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真実・篠田博之の部屋[番外14] [2001年1月23日]
真実・篠田博之の部屋
[番外14]
 小林よしのりが上杉聰を訴えたことから誕生した「『脱ゴー宣』裁判を楽しむ会」の会報「バイバイゴーセン」9号(2000年12月20日発行)に「『バイバイゴーセン』読者の皆様へ」というA5サイズ4ページのコピーが同封されていました。「楽しむ会」事務局の横山好雄氏が書いた文章に対して、会員の岡田雅宏氏からの反論が寄せられ、そこから論争が始まり、本コピーは、その一部を掲載したものです。
 この中で、岡田氏は、こんなことを書いています。
[ここで私が強調しなければならないことは、『教科書が教えない小林よしのり』には、ナチスのホロコーストの存在を否認する西岡昌紀が加わっていたことである。そして、宅八郎氏は「ホロコースト否認論には同意しないが、著者としての権利は守られるべきだ」という姿勢を示したのである。ヨーロッパ版歴史修正主義に対して、このような姿勢をとった結果として、『教科書が教えない小林よしのり』は、日本版歴史修正主義に対する批判が全くできなくなってしまったのである。『教科書が教えない小林よしのり』を読んだ人は、小林が下劣な根性の持ち主であることは理解できても、『新しい歴史教科書をつくる会』のどこが間違っているのか、については全く理解することができないだろう]
 これに対して、横山氏が[文意が全く理解できません]と言っており、私も、なんで、こんなねじくれた読みをあえてしなければならないのか理解できません。
 ご存じない方のために説明しておくと、『教科書が教えない小林よしのり』というのは、宅八郎を中心に、つる師一彦、山本夜羽、私などなどで作った小林よしのり批判の本です。我々は、「SPA!」で起きたゴタゴタを綿密に見ていくことで、まさに小林が下劣な根性の持ち主であることを理解していただくことを目的にあの本を作ったのであって、岡田氏が言うように、読者がそれを理解できたというのなら、我々の目的は十分果たされています。
 こちらが意図していない意図を勝手に読み取るのはけっこうですけど、それって妄想の類いでは? いくら岡田氏に強調していただいたところで、氏の妄想は現実とは何の関係もございません。ことによると、岡田氏は、我々が切通理作を批判したから、あの本で怪獣の肯定ができなくなってしまったとでも思っているのでしょうか。あの本においては怪獣のことに触れる気がなかったように、「新しい歴史教科書をつくる会」に触れる気がなかったというだけです。
 仮に私や宅八郎が「新しい歴史教科書をつくる会」に賛同する立場だとしても、『教科書は教えない小林よしのり』はあのようなものとした出されたはずです。
 西岡氏に登場してもらったのは、西岡氏が『教科書が教えない小林よしのり』で述べているように、小林が西岡氏との一件について、いかにデタラメをやらかしたかを明らかにしてもらうためであり、「ホロコーストはなかった」との西岡氏の主張を広めるためではありません。
 これについては宅八郎が言っている通りであり、こうもはっきりその意図を明示しているのに、かつ岡田氏は宅八郎のその言葉を引用しているのに、どうしてわからないのかな。如何に間違ったことを言ったとしても、殺されていいはずがありませんよね。それと同様、西岡氏の主張が間違っていたとしても、事実関係を改竄されてまで誹謗中傷を一方的に書かれていいはずがなく、著者の権利は守られなければならないのです。
 これについては、横山氏が言っていることが正しく、岡田氏の言っていることは曲解、妄想、イチャモンの類いでしかないことを著者の一人として言明してしておきます。
           *
 続いて、岡田氏は、こんなことも書いています。
[私は、切通氏が広瀬隆の反ユダヤ主義をヤユした行為に対して、松沢呉一氏が怒りを表明した問題については、どうしても態度を表明する必要があると考えるものである。/私は広瀬隆の『赤い楯』(集栄社)(ママ)を読んだが、これはナチスの反ユダヤ主義と何の違いもないひどい本である。興味のある人はこの『赤い楯』を、角川書店から出版されているヒトラーの『我が闘争』と読み比べてほしい]
 切通理作は、議論しているテーマと直接関係があるとは思えないのに、「宝島30」1995年10月号掲載の「サリン気分の人たちへ」という爆笑もんの原稿で、私を批判してきました。以下、該当部分です。
[大体、松沢さんはいつも根拠を示せ根拠を示せと言うけど、彼がその昔、本名の〇〇〇(原文には本名が入ります)を名乗ってた時、事実誤認の記述が山ほどある『危険な話』の手製のビラばらまいて宣伝しまくったって過去はどうオトシマエつけるのだろうか。原発の問題は地元からすれば死活問題。「オレたちもビビッた!ヤバイゼ!」ってだけじゃ、タイマーズの反原発と同じで、結局、自殺マニュアルの鶴見君あたりが思い入れている「ばらまけ、サリン」に行き着いちゃう(そういや、あるオウム信者が「オウムでは『危険な話』、みんな読んでますよ」って言ってたっけ。広瀬隆氏もユダヤ陰謀史観論者だったよね)]
 対して私は、「宝島30」11月号の読者欄に投稿。これに対しては編集部が内容を変更するように求めてきて、やむなく私は以下の文章を出します(一部省略)。
[「松沢さんはいつも、根拠を示せ根拠を示せというけれど(略)事実誤認の記述が山ほどある『危険な話』の手製のビラをばらまいて宣伝しまくったって過去はどうオトシマエつけるのだろう」の部分。/「手製」との表現は正確ではないが、それはいいとして、根拠を示さずに他者を批判する行為に対して「根拠を示せ」と当然の要求をすると、何故、8年前に『危険な話』の宣伝をしたことのオトシマエをつけなければならなくなるんでしたっけ。「事実誤認のある著作物を支持した人間はオトシマエをつけろ」と私が主張した場合に「お前のオトシマエはどうした」というのならまだ理解できるが、切通氏の文章、意味不明。/また、「あるオウム信者が『オウムでは「危険な話」みんな読んでますよ』って言ってたっけ。広瀬隆もユダヤ陰謀史観論者だったよね」ともあるが、広瀬氏の本を出している宝島社でも『危険な話』はみんな読んでますよ。この信者のコメントの範囲で導き出せるのは「『危険な話』はよく売れた」との事実だけではないのか。オウムでは『窓際のトットちゃん』もみんな読んでるかもね]
 これを呼んでいただければおわかりのように、私が腹を立てたのは、[切通氏が広瀬氏の反ユダヤ主義をヤユした行為]ではございません。
 岡田氏はご理解できなかったようなので、この投稿には書いていなかった部分までも念入りに説明しておくと、私が指摘したのは、まず第一に、「根拠を示せ」と要求することと、過去の行為のオトシマエをつけなければならないことがどうつながるのか、という点です。全然意味が不明ですよね。切通の論理で言うなら、『危険な話』の宣伝をした人間は、仮に「あいつは人を殺した」とのデマを流されたところで、「根拠を示せ」と要求してはならないらしい。
 第二に、宝島社に対して「オトシマエをつけよ」と何故要求しないという点です。宝島社は、JICC時代に、広瀬氏の著作を出しておりますし、「宝島30」の当時の上田編集長は広瀬氏の担当編集者だったことまであるのです。このオトシマエをつけさせることなく「宝島30」で原稿を書いている切通が、どうして私にはオトシマエを要求するのでしょうか。
 第三に、[『危険な話』に事実誤認が山ほどある]と断じた点。確かに事実誤認はあって、そのことは広瀬氏自身認めて訂正を入れておりますが、「山ほど」という指摘したからには、具体的にどの箇所なのか挙げてもらうしかないでしょう。
 第四に、『危険な話』をオウムの信者が読んでいたところで、このことだけからオウムと『危険な話』を結びつけることには無理がある点。『危険な話』は売れた、という事実以上のことを言いたいのなら、別の根拠を出すしかない。出したところで、私には何の関係もありませんけどね。
 といった点にありますから、切通理作がどこかで広瀬氏の反ユダヤ主義をヤユしたところで、私はそれをいちいち批判しませんよ。
 ここで切通理作は大変興味深い考え方をもっていることがわかります。「ある人の著作を支持した人は、その著者のあらゆる言動に責任をとらなければならない」というものです。バカバカしいですね。でも、このバカバカしさは、よーく見られることです。
 ある作品を評価して、ある作品を評価しないことは当然あるでしょうよ。『教科書が教えない小林よしのり』での私の発言を認めた人は、すべて私の売買春肯定に賛同しなければならないなんてことを私は思うわけがありません。切通理作があるミュージシャンのファンだとして、新曲が駄作だったら、過去の作品すべてを否定するのでしょうが、私は「これはよかったけど、今回はよくない」とするだけです。
 同様に、仮に『赤い楯』が否定されるべきものだとしたって、急に『危険な話』に事実誤認が増えるわけではなく、その宣伝をした行為までが否定されるべきではない。あるいは、歴史修正主義を批判する人たちは、『危険な話』を呼んで反原発の立場をとってはならないということにもならない。
 切通理作は、なんでこんな簡単なこともわからないのでしょうか。彼は、二種類の人間しか想定していないのではないでしょうか。「常に正しいことを言う人と、常に間違ったことを言う人」です。ひとつ間違ったことを言う人は、常に正しいことを言う人ですはなくなる以上、常に間違ったことを言う人に堕してしまいます。
 小林よしのりと切通理作については、人格を否定されても仕方がないことをやったと認識していますから、その範囲で、私は今後も批判するでしょうけど、彼らが「1足す1は2だ」「日本の首都は東京だ」と言うのなら、「そうですね」と合意します。
 あるいは、私は小林・上杉の裁判において、おおむね上杉氏を支持していますが、上杉氏の書くことすべてに合意するはずもなく、事実、私は過去に上杉氏の書いたものを批判しています。
 で、岡田氏も、ここに書いていたことからすると、切通と同類なんですね。反ユダヤを標榜する人は何について語る時も常に間違っている、西岡氏のある部分を支持する人はすべてが「アウシュビッツがなかった」と信じている、小林よしのりを批判する人は全員が「つくる会」に批判的でなければならない、小林よしのりを批判をする際には「つくる会」を同時に批判しなければならないと思っておられるようです。さもなければ、以上の批判が出てきようがない。
           *
 なーんて書きながら、自分自身やってきたことで、反省すべき点も多々あると思ったりもしているのですけど、自分のことは棚に上げて語るなら、「常に正しい人と常に間違っている人」の二種類しかいないと思い込むことが、議論を込み入らせます。
 つまり、私が言うところの「デベソ批判」を招くわけです。論敵のかあちゃんがデベソであるかどうかなんて、どうでもいいことなのですけど、本来論ずべきことと無関係のテーマを持ち出して批判する人は多い。切通理作がやったのもまさにこれですし、小林が「どっちがすぐれた作品を残しているか」なんてことを言うのもこれです。「すぐれた作品を残している人は間違ったことを言わない」と思っているんですね、あの人は。
 しかし、実はこういう物言いが有効に働くこともあるんですね。極端に言えば、「かあちゃんがデベソなら、息子のこいつもデベソに違いない。デベソということは、言っていることは間違っているに決まっている」と思い込む人がいるわけです。
 実は、このことをわかった上で、私も人格否定まで至った相手とやり合う際には、読者に「こいつはロクでもないのだ」との印象をあえて誘導するテクを使うことがたまにあります。ズルです。でも、たまにですよ。
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