2007-11-23

パリ五月革命から40年、赤毛のダニーはどこへ

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オーマイニュース』に次のような記事を執筆しましたので、転載いたします。

主題:パリ五月革命から40年、赤毛のダニーはどこへ
副題:今も闘う指導者、エコロジストの大御所に

【本文】

 来年2008年は、パリ五月革命から40年になる。その時のリーダー「赤毛のダニー」は、今、どうしているのか? 

学生寮の男女分離の撤廃を要求

 1967年3月、パリ西部は移民のスラム街と、急ごしらえセメント団地に挟まれたナンテール大学で、社会学部の学生たちが大学改革案へ反対すると同時に、男子学生の女子寮への入室禁止規則の廃止を要求して女子寮を占拠した。

 学生たちは「拘束のない生活を」「禁じることを禁じる、自由を侵すことを禁じて初めて自由が始まる」と、落書きした。

 その中には「赤毛のダニー」の愛称で親しまれたダニエル=コーン=ベンディット氏がいた。ダニーはフランスで、ドイツ人の家庭に生まれ育った生粋のドイツ人で、ナンテール大学の学生だった。

 ダニーたち学生は、「性の自由」という考えを広めようとした。そして、1968年3月22日、ベトナム戦争に反対するデモで、数人の学生が逮捕されたのに抗議して、「3月22日運動」を発足させて、ナンテール大学の学部を占拠した。学長は占拠者の排除と学部閉鎖という強硬手段をとった。

学生500人逮捕で運動家が蜂起

 5月3日、ナンテール大学の学生たちは、パリ大学ソルボンヌ校構内に入ったものの、官憲に排除され約500人が逮捕された。その晩から学生街のカルチェラタンには、トロツキスト、アナーキスト、毛沢東派、マルキシストをはじめとする「怒れる」 学生たちが結集した。

2005年5月にパリ市内で緑の党が開いた集会で談笑するダニー。(撮影:及川健二)  「逮捕者釈放、官憲撤退、ソルボンヌ開放」

 学生たちはこの3項目を掲げてデモを繰り返した。機動隊による弾圧はますます激しくなった。逮捕者は約600人、負傷者は1000人以上に及んだ。

 10日、学生たちはサン・ミッシェル街にバリケードを築き、カルチェラタンそのものを占拠、戦いに備え、舗石をはがし、鉄柵を抜き取り、並木を倒し、かつての革命を再現していった。

 当時のジョージ=ポンピドゥー首相は、学生たちの要求を呑むか、機動隊をつかって強制排除するか、決断を迫られた。ポンピドゥー首相が選んだのは、機動隊の撤退だった。ソルボンヌは解放されたが、逮捕者は釈放されなかった。

 学生たちはソルボンヌを占拠、校内でビラやポスターも印刷し、壁という壁にポスターを貼った。

 ◆ 「学問を忘れよう!夢を見よう!」

 ◆ 「商品を燃やせ!」

 ◆ 「恋すればするほど革命がしたい、革命をすればするほど恋をしたい」

 ◆ 「ポエジーは街に」

 ◆ 「舗石の下は砂浜だ」

 ◆ 「ボクはグルーチョ・マルキシスト」

 ◆ 「怒れ!」

 ◆ 「警棒の雨、育つのは無関心」

 ◆ 「ロボットにもドレイにもなりたくない」

 ◆ 「ボクたちに発言権を!」

 ◆ 「革命、それは内なる鎖を壊すこと」

 ◆ 「保守主義は腐敗と醜悪」

 怒れる学生たちは、親の世代が安住する旧体制への反逆の叫びを、彼らが夢見るユートピアを、壁に表現していった。

仏全土でゼネラル・ストライキに発展

 学生の運動に労働者も呼応した。5月13日には学生・労働者、数万人が当時のシャルル=ドゴール大統領に反対するデモを行い、パリだけでも80万人の人々が参加した。

  「革命」は国鉄や、エール・フランス、郵便局、ラジオ・テレビ局、ルノー工場、カンヌ映画祭などにも飛び火し、ゼネラル・ストライキに発展した。フランスの公共交通機関は麻痺した。道路はゴミの山になり、内戦を予想し、主婦たちは買いだめに走り回わった。

 5月22日には学生の中心的メンバー、ダニエル=コーン=ベンディット氏が拘束され、ドイツに国外追放となり、10年間の入国禁止措置がとられた。

 革命的状況は、ドゴール大統領が国民議会解散(総選挙)を宣言したことで終わった。ストライキは勢いを削がれ、労働者は職場へと復帰していった。学生運動も勢いを失った。6月の総選挙ではドゴール派が圧勝し、過半数を制した。

 パリ五月革命は、権力に反対するパリの若者たちの叛乱であったとして、未だにフランスで評価されている。それは「自由」という理念を社会にもたらしたからだ。

 社会のマイノリティーに権利意識を芽生えさせ、女性や同性愛者、移民の権利拡大運動の契機になった。パリ五月革命は、規制の権威や因襲への抗いでもあり、カトリック教会との関係や結婚観、性意識も革命の余波で大きく変化するようになった。

赤毛のダニーのその後

 フランスを追われ、フランクフルトの家族の下へと帰ったダニーは、「革命的闘い」という政治結社を組織する。運動家つながりで、後にドイツの副首相と外務相を務めることになるヨシュカ=フィッシャーと出会う。将来、ダニーはフィッシャーの片腕と呼ばれるようになる。しかし、ダニーは徐々に政治から身を遠ざけるようになった。

 彼が政治の場に戻ってきたのは、1979年にエコロジスト、フェミニスト、人権活動家、反原発運動の活動家などによって結成された「ドイツ緑の党」に、1984年に参加した時である。

 同党の中で活発に活動し、1986年には『私たちは革命を心から愛する』という著書を出版し、タイトルとは違って、革命との訣別を宣言した。

 1989年にはフランクフルト市の助役に就任した。1994年の欧州議会議員選挙でドイツから出馬し、当選する。1998年にはフランスに戻り、1999年の欧州議会議員選挙では、フランスで緑の党を代表して出馬すると宣言した。

 その年はパリ五月革命から30周年であり、メディアは「ダニーの帰還」と報じ、メディアから引っ張りだこになり、テレビや新聞、ラジオの五月革命特集に相次いで登場した。

 欧州議会議員選挙では緑の党史上、過去最高の得票に迫る171万5450票(9.72%)を同党は得て、7議席を獲得し、ダニーは見事、再選した。

 2002年には、各国から選出された、緑の党出身の欧州議会議員で構成されている院内会派「欧州緑の党」代表に選出され、現在も代表だ。

 パリ五月革命の英雄は、現在ではヨーロッパのエコロジストの大御所的存在になったのだ。