2008-12-02

お部屋1724/瀬戸弘幸とは 5・誤字不感症

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このシリーズは、「瀬戸弘幸とはなんだったのか」とありし日を振り返るモードになってきてます。同様の人物が出てきた時に対処できるように、また、自分自身がそうならないように、この作業はしっかりやっておいた方がいいと思ってます。

今回はわかりにくい内容かもしれないです。わかりにくかったら飛ばしてください。

3羽の雀さんに日付の間違いを指摘されて、慌てて修正しました。あれは、スティッカムの映像の日付が間違っていて、それをそのまま書き写したためです。改めて16日であることを確認して直しました。お恥ずかしい。

この時の恥ずかしさは、「ともあれ間違ったことを書いたのが恥ずかしい」「単に書き写して確認をしなかったのが恥ずかしい」ということですが、純然たる私の内的な基準に照らして恥ずかしいとともに、人に「こいつは間違ったことを書いてやがる」と思われることが恥ずかしいということだったりします。これもまた私の基準ではあるのですが、他者の視点を取り入れることで生じる感情です。

発表する前の原稿に間違いを見つけた時にも恥ずかしさは生じますが、「発表する前でよかった」という安堵もあって、発表して以降に見つけた時の方が、他者の視線がある分、さらに一層恥ずかしい。

発表する前の原稿に間違いがあったことの恥ずかしさは、他者の視線を先取りすることによって生じているのかもしれず、事実、そのまま発表することのないメモや日記の類いで間違いがあったところで恥ずかしさはあまり生じない。

生じにくいだけのことで、公表することのないメモや日記でも、時間が経ってから、書いていることを読み直した時にしばしば恥ずかしさは生じます。これは時間を経ることによって過去の自分を他者として見直すこと、つまり書いた時点では自分の中になかった視点が生ずることによるものだったりもします。

時には、時間を経ずとも、書いた瞬間に恥ずかしいと思うこともあります。「書いている自分」「それを見ている自分」のふたつの視点が同時に存在している。

また、「他者は恥ずかしい行為と見なしても、自分はそうは思えない。恥ずかしいと思う方が間違っていて、堂々とやっていいことだ」と恥ずかしい行為をあえてやることもあります。お笑い芸人も恥ずかしいと思われることをあえてやるのが仕事です。

これらは他者がそう思うことを踏まえた上で自覚的にやるものですから、他者の視点が欠落しているわけではありません。他者の視点のない「天然」と言われる芸人もいますけど、天然を装っていることも多いものです。

このように人は「今ここにいる私」という固定した視点のみで事物や事象を見ているのではなく、自分の中に複数の視点を取り入れて、より適切な判断をしようとします。自然にやっていることですから意識しにくいのですが、他の動物ではできにくい高度な能力なのだと思われます。

雑駁な定義ではありますが、「恥の観念」は「今ここにいる私」以外の視点を取り入れた時に生ずる感情だとしていいかもしれない。酒に酔って他者の存在を意識しにくい状態になり、恥ずかしい行為をやってしまう人たちもよくいますね。

「人間にはこのような能力がある」とまとめることができるとして、どうやらこの能力には個人差があるようです(追記参照)。このような視点を十分には設定できない人が存在するのです。

この能力は、学校における「頭の良さ/悪さ」とは関係がないので、こんな能力がなくとも、日常生活にさしたる支障はないでしょうが、仕事の「向き/不向き」はあるかもしれない。タイプによりけり、ジャンルによりけりですが、物書きはこの能力がないよりあった方がいいでしょうし、政治家も同様です。

また、どんな仕事をしている人であれ、議論をする場合、つまり他者と考えをすり合わせる場合に、この能力が劣っている人たちはとても困った存在となります。議論においては、「今何が問題になっているのか」「この問題はどこからどう生じて今に至っているのか」「他者はどうとらえるのか」を正しく把握する必要があるわけですが、これができないのです。

能力が欠落している人たちは能力が欠落していることを認識しにくい。「バカの壁」みたいな話ですが、とりわけこの能力は、能力がある人でも意識しにくく、ない人はまして意識できない。数値化もされにくいため、客観的な基準で自分をとらえることもできず、「何が問題になっているのかが把握できていない自分の何が問題か」も把握できない。

その典型的な例が「集団ストーカー被害者」の人たちです。彼らが「集団ストーカー」の存在を確信している根拠は「自分には聞こえる」「自分には見える」「自分には感じる」という「今ここにいる私」が感得していることだけです。他者を納得させる客観的な事実がない。なた5936さんが言うように、妄想に反論するのは不可能です。

彼らはしばしば桶川ストーカー事件やオウムを持ち出しますが、こちらには客観的な事実が存在していますから、まったくの別物。「ホスゲンがまかれた」とするには、自分だけが感じるだけでは不十分。これは客観的に立証できることですから、それをやればよい。しかし、やらないし、できない。

それがない以上、「そんなもんはないんでねえの」「妄想だっべ」と言うしかない。「今ここにいる私」から視点をずらした時には、当然そうあしらわれることが想定できない。これが理解できるくらいなら、「集団ストーカー被害者」としての主張などしないでしょう。

ただし、「集団ストーカー被害者」の中には、理解されないことを自覚できている人たちもいます。だから、無闇には「集団ストーカー」の存在を口外せず、周りも気づきにくい。「なにのなぜそれが妄想であると気づけないのか」が不思議ですが、ここは病気の領域ですから、私もその理由がよくわからないです。

病気によって何かが欠落したり、壊れた時にこういう状態になるのでしょうが、病気の領域にまで至らずとも、こういう状態になりやすい人たちがいるようです。

UFOが存在すると主張する人が存在しないという他者と議論するためには、「オレは見た。オレを信じろ」では話にならないわけですが、これが「話にならない」ということも理解できない人がいる。

信じるという人たちの間で語っているのであれば前提がクリアされてますから、「人に迷惑をかけない範囲で勝手にやっていてくれ」って話ですし、ファンタジーとしてのUFOは私も好きなのですが、社会に対して「実在するのだ。政府はそれを研究すべきだ」なんてことを主張するのであれば、客観的な事実の裏付けが必須でしょう。

もう何を言いたいのかおわかりかと思いますが、瀬戸弘幸は、この能力が決定的に劣っているように見受けられます。繰り返しますが、病気だとは言ってないですよ。

「内部告発があった」「100%確信する」「朝木直子を信じる」という発言は、「今ここにいる私を信じろ」というものでしかなく、第三者による検証を拒否しています。議論が成立しないのです。

これは信仰であって、何を信じるのも勝手ですが、独り言で済ますべきであり、公に言うことではあるまい。

橋本玉泉さんの電話インタビューについての瀬戸弘幸の発言を見ていても、「何が問題なのか」がまったくわかっていない。「バカのふりで逃げようとしている」との可能性はなお否定できないですが、本当にわかっていない、つまりわかる能力がないのだと疑えます。

チャートでも作って、手取り足取り説明するしかないのかもしれない。説明したところで、わかるかどうか怪しいですが。

「裁判の仕組みもわかっていない」ということについては「無知」「勉強しろよ」で済むことなのかもしれないのですが、「電話はインタビューとは言わない」という指摘については単なる無知で済む話ではなく、これを出してきたこと自体、より本質的な欠落を感じないではいられません(もしかるすと、2つの立場をすりあわせる場である裁判というものを理解することが瀬戸弘幸には難しいのかもしれない。審判を下す裁判官という立場も加わりますし。瀬戸弘幸が区別できるのは「敵」と「味方」のふたつまでですから)。

瀬戸弘幸は視点をずらして検証することができない。俯瞰という視点が持てない。全体を見渡した時に、「インタビューが電話だったか対面だったのか」には何の意味もないということさえ理解できない。なおかつ、第三者から見た時に、「取材をしないあんたが何を言っているのか」となってしまうことも理解できない。

これまでにもたびたび見てきたように、瀬戸弘幸は、過去に自分が書いてきたことと矛盾することを平気で書きます。Aという時点とBという時点の自分の一貫性を見渡す視点さえ持てないのかもしれない。

あるいは、瀬戸弘幸や「草の根」が、自分がやってきたことを他人がやると批判するのは、その両者が第三者から見た時には等位にあるということがわからないのかもしれない。

以前から3羽の雀さんや私は「草の根」には恥という観念が欠落していることを指摘しています。(「3羽の雀の日記」「羞恥心と人権感覚がない人たち」「黒子の部屋」「1652/矢野穂積に学ぶ 4 」を参照のこと)。

「草の根」や瀬戸弘幸に共通することですが、事実関係の間違いだけでなく、彼らは誤字や脱字に無頓着です。誰だって誤字脱字くらいはやりますし、「漢字を知らないので間違いやすい」ということはもちろんあるでしょうが、それでも指摘されれば直します。恥ずかしいですから。

「わかればいいのだ。そんなことは気にしない」という人であっても、人名、書名などの固有名詞の間違いは失礼であり、迷惑がかかりかねないため、少なくともこういう部分だけは気づいたら直すってもんだと思います。

「間違う頻度が高いこと」よりも、「直さないこと」に意味がありそうです。

「1679/特殊な人たちの共通項」に書いたように、世の中には、誤字脱字をまったく気にしない人たちが現にいます。恥の観念が他者の視点を取り入れることで生ずるのだとしたら、この能力に欠陥があるのではないかと疑えます。「オレ様ワールド」が成立することともおそらく関係しているのでしょう。

続きます。
 
 
追記:このような話は「マツワル」「メタ視力」というシリーズでずっと論じていまして、今も時々論じています。

視力に差があるように、この能力にも大きく個人差があって、この能力が劣っている人を「メタ弱視」「メタバカ」と言います。ちなみに私は視点がぶれやすい「メタ乱視」です。「だからいけない」というのでなく、他の能力同様に、自分の「メタ視力」の程度と傾向を把握しておくことが大事なんだと思います。

ここでも「メタ視力」「メタ弱視」「メタバカ」といった用語を使うと楽だったのですが、「メタ視力」「マツワル用語」なので、「メタ視力とはなんぞや」を最初から説明しなければならず、ここでは使用しませんでした。

このエントリへの反応

  1. 私もつい最近「集団ストーカーサイトウォッチング」にハマッてしまって爆笑している者です(笑
    あるサイトからココを見つけて飛んで来たんですけど
    柿と糞と病気をつなげて考えてしまう思考には参りましたね。
    そのうちハクビシンをイジメたりはしないかと心配してます(笑
    確かに、彼らの思考の中には自分以外の視点がまるで無い。俺が俺がの主張一点張り。

    それはそうと、天才糞嗅ぎ師としての名声が高まる一方のせと氏。
    その元に集団ストーカー被害者達が集結しつつある。
    こんなニュース、ドコのマスコミも取り上げてないけど
    考えようによっちゃ結構怖くないですか?これって。
    一人一人は鳥の糞に脅える程度でも、集団になると人間何するか分からないトコもあるし。
    …でも彼らの活躍をネットだけでなく、テレビで見れる日が来るかも~なんて
    不謹慎なコトを考えてる自分がいたりして結構困ってます(笑

  2. これについては面白いサンプルがあります。

    http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52055292.html

    >あー、ベーナスは、当方らの間で、
    >ナーバスの更に悪い状態を指して使っている仲間用語です。
    >Posted by なまえ at 2008年10月07日 03:43

    ナーバスという語をうろ覚えしていて誤記しちゃったのに、開き直ってる。
    続いて、

    >実は、当方が、ナーバスをベーナスだと思っていたのだなと
    >勝手に解釈する人が出てもおかしくない気がします。
    >正直、気分悪い。
    >Posted by なまえ at 2008年10月07日 03:54

    もう無茶苦茶な逆切れw

    これくらいマツクロさんの指摘を体現している例はなかなかありません。
    言うまでもなく、「なまえ」さんは典型的なゼリー脳の方ですね。

    まぁ、ご参考まで。

  3. いらっしゃいませ。

    面白いけど、怖い。とくに集団になると怖い。瀬戸弘幸一派と「集団ストーカー被害者」のどちらにも言えることです。

    完全共振状態ですから、互いに加速しているはずで、最後のひと仕事をやらか可能性もあるでしょうね。おお、こわ。

    周辺にはまだしも冷静でいる人が残ってますが、この人を排除した時が本当に怖いです。

  4. >もんさま

    もとが脆弱なので、言葉の間違いでも認めると壊れるように思うのかな。

    瀬戸弘幸も、大々的に指摘されると、直せなくなるみたいですね。

    誤字そのものより、「誤字だと認めることが恥ずかしい」と思っているのかな。認めようと認めまいと誤字であるという客観的な事実より、自分の中の折り合いが優先される結果が、誤字の放置かもしれない。

    なんにせよ、今回、「誤字不感症」というジャンルが確立できそうなのは収穫です。

  5. [...] お知らせ3:私も企画に関わっているDVD「嗚呼、涙のハードコアお笑い劇場」(大洋図書)が先日が発売になりました。こちらも書店流通で、アマゾンでも取り扱い中です。       「お部屋1724/瀬戸弘幸とは 5」のコメント欄で、もんさんがまた大変いい例を紹介してくれました。「なぜ彼らは間違いを訂正しないのか」を読み解く格好の素材であり、「自分のミスを他者に転化する特性」「攻撃により、自分の世界を守ろうとする特性」が顕著に出ています。 [...]

  6. [...] 追記:ベーナスの意味がよく飲み込めない方は、 「1724/瀬戸弘幸とは 5・誤字不感症」のコメント欄をご覧ください。 [...]

  7. [...] 「1724/瀬戸弘幸とは 5・誤字不感症」のコメント欄で、もんさんが指摘していたように、この言葉が最初に公開されたのは、「日本よ何処へ」10月6日のエントリー「【連載】朝木明代元東村山市議殺害事件(20) 万引き未遂送検日・前後の不可解な動き」のコメント欄です。 改めてこのコメント欄をチェックしたところ、ベーナスを使用した最初のコメントが検索でひっかかりません。どうやら、なまえさんはベーナスの「べ」を平仮名で、それ以降を片仮名で入力しているようです。なぜそんな複雑なことをしているのかは知らないです。 [...]

  8. [...] 「瀬戸弘幸がどうしてああも誤字脱字や事実関係の間違いを平気で書いていられるのか」については、もともと日本語が不自由ってことともに、第三者の視点が欠落していることが理由になっていると、「1724/瀬戸弘幸とは 5・誤字不感症」で説明しました。 ここでもうひとつ気になることがあります。 [...]

  9. [...] ここまで何度か瀬戸弘幸が書くことの幼稚さを指摘してきました。一般論としては、勘違い、書き間違いをあげつらうことはあまり褒められたものではないわけですが、すでに書いたように、瀬戸弘幸やその周辺の人たちが、こうも誤りを乱発することには彼ら特有の理由があるのだと思っています。これについては「 1724/瀬戸弘幸とは 5・誤字不感症 」でも書いた通り。 [...]

  10. [...] 草薙厚子だと思ったじゃないですか。さすがに「ゼリの根」グループは漢字の間違いに無頓着です。 [...]

  11. [...] 草薙厚子だと思ったじゃないですか。さすがに「ゼリの根」グループは漢字の間違いに無頓着です。 [...]

  12. [...] そもそも彼らは揃って誤字に無頓着です。これについては、「1724/瀬戸弘幸とは 5/誤字不感症」を参照してください。 [...]

  13. [...] 語が不自由ってことともに、第三者の視点が欠落していることが理由になっていると、「1724/瀬戸弘幸とは 5・誤字不感症」で説明しました。 ここでもうひとつ気になることがあります。 [...]