2007-11-24

仏極右が財政難から長年保有してきた党本部を売却へ

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写真脚注:フランス極右政党「国民戦線」のジャンマリー=ルペン党首&欧州議会議員(撮影:及川健二)

オーマイニュース』に次のような記事を執筆しましたので、転載いたします。

主題:財政難から長年保有してきた党本部を売却へ
副題:欧州極右のカリスマ「仏国民戦線」の没落(1)

【本文】
 世界中の極右政治家からカリスマ視されてきた、フランスの極右政党の老舗「国民戦線」が、パリ郊外に長く保有していた党本部を売却することを決定した。党勢の低迷による財政難が理由で、今後、党が存続できるのか危ぶまれている。一体、国民戦線に何があったかのか。国民戦線が果たしてきた歴史を振り返り、同党がなぜ、解党の危機を迎えたのか背景を探りたい。

1972年6月に「移民排斥」を唱えて結党

 1928年6月20日に漁民の息子として南仏で生まれたジャンマリー・ルペン氏は極右政党・国民戦線の党首を務め、79歳という高齢にも関わらず、同じく国民戦線の副党首として働く娘マリーヌ=ルペン氏とともに、いまもなお精力的に政治活動を続けている。アウシュビッツ解放から60年にあたる2005年に入ってから、ナチスドイツによるフランス占領統治について「必ずしも人道的でなかったわけではない」とナチス擁護の持論を展開し、物議をかもした。1997年12月にも、ナチス親衛隊出身の政治家がミュンヘンで開いた出版記念会の席上で、「ユダヤ人強制収容やガス室などは第二次大戦の歴史のなかで取るに足りない出来事だ」と発言して問題になった。

 反共、反社会主義を掲げてきたルペン政策の基本は「移民排斥」にある。「移民をフランスから追い出せば、失業は解決する」などとアジテートする。高い失業率に悩まされ、北アフリカからの移民が増えたフランスでは、国民戦線の排他的な政策は耳あたりがよいようで、世論調査では常に10~15%の支持率を獲得しており、いくつかの都市で国民戦線出身の首長が誕生した。

 王朝復活をもくろむ王党派、カトリック・ロビー、戦前からのファシストの流れをくむ政治勢力が入り混ざって1972年6月に設立された国民戦線の歴史は分裂と党内権力闘争の歴史である。ジャンマリー=ルペン氏が創立以来、党首の座についている。結成当初は政治的影響力のない弱小政党に過ぎなかったが、1980年代に入ってフランス経済が悪化し失業者が急増すると、同党の支持率はうなぎ上り。選挙のたびに着実に票を伸ばしていった。1986年下院議員選挙では選挙制度が比例代表制に変わったことから、270万3442票(9.7%)を得て、35議席獲得した。しかし、それ以降は小選挙区制に戻ったことから、議席は0~1と低迷する。1997年以降、景気が回復し失業率が低下すると、同党の支持率は低下していった。

史上まれに見る権力闘争へ

 1998年末から1999年初頭にかけて、国民戦線の歴史でも最大ともいえる権力闘争が起きた。当時ナンバー2のポストについていたブルノー=メグレ氏という政治家が、国民戦線をルペン氏の独裁から解き放ち、自らがトップにつこうと試みたのだ。

 メグレ氏は1949年4月4日生まれで、ルペン党首とは親子ほどの年の差だ。フランスの理工系エリート養成のための高等教育機関で、グランゼコールのひとつである理工科学校を卒業している。メグレ氏は国土整備関係のエンジニアを経て、シャルル=パスクワ元内相の推薦で対外関係省に入り、1981年の下院議員選挙に保守第1党の共和国連合から立候補したものの落選し、85年に国民戦線に入党した。

 メグレ氏は「動物の種を保護するために闘う一方で、混血による人種の喪失という原則を受け入れているのはなぜか?」とか「われわれの文明は、われわれを植民地化しようとしている未開原住民の文化よりはるかに優れたものである」などと西欧白人文化の優秀性を訴える。理論家だけれど演説が下手で官僚のにおいが強いメグレ氏と、話し出せば聴衆が興奮し魅了される演説の名手であるが理論を構築するタイプではないルペン氏は、対照的なキャラクターだった。対照的なキャラクターゆえに、メグレ氏は裏方に徹し党の実務を引き受け、政策づくりや党の理論構築に励む一方、ルペン氏は表に立ち、民衆の前で勇ましく時々の権力者・政府を批判し、フランスの没落を嘆き、国を救えるのは国民戦線だけだ……、とアジテートした。2人の役割分担は、初めはうまくいっていた。

 しかし、ルペン氏の度重なる失言や奔放さに嫌気がさし、メグレ氏は党首の座を奪還しようとする。

 ルペン対メグレ戦争は、ルペンの暴力ざた裁判(1997年総選挙中、社会党女性候補に暴力を振るう)に発する。1998年11月17日ベルサイユ控訴院(高等裁判所)はルペン被告の有罪を認めたがルペンは上告。この裁判でルペン党首の被選挙権はく奪が予想されたためメグレ氏が、「自分が1999年の欧州議会選挙(比例代表選挙)で国民戦線のリーダーになるのが妥当」とほのめかしたものだからルペン党首は激高した。ルイ14世の「朕(ちん)は国家なり」をまねて、「国民戦線にはナンバー1あるのみ」と宣言し、ジャニー=ルペン夫人を欧州議会選挙への国民戦線のリストの筆頭者にすると発表したのだ。メグレ氏が黙っているわけがなかった。彼はすぐに反撃に出る。

〈つづく〉