2005-04-19

ヤマタク・宮台真司・松沢呉一ファンは必見!の映画『Dr. Kinsey』……マッカーシズムという名の”赤狩り旋風”に倒れたセックス研究の旗手……

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 きっと、駄作にちがいないと思っていた。フランス映画誌での評価は「まあまあ」といったところだし、予告編を見ても心惹かれることはなかった。今年に入ってから、アメリカで制作された伝記物映画を何本も観て、安易な想像力にいささか辟易していたので、『Dr. Kinsey』もまた、見るに値しない映画なのだと思った。
しかし、実際は違った。
「性のマッカーシズム」が広がりつつある日本・アメリカにおいて、アルフレッド・キンゼーの問いかけた問題はいまも、生きている。ちなみに、日本でも本年、公開予定だそうだ。

この映画は性科学の先駆け的存在であるアルフレッド・キンゼー(1894-1956)の一生を、史実をもとに描いた作品である。キンゼーの父は婚外性交を忌み嫌う純潔主義的な牧師であった。キンゼーは父に反対されながらも、動物学の研究に勤しみ、研究書を上梓し大学の教壇にも立つ。

彼は途中から、結婚や性科学の研究を始めるようになり、アメリカ人の性行動の聞き取り調査を始める。その頃のアメリカの大学では、「セックスは40歳になってから」と真顔で語る教官がいるなど、当時の社会の風潮は純潔をよしとしたようだ。

ゲイの行動について調査するためキンゼーがゲイバーを訪れた夜、バイセクシュアルである助手(♂)の誘いに応じて、ベッドの上で性的戯れを楽しむ。キンゼーもまたバイセクシュアルであったのか、それとも性科学を探究する以上、幅広い経験が必要だと悟り、自ら同性とのセックスを実践・探求したのかは分からない。

聞き取り調査を元に記した『男性における性行動』はベストセラーとなり、社会的センセーションを巻き起こした。1948年のことである。

しかしながら、「女性における性行動」が1953年に出されたことにより、キンゼー・バッシングが激化する。当時は共産主義・社会主義を徹底的に社会から締め出すマッカーシズムが吹き荒れていた時代である。既存の社会通念に挑戦していったキンゼーが、あたかも共産主義・社会主義の走狗であるかのように指弾され、議会で告発される。ロックフェラー財団がキンゼーの研究に助成金を出してきたのだが、その支援はとりやめられ、キンゼーの聞き取り調査は強制的に終わらされる。
映画では失意のうちにあるキンゼーの姿が描かれた。

しかしながら、レズビアンの老齢の女性がキンゼーのもとを訪れ、彼にいう。

「わたしはあなたの研究によって救われたのですヨ」

キンゼーは人には多様な性行動があることを示したから、同性愛者にとっては励みになったのかも知れない。

もし、キンゼーが現在の日本に甦ったらどうなるか。大学の講義で男性器や女性器の画像を映し出し、性生活について講義する彼は「セクハラ」の烙印を押されるのではなかろうか。全国飛び回って、個人の性生活を聞き取り調査するキンゼーはとんでもないセクハラ・オヤジになってしまうのではなかろうか。

かつては性の解放は「赤」の烙印をおされ排撃されたのだが、現在においては包み隠すことなく性について語る営みは「セクハラ」の烙印を押されて排撃されていく。地位・役職・職業などを利用して性行為を強要する犯罪性が「セクシュアル・ハラスメント」の概念によって鋭く告発されたのだが(筆者は権力利用型セクシュアル・ハラスメントに対する賠償額が近年、高くなっていることを評価している)、いつのまにか、あらゆる性的なものが「セクハラ」と指弾されるようになってきている。赤でもないキンゼーがかつて「赤」扱いされたように、である。

キンゼーの行動をレズビアンの女性が評価して賛辞を与える……というシーンは象徴的だ。
同性愛者と異性愛者を分かつのは、同性に欲情するのか異性に欲情するのか……という性的指向でしかない。そもそも、同性愛というカテゴリーは「性愛」を基準にしてつくられたものであるから、「性愛」なり「性的」なものへの排撃は「同性愛」への排撃に往々にして帰結する。

キンゼーへの排撃を我が身のように感じた同性愛者が当時、少なからずいたのかも知れない。

追伸:松沢呉一さんが監訳される本(ポット出版から刊行予定)の中で、「性のマッカーシズム」とでも呼ぶべきアメリカの状況について、記述があるという。早く手に入れたいと思う。