2007-05-21

知られざるサルコジ仏新大統領の素顔 大のタバコ嫌いで、酒は一切飲まない

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オーマイニュース』に次のような記事を執筆しましたので、転載いたします。

タイトル:知られざるサルコジ仏新大統領の素顔
サブ・タイトル:大のタバコ嫌いで、酒は一切飲まない

 5月16日、ニコラ・サルコジ氏がフランス共和国の新大統領に就いた。氏の素顔について報じる日本のメディアは数少ない。サルコジ氏の知られざる素顔に迫った。

趣味
 大のタバコ嫌いで、ワインを含め酒は一切飲まない。大好物はオレンジ・ジュースとチョコレートだ。ジョギングと切手収集が趣味で、週に2度はジョギングする。暇な時はi-Podで音楽を聴いている。好きな歌はフランス人歌手のフォーデル=ベルーアの「我が故郷」。好きな本はスイスの小説家・詩人アルベール=コーエン『寵姫」。悩みの種は偏頭痛である。

シラク大統領の娘を口説き続けた?
 ジャーナリストのフランツ=オリヴィエ=ジスベル氏が書いた『大統領の悲劇』(2007年)という本では、サルコジ氏がシラク大統領の一人娘であるクロードさんに長いこと言い寄っていたと記述している。しかし、クロードさんは「誘惑に負けたことは一度もない」と発言しているという。日刊紙『ル・モンド』はホームページに2007年1月8日付けで同紙の大統領府担当記者へのインタビューを掲載。記者は「今朝、クロード=シラクさんが公の場で長くサルコジ氏と密談をしていた。そこにいた誰もが2人の『親密さ』の証だと解釈した」と述べている。


交友関係
 俳優のジャン=レノやルイ=ヴィトン=グループの総帥など財界人。

『マリアンヌ』誌 
 『マリアンヌ』誌が2007年4月16日発売号で12ページに渡る「真実のサルコジ」という特集を組んだ。好調な売れ行きで36万部の同誌は8万0000部、増刷した。
 サルコジ氏が不寛容で攻撃的で病的なまでに支配欲が強い人物であると記述。ジャーナリストや政治家からの多くの匿名の証言を元に、メディアでの批判を抑圧するように権力を使うだろうと報道。「サルコジは狂っている。同時に脆弱な性格だ。サルコジは独裁者になるだろう」と記述する。

経歴
 ニコラ=サルコジは 1955 年生まれ、カトリックの洗礼を受けている。兄弟が2人いて、兄のギヨームは 1952年生まれ。のちに繊維会社の社長になる(一時期、フランス経団連の副会長であった。弟のフランソワは1957年生まれ、のちに小児科医、ついで生物学者となった)。
 ニコラ=サルコジは、その子ども時代を、最初、パリの 17区で、次いで、ヌイィ・シュル・セーヌで過ごした。彼は、公立シャプタル高校においては、6年生(日本の中学1生に相当)で留年、6年生を2回やっている。この私から公への移行は、1学年しか続かなかった。彼は、すぐに、私立サン=ルイ=ド=モンソー高校の生徒となる。1973年にバカロレア(大学登録資格試験)Bを取得、一家はヌイィに落ち着く。

 1981年、弁護士資格証を取得。パリで、不動産問題を専門とし、11人の弁護士を擁する「アルノー=クロード&ニコラ=サルコジ法律事務所」を共同で開設した。
 1974年、彼は右派の共和国民主連合(UDF)に入党、ジャック=シャバン=デルマ元首相の選挙に党員として従事し、1975年には、オー=ド=セーヌ県の若き県議となる。1976年には、シャルル=パスクワ(1988~2004年にオー=ド=セーヌ県議会議長)の肝いりで新設された共和国連合(RPR)に移る。1976年には、同党のヌイィ地区の責任者となり、1977年にはヌイィ市議会議員に選ばれた。
 パリ10大学(ナンテール)に学び、公法および政治学についての学士号を取得したのち、1978年には、私法(私人の間における法律)の修士号を取得。同年、パリ政治学院の入学前に兵役に就く。1981年になって、1969年4月27日の国民投票(ドゴール政権による上院改革および地方自治権の拡大案に関する投票であったが、否決された)に関するDEA(博士論文準備課程)論文で口頭試問を受ける。
 1980年には、ジャック=シラク現大統領の若手支持者会の代表を務める。1981年、ジャーナリストになるべきか、長い逡巡ののち、弁護士資格証を取得しようと決意、母の後を追うことになった。そのまま、ギィ・ダネ弁護士に採用される。
 1982年9月23日、コルシカ島にある人口1000人程度の村・ヴィコの薬屋さんの娘であるマリ=ドミニク=キュリオリと結婚。ピエール(1985年生まれ)とジャン(1987年生まれ)の2児をもうける。結婚式の立会人は、シャルル=パスクワであった。
 1983年には28歳でヌイィ=シュル=セーヌ市長となった。1987年には、内務省において、化学および放射能問題担当の命を受け、チェルノブイリ原発事故のおりには、政府の報道担当官を務めた。のち、34歳で代議士となり、38歳で財務大臣となる。

セシリア夫人との出会い・W不倫
 1984年、ヌイィ市長として、セシリア=シガネル=アルベニズさんと出会う。サルコジ氏は、テレビ司会者ジャック=マルタンと彼女の結婚式に市長として立ち会い、彼女に一目惚れする。「俺のものにする」と執拗にアプローチした結果、セシリアさんは1989年に離婚して、サルコジのもとに走った。困難をきわめた離婚手続きののちに、彼らは1996年に結婚。立会人は、マルタン=ブイグとベルナール=アルノー。ブイグ氏は電話会社「ブイグ・テレコム」や不動産会社、フランスのテレビ局「TF1」を所有する企業グループの総帥であり、アルノー氏はルイ=ヴィトン=グループ(LVMH)の総帥で、世界で7番目の金持ち。2人ともフランスを代表する企業家・資産家。
 セシリア夫人との間に1997年にルイという息子が生まれている。2005年5月25日にスイスの日刊紙『ルマタン(朝)』が、フランスとモロッコの国籍を持ち、ニューヨークに本社をおくコンサルティング会社・パブリシスのCEOであるシャール=アティアスのもとへセシリア夫人が駆け落ちしたと報道し、フランス・メディアも追随した。2006年初めにセシリア夫人が自分のもとへ帰ってきたとサルコジ氏はメディアに示唆した。それ以来、夫婦は復縁したと見られている。

出版停止
 女性ジャーナリストのバレリー=ドマンさんが2005年10月、セシリア夫人のインタビューをもとにした「伝記」を出版したところを、サルコジ内務大臣(当時)が出版社の社長を内務省に呼び出し、出版停止を命令、社長はどう喝に屈し、発売を停止した。2006年2月2日にドマンさんは小説の体裁で伝記を出版した。小説の内容は出版社の解説によれば、ある女性(セシリア夫人)の生い立ちから夫を捨てて新しい男のもとへ駆け落ちするまでの個人史を描いた作品ということだ。
 2007年3月1日に「サルコジの富裕税にかかわる疑惑」という記事を日刊紙『リベラシオン』が掲載したところ、同紙の大株主の1人を内務省に3月7日、呼びだし、同紙のことを「くそったれの左翼紙だ」と罵倒した。2007年4月16日にはラジオ局「RTL」に週刊『フィガロ』の前編集長が出演し、サルコジ氏の提灯記事を掲載するよう同社幹部から圧力をかけられたが拒否したところ、辞職に追い込まれたと発言した。前編集長は複数の政治ジャーナリストがこれまでにサルコジ氏からどう喝されたと証言した。