2009-07-27

スカスカのアドレス帳 [北尾トロ 第4回]

だがそうはならなかったのである。初めてアルバイト代をもらったとき、これでやめさせてくれと社長に言ったところ、機関銃のようなトークで引き止められ、もう少し続けると答えてしまったのだ。

「どうしたの。理由があるでしょ、言ってみてよ」

「えー、その、給料11万ではちょっと……」

「わかった、上げましょう」

一瞬で逃げ道をふさがれる。

「それでいいね。キミには期待してるんだから頑張ってもらわないと。ボクはいつまでも下請けの仕事をしてる気はない。いろいろ仕掛けてるからね、いまにすごい会社になるよ。どう、社員にならない?」

「い、いえ、アルバイトでいいです」

15分程度の話し合いが終わると、ぼくの給料は1万円上がり、仕事は『スコラ』と集英社が出そうとしている新雑誌に専念し、原稿運びなどの雑務はしなくていいことになっていた。

いま思えば、ここが分かれ目だったのだ。このとき、すんなりやめていれば、ぼくは地下鉄測量の仕事に戻り、その後の人生もまったく違うものになっていただろう。結果は逆で、イシノマキを続けることになってしまったことで、ナナオ設計のアルバイトをやめることになったのだ。体力的にもう限界だった。ナナオ設計の人たちは、ぼくが本腰入れて編集者を目指すと思ったらしく、口々に「良かったなあ」と言う。

「ま、がんばれや。つらくなったら、いつでも戻ってきていいぞ」

ここは実家かよ。

浜田さんには話が大きくなって伝わっているようだった。

「作家を目指すそうじゃない。よく決心したね。うんうん、いずれ伊藤君が本を書いたら買うから」

そういうことじゃないんだけど。

測量部の部長は、さらに勘違いしていた。

「ウチでバイトしながら小説書いていたんだって? 伊藤君もやるなあ」

もう、ここへは戻れないなあ。

さて、担当雑誌が減ったことで少しはヒマになるかと思ったら、いきなり松山さんが辞めてしまった。この人がどういう仕事をしていたかは最後までわからずじまいだったが、ぼくにとっては唯一の、編集仕事を教えてもらえそうな人だったのだ。

イシノマキは社長以下、デスクと呼ばれる女性編集者の高松さん、松山さん、経理担当の厳原さん、他に会ったことはなかったがスコラに出向している社員がいるらしい。週刊誌などをやっているため人の出入りは多いが、会社としては小さな規模。松山さんが辞めて困る面もあるが、逆に言えば、皆多忙なため、ぼくがどこで何をしようと誰も気にしないということでもある。

ははは、そうか、そうだったか。タイムカードがあるわけでもないし、マイペースでやればいいのだ。だいたい、ぼくなんかにサポートもなく編集をやらせるってこと自体、いい加減さの証明。だったら、こっちも好き勝手にやってやろう。

すっかり気がラクになったぼくは、会社にいる時間をなるべく減らし、神保町の古書店や喫茶店、スコラを一緒にやっているデザイン会社などに入り浸るようになった。相変わらず仕事はさっぱりできない。スコラでも宇野さんにタメ息をつかせてばかりで、あまりにも赤入れ(校正)がメチャクチャなので「終わるまで帰ることならん」と編集部の隅で作業するよう命じられ、やっとの思いで解放されたときには終電車が行った後。寒空の下、とぼとぼ歩いて帰ったこともあった。高円寺のアパートについたときには足が棒。あまりの情けなさに笑うしかない有様だ。

年末が近づき、世間はクリスマスムードに突入しようとしていた。終電帰りがあたり前になり、銭湯にいく暇もないぼくは、狭い流しに湯をためて尻を浸し、下半身を洗い終えると上半身裸になって震えながらカラダを拭く毎日である。そういえば、イシノマキで働き出してから、数少ない友人たちとまったく連絡を取っていない。愛情なんてないけど何となくつき合っている女ともすっかり疎遠になっている。どうでもいいか。どうせその程度の関係だし、これを機会に縁が切れたらさっぱりするだろう。

翌日、さっそくアドレス帳を買い替え、こちらから連絡する気のないヤツの電話番号を書き込まずに、必要な相手だけを記入した。スカスカのアドレス帳にあるのは、イシノマキで出会った新しい知り合いたちのものが大半になった。

この連載が単行本になりました

さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。

昭和が終わる頃、僕たちはライターになった


著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。


著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった