2012-12-11

第23回■旅打ち

二週間とちょっとのご無沙汰である。おまんたせいたしました(笑)。このところ、アラフィフにして“モテキ”らしく、いろいろと、お声かけが多い。ふらふら、遊び呆けていた。また、この連載に際して、琉球の歴史を調べ直していた(嘘)。と、“ ( )”つきで、“嘘”としたが、まんざら嘘でもないし、当然、自らの怠惰さを糊塗する言い訳でもない。

これまで東京の街角に巣食う男と女の物語を紡いで来たが、たまにはシチュエーションを変えてみることにする。バチンコやパチスロ、競馬や競艇などの公営ギャンブルなどで、旅行しながら遊興(というか、勝負)することを「旅打ち」というらしい。旅先のテレクラへ行くことを「旅打ち」というかわからないが、もし、そういうなら、テレクラ版の「旅打ち」みたいなこともしていた。

その頃、仕事をしていた企画会社では、時々、出張などもあって、そんな機会を利用し、地方のテレクラを体験させてもらった。既に全国にはテレクラが普及し、どんな地方にも必ずあるという状況だったのだ。どこで、最初にテレクラ版の「旅打ち」をしたか忘れてしまったが、良く覚えているのが沖縄でのテレクラ体験である。

90年代の沖縄

たぶん、沖縄へは、ある会社の招待(接待ではない!)で行ったと思うが、同社のクルーと合流し、那覇の市内に数日間、滞在した。主に企画のための場所やスタッフ選びのためだった。これが私の初沖縄で、91年の秋だったと思う。10月に近かったが、まだ、沖縄は真夏。仕事の合間に、恩納村のリゾート・ビーチで、泳いだ記憶がある(すいません。しっかり、遊んでしまいました)。

バブル時代である。リゾート・アイランド、沖縄はトロピカルな意匠を纏い、多くの若者達を南国の楽園へと誘い、ダイビングやサーフィンなど、様々なマリンスポーツに興じたものだ。恩納村や残波岬、名護などのリゾートにはハワイやグアム、バリなどを模したホテルやペンションが立ち並ぶ。沖縄のリゾート開発は、国を挙げて促進されていた。

1987年のリゾート法(総合保養地域整備法)制定を機に、沖縄ではリゾート開発が相次ぎ、リゾート法に基づく、沖縄のトロピカル・リゾート構想などもあったという。

一方で、開発に伴うトラブルも続出。石垣市では牧場の土地売却が問題化。1991年には開発にからむ贈収賄の疑いで与那国町の助役と開発業者が逮捕されている。

勿論、いまも続く「米軍基地問題」は厳然として立ちはだかり、騒音や事件、事故なども頻発していた。ある種、いびつな形で、沖縄は成長していたといっていいだろう。

私にとって、沖縄といえば、リゾートというより、喜納昌吉&チャンプルーズやりんけんバンドなど、沖縄音楽を通して、馴染んでいた。勿論、紫やコンディション・グリーンなど、基地の米兵を相手にすることで育った沖縄産の ロック・バンドもよく聞いていた。THE BOOMが「島唄」を全国的にヒットさせるのは数年後(1993年)のことだ。

喜納昌吉を通して、琉球音楽の素晴らしさを知ったが、同時に、彼の壮絶な生き様を辿ることで、基地問題から発生したコザ暴動があったことも知った。紛争の街としての沖縄を認識しないわけにはいかない。

照屋林助や嘉手苅林昌など、沖縄音楽の大御所達が出演した高嶺剛監督の映画『パラダイス・ビュー』や『ウンタマギルー』を通して、毛遊びなどの風習、久高島や斎場御嶽(せいふぁうたき)の神事など、神話と幻想の国としての沖縄も理解していたつもりだ。

ガマに繋がる、第二次世界大戦時、沖縄戦の激戦地として、集団自決やひめゆり学徒隊などがあったという“記憶”も知識として理解していた(まだ、“ざわわ”でお馴染みの明石家さんまのドラマ『さとうきび畑の唄』は放送されていなかった。同ドラマが放送されたのは2003年のこと)

そんなわけで、“夏だ、海だ、タツローだ!”という“ラブランド、アイランド”的な浮かれた気持ちではなく、やや、複雑な感情を抱きながら、私は沖縄の地へと足を踏み入れた。

招待してもらった会社の方と合流し、現地のクルーと、昼食を兼ねた打ち合わせを済ませ、ロケハンをする。ちなみに、昼食の場所は、沖縄の胃袋、牧志公設市場の二階だった。空港に着いた時からそうだったが、市場の外に出ると、日差しが眩しく、その熱は東京のそれとは比べるもなく、熱帯そのものである。いまなら「かりゆしウェア」とでもいうのだろうか、アロハみたいなシャツでさえ、肌に纏わりつき、ベタベタと張り付く。

以前、あるインタビューで、照屋林賢が沖縄は湿気が高く、逆に東京に来ると、肌が乾燥し、三味線の革も乾燥して、張ってしまうと言っていた。そういえば、沖縄はスコールのような雨も良く降り、まるで熱帯雨林帯という感じでもある。地勢的に日本であっても日本ではない。「うちなー(沖縄)」と「やまとぅー(本土)」とでは、歴史も風土も文化も大きく異なる。

と、私のような半可通が沖縄論を語っていても意味がないだろう。ただ、バブル期にあっても「リゾート・アイランド・沖縄」には乗り切れず、どこかで複雑な感情を抱いていたことだけは書き記しておきたい。私なりに沖縄の光と影というものを認識していたといっていいだろう。

一通り、ロケハンが終わると、今度は夕食である。沖縄でも高級料理であるイラブ-(ウミヘビ)汁を出す店へ行く。当然、チャンプルーや豆腐イリチー、グルクンの天ぷらなども食す。東京の沖縄料理屋で、沖縄飯には慣れ、親しんでいたが、流石、にイラブ-などは食べられない。イラブ-は、ニシンを煮出したような黒色になり、その汁もどす黒く、中には、テビチといわれる豚足も入る。いわゆる滋養強壮にいい料理である。ヒ―ジャーといわれる山羊汁と同じように、夜の食事という感じだ。あとで、気づいたのだが、歓楽街の側に山羊汁を出す店が多かった。精力をつけてから、ソープやキャバレーへ繰り出すという感じだろうか。多少、飲みも入ったので、数時間は経ち、既に11時近かった。翌日もあるということで、ここで解散となる。

夜の単独行動

宿泊先は那覇市内のリゾートホテル。海に面してはいないが、全体の作りが南国風で、開放感のあるところである。クルーと挨拶をして、部屋に戻ると、シャワーを浴びる。汗だらけの身体を洗い、清める(!?)。明日のため、休むと思わせて、ここから動き出すのが私である。夜の街へと繰り出す。旅先、それも深夜の単独行動、なんか、それだけでもワクワクとするというもの。夜の街が俺を呼んでいる!

初めての土地だからといって、ただ闇雲に、当てもなく彷徨うのではない。不思議なもので、かの地でも夜の街の情報は下調べできている。特に情報誌などを熱心に事前に読み込んだわけではないが、遊び人の“常識”、もしくは“基礎知識”、または“嗅覚”として、自然に体得していた。真栄原や辻、松山などが那覇市内、もしくは近隣の歓楽街である。真栄原は、那覇市内から車で15分ほどの宜野湾市にある社交街。ちょんの間が乱立している。現在は浄化され、絶滅したといわれるが、大阪の飛田などと並ぶ、色街だった。セックスをしたければ話は早いが、当時の私の遊びのスタイルとはかけ離れていた。いつか、冷やかしでも行こうと思っていたが、結局、行く機会はなかった。

同じ理由で、那覇市内のソープ街として有名な辻にも行かなかった(後日、同所にある有名なステーキ屋には行った。前述通り、ソープ街に精力のつくステーキ屋というのも絶妙な取り合わせだ!)。

私が目指したのはキャバレーやスナックが軒を並べる松山だった。沖縄美女を口説こうという算段だ。ホテルからタクシーへ同所に向かう。ホテルからは大した距離ではないが、沖縄では短い距離でもタクシーは嫌がらない。鉄道がない(現在はモノレールがある)沖縄では、車移動が当たり前。ワンメーターくらいでも文句はいわれないし、沖縄の人もあまり歩かず、すぐにタクシーを利用するようだった。

タクシーに乗ると運転手が松山ではなく、しきりに辻へ行くことを勧める。あげくにはソープランドの名刺まで出してくる。客引きというか、名刺をよく見ると、タクシー会社(○○観光みたいな名称だったと思う)とソープが系列店になっていた。甘い誘惑を振り切り、松山で降りる。

いまはどうなっているかわからないが、地方都市にありがちな歓楽街という感じで、ネオンが眩しいが、新宿・歌舞伎町などと比較ができないほど、質素ではある。それでも歓楽街にありがちな怪しさが漂い、男と女の色と欲が絡み合う、私の好きな空気が充満している。既に0時近いというのに、人通りもそこそこあり、活気づいていたような気がする。沖縄の不夜城といわれているようだ。“不夜城”と聞くだけで、嬉しくなる(笑)。

端から端まで歩いても10分ほどで、そんな広くはないが、クラブやスナック、キャバレー、キャバクラなどが並んでいる。南国美女が闊歩している。夜遅くから出勤する女性も多いようだ。そんな女性に声を掛けてみる。いきなりのストリート・ナンパである。新宿・歌舞伎町でキャバクラ嬢に声をかけても無視されるだけで、足を止めることなどないが、沖縄の女性は優しいというか、足を止めて、話を聞いてくれる。これだから南国の女性(サザン・レディ!)は好きだ。映画『愛と青春の旅だち』の主題歌で御馴染みのジョー・コッカーも「Southern Lady」なんていう曲を歌っていた。浪人時代に付き合っていた女性も佐賀出身の女性だったし、旅先の熊本で出会った女性も長崎出身だった。しばらく、文通もしていた(恥ずかしい!)。そんなわけで、私と南国女性は相性がいいと、勝手に思い込んでもいた。

とりあえず、片っ端から声をかけていったが、出勤まで少し時間があるという女性のナンパ(?)に成功し、喫茶店(深夜喫茶か)で、お茶をすることにした。20代の派手な顔立ちの女性で、松山のスナックへ勤めているという。あまり時間がないので、他愛のない話しかしていないが、松山の街について、リサーチを入れる。私がテレクラマニアであることを伝えると、同所にはスナックやクラブだけでなく、テレクラもあるという。ビジネスホテルの側にあるテレクラを教えてくれた。ナンパした女性にテレクラの場所を聞くというロクデナシにも親切なことだ。サザン・レディは、男に優しいのだ。

いよいよ旅打ちだ。その成果については、また次回。