2012-02-07

エフメゾ関連のエッセイ

エフメゾ関連のエッセイをまとめたエントリを間違って消してしまったので、改めてアップします。エフメゾに行ってみたい!と思ってくださっている方はぜひ、参考に読んでみてください。こんなことを考えながら、ママ業をやっている伏見です!

■「太腕繁盛記」1

こんにちは、伏見憲明です。ご存知ない方も多いと思いますが、ぼくはゲイやセクシュアリティについての評論、小説などを書いてきた物書きです。そして最近は水曜のみ営業をしているゲイバーのママもしています。このエッセイ「太腕繁盛記」では、ぼくが営業しているゲイバー、エフメゾで経験している様々なことについて書き連ねていく予定です。

……振り返ってみると、ぼくがゲイバーに出入りするようになって、今年で30年。と文字にしてみて、自分でもビックリ。30年ですよ、30年! デビューの時代は、歌謡界でたとえると山口百恵から松田聖子に移り変わる辺り。あのときに生まれた子供たちがもう30歳になるのだから、浦島太郎のような気分にもなります。高校2年生のぼくは週刊誌の風俗記事を見て、そこでスキャンダラスに取り上げられていたゲイディスコなるお店に勇気を振り絞って出掛けていきました。当時アルパチーノ主演で話題になった『クルージング』というホモ映画の公開があり、アンダーグラウンドな風俗として二丁目にもほんのちょっとスポットが当たっていたのです。

以来30年間、まあまあコンスタントに繰り出して行っては、飲んだり、ハッテンしたり、友だちと遊んだり、接待したり、案内したり……と、自分の人生に欠かせない場所として二丁目と付き合ってきました。だけれど、好き嫌いの激しいぼくには、ついぞ「常連」になったといえるような店はできませんでした。そこそこお邪魔していた店はありましたが、「常連」だと胸を張れるかと訊かれれば、うーむ、と口ごもってしまうような不真面目な客だったと思います。客観的に思い出してみればとてもいい店もあったし、尊敬できるママもいました。だけれど、「自分の場所」だと感じられる店があったかというと、それは四半世紀以上、得られなかったかもしれない。

その理由は自分にあって、やはり、自意識過剰な人間ほど、他人の空間には馴染めないものなのですね(笑)。だとしたら、他人がやっている店にけちをつけていても埒があかない、自分でお店をやればいい。……のだが、資本金も人脈もないぼくには、自分でいちから出店することなど叶いませんでした(まあ、書き物の仕事もやっているしね)。そこに、たまたま、メゾフォルテを経営している福島光生さんから、休店日を使って何かをやらないかというお話しをいただき、これは渡りに船と、水曜日を借りてゲイバーのまねごとをしてみることに。週一なら文筆業との両立もできそうだし、あきもこないかもしれない。この先行き不透明な時代、フリーランスは収入源をたこ足化しておくのが安全だし!と。

それで二年前から「水曜日だけのゲイバー」という触れ込みで、エフメゾ(Fushimi’s mf)営業させてもらっているのです。ただ、まねごととはいえ、人様からお金をいただくのですから、物書きの片手間仕事ということではなく、ちゃんとした接客をしようと心がけています。ぼくがそれまでの経験で嫌な気分になったゲイバーの対応というのは、初めて行ったときに店子にろくに口をきいてもらえず放置プレイされたり、水商売以前に基本的な礼儀がなっていない接し方でした。なので、自分のバーでは、とにかく初心者には丁寧に接客をし、たとえ友人でもお客様として臨むことを忘れないようにしています(当たり前だけど)。それが百パーセントできているかといわれれば、ハイとは答えづらいですけれど、手伝ってくれているスタッフにもそのことは徹底しています。客と友だちの境があいまいになってしまうのがゲイバーの良いところでもあり、悪いところでもありますが、それが悪いほうに作用してしまうと、なんともどんよりしただらしない空間になりがちだからです(終わりかけのゲイバーって、どこか死臭が漂いますよね)。

それと、ゲイバーであるからはお客様には多少なりとも色っぽい欲求があるのだと想像するので、できるだけ積極的にお客様同士をカップリングをするように努めています。昭和のくっつけバーの伝統はちゃんと受け継ぎたいと思っているのです。「エフメゾではオトコできない!」とよく常連さんたちに愚痴られますが、実際は水面下ではあれやこれやあるのがゲイバーです(笑)。伏見ママは個人的な趣味としても他人のカップリングが好きなので、ほんと、心から、自分の店でお客様に恋人やセクフレができてくれたら嬉しいと思っています。

それ以外はとくにコンセプトもなにもなくやっているのですけれど、二年間いろんな試みーー例えば、褌ナイトとか、文化人とのトークイベントとか、ねるとんとか……を積上げてきた結果として、エフメゾはお色気やお洒落を目的としている人よりは、誰かと話しをしたい人が集まって来るように思います。本人はおしゃべりが苦手でも、人の話しを訊いたり、そのことで考えたりといったことが好きな人も含めての、会話好きの集まり。カラオケはしないことにしているのですけど、とにかくみんなよくしゃべっているので、店内がいつも活気に満ちていて、ときにはうるさいほど。一応ゲイバーなので、ゲイ優遇政策を取るとは宣言していますが、実際は女性やノンケも多く、そんな多様な人たちがその場で意気投合して、いろんな話題で盛り上がっています。だから、知らない人に声をかけられて不愉快に思ってしまう人は、エフメゾには向かないかもしれない。むしろ、それまで知り得なかった人との出会いを求め、誰かと言葉を交わすことを快と思える人には絶好の空間でしょう。

そんな雑多な人たちのコミュニケーションのなかから、恋愛ばかりでなく、出版の企画が成立したり、部活動がスタートしたり(エヴァンゲリオンのファンのお客様たちが集うエヴァ部や、みんなで読書しようという読書部など)、有志でパレードに参加しようなんていう動きもあります。よく初めてエフメゾに来店した方に驚かれるのだけど、出たがりのように思われている伏見は、ドリンクのお運びや調理に忙しく、あまり店ではしゃべりません。自分を押し付けるのではなく、お客様同士の結びつきを後押しする黒子でいようと考えています。あとはお客様同士で盛り上がってくれればいいのです。

ゲイバーに正解はない。どのゲイバーが良いとか悪いとかは一概にいえません。多様なニーズに応じた多様なバーがあればいいわけです。伏見のバーも××系とはなかなか一言ではいい表しにくいのですが、コミュニケーション系という辺りが妥当かもしれません。足を運んでくださる方も、二十歳から最高齢七十七歳まで、一般人から有名人まで、イケメンからブスまで、小学校卒からケンブリッジ大学教授まで、下戸から酒豪まで、ゲイから女性のおばさんまで、巨根からカントン包茎まで(笑)……が、とりあえず、平場の関係で楽しく飲んでいます。二年の時間のなかで友情といえるような親密な雰囲気もできてきました。

この連載では次回から、エフメゾで起こる様々な出来事、ご来店くださるユニークな方々のことを書き綴っていこうと思っています。これからしばらくの間、どうぞご贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。

■「太腕繁盛記」2

ゴールデンウィーク明けから梅雨時にかけてゲイバーは少し客足が落ちます。冬から春に向かう季節には、かすかな暖かさに発情が刺激されて花が咲くようにゲイたちが二丁目にやって来ますが、それもひと段落し、連休で小遣いを使い果たすと、ゲイたちの足取りはにぶります。そして梅雨の到来とともに、気まぐれな彼らは、蒸し暑いなかわざわざ新宿まで足を運ぶのが面倒になる……というのが、伏見がベテランママから教えてもらった二丁目のバイオリズムです。これで夏真っ盛りになると、また暑さでムラムラした発情ガマたちで街が華やぐようになるわけですが、この五月、六月をどう乗り切るのかがゲイバー商売の勝負どころ。

というわけで、伏見がやっているエフメゾも、この時期の客枯れを補うために周年パーティを前倒しに催すなどしました。おかげさまでけっこうなにぎわいで、六月前半の減収をなんとか取り戻すことができたのですが、少々気になることが……。これ、二丁目全般に関しても最近よく言われることなのですが、やって来るお客様のなかでのノンケ率、とりわけ女子の比率が高く、ゲイ客が減少傾向にあるのです。もちろんせっかくご来店いただいたお客様に、性的属性でいちゃもんをつけるわけではありませんが、ゲイバーなのにゲイが少なくなるのは、あまりいい傾向ではありません。このあたりの案配の問題が、ミックスのゲイバーをやっていていちばん頭を悩ませるところです。

「政治的な正しさ」を求めることに快感の得るマニアなら、ゲイにこだわらず誰にでも平等に開かれていればいい! と明るく理念を語るでしょうが、実際はそうしていくと今度は場の「面白さ」がなくなってしまうのです。だって考えてみてください。そもそもなんで人々が二丁目に来るかというと、そこが他の街とは異なる文化を持っているからです。昨今ではその文化がゲイだけで作られていないのも確かですが、歴史的な経緯もあり、二丁目の二丁目たるところはやはりゲイに負うところが多いのも事実です。オネエのセンスや、マッチョのフェロモンや、過剰なエロスがあるからこそ、この街は他とは異なる空気に覆われているのです。そしてそういう文化的な色彩が面白くて人々が集まってくるわけですから、やはり二丁目の魅力は単なる「多様性がある」だけでなく、その根幹にあるゲイたちの存在に依っています。文化ってある意味で「偏向」だとも言えるでしょう(だから文化と政治的な平等って相容れないところもある)。

なおかつ、エフメゾはゲイバーを標榜していて、そこに来るノンケのお客様も「ゲイカルチャーな」情景や雰囲気を求めてやって来るわけなので、ゲイよりもノンケのほうが多かったらわざわざ二丁目まで足を運ぶ意味もなくなってしまいます。人間、身勝手なもので、自分はそこに入れてほしいけれど、かといって完全に開かれて「普通のバー」になったら来る意味もなくなってしまう……。という具合で、ミックスのゲイバーを経営していく上で大事なのは、お客様のバランスなんですね。

そんなことを考えながら二年ほどゲイバーをやってきた印象では、ゲイ客が7割を占め、残りの3割をノンケや他の性的マイノリティのお客様が分け合う、という案配が健全で、その偏向ゆえにかえって多様性が実感できるように思います。これが、ノンケや女子が5割くらいになってくると、ホモエロスの濃度が低減し、そこにお金を落とす理由が見いだせなくなったゲイ客が引いてしまい、あっという間に、観光バー化が加速してしまいます。伏見の場合、物書き業の人間関係などがあるので、むしろ観光バーにするほうが簡単で、もしかしたら利益も格段に上がると想像するのですが、そうなったら自分自身、接客をしていて楽しくなくなってしまう。やはり伏見はゲイバーのコミュニケーションや、場の空気が好きなんですね。

そして、ゲイバーのコミュニケーションのどこがいいかというと、「勝ち札」で勝負しようとしないところなのだと思います。

以前、飛び込みのお客様がテレビにも出ている有名人を連れてきてくれたことがありました。あまりテレビを熱心に見ていない伏見は、その人が誰だか気づかず、「どんなお仕事なさっているのですか?」などと伺ってしまったのですが、それに対して先方はどこか不満げ。仲間内で思わせぶりな表情をするだけで、(あとで考えたら)自分を知らないの? みたいな表情を投げかけてくるばかりで、らちがあかない。そのうち先方もつまらなくなったのかお帰りになったのですけど、その様子を見ていた別のお客様に、「伏見さんがあの人のことを○○さんだって気づかないのが可笑しかった!」と笑われて、あぁ、そういえば見たことがある顔だと、相手の名前を思い出したのでした。

たしかに、お店に有名人が来るというのは宣伝になる面があるし、お客様も最初は喜ぶので(あくまでも最初だけ)ママとしては嬉しくないわけでもないのですが、肩書きが全面に出たかたちでコミュニケーションするのは案外つまらないものです。ゲイバーの面白さは、もともとゲイたちが世間から差別されているがゆえに、どんな偉い人でも学生でも同じカウンターに座って同じ目線で話すことができるところにありました。「所詮ホモだから偉ぶっても格好つけても一緒」という感覚があったのです。ですから、そこに必要以上に世間的な立場を持って臨まれても興ざめしてしまうわけです。身分を競うのなら銀座などに行けばいい、と。

あと、ノンケの男性客によくあるのですが、自分の「勝ち札」を切るように会話するのも笑えない。有名人の誰それと知り合いだとか、どんな会社と付き合いがあるのかとか、どんな大きな仕事をやってきたのかとか、そんなことで会話をされても、ちっとも面白くない。そういう力のある男が好きな、パワーノンケ狙いのノンケ女子は「勝ち札」でジュンと濡れても、ゲイバーの空気が好きの人たちは鼻白んでしまうわけです。やはり、ゲイバーの魅力は、どこまで自分を落とせるか、互いに落とし合って笑えるのかにかかっています。換言すれば「負け札コミュニケーション」の喜楽さや、リラクゼーション、対等な感覚が、人々を新宿駅から徒歩15分もかかるこの街に引きつけてやまないのでしょう。

そう考えて営業戦略を立てると、ゲイバーはミックスにしていても、ゲイ客を優遇せざるをえないし、ゲイでないお客様もたまには脇役であることを楽しんでもらうことが肝要になってきます。それを「差別」と受け取るセンスの方は、少なくともエフメゾには来てほしくないし、来てもらっても困惑するだけでしょう。でも、人はいつでも自分が主役でいる必要などないのだから、たまには脇役をきわめて楽しんでほしいものです。伏見だって、レズビアンバーに行けば脇役に徹しますし、女装バーに行ってまで主役を張ろうとは思いません。(とはいえ、そんなことを言っていても、実際は主役脇役の区別もそれほどなく、エフメゾではみんなお酒や会話を交わしてしますが)。

■「太腕繁盛記」3

最近、セクシュアリティのメモリが細かくなってきているのを実感します。どうも同性愛/異性愛といった二項対立的な枠で自分をとらえられない人がじんわりと増えているような……。

多様化が進む社会ですので当然と言えば当然ではありますが、「一言で自分のセクシュアリティを説明するのが難しい」と語る人、語りたい人のなんと多いことか。それがかつてのように自分のなかのホモ(同性愛)や変態を受け入れられないからジタバタしているという風情ではなく、あるいは、「ゲイ・アイデンティティは近代に作られたものです!!」みたいな「理念的な」反発からでもなく、ホントに微妙すぎてわからないの〜!といったニュアンスの人が目立つ。そうした変化を、ゲイバーでお客様と接していると強く実感します。

時代が更新されて、そういう微妙な嗜好の人が二丁目とかに出入りできるようになったゆえもあるでしょう。

ゲイの歴史をひもとけば、隠し仰せようもない欲望を抱えた人から自分を受け入れていった事実があります。ストーンウォールの反乱で最初に暴れたのもドラァグクィーン(女装)だったし、日本で初めて同性愛を文学の主題にしたのも、変態としかいいようがない三島由起夫でした。そこからだんだんと、平均的?なゲイもカミングアウトするようになり、さらに、よくわからない欲望を持った人たちも多様性を主張するようになっていくわけです。

今日び、ネット上に数限りなくあるエロ動画から、自分のイキどころにぴったりの場面を探し出してマスターベーションを楽しむ世代を考えれば、自分の性的属性がゲイかノンケかというわかりやすさよりも、例えば、「あそこであんな声を上げて射精するイカホモに欲情する自分」という個別性のほうにリアリティが増すのが自然の成り行きです。そうした感性からすると、「ゲイである自分」はより抽象的な帰属なのかもしれません。

ところで、そうした流れはゲイばかりでなく、ノンケ界も著しく多様化、あいまい化が進んでいるようで、エフメゾには「よくわからないセクシュアリティの人」たちがけっこうやってきます。もちろん女子には以前から「レズビアンっていうか、女も好きだし、男もイケる」というタイプは多く、というかむしろそっちのほうが「ふつう」のようにも思えるのですけど、男子でも最近、「ふだんはノンケだし、バイセクシュアルというほどでもないけど、男ともちょっとしてみたい」という嗜好を持った人もときに見かけます。社会のホモフォビアの濃度が薄くなってきたので、自分のなかに薄く存在しているホモセクシュアルな欲望を言葉にしたり、実践しようと思えるノンケ男子が増えてきているのではないでしょうか。あるいは、同性愛を異性愛のスパイス的に味わいたいという新しい欲望なのでしょうか。

この前も、見た目イカホモ好きにはたまらない二十代のノンケ男子が来店し、いろいろ話しを伺っていたら、ぽろりと、「もう女でなくてもいいかなって最近思ってきて……。フェラされながら乳首をいじってもらえたら女でも男でもいいかも」とかおっしゃる! 連れてきてくれたノンケの親友もビックリの告白で、実際、近くにいたゲイにふざけて乳首を刺激されたりすると、「ヤバい、ヤバい」と大はしゃぎ。男だったらどんなタイプがいいか?と質問すると、店のなかにいたいわゆる「美形」のゲイを指差して「かわいい…」。なるほど、ストレート男子らしく、女性の代替物として「キレイな男子とならデキるかもしれない」という意味なのか。と思ったら、「……彼の胸毛があるところがいい」。そりゃ、いったいどういうこっちゃ?!と首をかしげてしまう伏見ママでありました。

そして先週、ツイッターづたいに来店したノンケ男子がおりました。彼もルックス的にはゲイに受けないはずがないスイートな顔立ちと、筋肉質だけど少しだけ脂肪がのったエロい肌感。「男にも一回だけならやられてみたいんです」と涼しげに語る彼には、同性愛はとくに忌むべき行為ではないようにとらえられている様子でした。彼は、エフメゾの常連である某作家女史のサインをお尻にもらいたくて来店したということで、そう頼まれた某作家女史は女王様然と、「だったら、パンツを脱いでそこに四つん這いにおなり〜!」。すると、彼はなんの躊躇もなく、さらりと裸になり、衆人環視のなか膝をついて尻を差し出したのであります。その従順な態度に、周囲のオカマたちの股間はマジにキュンとしたみたいで、みんな携帯のレンズ越しにガン見撮影会!

むかしなら、オカマたちに囲まれて四つん這い撮影なんて、Mでもないノンケの男子には受け入れがいことだったと思いますが、それがとてもさわやかに行われている光景に、なんだかノンケ男子の沽券や自意識がずいぶん力の抜けたものになってきたことを実感した次第です。その後もくだんの彼はみんなと仲良く酒を酌み交わし、真夜中まで楽しく過ごして帰っていきました。

禁忌の敷居が低くなってくると、そこからいろんな欲望が吹き出すように現れてくるのでしょうか。そしてぼくら自身にもそのことによって変異がもたらされるかもしれません。他人から複雑な欲望を投げかけられれば、その複雑さにぼくらのなかの微妙な欲望もまた喚起されるからです。例えば、ノンケの魅力に単なる「男らしさ」とは異なる色気が加われば、「イカホモ」とか「マッチョ」とか「すじ筋」とか、わかりやすくありえたゲイの欲望もまた、微妙なあわいを醸し出すことだってありえる。そうした自分自身の「変態」を恐れることなく、骨の髄まで欲望を味わって人生を過ごしていけたら、まさに変態も本望ですね。

■「太腕繁盛記」4

猛暑続きのこの夏、エフメゾでは競パン営業が続いております。いえ、もちろんアラフィフの伏見ママがそんな分不相応な格好はしませんが(←アタリマエ)、肉体派のスタッフには思いっきりフェロモンを振りまいてもらっております。やはり、色気のある子たちが脱ぐと、店が華やぎますし、ドリンクのオーダーにも勢いがつきます(←ハゲタカ)。

流行るゲイバーというのは、たいていはママというかマスターの性的な魅力で集客するものです。もう店じまいしてしまった伝説のゲイバーMとかBとかのマスターなんて、まるで芸能人のようなだだもれのフェロモンと、神々しいまでのオーラで二丁目に君臨したものです。伏見のようなブスゲイにとって、彼らは垂涎の的でありました。

しかし、例外的なケースをのぞき、たいていの人気マスターは数年と経たないうちにあきられて、オカマたちの移り気に消費されてしまうものです。そこも芸能人と同じですね。そう、終わるゲイバーか続くゲイバーかの分かれ道は、ママのフェロモンが衰えたあとの戦略にかかっています。アイドル女優が次の段階に進むのが難しいように、ゲイバーの世界でもマスターが主役の地位を降りて脇に移行する時期を見誤らないのが、その先を生き残るためのポイントといえるでしょう。そしてふつうは、そこにマスターの衰えを補うべくお色気担当の若い店子を導入していくことになります。

エフメゾの場合、お客様は最初から伏見ママにフェロモンなど求めていませんでしたから(←アタリマエ)、かえって店の戦略が立てづらい面がありました。熟女(ママ)ならではの会話を売りにしながら、ときたまイベント的にエロも導入する、みたいな展開でやって来ましたが、やはりエロ方面が弱い。

リブっ気のある伏見ママは、開店当初から苦楽をともにしたスタッフへの仲間意識が強く、彼らといっしょに店をずっと続けていこうと思っていました。が、その「仲良しグループ」意識は、経営者としては問題だったのでしょう。結果、その甘い態度ゆえに職責を果たしていない店子を放置しすぎることになり、営業に開店一年目くらいで、店内によどんだ空気感と、常連さんのあいだにもマンネリの気分が漂っていきました……。

問題だったのは、最年少スタッフのT。見た目はそう悪くなく、ジムで鍛えた人工の筋肉もなかなか立派なイカホモ系です。ちょっと尻軽なところはありますが、店内を走り回って働くいい子です。けれど、いかんせんファンがつかない。上に伏見ママとチーママがいて、シニア組はコミュニケーション担当で(チーママはお色気担当も兼務)、Tがアイドル的なポジションでいなければならないのにもかかわらず、彼目当てのゲイ客が全然つかない。そして彼自身、外からお客様を連れてくることができない。不況が著しい昨今、店子に集客のノルマを課している店も少なくないわけですが、エフメゾはたいしたバイト料も払っていないので、そこまでスタッフに負担はかけたくないと思っていました。しかしいくらなんでも二年で一人(本当に!)しかお客様を連れてこれなかったのはどんなものかと、さすがの伏見ママもいら立ちはじめ、あきれが募っていったのです。

もちろん、おりにふれ、少しは新しい友人など連れてきてくれ、とTにも求めたわけですけが、実行しようとする気配がとんとない。彼には巨根という武器もあるのですが(←一緒に温泉に入った友人が証言)ちょっとキョドッたところがあり、コミュニケーション方面に難があるので、人付き合いが下手で友人ができないから。という性格面を差し引いても、二年で一人はねーだろッ!!と、しまいには、伏見ママも怒りを爆発させました。

「あんたね、そこまで客を連れて来ない、ファンを作れないのはいくら何でも怠慢でしょ! ジムで作った人工ものとはいえ二十代の筋肉はただの飾り物? 枕営業でも何でもしてひとりくらいイケメン客を連れてこーい!! せっかくの巨根を無駄にするなーーーッ!!!」と檄を飛ばしたわけです。

それで彼も心を改めて他店に営業に行ったり、有名宅飲みで名刺をばらまいたり……と努力してみたものの、ギラギラしすぎていると男運が落ちるように、どこでも相手にされず、むしろ引かれるばかり。……結局、Tには「無駄巨根」の烙印を押し、補欠への降格を勧告いたしました。初めてスタッフを切る決意をしたのです。それが、伏見ママが惻隠の情を捨てて、ビジネスゲイとしてゲイバー経営をまっとうしようとした瞬間でした(「そのとき歴史が動いた!」)。やはり、ママを慕って来店してくださるお客様とは別に、お色気担当の若い店子に集客力がなければ、ゲイバーは成り立たない商売なのです。友情やら感謝だけでは利益は上がらない。ボランティア活動ではないのだから、そこに甘えがあってはならないのです。

ということで、以来、伏見ママは二丁目の秋元康になるべく「AKB方式」を採用するこにしました(笑)。お色気担当の若い店子は競争させることにし、お客様に人気のあるうちはバイトをお願いし、求める声がなると他の若い子にチャンジするという非常なビジネス。すっかり人間をモノみたいにあつかう女衒になってしまったわけですが、それでもお客様に楽しんでいただけるのなら本望。ママは鬼にでも蛇にでもなりましょう。結果、店にも活気が取り戻せたし、空間のエロ度もだいぶ増してきました。それに、例のTもたまに臨時でバイトに入れていて、レギュラー復活のチャンスも与えています。彼も一度首にした効果があったのでしょう、最近では自分のお客様をちゃんと連れて来ることをするようになりました(もっとも、発展場とかでからだを使った営業をしているようなのですが、笑)。

この頃は、超エロエロなオーラを発しているK君(三十代)と、元アメフト部のノンケ大学生君(二十三歳)が、二大看板になっています。K君は近所のスーパーでもタイプがいると発展してしまうというアクティブ淫乱で、そのお色気にはノンケ女子のお客様までが股間を濡らすほど。一見マッチョなのだけど、どこかフェミニンな味わいが見え隠れしているところが、なんとも不思議な色気を醸し出している兄貴です。

ノンケ大学生君のほうは、鍛えていた筋肉に薄く脂肪がのったボディがなんともゲイ好みで、なおかつ素朴で甘いマスクが大人気! 性格も素直でやさしいので、評価の厳しいゲイ客のあいだでも赤丸急上昇中の注目株です。最初は某作家先生に連れられて飲みに来た子だったのですが、伏見ママがバイトを募集しているというのを聞きつけて自ら志願してきたという強者。猜疑心が強い伏見ママは当初、ノンケがなんで? 冷やかし?と疑いの目を向けていたのですが、働かせたら、実にまじめに仕事をするし、接客もとても丁寧。競パンを指定されても嫌な顔ひとつせず、モッコリをさらしています。

彼らお色気チームと、知的で対応のやさしいチーママ(アラフォーのイケメン)に、大魔神の伏見ママが加わって接客させてもらっているのが、現在のエフメゾです。こんな置屋みたいなゲイバーですが、読者のみなさんも、ぜひぜひ遊びにお越し下さい。ゲイ客は優先して大歓迎であります。あるいは、お色気組ヘの受付も随時行っております。蛮勇のある若者、来たれ!

■「太腕繁盛記」5

最近、どうしてノンケのみなさんが二丁目やゲイバーに来たがるのかに興味があります。もちろん、終戦後のやなぎやイプセンの時代からして、ノンケはゲイバーにキワモノを求めて遊びに来ていたわけです。以降も、一部のゲイバーや女装バーはそれを逆手に取り、非日常のお笑いを提供することでノンケ客から儲けを得てきました。

エフメゾはミックスバーですが、残念ながらノンケの欲求を満たすことを目的にはしていません。伏見ママはときに「わかりやすいオカマ接待」をすることもありますが、むしろ、それに安直に笑いを乗せてくるノンケ客を「単純なおつむの子たちね…ププッ」とゲイのお客様と観賞するのをコンセプトにしていたります(←酷い)。オネエ言葉でチンコマンコと言っただけで笑えるノンケって、なんて浅はかなんだろう!みたいな超上から目線の、「逆観光バー」だと言っていいかもしれません( そんな感じの悪いバーに来てくださるノンケのみなさん、どうもありがとうございます!)。

けれど、エフメゾのノンケ客の多くは、どうもキワモノを求めてこの店の扉を叩くのではないようにも思います。

先日も、まだ年若い美少年が「はじめまして」と入ってきて、あら、ジャニ系なんて珍しい!とママが喜んでいると、彼が申し訳なさとうにカミングアウトしました。
「あの……ぼく、ゲイじゃないんですが、いいですか?」
「え? ノンケなの?! どうしてノンケの男子が単独でゲイバーに?」
「だって、二丁目やゲイバーってキラキラしているじゃないですか? 憧れますよ」
まだ少年の面影を残した彼はキラキラした瞳でそう応えたのでした。

ノンケのヤング男子なら六本木や渋谷へナンパにでも行けばいいのに、どういうことでしょう。最初はからかわれているのかなあと思っていたのですが、その美少年は明け方まで他のお客様たちと歓談し、すっかり満足した様子で帰っていきました。
「本当に楽しかったです! また遊びに来てます」
そう言って頭を下げる美少年は、やっぱり二丁目に本当に憧れてきたのだと納得しました。きっと、彼にとっては、ゲイたちの空間はなにか特別な体験を可能にくれる場として想像されていたに違いありません。それは、自分に何か新しい「意味」を与えてくれる場だと言ってもいいででしょう。

そして、伏見ママがはっきりと、ゲイバーにはノンケに「意味」を付与する機能があるのだと確信したのは、お客様ではなく、スタッフのR君がきっかけでした。R君はエフメゾの店子のなかで唯一のノンケ男子です。彼は元々、他のお客様に連れられてきた大学生だったのですが、伏見ママがバイトを募集したときに自ら応募してきたツワモノ。どうしてノンケが……?とも思ったのですが、彼の志望動機は、「以前のバイト先でゲイの人と知り合って、もっとゲイのことを知りたいなあと思ったから」。さすがに、その優等生的な動機をそれほど信じてはいなかったのですが、見た目もゲイ受けする素朴筋肉系だし、性格も素直で使いやすそうだったので採用してみたら、思った以上に評判がよく、お客様にも喜んでいただけました。

伏見ママは因業な女将なので、この夏は若い店子には競パン姿でお色気接客をさせ、鵜飼い鵜になってもらいました。もちろん、ノンケのR君にも。ただし、「ここは多少なりとも性的な空間だけど、もし、本当に嫌なことがあれば嫌だって拒否すればいいのよ」とも忠告していました。けれど彼は「触られるくらいなら大丈夫です」と笑って応え、お客様に冗談まじりにくどかれても、嫌な顔ひとつしません。こいつ、ほんとはホモなのかな……とか、なにか信仰でも持っているのかな、とか……その寛容な態度が不思議でならないママでした。透明度のある彼の表情がどこか仏様みたいに見えてきたほど。

それであるとき訊いてみました。
「R君って、なにか信仰でも持っているからそんなに他人に寛容なの?」
「いえ、宗教には入っていませんよ」
「R君ってノンケなのに、ゲイに自分のからだを性的に見つめられてもキモくないの?」
「はあ、とくに嫌じゃないです」
ノンケの男子というのは自分の身体が他人の性的な対象になるという意識が低く、女性に対しては自分が「目」になる傾向があります。肉体派であるR君にしても、ゲイ的には受けがよくでも、ノンケ界では性的にちやほやされる経験はなかったはずです。しかし、二丁目では「かわいい」とか「イケてる」とか賛辞の嵐。むかし風のノンケ男子なら「キモい!」と嫌悪を露にしたでしょうが、彼の場合、慣れてくるとそれがまんざら嫌ではない様子にも思われました。

先日、彼のノンケ友だち数人が女子を含めエフメゾに遊びに来てくれました。すでに夏の猛暑は過ぎ去っていたので、スタッフも競パン営業をやめて私服の接待をしていたのですが、しばらくするとR君のほうから、「友だちが来たので、競パンになって仕事してもいいですか?」。最初何を言っているのだかわからなくて、「そうしたいならいいけど……」と首を傾げるママ。その後、彼の仕事ぶりを観ていると、上裸で嬉々として接客をしているではないですか! そんな姿の自分をとくに笑いに落とすでもなく、ちょっと恥ずかしげに嬉しそうに裸を晒している。これはいったいどう考えたらいいのでしょう。

当然、学生同士のお笑いネタとしてパフォーマンスしている面もあるわけですが、ぼくには、性的身体として必要とされている自分を楽しんでいるようにも見えました。ゲイ客に教えられたとおり、競パンの臀部を半ケツが露出するようにローライズ気味におろしているところからして、なかなかの性的自意識が育っています(笑)。そう考えると、透明度があると印象づけられた彼の表情は、もしかしたら茫洋とした自我の現れで、自分の輪郭もといキャラが確定できない自信のなさだったのかもしれません。そして、そこにこそ、彼が潜在的に抱えている問題があったのではないか。

この前も、女性のお客様でいまひとつエフメゾの空気に馴染めない方がいて、彼女曰く、「私って、とくに個性もないし、面白いことも言えなくて……。でもみなさんのお話しを傍らで聴いているだけで楽しいんです」。でもね、ここは一応ゲイバーで、つまりゲイの人たちが楽しむことを優先しているコンセプトの店なので、女性客を一方的に楽しませるところではないから、と厳しく指導するママ(笑)。それで、彼女が「負け札コミュニケーション」のゲイバーの会話に入りやすくなるような「落としネタ」を探していたら、「潮吹き体質で、やたら吹いちゃうんです」と赤面して告白するではありませんか。「だったら、あんたは吹き江って名前でこれからやっていきましょう」ということになりました。「この子、潮吹きやすいから吹き江って呼んであげてねッ」と、この落としネタが他のお客様に紹介するときのつかみになるわけです。

ある意味、性的なマイノリティ性って(ゲイもそうだけど)キャラ化しやすいものです。そしてこのキャラ化という形式化が、今日コミュニケーションをする上で非常に重要になっているように思います。コミュニケーションが高度に複雑化している現在だからこそ、わかりやすい形に自分を仮託しておくと、互いの出方の予測可能性を高められ、やり取りがスムーズになる。会話でのスタンスがはっきりして、それが入り口となって関係にさらに踏み入ることができる……。二丁目が「わかりやすく」人と人との関係を可能にしている面があるとしたら、それはオネエとかエロとか定番のキャラ設定によって、コミュニケーションが円滑に運ぶからなのでしょう(それに乗れない人には逆にその設定が抑圧的に働くことにもなるけれど)。

そんなふうにお客様の生態を観察していると(失礼)、もしかしたらいまどきのノンケ客は、ゲイにキワモノを求めているのではなく、自分自身を何か特別な色に染めたくて二丁目に来ているのではないかと思えなくもありません。要するに、自分に付与する「個性」を求めてゲイたちの空間に足を踏み入れる傾向。R君がバイトに募集してきたのも、そんな面があったのではないかと想像します。また、二丁目にキラキラしたものを求めてやってきた少年も、不器用な自分を持て余しながらゲイバーのカウンターで飲んでいた女性も、「本当の自分」を求めてやって来た面があったのではないでしょうか。

いやいや、いまどきの二丁目のゲイたちも、ネットなどでいくらでも他のゲイと出会うチャンスがあるのにわざわざこの街にやってくるというのは、「ゲイ」というキャラを改めて獲得することで、自分をわかりやすく設定するためだと想像できなくもありません。「ゲイ」というキャラをゲイバーでダウンロードすることによって、友だち作りを可能にしたり、反差別の物語を自己実現に取り入れたり、女装を自己表現に付け加えたり、作り上げた性的身体を周囲の視線によって確認したり、いにしえのキャムプなゲイカルチャーを体験したり……それらはすべて自分をキャラ化する営みだと言うこともできます。

つまり、いまや二丁目やゲイバーは、ゲイたちが集まる場所ではなく、わざわざ「ゲイになる」ために集う空間だと言えまいか、というのが思うところです。being gay ではなく、becoming gayの場になりつつあるということ。んな英語があるか、ぼくは知らないけどね(笑)。

■「太腕繁盛記」6

 エフメゾに来るお客様には伏見ママと同世代の熟女もいて、彼女たちは大方結婚していて、すでに子どもが20歳前後になっていたりする(「すでに」と書いたのはぼくが自分の年齢を実感していないからで、47歳なら子どもがいて「当然」と本来記すべきところ。その感覚のズレは長いことゲイとして生きていることの副作用っすね)。

 そんな世代の女性が先日も来店して、自分の悩みを口にしていた。
「……いくら20年も暮らしているからと言って、まったく夫婦生活がないのもね。私だって、したくてしようがないわけじゃないんだけど、多少はあってもいいじゃない。なのに、うちの夫ときたらまったくその気がないんだから」

 今日日、既婚女性でなくてもアラフォー以上の女性の悩みの上位には、女としてセックスを得ることができない、という項目がランクインしている。
「セックスしたかったら、べつに夫でなくてもいいじゃない。そんなに長く一緒に生活していたら、夫だって、そりゃ、勃起なんてしないでしょ」と一刀両断にする伏見ママ。
「そういうものなのかしら……」小首をかしげる女性客。
「そうよ、オカマなんて長いパートナーがいても、ほとんどセックスは外で済ましているものよ。お宅の旦那だって、したくなったら不倫か風俗でやってるでしょ、ふつう」

 ノンケ界ではまだ結婚における性的排他性は幻想として生きているようだ。彼女はアリエナイとばかりに首を振った。
「浮気なんてちょっと考えられない。うちの夫はそういうタイプじゃないもの」
 専業主婦って世間知らずなんだなあとビックリして、彼女に少し意地悪な質問をしたくなった。
「ねえ、夫が不倫しているのと、自分の子どもが実は同性愛者なのと、どっちが嫌なこと?」
 すると、彼女はこともなげにこう言った。
「あ、うちの娘は女の子が好きみたいなの。高校生なんだけど、同じクラブの女子と付き合ってるんだって」
 今度はこっちが目を丸くする番だったが、彼女は話しをすぐに元に戻して、
「でもね、うちの夫はまじめで、学生時代から恋愛とかには淡白なほうだったから………云々」
 娘のセクシュアリティより自分のセックスレスを大問題のように話す彼女の反応に、なんだか今という時代の一端を見る思いがした。

 そう言えば、その前にも、常連客の女性が自分の息子がゲイだったことがわかったという話しをしていたことがあった。
「それがうちの息子がゲイだったのよ! この夏の間、高校の生徒会の役員同士で付き合っていて、もう別れたっていうんだから、衝撃で」
 店に入るなり彼女は高揚しながら報告してくれた。そして、その「衝撃」というのは、腐女子の彼女にとっての少しロマンティックな思いと自慢が入っているようなニュアンスで、昔みたいに、子どもにカミングアウトされた親が抱く「うちの子どもが同性愛者だなんて、いったいどうしたものか!?」という不安や不満とは無縁に思えた。

 エフメゾにはその半年前にも自分の娘がゲイバーデビューするのに付き添ってきた親がいた。レズビアンはいいが繁華街の二丁目は心配だからついて来たとのことだった。そのときも、子どもが同性愛者だということにとくに問題を感じている様子はなかった。

 これらのケースが平均的な像ではけっしてないはずだが、今後こうした感覚の親が増えていくことは間違いないだろう。その実感の根拠は、伏見ママが同世代のノンケの友人たちと話しをしていても、「まあ、自分の子どもがゲイとかでもいいけどね」と話す連中は少なくないからである。ぼくの青春時代のように、性的少数者であることは、本人ばかりでなく、親も不幸のどん底に陥れてしまうことになる、といった悲壮感はじょじょに過去の情景になりつつあるようだ。 

 性的マイノリティを持った親の受容がこんな感じだから、当然、若い世代の性をめぐる感覚、「男らしさ」「女らしさ」の内実もずいぶん変容している。エフメゾに来るノンケの大学生たちを観察(失礼!)していても、男の子がマッチョなんていう様子はほとんど見かけられず、むしろコミュニケーションの主導権は女子が握っていて、性的にも男子よりアクティブだったりする。その世代の男子には童貞が少なくないし、女子に性的な話しでからかわれて赤面してしまうような草食系がほんとに多い、多い。

 だからフェミニズムが批判するような「抑圧的な男性性」とか「ホモソーシャルな紐帯」とかを見つけるのはかえって難しい。もちろん、「ゲイバーに来る若いノンケ」という時点でサンプルに偏りがあるのだけれど、それにしても、家父長制的な意識を感じさせる男子を見かけることはほとんどない。

 だから、先日、ノンケの女性客に連れてこられた会社の上司という男性の態度に、久しぶりに「オヤジ」を見た思いがした。
 その背広姿の「オヤジ」は店に入ってくるなり、
「ここって何なの? まあ、いいや、ビールくれよ」
と横柄な態度で、大きく足を開いてタオルで額を拭った。
 いつもはこういう手合いは入り口のところで入店を阻止するのだが、何度か来たことのあるお客様と一緒だったので、侵入を拒めなかった。しかし、
「ゲイバーなのに女いるじゃん。あのブスはレズなの?」
と女性客を指差して言うに至っては、さすがにノンケにやさしい伏見ママも怒って、「あのね、ここはそういうことを言う人が飲む場所ではないので」とじっと目をにらんだ。

 すると、その「オヤジ」は言い返すどころか、手のひらを返すように謝ったのである。
「あ、申し訳ない。許して。許して。ビール、お願いね。いやあ、ママ、面白いね」
 そういうふうにあっさり態度を変えられて友好を示されると、帰すに帰せなくなってしまったのだが、不快が収まらないママは、しっかり飲ませてお金をふんだくったけどね(笑)。ふつうエフメゾは「一杯いただくわね」という接客は絶対しないのだけど、まあ、「オヤジ」には「オヤジ」対応で、「いただきまーす!」と。

 しかし、ある意味で、日本の「オヤジ」のマッチョ度もこんなものだと言えばこんなものなのかもしれない。こちらがおとなしくしていればつけあがるが、ちゃんと抗議をするとたちまち弱腰になる。まあ、これが集団になるともっとたちが悪くなることはよく知っているが、ただ、それも世代が下っていけばいくほどやわらかくなっていく。そうして草食系というより植物性の男性が増えていっているのが現状だ(そんな時代に、ジェンダーやクィアを語るアカデミズムの言葉は相当ピントが外れているし、差別を語る運動系の人々の仮想敵も、実際の姿を見誤っていることがしばしばある)。週に1日ゲイバーから見ていても、時代と社会の実態は液状化するように変容を見せていると思う。

 そういえば、この前は、ノンケのバイト君に上裸で働いてもらっていたのだけど(エフメゾはエロいバーを目指しています)、接客についた彼に何気なくタッチするのはゲイ客ばかりではなく、若い女子もそれは同じだった。「肌キレイ~」とか言って楽しそうに若い男子にお触りをしている様子に、女性の欲望も解放されていい時代になったなあと。だけど、うちはホストクラブではないので、
「小娘の分際でゲイバーで店子に手を出すんじゃないよ! 濡れた椅子を雑巾で拭いて帰りやがれ~~!!」
と説教した伏見ママは、はたしてリベラルなのか、保守反動なのか。

■「すばる」誌に寄稿

 週一回、水曜日だけのゲイバー業をはじめて早三年近くになる。ぼくの店エフメゾは、「ゲイバー」を看板にしているとはいえ、いろんな世代の、さまざまな属性の、多様なセクシュアリティ/ジェンダーのお客さんが集ってくれるので、若い世代の感性にも触れることができるし、熟年の経験に学ぶこともできる。

 当然のことながら、時代の空気にも敏感になる。最初の頃は会社の領収書を切っていた大手メディアの社員が、昨今では自腹で慎ましく飲むようになり、話す事柄も、「これから、俺らどうなってしまうんだろうなあ……」といった後ろ向きの内容が多くなった。それに比べて、IT関連の若手起業家たちは、金払いは堅実でも、今後のビジョンを明確に語る。「無駄に年収一千万円以上も取ってるジジババがいる大手出版社なんて、どう考えたって将来ないですよ!」などと豪語するメディアの新参者に、古い活字文化に育ったぼくでさえ妙に説得されてしまう。

 それはそうと、接客していていちばん考えさせられるのが、ひとのコミュニケーションのありようである。エフメゾでは、隣り合ったお客さん同士でも打ち解けておしゃべりしてもらうことにしているので、コミュニケーションのスキルはある程度必要かもしれない。しかしそれは話し上手ということでは必ずしもない。大事なのはむしろ「聞く力」。

 あるとき、四十代のきまじめな女性客に相談されたことがある。「伏見さんのお店はいろんな話題が飛び交っていて楽しいんだけど、若いひとに一生懸命話しかけてみてもあまり仲良くなれないですよね」

 彼女の会話は基本的に、自分が過去なにをしてきたのかということと、自分の立ち位置から相手を裁断する傾向がある。その女性は実社会での実績もあって、善意でその経験を語っているのだが、相手はなんとなく面白くない。とくに若い世代は、それを「上から目線」と感じ、敬遠しがちになる。

 こうした思いのズレはぼく自身にもあった。店をはじめた当初、お客さんは物書きの自分に会いにくるのだと勘違いしていた。ところが、実際に営業してみると、彼らにぼくの説を拝聴したい様子などないし、むしろ、自分のことを語りたくてカウンター越しに座る。講演会とは違って、バーに行きたいというモチベーションは、「話したい」であって、「聴かされたい」ではないのだ。

 そして、誰もが「話したい」場でコミュニケーションを円滑にさせるには、どうしても「聞く力」が必要になってくる。それがなければ話しが回らないからだ。が、「聞く」ということは、相手の言うことをただフンフンと頷いていればいいということではない。それだけだと、一方的に話すひとと同様に、すぐに興味を持たれなくなる。その塩梅が難しいのであるが、では、どういうひとが好かれるのか?

 口は悪いが若い世代にも好かれている五十代の女性客がいる。彼女は自分もおしゃべりなのだが、相手の話しも耳を傾ける。ときには「バカーっ!」と怒鳴ることもあるし、他人の言葉に自身が落ち込むことも少なくない。しかし、他人の言葉を真摯に受け止め、それに応えようとする姿勢はまぎれもない。それは相手の言葉に「揺れる」余地を心に残していることでもある。最初から用意されている答えを提供するのではなく、コミュニケーションによって自身の変容を甘受する「糊しろ」がそこにあるといってもいい。そのことで、対話は双方向的になり、なおかつ、予想外の展開をもたらす。

 だからどんなに毒舌でも彼女は若い世代にも嫌われないし、逆に世代を超えて面白がられ、信用される。相手の言うことを「聞く」誠実さが根底にあるから、そういう関係が積み上げられるのだ。

 大人になると往々にして語りが一方的になり、そういう「糊しろ」をなくしてしまいがちだ。しかし、対話の快楽というのは、自分自身が変わってしまうかもしれないことへの恐れと、変化への期待が交差するところにある。その核心を忘れた会話は、単なる常套句や役割分担のやり取りに終始してしまうだろう。

 たぶん、「聞く」というのは、それまでの自分を一旦留保して、互いの魂を摺り合わせる誠意の言い換えに違いない。