2009-09-21

借金して吉祥寺に引っ越した [北尾トロ 第8回]

いたいだけいていいよと言ってくれたからといって、2カ月半は好意に甘え過ぎである。出て行ってくれとパインに言われるのも仕方なかった。新しい住処を見つけなければ。

さりとて引っ越し資金などあるはずもなく、借りるアテは親しかなかった。半端に借りたってすぐに困窮するのは目に見えているので、100万円の借金を申し込む。状況がわからない親は息子が居候生活していることを気に病んでいて、なんとかOKが出た。この借金には後々まで苦しめられることになるのだが……。

部屋を借りるにあたり、どうしても欲しかったのがシャワーとクーラーだ。独り暮らしを始めてから、風呂付の部屋に住んだことがなかったのである。クーラーも同じだ。

吉祥寺で物件を探すと、家賃5万円のワンルームが見つかった。収入がほとんどないことを考えると家賃を払っていける自信はなかったが、こぎれいなワンルームの誘惑には勝てない。前家賃まで入れても当座の支払いは6カ月分の30万円。手元に70万円あればしばらくはなんとかなるだろう。

引っ越しは赤帽1台で済む量でひとりでも良かったが、パイプベッドやテーブルを買わねばならないと言ったら、増田君と伏木君が手伝いにきてくれた。買い物はすぐに終わり、引っ越しそばをほおばってから喫茶店に入る。平日の昼過ぎだというのに本日の予定はもう終了。急ぐ用事もない。要するに3人ともヒマ人なのだ。

「ユニットバスとはオシャレですなあ。建物の名称が『コーポ イン マイ ライフ』なのはカッコ悪いように思いますが」

伏木君は横浜の古いアパートに住んでいて、当然風呂もシャワーもない。

「広くていいよね。ぼくなんて3畳1間だよ。手も伸ばせば何でも届いて便利なんだけど、身動きとれないもんな。そこは工夫して住んでるけど、アレだな、地震があったら確実に死ぬね」

増田君のアパートは家賃2万円くらいだそうだ。ぼくもシャワーなんて贅沢を言わずに分相応の物件を探したほうが良かったか。

「何をおっしゃいますやら。伊藤ちゃんはもうバリバリのフリーライターなんだから、どんどん稼げるでしょ。現にイシノマキからも仕事がきてるんだから」

「いいですなあ、うらやましいですなあ、はい」

どうもふたりは、ぼくがフリーライターとして順調なスタートを切ったと勘違いしているらしい。それは誤解だ。居候中の2カ月半は無収入だったし、イシノマキではトラブったし、やった仕事と言えばパインのアシスタントと増田君に依頼された『スウィンガー』のコラムだけ。いいことなんてありゃしないのである。

「えぇー、そうだったの? ぼくはキミがいきなり売れっ子になってるとばかり思っていたから頼んだのに」

増田君が驚いたように言うと、伏木君もすぐに調子を合わせる。

「イシノマキで敏腕編集者としてならした伊藤さんでさえそんな状況とはキビシいですなあ」

イシノマキでは単なるバイトだって。それに、ぼくの後は伏木君が引き継いで無難にやってると、いつか社長が言っていたよ。

「それが私、つい先日イシノマキを辞めまして」

「はやっ」

「働いたのは3カ月ほどですか。伊藤さんの記録はあっさり抜かせていただきました。それでまあ、真似するわけじゃないですが私も名刺を作りまして」

伏木君が差し出した名刺には、フリーライターの肩書きがあった。と、すかさず増田君も名刺入れを出す。

「なんじゃこりゃ」

そこには“なんでもやります オフィスたけちゃん”と印刷されている。

「ぼくもフリーになったんで、この際便利屋でもやろうかと思って作ってみたんだよ。ね、いいでしょ、オフィスたけちゃん。親しみやすくて」

「で、何か依頼されたの?」

「いや〜それがさ、名刺渡すと受けるんだけど、不思議なことに誰からも仕事は頼まれないね」

「増田さん、このオフィスというのはどこかに事務所があるということなんでしょうか」

「まさかでしょう伏木君。オフィスたけちゃんの事務所はぼくの住む3畳間に決まってるじゃん」

「はぁそうでしたか。そりゃまた地道な……がんばってください」

コーヒ−1杯で粘れるだけ粘ったが、わかったことと言えば、3人とも自称フリーライターや自称便利屋でしかなく、仕事もなければ将来の展望も開けていないということだけだった。お先真っ暗なわけである。打開策はないのだろうか。

「じっとしてても仕事なんか来ないよ。雑誌とかに営業をかけるしかないんじゃない?」

オフィスたけちゃんはさっぱりだが、広告営業の仕事もしていて3人の中ではもっとも世間と接している増田君が即座に答える。

「パインからもそう言われたよ。企画書を書いて持ち込めって」

「なるほど、それが良さそうですね。ふんふん、参考になります。それで、伊藤さんはどういう企画書を作ったんですか」

「それが、作ってないんだよ」

「ふんふん、それはなぜ?」

「何となく、かったるくて」

「……」

「プール通いで忙しかったし、馬券の検討もしなくちゃならないしさ。金がなくて買えなくても、検討はしてないと勘が鈍るから」

「……増田さんは広告営業ですから、企画書はそれこそ日常的にお書きになってるわけですよね。良かったら書き方のコツなど伝授していただけないかと」

「え、いや、ぼくは営業っつっても読者プレゼントに採用して下さいってお願いするだけだから。伏木君、人に頼ってないで自分で企画考えればいいじゃない」

「ふんふん、それはそうだ。では家に帰って今夜からさっそくやります。書き上げたら伊藤さんと増田さんに見てもらいますから」

自らを鼓舞するように叫んだ伏木君だったが、いつまで経っても読んでくれという連絡はなかった。ぼくはぼくで、熟考を重ねたはずの馬券がつぎつぎに外れ、虎の子の70万円を減らし続ける毎日。増田君のオフィスたけちゃんにも仕事は入らない。

その頃から増田君と会う機会が増えた。お互いにヒマだったし、同年代で話が合う。そのうち、ぼくは彼のことをまっさんと呼ぶようになった。会うのはだいたい吉祥寺のぼくのところ。レコードを聴いたり、井の頭公園を散歩したりと、やってることはたあいない。どちらも金がないため飯を食うことさえ慎重に検討を重ねてからという感じだ。時間だけがたっぷりあった。ぼくもまっさんも会うと饒舌になり、話だけは尽きなかった。

この連載が単行本になりました

さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。

昭和が終わる頃、僕たちはライターになった


著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。


著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった