想”へ近づける可能性を提示している。執筆するには相当な気力を注いだのだろうと想像させられる。不勉強な私でも彼が構築した論理を順に追えば、理解するのは難しくないように練られているが、柔らかい文体の中に仕掛けられた毒針が、胸に突き刺さってじくりと痛むことすらあった。時として名の知れた論者を批判し、“寝た子を起こすな”と反発されかねない発言も含まれている。彼は社会に対して誠実に向き合っているのか、それとも根っからのマゾヒストなのか判断に困る。
 
 「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」という彼の言葉に応えられたと言えば嘘になるが、多少なりとも真面目に読んでみたつもりである。この本によって、今まで無視していた“社会”に対して、時間が掛かったとしても理解しようと考えさせてくれたからだ。
 新たな選択肢を掲示した伏見氏の動向をこれからも追って行きたい。