2005-02-16

ミッテランの最晩年と愛人

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 政敵やジャーナリストへの盗聴を指示した今は亡きミッテラン前・フランス大統領が権力術に長けたしたたかで老獪な政治家であることは疑いようがないが、しかし彼には妙な人間味がある。小泉純一郎やブッシュのような単純さとは対照的で、複層的かつミステリアスな政治家であった。

 前立腺ガンを煩い病床に伏せていたミッテランは、絶命する二日前に投薬による延命治療を拒み、死期を選択した。彼が亡くなったのは、大統領退任から一年もたたない九六年一月八日のことだった。栄華を極めた権力者というものは死の間際に立たされると往々にして、生にしがみつこうと、とりみだすものだが、ミッテランは自らの死を受容し、息を引き取っていったのだ。政治家として人生のほとんどを過ごしてきたミッテランは、やっとのことで手に入れた私人としての生活が束の間で終わってしまうという現実を前にして、何を思ったのだろうか。政治家ミッテランにとって、政治家として生き、政治家として死んでいく自らの生に、悔いはなかったのかもしれない。

パリのバスティーユ広場で開かれた社会党主催の追悼集会には、その死を悼む数万人の人々が参加した。ミッテランの時代には、政治難民として多くのクルド人が受け入れられたからか、クルド人も多数参列し「クルド人民のために尽くしてくれてありがとう」と書いた横断幕を掲げた。しかしながら、ミッテラン時代の難民・受入政策が極右勢力の伸長に寄与したという人は少なくない。

 ミッテランには愛人とその間に娘がいたことは、フランスではよく知られたことである。大統領就任直後の記者団との朝食会の席上で、婚外子について質問されたとき、
「それがどうかしましたか?」
 と切り返したこともまた、よく知られたエピソードの一つである。ミッテランは愛人と娘をエリゼ宮(米国でいえばホワイト・ハウス)の一角に住まわせていたそうだが(95年7月から99年3月まで時事通信のパリ特派員を務めた安達功・記者の『知っていそうで知らないフランス』(平凡社)137頁、参照)、マスコミはそれを報じることはなかった。フランスでは政治家とはいえ、私生活に触れることは報道機関のタブーである。大統領に愛人がいようが朝帰りをしようが、それには触れない。「パリ・マッチ」というゴシップ誌が94年、婚外子の存在について報じたことにより(大学生になった娘と公然と面会するミッテランの姿を好意的に取り上げたらしいが)、国民の間でも知られることになった。とはいえ、スキャンダルとしては受け取られず、国民からはむしろ好意を持って受け止められたという。
 ミッテランの故郷で行われた葬儀には、ミッテランの夫人と子どもたちとの横に、愛人親子が座り悲嘆にくれていた。

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このエントリへの反応

  1. [...] されるであろうか。 *1;ミッテランについては当ブログのミッテランの最晩年を描いた映画 』やミッテランの最晩年と愛人 』でも触れた。参照されたし。 コメン�?[...]