2012-02-07

書評『アンアンのセックスできれいになれた?』


● 北原みのり『アンアンのセックスできれいになれた?』(朝日新聞出版社)

 本書は「アンアン」という隆盛を誇った女性誌の創刊から今日までをたんねんにたどることによって、女性の意識、とりわけセックスについて分析を試みた評論である。著者の北原みのりは「アンアン」が創刊された1970年に生まれ、青春期に同誌のセックス特集に大きく影響を受けたフェミニスト。

 彼女によると、初期の「アンアン」は、きわめて前衛的で、女性解放への志向も色濃く、レズビアンさえも肯定的に扱われていた。80年代に入っても、政治色こそ後退するが、女性の欲望に肯定的で、性的にもより解放されていく。この頃に、北原は「アンアン」と出会うわけだが、彼女を開眼させたのが、有名なセックス特集「セックスで、きれいになる。」(89年)。北原に言わせると、これが新しかったのは、「欲望を丸出しにしているのに、きれい。そして全然男に媚びてない。……すべてが『女目線』だった…」

 たしかにこの特集のインパクトは大きかった。「アンアン」の読者でもない男性の筆者ですら、現在でもこのコピーを鮮明に憶えているくらいで、その世代の女性たちへの影響は推して知るべしだろう。北原は、「自分のために、私のためにセックスがある」というメッセージに打たれ、それまで抑圧していた自分の性に積極的になっていったという。

 こうして女性が自分自身のセクシュアリティを自覚し、欲望に忠実になっていく時代の流れと、「アンアン」は手を携えて上り坂を駆け上っていく。が、バブルが弾け、90年代も半ばを過ぎると、様相が変わってくる。レディコミなど女性向けのエロ媒体の退潮が顕著になり、「アンアン」のセックス特集も、性解放より「愛あるセックスが何よりも一番! と喧伝しはじめる」。例えば、それは、「最高のセックスは、愛される幸福感をもたらす」といったコピーに象徴される。

 そして、興味深いのは、愛に執着する一方で、具体的なセックスのハウツーについての記事が増えていったということ。この辺りから分析者としての北原のいらだちも顕著になっていく。セックスが愛に過度に結びつけられることや、相手を喜ばすためのハウツーへのこだわりが、男に媚びていて、やっと獲得した性的主体としての自由を剥奪されるような不安を抱いたのかもしれない。セックスの自由と、女性の自立を重ね合わせて考えてきた感性には、それはたぶん保守化でしかない。

 けれど、こうした傾向は別の解釈も可能だ。婚前交渉(もはや死語!)が当たり前になればなるほど、セックスは「解放」でも「自由」でもないただの「性行為」になり、回数やパートナーが増え、性技が多様化すれば、「幸福感」がもたらされるわけではないこともわかってくる。逆に、他者との無防備な接近戦だから、不本意な事件が生じたり、妊娠や性感染症などの問題も避けられない。そうなると、ある程度、愛もとい関係性への回帰も既定路線と言える。

 さらに、性的主体の獲得よりも、他者からの承認を渇望している若者ならば、セックスを一次的な目的にするのではなく、むしろ手段にする指向も生じるかもしれない。そうした実存にとっては、愛の獲得のためにこそより積極的にセックスのスキルを磨かなければならない、という逆転が生じる。他人からの承認を得るためにセックスを活用する、というわけだ。

 しかしそれは、対抗的でないだけで、必ずしも保守や媚ではない。むしろ女性たちのきわめて主体的で機能的な戦略と読めなくもない……。

 このように議論の余地はあっても、北原の考察が大いに刺激的なことは間違いない。それは著者が自分の半生を深く浚いながら、雑誌という時代の痕跡を浮き上がらせているからだろう。読者は彼女の経験値や感覚を、自分自身のそれに響かせざるを得ない。そうした緊張感のある著者と読者との内的対話によって、この国のセクシュアリティの軌跡と、「私」の性愛の輪郭線は明瞭になっていくはずだ。