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第22回■heart of gold

「この東京の夜には、一千万もの孤独な魂達が浮遊している。そして、誰かと繋がりたいと思い、SOSを発信するのだ。幸せな恋人達や愛ある家族達の温もりを知らず、何故、一人であるのかを自問自答し、足掻く。そんな“思い”の行き所はどこにあるのだろう?」

これは、私のテレクラ仲間が呟いた言葉である。40代の自称・新聞記者兼小説家(たぶん、嘘)。彼とは深夜に車を飛ばし、横浜に住む子持ちで、離婚経験のある女性の家に上り込み、時間差で、その女性との秘め事(!?)を共有した“関係”である。ほとんど俗物といえるような下世話な男だが、珍しく、哲学的で文学的なことを吐いたから、驚いたものだ。

彼によると、そんな孤独な魂が発する信号をキャッチすれば、確実に会うことができるという。信号をキャッチしたからかわからないが、某撮影所の技術者である30代の女性とは、最初の家庭訪問以降、度々、家へお邪魔することになった。

私が仕事を終え、電話をして、彼女が家にいれば、伺う(というか、行く!)形だ。不規則な仕事なので、9時5時というわけにはいかず、彼女自身の帰りが深夜になることもあったが、断られることもなく、上り込ませていただいた。テレクラ活動を通して多少ずうずうしくなったというか、押しは強くないのだが、そのくせちゃっかりと自分のやりたいことを通すという厚顔無恥さが加わったのだろう。関西人のように「ええやろ? ええやろ!」といって迫るわけではないが、自然と押し引き(引いたと見せかけ、押しているのだが)を身に着けたのかもしれない。

まるで、仕事帰りに立ち寄る居酒屋やスナックのような感じ。さしずめ、彼女は女将やママのような存在だ。いつも笑顔で迎え入れてくれ、仕事の疲れを癒してくれる……。

なんとなく部屋へ上がり、酒を飲みながら、他愛のない話をして、彼女の愚痴を聞いたりする。そして、気づくと二人は、ベッドの中で朝を迎える。もし私が実家住まいではなかったら、彼女の家に居ついて、同棲などをしていたのかもしれない。
もっとも、そんな関係を築くほど個人情報は把握してはいなかった。いきなり会って、セックスして、入り浸ったわけだから、普通の付き合いなら知っているような家庭や仕事、性格や嗜好などもほとんど知らない。都会の片隅で、名も知らぬ男と女が出会い、静かで、時には激しい夜を分かち合うなど、「風情」と言ってもいいような赴きあるのではないだろうか。お互いがお互いをよく知らない、変に知ろうともしないという非日常の付き合いが心地良かったりもする。なんか、ベルナルド・ベルトリッチ監督の『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の匂いも少しあったりして……なんとも官能的だ。

シルクのドレスシャツ

まるで、映画やドラマのシークエンスのようだが、ときおり、撮影した素材の急な直しがあって、彼女が撮影所に呼び出され、戻るまで、私が一人で留守番をするなんていうこともあった。かなり不自然なシチエ―ションでもある。流石に、自分の着替えや洗面道具を置くような真似はしなかったが、短期間ではあるものの、かなりの頻度で通っていた。“通い妻”“押しかけ女房”ならぬ、“通い夫”や“押しかけ夫”か。勿論、扶養など夫らしいことはしていないし、彼女自身、独立している女性である、そんなことを求めてはいない。当たり前だ。“恋のピンチヒッター”、“スーパーサブ”に過ぎない。

それでも彼女の話は聞いてあげていたような気はする。主に仕事のことだったように思う。私自身は、フリーター時代以降、とある企画関係の会社にフリーランスの立場で入り込み、仕事には恵まれていたため、仕事の愚痴などは一切、言わないし、当然、独身だから家庭の悩みなどもない。むしろ、私が客の愚痴を聞いてあげる女将やママの役回りをしていたといっていいだろう。特にアドバイスなどはないが、笑顔で聞いて、「いいんだよ」なんて、後の“夜回り先生”みたいな台詞を吐いていた。四面楚歌の世の中(というほど、大袈裟ではないが)に、誰か、自分を肯定してくれる人がいるだけで、安堵するものだし、私のようなろくでなしを受け入れる自分がいることで、自らの価値を再確認したりもしていたのかもしれない。アダルトチルドレンや共依存などという言葉が一般化するのはもう少し後のことだが、既に、そんな萌芽があったのかもしれない。バブル景気で浮かれながらも、どこかで寄り添いたいという思いが東京の片隅では吹き溜まっていたのだろう。

家へ行って、酒を飲んで、話して、セックスするだけの関係で、恋人らしいことは何もしなかったが、唯一、恋人の真似事をしたとしたら、プレゼントだ。どういう経緯からか、彼女からプレゼントを貰ったのだ。特に感謝されるようなことは当然の如く、何もしてはいないが、誕生でもないのに、楽器(サックスとピアノ)のイラストが描かれたドレスシャツをプレゼントしてくれたのだ。いわゆるワイシャツとは違い、布地もコットンやポリエステルではなく、シルクだった。うろ覚えだが、ボーリング・シャツを少しお洒落にしたような感じだろうか。私のためにわざわざ、買ってきてくれたのだ。

そのドレスシャツは、彼女があるブランドのセールで買って来たものだった。もともと、そのセールの案内をもらっていたのは私である。いまでは考えられないことだが、当時はアルマーニ(といってもジョルジョではなく、エンポリオくらい)やヒューゴボス、ヒルトンタイムなどのブランド服を持っていて、時々、晴れ着として着てもいた。流石、ベルサーチやアルマーニを全身纏うバブル紳士みたいな恰好はしていないが、そんな関係で、同ブランドを輸入している代理店などからセール葉書をよく貰っていたのだ。たまたま私が行けないので、彼女にその案内を上げたのだ。実家に着たセール葉書をそのまま差し出したわけだから、勿論、私の本名も住所も筒抜けだ。匿名の出会いだったが、ほどなくして、記名の付き合いになっていたのだろう。彼女としても身元不明者をそう何度も家に上げるわけにもいかない(笑)。

シルクのドレスシャツなど、どう考えても私には似合いそうもないが、彼女的には、似合うと思って見立ててくれたのだと思う。私がいない時にも私のことを考え、何かを私のためにしてくれるというのは嬉しいことだ。私のようなものにはもったいないくらいだ。シャツそのものは、失礼ながら、あまり趣味が良くなく、私としては気にいらなかったが、勿論、笑顔を作り、喜んでもらった。

翻って、私が彼女に何かをプレゼントしたかというと、それがあまり記憶ない。失礼な限りだが、多分、お礼に、少しいいお酒を持っていったような気がする。酒は何でもいける口の呑兵衛の彼女にはアルコールが一番のプレゼントだったのだろう。映画やテレビなどでいうといわゆる“消え物”だが、田園調布の“お嬢様”の時に、形の残るものをプレゼントしてしまい、そういうものは、私のような人種には相応しくないと身にしみて感じたのだ。

もうひとつの狩場

彼女の家に泊まり、そのまま仕事先へ行くこともあった。彼女の家から祖師ヶ谷大蔵駅へ行き、小田急線に乗るわけだが、当時、同時並行で祖師ヶ谷大蔵地域において釣果を上げるため“網”を張っていた関係で、ある女性と鉢合わせないか、内心、どきどきしたことを覚えている。

実は、その網はテレクラ系ではなく、失業後の隠遁生活(!)時代に嵌ったキャバクラ系である。“まなこ複眼 脳がない”は「昆虫群」(by  ハルメンズ)の歌詞だが、常に複眼的に漁場や狩場に目をやり、どうすれば釣果を上げ、獲物を仕留めるかに脳を悩ませてきた。その女性は、私のホームである新宿・歌舞伎町のキャバクラ嬢である。20代半ば、昼はOL、夜はキャバクラに勤めていた。まだ、肉体関係にはなっていないが、数回、デートらしきことをして、彼女の家にも行っている。家の前までで、まだ、上り込んではいないものの、もう一押しというところ。その女性が同じ駅を利用していて、OLだから当然、朝に出勤をしているので、同じ時間帯に同駅にいることも充分、考えられたのだ。幸いなことに、鉢合わせは避けられた。

折角、“雨宿り”や“居酒屋の女房”のような、いい雰囲気の女性との“逢瀬”を味わいながらも、常に次の一手を打っているところなど、私らしいというか、相変わらずの、一途とはほど遠い、ろくでなしぶりに我ながら呆れたりもする。でもそれが私だから、しょうがないといえば、しょうがない。当然の如く、一途などというものに価値などは見出してはいなかった。

多分、彼女との時間に居心地のいいものを感じながらも、どこかで、ここは自分の居場所ではないことを悟っていたのだろう。彼女とどうにかなろうとか、明日を考えることは一度もなかった。ただの通りすがりだ。それゆえ、自分の着替えや洗面道具を置くような真似をしなかったのだろうし、彼女自身、私のために、そんなものを買い揃えるようなこともしなかった。お互い、いつかは離れること、一時の慰みであることを本能的に察知していた。

“その時”は、当たり前だが、突然にやってきた。馴染の店(!?)に通い出して数か月後、いつものように、仕事終わりに電話をして立ち寄ろうとしたら、いきなり断られてしまったのだ。聞けば、彼氏が出来たという。同じ職場の仕事仲間で、前から熱心にアプローチされていたそうだ。せめて今夜くらいは最後に温まりたい、そんな思いはあった。季節は初秋を過ぎ、晩秋へと移ろうとしていた(「初秋」と「晩秋」なんて、ロバート・B・パーカーか。ハードボイルドだろ)。

最後にやらしてなんて下品な言葉は吐けないし、そんなお願いをするほど、固執する私ではないが、彼女は“テレクラ系セックス・ランキング”の上位に位置するだけに、惜しいというか、残念という思いは込み上げる(笑)。重力に負け、色がくすんだとはいえ手に余る巨乳と、括れのある腹から腰への放物線、甘えながら、しな垂れかかり、求め、挑むような眼差とともに、濃厚な情交の記憶は、未だに脳裏と身体が覚え、心の奥底に刻み込まれている……なんてね。

とりあえず、木梨サイクル周辺からは撤収だ。折角、馴染の、行きつけの店(!?)が出来たというのに寂しい限り。勿論、テレクラ男という分は心得ている。深追いする資格など、私にないことは充分に知っている。束の間の邂逅ではあったが、そんな出会いがある人生と、ない人生では大きく違うように思う。出会いと別離を繰り返し、私も悟り、大人になっていく。

その後、彼女がどうなったかまったく知らないし、調べようともしなかったが、彼女の名前がクレジットされた映画などを見ることがときどきあり、その度に、時々、思い出したりもした。もっとも、それがロマンティックな作品かというとそうでもなく、子供向けだったりするから可笑しなものだ。きっと、その映画のエンドロールを見て、妙に懐かしく、ちょっと切なくなったりするのは、私くらいだろう。
先日の『カメレオンマン』のウッディ・アレン繋がりでいうと、『カイロの紫のバラ』という感じだろうか。彼女は銀幕のスターではないが、銀幕に関わる女性であることに変わりない。

孤独の魂を巡る旅路は、まだ、続いていく。Long And Winding Road! 誠実とはほど遠い私だが、今宵、あなたの心の隙間に忍び込む――東京の夜には、まだ、そんな裂け目のような空間と時間が広がっていた。

芳賀沼制作/はりゅうウッドスタジオの仮設住宅[木造仮設住宅群]が「グッドデザイン賞2012」のグッドデザイン100に選ばれました

芳賀沼制作はりゅうウッドスタジオの仮設住宅[木造仮設住宅群]が「グッドデザイン賞2012」のグッドデザイン100に選ばれました。デザイン・オブ・ザ・イヤーとなる「グッドデザイン大賞」の候補にも選ばれています。(大賞の発表は2012年11月25日〈日〉です)

木造仮設住宅の詳細は弊社刊『木造仮設住宅群──3.11からはじまったある建築の記録』(制作・はりゅうウッドスタジオ/写真・藤塚光政/制作協力・日本大学工学部建築学科浦部研究室)に収録されています。

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いただいた本●土星 第4号「HOW TO」

イラストレーターの石山さやかさんからいただきました。

書名●土星 第4号「HOW TO」
描いた人々●
石垣裕太郎・ひぐちよしの・コジ丸・しろみさかな・高旗将雄・有延和磨・石山さやか・ひしだようこ・竹内香織・アレッサンドロ・ビオレッティ・鈴木菜々・junpei & 村映男・ながせたいり・玉川桜
ブックデザイン●小川順子
表紙イラスト●玉川桜
価格●1,000円
2012年10月発行
ISBN978-4-569-80737-9 C0030
A4判/52ページ

「土星」のページを見る

内容紹介

切腹のやり方、穴あき靴下のはき続け方、果たし状の書き方等々…
生活の知恵満載の一冊です。

いただいた本●女子の保健体育

小嶋優子さんからいただきました。

書名●女子の保健体育
著●牧野江里
発行●宝島社
定価●1,000円+税
2012年11月13日発売
ISBN978-4-8002-0380-9 C0075
四六判/189ページ/並製

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内容紹介

友達には聞けないアノ話

話題の女性向けAV(アダルトビデオ)プロデューサーが応えます!

♥女子だって性欲があって当たり前?
♥彼が見てるAVのプレイって私ともしたいの?
♥男はエロい女が好き?
♥男が、本命彼女としたいSEXとは?

『an・an』のSEX特集付録のDVDが話題!!女性向けAVメーカーを弱冠25歳にして立ち上げた、話題のプロデューサー牧野江里、初の書籍がついに発売!撮影現場で見た!聞いた!男のSEX妄想。女子への本音などなど、4コマ漫画つきのエッセイで、みんなが聞きたい裏話を、面白おかしく綴ります。「彼が見てるAVのプレイって私ともしたいの?」「男はエロい女が好き?」「男が、本命彼女としたいSEXとは?」その答え、任せて!毎日エロについてまじめに考えていますから。

目次

 まえがき はじめまして! AVプロデューサーの牧Pです!

PART1 男のエロファンタジーと女子の性欲♡
 01時限目 自分のア・ソ・コを知っていますか?
 02時限目 おまんともっと仲良くなろう!
 03時限目 AVを作ってわかった! 日本男児の性の秘密
 04時限目 男の「清純派信仰」は根深い!
 05時限目 「オナニー貧民思想」に断固反対!
 06時限目 AVは大人のディ○ニーランド
 07時限目 そもそもセックスって何ぞや?
 08時限目 日本人は恥じらいがお好き♡
 09時限目 ヤバさ爆発! 親と学校の性教育
 
PART2 女がエロくたっていいじゃない
 10時限目 “感じること”はよいことだ――自主練のススメ
 11時限目 自分の身は自分で守るべし――望まない妊娠&病気を避けよう
 12時限目 かっこいいコンドームの装着のしかた
 13時限目 進化したエロで男女のギャップを埋めよう!
 14時限目 もっとこっそり女がエロを楽しめますように!
 15時限目 「SILK LABO」誕生ストーリー

第21回■雨やどりと時代屋の女房

図らずも田園調布の“お嬢様”の誕生日会を祝うことになってしまったが、前回も書いた通り、イベント感覚でそれなりに楽しんだというのも事実。既に打算や目論見のある相手でもなかったのに我ながらご苦労なことだが、たぶん、そういうことが好きなのだろう。

実は先日、このところ一緒に遊んでいる“美人秘書”とのホテルデートの時に、ハロウィンが近いこともあって、部屋をリースやバナー、ランターンなど、ハロウィン仕様に飾りつけ、ティム・バートンの『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』や『ゴースト・バスターズ』のDVDを流し、パンプキンのスイーツなども用意。二人だけのミニハロウィンパーティを開催させていただいた。考えてみれば、私のイベント好きは昔から変わらない。この連載をさせてもらっている出版社の“美人取締役”からは、「梶木さんって、進歩がないのね」なんて言われそうだが、こんなにイベント好きなのは、お祭り好きの下町っ子の血ゆえのこととしておく(笑)。

新たな出会い

渋谷基点でも井の頭線方面に釣果が出たと、書き記した。実際は井の頭線を下北沢駅で乗り換えた、小田急線方面である。駅は、かのとんねるずの木梨憲武の実家、木梨サイクルがある祖師ヶ谷大蔵だ。1990年の初夏のことである。

田園調布戦線から撤収後、渋谷を基点に網を張っていたが、すぐに当たりが出たわけではない。なかなか釣果は上がらず、手痛い失敗も犯した。長時間話せばきっと相手は来るものと信じ切り、川越に住むという20代の会社員と川越駅で待ち合わせをし、見事にすっぽかされるという醜態も演じた(といっても誰も見ているわけではないが)。楽しいデート(!?)の予定が孤独な小江戸散策になってしまった(涙)。

また、深夜、渋谷からタクシーを飛ばして、桜台(西武池袋線の練馬である!)まで行ったところ、自転車に乗って現れたのは明らかに病んだ女性で、関わるとろくなことがなさそうだった。その時は電話ではあまり話し込まず、とにかく会おうなんて盛りが上がってしまった。ちゃんと話していればそんな失敗を犯すこともなかっただろう。“恋は焦らず”(by シュープリームス)、“急がば回れ”(by ベンチャーズ)というわけだ。

その日は週末の土曜日、9時過ぎた頃だったと思う。結婚式の2次会帰りで、いま渋谷にいるという女性から電話が入った。いわゆる“公衆コール”である。結婚式の2次会、かつ、公衆電話からの電話。美味しいことの二重奏。ある種、鉄板である。ここで取り逃すようではテレクラ男子の甲斐性もない。

少し酔っているのか、彼女は上機嫌だった。大して話してはいないが、なんとなく話が上手く弾み、すぐに会うことになった。こういう時は会話を長引かせることなく、即断即決させる。相手のやる気(!?)を削いではならない。当然の如くの“即アポ”だ。

待ち合わせは渋谷のハチ公前ではなく、モアイ像の前。同じ渋谷駅前だが、まだハチ公ほどメジャーではなく、人ごみも少なくて見つけやすいところだ。待ち合わせ場所に現れた女性は、レモンイエローのワンピースを鮮やかに着こなし、髪は軽いソバージュ。だからといって、バブルな感じはしない、少し70年代の新宿の香りもする。若干、ヒッピーぽいというのだろうか。目は大きく、鼻筋も通っている。月並みだが、可愛らしい顔である。

その可愛らしさだが、当時のアイドル歌手みたいなものではなく、一昔前の個性派女優の雰囲気。“フラッパー”という言葉が相応しい。フラッパー(FLAPPER)を辞書で引くと“[名・形動]おてんば娘。また、はすっぱに振る舞うさま。 「蝶ちゃんには、なかなか―なところがあるんだね」〈岡本かの子・生々流転〉。フラッパー‐ヘアー【flapper hair】ボブスタイルの全形にパーマをかけた女性の髪形。”とある。かの岡本太郎の母親である岡本かの子には似ていないが、フラッパーな雰囲気である。そのほんわかとしたしゃべり方やふんわりとした佇まいもそう感じさせた。

二次会で散々飲んだのに飲み足りないらしく、渋谷のセンター街の奥にある居酒屋へ行くことになる。当時、既に「すずめのおやど」や「つぼ八」など、いまでいう“せんべろ”な若者向けの居酒屋も多かったが、あえて、どう見てもいける口の彼女を納得させるようなうまいつまみと、銘柄の日本酒のあるところへ案内する。私自身、酒は用事(女性を落すため)がなければ飲むことはないが、大人の嗜み、もしくはホテルへの前線基地として、ある程度の店は押さえている。ホイチョイ・プロダクションズの『東京いい店やれる店』なんていうガイド本が出たのはそれから数年後、1994年のことだ(18年後の2012年には、同書の最新版が発売されている!)。

付きだしに何が出たか、当然、覚えてはいないが、日本酒を美味そうに、くいっとやる様はいまでも印象に残っている。情けないことに私は酒に強くなく、日本酒はまったく受け付けず、ぴちゃぴちゃと舐めるくらい(猫か!)。 格好悪いことこの上もない。酒が入ると、彼女の舌は滑らかになる。聞けば、映画やテレビ関係の仕事をしているらしく、某撮影所の技術者だそうだ。年齢は30代の半ばで、それなりに責任のある仕事をしているという。詳しいことはわからないが、後に、ある映画のエンディング・クレジットでその女性の名前を見つけたから、本当のことだ。いわゆる撮影秘話みたいな話も聞かせてくれる。私も興味ある俳優や女優のことを聞きまくる。具体的に、誰について聞いたか忘れたが、素人ならでは知りたい芸能人の素顔みたいなことを質問したように思う。なんともミーハーだ。彼女もサービス精神旺盛で、いろいろと教えてくれる。もう少し映画論やドラマ論などを話してもいいところだが、ここは新宿ゴールデン街ではない。そんな話は野暮というものだし、そもそも熱く語り合うというのは目的と違う。

午前3時の祖師ケ谷大蔵

なんとなく話が盛り上がり、時間があっという間に過ぎ、終電はとっくに出てしまった。それでも話は尽きず、また、おしゃべりしてしまう。いい加減、いい時間になってくる。飲み疲れ、話し疲れである。午前3時を回った辺りで、始発を待つことはやめ、タクシーで彼女を送ることにする。住んでいるところは、かの祖師ヶ谷大蔵。木梨サイクル前である(そんなわけはない!)。渋谷からタクシーで5000円ほど。ホテル代よりは安いという計算も働いた。勿論、一人暮らしであることは、調べがついていた。バブル期の週末は、タクシーを捕まえるのにも苦労をしたものだが、その時は幸いなことに、すんなり見つかる。

彼女は遠慮することも拒否することもなく、少し千鳥足ながら、タクシーに乗り込む。246号線が多少、混雑はしていたが、世田谷通りに入ると道も空きだし、スムーズに進む。ほどなくして、祖師ヶ谷大蔵へ到着する。詳しい場所は忘れたが、環八に近かったと思う。

彼女をタクシーから降ろすと、私も当然(!?)のように降りて、彼女の家まで一緒に歩いていく。タクシーを彼女の指示通り、家の側に付けたから、すぐである。何棟かある木造のアパートが彼女の家だった。流石、「○○荘」みたいな、名前からしての学生アパートという安っぽさはないが、ある意味、キャリアウーマン(というか、手に職のある女性)にしては、質素である。「メゾン○○」みたいな名前だったように思う。80年代のラブ・コメディー漫画の傑作『めぞん一刻』の読み過ぎかもしれないが、間違いなく、そんな感じの名前だった。

当然の如く、家庭訪問させていただく。玄関でさようならという雰囲気ではなく、“家でもう少し飲みましょう”という感じ。彼女自身、相当飲んではいるが、意識不明で何を言っているか、何をしているかわからないという状態ではない。完全に合意の上だ(笑)。

家に上がると、すぐダイニングキッチンとリビングを兼ねた8畳ほどの部屋(LDKなどではなく、居間というのが相応しい)がある。映像関係者らしく、映画やドラマ関係のノベルティーが目につく。中には人気ドラマのスタッフジャンパーもあり、思わず、欲しくなるものばかり。勿論、ポスターや台本などもある。

8畳ほどの部屋の隣が6畳ほどの寝室。玄関の脇にはトイレとバスがある(部屋の全貌がわかるのは1時間ほどしてからだ)。居間や寝室はフローリングなどとは無縁で、畳敷きである。部屋もドアやカーテンなどではなく、襖で仕切られている。学生時代、友人だった貧乏学生の下宿に行ったことを思い出したが、流石にそんなに狭くはないし、居心地も悪くない。何となく和める、丁度いい間取りである。不動産屋か! という突っ込みを入れたい方もいるかもしれないが、変にバブルに浮足立ったようなお洒落な部屋ではなく、しっとりとした情感がある。まったくの私好みだ。

居間は前述通り畳敷きなので、そのまま座布団に座り、低めのテーブルに、彼女が冷蔵庫から持って来たビールと乾きものを置いてくれる。酒飲みの彼女のことだ。乾きものなどは標準装備なのだろう。セットのように出てきた。飲み直しである。映画やドラマなどについて、他愛のない話をしながら時間を過ごす。

テレビの横を見ると、写真立てがあり、彼女の写真が飾ってあった。頭はアフロのようなヘアーで、Tシャツにマキシスカート。ちょっとヒッピーのような感じである。聞くと10代の頃で、顔立ちそのものはアイドルのような愛くるしさがあった。同時にTシャツの胸の膨らみも気になった。ワンピース姿の時は気付かなかったが、写真を見る限り、たわわな胸である。否が応でも期待は高まるというもの。

1時間ほど飲んでいると、朝も近くなり、二人とも眠くなってくる。気づくと、二人は寝室に移り、ベッドの中にいた。特にきっかけがあったわけではないが、自然と(という表現は毎回嘘くさいが、特に無理強いしたり、懇願したわけではない。押しの弱い私のこと、そんなことはできない!)裸になり、抱き合っていた。裸になると、眠いはずが元気になり、弄りあう。その胸は、多少弾力が落ち、乳輪や乳房なども黒ずんでいたが、想像通りの“巨乳”(巨乳という言葉は1989年頃から使われ出したらしいが、かのAV女優・松坂季実子がきっかけのようだ)。思わず、気分は村西とおる。思い切り、巨乳を堪能させていただいた。テレクラ系では、女狐に続く、セックス・ランキング(!?)の上位入賞者である……などと書くと、まるで肉欲まみれな感じではある。

しかし、単なる“性事”ではない、そこには“風情”もあったのだ。見知らぬ男と女が出会い、気づいたら身体を重ね、寂しさを埋めあう。何か、半村良の『雨やどり』や村松友視の『時代屋の女房』(1983年に森崎東監督、渡瀬恒彦・夏目雅子主演で映画化もされている)のようではないか。ともに男ではなく、女が居ついてしまい、いつの間にか消えてしまうという話だが、そんな話を自分と重ねていたように思う。偶然とはいえ、暫く、私は彼女のところへ居つく(といっても通いだが)ことになるのだった。

恋のピンチヒッター

その数年後、30代で結婚経験のない、子供のいない独身女性は“負け犬”と評されたことがあった。負け犬云々は別として、いくら仕事をして仲間がいても、一人家へ帰り、そこに家族がいないと寂しさを感じるものだろう。尾崎放哉ではないが、“咳をしても一人”である。そんな時こそ、“隙間産業”に従事するテレクラ男子の出番だ。

かのセックス・ピストルズもカバーした、ザ・フーに「恋のピンチヒッター(原題は“Substitute”。同語は代理人、代用品という意味)」という名曲があるが、私達は、心の隙間を埋めるピンチヒッター、スーパーサブのような存在だろう。“都合のいい男”になればいい。

私自身は実家暮らしで、一人暮らしの経験もない。実家が稼業を営んでいたから番頭さんやお手伝いさんも多く、大家族で孤独や寂しさを感じている暇もなかった。騒がしいくらいで、一人になりたいと思ったものだ。むしろ、 “ものの哀れ”や“無常感”として、一人暮らしの寂しさへの憧れを持ち、そんなシチュエ―ションを楽しむため、彼女の家へ通わせていただくことにした。

勿論、“同情”などというものではない。“同乗”(いや、“相乗り”か)ならあるかもしれない。ある意味、彼女は、私にとって居心地のいい居酒屋の女将やスナックのママのような存在になっていったのだ。

ケヴィン・ケリー著作選集 1

雑誌「Wired」創刊編集長による、現在のインターネット世界を見渡すエッセイ25本。
本書は、電子書籍として2011年11月に達人出版会から発行された「ケヴィン・ケリー著作選集1」を紙の本にしたものです。
また、本書に掲載されている翻訳は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示 – 非営利 – 継承 2.1 日本 (CC BY-NC-SA 2.1)」の下に提供されています。そのため、このライセンスに違反しない限りにおいて、読者の方は本書の翻訳を自由に複製・加工・再配布することができます。
http://creativecommons.org/licenses/by-nc-sa/2.1/jp/

『百年の憂鬱』刊行記念特別対談
「セックスよりもエロい関係性の快楽」
三浦しをん×伏見憲明

男女の恋愛はつまらない!?
自身の私生活をモデルとした小説『百年の憂鬱』を刊行した伏見憲明さんと、男と女の単純な構図には収まらない関係性の魅力を書き続ける作家の三浦しをんさんとの特別対談を公開!
スリリングで味わい深い関係性の秘密について語っていただきました。

●『きみはポラリス』での出会い

伏見 僕が三浦さんのことを知ったのは、三浦さんが朝日新聞の連載(『三四郎はそれから門を出た』(ポプラ社)として単行本化)で『ゲイという経験』を取り上げてくださったときだったのですが、その後で新潮社からお出しになった『きみはポラリス』についての原稿を書かせていただきました。三浦さんのご指名だったと聞いたんですけれども、僕を指名してくれたのはどうしてだったんでしょうか?
三浦 ゲイという経験』を拝読して、「論理的かつ、生身の人間としての感情や痛みも文章にこめられていて、すごいかただ」と思って、次に小説『魔女の息子』も拝読したんです。この作品がまた、胸に突き刺さってくるんだけどユーモアもあって、とても好きだなあと。『きみはポラリス』を出す時に、新潮社の『波』というPR誌で、どなたかに原稿を書いていただけると言われたので、いろんな恋愛を取り上げている短篇集だったこともあって、伏見さんにぜひお願いしたいと思いました。

伏見 そのご依頼をいただいたときに、遅ればせながら初めて小説を拝読したら、これが素晴らしいんですよ。読んでいて「こういう若い女性の作家が出てこられたら、僕の本は読まれないはずだよな」と嫉妬しつつ落ち込んで、「キィー! あの女!!」と思ったくらい(笑)。短篇集でしたが、長編を読み終わった後のような、重く深い感じが一編一編おなかに残るんです。
今回お目にかかるので『きみはポラリス』を読み返していたら、中村うさぎさんが書いた文庫版の解説も、本文に負けないくらい素晴らしいんですよ。思わずうさぎさんに「こんないい解説書きやがってくやしい!」というメールを送りました。ぼくって、どんだけ嫉妬深いことか(笑)。
きみはポラリス』は短篇集ですが、最初に「永遠に完成しない二通の手紙」、最後に「永遠につづく手紙の最初の一文」という短編があって、どちらも男同士の恋愛の話なんですよね。恋愛というか、片方は自分をゲイだと思う男性で、それと親友との関係について書いたもの。
三浦 そうです。一方はいわゆる「バカノンケ」ですかね(笑)。
伏見 ギョーカイの言葉をよくご存知で(笑)。あれを読ませていただいて、三浦さんは腐女子系の方なのかと思ったんですよ。
三浦 そうですね。漫画がすごく好きで、少女漫画から当然BLまで、相当な勢いでたしなんでいるので。
伏見 少女漫画はどのあたりからはじまったんですか?
三浦 白泉社とか秋田書店とか、それこそ『日出処の天子』(山岸凉子)にはじまって、24年組にさかのぼったりして、いろいろ読んだりという感じでした。
伏見 BL小説も読まれるんですか?
三浦 BL小説も読みますが、量から言うとBL漫画のほうが圧倒的に多いですね。今も少女漫画がすごく好きなんですけど、思春期になるころから「学園の王子様とさえない私が!」みたいなものは好きではなかったんです。どちらかというと、恋愛がさほど絡まない、男女間の対等な関係性が描かれているようなものとか、少女漫画の中で描かれるヒーローとその友達の関係──男友達同士の、「おれはわかってるぜ」みたいな感じがいいなと思って、そこに憧れを抱いていたんです。

BLもいろんな作品がありますが、私の中では、わりと少女漫画の延長線上にある分野だと思っていて。男女で恋愛物語を描くと、最後は結婚するとか別れるとか、何らかのかたちで成就して終わりになる傾向があって、つまらないと思ってしまうんですが、男性同士の恋愛をBLという形で描くと、対等な関係性がよりクローズアップされる傾向にある。さらに仕事や社会的立場が絡んで、ライバル心もあったりとか。あと、現在の日本では同性間の結婚が認められていないので、2人がどうなったらハッピーエンドなのかが非常に見えにくい。もちろん男女間でも、結婚したからといって、決してハッピーエンドじゃないんですけどね。

●対等ゆえの辛さがある

伏見 三浦さんは、対等ということにこだわってらっしゃるみたいですね。
三浦 はい。ただ、個人的には20代半ばくらいまでは、「理解したいし、理解してほしい」と思って対等性を追い求めている自分がいたんですけど、それ以降はどうでもよくなってきましたね(笑)。『百年の憂鬱』を拝読したときにも思ったんですけど、「これで周囲からも認められる。一件落着です」みたいなものがない中で、個人と個人で同じ立場でやっていくと、恋愛にしろ仕事にしろ、息が詰まるなと思うようになって。でも、私はそれを理想として求めたいと思う気持ちを捨て切れなくもあるんです。だから、拝読していてすごく辛かった(笑)。
伏見 百年の憂鬱』はそうした機微にフォーカスを当てているところがあるんです。もちろん三浦さんがおっしゃったように、対等は求めるべきものだと思うけれど、対等ゆえに辛いものもある。そこが男と女だったら、「違う」というある種の幻想が緩衝地帯になったりするんだけど、男同士だと同質性や対等性がむき出しになるがゆえに、余計に辛いし、痛い。そこが書きたかったところ。
三浦 本当にひりひりして、もう自分が何を求めればいいかわからない! と思いました(笑)。たとえば妻と夫とか、ある種の役割を演じられれば、簡単といえば簡単ですよね。でも、その予定調和な感じが、自分の中ではずっと引っかかっていて。子供のころから、将来の夢がお嫁さんだったことは一度もないくらい、なんかイヤなんですよね。かといって、誰しもが本当は対等な関係であるはずなのに、『百年の憂鬱』の中でもやっぱり年上と年下の関係があって。若者が若さゆえの傲慢さを見せる瞬間もあれば、年長者が「自分のほうが経験がある」と彼を諌めたりもする。当たり前のことなんですけど、やっぱり本当に同じレベルにいることって、人間同士ありえないよな、とも思います。難しいですね。
伏見 均衡する地点はあると思うんだけど、それは一瞬のことで、すぐにバランスが変わってしまう。結婚とか男女の役割分業から解放されてしまうと、自由な反面、そういう均衡点を見つけたりキープしたりすることがとてつもなく大変。じゃあ、対等じゃなければいいのかというと、そういうわけでもなく。
三浦 何も考えずに対等じゃない関係に身を委ねよう、というふうには、やっぱり思えない。
伏見 もはやそれは無理だと思うんですよね。そこに後戻りもできないし、だけど対等ということにゴールやら解決やらを求めることもできない。いま、関係の微妙な内実は、男同士だからこそ描けるのかなと。
三浦 それは本当に思いました。男女のカップルだと、関係がひっくり返る瞬間を書いても、単純な逆転になりがちですから。男女間だと、非常にスリリングな、どっちが上でも下でもなく、関係性がくるくる逆転していって本人たちも目が回るみたいな感じって、なかなか描きにくいですよね。
伏見 あと年齢の問題も、『百年の憂鬱』の場合には中年と若い人が出てくるけれど、力関係でどちらが強いのかは、見方によって違ってくる。男女の設定で書くとすると、もちろん実際には力関係はさまざまだけど、やっぱり年上の男のほうが強いという妙な前提があるところで読まれざるを得ない。だから今回の『百年の憂鬱』に関しては、ゲイの小説を書こうと思ったのではなく、「同じ、主体的な、ジェンダー間で」どう描けるかを考えたんです。
ただ、女性同士ではどうなのかというと、よくわからない…。僕自身がレズビアンじゃないからかもしれないけれど、男性同士の関係を女性同士に置き換えられるのかは……。
三浦 うまく言語化できないけれど、確かに女性同士だと、またちょっと違う感じになっちゃう気もしますね。

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●同性集団に対する萌え

伏見 たとえば三浦さんの『風が強く吹いている』は男の集団の話ですよね。僕も実は、「箱根駅伝萌え」があって(笑)、全然スポーツに関心がないわりには、正月の2日だけは、つい見てしまって、萌え感を回収するようなことを毎年やっている。じゃあこれが女子の駅伝だったらどうなのかというと、僕のホモセクシャルな欲望ゆえか、違う理由かはわからないんだけど、ちょっと違うような気がするんです。三浦さんは、そのあたりどうなんでしょう?

三浦 私自身は、女子の集団萌えというのは、いまのところまったくないんですよ。ただ、ある子はありますよね。本人がレズビアンかヘテロかに関係なく、女子バレーや女性のアイドルグループが好きな子は、まわりにもけっこういるので。
伏見 そうですよね。AKBなんかで、「女子集団萌え」というのがあるらしいとは聞いています。
三浦 ただ残念ながら、私は萌えどころがちょっとわからないんです。
伏見 じゃあ、やっぱり三浦さんは男同士の集団のほうに萌え感があると。なぜなんでしょうね。
三浦 そこになんとなく現実社会の縮図を見ているからだと思います。つまり、男性のホモソーシャルな感じって、すごくきらめいているときもあれば、本当にうっとうしくて、「こういうおっさん集団が世の中を悪くしてるんだよ!」と思うときもあるじゃないですか。女性だけではなく、「俺たちイケてる男だぜ、ブイブイ言わせるぜ」みたいな論理からは外れる男性をも排除していったり。私にとっては、そここそが最も気になるポイントなんだと思うんですよね。中学・高校とずっと女子校だったので、女子の集団はイヤというほど見てきて、あまり幻想も抱けない。いい部分もあるけど悪い部分もあるのは女子の集団も同じですが、内実を知っているのであまり萌えない(笑)。
輝きの源でもあるけど、同時に、世の中に充満している息苦しさの原因のひとつでもあると思えるのが、私にとって男子の集団なんだと思います。内実を知らないから幻想も託せるし。
伏見 実は、僕にもかなり腐女子な感じがあって、自分はゲイだとはっきりアイデンティファイする前の少年時代、それこそ24年組の『トーマの心臓』や『ポーの一族』は連載時に読んでいて、「これはいいな」と思ってたんです。その感じを、後になってから「ゲイだったゆえに共感したんだ」と解釈していたんですけど、最近ではどうも、それらは別物の欲望だったような感じがするんですね。今でも美少年系、キレイ系の人のゲイ映画を観たりすると、うっとりして「生まれ変わったらゲイになりたいな」と一瞬思ったりするんですよ。で、「あ、自分ゲイだった」みたいな(笑)。
三浦 全然別世界と認識している(笑)。
伏見 そういうふうに見ているときって、たぶん腐女子的な感覚で見ているんです。僕は高校は音大の付属高校で、そこは80人中男子が9人とかでほぼ女子校状態だったんですよ。子供の頃から女の子の集団の中にいるなんか気持ち悪い子供だったし、あまり男子の集団を知らない。
三浦 なるほど。ちょっと憧れ目線があるのかもしれないですね。
伏見 そうなんですよ。内部に入って男子の集団に関わった経験がないんです。大学ではサークルにもゼミにも入らなかったし、集団を恐れているところがあって。「いいところも悪いところもそこにある」と三浦さんはおっしゃったけど、やっぱりちょっと男のホモソーシャルのイヤな感じのものには関わりたくないという恐怖症がある。だから余計に幻想が保存されているのかもしれませんね。
三浦 そうですね。実は私もそうかもしれなくて、たとえばキラキラした美男美女が出てくる作品を見ると、「あぁ、次に生まれ変わったら美しい女になるわ」と思うんですよ。自分にとっては、男女の恋愛って他人事なんですよね(笑)。
伏見 一緒ですね(笑)。萌え欲と同性愛的な欲望が違うということが中年になってからわかったんですが、そうすると確かにスポーツチームとかに対する集団萌えみたいなものが自分にはあることに気付いた。この前も、午前中ずっとサッカーの内田篤人くんと吉田麻也くんについてのYouTubeを見ながら過ごして(笑)。でも、この2人がバコバコにセックスをやっているのを想像するのかというと、ちょっと違うんですよね。
三浦 それもなんとなくわかります。腐女子もたぶん、仲の良い男子2人をのぞき見して、なにか「もやっ」といいな、という感じがあるんですよ。具体的ななにかを必ずしも想像するわけではなく。
伏見 三浦さんの作品って、関係性がすごく重要ですよね。いろんな関係を描かれていると思いますけど、それぞれに萌えだったり、ちょっとエロスがある感じ。たぶん三浦さんは単なる腐女子というよりは関係マニア、関係のエロスの人かと思ったんです。
三浦 そうかもしれないですね。男女の恋愛は取ってつけたようなものしか書けない(笑)。男女の関係性には自分の中であまり希望や期待がないんだと思います。だから男女の恋愛を書くと、ものすごく軽くて心のひだの奥のほうまでは踏みこまないような話か、すごく暗くてイヤな感じのドロドロを露悪的に披露してしまう話か、どっちかにしかならなくて。自分で書いていて楽しいのは、恋愛に限らなくても、男性同士や女性同士の単性の世界なんですよね。

●過剰であることの愛しさ

伏見 腐女子も多様なのでひとくくりでは語れないと言われますけど、腐女子の中には永遠性を求めるというか、ハッピーエンドな永遠に対する欲望を持つ層が主流のようですね。
そこで最初の話題に戻るのですが、『きみはポラリス』の中の最初と最後の短編は、ある意味でハッピーエンドではないですよね。それは、三浦さん的には、いわゆる「ハッピーエンド腐女子」みたいな方向は萌えないということでしょうか?
三浦 そういう作品も好きでいっぱい読みますけど、自分で書くときにはあまり興味がないですね。私はネット上の自分の作品の感想を見ちゃう派なんですけど、そうすると、『きみはポラリス』の最初と最後の2編を「BLだ」というかたがすごく多い。BLとは何かを明確に定義することは非常に難しいので、そう思っていただいて全然構わないのですが、私が思っているBLとは違うものだと思います。
伏見 三浦さんの思っているBLは、どういう感じのものですか?
三浦 伏見さんがおっしゃったように、基本的にはハッピーエンドだし、「こうして2人は永遠に幸せに暮らしました」ということをほのめかすのが、一応、BLの王道だと思います。もちろんそういう作品だけではないのですが、ハッピーエンドのものが多い気はしますね。
伏見 僕の『百年の憂鬱』を読んでくれた腐女子のお友達は、「腐女子友達に勧めようかな、と思うんだけど、結末的にどうかな」ということを言うんです。
三浦 私、この結末がすごく好きです!
伏見 あ、ありがとうございます。僕ね、この結末しかないと思って書いていたんです。
三浦 そうですよね。すごい好きでしたよ。「お前、どこまでずるいんや!」というところも含めて、「でもきっとこういうもんだよな」と思えたんですよね。
伏見 これはちょっと実体験とも重なるリアルな話で、そこを結末にすることがテーマというか、結末があってから前の部分が作られていくというような小説ではあるんですよね。
三浦 うつくしい部分や醜い部分、ずるさやたくましさ。いやあ、このラストには本当に、「人間」ってもののほぼすべてが凝集していると思いました。
女同士や男女で、こういう作品が書けないものかと考えたんですが、女同士でも男女でも、年がいっていてデブの女って好かれるだろうか……。
伏見 ヘテロセクシャルの異性愛の中だと、極めてレアな話。
三浦 ですよねえ。もちろん100kg超えた女性しか愛せないとか、2、30歳年上の女性が好きという人も中にはいると思うんですけど、だからって、『百年の憂鬱』に出てくるユアンくんみたいな美青年がそういう女に、つまり自分に来てくれるか、ということを考えると、「キィー! くやしい!」みたいな思いがすごいあって(笑)。その価値観の多様性ってすごいなということと、もう1つ、主人公の義明には長年のパートナーがいますよね。でも、そういう人がいる一方で、若い男の人と関係する、恋をするというのは、私の中では「なぬ!? パートナーもいるのに、そのうえさらに美青年と恋だと!?」と嫉妬がある。私はけっこう、一対一の関係、対幻想みたいなものに囚われているんだな、と気付かされましたね。たとえば、妻子持ちの男をちょっといいなと思っても、私は絶対その人に惚れることを規制してしまうほうです。『百年の憂鬱』はそのへんもすごく新鮮で、本当に辛かった。切なすぎると思いました。
伏見 切ないというのは、ユアンくんに一体化する感じ?
三浦 いえ、語り手の義明さんです。
伏見 それは意外です。三浦さんは20代ではないですよね。
三浦 いま36です。
伏見 義明ほど中年でもなく、でも義明視点で読まれた?
三浦 はい、断然義明視点ですよ。ユアンがちょっと髪薄いところとか、「へっ」と思いましたもん。
伏見 それはざまあみろ感ですか?(笑)
三浦 はい。あと松川さんのお話も、自分自身を認められないままずっと生きてきて、それが他者への攻撃になっちゃうということは、ある時代のゲイに限らず、自分自身にもあるなと思いました。コンプレックスというか。だから読んでて辛いけど、松川さんみたいな老後は、悪くないなと思ったんです(笑)。ユアン以外にはほぼすべて感情移入できた感じです。ユアンは本当、「キィー!」という感じ。
伏見 あはは……! そのユアンに対する「キィー!」というのは何なんでしょう。
三浦 わかんないですね。美への嫉妬……? ユアンが美しいだけのアホ男じゃないのもまた、死角無しな感じで、くやしいんですよ。
伏見 三浦さんのお書きになる小説のキャラクターで、たとえば『まほろ駅前多田便利軒』の行天(ぎょうてん)とか、『舟を編む』の馬締(まじめ)さんって、ある種ものすごく欠落のある人ですよね。ちょっと暴力的だったり、オタクっぽかったり。そういう欠落があることが三浦さん的には重要なのでしょうか?
三浦 重要です。あ、そうだ、ユアンは「いい子やのう……」と思うし、義明さんを責めるのもよくわかるんですけど、私はやっぱり過剰に欠落していたり、過剰に過剰だったりする人やものが好きだし、すごく興味がある。ユアンの中にもコンプレックスや、二つの国の間で生きてきた故の居場所のない感じがあるんですけど、「過剰な欠落」や「過剰な過剰」まではいっていないと思うんです。彼はたぶんこの先、過剰に欠落、もしくは過剰に過剰になっていくんだろうな、とは想像しますが。
百年の憂鬱』の中では、やはり松川さんや義明の人生や考え方、感じ方に共感するというか、自分の影を彼らの中に見るようで、応援したいような、「ひー、もうやめて」と言いたいような、そんな感じでしたね。

●肯定感を与えてくれる小説

伏見 辛いという意味で言ったら、『きみはポラリス』も相当辛い短編が多いですよね。切ないと言ってもいいんだけど。たとえば、ユアンと義明の年齢差がすごくあるというのが『百年の憂鬱』の1つの軸になっているけれど、『きみはポラリス』の中の「冬の一等星」に出てくる文蔵は、8歳の私から見たらおじさんだけど、20歳くらいの違いだから、おじさんではないですよね。これも面白い関係性だと思っていて、同じ時代、同じ瞬間にその場にいるけど、違う時代を生きているというか、違う時間を生きている人が一瞬交わるんだけど、でも絶対に同じ時代、同じ軸は生きられないということの、切ない感じ。
三浦 義明とユアンの場合、当然暮らしていた国も違うし、子供のころ見たものや聞いた音楽も違うと思うんですよね。広い意味での共通言語がないというのは、スリリングで楽しくもあるけど、切なさも生じるなあと。「冬の一等星」では、大人というものは自分の子供に限らず、絶対的に年若い人を守ってあげなきゃいけないんだということを書きたいと思っていた気がします。そうしない人が世の中にはけっこういて、腹立たしい思いがするんです。小さい子供を傷つけるのではなく、安らがせ導いてくれるような、親ではない存在がもしいたら、たぶん自分の人生は変わったんじゃないかなと思うところがあるので、そういうのを書きたかったんです。それで言うと、やはり義明とユアンは、義明が常にユアンを導いてますよね。
伏見 そうですね。最後くらいまでは導いているかもしれない。
三浦 最後でひっくり返しているところが面白いんですけどね。でも、たぶんユアンの中では、義明とのことは後になって思い出して、「いい恋愛だったな」と感じられるだろうなと思うんです。そのへんもすごく切なかったところかもしれませんね。こういう恋愛ができたら、すべての人がもっと恋愛や性愛に打って出られるというか、恐れなくて済むようになるのにな、と思いました。だからユアンはきっと、なんだかんだ言っていい思い出も得て、アメリカでも素敵な恋人なんか見つけちゃうに違いないって想像する。そういうのがユアンが妬ましい理由かもしれません。義明みたいないい人と付き合っておいて……と思うから、嫉妬なのかも(笑)。
伏見 僕はもちろん義明目線で書いているんだけど、若いということの可能性の余白に対しての、圧倒的な嫉妬というのがあって。それは若い人にはわからないのだろうけど、何者でもないとか、まだ何が起こるかわからない蒼い人生の圧倒的な強さに対しては一言いいたいです、というのはありました(笑)。
「冬の一等星」の誘拐された子供と、誘拐したわけではなかったんだろうけど、結果的に誘拐したみたいになってしまった、ちょっと暗い陰のある青年の関係は、恋愛ではもちろん全然ないし、たかが一晩の出来事ではあるんだけど、大人が子供を守ってあげるという関係性を体験できたことは、主人公の「私」という女の子の人生において、核になるような経験だと思うんですよ。そういう肯定的なメッセージを、三浦さんのどの作品からもすごく感じる。そこはとても素晴らしいし、僕には真似できないところです。僕のは首の皮一枚で肯定するような作品ばかりだから(笑)。
三浦 たぶん、私がすごく肯定されたかったからなんでしょうね。幻想なんですけど、自分はもっと違う人間になれたんじゃないかという思いが、すごくあるんです。その「こうありたかった自分」を書いているから、どストレートに肯定感を出しちゃうんだと思うんですよね。
伏見 個人的なことを聞くようでアレですけど、対等性にものすごく憧れがあったという話もありましたが、三浦さんは辛い思春期だったんですか?
三浦 そんなこともなかったと思うんですけどね、今にして思えば。
伏見 傍から見ると、普通は普通。でも心の奥に……?
三浦 うーん。「あそこでなにかを踏みはずしたな」と思い当たる節はいくつかあるんですが、それも結局は、なんとなく持って生まれたものとしか言えないのかもしれませんね。たとえば愛情に飢えていたということはないと思うんですけど、なにか「もう一声!」みたいなところが常に自分の中であるんですよね。たぶん欲張りなんでしょう。
伏見 三浦さんの作品が今日本中で読まれている理由の1つは、肯定的な力を与えてくれるところが強いからなんじゃないかなって感じます。今回、何作か読ませていただいて、そんな気がしました。
三浦 ありがとうございます。でも私、「ほっこりしました」みたいな感想を見ると、「ありがたい」と思う一方で、つい「ほっこりさせるためには書いてねぇ! 俺の中ではもっと切実なんだ!」とも思っちゃうんですけどね(笑)。自分がこうありたかったとか、自分が他者に対してこうできればいいのにな、ということをいつも思っています。できないから、そう思うということですけど。

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●暗がりのマザー・テレサ

伏見 三浦さんの作品の中のもう一つの指向として、行天くんとか馬締くんとか、ある種の大きな欠落と裏腹になっている「無垢なもの」に対する憧憬があるような気がしたのですが。
三浦 それは考えたことがなかったですね。ただ、行天も馬締も童貞なんですよね。馬締は奥さんができますけど、途中まではかなり長くこじらせ系で。
伏見 そうですね、行天は設定的には性が無い、ちょっとAセクシャルな感じなのかな。
三浦 たぶんそうなんだと思いますね。性愛や恋愛を求めない人を描いた小説って、あまりないですけど、「何でだ?」と思っていて。私は「どうやったら恋愛や性愛から解脱できるんだろう」ということを常に考えていて。もちろん、性愛も込みでものすごく激しく愛し合う、お互い求め合う関係もすごく好きだし、憧れるんですけど、半面、どうしたらその軛から逃れられるのかと考えるんですよ。
伏見 「ゲイ」というのは性的な違いにおけるアイデンティティなので、そこにアイデンティファイすると、性的存在の部分が際立つわけですよね。だからゲイの中では過剰な性行動や性的欲求が傾向として顕著になるのだと思います。
僕もそういう「性界」の人間なので、三浦さんが描く多様な関係性、特に性愛がそれほど濃くない、だからこそ生まれる微妙な味わいや、あわいの中に生まれる萌えを、「兆す」言葉でお書きになっているところに、逆に萌える感じがするんです。特に『まほろ駅前〜』の行天というキャラクターの、暴力的でありながら性的に薄いという人物造形が珍しくて面白い。普通、暴力的なことは性的なエネルギーとパッケージでイメージされますから。
三浦 そうですね。実際そういう人がいるのかどうかはわからないですが、彼はきっと、自分が暴力を受けたからセックスしたくないんでしょうね。でも、人は殴る、みたいな男で。
伏見 性的なことを追求していけば追求していくほど、ある意味で性的でなくなるという逆説もあるんですよね。変な例なんだけど、ゲイのネットワークの中にハッテン場というところがあるんですよ。暗がりの室内施設とかで、乱交みたいなことをする場所なんですけど。
三浦 ジャンルごとに場所があるんですか?
伏見 オールラウンドなところもあるんだけど、小さいところだとデブ専とかジャニ専とかジャンル分けしていて、ちゃんと需要と供給が経済合理性に適ったものがあるんです。そして、ぼくが以前行っていたデブ専ハッテン場に、行くと必ずいる20代くらいの細の子がいたんですけど、結構立派なちんこを持っていて……それはともかく(笑)、とにかくどんなデブとでもヤる(笑)。
三浦 男らしい!(笑)
伏見 暗いところで見ていると、その細の子はこっちでパンパン、あっちでもパンパンやって、片っ端からそこにいるデブをイカせていく……。
三浦 ふうむ、忙しいですね。
伏見 それを見ていて、最初は単なるセックス依存、ただの淫乱だと思っていたんですけど、あまりにどんなデブでもイカせていく姿を見ていると、暗がりのマザー・テレサのように思えてきて……。
三浦 性界の貴公子?(笑)
伏見 そうそう(笑)。見ているうちに、これは性じゃなくて、違うものなんじゃないかと思えてきて。
三浦 なにかを自分に課しているとしか思えないですよね。求道的なまでに、なにかを。AV男優の加藤鷹さんも、職業柄5000人の女性とセックスしたと新書に書いておられましたが、ものすごく求道的で、最後は精神的なところに行き着いていたから、そういうものなのかもしれないですね。
伏見 過剰なセックスは性ではなくなっていき、セックスじゃないからこそ性的ということもあると思うんです。だから、性界を生きてきた僕からすると、三浦さんの描く微妙な関係は、逆にすごくエロい感じがするんです。
三浦 それはたぶん、私が「性界」になかなか打って出られないからです。お呼びもかからないし、自分から打って出るだけの度胸もないので、溜まりに溜まった欲望がああいう形で出ちゃうんだと思います。
伏見 たとえば、ゲイとノンケの親友の物語を描いているときは、溜まりに溜まった欲望はどっちの側の視点になるんですか? ゲイ側の視点?
三浦 どちらかというとそうですね。
伏見 それは、報われない感みたいなものを共有している?
三浦 そうかもしれないですね。思いをうまく伝えられなかったり、すごく大事だと思っている人に本当の自分をさらけ出せなかったり、そういうところに共感して書いているんだと思います。基本的には神の視点のような客観的なところから書いていることが多いんですけど、どちらに感情移入するかといわれたら、あの話ではゲイの側ですね。

●関係性の恥ずかしさ

伏見 ユアンも無垢といえば無垢で、僕の中でも無垢萌えがあるのかも(笑)。ユアンもやっぱりある種の欠落があるんですよね。ハゲだったというだけではなくて(笑)、自分を制御できなかったり、欲望を抑制できなかったなかったり……。
三浦 たしかに、そうですね。だんだんぞんざいな喋り方になったりとか。でもそれは、ユアンにとってはほぼ初めて深く付き合った人だから、それによって、何も考えずにいた時代が終わって、自分の中のぞんざいさや暴力性に出合ったとも言えますよね。だから「義明、ユアンのそんな物語は始めさせてあげなくてよかったんだよ……!」という気もするんですよ。
伏見 なるほど。それはちょっと文蔵にも似ているかもしれませんね。しなくてもいいんだけど、「守ってあげる」みたいなことで始まる物語。
三浦さんの『まほろ駅前多田便利軒』の中に、「一人でいる重さに耐えかね、耐えかねる自分を恥じているのだ」という文章がありますね。関係というのは、美しいものだしもちろん重要でもあるんだけど、ちょっと恥ずかしいものでもあるような感じが、僕の中にもある。他者を必要としてしまう、他者がないと成り立たない自分という存在が面白いなと。
三浦 伏見さんの『魔女の息子』の中で、姪っ子にお小遣いをあげたら、臆面もなく受け取った場面があります。実はその姪っ子もいろいろ思うところがあったというのが後でわかるんだけど、あのへんの感じでしょうか。恋人や友人や家族など、連帯したり誰かとつながりあったりするのって、いいことでもあるんだけど、ときとして本当に耐え切れないくらい恥ずかしい感じがすることもありますよね。
伏見 行天と多田の関係の中で、関係することの気恥ずかしさや情けなさが、性愛に固執する僕には書けないようなかたちでうまく描かれていて、ちょっと憧れる感じがあります。性愛の単純さというか、原理がはっきりしている故の退屈さには、最近辟易とするところもあって(笑)。
三浦 中学生じみているんですけど、妊婦さんとか見るたびに「ひぃー!」ってなるときがあるんですよ。「ヤッたわけだな!」と。
伏見 ははは(笑)。
三浦 カップルらしき人たちが歩いていても、「ヤッてるわけだな!」と思ったり、人をヤッたヤラないで見ているときがあるんです(笑)。そんな自分がすごくイヤなんですが、「生きているかぎり、大半の人間はヤらずにはいられない」という予定調和に頭がおかしくなりそうというか。
伏見 僕は今水曜だけ新宿でゲイバーをやっているんですけど、ゲイだけじゃなくていろんな人が来るんです。そこで話を微に入り細を穿ち聞いていると、ゲイの話はある意味、単純なんです。ジム─恋愛─セックスとぐるぐる周っているリス状態の話が多いから(笑)。一方、かつては「バカノンケ」といって自分が馬鹿にしていたノンケ男子の機微が、最近はおもしろくて。
三浦 ノンケ男子に機微があるんですか? ひどい言い方だけど(笑)。
伏見 実はあるんですよ! 若い大学生のノンケの集団が来たときに、「男との経験とかないの?」と聞いたら「寮でちょっとそんなことになっちゃって。ゲイじゃないしバイってことでもないけど、何となくそんな感じになってヤッたことはあります」みたいな話をされたり。後輩がかわいいからとか、すごく仲いい友達と何となく性的な感じになっちゃって……という話を聞くと、「これはちょっといただきます」みたいな感じ(笑)。
三浦 でもたしかに、友情が高まれば体も重なることもあろうと、私は思うんですよ。
伏見 昔は日本も『巨人の星』を見るまでもなく、肩を組んだり、男同士でガッツリ身体接触してたんですけど、同性愛概念がある意味でメジャーになってきたときに、それが少なくなったと思うんです。
三浦 特にアジアでは、宗教的な規制があまりないからか、男の人同士で手をつないで歩いたり、カップルというわけじゃなく、仲の良いお友達同士でイチャイチャしている人たちがいますよね。
伏見 そう。身体接触が変態行為=気持ち悪い→やらない、となったのは、ここ数十年の出来事ですよ。うちのバーで最近雇ったノンケ男子のバイトの子がちょっと面白くて。ノンケなんだけど、イケメンのゲイのお客さんについて、その人が帰った後で「いやー、Sさんカッコイイっすね。先輩になってもらって、飯とかおごってもらいたいっすよ」とか言うんです。これはどういう欲求なのかと(笑)。
三浦 なに勝手なこと言ってんだって話ですよね(笑)。
伏見 そうそう。「ヤりたいって話じゃないんでしょ?」と言ったら、「別に性欲じゃないんですけど、先輩にかわいがってもらいたいんです」と。それは僕の中にない欲求なので、おもしろくて最近ずっとその子を観察しているんです。
三浦 そういう男子は結構いるのかもしれないですね。大学のときに、クラスに女顔できれいな男の子がいたんです。そうしたら、自称ノンケの男子たちは「あいつだったらヤれる」とか、「このクラスの女と付き合うよりは、俺はあいつと付き合いたい」みたいなことを言っているんですよ。私は「じゃあ付き合えよ」と思ってたんですけど(笑)。
伏見 それは、三浦さん的には萌えるような話だった?
三浦 いえ、全然。その顔のきれいな男の子の性格を、私はあまり深く知らなかったので、「顔のみが基準でいいなら、つべこべ言ってないで付き合えば?」くらいだったんですけど。もし、その顔のきれいな男の子を人間的にも好きだったら、「顔も性格もいい彼が、お前と付き合ってくれるかもという、その前提というか自信はなんなんだよ。バカじゃないのか」と思っていたと思います。そういうことを言う男子って結構いるんですよね。男は男を好きですよ。
伏見 でも、女の子のほうが異性愛と同性愛の境目がもっとゆるくないですか?
三浦 それは絶対そうだと思います。
伏見 三浦さんは女子校にいらっしゃって、古く言えば「エス」みたいな経験は?
三浦 女の子のことを好きだったこと、ありますね。残念ながら肉体は重ならなかったけど、そのとき自分に何らかの性的な経験がすでにあったら、いってたな……と思うことは、今にして思えばあります。

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●セックスよりも性的な関係

伏見 前提を聞いてなかった気がするんだけど(笑)、三浦さんって自分のセクシャリティを名付けていたりする?
三浦 名付けられないんですよね。実際的な経験でいったら、女性とセックスをしたことはないんですけど、本当に無理なのかと考えると、わからないです。こんなこと言うのもアレですけど、誰ともわからない女性とエロいことをする夢をたまに見たりもするので(笑)。
伏見 女性で、すごく異性愛アイデンティティが強固な人でも、マスターベーションファンタジーに登場するのは女性で、レズビアン小説を読んで「抜く」ような人もけっこういますよね。
三浦 男性が「俺は男だ」ということを誇示するほどには、女性は「私は女だ」と常に示さなくてもいいから、セクシャリティが曖昧なのかもしれませんね。
伏見 なるほど。逆に言えば、最近の若い世代の男子って、そんなにマッチョアピールをする必要がなくなってきているから、自分の中の曖昧な欲望とか、揺れている感じを隠蔽しなくても済む時代になっているのかもしれませんね。
さっきも言いましたけど、お店で見ていると、ゲイの方のアイデンティティがすごくはっきり象られている中、ノンケ男子のほうはだんだん曖昧になってきて、ゲイよりもゆるい感じになってきたような気がします。
三浦 しかし、そうやっていくと、人類総バイセクシャル化してきますよね。それって、ゲイやレズだということに非常にアイデンティファイしている人たちにとっては、腹立たしいことではないんですか? 「お前らはっきりしろ!」みたいな。
伏見 でも、ゲイやレズのアイデンティティも特定の社会によって象られているから、社会自体がどんどんグズグズになっていくと、そこでのアイデンティティもどんどん曖昧になっていくはずで、特定のアイデンティティだけが強く残ることはないように思うんですよね。
三浦 そうか。そりゃそうですね。
伏見 生殖や再生産みたいなことと、性愛的なことや関係性的なことは分離していって、「生殖は生殖。性愛は性愛」というな感じになっていくでしょう。
三浦 それこそ人工子宮みたいなのができたら、そこで子供はポコポコ生産されて……みたいな、SF的な世界が到来しないとも限らないですもんね。
伏見 でも、関係性という快楽、関係性のエロスはものすごく多様になって、いろんなものを楽しめるようになっていくんじゃないでしょうか。
三浦 そんな中で、性愛を含んだ関係性を楽しみたくないという人の居場所はどんどんなくなるのではないか、という危惧もあります。
伏見 性愛じゃない関係性を楽しみたい?
三浦 性愛を含んだ関係性は楽しみたくない。つまり、セックスしたくないという人の居場所はどんどんなくなっていくのでは、という恐れが。
伏見 ほうほう。でも逆なんじゃないですか? セックスをしない性愛が出てくるのでは。
三浦 だといいんですが……。「性愛を含んだ恋愛をするのがまっとうである」という感覚、考えは、かなり強固なようにも思います。今でもそういう人、けっこういますもんね。セックスレスに悩んでます、みたいな。生殖と恋愛が社会的に完全に別物になったら、さらに「にもかかわらず、異性間であっても同性間であっても、性愛を含んだ恋愛を謳歌できない私」という悩みも増えるのではと。
伏見 近代は性愛への動員というか、性愛を後押しする力が強かったんだと思うんです。
三浦 それは殖産興業ということですか?
伏見 それもあるし、あとはロマンチック・ラブ的なイデオロギーというか。だから、今後は性愛方面にいく人もいれば、そうではない人もけっこういるかも。僕の知り合いの中でも、自分が性愛関係を得ることよりも、自分がどういう性でありたいかということのほうが優位に立っている子がいるんだけど、たとえばオネエだと、ちょっときれいな方向にいくオネエはモテないんです。モテないんだけど、「いや、私は自分の美意識の方を重要視する」みたいな。
三浦 まぐわいよりも、なりたい己になるべく努力するほうが先に立つ、と。なるほど、それはすごくわかる気がしますね。
伏見 舟を編む』の中で西岡さんの馬締くんに対する視線とかも、僕からするとかなりエロい(笑)。
三浦 部署的には先輩後輩だけど、西岡は馬締にちょっとコンプレックスを抱いている。言われてみれば、あの関係にはたしかに萌えるな(笑)。
伏見 関係性それ自体に快楽、エロさがあるような気がするんですよね。3.11以降、「絆」という言葉に手垢がついてしまって、使うのに躊躇があるんですけど、絆をどう育てていくことができるのかみたいなことでいうと、僕は『きみはポラリス』の中の「私たちがしたこと」という短編が結構好きなんです。うさぎさんは解説で「秘密」というキーワードで分析していらしたけど、共犯関係というか、人に言えない罪のようなものを共有する関係って、単なるセックスよりも性的な感じがするんですよね。
三浦 悪いことを一緒にする快楽は、やっぱりありますね。
伏見 百年の憂鬱』も不倫といえば不倫で、ユアンの方は不倫に対する抑圧やつらさがあって爆発したりするんですけど、不倫だからこそ、という部分もありますよね。
三浦 そう。特にユアンのほうは、義明にパートナーの影を感じるからこそ、恋の醍醐味を知るというか、より激烈に恋をしていく面がありますよね。
伏見 きみはポラリス』の中の「私たちがしたこと」という短編は、高校生のときに付き合っていたカップルがいて、女の子のほうが道を歩いていてレイプされそうになって、それを助けるためにボーイフレンドが男を殴って殺しちゃう。カップル2人で男を埋めたことを秘密にして、女の子が東京に出て一度別れるんだけど、友達の結婚式で再会して、でも付き合うでもなく別れていくという話なんだけど、これも素晴らしいなと。特にラストが。つまり、再会してもう1回付き合うということではなく、離れるんだけど、たぶん2人にはものすごい絆があって、実際その後の人生で2人はセックスをしないかもしれないし、ごはんを食べたりもしないかもしれないけど、心の中で最も大事なパートナーであり続けるんじゃないでしょうか。その共犯関係の絆の分ち難さに比べたら、チンコをマンコに入れるくらい何なのよ!と(笑)。
三浦 本当にそうだと思います。たぶん、「私たちがしたこと」の主人公の女の子は、その後誰と付き合っても、心のなかでは高校のころに付き合っていた男を思っているわけです。誰と結婚しても、その男が特別なんですけど、それを結婚相手とかには絶対悟らせないはずで、そのとき彼女は心のなかで、「ニヤリ。悪い女だ、自分」くらい思っているかもしれない。それによって彼女の中でエロスがどんどん内燃していって、そのおかげで夫もそれなりに満足したりすると思うんです。『百年の憂鬱』でも、その場にはいない忠士が、2人の恋愛を実は支配してる感がある。「不倫ってダメだよね」という単純な話じゃなくて、だからこそ辛いんですよ、すごく。「私はここまで他者とガチンコで向きあったことも、愛を乞うたり乞われたりしたことも、ない!」と痛感させられもしたというか……。

●私小説のモデル

三浦 でも、『百年の憂鬱』のモデルになった人は、こんな形でご自身の「個人的な経験」が明らかにされるとは思ってもみなかったでしょうね(笑)。
伏見 百年の憂鬱』は私小説と公言して発表しているんですけど、実際に今、人権問題とか個人情報の問題とかいろいろあるじゃないですか。だから一応原稿にまとめるときに、ユアンや忠士のモデルの方々にも読んでいただいて、OKをとっているんです。
三浦 あはは。伏見さんったら、悪い女だわ、いや男か。OKなんだ! ユアンくんいい子だな。
伏見 ユアンくんは暴れるかもしれなかったので、新宿2丁目の喫茶店に呼び出して、人目のあるところで読んでもらいました(笑)。
三浦 ひどい! どんなプレイなんですか(笑)。
伏見 暴れたときに彼を止められる、中村うさぎさんまで動員して、万全の態勢でOKをとったんです。
三浦 うさぎさん、強そうですからね。じゃあ、伏見さんの目の前で彼が読んだんですか?
伏見 そうなんです。
三浦 でも、これをちゃんと全部読むには、けっこう時間がかかりますよね。
伏見 うん。4時間くらいかかるから、途中で席を離れてもう1度戻るというくらいな感じだった。
三浦 戻ったらユアンくんが金属バットを用意していた、ということにならなくて良かったですね。
伏見 細かなタイミングは忘れましたけれども、僕がなかなかうさぎさんに連絡を入れなかったら、「伏見さんもう殺されてんじゃないか」とうさぎさんも心配していたらしくて(笑)。
忠士のモデルは海外にいるんですが、僕的にはそっちのほうがどうかなって思っていたんです。
三浦 今までに、ほかのかたとの恋愛の内容をパートナーに詳しく話すなんてことはないですよね。
伏見 ないですよ。ましてやこんな小説の形で(笑)。ここまで詳細にやるのはどうかな、さすがの僕もひどすぎるだろって思いながらやっちゃうのが物書きの業というか、自分の性格の悪さなんだけども。パートナーの彼もちょっとドキドキして読み始めたらしいんだけど、「この作品は今まで書いたものの中で一番自分も好きだから、これは出したほうがいい」と言ってくれて。そのときにちょっと萌えた(笑)。自慢話になってますけど。
三浦 ほんと、今なんかモテ男話に……。なんでそんなに充実した恋愛しちゃってるんですか? パートナーとも、ユアンくんとも……。なんなんですか!?
伏見 と、三浦しをんに怒られるの巻(笑)。
三浦 嫉妬が渦巻いてしまった(笑)。
伏見 たしかに、今振り返れば充実なんですけど、当時は大変でしたね。最初は全体像を書こうとしたんですけど、僕がボコボコに殴られているところとかを書いていたら、ホラー小説みたいになっちゃって(笑)。「これって違う小説じゃない?」と。
三浦 それは別のベクトルで辛いからイヤですよね(笑)。
伏見 そうなんです(笑)。僕も本当に恋愛をしているときは狂っちゃうので、いたいけな二十歳そこそこの青年のiPhoneを取り上げて床に叩きつけて足で踏みつけたりとか。だから、後から見たら「充実」という言葉で言えても、相当ひどいことになってはいたんです。でも、小説の中にも書いているけど、50近い中年になると、こういう恋愛はもうないだろうと思って執着しちゃったのかな。
三浦 ユアンくんみたいにすごく思慮深い青年に恋心を捧げられたら、執着して当然ですよ。
伏見 そうなんです。それにいくら性的嗜好が多様なゲイ業界といえども、デブで中年でオネエで性格が悪い、という四重苦のおじさんというかおばさんを好きになってくれる人は、そうそういないんです。というか、30年近く二丁目にいて初めてくらいなことなので、これはちょっと執着しちゃうじゃないですか。
三浦 ん、待てよ? ということは、こんな私を好きになってくれる美青年がこの後出てこないとも限らない……わけか。嫉妬を超えて、今ちょっと希望が持ててきた。
伏見 というか、三浦さんってすごく素敵な方だと思うんですけど、いないんですか?
三浦 いないですよ……。
伏見 まあ、オカマの「素敵」だから、ノンケとは違うかもしれないけど(笑)。
共犯関係の話で言うと、そういう媒体があるかどうかわからないですが、『百年の憂鬱』の続編を書くとすると、たぶんユアンくんが他に男を作った上での義明と関係する……というのが、書かれるべき物語なんですよね。それはやっぱり、「私たちがしたこと」や「冬の一等星」と同じで、罪を共有することで絆がより強固になるという物語。
三浦 それはすごく読みたいですね。きっとユアンは新しい彼と仲良くしつつ、義明とばったり出くわしたりすると、目配せとかするんだわ。キーッ!(嫉妬再燃) しかも、また義明が奪い返すとか?
伏見 そうですね、そういう展開もたぶんあるんだと思うんです。
三浦 そこに忠士が香港から乱入とか!
伏見 忠士はアレだけど……やっぱり、悪徳って快楽ですよね(笑)。
三浦 そうですね。過去そのものが罪であり、快楽であり、なんらかの共犯関係であるとも言えると思うので、過去を共有しているという時点で膨大かつ重層的なエロスが発生しますよね。

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●小説の脂身

伏見 僕は本当に三浦さんみたいに小説を書くのがうまくなりたいと思っているんですよ。もともと物書きになった動機が、同性愛への誤解や偏見に対して自分なりのロジック、理屈を作って提示するということから始まっているので、そういう文章って小説とは真逆な世界ですよね。肉を断って骨にするというか、脂身を削いでいくようなもので、骨格はっきりはしてくるんだけど、おいしいところが抜けて落ちていくようなところが、論理化というものにはある。でもたぶん、性愛にしても人の情緒にしても、脂の乗った肉のところがおいしいわけじゃないですか。僕が小説を書き始めた動機の1つは、ロジカルなものをずっと書いてきたら、自分の気持ちまで骨っぽくなってきてしまったので、ブラックなものや混沌としたものを自分の中に取り戻す、ということでした。
三浦 それは実現されているし、成功しているんじゃないですか? 『百年の憂鬱』を拝読して、登場人物あるいは作者の、恋愛という非常に個人的な「経験」が、ここまで読者に跳ね返り、響き、経験したことがあるかのように感じられることがあるのかと、言語のみで表現される小説・物語の効用と凄みに、改めて思いを馳せましたが。  
伏見 でも、やっぱりどうしても、情緒を言葉に置き換えていく上でのスキル的な問題が……。三浦さんはすごく本が好きでらっしゃるのが有名ですけど、僕は子供の頃からそんなに小説とかを読んでいないこともあって、表現の幅が狭いんです。だから、三浦さんの『きみはポラリス』を読んだときに、「キーッ! この女!」と思ったのは本当で、どうしたらそういうふうに書けるのか、素直に教えてもらいたいと思って。
三浦 いや、そんな……。伏見さんはすでに、論理という骨をちゃんと備えていらっしゃいますから。小説にもやっぱり論理が必要だと思うんですが、私は全然ロジカルな組み立てができなくて。ぶよぶよした脂身ばかりで骨がない気がして、そこがダメなところだなあと。私も当然、自分の経験や感じたことを踏まえているんですけど、それが原型を留めないくらいになったときに書きます。なので、憑依系というか、書いていると、全然自分じゃない誰かの人生に一瞬なれる気がするんです。まぁ気のせいなんですけど、別人になれたような気がする時があって、それが快楽で書いている感じです。
伏見 その瞬間を捕まえている感じなんですか。僕は私小説というか、一人称系の小説なんですが、そうするとやっぱり、自分から出られない感じがある。それこそ三浦さんの小説って、いろんな人になっているので、どういう才能なんだろうと思って。
三浦 心は女優ですよね(笑)。「ガラスの仮面」をつけて。
伏見 書いてるときって、本当に憑依しちゃう?
三浦 一瞬だけそうなるときが、5作に1回くらいあります。
伏見 たとえば『きみはポラリス』だったらどうでした?
三浦 きみはポラリス』だと、「永遠に完成しない二通の手紙」は憑依系で、ブワーッと書けたんです。「冬の一等星」や「私たちがしたこと」もそうですね。今日伏見さんが挙げてくださった作品は、自分でも書いていて「キターッ」みたいな感覚があった作品です。
伏見 僕は三浦さんの作品の中にパッションを感じているんです。つまり熱情ですね。『風が強く吹いている』だったら「走る」だし、『舟を編む』だったら「辞書の編纂」みたいな。ああいうパッションが、三浦さんの中でエロスのようなものになっている。僕は本当に情けないけど性愛以外になかなかパッションを持てないんです。性愛時代の前には、ちょっと政治的なゲイ・リベレーションみたいなことに対するパッションがあったんですが、それもなくなり、性愛もそろそろ卒業なので……。
三浦 政治的な運動よりも後に性愛が来たんですか?
伏見 そうですね。もちろん性的な欲望はずっとあるんですけど、政治的なことが90年代はじめから2007年くらいまであって、そのときは勝手に自分が何かを背負いこんでいる感じになってたんです。「突っ込まれたらマズイ」「隙を見せたらマズイ」みたいな。そのせいで、あまり性愛的な世界を楽しめない感じがあった。でも、それが一段落してやることがなくなってからは、乱れた40代を送っていたんですけど。
三浦 解放されちゃったんですね(笑)。それってすごい充実してるなぁ。
伏見 他にないからなんですけどね。
三浦 でも、なにかひとつに打ち込んでいたら、セックスは二の次になる感じはありますよね。
伏見 だからパッションを知らないわけではないんですけど。三浦さんの作品の中にあるパッションみたいなものは、どこから出てくるものなんでしょうか?
三浦 うーん……。文化祭とか体育祭とか、「一致団結してがんばろう!」みたいなのは絶対乗れない派なんですよ。協調性がないし、運動系もまるでダメですし。
伏見 じゃあ、書かれるものと逆じゃないですか?
三浦 はい。ただ、自分は異様に本と漫画が好きだという思いだけは、子供のころから執念深く、飽きることなくあるんです。いろんな本や漫画を読まずにいられない。たぶん、自分にとっての本みたいな、なにか欠かせないもの、愛してやまないもの、飽きることのない情熱とは、他の人にとってはなににあたるんだろうか、というのを知りたいんです。
伏見 なるほど。僕は物書きを自称するのが恥ずかしいくらい、本を読むのが苦手なんです。書評の仕事とかはありがたいし、お金につられて、あまり読みたくない本でも読むんですけど(笑)、実は子供の頃から活字が馴染んでなくて、読書家の人のパッションがわからない。
三浦 ゲイという経験』みたいな厚い本をお書きになっているのに!
伏見 あれは15年くらいの間に書いたものをまとめただけだから。だから、三浦さんが『三四郎はそれから門を出た』などで「欠かせないもの」とお書きになっていたのを読んで、やっぱり文学少女なんだと。
三浦 かなりの数の漫画が含まれるので、文学というか漫画少女だったですが。ただやっぱり、読書って1人でするもので、たまに同じ本を読んだ人と話し合ったりできるんだけど、基本的には誰にも言わずに黙々と読む時間が長く、それに情熱を傾けている自分がまたイヤなんですよね。だから「みんなでなにかやろう!」というシチュエーションに憧れがあって、駅伝とか辞書づくりとか、1人じゃできないものに情熱を傾けている人を小説で書くのだと思います。
伏見 僕もかつての自分の政治的な志向とかもあって、それは、すごく上っ面で言えば、「差別があって自分が辛い思いをしたから、人にはそういう思いをしてほしくないから」とか理由が言えるけれど、でもどこかで本当はそうじゃない感じがしていて、自分の中のパッションがどこから来たのかは、僕の中では謎なんですよね。わかりやすく因果関係で語ることもできるんだけど、どこかに謎な感じがあって、その謎な感じって、小説でしか書けないじゃないですか。
三浦 たしかにそうですね。どうして自分は、こんなに漫画が好きなのか。本当におかしいくらい毎日読んでいて、今日もここに来る前に袋いっぱい漫画を買ってしまい……。説明できない情熱が、いつからどうして発生したのかわからず、自分でも怖い。たぶん、それで小説にしているんでしょうね。
伏見 僕は『風が強く吹いている』の書評を書かせていただいたことがあって、そのときにも書いたんですけど、最初あれを読み進めていくとき、何で彼らが駅伝に掻き立てられるのかよくわからなかった。
三浦 それは道理だ(笑)。
伏見 疑問に思いながら読んでいるんですけど、最後に納得するんです。因果的には説明できないんだけども、肚に落ちる。でも、肚に落ちることをひと言やワンセンテンスで言うことができない。そのとき、あぁ、これが小説だと思ったんです。自分のパッションもそうなんですよね。
三浦 「こうです」とひと言で言えたら小説を書く必要がないし、書きたいと思わないですもんね。新刊インタビューなどで、「この小説で書きたかったことはなんですか?」と聞かれたときは、たとえば「これが最後の恋とのめり込んだ経験です」とか、「駅伝を頑張る人たちです」とか言うんだけれど、でもそれは、その小説の本当の核の部分とは違う気がする。
伏見 そう。たとえば『ゲイという経験』みたいな本についてのインタビューなら、結構うまくしゃべれて、自分でも納得できるんだけど、小説についてのインタビューってすごく苦手で、「どうして書いたんですか」とか「テーマは?」とか、「そんなの言えたら書かねえよ!」みたいな。
三浦 短冊に標語みたいに書いて「これです」で済むなら、何百枚もの小説にしなくていいですからね。
伏見 そう、だから一応上っ面的には『百年の憂鬱』も、「もう卒業の年になって執着しちゃいました。最後だから」と言えるんだけど、本当の理由は、たぶんそれじゃないんですよね。
三浦 そうそう。それこそ、『百年の憂鬱』には言語化できないパッションがあふれてるじゃないですか。私、最初の1行から「うおー、来たぞコレ!」と思って、ぐいぐい引きこまれちゃいましたね。
伏見 そして辛かった、みたいな(笑)。
三浦 うん。「辛い!」と思いながら読みやめられないんですよ。やっぱりうまく言語化できないんですけど、伏見さんご自身が投影されているとしても、小説の登場人物は所詮は架空の存在ですよね。でも、架空の人物の人生と、読者である私の経験や感覚が非常に接近して、ほとんど一緒になる瞬間があるからすごく辛いし、同時に快楽と言っていいほど楽しくて興奮する。「この人たちの行方を見届けないことには、今日は寝られない!」と思う。自分ではない誰かの人生を生きたような気持ちにさせられるのが、小説の力だし、物語の力なんだと、改めて感じました。
伏見 不思議ですよね、小説って全部言葉なのに、言語で表現できないものを表現しようとしている。
三浦 本当にそう思います。
伏見 僕はロジカルな文章も今でもたまには書くんですが、どうも脳の使っている場所が違うみたいで、評論的な仕事と創作的な仕事は同時にはできないんですよね。それで、結局両方ともたいして書かなくなっちゃったんだけど(笑)。
三浦 いやいや、1回できた骨は消えないですから。今は骨のまわりに、脂身がどんどんついていってるんですよ(笑)。骨粗鬆症とかになる可能性もあるけれど、基本的に骨は消えない。いつでもまた評論もお書きになれるのでしょうけど。今はきっと、動かずに脂身をためているんだと思います。
伏見 脂身をためて糖尿にならなければいいけど(笑)。今日はありがとうございました。

●プロフィール

三浦しをん
1976年、東京都出身。2000年、『格闘する者に○』(草思社)を出版。2006年には『まほろ駅前多田便利軒』(文藝春秋)で直木賞受賞。他に『風が強く吹いている』(2006年、新潮社)、『きみはポラリス』(2007年、新潮社)、『舟を編む』(2011年、光文社)など多数。

百年の憂鬱


著●伏見憲明
希望小売価格●1,500円+税
ISBN978-4-7808-0184-2 C0093
四六判 / 160ページ /上製
[2012年7月31日刊行]

目次など詳細はこちら『百年の憂鬱』

紀伊國屋書店新宿南店で「女子だもん!!」フェア実施中!

雨宮まみさん対談集『だって、女子だもん!!』、そろそろ店頭に並び始めています。
緑の鮎原こずえ!が目印です。
この刊行に合わせて紀伊國屋書店新宿南店で、「女子」をテーマにフェアを実施してくれています!
ずばりそのタイトルも「女ってしんどくないですか?」
『だって、女子だもん!!』に登場してくださった峰なゆかさん、湯山玲子さん、能町みね子さん、小島慶子さん、おかざき真里さんの著作も並んでいます。
紀伊國屋書店新宿南店4Fです。ぜひお発ちよりください。

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(紀伊國屋書店新宿南店の佐貫聡美さん撮影)

だって、女子だもん!!

「普通の女の子」として存在できなかったあなたへ

全国のこじらせ女子の心を
わしづかみにした、雨宮まみの第二作。
もてあましたくなる「女子」を語らせたら、
この人!という5人を迎えての対談集。

女子力のなさ、劣等感、非モテ…
同じコンプレックスを乗り越えてきた
こじらせ女子たちが考える、
「じゃあ、どうしたら幸せになるの!?」