ず・ぼん9 ●[書店員と図書館員のおしゃべり] どうしたい? 図書館

東京の池袋駅前にあるジュンク堂池袋店は日本最大の売り場面積を誇る書店である。図書館的に背表紙を見せた棚差しの高書架が、一〇フロア二〇〇〇坪に並べられており、様々な種類の本が豊富に在庫されている。『東京ブックストア&ブックカフェ案内』(交通新聞社、二〇〇四年一月刊)によると、二〇〇二年一〇月から一年間の同店ベストセラーは『バカの壁』二九三〇冊、だそうだが、一方、同期間に一冊だけ売れた本が一一万三七二二タイトルもあったというのが、この店らしいデータと言えるだろう。
福嶋聡さんは同店の副店長だ。書店から出版界への発言者として著名な方であり、人文書院のサイトに「本屋とコンピュータ」というエッセイ・コラムを連載中している。このコラムに、作家や出版社から図書館の複本をめぐる批判が盛んだった二〇〇三年前半、福嶋さんは複本や図書館の社会的基盤について、連続して大変興味深いコメントを書かれていた。
それに惹かれて、本誌編集委員の堀と佐藤が、福嶋さんの話を聞きに、同店をたずねた。

福嶋 聡●ジュンク堂書店池袋本店
ふくしま・あきら
1959年、兵庫県生まれ。1982年2月、(株)ジュンク堂書店入社。サンパル店(神戸)、京都店を経て、1997年11月仙台店店長。2000年3月より池袋本店副店長。著書に『書店人のしごと』『書店人のこころ』 (ともに三一書房)『劇場としての書店』(新評論)。

堀 渡●国分寺市恋ヶ窪図書館、本誌編集委員
ほり・わたる

1951年生まれ。国分寺市立恋ヶ窪図書館勤務、館長。図書館歴は27年。本誌編集委員。

佐藤智砂
司会●ポット出版、本誌編集委員

利用者の本を図書館で活用できないか

佐藤● ではまず福嶋さんが人文書院のサイトで書かれていた、「利用者が自分で買った本を図書館で引き取るのは無理なんだろうか」ですね(本書一九ページに再録)。堀さんはどう思われましたか。

堀● とても面白かったですよ。福嶋さんが書いていらっしゃることだけど、作家の図書館に対しての発言が、経済的な理由だけでかかわってくるのは何か変だ、っていう。そういう違和感は僕自身にもあって…。これは僕が図書館の人間だから図書館擁護論にすり替えているつもりではないんですけど。それから、図書館員という立場を離れて、「読んだ自分の本の処分どうするんだ」という点でも、忘れていた話をもう一回していただけたみたいな感じがあって、とっても面白かった。利用者が図書館から無料で借りていくのと同じように、自分の読んだ本を持ち込むという、もうひとつの図書館に対する回路。そういう話はもっとスポットライトを浴びてもいいんじゃないかな、という感じがします。すごーく遡れば、二五〇年くらい前、一八世紀にアメリカでベンジャミン・フランクリンが作った会員制図書館ですよね。まだ自前の出版業がなくてイギリスなどからたまに持ち込まれる本が各個人の家にあるのを、みんなで共有する施設を作って始めたというような。ひとつの図書館の成り立ちみたいなものを思い起こさせるところがありましたね。
福嶋● ふふ(笑)。
堀● 「自分の本の処分をどうするんだ」ということについては、僕はマンションの住民なんですけども、年にいっぺん自治会の主催する夏祭りがあるんです。フリーマーケットをやれるところがあって、場所を借りて自分で出店もやれるんだけれども、夏祭りの実行委員会に持ち込めば、そこでバザー提供品にもできるんですよ。実行委員会のほうで多少のお値段つけて売りますよっていう。そのメインの商品が本なんですけどもね。
福嶋● ふ〜ん。
堀● それがすごく便利なんです。僕も、非常に昔の学生のころは、早稲田の古本屋などに持っていって、それで昼飯代をかせいだとか次の本代にしたっていうようなことがあります。でも今は生活に困ってるわけではないから、何冊かの本を古本屋に持っていって、質に入れるような形でお金を得るというようなことはないです。とはいえ引っ越しをするからって古本屋に来てもらうと、古本屋さんの査定というのはうるさくて、「これとこれとこれは商品価値があるから引き取りたいけれど、残りのものはもうほとんど置いていきたいんだ」みたいな話になっちゃって。そういう査定自体が屈辱的だし、整理したいのに半端に残されて困る。
福嶋● ええ。

堀● ブックオフは僕は近くにないこともあって、あまり使わない。コミックを何シリーズかまとめて買ったことがある程度。売ったことは全然ないんですけれどね。
 自分にとって無意識だったけれども、夏のバザーというのは処分したい本を一括で、エレベーターで下にボンと持ってけばそこで受け入れてくれる場所だったんですよ。おそらく自分が持っていった本なんて、硬いし新刊もないし、それで売れてないかもしれないけれども、そこはとにかく査定しないわけですよ。で、全部引き取ってくれて。自分も夏祭りで裏方をやったことがありますけど、その日に売れ残った本は全部翌日とかに福祉施設にもっていくんですよね。福祉施設ではまたそこでイベントの時に古本市をやるために溜めておく、そこでも売れなかったら、最後は結局、古紙回収業者に行くんだと思うんですけれども。
福嶋● へえー。
堀● そういう一回仲立ちをしてくれるところがあって、一冊何十円かで引き取ってくれる本は誰かに引き取ってもらって、最後はそういうルートに流れると。夏祭りを逃しちゃってどうしようもなくなると、自分もしばって燃えるゴミに出す時もあるんですけれども。やっぱ燃えるゴミにはなんだか…。「これは燃えるゴミではないよな」という。
福嶋● うーん。
堀● そんな生活体験もありまして。そういう意味じゃまあ、引き取ってもらえる、また本として使ってもらえる回路に出すというかな。これはとても捨てがたい、ありがたい感覚ですね。「本の処分どうするんだ」でもう一つ。実をいうと図書館に蔵書を持ち込む人っていうのはものすごく多いんですよ。

本を持ってくる利用者はたくさんいる

堀● いま図書館の側は「自宅の本の持ち込みはいっさいお断りします」ってやっているところもけっこうあるんだと思うんです。いろいろトラブルや後処理で面倒くさくなることもあるので。だけど自分の図書館は特段そうしていなくて、持ってきてくれれば「ありがとうございます」と受け取ります。ただ、そこで一応ガードを固めるんですよね。
佐藤● 選ばせていただきますっていうことですか?
堀● 使うに関しては選ばせていただきますということです。この図書館で使うか、ほかの図書館にあげるかは所蔵の有無や本の内容を検討して決めます。傷んでいれば入れないこともあるし、ほかの施設にあげることもあります処分してしまうかもしれませんけどいいですか、そのへんの権限を委譲してくれるんだったらありがたくいただきます、と。この図書館で使うのでなければ寄贈しないというのであれば、少し猶予をもらって選んでからご返事をしますので、と断っておく。言いたくないんだけど、いろいろなお客さんがいますから、先に断っておかないと。
佐藤● 渡した本が出ていないじゃないか、みたいなことを言われるんですか?

堀● ええ、俺が渡した本がここに出てないじゃないかという苦情は結構あるもんですから。やっぱりそういう言いわけをつけた上で引き取るんですよね。一番ありがたいのは、全権を委譲してくれるお客さん。使わなければおたくのほうで自由に処分していいよと。一方、ガチガチに融通がきかなくなっている図書館は、とにかく持ち込みお断りというところもあります。事務室も狭いし、予定外の仕事をやれるスケジュールもないし。さっき言ったような細かいやり取りはできないということがあるんでしょうけれど。まあ、ともかく持ち込みたい方は実はすごく多いんだっていう現実があるんですよ。
 同時に、いろんなタイプの持ち込み客がいるんです。決意を持って古い蔵書を選んでドンと出したんだなって方もいるけれども、発売されてから半月からひと月くらいの読みやすい本を一冊、二冊と持ってくる方も少なからずいらっしゃるんですよ。ある傾向を持ったノベルスであったりもするし、ベストセラーだったりもするし。それこそ帯もきれいにつけて、再利用にとっても便利な形で持ってきてくれる。どうかすると、こちらが発注する前の本だったり。
福嶋・佐藤● ははは(笑)。
堀● こういった話にはいろいろゴシップがあって、どこどこ出版社の編集部の人じゃないかなとか。あるいはその本を印刷した印刷所の方じゃないかな、とかね(笑)。そういう風に思われている方って東京近郊なら必ずどの図書館にもいるんじゃないかなって感じはあるんですよね。
佐藤● それは仲間内の話で出てくるんですか。
堀● ええ、もちろん仲間内での話です。寄贈の常連さんが、たまに違う出版社のノベルスを持ってくるから「ああ、あそこの社員じゃなかったんだ」みたいな話題があったりして。もちろん中には自分の家に残している本もあるんだろうけれど、新刊のヘビーな購読者で、それを相当なパーセンテージでなるべく傷まない形で読み、帯までもきれいにつけてこちらにいただけるという、それは一種の環流組織としてこの図書館を使っていただいているっていう感じがないわけでもなくて。図書館がなかったら、どうするんでしょうね。新刊を本屋で買って気持ちよく読んだあと、そのまんま駅のゴミ箱あるいは、紙のゴミに出すというのとはあまりにギャップがある話なんですよ。

 その対極のケースは、蔵書のまとめ処分です。じいさんばあさんの、特にじいさん。じいさんが亡くなったからばあさんが、あるいは息子の世代が、まとめて処分するんですよ。家庭の世代交代がそこで行われている。古い世界文学全集や漱石全集など何回もいただきました。昔の大人の教養が形になったみたいな蔵書。家にあがらせてもらって古本家さんのような蔵書整理もしました。そういう本は、函入りで造本が立派でも本の雰囲気が古くなりすぎちゃっているので、今の図書館に入れるのは難しいものも多いんですが、一定の軌跡があったり、コレクションであったりします。
 古い記念写真とか多額のヘソクリとかが出てきてお返しに行ったこともありますよ。

本を読む人のパイを広げないとどこも潤わない

佐藤● 福嶋さんは、「図書館を利用している書店員です」っていうふうにサイトにも書かれてらっしゃいましたけど、自分で買う本はどんな本なんですか。
福嶋● 読むのに時間がかかりそうな本は買いますよね。

佐藤● そうか、図書館だと貸し出し期間があるから?
福嶋● ええ。それとくり返し読むだろうと思われるものは買いますね。急ぎで読まなきゃならないものも買います。図書館で借りているのは、ちょっと気になってるけど別にすぐに読まなければならないということはない、そういう本です。例えば、糸井重里さんの本だったかな、『海馬』(池谷裕二・糸井重里、二〇〇二年、朝日出版社)とか。発行された年に借りようかなと思ったら戸田市の図書館で三〇人か四〇人待ちだったんですね。
堀● ほおー。
福嶋● で、読むのは諦めてたんですけど、さすがに一年経って見たら、待っているのが二人やったんで、いや一人か。それで早速予約入れてきました。また二〇〇二年の『このミステリーがすごい!』(宝島社)の『半落ち』(横山秀夫、二〇〇二年、講談社)なんかは、前に見たときに三〇人待ちだったんですね。『半落ち』を借りようかなと思ったのは、本を扱ってる仕事ということもあって、今の読者の嗜好を知りたいですし、新しく出てこられた作家の方のキャラクターなんかも知りたかったからです。まあ、『このミステリーがすごい!』に関しては他の順位のものを読んでがっくりしたんで、もうあんまりアテにしてないんですけれど。第一位の本に関しては読んでおいたほうがいいかなという程度でね。くり返し読むこともないだろうし。買うことはないかなという気はしています。
 ちょっとだけ気になって読んでおきたいとか、ずっと自分の蔵書として持っておくというタイプの本でもないなというのに関しては、買った本を図書館に寄贈すれば、一冊が二冊になって、たとえば四〇人待っておられたら、単純計算すれば二〇人待ちになる計算になりますよね。で、そういう風にすれば例えば五人くらいが買って図書館に入れるとすると、もっと早くその本をみんなが読めるようになるんじゃないかな。去年の『このミステリーがすごい!』の第一位の作品がまだ三〇人も待ってるというのは、もうじきまた今年のが出ますから。
堀・佐藤● ははは(笑)。

福嶋● これは例の複本の議論になっていくんですけど、待つということはね、そのなかの一人が買ってそのペースが早くなったって、それほど作家の方にご迷惑をかけないと思うんですよね、そこまで待つ人がいるわけなんですから。
 これはあと知恵なんですけれども、大げさな話をすると、菅谷明子さんの『未来をつくる図書館』(二〇〇三年、岩波書店)でアメリカの公共図書館のありようなんかを読んでると、英米の公共という概念は日本の公共とは違うことがよく分かるんですよ。結局、役所とか国とか自治体とかいう概念じゃない。「アンチ」なんですよね。だからカーネギー財団なんかは図書館にどんどん寄付をする。市民の寄付とか勉強会とかで、原資を調達してそれで運営してるというあり方は、おそらく日本で「公共」とつけた場合、誰もピンと来ない気がする。日本ではお金を図書館に寄付しましょう、という人はまず簡単には出てこないと思う。それは篤志家であろうと、あるいは成功者であろうと。そういう芽は出てこないと思う。これは国民感情というか性格の違いで、そのかわり日本人というのは英米人以上に、役所とか国家に対しては従順ですから。僕は英米的なかんじのほうが好きですけれども、それはそれでそれぞれに成り立ってる国の姿ですよね。
 だから今いきなり、公共図書館っていうのは本当は国とか役所がやるんじゃなくって、地域住民がやるんだ、みたいなことをいったってピンとこないでしょう。今いちばん簡単にできるのは、お金じゃなくて、まずは利用してもらえる本を提供できる範囲で提供していくというのが、入り口として入りやすいんじゃないかと思うんですよ。
 例えば三田誠広さんが言うように、その分だけ売れる本が減るから、作家の基本的人権が蹂躙されてるんだということは、現実的にそうかもしれない。そうかもしれないけども、実際問題そこまで待っている人もいるんだし、現にもういいやと思ってる人もいる。まあ現実的に複本というのも一〇冊二〇冊になると問題なんでしょうけど、一冊や二冊だったらね。三冊持ってるというのは別に問題ないんじゃないかと。貸与権は著作者が占有するものであるということを厳密に適用しちゃうと、図書館に限らず、本は誰にも貸せなくなりますよね。僕がある本を読んで、店の後輩やなんかにこれは面白かったし勉強になるから読んでみなさいと貸すことも、基本的人権の侵害ということになっちゃう。それはあまりにも現実的じゃないと思うし。
 僕は自分自身がそうだし、他の人の話を聞いてもやはりそうなんですけど、本というのは次の本の読書を誘発します。例えば一冊目の本を借りて読んで「これは面白い」となったら、じゃあ他の本も読んでみようかなと関連の本を買うことがありますから。僕らはそういうことも考えて、貸したりしていることもあります。あるいは買うだけじゃなくて、図書館を利用するとか。とにかく、いろんな方法で本を読むという行為そのもののパイを広げないと、本を扱うどの業界も、書き手から売り手まで、あるいは図書館という貸し手にいたるまで、どこも潤わないと思うんです。
 僕は経済学のプロパーじゃないからよくわかりませんが、経済学の本を読んでると、経済を活性化させるために一番すべきことは、そこにものがあるんだったらそれを活用することだそうです。古典派経済学の理論に「セイの法則」というのがあります。作ったものが…供給が、需要をきちんと生んでいけば、これは別に商品に限らず労働力もそうなんですが、経済がうまく回ると。まあ、簡単な話ですよね。その労働力の供給に対して需要がないから失業があるわけですから。

 本を買った人がその本を読んだ。アクションはそこで完結してしまう。著作権の概念を非常に厳密にいうならば、読んだ人がいらなくなれば、それは捨てるしかないんですよね。でも、できるだけ眠っているストックは、利用していったほうがいいんじゃないかと思うんです。
堀● そうですね。

本当に作家が甚大な被害を受けるのか

福嶋● 図書館が持ち込まれた本を全部引き取るというのは大変だと思う。堀さんがさっきおっしゃったように、亡くなった方の本、おそらくその奥さまにしても子供さんにしても、もうそんな本はいらんわいというような本がある。家を占有されることのデメリットのほうが絶対大きいという方がいらっしゃる。じゃあそれを図書館が全部引き受けなければならないかというと、そうではないと思います。それこそもうどこにも引き取り手がなければ、それはただのゴミなんですよね。
堀● ええ。

福嶋● 一方でその順番待ちをしているという。ここには明らかに需要がある。もう一方で、もう読んでしまったから手元に置く必要はないと思われてる本がある。それを利用するのって、もうひとつの有効な方法じゃないか。いらない本引き取ってくれということじゃなくて。
 図書館で借りたい本の順番待ちしている人数を見たら何十人もいて、これだけの人がこの本読みたがってる。この本に関しては、自分は三〇人も四〇人も待つのは嫌だから買ってしまおうと。で、せっかく買ったもんだから、他で待っている人にも読ませてあげたいなという。
 実際、社内でもあるんですよね。この前も、出版記念会があるんでいそいで買って読んだらとっても面白かったから、出版記念会でもらった二冊目を職場の仲間にあげたら彼のほうがもう感動してしまって。
佐藤● 何ですか、その本?
福嶋● 『ジンメル・つながりの哲学』(菅谷仁、二〇〇三年、日本放送出版協会)という本。
堀● ほおー。

福嶋● この本に彼は感動しちゃって、彼はそのあとジンメルについて出た他の本も買いました。これは誰に言っても責められない話だと思う。だとするならば、図書館という一種の社会の中で、職場の中で行われるようなことが行われても別に構わないんじゃないかと。
佐藤● うん。
福嶋● ベストセラーを自分で買った人がいて、その本がもういらないのであれば、図書館がそれを引き取って順番待ちしている人に貸す。そして順番待ちの人がいなくなったら、それこそ一冊残して捨てればいい。これは書店の感覚ですけども。たくさん売れてるあいだは平積みにしていて、売れなくなったら一冊を棚に残してあとは返品するという発想です。どんどん借りられている時にはどんどん使っていって、ひと月に一回ずつぐらいしか借りる人がいないとなったら、スペースがもったいないから、それをどっかに回すなり、あるいは処分するなりしていいと思う。それでその本は本望だと思います。
 一方、本当に著作者が甚大な被害を受けるかというと、例えば三田さんが提唱している賠償制度にしたって、例えば一〇〇万円を上限とするといってるわけだから。図書館で三〇人も、四〇人も順番待ちをしている本の著作者は、少なくともその本に関してかなりの利益を得てるわけですから、そこには抵触しないと思うんですよね。
 本を買った人も、あまり気にしないかもしれませんけど、数字を気にする人であったら、例えば貸し出し率が高くなったりして、自分の買った本で何人もの人が受益してというようなことが目の当たりにできたりしたら…、どこもいい思いをするんじゃないか。つまり英米のパブリックライブラリーで寄付という形でなされていることを、いま日本でやりやすい形にするとしたら、そこからじゃないかなあと。
 今、思いつきですけれど、亡くなったおじいさんが読んでいた本、捨てるに忍びないけど家も狭いんだと、だから図書館で預かってくれませんかとなったら、これは永代供養と一緒です(笑)。預かり賃を逆に、預けたほうが出す、という発想もあるんですよね。

堀● はははは(笑)。

「予算を増やそう」は非現実的

福嶋● 小泉首相が言っている「自助努力」というのは、いろんな政治闘争の中でのレトリックという部分もあるんだろうけど、逆手にとって理念的に図書館の側に受け取ってしまったら。図書館というのは地域のものなんだよと。国や地方自治体に、税金をブチ込んで作ってもらったわけじゃないんだと。
 で、中身=ソフトに関しても、本当に読みたがっている人のために、持ってる人が提供していくという発想につながっていけば。英米的な公共図書館に少しでも、ほんのわずか一歩かもしれませんけど近づくためには、そういう形がいちばんすんなり入っていけるんじゃないか。誰もとりあえず損はしませんし。本当に目指したいのは、一冊の本を引き取るか引き取らないかの問題ではなく、利用者を含めた地域全体が一緒になって図書館をいいものにしていくこと。きれいごとに聞こえるかもしんないけども、そこまで理念を持っていかないと逆に立ち行かなくなる。中途半端なところで財源の取り合いをしたって、もう国と自治体に金がないわけですから。
 ちょっと話がそれますが、公共貸与権の問題で日本文藝家協会と図書館界がシンポジウムを行った際に、最初は対立しあってるんだけども、我々は対立してる場合じゃないと。両方で協力して図書館の予算を増やそう、みたいな結論になるんです。が、その予算がなかなかとれないというところで結局は袋小路になっちゃう。

堀● 新刊のベストセラーの持ち込みというのは、それは足すんですから簡単ですし、ただただまったくありがたい話なんです。図書館の仕事が書店さんとどう違うのかわからないけれど、古い本の場合、新刊を購入する選定とは違うセンスや仕事の流れとなるところがあります。より目利きが必要になるんですよ。例えば図書館は分野ごとになってますでしょう? あの分野が貧弱だから足しましょうとか、日本の中世史のこんな本がないから足しましょうと普段選書しているところと違うところで「さあ、持ち込まれたこれどうなの?」っていうふうになるわけです。今はコンピュータでその本自身が蔵書としてあるかないかは、すぐにチェックできます。蔵書にあれば、頂いた本のほうが新しくて綺麗だから取り替えようということができますけど、図書館になかった本だった場合、古い本だと棚もきついのにそれを足すことにどう意味があるかという判断を下すのが難しい。そういうことが出来る人と全然出来ない人がいる。
 いま大半の図書館は、合議で選書をやっているんです。で、その合議でやっている選びかたとは違うことが求められるわけです。目利きのできる人間が、かつ、エネルギーと情熱を持って「面白いからやろう」みたいにやらないと、結局はそのまんま。段ボール箱で持ち込まれてそのまま、みたいになりがちで。汚れてるからカバーをとるとか、ものとしていかにきれいに再生し書誌データも新規入力するとか、予定外の労働になってしまって、面倒くさいといえば面倒くさいんですよね。
福嶋● 僕らの業界ではそれは完全に分かれているんですよね、新刊本屋と古本屋に。図書館もそれぞれの役割のあるハコ、あるいはそれぞれの組織というのがひょっとして必要なのかもしれない。僕ら新刊本屋の人間はべつに本を知ってるわけじゃなくて、本の売れ方や、この著者の本が前にどれだけ売れたかということまでしか知らないんです。自分が知っている本というのは、本屋の仕事としてではなくて、本を読む人間としてたまたま知っているだけの話で。だからそういう意味では、どんどん予算を使って新刊を揃えていくという作業と、その持って来られたものを目利きで「これはいい、必要だ」「いらない」という作業をやるのは、僕らの世界ではもう完全に別の業界です。おそらくひとつの職場でひとりの人間が両方やっちゃうっていうのは、かなり無理があるんだろうなあと思います。

なぜ長く図書館で働けないのか

佐藤● 堀さんが目利きが必要だっておっしゃるのは、それだけベテランの人が必要だってことですよね。「図書館の仕事に意義を感じている職員がなんで長く続けられないのか」ということついて話を持っていきませんか。人材ってことですよねえ。

堀● はい。僕は団体を代表しているわけではないし、俯瞰できる立場にいるわけでないから無責任になっちゃうかもしれないけど。東京二三区っていうのはすごく特殊なんです。図書館に情熱を持ったりあるいは図書館に長くいたいという職員を配置しない。あるいは、お金のかかる常勤職員は引き上げてしまえみたいな。
福嶋● うーん。
堀● ここまで極端に図書館の職員が不本意に異動をさせられたり、うとんじられているっていうのは、全国の中じゃむしろ珍しいんじゃないでしょうか。
福嶋● いろんな所でそういう話を読んだり、聞いたりするので。おそらく現場の方が考えている以上に、外部の人間は図書館というのは役所の中の異動先のひとつであって、いつ別の部署に移されるかわからない、というような印象は強いと思いますよ。
堀● ええ、そうですね。
福嶋● 図書館に長く働いている人は手を挙げてずっとやりたいとおっしゃったのか、もうその地域地域で違うのか。そのへんの情報っていうのがほとんど流れてない。例えば都道府県で違うのか、あるいは市町村も含めて違うのか、全国的にはどういう状況なのかということがもう少しオープンにというか。もちろん隠しているわけじゃないんでしょうけれども、「日本においては図書館というのは、役所の順繰りの人事異動で、回されていくにすぎないところなんだ」というふうに思い込んでいる人は結構いると思う。一方で、長く図書館員として勤めて、有名な人といいますか名のある人がずっと図書館で仕事をされてるという話も聞きます。どういう仕組みになっているのか外から見えない、というところなんです。

堀● 日本の公共図書館の職員は、全部公務員です。このごろは委託されて窓口に「職員」がいない図書館も出てきましたが。都道府県か、市町村の公務員ですね。ですから基本的にはその県、市町村の個々の任用制度がどうなっているかですね。その時の採用区分で、まずはその図書館の職員を専門的に募集する。例えば司書の資格を持っているとか、あるいはどこかの図書館での経験者を募集とか。あとは採用後の処遇として、まあ図書館に長くそのまま働かせるという形にしているかどうか、というのは結局その県および市町村、個々の事情や判断によって違うっていうことになります。昔に比べると、ベテランをスカウトしてくるとか、あるいは資格を持っている者を採用するとか、新館の図書館を作るときには専門家がいなければならないのではないかという認識は高くなっているのではないか、と思います。ただそれで図書館何十年もやっていくには、小さな職場なので、職員の年齢構成や配置具合が問題です。ニュータウンに保育園を作るのと一緒で、ある時期には若い保母さんがバーッと入って、それがいつか、あんまり乳幼児にとっても「おねえちゃん、おねえちゃん」って感じじゃなくなるというか。
福嶋● ふふ(笑)。
堀● 保育園でいえば「おばちゃん、お母ちゃん」っていう感じの保母さんばっかりになってしまうみたいなところがあって。いくら給料が安いからといって若い人ばかりでも困るんです。一方で、やる気はあっても、ある世代感覚を持っていてある時期の、昔の自分の若いころの本にばかり詳しいけれども、いまの本のセンスに全然ついていけないというような、そんな図書館員になってしまわないかというような恐れがあるわけです。
福嶋・佐藤●  ええ。
堀● それこそ本屋さんでいえば支店を出すことで変わっててみたりということができますけど。例えばジュンク堂さんなんかでいえば全国展開しているからできますけどね。図書館では、例えばこの市からよその市への転勤っていうのは基本的にはまだないわけですし、その市の中で分館を作るにも限界があります。狭い職域で人材の活用は長期的には難しいところがあると思います。
 ただ、係長や課長に昇進していくときに図書館にとどまれるかっていう問題はあるにしても、原則的には、少なくともヒラの職員レベルの時に、不本意に異動させてっていう働かせ方は、意欲や能力の活用のしかたとしてもおかしいわけなんで。

佐藤● 堀さんは二〇〇三年の四月に、恋ヶ窪図書館という地区館の図書館長になったんですけど、それまでは副館長とかっていうことではなく、ヒラだったんですよね。
堀● たった六人の館ですもの。市町村の規模によって、入ったあとの昇任の仕組みは違うんですけど、民間にくらべたら地方公務員っていうのはこれまで割合にシンプルなんですね。で、うちの市でいうと、結局、係長試験も課長試験も、試験っていうのはなかったんですよ。二〇〇四年から始まるみたいですが。
佐藤● へ〜え。堀さんはこれまでずっと公務員になってから図書館員だったわけですよね。
堀● うん、もうずっと図書館ですね。
佐藤● 館長になってからいきなり「保健課にいけ」ってのはないんでしょ?
堀● いや、ないわけじゃない。僕でいえば五〇過ぎて始めてヒラから係長の肩書きがひとつついた。だから、逆に係長になるときに、図書館の中でなれるかなれないかってのが大きな分かれ目だったかな。

佐藤● そのあとずっと図書館にいられるかどうかの?
堀● うん。図書館には係長って何人かしかいないわけですよ。運良く図書館のポストに空きがあればいいけれど、さて係長というときに、別の課に行かされる可能性がある。図書館に残るための抵抗のしかたとして、本庁舎の事務に移らなきゃならないから、だから俺は係長になるのはヤダというのは逆にあるかもしれませんけど。
福嶋・佐藤● あー。
堀● 私はどうなのかっていうと、募集の時に図書館の職員募集で「司書の資格を持ってる者募集」という形態で二五年以上前に入ったんですね。で、異動する場合は、採用の時に図書館で司書資格を持つ者を募集するということで入ったわけだから、そこを反古にするのかってことに一応なりますよね。だからひとつは募集の時にどういういきさつで入ったか、ってことだと思うんですけど。 
佐藤● でも、いま東京二三区はそういう募集のしかたはしてないんですよね。
堀● してないですね。

佐藤● これから入る人たちはずっと図書館で勤務したいって思っても、異動させらる可能性がいっぱいあるってことですよね。
堀● 役所全体が、財政危機だからできるだけスリムにしなければいけないということで、とりあえずは本庁舎の事務系の職場だけは維持して、保育園だとか清掃センターだとか、庁舎外の出先施設はできれば外注しちゃってスリムにしたい、お金がかからないようにしたいときの部局として、図書館もそう扱われちゃってる。例えば図書館を委託に出すとか。

アウトソーシングを逆手にとれないか

福嶋● もうひとつは、今、現に公務員として働いていらっしゃる堀さんの前で言うことじゃないのかもしれませんけど……。
堀● なんでしょう。

福嶋● 今進められている委託制度を逆手にとってしまう方法もあるのではないかと思いました。日本ではなかなか上手くいっていないけど、NPOとかね。委託先に、今働いている職員の方もそれほど条件的には変わらない形で受け入れて受託してしまったほうが、ひょっとしたら最初に申し上げた「公共」に近いものになっていくのではないかと思うんです。
 完全に商業ベースで、べつにTRCの悪口をいう必要ありませんけど、情熱のないアルバイトばっかりで、本のことを聞いても全然わかんない人間が、ただ単にビジネスの問題で受託して儲けに走るというのは、僕はいかがなもんかと思います。でもちゃんとそのへんのことがわかって、あるいはきちんと経験もあるような人たちが委託を受けるのであれば、極端な話、国や自治体から取り戻すチャンスなのかもしれないな、という言い方もできるのかな、と。
佐藤● うーん。
福嶋● もちろん、中で働いてらっしゃる人から見たら委託っていうのは、ある意味では労働現場に対する危機ですから抵抗があると思うんですけれど。まあ、僕らみたいな無責任な外部から見たら図書館はやっぱり地域で、あるいは意欲のある人間で運営されたほうがいいと思う。NPOだって別に給料がでないわけじゃないですから。利益自身を追求しない形で無理なく労働できる場所として、受託できるような法人があって、役所のほうはもうどんどんアウトソーシングしたいということになれば、またそれはそれでひとつのやりかたなのかなという気はします。
堀● 委託に出す役所の側が経費を安くするためだけじゃなく、お金は当然このぐらいはかかるんだ、むしろアウトソーシングすることのほうが図書館の公共性ものばせるし、いい図書館ができるのではないか、と福嶋さんはいっておられるるわけなんだろうけれど。議論としてはないわけじゃない。
 あと図書館に情熱を持っていて図書館員になりたかったり、それを続けてるものにとっては、公務員になりたかったのかどうかは疑問ですね。特に私の場合別に公務員になりたかったわけじゃなくて、図書館の職員になりたかったから結果的には公務員になるしかなかったんだ、みたいなことがまあ本音です。俺はネクラに本だけいじってたいから、俺は地域のおばさんや子どもたちと、客とのやりとりを楽しんでいたいから、結果的に公務員にならざるを得なかったんだというような層が確実にいます。特に図書館員の求人難の最近は図書館の職員募集を探して、けっこう遠いところまで、いろんな県に遠征して応募してっていう若い層はいるんです。

 これは委託が進む状況から言うと大変アブない議論でもあるのですが、図書館というのは、必ずしも税金を使って自治体直営というのが絶対条件ではないという気がします。地域社会のものであり、その地域の生活者の福祉や、あるいはその地域の地方自治に役に立つ施設であることは確かなんだけれども、じゃあそれが地域の税金で、直営でやらなければならないのかっていうと、必ずしも原理的にはそうではないと思います。図書館の職員であるセンスと、役所の職員であるセンスって、全然違いますから。
福嶋● 『ず・ぼん』の座談会のときにいただいた『図書館の近代』(東條文規、一九九九年、ポット出版)を読んだのですが、明治から現代にいたるまでいろんな紆余曲折はあるんだけれども……。要は、熱心に図書館のために尽力された方も含めて、国が面倒をみてくれるかどうか、つまり国が面倒をみてくれないときには図書館が不在で、予算がついてくるときにやっと図書館のようになったというムードを持っている。日本においては残念ながらそうであったということが書かれていて、非常に僕は実感としてわかったんですけれども。
 図書館は国のお金で本を貸してもらうもの、僕もそう思っていました。でも、そうじゃないオルタナティブがある。といってもすぐにニューヨークのまねをしろっていったって、絶対にできっこないと思うんです。だからといって、少なくとも国や地方自治体が手を引きたがっていることを単に負の方向で見るんじゃなくて、逆にひとつのチャンスだと。不況の時こそチャンスだといいますよね。確かにニッチもサッチもいかなくなってきた時こそ工夫のチャンスだと思います。
 いまおっしゃったように別に役人になりたかったわけじゃないと。ただ今の雇用形態は一種の習慣ですよね。最初に入った入り方でずーっと続いてきてという。これがいつか断ち切られたら、という不安はありますよね。僕なんかもそうですけど、定年まで同じ仕事で大過なく勤め上げてというのがたいていの日本人の考え方だと思うんですよね。
 この日本人の考え方でいうと、およそ国や地方の予算がどんどん減っていって、図書購入費がどんどん減っていって、当然職員の処遇も上向きでなくなって、もっといえば悪くなったり。そういうことに対する抵抗とか恐怖というのは、すごくよくわかるんですけれど、例えば、NPO法人化して、そこで資金を国や地方自治、あるいは民間からも引き出し、イベント等で自分でも稼ぎ、それを原資にして運営していくことも可能ではないか。人件費も含めて運営していくという形にする。資料費も「もらえるものはもらってしまおう」と。非常に荒っぽいといえば荒っぽいけれども、そういった方法で例えば資料費の部分を人件費にまわすというようなことを、いろいろ考えられるいいチャンスなのかなと。なんか無理矢理ひっつけたみたいですが。
 図書館外の僕たちが僕らにとってよりよい図書館になってもらうために、どんな協力ができるのかといったら、巨額な寄付なんか絶対ようしませんから、自分の持ってるもので使ってもらえるものを使ってもらう。そしていらないというものはいらんでいいと。そして使えるものの中でいちばんニーズの高い例が「待ち人数の多い新刊」ということであったわけなんです。

 だから図書館を地方自治・国ではアウトソーシングしたがっているということと、市民が自分が使っている図書館になんかしら貢献というか、あるいは参画という形をとれるということは別のものではないんです。そのときに初めて、幻想かもしれないけど「非常に大きな書斎が持てた」と僕ら市民が感じていくならば、それは両方にとっていいことではないか。まあ夢みたいな話かもしれませんけど。現にそれほど切迫しているのであれば、いろんな柔軟な考え方が職員の方だけではなく、それを統括する地方自治体もそうですけれども、利用者のほうからももっともっと意見や、「自分はここでこういうことを手伝いたい」というのがもう少し出てきてもいい時代なんじゃないかと思うんですよね。
堀● そうですね。図書館というのは、非常に広範囲の多くの利用者を抱えていて、親しまれている。役所の一部局というよりは、何かもう少し利用者自身にとって関わりやすいところがあるんじゃないかなっていうのは、僕らカウンターに座っていても、実感するところです。いままでと同じ構造で、役所から何とかたくさん予算をもらって何とかするんじゃなくて。図書館自身が自立して、利用者に直接訴えかけて、その他何らかの地域社会の援助をもらって、という感じはしますよね。そこにはもうひとつ、役所の側の理解、つまり図書館の自助努力については認めるとかそれを保障するということがなきゃいけないんだけども。それは新しい提案の仕方になるのかなって感じはしますよね。
 実は多摩地域に、市町村立図書館の資料保存・資料提供をバックアップする共同保存図書館(デポジット・ライブラリー)を作ろうという市民運動をやっているのです。どこの図書館も書庫が一杯で、毎年大量に除籍していかざるを得ない。しかし古い本も供給できるシステムがそなわって初めて図書館への信頼がもってもらえるはずだ。それは、例の東京都立図書館再編問題に端を発しているわけですが、その運営が問題なわけです。東京都の直営でも、多摩の市町村の共同組合でも、それらから資金援助をもらってNPO法人立でも、ともかくそういう新しい目的の図書館が必要だ、という議論なんです。
 直接市民が利用する地域図書館のことではないのですが、公的な新しい図書館をどう経営するか、という事が自分たちには大きな宿題なのです。

供給を邪魔するものが多すぎる

福嶋● 例えば、図書館では本を売れませんよね。
堀● 売れません。
福嶋● よく思うのはね、公共施設に行くと講演会がありますよね。そこで本を売ることは著者の希望でもあるし、出版社の希望でもあるし、もっといえばオーディエンスの希望でもあると。
堀● そうなんです。
福嶋● みんなが希望しているのに、公共機関の中では商売をしちゃいけないと。
堀● いけないですね。

福嶋● 講演会で話を聞いたらその先生がすごく好きになったから、「いますぐその人の本が欲しいんだ」というときに、「いや、図書館で本は売れませんから書店へ行ってください」と言うことしかできない。公の機関でいわゆる「商売」をすることはいけないことだと。みんなが望んでいてもそれはいけないと。
 誰も損をしないというか、要するにストックをフローさせることによってですね、経世済民というのは成り立っているのに、邪魔立てしている部分が多すぎるんかなあと思います。図書館の人も、お客の顔して書店に入っていくのは平気だけれども、「図書館でござい」といって書店の人間に会うのは敷居が高いように思われてる方もいますよね。本を貸してるから本屋の商売の邪魔をしてるんじゃないかと。僕ら、まったくそんなこと思ってないんで。冷静に考えれば図書館で本を読むという習慣をつけてくださった方が、最終的に僕らのところにちゃんと来てくれるわけですから。
 まあ簡単に言えば、需要と供給がそれぞれ活性化していけば、広い意味での経済ってのはすごくよくなるはずなのに、それをなにか邪魔しているものが、気持ちの上でもね、たくさんあるんかなあという気がします。
 いまはもうインターネットでサイトがいろいろあるわけですから、「この全集のこの巻集だけなくて困ってるんだけども、誰か持ってないか」と出していけば、「じゃあこれ、うちにあるから、もう読まないから寄付しますよ」っていう人が出てくるんじゃないだろうか。もっともっと出していけば、もっとあってもいいんじゃないか、と思います。需要と供給の情報交換がないところで、例えば「おじいちゃんが死んだから」ってわっと持って来られるんで困るんで。「こういうのを探してます」と。「じゃあうちにあります」と。こういうのをどんどんどんどん拡げていけばいいんじゃないかなあと。
 うまくIT機器を使えばね。僕なんかでもコンピュータを使うようになったように、例えば図書館本館に行けないときは検索して、分館に行ける三日くらい前に予約して、リクエストに回してもらうってことしていますから。みんなけっこうネットを見てるはずなんですよ、今の時代。
 例えば、「西田幾太郎全集」全部持っている人がいて、でもこんなの持ってても読めないんだと。かといって捨てるのも忍びないというときに、図書館が入れられますと。あれは完全に予約出版ですから、岩波行ったって揃いませんよね。そんときに全集でこれを揃えたいというときにね、譲ってというのもなんですから、いくらか、まあ定価といわんでもいいですから、資料費からその分を捻出して、「これくらいの金額で買いたいんだけども」といったら、喜んでくれる人もけっこういるんちゃうかな。

堀● 福嶋さんがいわれたのは、不況の時の工夫としてそういう話が出てきたっていう面もないわけではないけれども、図書館の今後のことを考えればもうすこし柔軟に変わっていかなきゃという、全部宿題じゃないかなという気がします。
 僕もイベント担当になったとき、講演会やるときに自分の本をそこで売ったりサイン会やれれば安いギャラでも行くからみたいな講師からの話ってあって、上司に相談したんですけどダメだって言われてお断りして、そのとき著者の方が怒ってしまって。こちらの現状はこうなんだから、そのことで非常にお怒りになる著者ってのもまた理解が足りないなみたいな感じってあるんですけれどね。
福嶋● まあ職員の方に腹たてるというのは筋違いですよね。
堀● 子供の本なんかであれば開催を地域文庫主体にしてもらって、そっちで本は売ってもらうみたいな。「買いたい方はあちらの会場でやってますから」みたいなことにして、とかいう逃げ方もあった。もっとのどかな時代には勝手にやっちゃってたことが、正式に手続き踏んでやってみたらダメだったということがこの間の経緯であって。照らし合わせるとどこもそうなんですね。
 それから新刊の書店ではなかなか本が補充できなくなってきて、古書店からも本を足していたんですけれども、値段の評価についてまためんどくさい話になるわけですよね。
福嶋● ええ。

堀● なかなか古書店でも買いにくいということがあって。このごろは図書費予算もないのですけど、どうしてるのかというと、ほとんど個人でインターネット古書店などで買って、その個人が寄付しているというような状況なんですよ。
佐藤● 堀さんが買って寄付するっていうこと?
堀● ええ。シリーズものの抜け本はインターネットサイトで探して、その抜け本を個人で買って、寄付する、うちなんかでもくり返しやっているんです。
佐藤● 堀さん以外でもやってる職員の方っていらっしゃるんですか?
堀● いるいる。つくられて五年一〇年くらいの新しい図書館の蔵書はおよそ新刊業界を厳選したような形になりますでしょう? ところが二〇年三〇年の図書館はというと、その頃に売っていた図書をベースにしてますでしょう。それは蔵書の強みでもあるんだけど、抜けてしまった本がぼろぼろあるわけですね。傷んだり盗られちゃったりっていうのをなんとか足していかなきゃならない。絶版や品切れは、古本屋で探して自費で足していくか、寄付してもらうかしかないわけなんですよ。それで、まあこんなことは言うことないんですけれど、僕のところで言うと、ベテランの職員がとにかくネットで探してきてくれて、寄付すると言うから半分は僕が自分の金を受け取ってもらっている。
 郷土史料なんかだったら、国分寺や多摩関係の歴史物は、どうせ古本屋さんで買うしかないみたいなのがあって。言っちゃえば公費で運営されている図書費で、新刊でない書棚のメンテナンスができないっていうことですから。たとえば藤沢周平の、全集じゃない昔の文藝春秋のソフトカバーの単行本ですね。文庫本はまだ買えるんですけど、一番読みやすい普通の単行本のメンテナンスは非常に難しい。

福嶋● ええ。

古い本の補填がどんどん難しくなっている

堀● 僕は西武池袋線沿線に住んでいるんで時々、ふらふら棚を観察しに来るんですが、このジュンク堂に来ると、出版社で注文してももう在庫切れだといわれてる事典類や、全集本・シリーズ本の端本があるので刺激されてありがたいんです。
 少し前の基本図書を発注しても、「それは在庫切れです」とか「箱がないからもう売れません」というようなものがここには置いてあるんですよね。実は、最初の話の利用者からの持ち込みのことですが、持ち込まれた古書で、図書館の基本図書といわれる本を足していくしかない、みたいな状況が既にあるわけです。小学館のニッポニカ百科大事典が七年前くらいに品切れになって以降、実は利用者から二回もいただいて、持っていなかった二つの図書館で入れられました。それとこの間、教養的な図書が出版市場の在庫からどんどん消えていっているという問題があります。だから、新しい図書館を立ち上げるときに、基本的な文学全集や各分野の定評のある事典類は新刊の発注では買えないわけですよね。
福嶋● ええ。

堀● もうこのままでは図書館らしい図書館が成り立たない。もうちょっと柔軟にしていきたいです。予算の使い方もそうだし。おおおっぴらに本を寄付してもらって棚づくりや棚のメンテナンスに協力してくださいみたいなことをしたい。そのときに「全部受け入れろ」っていう構図じゃなくて、理解していただくことを前提にして地域の人たちに認められ、福嶋さんの言うパトロニズムをもって、維持してもらえるっていうか。そうでないと成り立たない。
 もうひとつは、中高年の方にとっては古い本があることが、共感できる図書館なんだと思うんですよ。四〇年くらい前、杉森久英っていう作家が『天才と狂人の間』という小説で直木賞を取ったんです。戦前に『地上』という当時大ベストセラーになった小説を書いて人気者になったが、スキャンダルにまみれて若く死んだ島田清次郎の伝記なんですけどね。杉森久英も、もう亡くなっちゃった。で季節社で十年くらい前に島田清次郎の『地上』の復刻本を出したんですね。で、それは元は大正時代の小説ですけど、たまにはそういうの混ぜようと思って、蔵書にぽっと入れとくわけですね。それでですねえ、一〇年ぐらい前の話ですけれど、当時でも七五才ぐらいのおじいさんがそれを棚からわーっと持ってきて、「これ、僕若いころ読んだんだ」って感激された。「僕若いときにはなんか島田の再来だとか、すごい天才少年だとかいわれたんだ」って、カウンターでワワワって言うんですよね。なんていうかな、七〇代八〇代の方たち、あるいはそれ以上の方、たぶん同世代の大半が既に亡くなって、町もガラガラ変わってしまって、いわば、自分の共感できる記憶というか、町の記憶とか地域の記憶とか、あるいは読んだ本とか音楽とか、自分の人生の手ざわりが基本的な日常からどんどん消えていくわけです。そうなると自分の若いころ馴染んだ音楽も、自分で保管しておかなければ再生することはできないし、住んでる場所そのものがだんだん疎外感だらけの場所になるんだと思うんです。こういう意味では、古い本のある図書館というのは一種、そういう疎外感からどっか回復できる、自分を実感できる回路のある場所になるところがあると思うんです。
福嶋● うん、うん。
堀● たとえばまあ、高橋和巳なんていうのは一九七〇年前後の一時期わーって流行って全集も出たけれども、今は文庫にもないっていうのがありますよねえ。それから井上光晴は、あんだけ流行ったのに文庫にもないというのがありますよねえ。それはたぶん福嶋さんでも誰でも世代世代でそういうものがあると思うんですけれども、ふと若いころを思い出したときに、じつは自分で残しておかない限り何もなくなっちゃったっていうのはありますよねえ。
福嶋● ええ。
堀● 図書館はちょっと閉架には入ったりしてるかもしれないけれど、いろんな時代の記憶をなるべく維持しておきたい。実はこちらの仕掛けとしてはそういうものも少しずつ開架の棚に混ぜておいて、っていうふうにしたいです。そういうことができるためには、補充の回路としても地域の年輩の方を使わなければしょうがないというのもありますよねえ。中年以上の方にとって、これだけ地域や町や音楽や風俗文化なんかも含めて、ガラガラと変わっていく中で、自分が疎外感から抜けだせる回路を持ったレトロなところ、そういう武器としての本。図書館というのは、古本屋さんを使うとか、地域の方に提供していただいてそれで深みが出てくるみたいなところがあって、逆にいえば新刊の本屋さんより面白いところになりうる。

福嶋● ええ、そうですねえ。利用者からいうとね、何らかの必要があって読んだ、興味があって読んだ。そしてあるときから興味がなくなり、それが必要なくなった。そして一〇年先二〇年先に、その土地にいるかどうかわからないけど、とりあえず自分の地域の図書館にもし使えるもんだったら使ってもらって預かってもらってたら、ひょっとしたら、まあダメならダメでかまわないんですけども、そういう回路があればひょっとしたらのちに一〇年先二〇年先に来て、ああ自分が昔読んでた本がここにあるというのがわかれば、すごく感激するでしょうね。
堀● うん、そうでしょうね。
福嶋● 古本屋さんと図書館ていうのが最終的に本を刈り入れて、整理し、保存するところだと小尾俊人さんがいってるけれど、そういう役割を担っていただけると、僕らも安心して本をフローしていける。
堀● うんうん。
福嶋● 僕は自分の持ってる本が図書館に置いてあったらもうそれでええんです、自分は捨てたっても。でもそうじゃなくて、ああこれどこかに置いとってほしいなあ、でも自分のウチはこれで置くとこないなあという時には、最近ちょっと変わってきたんですけれど、全集は売らずに持っとるんですね。でも、ひょっとしたら全集を手放したって、図書館に最後には置いてあるかもしれんなという気がちょっとしてきました。
堀● ええ。

福嶋● 自分の家か、図書館か、どっちをとるかは別ですけれども、自分だけが蔵書を持ちきれないということをいくらか助けてもらえる場所として、図書館があれば大変助かるなあと。で、そのためにはひとつはまずその地域の図書館がまず無理のない程度で受け入れてくださるということが必要なんです。またインターネット時代なんで、どこに何があるということが僕らはわりとすぐに探せて、必要なときは多少時間はかかってもかまいませんから「ここにあるんで、こちらで借りてもらえませんか」というような仕組み。もっと敷き居を低くというか、気軽にお願いできるようなね。いや僕もこの地域に住んでるので融通してもらえませんか、というような。フランクになればいいですよね。本好きと言うのは、どっかにその本があって、必要な時にそれが読めればいちばん嬉しいというようなところがありますから。
堀● ええ。
福嶋● 図書館の人が自分の時間外を使って、さらには自分で買ってきてまでやらざるを得ない仕事になっているのは、やむを得ないといえばやむを得ないのかもしれませんが、図書館の方の個人的な犠牲だけでなく、もっと広く地域全体っていうと大げさですけが、お互い、やれるところで力を貸しあうほうがいいと思います。
 古本屋さんは商売ですからね、買ってもらわなきゃしょうがないですけれども、僕らは持っていって、これが必要なんだということがわかれば、無理がなければ寄付することも可能なわけですから。それが図書館にあればいいわけですから。そういう方法をなんとか図書館側の方たちも、あるいは利用者の僕らも、また場合によっては書店の人間としての僕らも、何かできることがあるかもしれない。たとえば絶版といわれている本を支店中捜しまわったりね。逆に書店の側は、どうしても仕入れができない本を持ってる図書館を教えてもらう。そしたらそこへ読者をご案内しますからみたいなね。
堀● サイトに書いてらっしゃいましたね。
福嶋● 風通しのよさというんですか、そういうのが必要とされているんじゃないでしょうか。やればもっと楽しいんじゃないかと思います。

堀● ええ、そうですね。
福嶋● 楽しくなるし、必要とされてることなんですから、要求ということじゃなくて、お互いに要請しあって、ようするに利用者も含めて、もうみんなが協力しあってやっていけば、こうもっとみんなが幸せになれるのかな、と。
佐藤● 残念ですが時間がなくなりました。福嶋さん、今日はどうもありがとうございました。