2009-04-10

書評『女装と日本人』

● 三橋順子『女装と日本人 (講談社現代新書)』(2008)
初出/現代性教育研究月報

ここ数年、性に関する書籍で心底面白いと思うものには出会ったことがない。もうだいたいがパターン化されていて、「はいはい、フーコーを使って分析したいんですね」とか、「はいはい、性の多様性の焼き直しですね」とか、扱う素材がちょっと違うくらいで、最初から答えがわかっているものばかりだからだ。その点、この『女装と日本人』は繰るページごとに新しい発見があり、久しぶりに性の問題を考える楽しさを味わった。

本書も流行りの近代主義批判がベースになっていて、現代の性的抑圧の源泉を近代の性科学の輸入に求め、前近代のあいまいで複雑なセクシュアリティ/ジェンダーのありようをロマンティックに理想とするあたりは、別の思潮から批判されるかもしれない。しかしそうした点は別にしても、この本には読み手に訴える力が満ちている。それは歴史に埋もれていた事実を丹念に掘り起こすことで、言葉を奪われてきた者たちの声を掬おうという志を持っているからだろう。また、研究者が都合のよい資料を集めてきて言説分析をやりました、という類の安直さを拒否し、女装者である著者が自身の実存を繰り込み、足を使ってテーマに迫っている姿勢が、行間に心地よい緊張と深い悦楽を与えている。

著者は、なぜ日本人は実のところ古代から現代に至るまで女装、異性装が好きなのかという問いに、日本文化の基層に「性を重ねた双性的な特性が、一般の男性や女性とは異なる特異なパワーの源泉になるという考え方」があるとし、それを「双性原理」と名付ける。そうした文化的な指向をヤマトタケルの伝説や、中世の巫女、寺院における稚児、歌舞伎、江戸時代の陰間、そして現在のニューハーフなどを使って検証していく。その手さばきは実にスリリングだ。

とくに歌舞伎に関する分析は鋭く、女性による歌舞伎が禁じられたために女形が後発的に出現したという通説を、非常にわかりやすい論理であっさりと覆している。三橋によると、そもそも歌舞伎という芸能の本質は異性装にあり、女形や男装こそがそのはじまりだったというのだ。また、歌舞伎における女形というありようが近代の男女二分法的な価値観と齟齬をきたすと、トランスジェンダーの指向と役者の実生活を区別することによって「変態」のレッテル張りを忌避した事実を指摘して、日本文化の聖域にまでその矢を飛ばしている。こうした提起はこれまでの演劇研究では考えられず、著者の被差別者ゆえの視角と言えよう。

他にも近代以降の女装や同性愛をめぐるさまざまな事象を拾い集め、一つの歴史として素描しようと奮闘している。そして全体を通して日本人の性の多様な嗜好性を浮かび上がらせている。が、よく読めば、そこで抽出されたありようはバラエティに富んではいるが、けっして性別二元制を超えるものではなく、変種を多く抱えた男女二元制の緩いバージョンにすぎないように見えるのは、筆者の誤読だろうか。

ともかく、これは日本文化のある種の特質を取り出すことに成功した希有な業績であり、著者入魂の一冊であることは間違いない。

このように性の辺境から日本文化の特質を取り出そうという仕事は他にもある。丹尾安典の『男色(なんしょく)の景色―いはねばこそあれ』は「男色」という切り口から日本の文学や絵画に流れている傾向を捉え直そうとしている。三島由紀夫や川端康成に関する批評は、これまで書かれなかったマイノリティの視点を提供しているはずだ。こちらも著者の執念を感じる筆致であるが、それは読み手の思い込みかもしれない。