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真実・篠田博之の部屋[番外11] [2001年1月17日]
真実・篠田博之の部屋
[番外11]
 前回書いたように、批判対象の名前を明示するのが好ましいと感じているのは、反論しやすくし、議論が起きやすくするためです。
「ダメ編集者列伝」においても、「編集者にも言い分があるだろう」と感じることがあります。ちゅうか、本人がどう考えているか私は是非聞いてみたい。そのためにも実名がいいんじゃないかと。
 編集者って、裏方ですから、彼らの実名を書いたところで、読者にはどうでもいいことかもしれないのですけど、「DSJ」が反論の場をいつでも提供すると明言している以上、実名を書くことを条件にすべきではないかと私は提案しているわけです。しかし、久田君は「そんなことしたら、誰も書かないでしょう」と言います。私が毎号書いてもいいけどな。
 また、編集者による「ダメ・ライター列伝」も同時掲載すべきではないかとも提案してます。いいっすよ、私のことを実名で書いても。原稿を落としたことがあるとか、領収書をすぐなくすとか、何度言っても仮払いの清算をしないとか、打ち合わせをすっぽかしたとか、事実の範囲で私は反省するまでのこと。
 つまり、互いの事情をぶつけた方が面白いと思うのです。Aというライターが編集者Bを「あまりにいい加減で、二度と仕事しねえ」と批判し、同じ号で編集者BがライターAを「あまりに原稿が遅くて、二度と原稿依頼しねえ」と批判する。こうなると、面白くないっすか。「そんなの、おまえらが自分たちで解決しろ」と言う人も必ず出てくるに決まっているのですが、自分たちで解決できるとしても、テレビや雑誌で身の上相談というページかあったり、ケンカをする番組があったりするように、それを娯楽として提出する方法があっていい。
 テレビってさ、タブーが多いじゃないですか。大手芸能プロの批判は絶対できないように。でも、サッチーやデビ夫人もそうですけど、何もかもをショウ、見世物としてしまう能力って、出版の比じゃないですよね。狡猾という言い方をしてもいいのですが、ケンカでも論争でも、なんでも商売にする。さんざんお茶間の反感を買っても、サッチーもデビ夫人も、相変わらずテレビに出て金儲けできているように、金にさえできれば、ある部分寛大。出版メディアもああなればいいのにと思ったりもします。
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 佐野眞一著『東電OL殺人事件』において、佐野氏は被害者の名前を明記しながら、デタラメな報道をやらかした雑誌名を明記せずに批判しています。これでは逆じゃないですか。既に亡くなっている被害者は反論ができません。対して、雑誌は反論ができます。どうして被害者の名前を匿名にして、雑誌名を明記しないのでしょう。
 前に、「黒子の部屋」だか「篠田博之の部屋」だかでも取り上げた春日武彦著『不幸になりたがる人たち』(文春新書)でも、違和感を感じた箇所があります。ある事件に関して新聞でコメントをしていた人物に対し、著者はそのコメント内容を皮肉って[こんな陳腐なコメントをする小説家なんぞ、さっさと現実から消え失せて仮想現実へ移住してもらいたいものだと願いたくなる]と批判するのですが、コメント内容は引用しているのに、コメントを発した人物は「某女流作家」としか記してありません。この場合、新聞名と日付が書いてありますから、第三者が検証することはできます。しかし、引用のルールからして、発言者の名前は出すべきですし、ここまで強く批判するのであれば、名前は堂々出してあげるのが礼儀ではないか。だって、本人は容易に自分であるとわかるとしても、「某女流作家」と書かれたのでは、わざわざ名乗り出て反論する気が削がれてしまいます。
 春日氏に批判されたとあっては、その内容が正しいのか否かを問う以前に、近所の人から白い目で見られ、仕事を失い、路頭に迷うしかないような無名の新人なら、実名を出すべきではないかもしれませんけど、相手は新聞にコメントをするような作家です。春日氏が、こういう場合に一切実名を出さないようにしているというなら、それはそれで何らかの一貫した考えがあるのかもしれないと思ったりもしますが、西江雅之氏の名前を出しているように、褒める箇所では実名を出しているのです。褒める時は実名、貶す時は匿名というのはよく見られることですけど、褒められて反論をする人はあまりいないので、「反論できるよう」という趣旨からすると、これも逆なのではないか。
 もちろん、私としても、批判する時に名前を出すべきかどうか迷う気持ちはわかります。反論されずに批判はしたいということですね。また、本人が出したくても、出版社が「出さないでくれ」と言ってくることもあります。創出版のようにです。こういう時にいちいちケンカをしてまで名前を出そうとは私も思いません(場合によりけりですけど)。
 佐野氏や春日氏も、編集者に「実名だけは出さないでくれ」と頭を下げられたのかもしれません。あるいは、佐野氏の場合、批判対象の雑誌と付き合いがなくても、同じ出版社の別の雑誌とは付き合いがあって、関係がマズくなるのを恐れたのかもしれません。
 収入が減るとか、仕事がやりにくくなることがはっきりしていれば、私もやっぱり公然と批判するのはためらいます。「SPA!」のゴタゴタの際に、ためらいつつも経営陣および一部編集者を私は公然と批判しましたが、そんなことをしたおっちょこちょいなど執筆者の中にはほとんどいなかったように、大多数の物書きは目先のゼニが大事であって、彼らを情けないヤツらと思いながら、私も目先のゼニが好きなので、一概にそういった態度を批判はできません。
 しかし、こういった態度こそが批判すべきものを批判できないメディアの脆弱さにもつながっていき、メディアの不信にもつながっていくわけです。
「あの書き手はうちの雑誌でも書いてもらいたいと思っているので、名指しの批判はしないで欲しい」
「あの書き手は、うちの会社で本を出しているから、批判するのはまずい」
「あの芸能事務所は、うちの会社の他の雑誌で付き合いがあるから、批判はできない」
「あの会社を批判すると、広告を引き上げられるかもしれないから、この会社だけは批判から外しておこう」
「お上を批判すると、目をつけられるから、やめておこう」
 その結果が現在のマスコミです。大手がこういうしがらみから批判をしないでいてくれればいてくれるほど、「DSJ」や「噂の真相」がジャニーズ事務所、バーニングなどの芸能事務所批判ができたりするのですから、考えようによってはそう悪いことではないのかもしれませんけど、マスコミ総体を見た時にはいい方向に機能するはずがない。
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 ちょうどこれを書いている時に、インターネット書店「BK-1」の書評のため、先頃直腸癌で亡くなった高木仁三郎著『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書)を読んでいました。高木氏の本を読むのは久しぶりなのですが、この本はいろんな点で示唆に富み、癌と闘いながら、この2年の間に残した『市民の科学をめざして』(朝日選書)、『市民科学者として生きる』(岩波新書)もさっそく買ってきました。
『原発事故はなぜくりかえすのか』は、JCOの臨界事故以降、もはや危険であることは論ずるまでもなく、先進国では着々と縮小、撤退が進んでいる原発が、なぜ今もこの国では運転し続けられ、事故が繰り返され、それが教訓として生きていないのかの背景を探ったものです。その重大な要因として、著者が原子力産業に従事していた時代のことを例にして、原子力産業・原子力行政は「議論なし・批判なし・思想なし」の「三ない主義」がはびこり、それが今も産業、行政の体質として続いていることを挙げていました。
 高木氏も示唆しているように、この「三ない主義」は、日本の産業界全体に言えることであり、実は日本人全体に言えるのではないか、ということなのであります。出版界くらい例外でありたいものですが、全然例外じゃないっすよね。
 産業も政治も思考停止状態。マスコミも如何に思考停止に陥っているのかについては、あるテーマを取り上げて、いずれ論証しますけど(ここじゃなくて別の場で)、どんな場においても、相互批判はできるだけやった方がいい、議論はできるだけやった方がいい、そのためには、自分の名前も、批判対象の名前も明示した方がより望ましいのです。
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 ちょっと脇道に逸れますけど、冷静に事態の推移を見ている人はお気づきのように、恐らくここ数年で、エロ出版は壊滅すると思うんですよ。非常にソフトになったものが一部コンビニや書店に残り、あとはすべて専門店と通販ということになりましょう。
 ここ十年ほど、町の書店が着々と潰れていて、これは出版物の販売において、構造的な変化が起き、コンビニとキオスクに雑誌やマンガ、文庫などのおいしいところをもっていかれて、その上、巨大書店の寡占化が進み、もはやエロ雑誌が頼みの綱という状態に追い込まれていたわけです。
 実際、店内のほとんどがエロ雑誌とエロビデオと写真集みたいな書店だけが辛うじて残っている。文庫や新書も置いてありますけど、置いておくと夏休みには少しは動くということなのか、夏目漱石や太宰治だったりして、あとは返品できない岩波新書。しかし、こういう店は、店番のバアちゃんが亡くなったらそれまでです。インターネット書店も着実に売上を伸ばしていますから、町の書店が遠からず消えることは間違いない。
 こうして販路が着々と絶たれ、コンビニ規制は今後強まることがあっても弱まることはなく、他のさまざまな規制によって、エロ表現自体が潰されていくことになる。どうしたって、マーケットは半減し、それに伴って出版社も半減、ライター、カメラマンも半減。文字のエロはまだしも生き残りの余地がありますが、カメラマンは半減では済まないかもしれない。
 出版界をエロ出版が底で支えて来た部分があります。人材をさまざま輩出してきているわけですし、エロで食いながら、金にならないことをやっている人たちもたくさんいたわけです。おそらく出版界全体がいよいよ弱体化を強いられていくでしょう。
 この事態は避けられないと私は思っています。議論なし、批判なしのこの国では、エロ潰しは何やってももうとまるまい。それを見越して、大手のエロ系出版社はエロからの脱皮を図っています。生き残りのためには正しいと思いますよ。でも、これでいいんかな。こういう動きに何ら抵抗することなく、エロからの脱皮ができればいいんかな。今までエロをやってきて、それでビル建てて今があることにプライドはないのかな。
 前々から書いているように、児童ポルノ法に対して何ひとつできずに、御上に唯々諾々と従って平気で表現を潰しながら、それでいて、こういった動きに抵抗をする宮台真司を揶揄してウサ晴らししているようなサイテーのエロ出版人たちとはなんとしても一線を引きたい。その一線を引くために、ダメとわかりつつ、私自身、エロ以外でメシを食う方策を模索しつつ、今後もうしばらくは抵抗をしていこうとも思っています。
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