ず・ぼん9 ●栗原均ロングインタビュー 特別寄稿 行動の人、そして温情の人

文●塩見 昇 大阪教育大学名誉教授、大谷女子大学教授
しおみ・のぼる●一九三七年二月生まれ。
大阪教育大学名誉教授、大谷女子大学教授。図書館情報学専攻。日本図書館協会常務理事、日本図書館研究会理事長。著書に『知的自由と図書館』(青木書店)、『生涯学習と図書館』(青木書店)、『日本学校図書館史』(全国学校図書館協議会)、『学校図書館職員論』(教育史料出版会)他。各地の図書館計画や図書館づくり運動、学校図書館整備活動に忙しくしている。

寄稿にあたって

 日本図書館協会(日図協)前理事長の栗原均さんとのこれまでの交流について書いてほしい、という東條文規さんからの求めである。振り返ってみると、私が図書館界に足を入れ、同じ職場以外の図書館人と交流を持つようになってから現在までの間、長くお付き合いを重ねてきた人たちの中で、栗原さんは最も早い時期から親しくさせていただいているお一人だと思う。栗原さんご自身のことについても本人の口からいろいろ伺ったこともあるが、今回のゲラを見て、あんまりよく知っていないな、とも思う。しかしせっかくの求めであり、長年のご厚誼への感謝を込めて、思いつくままに幾つかのことについて綴ってみたい。

栗原さんとの出会い

 私が図書館界の知己を職場の外に持つようになるのは一九六二〜三年頃からである。一九六〇年四月に大阪市立図書館に入職し、二年近くは新しくつくる中央図書館の創設準備の仕事に専念しており、研究会などを含めて館外との付き合いはまだほとんど持ってはいなかった。一九六一年一一月に中央図書館がオープンし、翌年四月から調査相談室(レファレンス・サービス)の仕事に携わったことから、中央と前後して主題別閲覧制を導入した大阪府立(中之島)、その少しあとで開館の京都府立総合資料館、そしてレファレンスでは草分け的な存在である神戸市立という関西の大型四図書館がレファレンスを軸に深めることになる交流の場に顔を出すようになった。栗原さんとの出会いはこのへんで始まるはずであるが、この頃は大阪府立のこの分野で中心的な役割を担っている人、という程度の認識で、いまだ格別昵懇にというほどのことはなかった。ただこの頃、親しくなっていた府立の西田博志君を仲立ちに、栗原さんと話すようにはなっていたかと思う。
 当時、栗原さんが『図書館雑誌』に書かれた「主題別閲覧室制実施館の側より」という〈北から南から〉への投稿記事(一九六三年六月号)を興味深く読んだ記憶が残っている。それは前年一〇月の『図書館雑誌』に大阪市立中央の主題別閲覧制の紹介があり、そのとらえ方に必ずしも釈然としていなかったこともあって、図書館問題研究会(図問研)からの依頼で「大阪市立中央図書館における主題別部門制の一考察」を『会報』に寄せた(これは私が活字にした最初の文章である)。そんなことでこのテーマはその頃の私にとって関心の深いものであり、栗原さんの文章に興味を引かれたものである。

 実務とは別に私が最初に入っていった世界は、図問研と図書館の職員組合(その中での研究活動をめざした図全協)の活動であり、西田君や同僚の三苫正勝君などと大阪に図問研の活動を興そうとした(大阪支部の結成は一九六五年六月)。同じ職場の先輩である神野清秀さん(故人)を通して図問研や戦後初期の図書館職員の組合活動である全日本図書館員労働組合のことを詳しく聞くことができ、その過程で、府立に栗原さんを含めて三人の図問研会員がいること、結成集会で栗原さんが一定の役割を果たされたそうだ、といったことを知るようになり、栗原さんからいろいろ当時の話などを伺うといった接点が広がっていった(この頃は“図問研幽霊説”などもあり、会員の実態も見えにくい状況にあった)。
 一九六五年頃から元気さを回復し、全国組織としての実態をもつようになった図問研の事務局(本部)を関西が担当せざるを得ないことになり、一九六九年から七二年まで常任委員会を組織した。しかしまだ動き出したばかりの関西(大阪)には全国組織の委員長をやれる人はいない、ということで、初年度はそれまで続けて来られた清水正三さんの名前をお借りし、実質は石塚栄二副委員長と私(事務局長)などで運営することにした。委員会には栗原さんや天満隆之輔さんなどにも加わってもらった。しかしそれはどう考えても「図問研的ではない」ということから、二年目にはやはり大阪から委員長を出さなきゃ、とその可能性を探った。図問研にはいまだアレルギーの強い時代だった。紆余曲折があったが、最終決断は七尾で開催した一九七〇年全国大会のさなか、トイレに連れ立った中での栗原さんの「オレがやるよ」の一言だった。

図問研の活動で

 栗原さんに委員長を引き受けてもらった二年間の図問研は、社会教育法改正〜図書館法改廃という降ってわいたような動向への対応に追われた。当時の『会報』にはこの件についての情報提供と議論、論評が記事の大半を占めている。社会教育法を全面的に改め、図書館法をその中に吸収するという思い切った「改正」の動きで、それに対し、図書館法を守ろう、というキャンペーンを強く進めた。栗原さんが持ち込んでくださる情報を、まずは理解し、それが意味するところを考え、対応を講じるのに手一杯だったが、問題を日図協の場にも持ち込み、図書館界あげての声とすることで、この動きは阻止された。この間の対応は明らかに社会教育の世界よりも図書館界が早かった。
 この中で、守るに値するものとしての図書館法、という理解が進み、さらにそこから一歩進めて、単に守るだけではなく図書館法の理念を具現化する、という実践の方向が確かめられ、共有されることになったのは大きな成果だった。『市民の図書館』が実践の段階に入っており、貸出を伸ばそうという運動の方向を課題としていた土壌がそれを可能にしたと言ってよい。

 図書館法云々というのは我々の手に余る大きな難題だったが、その中で着実に育つ若手を見守り、支えていただいた栗原さん、石塚さんといった先輩の力を強く感じたものである。図問研の委員長と府立図書館の課長という二つの仕事を背負って、栗原さんはいろいろ気苦労も多かったことと思うが、それについて口にされることはなかった。職場で栗原さんを支えたのは西田博志君であり、その親しい関係は西田君が病で倒れる時期まで長く続く(この原稿も本来、西田君が執筆するのが最もふさわしいのだが……)。
 常任委員会を主導したこの期間中の忘れられない思い出の一つに、組織の重点課題としていた兵庫支部づくりへの働きかけ(いわゆるオルグ)のため、栗原委員長、天満さんと一緒に神戸に出掛けたことがある。一九七一年秋のことで、伊藤昭治さん等の協力が得られ、兵庫支部結成のめどがついたことで、帰りに三人で三宮界隈で祝杯をあげた。この時期には毎週のようにご一緒し、いろいろ話すことが多かった。

栗原さんの人柄

 今回のインタビューの原稿を見ると、栗原さんの「たくましさ」「したたかさ」に驚かされる。それとおそらく無縁ではないだろうが、私の印象では、気くばりの人、先人への敬長の念を含めて情に厚い人、という感じがことのほか強い。栗原さんは一度でも会った人のことはよく覚えているし、決して粗略に扱わない。表書きを見ただけで誰からだと一目で分かる特徴のある毛筆の手紙をマメに書かれるし、人を遇することに心を配り、セレモニーを非常に大事にされてきた。特に大阪府立の元館長であり、日図協理事長もされた中村祐吉さんへの思いは格別厚いものがあったようで、よく話にも出てきた。日図協の百周年や毎年の全国図書館大会における表彰などへの目配り、心づかいのキメ細かさにはいつも感心させられたものである。
 対人関係では、亡くなった森耕一さんとの関係が私には、とりわけ興味深い。お二人に近いところにいた者として、そこにはけっこう緊張関係があったように感じている。大阪市立(天王寺、中央)の館長と府立の課長、大阪公共図書館協会では顧問と会長、日本図書館研究会(日図研)の理事長と理事、日図協では常務理事と事務局長……という関係の中で、栗原さんはいつも「あの人はセンセイじゃけん」と言いながら、森さんを必要以上に(?)たてていた。森さんの口からはけっこう厳しい「栗原批判」を聞くことも少なくなかったが、その上で森さんは栗原さんを評価し、特に日図協の運営や事務面で栗原さんを支えておられた。決して二人は横並びの関係にはならなかったが、お互いの役割をよく分かりあった上で相互信頼は厚かったように思う。森さんの後を継ぐような形で私が日図協の常務理事になった時は、「栗原さんのバックアップはあなたに任すよ」という言い方をされたことがある。

 そんな栗原さんと森さんの関係で記憶に残るのは、一九七五年の図問研明石大会の折、リクリエーションで綱引きがあり、衆目の見つめる中、二人が勝負したことがある。これは大会記録にも「世紀の対決」という見出しで写真が掲載されており、みんながけっこう面白がって見守ったシーンだった。試合はお二人とも本気で顔を真っ赤にして奮闘されたが、勝負は予想どおり(?)と言おうか、森さんの勝ちだった。森さんの得意そうな顔、ちょっぴり悔しそうに苦笑いする栗原さんの表情はいま思い出しても懐かしく、興味深い。

日図協のけん引者として

 周知のように栗原さんは一九七八年から二三年間という長きにわたって事務局長、理事長として日図協の舵取りをし、日本の図書館運動のリーダーを務めていただいた。日図協の長い歴史の中で、事務局長と理事長をともに務めた人は戦後第一期の衛藤利夫のほかにはいない。図書館の占める社会的位置付けが大きくなり、図書館をめぐる情勢も激変する時代にあって、二三年というのは大変な激務であったろうことは想像を超える。今回のインタビューでは、就任早々に遭遇された事業部問題の処理、八〇年代初期の図書館事業基本法問題、八六年のIFLA東京大会、そして図書館会館建設に多くが当てられている。これは質問者の関心がそこに集まっていたということもあるのだろうが、やはり日図協時代の栗原さんとなると、大方の人が思い描くイメージもまたそうであろう。いずれも大きな問題だったが、それらに対して栗原さんは、いかにも栗原さんらしい対応をされたと思うし、また、栗原さんでなければやれない展開をしたのではないか、と思う。
 就任早々の事業部問題と後半の図書館会館設立、そして退任される時期には協会財政の破局的な危機が大きくクローズアップする。全国組織である大規模な社団法人の運営ともなれば、財政、いわゆる「お金」の苦労が絶えないのは当然のことであろうが、それにしても栗原さんの在任期間はお金がらみのご苦労の印象が強い。それは日図協という組織そのものが大きく変貌せざるを得ない時期にあったということでもあろう。
 一九七〇年代くらいまでの日図協は、まだ図書館にかかわる人たちの仲間内の組織であり、図書館のことは図書館員の手で、ということが成り立つ牧歌的な時代であったとも言えようか。しかしこの二〇〜三〇年は、図書館界を代表する法人として、図書館の在り方や展開について意見を問われたり、一定の役割を果たすことが求められる存在となり、それに対応し得る組織への変貌がいやおうなく迫られるようになっている。出版界など外の世界との関係、組織の拠点としての場(会館)の設備などが必須となり、その中で必然的に生じた財政の問題であり、その対処に追われる状況ともなったという見方ができるだろう。そして、そのことに栗原さんは、栗原さんならではの対応をされたと言えよう。とりわけ初期の事業部問題の打開は、栗原さんでなければかなわなかった難題であったことは大方の認めるところである。

 それらの逐一について私自身が知るところはさほど多くはない。後半は私も常務理事を務めてきたので、月に一度の会議が終わった後、特に三宿のころは隣の寿司屋さんで何かと苦労のほどを直接うかがうこともあったし、ときに相談にあずかることもあった。そんなとき栗原さんは、まれに愚痴っぽくなることもないではなかったが、「図書館のためになることならオレは何でもやるよ」といつも前向きで、自分を鼓舞されているようだった。次々と新しい人との関係をつくりだし、それを大事にされている様子がうかがえた。好きなアルコールもビールにしぼるなど、体は相当に無理を重ねておられたはずである。
 脆弱な会員基盤の上に、法人として求められ広がる一方の活動を支える事業の企画・遂行、収益を必要とする反面それがなぜに図書館協会がやるべき事業なのか、というジレンマ、組織の近代化は特に事務局長としての栗原さんの脳裏をいつも離れることのなかった課題であったに違いない。理事長の任を辞される最後が、厳しい財政事情に直面し、その対処に批判の声も集まる中であったのは、そのことに最も力を注いできた栗原さんであるだけに、不本意なことでもあったに違いない。
 栗原さんが事務局長に就任するため大阪を離れ、単身東京に移られることになった折、栗原さんを励ます集いを企画した。文庫のおばさんたちを含めて、多彩な人たちが大勢集まってくださった。人との関係をとても大事にし、また、新しい関係をつくりだすのに卓越した力をお持ちの栗原さんではあるが、長年関西で仕事をしてきたキャリアからして、東京での新たな仕事には不安も少なくなかったはずである。私たちにも「関西から送り出す」という意識が強かった。さして理由のあることでもないだろうが、図書館界では何かと「関東と関西」の対比が話題になることがよくある。栗原さんもこの風土の違いには苦労が多かったのでは、と思う。集いにわざわざ来ていただいた清水正三さんが、「東京が責任を持って栗原さんを支援します」と挨拶されたのが印象的だった。
 栗原さんの事務局長就任に至る経緯については、インタビューで栗原さんも言及されているが、叶沢事務局長の後任が必要となり、森さんや清水さん、浪江虔さんなどがいろいろ思案されていたことが一方であり、他方で全国図書館大会(近畿)の仕事を終えたあとの栗原さんの処遇を心配した西田君からの相談を私が森さんに伝えたり、といったあたりが一つの流れをつくっていったかと思う。全国大会の大仕事を終え、その残務処理などを府立の特別室でされている栗原さんを幾度か訪ねたことがあるが、府立図書館における栗原さんの位置付けは私にも気になることだった。大阪公共図書館協会の会長を務め、全国的な場での実績も厚い栗原さんを府立図書館はどう処遇したものか、苦慮していたのだろう。私の目にも無任所の栗原さんは少し寂しそうに映った。「栗原さん、これからどうするかなぁ」と西田君もよく口にした。
 そんなことから栗原さんの新しい活躍の場として、日図協という全国組織のけん引役がふさわしい、大変だろうけど東京に行ってもらったら、という構想が固まっていったように思う。森さんが最後まで「栗原さんをバックアップする」という姿勢をとられ、私もそれなりにそれを継いできたのにはそうした経緯があった。住まいを探すなど栗原さんの東京への移住を何かと世話したのは西田君である。

そのほか、ご一緒したあれこれ

 ご自身が就任を懇請され、最後まで誠意をもっておつきあいされた永井道雄会長が辞されたあとの日図協会長として、長尾真京都大学総長にお願いしようと京都大学にご一緒した(二〇〇〇年三月一七日)。付属図書館長、電子図書館の開発、教員と図書館員による「情報検索入門」の授業を大学のカリキュラムに導入する先駆的な取り組みなど、図書館に強い意欲と関心をお持ちの長尾先生はどうか、と私が言ったことがきっかけになったようで、一緒に行ってほしいと言われ、情報検索入門で縁の深い川崎良孝君に話を取り次いでもらって三人で総長室を訪問した。栗原さんは、森戸会長・永井会長の名前をあげて、図書館に理解があり、文部大臣経験あるいは相当の文化人・学者という判断基準を説明し、就任を懇請され、快諾を得ることができた。長尾会長には、国立大学の独立行政法人化を控えた国立大学協議会の激職などをお務めの中で、図書館への格別のご高配をいただいたのは周知のところである。
 一九九六年一二月には上海図書館の新館開館セレモニーにご一緒した。栗原さんはもちろん日図協理事長としての招待だが、私は日図研理事長として、さらに国会図書館から中林さん、都市提携のある大阪府、横浜市の図書館代表、専門図書館からの方も加わって、ちょっとした日本代表団のようなメンバーで開館の式典、記念シンポジウムに出席し、翌日上海近郊への招待ツアーにも出掛けた。「二一世紀の図書館情報サービス」と題した国際シンポジウムでは私が発言者の一人だったが、栗原さんには日本代表団長のような役割を果たしていただいた。先方の招待の責任者である呉建明国際交流所長、鮑延明さんを返礼として栗原さんの部屋に招き、夜遅くまで飲んだり、歌ったり、なごやかに日中交流を深めたこともある。
 理事長を退任された栗原さんの長年の労をねぎらおうと、栗原さんの少しあとに事務局長を退かれた酒川玲子さんともどもお招きする場を二〇〇一年一一月に京都で設定した。かつて栗原さんを東京に送り出したときに集まっていただいた旧知の人たちに加えて、若いメンバーも含めてたくさんの人たちが集まり、お二人を囲んで心温まるひとときをもった。病に倒れてからはほとんど人前に出ることのなかった西田君もこれには快く参加してくれた。翌日にはかつての職場である堺の図書館関係者による慰労の場もあったそうで、栗原さんには久々に肩の力が抜けほっとされる機会となったのでは、と思っている。

 今回のインタビューで語られた敗戦前後、図書館界に入るまでの若き日の栗原さんの活動には驚嘆させられるし、そこに栗原さんの気骨あるたくましさ、行動力、包容力の源泉をみる思いがする。栗原さんは強く、かつ、心やさしい人である。図書館人の中でまことにスケールの大きい、希有な人だと思う。今後ますますのご健勝をお祈りしたい。

(二〇〇三年一〇月一日)