2010-02-01

本が出ても何も変わりはしなかった [北尾トロ 第17回]

机の前に座り、原稿用紙を広げて早4時間。1文字も書けないまま時計の針だけが規則正しく先へ進む。初の著作となる『サラブレッドファン倶楽部』は出だしから行き詰ったままだった。肩に力が入っているせいか、最初の1行でつまずいてしまい、数行書いてはボツ。ゴミ箱は書き損じの原稿用紙で山盛りだ。そのうち飽きてレコードを聴き始め、夜に賭けようと昼寝を貪り、夜になると明日に賭けようと読書に逃避。煙草を吸いすぎて、一日中気持ちが悪い。

単行本といっても初心者向けの競馬ガイドブックで、中身は実用的なコラム集。2ページから4ページほどの原稿が数十本入る形式だ。馬券の買い方やオッズの説明、歴代名馬の解説など、テーマ設定もありきたりのものだから競馬必勝法を考案する必要もなく、1テーマにつき2千文字程度の読み切り原稿をコツコツ書いていけばいいのだ。が、頭のなかではわかっていても、これが実行できない。部屋にこもって4日目になるのだが、1日に1本書くのがせいぜいで、しかもことごとくつまらないときているから実質は0本である。

どうして計算通りに行かないのか。普段のペースなら1日3本は堅いのに。理由を考えると「本の執筆だから」としか答えが出ない。そうなのか。本なんて興味がないと思っていたけど、その実、めいっぱい緊張しちゃってるわけか?

違うと言えば嘘になる。やはりこう、著者という響きにはたまらないものがあるのだ。

迷惑ばかりかけてる親も、馬鹿息子だと思ったら本を書く人になったと勘違いしてくれるだろう。仕事だってそうだ。競馬ライターになりたいとは思わないが、どこの誰が読むかわからないではないか。こんなところに逸材ありってことで、仕事がバンバン舞い込んだりしてなあ。いやいや、それほど甘くはない。うん、それは高望みだ。でも、思いがけない世界が開ける可能性もないわけじゃない。そうなれば、まったく興味のないパソコンの記事を書いて家賃を払う生活からオサラバできるかも……。

そう、これはライター生活初のチャンスらしいチャンスなのだ。そのためにはおちゃらけた実用書といえど、読んでおもしろいものに仕上げなければ。出だしから読者の気持ちをつかみ、笑いを取り、競馬ウンチクもさりげなく身につけられるような書籍を作らなければ。むむむむむ。

なんだよ、欲望のカタマリじゃん。こんなモヤモヤしたものを抱えて、いつも通りの調子でなんて書けるはずがないのだ。

最初の1週間は何も書けないまま過ぎた。書けないからパイン事務所に行く気にもなれず、それじゃ困るパインから、ちょくちょく電話がかかってくる。そのたび、何もできてないとも言えず、ボチボチ進行中と言葉を濁していたが、そのたびに憂鬱な気持ちになってますます書けなくなってしまう。何としてもそれは避けたいと考えたぼくは、パインに頼んで締め切りを少し延ばしてもらい、女のところに逃げることにした。『競馬四季報』をはじめ資料が山のようにあるが、背に腹は代えられない。めったなことでは乗らないタクシーを奮発した。

朝、出社する彼女を見送ってから原稿用紙に向かい、夜9時か10時頃、彼女が戻ったところで打ち止めにする。原稿渡しの日まで17日間。後がないのだ。

3日に一度着替えを取りに戻るだけで、ひたすら引きこもって書く。転がり込んだ当初は「同棲してるみたいだ」と喜んでいた彼女も、本のことで頭が一杯で、話していてもうわの空のぼくにアキレ気味だったから、日曜日だけは仕事を休み、一緒に外に出かける。

文体も固まってないのに気の利いた文章を書こうとするとボロが出るので、語尾を「ですます調」にすると決めてから調子が出てきて、内容はともかく量だけは書けるようになってきた。能力がない分、締め切りだけは守ろうとする意識が強いせいか、残り時間が少なくなるにつれ余計な考えにとらわれずに済むようになるみたいだ。

締め切り日の昼、ようやく最終ページまでたどりつき、原稿用紙の束をバッグに入れてパイン事務所に行った。

「全然家にいないから、どっかトンズラして戻ってこないかと思ったよ。それ原稿? ちょっと見せて下さい。ふ〜ん、オレ競馬はさっぱりわかんないけど結構おもしろそうじゃない」

2、3枚に軽く眼を通したパインが言った。できればもっと読み込んでから感想を言って欲しかったが、進行が遅れているからパインもあせっているのだろう。データ関係だけは間違えないようにと念を押されて、編集者チェックはあっけなく終わった。

「じゃあこっちは伊藤ちゃんのメモに沿ってイラストを発注しておくから、写真を集めてくれ。それと、あとがきもよろしく。ご苦労さん」

事務所を出て、ひとりで喫茶店に入り、ハイライトをくわえる。久しぶりにうまいタバコだ。とにかく最後まで書いた。ぼくの胸には安堵感だけがあった。

突貫工事で本の仕上げ作業が進む。写真を調達してからは、原稿の直しをできる範囲で行なったが、甘い採点をしても「まあまあ」以上の出来ではない。競馬や馬券本に詳しくないパインは、売れる本になりそうだと楽観的なことを言ったが、実用性も娯楽性も中途半端な本になりそうだ。装幀についても、こうしてくれという主張ができず、ずいぶん子どもっぽいものになってしまった。

奥付の発行日は11月1日だが、10月末には書店に並ぶと聞き、紀伊国屋書店新宿本店まで様子を見に行った。新刊書コーナーにはなかったが、競馬コーナーを見ると、おぉ、我が著書が平積みされているではないか。小さくだが、表紙には伊藤秀樹とぼくの名が記されている。

うれしさがこみ上げてくる。なんだかんだ不満はあっても、自分の本が完成したのだ。ライター生活1年、27歳で本を出せたのは、我が人生の歩みを振り返ってみても奇跡的なんじゃないだろうか。パインからは5冊貰ったが、売り上げに弾みをつけるためにも1冊買っておくか。並べてすぐに売れたとなると、書店の印象も違ってくるかもしれない。でもプロフォール欄に顔写真載せちゃったからなあ。著者自身だってバレて笑われたらどうしよう。そのときは照れることなく胸を張ってだな、手持ちがなくなっちゃってね、とでも言おうか……。無駄な思考を重ねてレジに向かい、定価780円なりを支払う。店員はぼくの顔さえ見ず「カバーはどうしますか」とだけ言った。

『サラブレッドファン倶楽部』が発売されても、ぼくの生活には変化など起きなかった。本は売れず、書評にも取り上げられず、つぎの本に取りかかったパインはすぐにそれを話題にしなくなり、競馬雑誌からさえ原稿依頼はなかった。内容は良かったが運に恵まれず売れなかったのではない。駆け出しライターが専門家のフリをして出した本に対し、世間は正しい反応を示したのだ。良かったねと言ってくれたのは親と彼女だけで、増田君や伏木君からも芳しい感想は届かなかった。この分じゃ、半年も立たずに絶版にされるだろう。悔しいが完敗である。チャンスは去ってしまったのだ。

しかし、ライターとしても素人同然、本を書いてもダメな自分に、上がり目なんてあるんだろうか。仕事を始めて1年経ったが、うだつが上がらないのは文章書きのセンスがないからで、こんな調子ではいくらやってもモノにはならないのでは。パインのように専門分野があるならいいが、いまだライターとしての方向性を決められずにいるのも、考えてみれば情けない。業界の人たちも、いつまでも駆け出しだからと大目に見てくれないに決まっている。

すっかり落ち込んでいたところへ、学研の福岡さんから電話があった。すぐにでも会いたいという。例のアフリカ雑誌の話だろう。いいよ、もうどこへでも行ってやる。半年くらい、大陸を流れ歩きたい気分だ。

だが、そんな話ではなかったのだ。喫茶店で会うなり、福岡さんは照れたように頭を掻いた。

「あの話、ダメになっちゃってね」

ガックリ。そんなことなら電話で言ってくれればいいのにと内心舌打ちして黙っているぼくに、福岡さんが言葉を続けた。

「それで、スキー雑誌を創刊することにしたんだけど、手伝って下さい」

この連載が単行本になりました

さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。

昭和が終わる頃、僕たちはライターになった


著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。


著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

このエントリへの反応

  1. [...] 久しぶりに伊藤ちゃんから電話がかかってきた。その頃の伊藤ちゃんは単行本を執筆しているとかで、ほとんど顔を合わせていなかった。 [...]

  2. [...] ……見栄っ張りなオレのバカバカバカ。こうして苦労して得た『サラブレッドファン倶楽部』の50万円は、5万円が源泉され、20万円がパインに、20万円が親への借金返済に飛んでいった [...]

  3. [...] 。学生時代から中央沿線にばかり住んでいるので、これまで縁のなかった小田急沿線はどうだろう。急行が止まる経堂あたりなら、つき合っている彼女のところへも学研へも行きやすい。 [...]