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『百年の憂鬱』刊行記念特別対談
「セックスよりもエロい関係性の快楽」
三浦しをん×伏見憲明

男女の恋愛はつまらない!?
自身の私生活をモデルとした小説『百年の憂鬱』を刊行した伏見憲明さんと、男と女の単純な構図には収まらない関係性の魅力を書き続ける作家の三浦しをんさんとの特別対談を公開!
スリリングで味わい深い関係性の秘密について語っていただきました。

●『きみはポラリス』での出会い

伏見 僕が三浦さんのことを知ったのは、三浦さんが朝日新聞の連載(『三四郎はそれから門を出た』(ポプラ社)として単行本化)で『ゲイという経験』を取り上げてくださったときだったのですが、その後で新潮社からお出しになった『きみはポラリス』についての原稿を書かせていただきました。三浦さんのご指名だったと聞いたんですけれども、僕を指名してくれたのはどうしてだったんでしょうか?
三浦 『ゲイという経験』を拝読して、「論理的かつ、生身の人間としての感情や痛みも文章にこめられていて、すごいかただ」と思って、次に小説『魔女の息子』も拝読したんです。この作品がまた、胸に突き刺さってくるんだけどユーモアもあって、とても好きだなあと。『きみはポラリス』を出す時に、新潮社の『波』というPR誌で、どなたかに原稿を書いていただけると言われたので、いろんな恋愛を取り上げている短篇集だったこともあって、伏見さんにぜひお願いしたいと思いました。

伏見 そのご依頼をいただいたときに、遅ればせながら初めて小説を拝読したら、これが素晴らしいんですよ。読んでいて「こういう若い女性の作家が出てこられたら、僕の本は読まれないはずだよな」と嫉妬しつつ落ち込んで、「キィー! あの女!!」と思ったくらい(笑)。短篇集でしたが、長編を読み終わった後のような、重く深い感じが一編一編おなかに残るんです。
今回お目にかかるので『きみはポラリス』を読み返していたら、中村うさぎさんが書いた文庫版の解説も、本文に負けないくらい素晴らしいんですよ。思わずうさぎさんに「こんないい解説書きやがってくやしい!」というメールを送りました。ぼくって、どんだけ嫉妬深いことか(笑)。
『きみはポラリス』は短篇集ですが、最初に「永遠に完成しない二通の手紙」、最後に「永遠につづく手紙の最初の一文」という短編があって、どちらも男同士の恋愛の話なんですよね。恋愛というか、片方は自分をゲイだと思う男性で、それと親友との関係について書いたもの。
三浦 そうです。一方はいわゆる「バカノンケ」ですかね(笑)。
伏見 ギョーカイの言葉をよくご存知で(笑)。あれを読ませていただいて、三浦さんは腐女子系の方なのかと思ったんですよ。
三浦 そうですね。漫画がすごく好きで、少女漫画から当然BLまで、相当な勢いでたしなんでいるので。
伏見 少女漫画はどのあたりからはじまったんですか?
三浦 白泉社とか秋田書店とか、それこそ『日出処の天子』(山岸凉子)にはじまって、24年組にさかのぼったりして、いろいろ読んだりという感じでした。
伏見 BL小説も読まれるんですか?
三浦 BL小説も読みますが、量から言うとBL漫画のほうが圧倒的に多いですね。今も少女漫画がすごく好きなんですけど、思春期になるころから「学園の王子様とさえない私が!」みたいなものは好きではなかったんです。どちらかというと、恋愛がさほど絡まない、男女間の対等な関係性が描かれているようなものとか、少女漫画の中で描かれるヒーローとその友達の関係──男友達同士の、「おれはわかってるぜ」みたいな感じがいいなと思って、そこに憧れを抱いていたんです。

BLもいろんな作品がありますが、私の中では、わりと少女漫画の延長線上にある分野だと思っていて。男女で恋愛物語を描くと、最後は結婚するとか別れるとか、何らかのかたちで成就して終わりになる傾向があって、つまらないと思ってしまうんですが、男性同士の恋愛をBLという形で描くと、対等な関係性がよりクローズアップされる傾向にある。さらに仕事や社会的立場が絡んで、ライバル心もあったりとか。あと、現在の日本では同性間の結婚が認められていないので、2人がどうなったらハッピーエンドなのかが非常に見えにくい。もちろん男女間でも、結婚したからといって、決してハッピーエンドじゃないんですけどね。

●対等ゆえの辛さがある

伏見 三浦さんは、対等ということにこだわってらっしゃるみたいですね。
三浦 はい。ただ、個人的には20代半ばくらいまでは、「理解したいし、理解してほしい」と思って対等性を追い求めている自分がいたんですけど、それ以降はどうでもよくなってきましたね(笑)。『百年の憂鬱』を拝読したときにも思ったんですけど、「これで周囲からも認められる。一件落着です」みたいなものがない中で、個人と個人で同じ立場でやっていくと、恋愛にしろ仕事にしろ、息が詰まるなと思うようになって。でも、私はそれを理想として求めたいと思う気持ちを捨て切れなくもあるんです。だから、拝読していてすごく辛かった(笑)。
伏見 『百年の憂鬱』はそうした機微にフォーカスを当てているところがあるんです。もちろん三浦さんがおっしゃったように、対等は求めるべきものだと思うけれど、対等ゆえに辛いものもある。そこが男と女だったら、「違う」というある種の幻想が緩衝地帯になったりするんだけど、男同士だと同質性や対等性がむき出しになるがゆえに、余計に辛いし、痛い。そこが書きたかったところ。
三浦 本当にひりひりして、もう自分が何を求めればいいかわからない! と思いました(笑)。たとえば妻と夫とか、ある種の役割を演じられれば、簡単といえば簡単ですよね。でも、その予定調和な感じが、自分の中ではずっと引っかかっていて。子供のころから、将来の夢がお嫁さんだったことは一度もないくらい、なんかイヤなんですよね。かといって、誰しもが本当は対等な関係であるはずなのに、『百年の憂鬱』の中でもやっぱり年上と年下の関係があって。若者が若さゆえの傲慢さを見せる瞬間もあれば、年長者が「自分のほうが経験がある」と彼を諌めたりもする。当たり前のことなんですけど、やっぱり本当に同じレベルにいることって、人間同士ありえないよな、とも思います。難しいですね。
伏見 均衡する地点はあると思うんだけど、それは一瞬のことで、すぐにバランスが変わってしまう。結婚とか男女の役割分業から解放されてしまうと、自由な反面、そういう均衡点を見つけたりキープしたりすることがとてつもなく大変。じゃあ、対等じゃなければいいのかというと、そういうわけでもなく。
三浦 何も考えずに対等じゃない関係に身を委ねよう、というふうには、やっぱり思えない。
伏見 もはやそれは無理だと思うんですよね。そこに後戻りもできないし、だけど対等ということにゴールやら解決やらを求めることもできない。いま、関係の微妙な内実は、男同士だからこそ描けるのかなと。
三浦 それは本当に思いました。男女のカップルだと、関係がひっくり返る瞬間を書いても、単純な逆転になりがちですから。男女間だと、非常にスリリングな、どっちが上でも下でもなく、関係性がくるくる逆転していって本人たちも目が回るみたいな感じって、なかなか描きにくいですよね。
伏見 あと年齢の問題も、『百年の憂鬱』の場合には中年と若い人が出てくるけれど、力関係でどちらが強いのかは、見方によって違ってくる。男女の設定で書くとすると、もちろん実際には力関係はさまざまだけど、やっぱり年上の男のほうが強いという妙な前提があるところで読まれざるを得ない。だから今回の『百年の憂鬱』に関しては、ゲイの小説を書こうと思ったのではなく、「同じ、主体的な、ジェンダー間で」どう描けるかを考えたんです。
ただ、女性同士ではどうなのかというと、よくわからない…。僕自身がレズビアンじゃないからかもしれないけれど、男性同士の関係を女性同士に置き換えられるのかは……。
三浦 うまく言語化できないけれど、確かに女性同士だと、またちょっと違う感じになっちゃう気もしますね。

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●同性集団に対する萌え

伏見 たとえば三浦さんの『風が強く吹いている』は男の集団の話ですよね。僕も実は、「箱根駅伝萌え」があって(笑)、全然スポーツに関心がないわりには、正月の2日だけは、つい見てしまって、萌え感を回収するようなことを毎年やっている。じゃあこれが女子の駅伝だったらどうなのかというと、僕のホモセクシャルな欲望ゆえか、違う理由かはわからないんだけど、ちょっと違うような気がするんです。三浦さんは、そのあたりどうなんでしょう?

三浦 私自身は、女子の集団萌えというのは、いまのところまったくないんですよ。ただ、ある子はありますよね。本人がレズビアンかヘテロかに関係なく、女子バレーや女性のアイドルグループが好きな子は、まわりにもけっこういるので。
伏見 そうですよね。AKBなんかで、「女子集団萌え」というのがあるらしいとは聞いています。
三浦 ただ残念ながら、私は萌えどころがちょっとわからないんです。
伏見 じゃあ、やっぱり三浦さんは男同士の集団のほうに萌え感があると。なぜなんでしょうね。
三浦 そこになんとなく現実社会の縮図を見ているからだと思います。つまり、男性のホモソーシャルな感じって、すごくきらめいているときもあれば、本当にうっとうしくて、「こういうおっさん集団が世の中を悪くしてるんだよ!」と思うときもあるじゃないですか。女性だけではなく、「俺たちイケてる男だぜ、ブイブイ言わせるぜ」みたいな論理からは外れる男性をも排除していったり。私にとっては、そここそが最も気になるポイントなんだと思うんですよね。中学・高校とずっと女子校だったので、女子の集団はイヤというほど見てきて、あまり幻想も抱けない。いい部分もあるけど悪い部分もあるのは女子の集団も同じですが、内実を知っているのであまり萌えない(笑)。
輝きの源でもあるけど、同時に、世の中に充満している息苦しさの原因のひとつでもあると思えるのが、私にとって男子の集団なんだと思います。内実を知らないから幻想も託せるし。
伏見 実は、僕にもかなり腐女子な感じがあって、自分はゲイだとはっきりアイデンティファイする前の少年時代、それこそ24年組の『トーマの心臓』や『ポーの一族』は連載時に読んでいて、「これはいいな」と思ってたんです。その感じを、後になってから「ゲイだったゆえに共感したんだ」と解釈していたんですけど、最近ではどうも、それらは別物の欲望だったような感じがするんですね。今でも美少年系、キレイ系の人のゲイ映画を観たりすると、うっとりして「生まれ変わったらゲイになりたいな」と一瞬思ったりするんですよ。で、「あ、自分ゲイだった」みたいな(笑)。
三浦 全然別世界と認識している(笑)。
伏見 そういうふうに見ているときって、たぶん腐女子的な感覚で見ているんです。僕は高校は音大の付属高校で、そこは80人中男子が9人とかでほぼ女子校状態だったんですよ。子供の頃から女の子の集団の中にいるなんか気持ち悪い子供だったし、あまり男子の集団を知らない。
三浦 なるほど。ちょっと憧れ目線があるのかもしれないですね。
伏見 そうなんですよ。内部に入って男子の集団に関わった経験がないんです。大学ではサークルにもゼミにも入らなかったし、集団を恐れているところがあって。「いいところも悪いところもそこにある」と三浦さんはおっしゃったけど、やっぱりちょっと男のホモソーシャルのイヤな感じのものには関わりたくないという恐怖症がある。だから余計に幻想が保存されているのかもしれませんね。
三浦 そうですね。実は私もそうかもしれなくて、たとえばキラキラした美男美女が出てくる作品を見ると、「あぁ、次に生まれ変わったら美しい女になるわ」と思うんですよ。自分にとっては、男女の恋愛って他人事なんですよね(笑)。
伏見 一緒ですね(笑)。萌え欲と同性愛的な欲望が違うということが中年になってからわかったんですが、そうすると確かにスポーツチームとかに対する集団萌えみたいなものが自分にはあることに気付いた。この前も、午前中ずっとサッカーの内田篤人くんと吉田麻也くんについてのYouTubeを見ながら過ごして(笑)。でも、この2人がバコバコにセックスをやっているのを想像するのかというと、ちょっと違うんですよね。
三浦 それもなんとなくわかります。腐女子もたぶん、仲の良い男子2人をのぞき見して、なにか「もやっ」といいな、という感じがあるんですよ。具体的ななにかを必ずしも想像するわけではなく。
伏見 三浦さんの作品って、関係性がすごく重要ですよね。いろんな関係を描かれていると思いますけど、それぞれに萌えだったり、ちょっとエロスがある感じ。たぶん三浦さんは単なる腐女子というよりは関係マニア、関係のエロスの人かと思ったんです。
三浦 そうかもしれないですね。男女の恋愛は取ってつけたようなものしか書けない(笑)。男女の関係性には自分の中であまり希望や期待がないんだと思います。だから男女の恋愛を書くと、ものすごく軽くて心のひだの奥のほうまでは踏みこまないような話か、すごく暗くてイヤな感じのドロドロを露悪的に披露してしまう話か、どっちかにしかならなくて。自分で書いていて楽しいのは、恋愛に限らなくても、男性同士や女性同士の単性の世界なんですよね。

●過剰であることの愛しさ

伏見 腐女子も多様なのでひとくくりでは語れないと言われますけど、腐女子の中には永遠性を求めるというか、ハッピーエンドな永遠に対する欲望を持つ層が主流のようですね。
そこで最初の話題に戻るのですが、『きみはポラリス』の中の最初と最後の短編は、ある意味でハッピーエンドではないですよね。それは、三浦さん的には、いわゆる「ハッピーエンド腐女子」みたいな方向は萌えないということでしょうか?
三浦 そういう作品も好きでいっぱい読みますけど、自分で書くときにはあまり興味がないですね。私はネット上の自分の作品の感想を見ちゃう派なんですけど、そうすると、『きみはポラリス』の最初と最後の2編を「BLだ」というかたがすごく多い。BLとは何かを明確に定義することは非常に難しいので、そう思っていただいて全然構わないのですが、私が思っているBLとは違うものだと思います。
伏見 三浦さんの思っているBLは、どういう感じのものですか?
三浦 伏見さんがおっしゃったように、基本的にはハッピーエンドだし、「こうして2人は永遠に幸せに暮らしました」ということをほのめかすのが、一応、BLの王道だと思います。もちろんそういう作品だけではないのですが、ハッピーエンドのものが多い気はしますね。
伏見 僕の『百年の憂鬱』を読んでくれた腐女子のお友達は、「腐女子友達に勧めようかな、と思うんだけど、結末的にどうかな」ということを言うんです。
三浦 私、この結末がすごく好きです!
伏見 あ、ありがとうございます。僕ね、この結末しかないと思って書いていたんです。
三浦 そうですよね。すごい好きでしたよ。「お前、どこまでずるいんや!」というところも含めて、「でもきっとこういうもんだよな」と思えたんですよね。
伏見 これはちょっと実体験とも重なるリアルな話で、そこを結末にすることがテーマというか、結末があってから前の部分が作られていくというような小説ではあるんですよね。
三浦 うつくしい部分や醜い部分、ずるさやたくましさ。いやあ、このラストには本当に、「人間」ってもののほぼすべてが凝集していると思いました。
女同士や男女で、こういう作品が書けないものかと考えたんですが、女同士でも男女でも、年がいっていてデブの女って好かれるだろうか……。
伏見 ヘテロセクシャルの異性愛の中だと、極めてレアな話。
三浦 ですよねえ。もちろん100kg超えた女性しか愛せないとか、2、30歳年上の女性が好きという人も中にはいると思うんですけど、だからって、『百年の憂鬱』に出てくるユアンくんみたいな美青年がそういう女に、つまり自分に来てくれるか、ということを考えると、「キィー! くやしい!」みたいな思いがすごいあって(笑)。その価値観の多様性ってすごいなということと、もう1つ、主人公の義明には長年のパートナーがいますよね。でも、そういう人がいる一方で、若い男の人と関係する、恋をするというのは、私の中では「なぬ!? パートナーもいるのに、そのうえさらに美青年と恋だと!?」と嫉妬がある。私はけっこう、一対一の関係、対幻想みたいなものに囚われているんだな、と気付かされましたね。たとえば、妻子持ちの男をちょっといいなと思っても、私は絶対その人に惚れることを規制してしまうほうです。『百年の憂鬱』はそのへんもすごく新鮮で、本当に辛かった。切なすぎると思いました。
伏見 切ないというのは、ユアンくんに一体化する感じ?
三浦 いえ、語り手の義明さんです。
伏見 それは意外です。三浦さんは20代ではないですよね。
三浦 いま36です。
伏見 義明ほど中年でもなく、でも義明視点で読まれた?
三浦 はい、断然義明視点ですよ。ユアンがちょっと髪薄いところとか、「へっ」と思いましたもん。
伏見 それはざまあみろ感ですか?(笑)
三浦 はい。あと松川さんのお話も、自分自身を認められないままずっと生きてきて、それが他者への攻撃になっちゃうということは、ある時代のゲイに限らず、自分自身にもあるなと思いました。コンプレックスというか。だから読んでて辛いけど、松川さんみたいな老後は、悪くないなと思ったんです(笑)。ユアン以外にはほぼすべて感情移入できた感じです。ユアンは本当、「キィー!」という感じ。
伏見 あはは……! そのユアンに対する「キィー!」というのは何なんでしょう。
三浦 わかんないですね。美への嫉妬……? ユアンが美しいだけのアホ男じゃないのもまた、死角無しな感じで、くやしいんですよ。
伏見 三浦さんのお書きになる小説のキャラクターで、たとえば『まほろ駅前多田便利軒』の行天(ぎょうてん)とか、『舟を編む』の馬締(まじめ)さんって、ある種ものすごく欠落のある人ですよね。ちょっと暴力的だったり、オタクっぽかったり。そういう欠落があることが三浦さん的には重要なのでしょうか?
三浦 重要です。あ、そうだ、ユアンは「いい子やのう……」と思うし、義明さんを責めるのもよくわかるんですけど、私はやっぱり過剰に欠落していたり、過剰に過剰だったりする人やものが好きだし、すごく興味がある。ユアンの中にもコンプレックスや、二つの国の間で生きてきた故の居場所のない感じがあるんですけど、「過剰な欠落」や「過剰な過剰」まではいっていないと思うんです。彼はたぶんこの先、過剰に欠落、もしくは過剰に過剰になっていくんだろうな、とは想像しますが。
『百年の憂鬱』の中では、やはり松川さんや義明の人生や考え方、感じ方に共感するというか、自分の影を彼らの中に見るようで、応援したいような、「ひー、もうやめて」と言いたいような、そんな感じでしたね。

●肯定感を与えてくれる小説

伏見 辛いという意味で言ったら、『きみはポラリス』も相当辛い短編が多いですよね。切ないと言ってもいいんだけど。たとえば、ユアンと義明の年齢差がすごくあるというのが『百年の憂鬱』の1つの軸になっているけれど、『きみはポラリス』の中の「冬の一等星」に出てくる文蔵は、8歳の私から見たらおじさんだけど、20歳くらいの違いだから、おじさんではないですよね。これも面白い関係性だと思っていて、同じ時代、同じ瞬間にその場にいるけど、違う時代を生きているというか、違う時間を生きている人が一瞬交わるんだけど、でも絶対に同じ時代、同じ軸は生きられないということの、切ない感じ。
三浦 義明とユアンの場合、当然暮らしていた国も違うし、子供のころ見たものや聞いた音楽も違うと思うんですよね。広い意味での共通言語がないというのは、スリリングで楽しくもあるけど、切なさも生じるなあと。「冬の一等星」では、大人というものは自分の子供に限らず、絶対的に年若い人を守ってあげなきゃいけないんだということを書きたいと思っていた気がします。そうしない人が世の中にはけっこういて、腹立たしい思いがするんです。小さい子供を傷つけるのではなく、安らがせ導いてくれるような、親ではない存在がもしいたら、たぶん自分の人生は変わったんじゃないかなと思うところがあるので、そういうのを書きたかったんです。それで言うと、やはり義明とユアンは、義明が常にユアンを導いてますよね。
伏見 そうですね。最後くらいまでは導いているかもしれない。
三浦 最後でひっくり返しているところが面白いんですけどね。でも、たぶんユアンの中では、義明とのことは後になって思い出して、「いい恋愛だったな」と感じられるだろうなと思うんです。そのへんもすごく切なかったところかもしれませんね。こういう恋愛ができたら、すべての人がもっと恋愛や性愛に打って出られるというか、恐れなくて済むようになるのにな、と思いました。だからユアンはきっと、なんだかんだ言っていい思い出も得て、アメリカでも素敵な恋人なんか見つけちゃうに違いないって想像する。そういうのがユアンが妬ましい理由かもしれません。義明みたいないい人と付き合っておいて……と思うから、嫉妬なのかも(笑)。
伏見 僕はもちろん義明目線で書いているんだけど、若いということの可能性の余白に対しての、圧倒的な嫉妬というのがあって。それは若い人にはわからないのだろうけど、何者でもないとか、まだ何が起こるかわからない蒼い人生の圧倒的な強さに対しては一言いいたいです、というのはありました(笑)。
「冬の一等星」の誘拐された子供と、誘拐したわけではなかったんだろうけど、結果的に誘拐したみたいになってしまった、ちょっと暗い陰のある青年の関係は、恋愛ではもちろん全然ないし、たかが一晩の出来事ではあるんだけど、大人が子供を守ってあげるという関係性を体験できたことは、主人公の「私」という女の子の人生において、核になるような経験だと思うんですよ。そういう肯定的なメッセージを、三浦さんのどの作品からもすごく感じる。そこはとても素晴らしいし、僕には真似できないところです。僕のは首の皮一枚で肯定するような作品ばかりだから(笑)。
三浦 たぶん、私がすごく肯定されたかったからなんでしょうね。幻想なんですけど、自分はもっと違う人間になれたんじゃないかという思いが、すごくあるんです。その「こうありたかった自分」を書いているから、どストレートに肯定感を出しちゃうんだと思うんですよね。
伏見 個人的なことを聞くようでアレですけど、対等性にものすごく憧れがあったという話もありましたが、三浦さんは辛い思春期だったんですか?
三浦 そんなこともなかったと思うんですけどね、今にして思えば。
伏見 傍から見ると、普通は普通。でも心の奥に……?
三浦 うーん。「あそこでなにかを踏みはずしたな」と思い当たる節はいくつかあるんですが、それも結局は、なんとなく持って生まれたものとしか言えないのかもしれませんね。たとえば愛情に飢えていたということはないと思うんですけど、なにか「もう一声!」みたいなところが常に自分の中であるんですよね。たぶん欲張りなんでしょう。
伏見 三浦さんの作品が今日本中で読まれている理由の1つは、肯定的な力を与えてくれるところが強いからなんじゃないかなって感じます。今回、何作か読ませていただいて、そんな気がしました。
三浦 ありがとうございます。でも私、「ほっこりしました」みたいな感想を見ると、「ありがたい」と思う一方で、つい「ほっこりさせるためには書いてねぇ! 俺の中ではもっと切実なんだ!」とも思っちゃうんですけどね(笑)。自分がこうありたかったとか、自分が他者に対してこうできればいいのにな、ということをいつも思っています。できないから、そう思うということですけど。

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●暗がりのマザー・テレサ

伏見 三浦さんの作品の中のもう一つの指向として、行天くんとか馬締くんとか、ある種の大きな欠落と裏腹になっている「無垢なもの」に対する憧憬があるような気がしたのですが。
三浦 それは考えたことがなかったですね。ただ、行天も馬締も童貞なんですよね。馬締は奥さんができますけど、途中まではかなり長くこじらせ系で。
伏見 そうですね、行天は設定的には性が無い、ちょっとAセクシャルな感じなのかな。
三浦 たぶんそうなんだと思いますね。性愛や恋愛を求めない人を描いた小説って、あまりないですけど、「何でだ?」と思っていて。私は「どうやったら恋愛や性愛から解脱できるんだろう」ということを常に考えていて。もちろん、性愛も込みでものすごく激しく愛し合う、お互い求め合う関係もすごく好きだし、憧れるんですけど、半面、どうしたらその軛から逃れられるのかと考えるんですよ。
伏見 「ゲイ」というのは性的な違いにおけるアイデンティティなので、そこにアイデンティファイすると、性的存在の部分が際立つわけですよね。だからゲイの中では過剰な性行動や性的欲求が傾向として顕著になるのだと思います。
僕もそういう「性界」の人間なので、三浦さんが描く多様な関係性、特に性愛がそれほど濃くない、だからこそ生まれる微妙な味わいや、あわいの中に生まれる萌えを、「兆す」言葉でお書きになっているところに、逆に萌える感じがするんです。特に『まほろ駅前〜』の行天というキャラクターの、暴力的でありながら性的に薄いという人物造形が珍しくて面白い。普通、暴力的なことは性的なエネルギーとパッケージでイメージされますから。
三浦 そうですね。実際そういう人がいるのかどうかはわからないですが、彼はきっと、自分が暴力を受けたからセックスしたくないんでしょうね。でも、人は殴る、みたいな男で。
伏見 性的なことを追求していけば追求していくほど、ある意味で性的でなくなるという逆説もあるんですよね。変な例なんだけど、ゲイのネットワークの中にハッテン場というところがあるんですよ。暗がりの室内施設とかで、乱交みたいなことをする場所なんですけど。
三浦 ジャンルごとに場所があるんですか?
伏見 オールラウンドなところもあるんだけど、小さいところだとデブ専とかジャニ専とかジャンル分けしていて、ちゃんと需要と供給が経済合理性に適ったものがあるんです。そして、ぼくが以前行っていたデブ専ハッテン場に、行くと必ずいる20代くらいの細の子がいたんですけど、結構立派なちんこを持っていて……それはともかく(笑)、とにかくどんなデブとでもヤる(笑)。
三浦 男らしい!(笑)
伏見 暗いところで見ていると、その細の子はこっちでパンパン、あっちでもパンパンやって、片っ端からそこにいるデブをイカせていく……。
三浦 ふうむ、忙しいですね。
伏見 それを見ていて、最初は単なるセックス依存、ただの淫乱だと思っていたんですけど、あまりにどんなデブでもイカせていく姿を見ていると、暗がりのマザー・テレサのように思えてきて……。
三浦 性界の貴公子?(笑)
伏見 そうそう(笑)。見ているうちに、これは性じゃなくて、違うものなんじゃないかと思えてきて。
三浦 なにかを自分に課しているとしか思えないですよね。求道的なまでに、なにかを。AV男優の加藤鷹さんも、職業柄5000人の女性とセックスしたと新書に書いておられましたが、ものすごく求道的で、最後は精神的なところに行き着いていたから、そういうものなのかもしれないですね。
伏見 過剰なセックスは性ではなくなっていき、セックスじゃないからこそ性的ということもあると思うんです。だから、性界を生きてきた僕からすると、三浦さんの描く微妙な関係は、逆にすごくエロい感じがするんです。
三浦 それはたぶん、私が「性界」になかなか打って出られないからです。お呼びもかからないし、自分から打って出るだけの度胸もないので、溜まりに溜まった欲望がああいう形で出ちゃうんだと思います。
伏見 たとえば、ゲイとノンケの親友の物語を描いているときは、溜まりに溜まった欲望はどっちの側の視点になるんですか? ゲイ側の視点?
三浦 どちらかというとそうですね。
伏見 それは、報われない感みたいなものを共有している?
三浦 そうかもしれないですね。思いをうまく伝えられなかったり、すごく大事だと思っている人に本当の自分をさらけ出せなかったり、そういうところに共感して書いているんだと思います。基本的には神の視点のような客観的なところから書いていることが多いんですけど、どちらに感情移入するかといわれたら、あの話ではゲイの側ですね。

●関係性の恥ずかしさ

伏見 ユアンも無垢といえば無垢で、僕の中でも無垢萌えがあるのかも(笑)。ユアンもやっぱりある種の欠落があるんですよね。ハゲだったというだけではなくて(笑)、自分を制御できなかったり、欲望を抑制できなかったなかったり……。
三浦 たしかに、そうですね。だんだんぞんざいな喋り方になったりとか。でもそれは、ユアンにとってはほぼ初めて深く付き合った人だから、それによって、何も考えずにいた時代が終わって、自分の中のぞんざいさや暴力性に出合ったとも言えますよね。だから「義明、ユアンのそんな物語は始めさせてあげなくてよかったんだよ……!」という気もするんですよ。
伏見 なるほど。それはちょっと文蔵にも似ているかもしれませんね。しなくてもいいんだけど、「守ってあげる」みたいなことで始まる物語。
三浦さんの『まほろ駅前多田便利軒』の中に、「一人でいる重さに耐えかね、耐えかねる自分を恥じているのだ」という文章がありますね。関係というのは、美しいものだしもちろん重要でもあるんだけど、ちょっと恥ずかしいものでもあるような感じが、僕の中にもある。他者を必要としてしまう、他者がないと成り立たない自分という存在が面白いなと。
三浦 伏見さんの『魔女の息子』の中で、姪っ子にお小遣いをあげたら、臆面もなく受け取った場面があります。実はその姪っ子もいろいろ思うところがあったというのが後でわかるんだけど、あのへんの感じでしょうか。恋人や友人や家族など、連帯したり誰かとつながりあったりするのって、いいことでもあるんだけど、ときとして本当に耐え切れないくらい恥ずかしい感じがすることもありますよね。
伏見 行天と多田の関係の中で、関係することの気恥ずかしさや情けなさが、性愛に固執する僕には書けないようなかたちでうまく描かれていて、ちょっと憧れる感じがあります。性愛の単純さというか、原理がはっきりしている故の退屈さには、最近辟易とするところもあって(笑)。
三浦 中学生じみているんですけど、妊婦さんとか見るたびに「ひぃー!」ってなるときがあるんですよ。「ヤッたわけだな!」と。
伏見 ははは(笑)。
三浦 カップルらしき人たちが歩いていても、「ヤッてるわけだな!」と思ったり、人をヤッたヤラないで見ているときがあるんです(笑)。そんな自分がすごくイヤなんですが、「生きているかぎり、大半の人間はヤらずにはいられない」という予定調和に頭がおかしくなりそうというか。
伏見 僕は今水曜だけ新宿でゲイバーをやっているんですけど、ゲイだけじゃなくていろんな人が来るんです。そこで話を微に入り細を穿ち聞いていると、ゲイの話はある意味、単純なんです。ジム─恋愛─セックスとぐるぐる周っているリス状態の話が多いから(笑)。一方、かつては「バカノンケ」といって自分が馬鹿にしていたノンケ男子の機微が、最近はおもしろくて。
三浦 ノンケ男子に機微があるんですか? ひどい言い方だけど(笑)。
伏見 実はあるんですよ! 若い大学生のノンケの集団が来たときに、「男との経験とかないの?」と聞いたら「寮でちょっとそんなことになっちゃって。ゲイじゃないしバイってことでもないけど、何となくそんな感じになってヤッたことはあります」みたいな話をされたり。後輩がかわいいからとか、すごく仲いい友達と何となく性的な感じになっちゃって……という話を聞くと、「これはちょっといただきます」みたいな感じ(笑)。
三浦 でもたしかに、友情が高まれば体も重なることもあろうと、私は思うんですよ。
伏見 昔は日本も『巨人の星』を見るまでもなく、肩を組んだり、男同士でガッツリ身体接触してたんですけど、同性愛概念がある意味でメジャーになってきたときに、それが少なくなったと思うんです。
三浦 特にアジアでは、宗教的な規制があまりないからか、男の人同士で手をつないで歩いたり、カップルというわけじゃなく、仲の良いお友達同士でイチャイチャしている人たちがいますよね。
伏見 そう。身体接触が変態行為=気持ち悪い→やらない、となったのは、ここ数十年の出来事ですよ。うちのバーで最近雇ったノンケ男子のバイトの子がちょっと面白くて。ノンケなんだけど、イケメンのゲイのお客さんについて、その人が帰った後で「いやー、Sさんカッコイイっすね。先輩になってもらって、飯とかおごってもらいたいっすよ」とか言うんです。これはどういう欲求なのかと(笑)。
三浦 なに勝手なこと言ってんだって話ですよね(笑)。
伏見 そうそう。「ヤりたいって話じゃないんでしょ?」と言ったら、「別に性欲じゃないんですけど、先輩にかわいがってもらいたいんです」と。それは僕の中にない欲求なので、おもしろくて最近ずっとその子を観察しているんです。
三浦 そういう男子は結構いるのかもしれないですね。大学のときに、クラスに女顔できれいな男の子がいたんです。そうしたら、自称ノンケの男子たちは「あいつだったらヤれる」とか、「このクラスの女と付き合うよりは、俺はあいつと付き合いたい」みたいなことを言っているんですよ。私は「じゃあ付き合えよ」と思ってたんですけど(笑)。
伏見 それは、三浦さん的には萌えるような話だった?
三浦 いえ、全然。その顔のきれいな男の子の性格を、私はあまり深く知らなかったので、「顔のみが基準でいいなら、つべこべ言ってないで付き合えば?」くらいだったんですけど。もし、その顔のきれいな男の子を人間的にも好きだったら、「顔も性格もいい彼が、お前と付き合ってくれるかもという、その前提というか自信はなんなんだよ。バカじゃないのか」と思っていたと思います。そういうことを言う男子って結構いるんですよね。男は男を好きですよ。
伏見 でも、女の子のほうが異性愛と同性愛の境目がもっとゆるくないですか?
三浦 それは絶対そうだと思います。
伏見 三浦さんは女子校にいらっしゃって、古く言えば「エス」みたいな経験は?
三浦 女の子のことを好きだったこと、ありますね。残念ながら肉体は重ならなかったけど、そのとき自分に何らかの性的な経験がすでにあったら、いってたな……と思うことは、今にして思えばあります。

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●セックスよりも性的な関係

伏見 前提を聞いてなかった気がするんだけど(笑)、三浦さんって自分のセクシャリティを名付けていたりする?
三浦 名付けられないんですよね。実際的な経験でいったら、女性とセックスをしたことはないんですけど、本当に無理なのかと考えると、わからないです。こんなこと言うのもアレですけど、誰ともわからない女性とエロいことをする夢をたまに見たりもするので(笑)。
伏見 女性で、すごく異性愛アイデンティティが強固な人でも、マスターベーションファンタジーに登場するのは女性で、レズビアン小説を読んで「抜く」ような人もけっこういますよね。
三浦 男性が「俺は男だ」ということを誇示するほどには、女性は「私は女だ」と常に示さなくてもいいから、セクシャリティが曖昧なのかもしれませんね。
伏見 なるほど。逆に言えば、最近の若い世代の男子って、そんなにマッチョアピールをする必要がなくなってきているから、自分の中の曖昧な欲望とか、揺れている感じを隠蔽しなくても済む時代になっているのかもしれませんね。
さっきも言いましたけど、お店で見ていると、ゲイの方のアイデンティティがすごくはっきり象られている中、ノンケ男子のほうはだんだん曖昧になってきて、ゲイよりもゆるい感じになってきたような気がします。
三浦 しかし、そうやっていくと、人類総バイセクシャル化してきますよね。それって、ゲイやレズだということに非常にアイデンティファイしている人たちにとっては、腹立たしいことではないんですか? 「お前らはっきりしろ!」みたいな。
伏見 でも、ゲイやレズのアイデンティティも特定の社会によって象られているから、社会自体がどんどんグズグズになっていくと、そこでのアイデンティティもどんどん曖昧になっていくはずで、特定のアイデンティティだけが強く残ることはないように思うんですよね。
三浦 そうか。そりゃそうですね。
伏見 生殖や再生産みたいなことと、性愛的なことや関係性的なことは分離していって、「生殖は生殖。性愛は性愛」というな感じになっていくでしょう。
三浦 それこそ人工子宮みたいなのができたら、そこで子供はポコポコ生産されて……みたいな、SF的な世界が到来しないとも限らないですもんね。
伏見 でも、関係性という快楽、関係性のエロスはものすごく多様になって、いろんなものを楽しめるようになっていくんじゃないでしょうか。
三浦 そんな中で、性愛を含んだ関係性を楽しみたくないという人の居場所はどんどんなくなるのではないか、という危惧もあります。
伏見 性愛じゃない関係性を楽しみたい?
三浦 性愛を含んだ関係性は楽しみたくない。つまり、セックスしたくないという人の居場所はどんどんなくなっていくのでは、という恐れが。
伏見 ほうほう。でも逆なんじゃないですか? セックスをしない性愛が出てくるのでは。
三浦 だといいんですが……。「性愛を含んだ恋愛をするのがまっとうである」という感覚、考えは、かなり強固なようにも思います。今でもそういう人、けっこういますもんね。セックスレスに悩んでます、みたいな。生殖と恋愛が社会的に完全に別物になったら、さらに「にもかかわらず、異性間であっても同性間であっても、性愛を含んだ恋愛を謳歌できない私」という悩みも増えるのではと。
伏見 近代は性愛への動員というか、性愛を後押しする力が強かったんだと思うんです。
三浦 それは殖産興業ということですか?
伏見 それもあるし、あとはロマンチック・ラブ的なイデオロギーというか。だから、今後は性愛方面にいく人もいれば、そうではない人もけっこういるかも。僕の知り合いの中でも、自分が性愛関係を得ることよりも、自分がどういう性でありたいかということのほうが優位に立っている子がいるんだけど、たとえばオネエだと、ちょっときれいな方向にいくオネエはモテないんです。モテないんだけど、「いや、私は自分の美意識の方を重要視する」みたいな。
三浦 まぐわいよりも、なりたい己になるべく努力するほうが先に立つ、と。なるほど、それはすごくわかる気がしますね。
伏見 『舟を編む』の中で西岡さんの馬締くんに対する視線とかも、僕からするとかなりエロい(笑)。
三浦 部署的には先輩後輩だけど、西岡は馬締にちょっとコンプレックスを抱いている。言われてみれば、あの関係にはたしかに萌えるな(笑)。
伏見 関係性それ自体に快楽、エロさがあるような気がするんですよね。3.11以降、「絆」という言葉に手垢がついてしまって、使うのに躊躇があるんですけど、絆をどう育てていくことができるのかみたいなことでいうと、僕は『きみはポラリス』の中の「私たちがしたこと」という短編が結構好きなんです。うさぎさんは解説で「秘密」というキーワードで分析していらしたけど、共犯関係というか、人に言えない罪のようなものを共有する関係って、単なるセックスよりも性的な感じがするんですよね。
三浦 悪いことを一緒にする快楽は、やっぱりありますね。
伏見 『百年の憂鬱』も不倫といえば不倫で、ユアンの方は不倫に対する抑圧やつらさがあって爆発したりするんですけど、不倫だからこそ、という部分もありますよね。
三浦 そう。特にユアンのほうは、義明にパートナーの影を感じるからこそ、恋の醍醐味を知るというか、より激烈に恋をしていく面がありますよね。
伏見 『きみはポラリス』の中の「私たちがしたこと」という短編は、高校生のときに付き合っていたカップルがいて、女の子のほうが道を歩いていてレイプされそうになって、それを助けるためにボーイフレンドが男を殴って殺しちゃう。カップル2人で男を埋めたことを秘密にして、女の子が東京に出て一度別れるんだけど、友達の結婚式で再会して、でも付き合うでもなく別れていくという話なんだけど、これも素晴らしいなと。特にラストが。つまり、再会してもう1回付き合うということではなく、離れるんだけど、たぶん2人にはものすごい絆があって、実際その後の人生で2人はセックスをしないかもしれないし、ごはんを食べたりもしないかもしれないけど、心の中で最も大事なパートナーであり続けるんじゃないでしょうか。その共犯関係の絆の分ち難さに比べたら、チンコをマンコに入れるくらい何なのよ!と(笑)。
三浦 本当にそうだと思います。たぶん、「私たちがしたこと」の主人公の女の子は、その後誰と付き合っても、心のなかでは高校のころに付き合っていた男を思っているわけです。誰と結婚しても、その男が特別なんですけど、それを結婚相手とかには絶対悟らせないはずで、そのとき彼女は心のなかで、「ニヤリ。悪い女だ、自分」くらい思っているかもしれない。それによって彼女の中でエロスがどんどん内燃していって、そのおかげで夫もそれなりに満足したりすると思うんです。『百年の憂鬱』でも、その場にはいない忠士が、2人の恋愛を実は支配してる感がある。「不倫ってダメだよね」という単純な話じゃなくて、だからこそ辛いんですよ、すごく。「私はここまで他者とガチンコで向きあったことも、愛を乞うたり乞われたりしたことも、ない!」と痛感させられもしたというか……。

●私小説のモデル

三浦 でも、『百年の憂鬱』のモデルになった人は、こんな形でご自身の「個人的な経験」が明らかにされるとは思ってもみなかったでしょうね(笑)。
伏見 『百年の憂鬱』は私小説と公言して発表しているんですけど、実際に今、人権問題とか個人情報の問題とかいろいろあるじゃないですか。だから一応原稿にまとめるときに、ユアンや忠士のモデルの方々にも読んでいただいて、OKをとっているんです。
三浦 あはは。伏見さんったら、悪い女だわ、いや男か。OKなんだ! ユアンくんいい子だな。
伏見 ユアンくんは暴れるかもしれなかったので、新宿2丁目の喫茶店に呼び出して、人目のあるところで読んでもらいました(笑)。
三浦 ひどい! どんなプレイなんですか(笑)。
伏見 暴れたときに彼を止められる、中村うさぎさんまで動員して、万全の態勢でOKをとったんです。
三浦 うさぎさん、強そうですからね。じゃあ、伏見さんの目の前で彼が読んだんですか?
伏見 そうなんです。
三浦 でも、これをちゃんと全部読むには、けっこう時間がかかりますよね。
伏見 うん。4時間くらいかかるから、途中で席を離れてもう1度戻るというくらいな感じだった。
三浦 戻ったらユアンくんが金属バットを用意していた、ということにならなくて良かったですね。
伏見 細かなタイミングは忘れましたけれども、僕がなかなかうさぎさんに連絡を入れなかったら、「伏見さんもう殺されてんじゃないか」とうさぎさんも心配していたらしくて(笑)。
忠士のモデルは海外にいるんですが、僕的にはそっちのほうがどうかなって思っていたんです。
三浦 今までに、ほかのかたとの恋愛の内容をパートナーに詳しく話すなんてことはないですよね。
伏見 ないですよ。ましてやこんな小説の形で(笑)。ここまで詳細にやるのはどうかな、さすがの僕もひどすぎるだろって思いながらやっちゃうのが物書きの業というか、自分の性格の悪さなんだけども。パートナーの彼もちょっとドキドキして読み始めたらしいんだけど、「この作品は今まで書いたものの中で一番自分も好きだから、これは出したほうがいい」と言ってくれて。そのときにちょっと萌えた(笑)。自慢話になってますけど。
三浦 ほんと、今なんかモテ男話に……。なんでそんなに充実した恋愛しちゃってるんですか? パートナーとも、ユアンくんとも……。なんなんですか!?
伏見 と、三浦しをんに怒られるの巻(笑)。
三浦 嫉妬が渦巻いてしまった(笑)。
伏見 たしかに、今振り返れば充実なんですけど、当時は大変でしたね。最初は全体像を書こうとしたんですけど、僕がボコボコに殴られているところとかを書いていたら、ホラー小説みたいになっちゃって(笑)。「これって違う小説じゃない?」と。
三浦 それは別のベクトルで辛いからイヤですよね(笑)。
伏見 そうなんです(笑)。僕も本当に恋愛をしているときは狂っちゃうので、いたいけな二十歳そこそこの青年のiPhoneを取り上げて床に叩きつけて足で踏みつけたりとか。だから、後から見たら「充実」という言葉で言えても、相当ひどいことになってはいたんです。でも、小説の中にも書いているけど、50近い中年になると、こういう恋愛はもうないだろうと思って執着しちゃったのかな。
三浦 ユアンくんみたいにすごく思慮深い青年に恋心を捧げられたら、執着して当然ですよ。
伏見 そうなんです。それにいくら性的嗜好が多様なゲイ業界といえども、デブで中年でオネエで性格が悪い、という四重苦のおじさんというかおばさんを好きになってくれる人は、そうそういないんです。というか、30年近く二丁目にいて初めてくらいなことなので、これはちょっと執着しちゃうじゃないですか。
三浦 ん、待てよ? ということは、こんな私を好きになってくれる美青年がこの後出てこないとも限らない……わけか。嫉妬を超えて、今ちょっと希望が持ててきた。
伏見 というか、三浦さんってすごく素敵な方だと思うんですけど、いないんですか?
三浦 いないですよ……。
伏見 まあ、オカマの「素敵」だから、ノンケとは違うかもしれないけど(笑)。
共犯関係の話で言うと、そういう媒体があるかどうかわからないですが、『百年の憂鬱』の続編を書くとすると、たぶんユアンくんが他に男を作った上での義明と関係する……というのが、書かれるべき物語なんですよね。それはやっぱり、「私たちがしたこと」や「冬の一等星」と同じで、罪を共有することで絆がより強固になるという物語。
三浦 それはすごく読みたいですね。きっとユアンは新しい彼と仲良くしつつ、義明とばったり出くわしたりすると、目配せとかするんだわ。キーッ!(嫉妬再燃) しかも、また義明が奪い返すとか?
伏見 そうですね、そういう展開もたぶんあるんだと思うんです。
三浦 そこに忠士が香港から乱入とか!
伏見 忠士はアレだけど……やっぱり、悪徳って快楽ですよね(笑)。
三浦 そうですね。過去そのものが罪であり、快楽であり、なんらかの共犯関係であるとも言えると思うので、過去を共有しているという時点で膨大かつ重層的なエロスが発生しますよね。

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●小説の脂身

伏見 僕は本当に三浦さんみたいに小説を書くのがうまくなりたいと思っているんですよ。もともと物書きになった動機が、同性愛への誤解や偏見に対して自分なりのロジック、理屈を作って提示するということから始まっているので、そういう文章って小説とは真逆な世界ですよね。肉を断って骨にするというか、脂身を削いでいくようなもので、骨格はっきりはしてくるんだけど、おいしいところが抜けて落ちていくようなところが、論理化というものにはある。でもたぶん、性愛にしても人の情緒にしても、脂の乗った肉のところがおいしいわけじゃないですか。僕が小説を書き始めた動機の1つは、ロジカルなものをずっと書いてきたら、自分の気持ちまで骨っぽくなってきてしまったので、ブラックなものや混沌としたものを自分の中に取り戻す、ということでした。
三浦 それは実現されているし、成功しているんじゃないですか? 『百年の憂鬱』を拝読して、登場人物あるいは作者の、恋愛という非常に個人的な「経験」が、ここまで読者に跳ね返り、響き、経験したことがあるかのように感じられることがあるのかと、言語のみで表現される小説・物語の効用と凄みに、改めて思いを馳せましたが。  
伏見 でも、やっぱりどうしても、情緒を言葉に置き換えていく上でのスキル的な問題が……。三浦さんはすごく本が好きでらっしゃるのが有名ですけど、僕は子供の頃からそんなに小説とかを読んでいないこともあって、表現の幅が狭いんです。だから、三浦さんの『きみはポラリス』を読んだときに、「キーッ! この女!」と思ったのは本当で、どうしたらそういうふうに書けるのか、素直に教えてもらいたいと思って。
三浦 いや、そんな……。伏見さんはすでに、論理という骨をちゃんと備えていらっしゃいますから。小説にもやっぱり論理が必要だと思うんですが、私は全然ロジカルな組み立てができなくて。ぶよぶよした脂身ばかりで骨がない気がして、そこがダメなところだなあと。私も当然、自分の経験や感じたことを踏まえているんですけど、それが原型を留めないくらいになったときに書きます。なので、憑依系というか、書いていると、全然自分じゃない誰かの人生に一瞬なれる気がするんです。まぁ気のせいなんですけど、別人になれたような気がする時があって、それが快楽で書いている感じです。
伏見 その瞬間を捕まえている感じなんですか。僕は私小説というか、一人称系の小説なんですが、そうするとやっぱり、自分から出られない感じがある。それこそ三浦さんの小説って、いろんな人になっているので、どういう才能なんだろうと思って。
三浦 心は女優ですよね(笑)。「ガラスの仮面」をつけて。
伏見 書いてるときって、本当に憑依しちゃう?
三浦 一瞬だけそうなるときが、5作に1回くらいあります。
伏見 たとえば『きみはポラリス』だったらどうでした?
三浦 『きみはポラリス』だと、「永遠に完成しない二通の手紙」は憑依系で、ブワーッと書けたんです。「冬の一等星」や「私たちがしたこと」もそうですね。今日伏見さんが挙げてくださった作品は、自分でも書いていて「キターッ」みたいな感覚があった作品です。
伏見 僕は三浦さんの作品の中にパッションを感じているんです。つまり熱情ですね。『風が強く吹いている』だったら「走る」だし、『舟を編む』だったら「辞書の編纂」みたいな。ああいうパッションが、三浦さんの中でエロスのようなものになっている。僕は本当に情けないけど性愛以外になかなかパッションを持てないんです。性愛時代の前には、ちょっと政治的なゲイ・リベレーションみたいなことに対するパッションがあったんですが、それもなくなり、性愛もそろそろ卒業なので……。
三浦 政治的な運動よりも後に性愛が来たんですか?
伏見 そうですね。もちろん性的な欲望はずっとあるんですけど、政治的なことが90年代はじめから2007年くらいまであって、そのときは勝手に自分が何かを背負いこんでいる感じになってたんです。「突っ込まれたらマズイ」「隙を見せたらマズイ」みたいな。そのせいで、あまり性愛的な世界を楽しめない感じがあった。でも、それが一段落してやることがなくなってからは、乱れた40代を送っていたんですけど。
三浦 解放されちゃったんですね(笑)。それってすごい充実してるなぁ。
伏見 他にないからなんですけどね。
三浦 でも、なにかひとつに打ち込んでいたら、セックスは二の次になる感じはありますよね。
伏見 だからパッションを知らないわけではないんですけど。三浦さんの作品の中にあるパッションみたいなものは、どこから出てくるものなんでしょうか?
三浦 うーん……。文化祭とか体育祭とか、「一致団結してがんばろう!」みたいなのは絶対乗れない派なんですよ。協調性がないし、運動系もまるでダメですし。
伏見 じゃあ、書かれるものと逆じゃないですか?
三浦 はい。ただ、自分は異様に本と漫画が好きだという思いだけは、子供のころから執念深く、飽きることなくあるんです。いろんな本や漫画を読まずにいられない。たぶん、自分にとっての本みたいな、なにか欠かせないもの、愛してやまないもの、飽きることのない情熱とは、他の人にとってはなににあたるんだろうか、というのを知りたいんです。
伏見 なるほど。僕は物書きを自称するのが恥ずかしいくらい、本を読むのが苦手なんです。書評の仕事とかはありがたいし、お金につられて、あまり読みたくない本でも読むんですけど(笑)、実は子供の頃から活字が馴染んでなくて、読書家の人のパッションがわからない。
三浦 『ゲイという経験』みたいな厚い本をお書きになっているのに!
伏見 あれは15年くらいの間に書いたものをまとめただけだから。だから、三浦さんが『三四郎はそれから門を出た』などで「欠かせないもの」とお書きになっていたのを読んで、やっぱり文学少女なんだと。
三浦 かなりの数の漫画が含まれるので、文学というか漫画少女だったですが。ただやっぱり、読書って1人でするもので、たまに同じ本を読んだ人と話し合ったりできるんだけど、基本的には誰にも言わずに黙々と読む時間が長く、それに情熱を傾けている自分がまたイヤなんですよね。だから「みんなでなにかやろう!」というシチュエーションに憧れがあって、駅伝とか辞書づくりとか、1人じゃできないものに情熱を傾けている人を小説で書くのだと思います。
伏見 僕もかつての自分の政治的な志向とかもあって、それは、すごく上っ面で言えば、「差別があって自分が辛い思いをしたから、人にはそういう思いをしてほしくないから」とか理由が言えるけれど、でもどこかで本当はそうじゃない感じがしていて、自分の中のパッションがどこから来たのかは、僕の中では謎なんですよね。わかりやすく因果関係で語ることもできるんだけど、どこかに謎な感じがあって、その謎な感じって、小説でしか書けないじゃないですか。
三浦 たしかにそうですね。どうして自分は、こんなに漫画が好きなのか。本当におかしいくらい毎日読んでいて、今日もここに来る前に袋いっぱい漫画を買ってしまい……。説明できない情熱が、いつからどうして発生したのかわからず、自分でも怖い。たぶん、それで小説にしているんでしょうね。
伏見 僕は『風が強く吹いている』の書評を書かせていただいたことがあって、そのときにも書いたんですけど、最初あれを読み進めていくとき、何で彼らが駅伝に掻き立てられるのかよくわからなかった。
三浦 それは道理だ(笑)。
伏見 疑問に思いながら読んでいるんですけど、最後に納得するんです。因果的には説明できないんだけども、肚に落ちる。でも、肚に落ちることをひと言やワンセンテンスで言うことができない。そのとき、あぁ、これが小説だと思ったんです。自分のパッションもそうなんですよね。
三浦 「こうです」とひと言で言えたら小説を書く必要がないし、書きたいと思わないですもんね。新刊インタビューなどで、「この小説で書きたかったことはなんですか?」と聞かれたときは、たとえば「これが最後の恋とのめり込んだ経験です」とか、「駅伝を頑張る人たちです」とか言うんだけれど、でもそれは、その小説の本当の核の部分とは違う気がする。
伏見 そう。たとえば『ゲイという経験』みたいな本についてのインタビューなら、結構うまくしゃべれて、自分でも納得できるんだけど、小説についてのインタビューってすごく苦手で、「どうして書いたんですか」とか「テーマは?」とか、「そんなの言えたら書かねえよ!」みたいな。
三浦 短冊に標語みたいに書いて「これです」で済むなら、何百枚もの小説にしなくていいですからね。
伏見 そう、だから一応上っ面的には『百年の憂鬱』も、「もう卒業の年になって執着しちゃいました。最後だから」と言えるんだけど、本当の理由は、たぶんそれじゃないんですよね。
三浦 そうそう。それこそ、『百年の憂鬱』には言語化できないパッションがあふれてるじゃないですか。私、最初の1行から「うおー、来たぞコレ!」と思って、ぐいぐい引きこまれちゃいましたね。
伏見 そして辛かった、みたいな(笑)。
三浦 うん。「辛い!」と思いながら読みやめられないんですよ。やっぱりうまく言語化できないんですけど、伏見さんご自身が投影されているとしても、小説の登場人物は所詮は架空の存在ですよね。でも、架空の人物の人生と、読者である私の経験や感覚が非常に接近して、ほとんど一緒になる瞬間があるからすごく辛いし、同時に快楽と言っていいほど楽しくて興奮する。「この人たちの行方を見届けないことには、今日は寝られない!」と思う。自分ではない誰かの人生を生きたような気持ちにさせられるのが、小説の力だし、物語の力なんだと、改めて感じました。
伏見 不思議ですよね、小説って全部言葉なのに、言語で表現できないものを表現しようとしている。
三浦 本当にそう思います。
伏見 僕はロジカルな文章も今でもたまには書くんですが、どうも脳の使っている場所が違うみたいで、評論的な仕事と創作的な仕事は同時にはできないんですよね。それで、結局両方ともたいして書かなくなっちゃったんだけど(笑)。
三浦 いやいや、1回できた骨は消えないですから。今は骨のまわりに、脂身がどんどんついていってるんですよ(笑)。骨粗鬆症とかになる可能性もあるけれど、基本的に骨は消えない。いつでもまた評論もお書きになれるのでしょうけど。今はきっと、動かずに脂身をためているんだと思います。
伏見 脂身をためて糖尿にならなければいいけど(笑)。今日はありがとうございました。

●プロフィール

三浦しをん
1976年、東京都出身。2000年、『格闘する者に○』(草思社)を出版。2006年には『まほろ駅前多田便利軒』(文藝春秋)で直木賞受賞。他に『風が強く吹いている』(2006年、新潮社)、『きみはポラリス』(2007年、新潮社)、『舟を編む』(2011年、光文社)など多数。

百年の憂鬱


著●伏見憲明
希望小売価格●1,500円+税
ISBN978-4-7808-0184-2 C0093
四六判 / 160ページ /上製
[2012年7月31日刊行]

目次など詳細はこちら『百年の憂鬱』

紀伊國屋書店新宿南店で「女子だもん!!」フェア実施中!

雨宮まみさん対談集『だって、女子だもん!!』、そろそろ店頭に並び始めています。
緑の鮎原こずえ!が目印です。
この刊行に合わせて紀伊國屋書店新宿南店で、「女子」をテーマにフェアを実施してくれています!
ずばりそのタイトルも「女ってしんどくないですか?」
『だって、女子だもん!!』に登場してくださった峰なゆかさん、湯山玲子さん、能町みね子さん、小島慶子さん、おかざき真里さんの著作も並んでいます。
紀伊國屋書店新宿南店4Fです。ぜひお発ちよりください。

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(紀伊國屋書店新宿南店の佐貫聡美さん撮影)

だって、女子だもん!!

「普通の女の子」として存在できなかったあなたへ

全国のこじらせ女子の心を
わしづかみにした、雨宮まみの第二作。
もてあましたくなる「女子」を語らせたら、
この人!という5人を迎えての対談集。

女子力のなさ、劣等感、非モテ…
同じコンプレックスを乗り越えてきた
こじらせ女子たちが考える、
「じゃあ、どうしたら幸せになるの!?」

第20回■“お嬢様”の誕生日

「梶木さん、ナルシシズム入り過ぎですよ〜」
と、この連載を担当している美人敏腕編集者に言われてしまった。うっうーっ、がっくしである(アスキーアートを使ってみると“orz”という感じだ)。

分別のある五十男。己というものを知ってはいる。当然、ナルシシズムなど、日常生活では浸ることはありえない。しかし、せめてテレクラ物語の中ぐらいは耽溺させてくれ……。束の間のヒーロー気取りをしたいのだ。
“女狐”と行ったコンサートで、アーティストは、アンディ・ウォーホールの“誰でも一日だけならヒーローになれる”という言葉を引用した歌を歌っていた。私も自らの恥を晒すような真実を語ることで、ヒーローになれるかもしれない。束の間でもいい、ナルな気分に浸らせていただき、暫くはナルシシズム溢れる週刊“実話タイムス”にお付き合い願いたい。

さて、話を戻そう。田園調布に住むお嬢様を籠絡し、それを契機にこの国を支配する上流階級にのし上がろうというハードボイルドな“野望と妄想”(笑)を抱きながら、私は彼女の後についてお嬢様のお屋敷を目指した。桜並木(かどうかは、良く覚えていない)を歩いていくと、果たせるかな、10分もせずに、お嬢様の家へと辿り着く。玄関から母屋まで数分はある“お屋敷”を想像していたが、実際に目の前にあるのは普通の2階建の木造の一軒家。田園調布だから、地価などを考えれば安くはないだろうが、特に広いとも思えない、近郊都市にある建て売り住宅のような作りだ。値踏みをするようで嫌らしいが、下町と山手という地代を差し引いても、私の実家の方が平米数も広く、建物自体4階建のビルだから、資産価値は高いだろう。

いきなり拍子抜けである。私の“野望&妄想”は脆くも崩れ去る。確かに、田園調布というブランドに惑わされていたふしもある。田園調布だからといってお屋敷ばかりではない。普通に庶民(!?)が暮らす住宅だってある。もっとも、小さくても田園調布の一戸建てだから、ある程度の富裕層であることに間違いはない。

彼女の家に入ると、すぐにリビングがあり、ピアノがあった。当然、グランドピアノかと思っていたら、アップライトピアノだった。これまた予想外である。陽の当たる広い部屋に白いグランドピアノが置かれている、これではジョン・レノンの家のようになってしまうが、そんな風景を想像していたのだ。

家には幸い、両親はいなかった。親を紹介されるという、最悪の事態は免れる。何しろ、テレクラ男など世の親の敵だろう。財産や閨閥目的であれば親との面談は必須だが、そんな淡い夢は、数分前に崩れたばかり(笑)。

彼女の部屋にも通されたが、小さなベッドと勉強机(デスクというより、勉強机というのが相応しい)があるぐらいで、普通の女の子の部屋という感じで、これといった特色はなかった。人形やぬいぐるみが所狭しと置かれていたり、クローゼットに高級ブランドの洋服やバッグがぎっしりだったら印象も変わるのかもしれないが、そういう面では精神的な安定や経済的な堅実さが部屋に表れていた。壁紙やカーテン、インテリアなども女の子らしい風情はあるが、変にファンシーでないのも自分的には違和感はなかった。

テレクラを通して女性の自宅へ何度となく家庭訪問をしてきたが、そのほとんどは独居女性で、いわゆる実家みたいなところは今回が初めて。流石、彼女の部屋で、ベッドに押し倒すような危険な真似はできなかった。父親は房総へゴルフ、母親は二子玉川へ買い物に行っているらしいが、変なこと(!?)をしているところに鉢合わせなんていうのは避けたい。どことなく落ち着かず、長時間の滞在は避けるべき、と、家を出ることにする。本当に短時間の家庭訪問だ。東急東横線を渋谷へ1駅戻る形になるが、自由が丘へ行くことにする。

カメレオンマン

当時、既に自由が丘は、若者向けのお洒落な街になりつつあった。しかし私としては駅前にあった餃子店(自由が丘・餃子センター)へ行ったくらいで、あまり縁のないところだった。その餃子センターに行ったのも、自由が丘にあった名画座、武蔵野館にウディ・アレンの『カメレオンマン』を見に行ったのがきっかけだ。カメレオンのように周囲の環境に順応する能力をもつ男、レナード・ゼリグの生涯を、ドキュメンタリー調で描いた1983年の作品。ちなみに、日本公開時には吹き替え版が上映されたが、UFO番組でお馴染みの矢島正明のナレーションが印象的で、字幕スーパーだと思っていたら、いきなり日本語が飛び出してきて驚いた記憶がある。いささかこじつけ臭くなるが、周りに合わせ、自分を変えてしまうというカメレオンマンぶりはテレクラマンとしても大いに参考になった、なんてね。

と、“自由が丘・青春プレイバック”をしてしまったが、私にとっては縁遠い場所(AWAY)でも、お嬢様にとっては地元(HOME)。流石に馴染みの店も多く、お洒落な店もたくさん知っている。彼女の行きつけという、いまでいうなら、イタリアン・バールのような雰囲気の、パスタやリゾットが美味しい店へ案内された。

赤ワインを嗜みながら、お嬢様を籠絡するという野心は既に消え失せたが、根がいい人である私は、またもや熱心に彼女の恋愛相談に乗ることになる。女性心理はわからずとも男性心理はわかる。彼女が二人の恋人から聞かされている言葉の真意などを尋ねられる。当人ではないので正解はわからないが、男の狡さというものを加味して、詳らかにしていく。彼らの真意を変に捻じ曲げず、多少、露悪的になるところもあるが、そんなところも含め、男の心理みたいなものを語っていく。二人の恋人の言動や行動からは打算めいた深謀遠慮みたいなものも感じたので、そんなところもさりげなく指摘していく。逆に、私の行為は打算がなく、無償の行為のように感じたらしく、知らぬ間に私の好印象度はさらに上がっていくことになる。

テレクラなどは、ある種、手練手管や権謀術数を弄するところだが、それらを放棄することで、逆に好印象を抱かせてしまうのだから、不思議なものだ。物事は道理のようには進まない。愛の不可逆性とでもいうのだろうか。

家庭訪問後の自由が丘では、軽くお酒を飲んで、食事しての健全デートだった。普通であれば、そろそろ欲望の牙を剥き出し、肉体関係モードに持っていくところだが、私自身にそういう気持ちが起きてこない。別に女狐の後遺症で好きな人でないとセックスができない、なんて、乙女チックな御託をいうつもりはない。以前、“エロブス理論”でも触れたが、一般的には魅力的とされる女性でも自分にとっては性的な魅力に乏しく、欲望に火がつかない。やる気が起きないのだ。当然、不能などではない。性的なモチベーションは、可愛いとか、綺麗とか、育ちが良いとかとは別なところにある。テレクラ男子たるもの、選り好みはご法度、やれるもの拒まずだが、流石に10代20代のやりたい盛りではない、そんなに飢えてもいない。『粋の構造』信者の私としては、武士は食わねど高楊枝ではないが、痩せ我慢の美学みたいなものもあった。

お嬢様からのアプローチ

そんなわけで、私としては、そろそろ、お嬢様を放流状態(キャッチ&リリースがゲーム・フィッシングの基本だ!)にしたいところだが、お嬢様の方から食らいついてくる。その頃には、餌付けもしてないし、釣り糸も垂らしてない。彼女にとっては、男の本音を知ることのできる数少ない情報源、逃したくないのだろう。

あまり会うことはなくなったが、それでも頻繁に連絡はくるし、相談は受ける。そしてこれまた意外な申し出というか、お誘いを受ける。それがなんと、誕生日を祝って欲しいというのだ。誕生日など、クリスマスと同様、本命の彼氏・彼女の“仕事”である。私達、隙間産業たるテレクラ男子の出る幕ではない。二人の彼氏のうちのどちらかに祝ってもらえばいいものを、私におはちが回ってくる。

多分、ゴールデン・ウイークだったと思う。正確な日時などは覚えてないが、その誕生日に起こったいろいろなことがそう記憶させている。
待ち合わせは渋谷だった。渋谷の百軒店に行きつけの台湾料理屋があり、そこに案内したと思う。イタリアンやフレンチではなく、ここも変化球を繰り出す。ひょっとしたら、変化球ついでで、台湾料理ではなく、桜ヶ丘のロシア料理屋にしたかもしれない。その辺の記憶は曖昧で不確かだが、店選びに関して、お嬢様には徹底して変化球を投げ込んだはずだ。

誕生日ということで、プレゼントも用意した。特に目論見も打算もなかったので、とりあえず、コストパフォーマンスを考え、スタージュエリーのネックレスにした。流石、ティファニーやカルティエをプレゼントする関係でもない。考えてみたら、当時からティファニーも随分と身近になったものだ。私でさえ、ティファニーの3連リングをプレゼントしたことがある(残念ながらテレクラで会った女性ではない!)。しかし、かのヘップバーンも価値暴落(価格が安価になったという意味ではない。特別な階級の持ち物ではなく、20代や30代のサラリーマンが平気で、買えるようになったということ)を嘆くだろう。既に“ミツグくん”も出没していた。

私自身、イベントやサプライズは大好物。放流しようという女性の誕生日を祝うなど酔狂なことだが、イベントをプロデュースする感覚で、それなりに楽しんでしまう。おそらく、彼女的には上々の誕生日になったはずだ。それに気分をよくしたらしく、思いもかけない“お礼”をいただくことになる。“プレゼントのお返しは私!”みたいなベタな対応をしてきたのだ。折角の申し入れだが、正直、気乗りはしないというか、我が“エロブス理論”(ちなみに“ブス専”というわけではない)に照らしても、積極的にしたいという気も起らなかった(セックス目的でテレクラ利用をしているにも関わらず、もったいないことだが、性的魅力以前に面倒なことは避けたかったというのもあったかもしれない)。

しかし、ここで断っては、女性の面子をつぶすことになる。あまり熱心にいうものだから、生来のスケベ心(笑)もあり、渋谷の円山町のラブホテル街を彷徨うことになる。ところが、どこのホテルも満室で、空室がない。まるでバブル時期のクリスマス状態だが、ラブホテル難民となる。たぶん、ゴールデン・ウイークだったから、おのぼりさんを含め、いつも以上に稼働率が上がっていたのだろう。十何軒(どんだけ、熱心なんだ!)も当たってみるが、どこも満室。30分ほど歩きまわり、疲れてきたので、そろそろ、今日は日が悪いから撤収しようかというところに、絶妙なタイミングで空室のあるホテルが見つかる。円山町もかなり奥まったところだったと思う。

セックスの不等価交換

ラブホテルに入れば、やることは同じ、久しぶりにねちっこく&じっくりと情感たっぷりに官能描写といきたいところだが、そのセックスには、残念ながら特筆すべきものがなかった。私自身は、ある程度、相手に不快な思いをさせず、同時に、ある種、誠意の伝わる対応をしたつもりだが、彼女からはその対価に見合うものは与えては貰えなかった。かのビートルズは“結局、あなたが得る愛は、あなたが与える愛の量に等しい”と歌ったが、等価ではなかった。もっとも、お嬢様の技術が拙く、魅力的な肢体ではないことが原因ではなく、それ以前に私の男性性に火をつけるもの、欲情を喚起するものが不足していた。そういう面では対価を要求する資格もないのかもしれない。

テレクラ時代以降、ただセックスをするだけでなく、どんなセックスをするかに拘るのは、ある程度テレクラでセックスができるようになると、回数や人数ではなく、量より質みたいな拘りも芽生えてきたからだ。私からしたら、淡泊なセックスだった(本音をいえば、味も素っ気もなく、情感不足だった)。短時間だが、枕を交わし、身体を重ねるも、泊まることなく、終電に間に合わせる(!)。

不思議なもので、そんなしつこくない、あっさりとした対応が逆に相手には好印象を与え、変に身体目的でないこと(私自身は身体目的に何の問題を感じてはいないが)に余計、信頼感が増したらしく、いままで以上に懐いてきてしまう。何が幸い(?)するか、わからないものだ。

そんなわけで、誕生日後も頻繁に電話がかかってきたり、セックスなしのデートを重ねることになる。いい人気取りの私も、そろそろ次のことを考え、だんだんと“親身”の度合いを薄くし、揶揄するような態度も見せ始めることにした。ある種、偽悪的に、ろくでなしな振る舞いをするようにしたのだ。いい人ぶるのに疲れたというところだろうか。そんな豹変(!?)に彼女も気付いたらしく。ある日、こんな手紙を寄越してきた。
「いつも会うたび、二人の恋人のことをおもしろおかしく聞いてくるけど、どうしても興味本位で聞いているとしか思えない。私の友人達は本当に親身になって助言をしてくれるけど、梶木さんはとてもそうは思えない。誠実なものを感じない──」
多分、もうちょっと辛辣なことも書かれていたと思うが、まさに彼女の言うとおりだ。そこに書かれていることに間違いはない。お嬢様だからといって、世間知らずかというとそうでもなく、本当にの心配や気配りと、そうではないものの区別はつく。もっとも私自身、故意に馬脚を現すではないが、私と関わっているとろくでもないことになると思わせるようにもした。私達のような人種に誠実さを求めるのは土台、無理な話であり、親身に相談に乗っていても、それはあくまでも興味本位や物見遊山でしかない。ハードボイルドにいうと、“お嬢さんがこんなやくざな男とつきあっていると、火傷してしまうよ”という感じか。私的には、私の父が愛したギャング映画の名作『汚れた顔の天使』(1938年・アメリカ映画)のジェームス・キャグニー気取りでもある。テレクラ男など、美化されてはいけない。

そろそろ、潮時だ。いい人ぶるにも限度というものがある。そんな気持ちが私の中を支配し、行動や言動も自然と、そんな思いを体現するものになっていった。

田園調布戦線からの撤退だ。逃げ足は速く、切り替えは早い。フットワークの軽さは、テレクラ男子ならではだ。彼女からの手紙を“最後通牒”と判断し、以後、関わらないことに決めた。彼女のテレクラ相談員という役回りは、辞退させていただくことにする。彼女が寄越した手紙に返事を出すこともせず、ほうっておいたら、自然と連絡も来なくなった。基本的にこちらから連絡を取るような立場ではない。時間がある時に立ち寄ってもらう飲み屋のようなものだ。何年か後、来たくなったら来ればいい。“開いていて良かった”と思ってくれれば充分である。そのくらいがテレクラ男子には分相応であろう。

田園調布とは縁遠くなったが、渋谷を前線基地とし、そこに地歩を固めながら、別の沿線に網を張ることにした。そうすると、同じ渋谷基点でも井の頭線方面に釣果が出てくる。それが今度は、私にとって、“開いていて良かった”的な“居酒屋”や“スナック”のような女性と出会うことになった。

銀の華 下 【復刻版】

時は明治39年、春。日本橋「月島屋」の主人、月島銀次郎は株でひと財産を築き、浅草、新吉原の遊郭で金にものを言わせて派手に遊んでいた。
しかし一年後、株の暴落とともに財産を失った銀次郎は借金を帳消しにしてもらう代わりに、「金華楼」という廓の用心棒となることとなる。
が、銀次郎に与えられた本当の役職とは、「男女郎」だった。銀次郎に科せられる数多の責め苦。やがて銀次郎は身も心も女郎へと堕ちていく──。

田亀源五郎の原点。男女郎が受ける責め地獄を描いたゲイ・SMコミック傑作長編を復刻!!

銀の華 中 【復刻版】

時は明治39年、春。日本橋「月島屋」の主人、月島銀次郎は株でひと財産を築き、浅草、新吉原の遊郭で金にものを言わせて派手に遊んでいた。
しかし一年後、株の暴落とともに財産を失った銀次郎は借金を帳消しにしてもらう代わりに、「金華楼」という廓の用心棒となることとなる。
が、銀次郎に与えられた本当の役職とは、「男女郎」だった。銀次郎に科せられる数多の責め苦。やがて銀次郎は身も心も女郎へと堕ちていく──。

田亀源五郎の原点。男女郎が受ける責め地獄を描いたゲイ・SMコミック傑作長編を復刻!!

銀の華 上 【復刻版】

時は明治39年、春。日本橋「月島屋」の主人、月島銀次郎は株でひと財産を築き、浅草、新吉原の遊郭で金にものを言わせて派手に遊んでいた。
しかし一年後、株の暴落とともに財産を失った銀次郎は借金を帳消しにしてもらう代わりに、「金華楼」という廓の用心棒となることとなる。
が、銀次郎に与えられた本当の役職とは、「男女郎」だった。銀次郎に科せられる数多の責め苦。やがて銀次郎は身も心も女郎へと堕ちていく──。

田亀源五郎の原点。男女郎が受ける責め地獄を描いたゲイ・SMコミック傑作長編を復刻!!

いただいた本●[新訳]歎異抄─「絶対他力」の思想を読み解く

小浜逸郎さんからいただきました。

書名●[新訳]歎異抄─「絶対他力」の思想を読み解く
著●親鸞・唯円
訳●小浜逸郎
発行●PHP研究所
定価●950円+税
2012年11月6日発行
ISBN978-4-569-80737-9 C0030
新書判/200ページ/並製

●Amazon.co.jpで見る

内容紹介

「地獄は一定すみかぞかし」という名文句の真意とは? 近代以降の日本人に最も親しまれている仏教書を、平易な訳と解説で読者に贈る。

『銀の華』10月末発売!

お待たせしました。
田亀源五郎氏の復刻版『銀の華』上・中・下をいよいよ発売します。
11月前半と告知していたのですが、少し早く発売できそうです。
早いところでは今週末から、遅くとも来週前半には、全国の書店、ネット書店での発売が始まります。
全巻セットをお買い求めいただいた方には、特典小冊子『「銀の華」未収録図画集』を無料で進呈。
本の中に入っている応募券を3枚はがきに貼って、ポット出版にお送り下さい。
11月末日までに応募してくださってみなさんには、田亀源五郎氏のサインを入れてお送りします。
ぜひふるってご応募ください。