2005-03-20

アフリカ大陸旅行・二日目 ③

 ヤクルトの古田選手のブログを見ていたら、映画について書かれていた。
 「ショーシャンクの空」について書いてある。高校時代に同映画は見たが、たいへん印象的だった。フランスで知り合った中国人が、同映画の中国語字幕付DVDを私にくれ、現在も大切に保管してある。

閑話休題。

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(前回からのつづき)

そこには土でできた小屋のような、異星人が住んでいそうな、いや原始人がかつてそこで生活していたような建物がいくつも並んでいた。風はさらに強まり、口も目もまともに開けられない。会話をしたならば、砂埃が口内に侵入し喉にまで到達し、咳き込んでしまいそうだ。これが砂嵐というのだろうか。麦わら帽子でもかぶっていたら、強風にあおられ、とばされて砂漠の彼方に消えていきそうだ。
そこにも、布で顔を覆った男性何人かがブレスレットを手にして立っており、我々に「買わないか。安くする」と声をかけてきた。
子ども二人は一緒にかけながら、そこにある施設を見ていっている。私はといえば、さっさと見終わってすぐに車に乗り込みたい気分だった。一〇分ぐらい一巡してから、車に乗り込んだ。耳に指を入れると、砂がこぼれ落ちた。耳穴にびっしり細かい砂が入り込んだようだ。めがねの表面にも、ほこりのように砂がびっしりくっついていた。
しばらくして子どもたちが車に入ってきたのだが、兄の方が興奮気味に
「すごい、よかった。よかった。ネ」
と弟に同意を求めると、
「うん」
とうなずくのであった。それまで、ヒマをもてあそばしていた少年が突然、生き生きした。
とりあえず、砂漠の中のスポットはこれで終わり、次の目的地、ナフタという小さな村に私たちは向かった。
車中で孫連れの初老女性から
「ところで、アナタはどこからいらしたの?」
と聞かれた。
「日本です。でも、いまはパリで勉強しています」
「アナタ、彼、日本人ですって」
と夫に話しかけ、
「いやね、私の息子はいま東京にいるの。なんていう場所だったかしら。シンジュクの近くに住んでいて。そう、シブヤ。シブヤのアパートに住んでいるわ」
と話を続けた。彼女には三人の息子がいるそうで、東京にいるのは三男坊だそうだ。ナオコという日本人の恋人と一緒に生活しているという。
「渋谷は新宿と同じくらい有名な街です。そして、若い人の街です」
「それはよかった。うちの息子たちはまだ若いですもの。ところで、フランスでアナタは何をなさっているの」
「パリ第九大学で経営学を勉強しています。フランス語を勉強して11ヶ月ばかし。大学では英語で授業を受けています」
「あらそう。パリに住んでいるならば、連絡先、あとで教えてくださる?私もパリにいるの。パリにいるとき、助けてあげるから、私たちが日本に行ったときは、助けてくださるかしら。ネ」
「もちろんです」
まさか、日本人女性と付き合い日本で暮らすフランス人の家族と、チュニジアの南部の村で出会うとは思わなかった。

村につくと、運転手の知り合いである観光ガイドが突っ立っていた。路地に入り、周囲の住宅について説明していく。
「ここは昔、ユダヤ人の街だったんだ。玄関にダビデの星がいまも残っている。ほら」
といって、玄関の扉を指さした。扉には鉄の取っ手のようなものが三つついている。
「それぞれの取っ手を以て、ノックするんだ。これが男性用、これが女性用、そしてこれが子ども用」
といって、ドアにこんこんと打ち付け、ならしてみせた。なるほど、響き具合が異なる。男の取っ手は重くどっしり響くが、女性用のは軽く乾いた音だ。
「これで、男性の客が来たのか、女性の客が来たのか、分かるんだ」
少年たちは路地を歩いているとき、取っ手のついたドアの方に行き、試しにコンコンと叩いてみせた。
「だめだ、そこには人が住んでいるから」
ガイドさんが注意すると、案の定、住人の女性が出てきて、怪訝な顔をしてこちらを見つめた。ガイドが女性にアラブ語で何か話しかけたら、女性は家へ戻っていった。

そして、我々は二階建ての石でつくられた家に案内された。
「時間は大丈夫なのかな」
と、誰かが運転手に聞くと、
「いいよ、いいよ」
と彼は答えた。
その家はガイドの所有する家だという。石の上にゴザのようなものがしかれ、布団だかベッドだかがしかれていた。窓にはガラスがなく、通気孔としてのみ機能しているようだった。これでは、夜、そのまま冷たい風が入ってこないのだろうか。
ガイドは各部屋で、それぞれについて細かく説明するのだが、興味を覚えなかったので、私は外に出て、涼しくなってきた夕方の風を浴びた。鳩が家の上に何羽かとまっている。皆、ネズミ色の羽をしていたが、一匹だけ、白鳩がいた。
鳩を眺めていると、ガイドと他の旅行客が出てきた。孫連れの夫婦は
「これは私たちから」
といって、ガイドに20ディナールを渡した。
運転手はテレビのある部屋で横になり、パンを頬張っていた。まるで我が家のような厚かましさだ。
私たちは車の方に歩き始めた。これで、今日のコースはすべて終わり。トゥズールへと車は向かった。途中、何もないところで、運転手が突然、車をとめた。
「もう少しで、日没だ。日没を見てからいこう。それでいいかな」
という。我々は
「もちろん」
と答えた。
傾きかけている陽と地平線をずっと眺めた。地平線をこうしてずっと見るなんて、久方ぶりである。その前にいつ、地平線を眺めたのか思い出せない。
頭上で輝いているときはまぶしく熱いのに、傾くに連れ、日差しは弱くなり涼しくなるのは、なぜなのだろうと思った。小学校のときに理科で習ったような気もするが。
周りの雲を赤く染め上げる陽は弱々しいけど、蝋燭の火のようで、やさしくやわらかく、手を近づければ暖かさを感じられるような気がした。
陽が地平線に消えていったのを見計らい、運転手は
「それじゃあ、行こう」
と、車を発進させた。日が沈んでも、すぐに真っ暗になるわけではない。まだ、砂漠の遠くを見渡せるぐらいには、明るかった。

車はホテルまで送ってくれた。ホテルに着いた頃は真っ暗になり、外に出ると寒くて身震いした。運転手と旅行客たちに挨拶をしてから、私はロビーに行った。部屋に戻ろうかと思ったが、お腹がすいていたので、近くのレストランに行き、クスクスとチュニジア風サラダ、フライドポテトを注文した。
全部平らげてから、私はホテルに戻り自分の部屋へいった。お風呂に入り、本を読んでいるとどうも、お腹の調子がおかしいのに気がついた。消化がうまくされていないように思えた。
アフリカ旅行に「腹壊し」はつきものである。
胃腸薬をすぐに服用し、ヨーグルトを買うべく街に出た。歩いてみると、消化不全であることがよりいっそう、感じられた。小さなカップのヨーグルトを四つばかり買って食してから、ベッドの上で横になった。