2012-02-07

書評『発達障害の子どもを理解する』


● 小西行郎『発達障害の子どもを理解する』(集英社新書)

 ここ数年やたらと「アスペルガー」とか「発達障害」という言葉を見聞きするようになった。メディアばかりでなく、日常会話のなかでも、「あの人、絶対アスペルガーなんだよ」とか「自分、子供の頃を振り返ってみると、アスペじゃないかと思うんです」といったふうに気軽に語られる。それは揶揄や差別的なニュアンスばかりでなく、他人や自身の不可解な行動の原因が解明されたかのような安心を伴っている場合もある。

 本書『発達障害の子どもを理解する』は、急増しているといわれているアスペルガー症候群や自閉症の背景にある社会の側の変化に注視しつつ、現場から障害の概要を説明してくれる良書である。良書であることの理由は、それを語っている医学や医療者の限界についても謙虚に言及しているゆえだ。

 著者の分類によると、発達障害というのは包括概念で、そのなかに自閉症やアスペルガー症候群、学習障害、注意欠陥多動性障害などが含まれる。自閉症には「言語の遅れ」「対人関係の質的な障害」「独特の物や場所、行為へのこだわり」の三つの能力障害がある。それに対してアスペルガー症候群は「知的発達の遅れを伴わず、かつ自閉症の特徴のうち言葉の発達の遅れを伴わない症状群」だという。

 他の発達障害についてはここでは省略するが、それらは症状が重複していることが少なくなく、現れ方も単純ではない上に、当事者が成長過程であることもあって変化をする。原因も、近年では育てられ方というより脳の障害によることがわかってきてはいるが、まだはっきりとはしていない。

 そのように、発達障害についてはまだ科学的にも解明されておらず、定義も不明瞭なのに、診断数ばかりが増加している。それは生物学的な原因というよりは、むしろ社会的な問題ではないか、と著者は疑問を呈す。育児観や教育方針の変化、医療の政策などによって、社会もとい大人の側が、「子どもの発達に対する許容範囲を矮小化し、子どもが自分で社会性を育む場を奪いながら、『社会性のない子どもが増えた』と大騒ぎしているように見える」。もちろん著者は医療の専門家として生物学的な要因を無視しているわけではないが、安易な病理化に警鐘を鳴らしているのだ。

 こうした問題は発達障害ばかりではないだろう。ある疾病の名付けが成立すると、多少の類似点だけでそこに強引に結びつけて考えられたり、当事者よりも周囲が先回りして「病気」に仕立て上げたりする傾向が生まれる。類型化、名称化によって、状態が認識しやすくなったり、自分の位置がとらえやすくなったりする一方で、それを過剰に実体視したり、安直にとらわれたりするようにもなるのだ。むかしだったら、少し変わってるけど面白い子、で済んだものが、「ちょっと気になる子ども」という表現で、ささいな行動を問題視し、障害に重ね合わせようとする短絡にもつながる。

 著者が強調するのは、「発達障害の子どもの見て・聞いて・感じている世界を理解する立場に立つこと、それを互いの関係の出発点にしたいということ」。サポートする側は処方を急ぐより、まずは、根気よく相手を理解することが肝要だという。そして、「子どもは『子ども集団』のなかで育つという当たり前の育児観に立ちかえるべきかもしれない」とも主張する。

 本書は、病理化によって可能になることと、そこで生じる副作用の両面を見ていく必要を冷静に示してくれる点に好感が持てる。性急に診断を下すこと、治療することを欲しているのはいったい誰なのか。それこそが一つの病理なのかもしれない。